8月7日に福岡へ出した手紙が14日に戻った。訪ねたところにその人はいなかったと記してあった。宛先は旧友ヨミトモF子。死んじゃったかなあとメールすると生きていて「もしかして旧姓を書いたのでは」という。
「西條ふさ」は旧姓で結婚して「近藤ふさ」だという。読書家ゆえヨミトモF子と読んでいる。彼女はいま俳句を止めたがむかし西條ふさの俳号でいい句を書いた。辞めたので俳号でもう届かないのか。
15日に近藤ふさで出し直した。それが昨日届くだろうと思っていたらまだ届かない。土曜日の配達ないのでまた戻ってきそう。
はたと気づいた。番地である。住所録に2-7-9とあるのが間違いで、2-9-7が正しいと。しかし2-7-9でずっと年賀状は届いていた。不可思議だ。
あいつから暑中見舞いのメールが来たとき俳句をとりとめもなく書いていた。
結の子守はしなくてよく暑いので家でごろごろしていて、なぜか富士山が見えた。見ていたら俳句がじゃんじゃん浮かんできて毎日書き止めた。数えたら100句を超えた。
ヨミトモF子はいま地元の山岳会に入って低山歩きに没頭している。読書が好きで俳句も読める。暑中見舞いのお返しに俳句を送る気になった。「よむよむ」と嬉しがるので。
メールでもいいのだが、手で書きたくなった。
書き写しているうちに、この句はリズムがよくない、とか、風韻がいまいち、とか、切れがあったほうがいい、とか気づく。キーボードで印字するのと違った感慨を楽しんだ。
来週戻ってきた手紙をまた送ることになりそう。
これだけ届かないと中身の質が悪いのではないかとさえ思う。むかし密書をえらい人は忍者に託したというがそうしないと駄目なような気もしてきた。
急ぐことはないが速達書留にすべきか。これだけ届かないと郵便のシステムのありがたさを逆に思うから不思議である。
郵便と手で書くことの重みを感じている。
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