気まぐれ日言己2

日々の出来事や趣味の事、時事ネタなどを気まぐれで書き込みます。

計根別飛行場掩体壕

2023-10-12 16:28:37 | 軍事ネタ
9月末に北海道の道東に強行軍で行ってきました。
ご当地グルメも食べず、名所などにも寄らず、苫小牧と道東を往復するだけでした。
それでも道東まで来たので、計根別飛行場掩体壕を見てきました。

初めて計根別飛行場掩体壕を訪れたのは平成16年(2004年)6月のようで、今年で20年近くになります。
その間に撤去されたり倒壊することなく、掩体壕は現在まで健在しています。

>>計根別飛行場
 帝国陸軍参謀本部第一部で計画された航空作戦指導計画大綱に基づき、1942年(昭18年)より現在の北海道野付郡別海町~標津郡中標津町において建設された
飛行場が計根別飛行場。
 この飛行場は攻撃による被害を分散させてつつ飛行場機能を維持させるために、連絡誘導路によって結ばれる5つの飛行場が計画され、
1944年(昭19年)末までに第一~第五飛行場が完成。第一飛行場が中標津町計根別地区に建設されたことから『計根別飛行場』として呼ばれるようになったそうです。

基地司令部は第一飛行場に置かれ、また格納庫や有蓋・無蓋掩体壕が多数建設されましたが、終戦により飛行場は閉港となり農地として払い下げられます。
しかし朝鮮戦争勃発により、1952年(昭27年)に旧第四飛行場が整備されて1600m滑走路を持つ米空軍不時着滑走路として軍用飛行場として復活。
朝鮮戦争停戦後の1958年(昭和33年)に航空自衛隊に返還された後、翌1959年に西春別空港として民間共用飛行場となります。
1965年(昭和40年)、旧海軍標津第一航空基地を前身とする中標津空港に丘珠便の定期航空路線が移転したことで、以後は航空自衛隊管理の施設となり現在に至っています。

ちなみに現在の『計根別飛行場』とは、中標津町計根別から離れた別海町西春別にある陸自別海駐屯地に隣接する、この空自飛行場のことを指します。
前身が計根別第四飛行場という歴史的経緯から今も『計根別飛行場』と呼ばれています。
今回訪れたのは、旧帝国陸軍の計根別第一飛行場です。

>>掩体壕
 計根別飛行場掩体壕は旧第一飛行場周辺に3基が現存しています。
他に無蓋掩体壕が4基確認されているとのことですが、どこにあるのか分かりません。

有蓋掩体壕は、野付郡別海町本別にある別海フライトパーク付近に3基が近接してあります。

①計根別第一飛行場1号有蓋掩体壕



近くを通る道道中標津標茶線(r13)から見える牧草地の中にある蒲鉾形の掩体壕です。
幅約34m、高さ約5m、奥行き約22mのコンクリート製。
正面から見ると垂れ壁のない半円形の入口です。

以下、私有地なので立ち入ることが出来ないため、掩体壕撮影のためだけに持参した300mm望遠レンズで撮影。



正面向かって右端。
築80年近いのでコンクリートの剥離や亀裂がみられます。
後部は倒壊したのではなく、最初から開いています。陸軍掩体壕によくみられる構造です。
蒲鉾型というよりドーム型に近いですね。



正面向かって左端。
入口の高さは5mほどあるはずですが、土砂や草木の浸食でかなり狭くなっています。
奥行きが22mほどあるそうなので、九七式や一〇〇式といった陸軍重爆撃機も収納できたかと。



少し分かりづらいのですが、表面のコンクリが剥げて内部が少し見えています。
大きな石が多く含まれる戦争後半のコンクリです。
石以外にもホタテ貝が入っていたとか・・・。

なお、1号有蓋掩体は令和3年11月に別海町歴史文化遺産16号に登録されています。



②計根別第一飛行場2号有蓋掩体/3号有蓋掩体
1号掩体から道道13号線を挟んで南側には2号と3号掩体があります。
2号と3号は隣接しており、まとめて見ることができます。
注)”2号””3号”と書いていますが、別海町の公式な呼び名は不明です。
  ここでは区別する上で見た順番で”2号””3号”と記載しています。



牧草地の向こうにあるこんもりした森のようなのが2号掩体。
正面をこちら側(東側)に向けています。
2号の向こう側(西側)に3号がありますが、この位置からでは重なって見えません。



上の写真を撮影したポイントで、300mm望遠レンズで撮影。
なんとなく半円形の入口が見えますが、草木が生い茂って状態は分かりません。
2004年6月に撮影した写真では、掩体のコンクリートがはっきり見えていたんですけどね。
20年近い月日は掩体を隠してしまいました。



少し南側から撮影した2基の掩体壕。
右側が2号で左側が3号。共に森のように見えますが掩体壕です。
牧草地に浮かぶ島のようです。



300mm望遠レンズで撮影した2号。写真は少し傾いています・・・。(^^;)
南西から撮影したことになります。
何となく掩体本体の輪郭が見えます。



3号掩体。これも300mm望遠レンズで撮影。
3号は北側に向いているので、こちら側は掩体壕を後方から見ていることになります。
草木で覆われて何が何だか分かりませんが、2004年に私が撮影した写真を見ると後方開口部が見えていました。
現在の状態は分かりません。

ひとまず現時点では3基とも現存してます。

>>格納庫跡
今回は掩体壕群を回るついでに、別海フライトパークにも立ち寄りました。



フライトパークは、誘導路の一部を利用した場外離着陸場として昭和62年(1987年)に開設されました。
モーターグライダーを運航するので、560mの滑走路があるとか。
その滑走路が計根別飛行場の誘導路なのです。

車が止めているのですが、営業している気配が全く感じられないので道路上から撮影するだけで終わりました。



吹き流しがある辺りが滑走路(誘導路跡)?



すぐ近くに有った格納庫の基礎。
かなり広かったので大型機(重爆か?)用格納庫の跡なのでしょうか?
計根別飛行場には満州から呑龍部隊が移って来たらしいです。



道道13号近くの格納庫跡。ちょっとした森になっています。
近づけば基礎が残っているのでしょう。道路からは全く見えません。
牧草地では牛が放牧されていました。

航空撮影写真やグールグマップのストリートビューなどで見ると、格納庫や滑走路、誘導路跡がはっきりと分かります。

>>4号掩体跡?
付近の道路をストリートビューで見ていたときに、”4号掩体跡”というのがありました。
4基目の有蓋掩体壕?
気になったので現地を訪れました。



緑色屋根の建物前にある防風林(?)付近にあるとのこと。
崩壊したか取り壊されて跡しか残っていないのでしょうか。詳細は不明です。

個人農場の敷地内にあり、勝手に入ることができないので道路から撮影しています。
道路から見ても何が何だか分かりません。
ちなみにこの付近には無蓋掩体壕がいくつかあったらしいです。

この後、第四飛行場つまりは現在の計根別飛行場はすぐ近くにあるので訪れたかったのですが、
掩体壕などの撮影に予想以上の時間を費やしたことから時間がなくなり、移動の都合で今回の訪問は断念。
またの機会に訪れることにします。

【終わり】

『こんごう』来阪

2023-08-27 22:58:18 | 軍事ネタ
8月27日(日)、大阪港の天保山にイージス護衛艦『こんごう』を見に行ってきました。
佐世保配置の艦なので、関西で見られる貴重な機会でした。



艦娘『金剛』さんと『こんごう』。
ま、娘さんは先代なんですけどね。
これを見に来たわけではありません。



こちらの艦艇を見にきました。

さて、昨日18時頃の雷雨はどこへやら。
今日は朝から晴れて気温が上昇。
暑い中バイクで走って行く気力もなく地下鉄で大阪港へ。
いつの間にか建ったBMWの整備工場(?)脇で、炎天下の中三〇分ほど待って乗船。
しかし甲板上は人人人・・・。
交通アクセスが良い天保山だと人が集まるのよねん。



『こんごう』、最近の方針でロービジ化されており、煙突先端の黒塗装はなくなり、艦番号と艦尾の艦名も薄くなっています。
今年で就役30年ですが、我が国を取り巻く国際情勢が緊迫しているので『こんごう』はまだまだ現役続行とのこと。
あと2年で艦齢が先代の戦艦『金剛』を越えるがな・・・。



艦尾甲板にあるMk41 VLS。
合計61セルあります。
その先に見える白いのがR2D2・・・ではなくファランクスです。

写真、人が多いのは、撮影している時に艦首甲板で54口径127mm単装砲とファランクスの実演があったため。
この後、兵装関係は周囲に人が多過ぎだったので撮影してません。
他の艦艇で撮影しているからいかなっと思った次第。m(_ _)m

あとは細々したのを撮影。



『多目的人力輸送車』
つまりはリアカー。
海自のはアルミ製で折りたたむことができます。民生品をそのまま使っているようですね。



『溺者人形』
訓練で使用される人形。
顔の部分に目鼻口が描かれていることが多く、それを見るのも面白いのです。
『こんごう』のはのっぺらぼうでした。



『こんごう』の艦銘板。



暑いのでほどほどにして下船。
いろんなイベントをしていましたが、暑さに負けて早々に建物内に移動。

一休憩してから11時発の『サンタマリア』号に乗り込みます。
大阪港内を遊覧。
いろいろと撮影します。



『サンタマリア』甲板上から撮影した天保山渡船。



香港のコンテナ船。



気になったのがこの船。
『ゆめおんⅡ』という、元々は瀬戸内の離島航路で活躍していた船。
かなり色褪せているので係留されたままのようです。



なみはや大橋
たまにバイクで走ると楽しい。

で、『こんごう』。



艦尾から撮影。
艦名もロービジ化されていて遠くからだと分かりません。



この角度からだとロービジ化後の姿がよく分かります。
なんか退役した艦艇のようですが現役艦です。
風向きの都合ですが、艦尾の自衛艦旗が艦首方向に向いています。

なお、甲板上に見学者がほとんどいないのは昼休み休憩の時間帯に入ったからです。
これが狙いで『サンタマリア』号に乗船したのです。



今回、護衛艦『こんごう』と府警水上警察署警備艇『こんごう』が並ぶという大変珍しい機会を撮影できました。
大阪港でしか見ることが出来ない組み合わせでしょう。
手前の白い小型船舶が警備艇です。
『サンタマリア』甲板上で教えてくれたお兄さん、ありがとうございました。



下船後、ジンベエソフトを食べてから正午過ぎには帰路につきました~。

(終わり)

松山戦跡巡り(2)

2023-07-23 12:03:07 | 軍事ネタ
石碑を見てからr22を空港方面に移動。
松山市南吉田町に向かい掩体壕群巡りを開始します。

松山の掩体壕群は17年程前の平成18年(2006年)5月に一度見に来ているので、
今回が2回目の訪問ということになります。
(平成18年訪問時のレポ⇒http://amefurashi.sakura.ne.jp/honpo/entai_matuyama.htm)

掩体壕群は現在の松山空港の南東側一帯に建設されたもので、
その数有蓋掩体壕23基、無蓋掩体壕40基というものでした。
他に掩体壕と滑走路を結ぶ誘導路や各施設なども建設されましたが、そのほとんどは終戦後に
取り壊されてしまい姿を消しました。
しかし南吉田地区には、平成18年5月時点で3基が残っていました。
うち1基は個人所有のようでガレージとなっており(掩体壕①と記します。以下同)、1基は倉庫として利用され(掩体壕②)、
残る1基が一部が破壊されていましたがほぼ原型と保ったまま放置されたままでした。(掩体壕③)
注)掩体壕の番号は個人で付けた番号です。

で、今回の訪問に先立ち下調べをしました。
正直、17年も経過すると宅地開発が進んで取り壊されていると思っていました。
とくに掩体壕②については県道(r22)沿いにあることから、同県道が松山外環状道路として整備されるにあたり、
道路の拡幅用地として取り壊されたと思っていたのですが、なんと現存していることが判明。
しかも松山市文化財として保存されているというではないですか。



上の写真は愛媛県庁の『松山外環状道路整備事業』のサイトより拝借。
今年の7月中旬に更新されて掲載された写真ですが、道路の左端に掩体壕②が写っています。
たまたま掩体壕を避けるルートだったのか、掩体壕があるからルートをずらしたのか分かりませんが、
県庁のサイトに堂々と掲載されるている掩体壕を見たのは初めてです。

残る2基も個人所有となっていますが現存していることを確認。
効率よく回るために、掩体壕①→②→③の順で訪れることにしました。

r22を南下。松山空港入口交差点を直進して南吉田町の町中に入ります。
町中をウロウロして掩体壕①のある個人宅の前に到着。
掩体壕を確認しましたが、個人所有なので撮影はしていません。
長時間掩体壕を眺めていると怪しまれるので早々に移動。
少し離れた場所から見てみますが、個人宅裏手の畑は駐車場となってしまい、
場内には勝手に入れないため近づけず後方の状態は不明。
Googleのストリートビューを見る限りはほぼ原型を保っています。

続いて訪れたのが掩体壕②
松山市文化財に指定された掩体壕です。
近年、いろいろな見方があるにせよ、自治体などの文化財に指定される掩体壕が増えてきています。
ここもその一つで、平成30年(2018年)5月に指定されています。

17年前は畑の中にあったのですが、文化財に指定されたこともあり掩体壕周辺は整備されていました。



道路整備で県道が高くなったので、掩体壕に下りるスロープと階段が設けられてます。
昔は道路脇にあったのです。



掩体壕です。
17年前は農業用倉庫として利用されていて、前面を波形スレートで塞いでいたため正面形状が不明でした。
保存にあたり撤去したので前面の形態が分かりました、ご覧の通りキノコ型というか雨傘形をしています。



上縁の写真。
ご覧の通り、縁に沿って鉄筋が残っています。垂れ壁の鉄筋ですかね?
前面は十字型か凸型をしていたかもしれません。
同じ時期に建設された掩体壕③は前面が十字型で上縁から垂れ壁があったのですが、
この壕にはみられないところを見ると、倉庫にする時に垂れ壁を撤去したのか、保存修復時に撤去したのか、
そもそも垂れ壁などなかったのか・・・。
飛び出ている鉄筋が謎ですね。



外観。
道路整備事業で県道が盛り土されて嵩上げされたことで、少し俯瞰することができるようにもなりました。
少し立体的に捉えることができます。
これはうれしい変化。



外観。
後方です。大小の蒲鉾をひっつけたような形をしています。
手前の天井にある出っ張りは排気口ですかね?



内部。
綺麗な状態に修復されています。
ここに零戦や紫電改が翼を休めていたのかも知れません。
ちなみに地元出身の方によると、昔は掩体壕のことを『零戦の家』と教えられていたそうです。



掩体壕内部左側。
説明板は掩体壕に関する説明。



掩体壕内部右側。
建設に関しての説明板があります。
建設するに当たっては殆どが人力で行われたとか。
近くの海岸から大小様々な石を運んできて基礎を造ったとかで、海岸から運んできた石が展示されて
います。



後部壁左側には『四〇一』『極天隊』と書かれています。
『四〇一』とは三四三空所属の戦闘第四〇一飛行隊のことで、『極天隊』は部隊名。

この写真の右側、後部アーチ部左側にも『剣部隊』と書かれています。
2枚上の写真に写っているのがそれ。

『剣部隊』とは第三四三海軍航空隊(二代目)の通称名です。
横須賀で編成された三四三空は、昭和20年2月までに松山基地に集結。
4月に鹿屋基地に移動するまでの活躍は有名です。

なお前述の「松山海軍航空隊」は予科練教育航空隊のことで、実戦部隊である三四三空とは別の部隊となります。
使用していた飛行場も予科練が北側、三四三空が南側と、別れていたそうです。

さて、この『剣部隊』の単独写真ですが、撮影するのを忘れてしまいました・・・ 
説明板読んでいたのに忘れるとは・・・_| ̄|○
また行かねば。

この後、掩体壕③に移動。
17年前は③がほぼ原型のまま放置されていました。
内部は荒れ放題でしたが、見学することができたのです。
その時点で周囲に住宅が建ち並び始めていたので壊されて宅地になっていると
思っていたのですが、なんと残っていました。

しかも住宅として・・・。

掩体壕③については掩体壕そのものを改造して住宅として売りに出されているいう情報を
得ていたのですが、6月末に現地に行くとどなたかが購入されておりました。
なので写真は撮影していません。

掩体壕に住む・・・
そこにシビれる! あこがれるゥ!

ひとまず松山掩体壕の3基については現存を確認しました。
令和の世の中まで残ったのは奇跡だと思います。
松山市文化財となった一基については半永久的に残ることになりそうです。

ただ個人所有の二基については、補修費用が個人負担となるため、いずれは姿を消す可能性があります。
そうなる前に自治体などが動いてくれると良いのですが・・・。



掩体壕②の向かい側はアパートが建っています。
騒いだり、アパートの敷地から撮影したりしないようにしましょう。
スロープを下りて自分の自転車やバイクを掩体壕内部に入れて撮影するなんぞ
もってのほかですからね。

また周辺に駐車場はありません。路駐したりアパートの駐車場に勝手に止めることがないように
訪れる時は周囲の住民の方々に迷惑にならないよう気を付けてください。

(令和5年6月末訪問/7月末記述)

松山戦跡巡り(1)

2023-07-20 19:17:24 | 軍事ネタ
過日の松山ツーリングで訪れたバイク屋さん、
松山に移転されたのは書きましたが、住所を見てピンときたのですね。

「掩体壕群の近くやがな」ヽ(・∀・ )ノ

なので今回訪れるにあたり、戦跡巡りもしてきました。

後日のツーリングの下見も兼ねて松山市街からR437で三津浜港へ。
三津浜港からr22を南下して掩体壕群に向かいます。

このルートを選択したのは沿道に松山海軍航空隊に関する碑があるためです。

まずは吉田金比羅神社前にある『松山海軍航空隊跡』の碑。



こちらは予科練教育航空隊であった松山海軍航空隊の碑となります。
碑文によると、序幕(お披露目)されたのが昭和60年(1985年)11月3日のようです。
終戦から40年後の明治節の日です。



詳しくは碑文の写真をご覧ください。m(_ _)m



金比羅前バス停(三津浜港行き)の前にあります。
ちなみにr22は交通量が多くて渋滞気味です。
路駐出来ませんので、車で行かれる場合は注意してください。



続いて神社から空港に向かって少し下った所にあるテイジン前の『松山海軍航空隊跡』碑。

神社前の碑と同じく松山海軍航空隊跡の碑ですが、こちらは甲飛十四期会により建てられました。
目立つ場所にあるのですぐに分かります。
碑としてはこちらの方が有名ですかね。



テイジン松山工場のある一帯は旧帝国海軍松山飛行場だった場所。
戦後、民間に払い下げられています。
この付近に航空隊兵舎などの隊門があったのでしょう。



碑文の裏側。
平成13年6月に再建立と印されています。
甲飛一四期会の方々が再建立されているので、神社前に建立された碑に続いて二基目の石碑として
建立されたのでしょうかね?
この辺の経緯は分かりません。

なお、碑のすぐ横にあったコンビニは飲食店になっていました。
車の場合は邪魔にならない場所に停めましょう。

ところで、神社前とテイジン前の間、三津浜港方向に向かって左側にあった公園に
航空機を模した遊具があったのですが、止まれなかったのでスルーしてしまいました。
気になる・・・

この碑の近くには地下壕への入口が数カ所あるのですが、時間的な都合と暑さで今回はパスしました。
いずれ機会があれば訪れてみます。

あすか来阪

2018-10-21 18:15:00 | 軍事ネタ
海自の試験艦『あすか』が来阪したので行ってきました。

場所は堺の大浜港。

KLXでひとっ走り。20分ほどで到着。

試験艦とは、「こんあこともあろ~かと・・・(略」のために
開発された各種兵装を試験するための艦です。

そんなわけで実戦部隊の艦とは違い、あまり目立たない艦種です。




『あすか』は開発隊群所属の艦艇で横須賀にいることが多く、
関西にはあまり来ません。

中の人に話を聞いたら、「大阪堺でイベントあるから行ったって~」
と言われて来阪したそうで・・。

昨日(20日)夕方に接岸。明日(22日)早朝に離岸して横須賀に
戻るとかで、慌ただしい来阪となっています。

周辺の情勢がややこしいから艦艇のやりくり大変やからね・・・。

乗員の方々、お疲れ様です。

さて、『あすか』は試験艦ということで固有兵装はありません。

前甲板にVLSと舷側に魚雷発射管があったぐらいですかね。
もちろんテスト用の発射装置ですが。



射撃指揮装置や水上艦ソーナー、対潜水艦ロケットなどなど
いろんな新型装備品の試験に従事したそうです。

今は何をしているか分かりませんが、意外と何かの試験をして
いるやも知れませなんな。



今回は艦橋と艦長室を公開しておりました。
久々に艦橋に上がったかなぁ。

上は艦内の階段。基本一列ですが、艦内の一部階段は二列と
なっていました。

他にあるのは練習艦『かしま』ぐらいですかね。

かなり急ですが、乗員の方々は毎日上がり
降りしているのですから大変です。慣れだそうです。

試験で乗り込む開発メーカーの社員さんは大変やろなぁ~。



公開されていた艦長室。中には入れません。

応接室も兼ねているようですな。

机上に置かれたハンドグリップが気になる・・・。



艦尾。
風が無かったので日章旗はしょんぼりしております。

なお、艦名の由来は奈良県の”飛鳥”からです。

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岸壁では堺市消防局と陸自車輌の展示を行われておりました。

気になったのはこの車輌。



支援車Ⅰ型と呼ばれる後方支援車輌。

大阪府には大阪市・堺市の消防局と枚方寝屋川消防組合に
それぞれ1台づつ、計3台配備されているそうです。

大型トラックとほぼ同じ大きさでしょうか。



中に乗るとめちゃ広い。

災害時の指揮所や休憩所、活動拠点に使用されるためです。

乗り込むとシートのある広い車内となっています。
フロアの横には簡単な流し台があります。

さらに奥には二段ベット(普段は物置)とトイレ、
シャワー室などがあり、搭載されているテントなどを用いると
20人ぐらいは寝泊まりできるとか。

ですが車幅から考えると明らかに広過ぎ・・・。



秘密はこれ。

シートのある部分が外側に出るようになっており、これで車幅を
確保していたのでした~。

ちなみにベースとなる車輌は日野自動車のプロティアだそうです。



こちらは無線中継車。

大規模災害時の通信途絶時において、現場と消防本部や
他隊との通信手段確保のための車輌。

大阪府では大阪市と堺市の消防局に各1台の計2台だけ
配備されているそうで。

パラボラアンテナを用いて衛星通信を行うとか。

あんまり見かけない車輌です。

備えは必要ですが、これらの車輌が活躍することがないように
祈ります。




今回はクルーズ客船『ぱしふぃっく びぃなす』も来港してました。

船内も見学できたようですが、時間の都合でパスして帰りました~。


そうそう、自宅に帰ったら上空を陸自の八尾基地のヘリ編隊が
飛んでいるのを目撃。

先頭はOH6で後方にUH1数機が続き殿がCH47でした。

あ~、今日は八尾基地のエアフェスタもあったのね。
だからその筋の方々の姿が少なかったのか。納得。