宮崎あおいが結婚してしまったから、というわけではないのですが
映画をこないだ観たのをまだ記事にしていなかったので筆を取ります。
■音楽と映画のはなし。
正夢、楓、スカーレット、水色の街、青い車、遥か、ホタル、ロビンソン、スパイダー
この文字の羅列を見て、一体何のことかわかる人は日本の音楽が好きな人だと思う。
この映画「海でのはなし。」は日本のバンド、スピッツの楽曲から広がるイメージを映画作品として
撮影した実験的意味合いの強い作品になっている。
90年代から00年代と呼ばれる比較的最近の音楽をふんだんに劇中に
使用する、ということがどういうことなのか。
特に20代中盤から30代の人たちにとってスピッツの音楽は
いわば青春の1ページを彩る楽曲だったり失恋したときに聴いていた曲かもしれない。
他のドラマのタイアップだった曲やCMタイアップを思い出す人もいるだろう。
音楽の記憶というのは実は、感覚的なものが強く
意外と昔よく聞いていた音楽を聴くことで当時のことを
まざまざと思い出させたりする。
さて、この映画はコンセプト通りといえば
コンセプト通りにスピッツの音楽がかなり大きい音で
各場面に流れるので、スピッツの音楽が好きな人は満足するかもしれない。
しかし、映画を撮影するコンセプト抜きに語ると、映画として
破綻しかねないほどの音量でスピッツの音楽が流れる。
そう、これは少し長めのミュージックビデオなのだ、という解釈を
するのが一番しっくりくるような作品に仕上がっている。
宮崎あおいと西島秀俊という「好きだ、」
NHK「純情きらり」でも共演していた今旬な2人、実力もある
2人が出演している割に演技以上に音楽が雄弁すぎるシーンがあったり
脚本がいまいちなシーンがあったり。
世界観もとても素敵だし、2人の存在感もとてもよいし
スピッツの楽曲も素敵なのだが、その3者がいまいちうまく
かみ合ってない印象を受けた。
そういう意味で有名な音楽を劇伴音楽として使うことの難しさを
痛感させられたような気もするし、コンセプトとしては
成功のような気もする。
ただ、これを一本の「映画」として撮影したつもりならば
監督はもう少し、音楽以外の要素も考えながら撮影と編集に臨んで
ほしかったような気がする。
■海でのはなし。のはなし
家族が本当の理解者たりえる時代の終焉とでもいうのだろうか。
この映画では、最終的に主人公2人は家族と、ある意味決別し
お互いがお互いをよき理解者として認める。
家族という存在を考えたときに、
血がどうしようもなく繋がっていてどうしようもなく
家族であることを自覚せざるを得ないときがあります。
そして家族だからこそ、許せないことがあったりもします。
この映画で言うならば、長年娘を騙してきた両親だったり
息子の気持ちをろくに理解しようとしない両親だったりします。
考えてみれば、親という存在は自分が生まれたときから親以外の
何者でもありえないし、親がいなくては自分が存在しえない、という意味でも
生活を保障してくれる存在としても親は親以外にはなれません。
一緒に生活し、親は子のことを考え、養い育てます。
子にとっても親の存在というものは大きなものです。
ただ、子にとって親は絶対の存在ではありえないのかもしれません。
親はいずれ、たいていにおいて先にこの世を去るし
子が成長すれば親の価値観だけが世の中を支配しているわけでは
ないということを理解し、自分の価値観というものを構築し、
自分がよりどころとする場所を見つけていくものです。
親を捨てる、ということではないにせよ親から離れることでしか
子は自分の家庭や生活というものは得ることが出来ないと思います。
そういう意味で、自分にとっての親以外の大切にしたいと思える存在が
現れる、ということは親からの自立に他ならないのかな、とも
思います。この映画では親との問題から2人の距離は縮まっていくような
描写が見られますが、そういうものなのかな、などと
映画を観ていて感じた次第であります。
映画をこないだ観たのをまだ記事にしていなかったので筆を取ります。
■音楽と映画のはなし。
正夢、楓、スカーレット、水色の街、青い車、遥か、ホタル、ロビンソン、スパイダー
この文字の羅列を見て、一体何のことかわかる人は日本の音楽が好きな人だと思う。
この映画「海でのはなし。」は日本のバンド、スピッツの楽曲から広がるイメージを映画作品として
撮影した実験的意味合いの強い作品になっている。
90年代から00年代と呼ばれる比較的最近の音楽をふんだんに劇中に
使用する、ということがどういうことなのか。
特に20代中盤から30代の人たちにとってスピッツの音楽は
いわば青春の1ページを彩る楽曲だったり失恋したときに聴いていた曲かもしれない。
他のドラマのタイアップだった曲やCMタイアップを思い出す人もいるだろう。
音楽の記憶というのは実は、感覚的なものが強く
意外と昔よく聞いていた音楽を聴くことで当時のことを
まざまざと思い出させたりする。
さて、この映画はコンセプト通りといえば
コンセプト通りにスピッツの音楽がかなり大きい音で
各場面に流れるので、スピッツの音楽が好きな人は満足するかもしれない。
しかし、映画を撮影するコンセプト抜きに語ると、映画として
破綻しかねないほどの音量でスピッツの音楽が流れる。
そう、これは少し長めのミュージックビデオなのだ、という解釈を
するのが一番しっくりくるような作品に仕上がっている。
宮崎あおいと西島秀俊という「好きだ、」
NHK「純情きらり」でも共演していた今旬な2人、実力もある
2人が出演している割に演技以上に音楽が雄弁すぎるシーンがあったり
脚本がいまいちなシーンがあったり。
世界観もとても素敵だし、2人の存在感もとてもよいし
スピッツの楽曲も素敵なのだが、その3者がいまいちうまく
かみ合ってない印象を受けた。
そういう意味で有名な音楽を劇伴音楽として使うことの難しさを
痛感させられたような気もするし、コンセプトとしては
成功のような気もする。
ただ、これを一本の「映画」として撮影したつもりならば
監督はもう少し、音楽以外の要素も考えながら撮影と編集に臨んで
ほしかったような気がする。
■海でのはなし。のはなし
家族が本当の理解者たりえる時代の終焉とでもいうのだろうか。
この映画では、最終的に主人公2人は家族と、ある意味決別し
お互いがお互いをよき理解者として認める。
家族という存在を考えたときに、
血がどうしようもなく繋がっていてどうしようもなく
家族であることを自覚せざるを得ないときがあります。
そして家族だからこそ、許せないことがあったりもします。
この映画で言うならば、長年娘を騙してきた両親だったり
息子の気持ちをろくに理解しようとしない両親だったりします。
考えてみれば、親という存在は自分が生まれたときから親以外の
何者でもありえないし、親がいなくては自分が存在しえない、という意味でも
生活を保障してくれる存在としても親は親以外にはなれません。
一緒に生活し、親は子のことを考え、養い育てます。
子にとっても親の存在というものは大きなものです。
ただ、子にとって親は絶対の存在ではありえないのかもしれません。
親はいずれ、たいていにおいて先にこの世を去るし
子が成長すれば親の価値観だけが世の中を支配しているわけでは
ないということを理解し、自分の価値観というものを構築し、
自分がよりどころとする場所を見つけていくものです。
親を捨てる、ということではないにせよ親から離れることでしか
子は自分の家庭や生活というものは得ることが出来ないと思います。
そういう意味で、自分にとっての親以外の大切にしたいと思える存在が
現れる、ということは親からの自立に他ならないのかな、とも
思います。この映画では親との問題から2人の距離は縮まっていくような
描写が見られますが、そういうものなのかな、などと
映画を観ていて感じた次第であります。
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