一緒にネット句会をやっている月読くんから鷹のホームページの「秀句の風景」について質問を受けた。
それは、鷹2月号で小川軽舟主宰が取り上げた
山火事の三晩続けり父の斧 轍 郁摩
についての主宰評についてであった。
主宰評
山火事が三晩も続いてなお燃え続けている。乾いた風にあおられた火勢は夜空を焦がし、集落に迫る。下五に出しぬけに置かれた「父の斧」にぬきんでた迫力がある。状況の説明は何もないのに、それは父と子の悲劇的な関係の暗喩とも見えてドラマチックだ。斧は父の手にあるのか、子の手にあるのか、それとも何かの役目を果たして地に打ち捨てられているのか。いずれにしても、その冷たい刃に山火事の炎はめらめらと照り映えている。
月読
この句での斧は、山火事の延焼防止活動に駆り出され、一時戻ってきた父の手にある斧というのがベーシックな読みではないかと思うのですが、主宰の評ではそれへの言及がなく、また「何かの役目を果たして」などと書かれていることを思うと、そもそも延焼防止という役目について頭にないようにも感じられます。
月読くんの質問にぼくは「よい疑問である」と即答したのであった。
ぼくも山火事の延焼防止活動に使った斧であると感じた。作者は山火事に挑んだ父の気迫や労苦を書きたかったのではないか。主宰はテキストのおおもとを無視して自分勝手な妄想に走ってしまったように感じた。
すると月読くんから返信が来た。
月読
郁摩さんは、10年以上前に家鴨さんや眠兎さんと一緒にネットで俳句指南をしていただきました。私の勝手ないめーじとしてですが、郁摩さんの句はドラマチックな傾向がなきにしもあらずなので、ひょっとして今回ばかりは主宰もそんなイメージに引っ張られたとか?
月読くんもぼくもこの句に対しての主宰の読みに疑問を抱いたのだが、次の句に対しての主宰評には逆に感嘆した。
神の鳩法の鴉や冬はじめ 市東 晶
主宰評
運動を兼ねて近所を歩く。神社では鳩を分けて歩き、寺では鴉にやかましく鳴き立てられた。この句の材料はそんなところだろうが、「神の鳩法の鴉」と並べた手際がよい。法(のり)とは仏法のこと。神道には白い鳩、仏教には黒い鴉という対照が、特段何の意味もないのにおもしろいのである。
月読くんとやっているネット句会にこの句が出たとしてぼくは採れなかったのではないか。「神の鳩法の鴉」がわからなかったし、わかったとして「神道には白い鳩、仏教には黒い鴉という対照が、特段何の意味もないのにおもしろい」という主宰の感受性についていけなかった。主宰、降参しました、という心境。
今月号の鷹主宰の「秀句の風景」は疑問と感嘆が錯綜した。
作品を読むのはその人の自由であり間違いというのはそもそもない。その読みがおかしいと指摘するのも自由である。
意見の応酬で作品の世界が広がるところに俳句という情操科目のおもしろさと奥ゆかしさがある。
月読くんの質問体質はあっぱれである。
写真:2017年06月19日、ポルトガル中部ペドロガン・グランデで発生した山火事(EPA提供)