◆平成7年(1995年)9月25日(月)
この日は9時半に起きた。
曇り空だが雨は降っていない。
台風14号は23日に九州を斜めに通り抜けて広島付近に再上陸。
その後は鳥取県付近から日本海に抜けて北東に進み、
24日には青森県に上陸するも温帯低気圧になった。
そのため9月25日は元台風14号の温帯低気圧が北海道南部を
進んでいたため、南部に行くほど天候は悪かった。
道北の天候は曇り。心配していた雨は降らないようだったので、
連泊はやめて移動することにした。
修正した計画では斜里まで移動と書いてあった。
稚内から網走経由斜里って・・・。
めちゃハードやん。
(当初の計画では羽幌スタートで稚内網走経由斜里でしたので、
もっとハードでした~~)
さてさて、稚内YHでの朝食後に荷物をまとめる。
ペアレントに挨拶してから9時過ぎに出発している。
↑稚内YH。こまどりの丘にあり眺めは良かった。
稚内YHは平成28年(2016年)12月末で閉館。
もう一軒の稚内モシリバYHも長期休館の後に閉館。
稚内地区からYHはなくなった。
すぐに網走方面に移動せず、稚内YHから稚内市街に移動。
昨日に駅舎だけ撮影した稚内駅を素通りして、寄れなかった
稚内港北防波堤ドームに向かった。
↑24日に撮影した三代目稚内駅の駅表示。
駅舎全景は撮影していなかった。
(24日の記事に貼り忘れたので、25日の記事に貼りました~)
↑三代目駅舎の写真がなかったので、平成17年(2005年)に訪問したときに
撮影した写真をペタリと貼ります。
三代目駅舎は、平成23年(2011年)に四代目にバトンタッチして姿を消しました。
北防波堤ドームは稚内駅からすぐの所にある。
その名の通り防波堤であるが、古代ギリシア建築風のドーム型の
形態となっており、数々のCMやロケ地として有名な場所だ。
↑北防波堤ドーム。駅ホームから稚泊航路の桟橋への通路も兼ねて建設された。
当時はキャンプ可能で、訪問した時はチャリダーがテントを張って野営していた。
現在はドーム内での野営は禁止されている。
昭和6年(1931年)に建設が開始され、5年後の昭和11年(1936年)に完成。
完成後は稚内港の象徴となり、南樺太から到着する連絡船の
乗客が最初に目にする内地の建築物だったとか。
昭和20年(1945年)8月24日の稚泊航路最終便の乗客はどのような
思いでこの防波堤ドームを眺めておられたのだろうか・・・。
戦後、稚泊航路廃止(正式には休航らしい)後は桟橋の役目を
終えて防波堤となって今に至っている。
資料の一つ>>防波堤ドーム物語
防波堤ドームを出発後、稚内からはR238で宗谷岬に移動。
10時頃に到着する。
宗谷岬は”許可なしに自由に訪れることができる”日本最北端の
地である。
(日本の領土としての最北端の地は、択捉島のカモイワッカ岬であるが、
(ソ連→)ロシアに占拠されている現状では訪問することができない。)
北海道を走るからには、訪れなくてならない岬である。
初北海道ツーリングなのでなおさらだ。
バイクに乗って『日本最北端の地』に到着したときの感動は
ひとしおだった。
駐車場にバイクを停めると、昨日一緒に昼食を食べた
長崎ライダーさんと再会。
なにしろ25年も前のことなので、どういう話をしたのかは
覚えていない・・・。
しばらくすると長崎ライダーさんは出発されたので、
岬周辺は単独でウロウロしていたはず。
で、岬の碑ではこんなことをしておりました。
テンション高かったのでしょう。
↑空中浮遊写真。他に観光客がいるなか一人でタイマー撮影したのだろうか?
長崎ライダーさんに撮っていただいかも知れない。
↑厳密には岬の先にある弁天島という岩礁が最北端。さすがに行けないので
岬が最北端ということになっている。
ちなみに写真に写るのが”日本最北端の”公衆便所と駐車場。
宗谷岬を正午前に出発してR238をひたすら走る。
宗谷岬ではそんなにお腹は減っていなかったので、浜頓別付近で
食べようかと思っていたが、走り始めると止まる気が起こらなく
なった。
たまに写真を撮るために止まるが、ほんの数分だけ。
長時間止まる気がなくなって、昼食を食べることなくR238を
走り続けた。
浜頓別を過ぎると、左側にオホーツク海、右側に原野という風景の
中を走る。
最初は「これが北海道だ。スゲー」と思っていても、走れど走れど
同じ風景の中を走っていると単調な運転となり、眠たくなってきた。
やがて空腹を感じるようになったが、それと共に小便をしたくなって
きた。
進むにつれて「小便がしたい」という気持ちが強くなってきたので、
眠気はどこかに飛んでしまった。
どこかでトイレに寄るチャンスはあったはずなのだが、止まりたく
なくなっていた。
小便するならほんの5分ぐらいなのだがね・・・。
おそらく、夕方までに網走に着かなくてはならないという思いが
強かったのかもしれない。
興部を過ぎると下腹部が痛くなって来た。
限界に近いのだが止まらない。
15時過ぎに紋別到着。市街を通り抜けた先に道の駅があった。
ようやく止まる気になり、道の駅に立ち寄った。
すぐにトイレに駆け込み事なきを得た。
↑道の駅の外れの空き地にあった巨大なズワイガニのツメ。
高さ12m、幅6mもあるそうで。
かつては流氷に浮かべていたとか・・・。
その後もR238をひた走る。
16時半頃、中湧別の道の駅に到着。
ここはかつての名寄本線と湧網線の中湧別駅跡。
駅の一部が『中湧別鉄道資料館』(当時)として保存されていたので、
もともと鉄畑出身だったので立ち寄った。
跨線橋とホームの一部が残され、わずかなレールに除雪車と
ヨ3500形が4両展示されていた。
他にも現役時代に使われた備品などが展示されていた。
国鉄時代、昭和時代の駅標ですな。
あれこれ撮影していたら時刻は17時頃になってしまった。
もはや網走に向かう気力はなくなっていた。
この付近で宿はないかと探してみると、マップルに『さろまにあん』と
いう民宿があることに気が付いた。
稚内YHで購入した『とほ』という民宿ガイドにも載っていたので、
電話する。
宿泊できるということなので予約して道の駅を出発した。
再びR238を走る。道はサロマ湖畔を進む。
宿を予約していると気持ちは楽だ。淡々と進んで行く。
中湧別から1時間ほどで、今晩の宿である『さろまにあん』に
到着した。
この『さろまにあん』が、初めて宿泊した『とほ宿』となり、
二年後(1997年)からの北海道ツーリング他での『とほ宿』に
ハマるきっかけとなる宿になったのである。
走行距離:296km
>>つづく
この日は9時半に起きた。
曇り空だが雨は降っていない。
台風14号は23日に九州を斜めに通り抜けて広島付近に再上陸。
その後は鳥取県付近から日本海に抜けて北東に進み、
24日には青森県に上陸するも温帯低気圧になった。
そのため9月25日は元台風14号の温帯低気圧が北海道南部を
進んでいたため、南部に行くほど天候は悪かった。
道北の天候は曇り。心配していた雨は降らないようだったので、
連泊はやめて移動することにした。
修正した計画では斜里まで移動と書いてあった。
稚内から網走経由斜里って・・・。
めちゃハードやん。
(当初の計画では羽幌スタートで稚内網走経由斜里でしたので、
もっとハードでした~~)
さてさて、稚内YHでの朝食後に荷物をまとめる。
ペアレントに挨拶してから9時過ぎに出発している。
↑稚内YH。こまどりの丘にあり眺めは良かった。
稚内YHは平成28年(2016年)12月末で閉館。
もう一軒の稚内モシリバYHも長期休館の後に閉館。
稚内地区からYHはなくなった。
すぐに網走方面に移動せず、稚内YHから稚内市街に移動。
昨日に駅舎だけ撮影した稚内駅を素通りして、寄れなかった
稚内港北防波堤ドームに向かった。
↑24日に撮影した三代目稚内駅の駅表示。
駅舎全景は撮影していなかった。
(24日の記事に貼り忘れたので、25日の記事に貼りました~)
↑三代目駅舎の写真がなかったので、平成17年(2005年)に訪問したときに
撮影した写真をペタリと貼ります。
三代目駅舎は、平成23年(2011年)に四代目にバトンタッチして姿を消しました。
北防波堤ドームは稚内駅からすぐの所にある。
その名の通り防波堤であるが、古代ギリシア建築風のドーム型の
形態となっており、数々のCMやロケ地として有名な場所だ。
↑北防波堤ドーム。駅ホームから稚泊航路の桟橋への通路も兼ねて建設された。
当時はキャンプ可能で、訪問した時はチャリダーがテントを張って野営していた。
現在はドーム内での野営は禁止されている。
昭和6年(1931年)に建設が開始され、5年後の昭和11年(1936年)に完成。
完成後は稚内港の象徴となり、南樺太から到着する連絡船の
乗客が最初に目にする内地の建築物だったとか。
昭和20年(1945年)8月24日の稚泊航路最終便の乗客はどのような
思いでこの防波堤ドームを眺めておられたのだろうか・・・。
戦後、稚泊航路廃止(正式には休航らしい)後は桟橋の役目を
終えて防波堤となって今に至っている。
資料の一つ>>防波堤ドーム物語
防波堤ドームを出発後、稚内からはR238で宗谷岬に移動。
10時頃に到着する。
宗谷岬は”許可なしに自由に訪れることができる”日本最北端の
地である。
(日本の領土としての最北端の地は、択捉島のカモイワッカ岬であるが、
(ソ連→)ロシアに占拠されている現状では訪問することができない。)
北海道を走るからには、訪れなくてならない岬である。
初北海道ツーリングなのでなおさらだ。
バイクに乗って『日本最北端の地』に到着したときの感動は
ひとしおだった。
駐車場にバイクを停めると、昨日一緒に昼食を食べた
長崎ライダーさんと再会。
なにしろ25年も前のことなので、どういう話をしたのかは
覚えていない・・・。
しばらくすると長崎ライダーさんは出発されたので、
岬周辺は単独でウロウロしていたはず。
で、岬の碑ではこんなことをしておりました。
テンション高かったのでしょう。
↑空中浮遊写真。他に観光客がいるなか一人でタイマー撮影したのだろうか?
長崎ライダーさんに撮っていただいかも知れない。
↑厳密には岬の先にある弁天島という岩礁が最北端。さすがに行けないので
岬が最北端ということになっている。
ちなみに写真に写るのが”日本最北端の”公衆便所と駐車場。
宗谷岬を正午前に出発してR238をひたすら走る。
宗谷岬ではそんなにお腹は減っていなかったので、浜頓別付近で
食べようかと思っていたが、走り始めると止まる気が起こらなく
なった。
たまに写真を撮るために止まるが、ほんの数分だけ。
長時間止まる気がなくなって、昼食を食べることなくR238を
走り続けた。
浜頓別を過ぎると、左側にオホーツク海、右側に原野という風景の
中を走る。
最初は「これが北海道だ。スゲー」と思っていても、走れど走れど
同じ風景の中を走っていると単調な運転となり、眠たくなってきた。
やがて空腹を感じるようになったが、それと共に小便をしたくなって
きた。
進むにつれて「小便がしたい」という気持ちが強くなってきたので、
眠気はどこかに飛んでしまった。
どこかでトイレに寄るチャンスはあったはずなのだが、止まりたく
なくなっていた。
小便するならほんの5分ぐらいなのだがね・・・。
おそらく、夕方までに網走に着かなくてはならないという思いが
強かったのかもしれない。
興部を過ぎると下腹部が痛くなって来た。
限界に近いのだが止まらない。
15時過ぎに紋別到着。市街を通り抜けた先に道の駅があった。
ようやく止まる気になり、道の駅に立ち寄った。
すぐにトイレに駆け込み事なきを得た。
↑道の駅の外れの空き地にあった巨大なズワイガニのツメ。
高さ12m、幅6mもあるそうで。
かつては流氷に浮かべていたとか・・・。
その後もR238をひた走る。
16時半頃、中湧別の道の駅に到着。
ここはかつての名寄本線と湧網線の中湧別駅跡。
駅の一部が『中湧別鉄道資料館』(当時)として保存されていたので、
もともと鉄畑出身だったので立ち寄った。
跨線橋とホームの一部が残され、わずかなレールに除雪車と
ヨ3500形が4両展示されていた。
他にも現役時代に使われた備品などが展示されていた。
国鉄時代、昭和時代の駅標ですな。
あれこれ撮影していたら時刻は17時頃になってしまった。
もはや網走に向かう気力はなくなっていた。
この付近で宿はないかと探してみると、マップルに『さろまにあん』と
いう民宿があることに気が付いた。
稚内YHで購入した『とほ』という民宿ガイドにも載っていたので、
電話する。
宿泊できるということなので予約して道の駅を出発した。
再びR238を走る。道はサロマ湖畔を進む。
宿を予約していると気持ちは楽だ。淡々と進んで行く。
中湧別から1時間ほどで、今晩の宿である『さろまにあん』に
到着した。
この『さろまにあん』が、初めて宿泊した『とほ宿』となり、
二年後(1997年)からの北海道ツーリング他での『とほ宿』に
ハマるきっかけとなる宿になったのである。
走行距離:296km
>>つづく