目指せ!映画批評家

時たまネタバレしながら、メジャーな作品からマイナーな作品まで色んな映画を色んな視点で楽しむ力を育みます★

トゥモローウォー ★★★

2022-08-17 22:22:12 | ★★★
Amazonプライム、クリス・プラットのトゥモローウォー、面白かった。
大味気味なSF大作映画。
ツッコミどころが無いわけではないけど良く出来てた。
導入とか途中の展開とかきちんとフックが作られてて最後まで観ていられた。

トゥモローウォー、主人公の父親がいい味出してたね。
ってか、最近の大作映画って、お父さんが娘とすごいラブラブで娘命で奥さんも大事にしていてやばい時には頼れる父親で家族のために命がけで頑張るみたいな話が結構多い気がする。
こないだ観たジェラルド・バトラーのグリーンランドもお父さんは頼れる系だったし、その前のジェラルド・バトラーの2017年のジオストームもそんな話だったよね。
あと、しばらく離れて暮らしてる父親が凄いヤバいお父さんでなんだかんだで助けてくれる、という話、他の作品でもあったような…あ、これまたジェラルド・バトラーのエンドオブステイツ、だ。

トゥモローウォーは設定が面白いよね。
タイムトラベルモノだけど自由自在に未来にいけるわけではなく、未来の時間も進んでいってるってのが新しい。
後半にいくにつれて、謎解きも少しあるけども、もっと早く思いつくのでは?という話でもあったかな…
未来に送り込まれるのに時間制限付いてたりとシチュエーション設定としてはなかなか面白い。
ご都合主義的展開も多いのだが、そこはまあ、言い出すとキリがないよね…。

お父さんはマイホームパパで家族のために粉骨砕身する、という設定はまあまあアクション大作だと昔からある設定な気もするけども…お父さんのお父さんがヤバいやつで何故か大活躍するってのはちょっと最近の流行りの展開なのかしらね。

竜とそばかすの姫 ★★★

2022-08-17 22:07:43 | ★★★
竜とそばかすの姫、Amazon primeで鑑賞。

ネタバレします。

細田守監督はSNSが進化していく先のネット世界の未来をサマーウォーズで結構きちんと書いてたと思うのだけど、どうして、またネット世界の話を書こうと思ったのかなあと少し不思議に思う話でした。
ところどころで唸るメッセージは込められていたが…
デバイスとしてのUの面白さは確かにあったが、その辺りのSF考証というか設定が割と緩め?
接続してる時の本人はどうなってるのか?は大変に気になった。
近未来世界的な世界観を描くときはディテールに凝って欲しい性分なのよね…
UのアイコンがUberじゃん!っていうのは野暮なツッコミだが…
スマホと併存してそこまでバリバリのハイテクデバイスが普及するのか?というのも気になった。
データ通信量や映像や五感の感じ方とか、そのあたりも…
サマーウォーズは言っても格闘シーンはキーボードカチャカチャだったわけで、その辺りの技術限界性が好きなところでもあった。
一方で、竜とそばかすの姫はちょっとご都合寄りな気はどうしてもしてしまう。
描きたいお話がありきの舞台設定と言いますか…
いや、それは悪いことではないのだけど、SF好きには少し物足りなくも感じるのですよね。
お話的には批判が出るのもわかるし、期待感が高かったからこその意見というのも数多く出たのも頷ける。
つまり、サマーウォーズ再びという期待感。

でも、お祭り的ムービーとして夏の金ローで定着したサマーウォーズとはやはり決定的に異なるお話の筋立て。
一見、美女と野獣だが、ラブストーリーとも異なり、いくつかの話の筋が絡みつつ帰結する。
作り手側が盛り込みたい要素が多くてストレートには伝わりづらい。
エンターテイメントは常にわかりやすくあるべき…と私は思うが、様々なメタファーや現実世界の問題を掛け合わせすぎると、メッセージが伝わりづらくなってしまうのでは?とは思う。
親が知らない子を助けに川に入ってしまい死んでしまった体験から歌えなくなった主人公。
でも、Uの世界では自分とは違う姿をしていて歌える。
ネット世界なら自分とは異なる姿や形だから思うように振る舞える、意見が言えるというのはまさにネットの匿名性の美点だろう。
一方、この話では何度も心無い罵声や批判や中傷が飛び交い続ける。
それは匿名性の高いアバターから吹き出しと言う形でぶつけられる。
これはTwitterの呟きとほぼ同じ。
ネットの匿名性のまさに醜悪な点であろう。そこに動画も重なる。
主人公は大変強引な展開で竜を知ることになり、竜が気になり追いかけるようになる。
全てネット世界のメタファーだと考えたら、掲示板に現れた論破しまくる荒らしが気になるようになった、という展開なのだろうか。この辺り、共感しづらい展開が続く。
主人公は自分の母親がしたことのような無償の救済を否定したかったが、結果的には自分もそれがしたくて、また、もはや、誰からも助けられたり守られたりもしたくなくて、ということなのだとは思うが、それでも色んな話があってなかなか整理しづらい。
現実世界の苦しんでいる誰かを本質的な意味で救うためには、仮想空間の人のままでは無理ではないか?というのが本作の問いではあるのだけど、ここは大変難しいところで。
果たして本作の主人公すずは救いたい人を本質的な意味で救えてるのか?というのは気になるところ。
心の救済なら歌でも十分なわけで。

また、これもまたインターネットの問題として大きく横たわる身バレ問題。
これを軽く捉えすぎなのでは、とは思う。
それとは別にアーティストの本質とは歌なのか、外見なのか?その人の持つストーリーなのか?それともすべてなのか?
なかなか語り尽くせないレベルの問題でもある。
まず、匿名性の高い状態でブレークする歌手というのは現実世界にもいる。
なんならミステリアスなところを全面に押し出してる歌手もいるだろう。
ZARDや初期の大黒摩季のように歌番組に一切出ないことで神秘性を高めた歌手もいるし、Aimerも素顔はなかなから見せなかった。最近だとずとまよとか。

そうした歌手はある種の神秘性もまた魅力だったりはする。
どんな人か分からない、けど、歌や歌詞や世界観は本当に素敵、どうしようもなく気になるという存在。
こうした歌手の魅力の一つは謎だったりはする。秘密とか内緒事は魅力を増す効果があるんですよね。

で、そうした人の神秘性が失われたとき、その歌手の魅力には確かに影響はある。
でも、良くも悪くもその人の歌は変わらないんですよね。

でも、「本人がそうしたいなら身バレしてもいいじゃないか」というのはまたちょっと違ってくるのかなあとは思ってて。

匿名性の高いSNSがもし世界中に広まったとして、(実は文化的にそれはあんまり無い気もするんだけど)
一般人がブレーク後に身バレするというのは極めてネガティブインパクトが大きいのではないかと。
今では報道もSNSの盛り上がりに追従してネットリンチに加わり火力を増やすのに躊躇が無い。

なので、ネットの匿名社会に色んな意味で深く慣れ親しんでいる人ほどその展開に「荒唐無稽さ」を感じてしまうかもしれない。
「いやいや、顔晒しや身バレは50億人もフォロワーがいる状態ではダメでしょ!?」となる人がネットには多いのではないかなあと。

一方で、実名で顔を晒してる人に対して、匿名化されたキャラクターは本質的には救うことが出来ないというのもまた真理ではあるが…
実際に顔を晒して会いに行く、だけで本当に救ったことになるのか?というのもまた気になるところ。
すずが支払った代償の大きさを考えると…
人1人の人生を費やしてようやく1人の他人を幸せに出来るかどうか、という持論を持つ自分からすると、そう簡単な話でないのではないか?とも思える。

ましてや、虐待問題は子どもたちにとっては急迫不正の危機である。呑気な話でもない。
日々起き続ける問題であり、いつか虐待死もありうる。
だからこそ、高知の片田舎から慌てて飛び出して行くのに本質的に解決しないのでは片手落ちだと感じるのだ。
すずは満足してるかもしれないが…
同じ、細田守作品だと、サマーウォーズは割とわかりやすく危機に陥り解決していたし、時をかける少女もそうだ。
おおかみこどもはまあ、そんなに大きな危機ではなかったかもしれないが、個人的には嫌いじゃない。
未来のミライも悪くなかったよ。

でも、竜とそばかすの姫はどうにも物語的な必然性に欠けてしまうのよね…
竜の存在とその正体と強さの理由、また、彼を救おうとするすずの動機が弱い、そして解決の仕方が本質的だと観客に分からない、ということに収斂されてしまう。
歌も音楽も素敵だが…
すずは歌ってるだけ?
それとも、楽曲はどこまで手掛けてるのか?
オケは誰が作った?

音楽で人が救われる、そんな話なら1番重要な点も抜け落ちてるのは大変気になった。
SF設定の描かなさはまだ許せるが、音楽はもうちょい描いて欲しかった。
マクロスFあたりでもランカ・リーが街中で歌い出すとバックバンドが突然現れたりするわけだし、世のミュージカルもまたそうなのだから、これはいわゆるディズニー映画で言うところの登場人物が突然歌い出すミュージカルなんだよ、と言われればそういうことなのかもしれないが…
細田守監督のインタビューとかによると、現代日本版の美女と野獣を作ろうとして着想を得たとあったが…はてさて…
色んな要素を描こうとしすぎたような気はする。
自分の過去記事ではおおかみこどもの雨と雪は絶賛に近い。
今も印象は変わってない。
エンターテイメント大作では決してないけど、細田守はこういうテーマ設定で映画作った方が絶対に良い仕事になるんではないかな。
サマーウォーズはそこまで褒めてなかった。今もう一度見返してみると違った意見になりそうだ。

「細田守っぽさ」をひたすら詰め込んだ集大成感はあるんですよね。
ネット空間、夏の田舎、女子高生、恋愛要素、家族、大人…
本人もそこは勿論意識的なのだとは思うんですけどもね。
作家としては次の新しい主題も見つけないといけないのだろうなとは思わされました。

ドクター・ストレンジ マルチバースオブマッドネス ★★★

2022-08-17 22:02:31 | ★★★
新宿TOHOでドクター・ストレンジMOMを鑑賞。
面白かったが残念だったのはただでさえ、続き物で敷居の高いマーベル作品なのに、ディズニープラスでワンダビジョン観てないと面白さが半減する流れになっていたのは痛恨だった。
少なくとも
・1作目のドクター・ストレンジ
・スパイダーマン no way home
・アベンジャーズ IW
・アベンジャーズ EG
・ワンダビジョン
は必須だが、no way homeやIWやEG観るためには基礎知識がさらに必要でそこも含めると途轍もない。
壮大なサーガの一節を観てるんだと思えば仕方が無い面もあるのだが、ドクター・ストレンジ自体、面白い題材なだけに、2作目がこの仕様なのはちょいと残念だなと。
あと、そうだ、ロキとかwhat ifも観てないと…と思う展開もあった。
ディズニープラス鑑賞は必須だったとも言える。

まず、ワンダがこういう展開に陥るのは少し辛い。
ワンダの生い立ちからして救いが無いわけで、これではビジョンといた時が1番良い時だったということになってしまう。
また、ワンダ自体、何気にチート級に強いキャラクターでサノスともタイマン張れそうなほどの力の強さであることが既にわかっているわけで。
ドクター・ストレンジはある意味では辛勝に近いとも言える。
ドクターストレンジはスパイダーマンでは微妙な役回りで登場するが、今回はしっかりと主人公ではある。
また、新キャラであるアメリカとの絡みは薄味ではあり、アメリカを救おうとする動機がやや弱いとは思う。
マルチバース自体はwhat ifを観ていると非常に腹落ち感があるが、観ていない場合、唐突な展開にかなり混乱するだろう。
キャプテンアメリカではなくて、キャプテン…のくだりとか、大変面白いのだが、せっかく出てきたのにかなりあっという間にワンダに全滅させられるのが残念。ワンダはなぜこのメンバーに参加してないんだ、この世界線では…。
とにもかくにも、マルチバースとはこういうこと、というのをスパイダーマンやドクター・ストレンジでやったわけだが、これからまだしばらく、このマルチバースによるカオスな展開は続くと思うと、ますます初心者には勧めづらいシリーズとなっていくことは間違いなさそうだ。


トップガン マーヴェリック ★★★★★

2022-08-17 22:01:31 | ★★★★★
トップガンマーヴェリック、これはヤバいね。IMAXで観られて感無量。

宇多丸さんのレビュー聴いていても経ってもいられなくて映画館来てよかった。

トム・クルーズの白眉はこの後にまだミッションインポッシブルも控えてるところよね。それにしても…もう60歳なのにあの肉体美、若々しさ、映画作りに賭ける情熱、執念…伝説を劇場に観に行ってるんだな、と思うほかない。

IMAXレーザーで観てよかった。無理して出てきてよかった…昨年グランドキャニオンの帰りモハヴェ砂漠で砂嵐に遭ったのだけど、そんな砂漠から話が始まるので勝手にテンション上がった。第五世代戦闘機から第六世代戦闘機の流れを知ってた方が、よりトップガンは楽しめるのね。もう少し技術的な背景は理解した上で観るべきだったかな…第4世代戦闘機と第5世代戦闘機には音速戦闘の面ではあまり差が無いのね。一方でドッグファイトをする機会というのは劇的に減っているので、それを前提とした戦闘機ではなくなってきている、というのがなかなかに興味深い。F-18関連のwikiを読んでると米軍ですら空対空戦闘は殆ど機会がなく、F-18ですら就役から10数年でようやく初のドッグファイトだった、という記述をみると驚く。むーん、殆ど爆撃とかがメインミッションなのね。

あまりに機会が無いから敵機撃墜自体が戦闘機乗りのステータスになる、ってのがなんともはや。
確かに敵機に見つからずにドッグファイトもせずに、爆撃完遂して離脱するのが1番だものなあ…序盤にドローンの話が出るが確かに戦闘機乗り、自体が時代遅れになりつつある、ってのはそうなんだろうな…冷戦構造ですら、そうだったのだからいわんや、いまをや、ということか。

CGバリバリ全盛の時代に敢えて本格的な空戦の撮影に拘りぬいたのが、また泣かせると。
映画撮影におけるリアル追求と、戦争における戦闘機乗りの腕前追求が見事にダブるのね。日本には飛行機乗りという括りで更に高齢の方も。うーん、限界が無い世界というのもあるのだな。自衛隊だと最近墜落したとされるF-15のパイロットが52歳で自衛隊最高齢パイロットだったという記事があった。大体それくらいよねえ。

良い解説記事を発見した。

https://eiga.com/movie/91554/review/02816174/

ネタバレなので、観た人だけ。それにしても、これくらいの事前知識が無くても楽しいけど、あったら尚楽しいだろうな。

敵が謎すぎじゃないか?という話があったが、このご時世、ここまで徹頭徹尾、どこの国か分からなくしたのはむしろ僥倖だったのでは?明確な人死は描かなかったのも良かった。戦闘機もほぼパラシュート脱出してたし。戦闘ヘリくらいかな?脱出不可能っぽかったのは。

トップガン一作目は、まさにお話のフォーマットとして鉄板になって後年、類似のお話が様々な形で作られた。が、元ネタは「愛と青春の旅立ち」という別の映画なんですねえ。
日本でこのフォーマットで成功したのは海猿。と思ったらナタリーは伊藤英明にトップガンネタでインタビューしてた。

https://natalie.mu/eiga/pp/topgunmovie03

伊藤英明自身がサンディエゴにも旅行するほどトップガン好きってのが面白かった。

トップガン一作目を改めて観た。
2作目の後でもお話はしっかりしてるので観られる。
ただ、編集の面では素直にやはり撮影技術の差は感じる。カット割のテンポとか音楽の使い方はやはり時代が出る。
あと、やっぱり編集の繋ぎ方やコックピット内のリアルさという面では2作目が圧倒的。2作目の「上位互換感」は抜群。
改善/改良というのは1作目の難点を全て克服して初めて改良というのだ、というのをまざまざと見せつけた感じ。

るろうに剣心 The Beginning ★★★

2022-08-17 21:52:29 | ★★★
るろうに剣心 The beginning
この話を映画化しようと思ったのがまず驚き。絵的には素晴らしいけど、お話が暗い。とことん暗いので、映画にするとどよーんとしてしまうのではないかと危惧していた。
OVAアニメ化された時もこのエピソードは底抜けに暗かった。
るろうに剣心はそもそも少年誌で連載されていた漫画作品で大ヒットしたが、京都編以降は暗い。
伝説の人斬りが主人公で、幕末期に大義のためとはいえ、人を斬り殺してきたことの贖罪をテーマにしており、その過去に大きくクローズアップされるのが京都編後だからなのだが、とにかく人誅編と追憶編とは暗くて暗くてこれを映像化しても辛いのでは?とは思っていた。

佐藤健と有村架純はビジュアル的にはハマっている。メインキャストの1人である高橋一生の演技力はなかなか良かった。
が、演技力や演出という意味ではメインの2人の声が小さすぎてよく聴こえない。
映画館でダイナミクスレンジが大きめであれば、違和感なく感じたのかもしれないが、残念なことに家の視聴環境では少し不足だったのかもしれない。声の大小ではなく、それこそ、腹から声を出しつつ、演技力や演出で明るさや暗さを表現してほしかった。というか、基本暗い話のため、ギャグパートはほぼ無し。漫画原作では少しは軽めのやり取りもあったのだが、それすらもほぼ無しとあって、とにかく重たい映画になってしまった。

アクション・映像化という意味では今作よりうまく撮れることはもう無いと思う。それだけに少々残念ではあった。

ファウンダー ★★★★

2022-08-17 21:46:01 | ★★★★
映画「ファウンダー」
やり抜く力、巻き戻せない決断、仕組みで勝つ

映画ファウンダーをNetflixで英語で鑑賞。いやー、日本語版を観たらよかったかなあと思いつつも、まあアメリカに6年もいるんだからこれくらい字幕つけたら内容は追いつけるだろうと思って最後まで鑑賞。
映画としての感想を少し書いておきたい。

学びが大変多い作品だった。
1950年代はまだアメリカはいわゆる「古き良きアメリカ」でそれこそアメリカンドリームを夢見る人たちで溢れた国だったのだろう。
世界最大のハンバーガーショップチェーンのマクドナルドがアメリカに現れる頃というのはまだ、ドライブスルーではなく、ドライブインというのが一般的だったようだ。
乗りつけた車にウェイトレスが注文を聞きにきて、そして、その後に窓にトレイを取り付けてそのトレイ上の皿に乗ってる食べ物を食べるというドライブインスタイルだった、というのはなかなか面白い発見であった。いまや、なかなかお目にかかれないスタイルだ。
まだアメリカにはちょくちょく残ってるスタイルではある。カリフォルニアのシリコンバレー周辺だとSonic drive inなどだろうか。奇しくもこのドライブインスタイルは2020年のコロナ禍で再注目されたとか。

http://kittycat.blog26.fc2.com/blog-entry-277.html

https://ameblo.jp/yolanda-uraoka/entry-12608318047.html

こうしたドライブインスタイルのお店にミキサーを売り込みに行くセールスマンだったのが、マクドナルドの「ファウンダー」となるレイ・クロックだった。
レイ・クロックがいかにして、マクドナルドを見つけ、そして、フランチャイズとして成功させていくか、という姿を描いていく映画だ。ノンフィクションみたいなものだからある程度結末は分かっていると言って良い。ネタバレが嫌な人は先に映画を観てほしい。

このファウンダーという映画はレイ・クロックの自伝を元にした作品であり、詳しくはこの自伝を読んだ方が理解が深まると思う。ので、本は別途読んでみる予定。読んだらその後にこの記事も加筆するかもしれない。
また、様々な記事を読む中で分かったのは、この映画はマクドナルドからの協賛を一切受けてない点、そして、映画は自伝だけでなく、マクドナルド兄弟の親類縁者のコメントによる視点も含めて描かれている点だろうか。そのため、レイ・クロックの成功譚という風に一概には言えない映画となっており、観賞後の後味はややほろ苦いものともなっている。

ファウンダーというのは通常は会社の創業者を指す。foundation(基礎)を築く人だからfoundarと呼ばれる。foundの語源が土台を据えるだとか基礎をおく、という意味の言葉だそうな。

非常に意味深なタイトルと言える。

特にこの映画では、レイ・クロックがいかにマクドナルドを見つけ、フランチャイズを推し進め、そして最後にはマクドナルドの業態の発明者であるカリフォルニア州サンバーナディーノで開店させたマクドナルド兄弟から、その権利を全て奪った、と言っても過言ではない仕打ちを行うところからも、本当のファウンダーとは誰なのか?何が企業の基礎なのか?と言うことを問うような話になっている。
私見を述べれば、マクドナルドというお店の業態はあくまでファーストフードであり、そのレストランとしてのビジネスモデルや店舗設計、運営の基礎の基礎を築いたのは間違いなくマクドナルド兄弟ではあるが、その後のフランチャイズ業態や店舗管理の徹底、拡大、そして、不動産を元にしたビジネスモデルの確立はやはりレイ・クロックの「功績」なのだろう。なので、現在世界中にビジネス展開する「マクドナルド」の本質的な創業者はやはりマクドナルド兄弟だけではありえないし、レイ・クロックだけでもあり得ないのだろう。
カリフォルニア州の第1号店の創業者はマクドナルド兄弟で間違いないが、その後に全米や全世界に広がったマクドナルドチェーンの創業者は間違いなく、レイ・クロックとなる。レイが居なければマクドナルドは今でもそんなに大したチェーンにはなっていなかっただろうし、世界におけるハンバーガーやファーストフードの位置付けも少しないしは大幅に変わっていたかもしれない。
映画を見る限り、レイの視点だけでは描かれないため、レイ・クロックは実際にはもっとマクドナルド兄弟に敬意を払うべきだったとも思わされるが、レイ・クロックの努力をマクドナルド兄弟がきちんと見ることも認めることもなかったのではないかな、とも思われる。(マクドナルド兄弟はカリフォルニアの1号店の経営に勤しんでおり、レイの奮闘をマクドナルド兄弟がわざわざイリノイまで見に来るようなことは無かったように描かれている)
レイ・クロックはイリノイ州からフランチャイズ加盟者を増やし、マクドナルドの店内での生産システムをきちんと確立して、また店舗運用や管理を店長たちに伝授していっていた。身銭を切って、フランチャイズを広げ、きちんと各店舗を成功させ、店舗のクリンネスやクオリティを保ち、売上を拡大させた。
レイの店舗拡大活動は精力的な活動だったし、その努力もまたもっと認められるべきものだったようには思う。

結果的に、映画の最後は互いに尊敬しあえず、悲しい物別れに終わってしまうのであった。
ビジネス上の決断で最も難しいことは朝令暮改であり、やり抜くことでもある。間違っていたと認めてやり直すことも重要であるし、自分たちが最初に信じたことを成功するまでやり遂げることもまた重要である。

◻️映画的誇張
映画に関するトリビアは色々ある。
下記記事などはなかなか興味深い話だった。

https://hibino-cinema.com/founder/

レイはマルチミキサーをレストランに売り込みに行く仕事を生業にしているわけだが、彼が52歳にこの仕事をするに至るまでの人生はあまり映画では触れられていない。奥さんや周りの登場人物が少し過去について話すくらいだ。レイは劇中、当初、うだつの上がらない感じでミキサーが全然売れなくて困ってる風で描かれる。

◻️ピアニストとしてのレイ
しかし、彼の自伝「成功はゴミ箱の中に」では彼がマクドナルドと出会うまでの前半生が描かれる。戦前、ジャズのピアニストとペーパーカップのセールスの二足の草鞋を履いて深夜まで働いた。ピアニストとしてラジオの生放送もこなしていたという話だからピアノの腕前は相当なものだったのだろう。
シカゴからフロリダに一時的に引越してピアニストとして生計を立てようとしたところも描かれている。フロリダで初見の楽譜を転調して演奏するようなシーンも出てくる。これはなかなかに素人にはできない。
映画劇中ではあまりそのことについての言及は無いが、再婚相手との出会いでジャズピアノと歌声を披露する場面があり、レイがピアノの腕前がプロ並みであることが割と唐突に描かれる。実際には、フロリダから戻ったレイはもうピアノは弾かないと決めてセールス道まっしぐらだった、と自伝では言及している。
モータリゼーションがちょうど巻き起こる頃の話なので、彼が車でシカゴからフロリダに向かう描写も出てくる。

◻️自動車での移動ではなかった。
彼は映画冒頭、マクドナルドに向かう時も車で向かったように映画では描かれるが、彼の自伝によれば、マクドナルドに向かった時は車ではなく飛行機だったようだ。

◻️営業マンとしての手腕
また、ペーパーカップの営業では営業チームを率いていたり、トップセールスだったりと営業マンとしては時流にも乗って大変優秀だった様が描かれている。(自伝だから良く書いてるというのもあるかもしれないが)
当時新進気鋭だったドラッグストアチェーンのウォルグリーンにもペーパーカップを売り込み、見事に大口契約を獲得する様が自伝では描かれる。彼の取った手法は無料サンプルを渡して実際に持ち帰りで飲み物が売れることを証明することだった。今ではこうした手法はありふれているが、当時は画期的だったのだろう。
また、マルチミキサーの営業マンとしてもさまざまなレストランに売り込んで長い間、販売活動に勤しんでいる様が描かれている。苦労はあっただろうが、映画のようなうだつの上がらないセールスマンだったわけではなさそうだ。自伝でもこれらのセールスとしての経験がマクドナルドチェーンの経営や仕組みづくりに役に立ったことが記されている。

◻️ハリーとの出会いのシーン
映画ではたまたまレイとハリーは銀行で初めて出会うようにドラマチックに描かれているが、自伝によると、そうではなかったようだ。

◻️レイは契約書に弱い
レイは映画劇中、マクドナルド兄弟と結んだ契約により後半、随分苦しむ。これは契約書の記載事項の細かいところまでそこまで交渉をせずに安易にサインしてしまったところから始まるのだが、彼はミキサーをセールスとして売り始める時にもやはり契約に縛られて大変苦労している。(彼にはどうしようもなかった面もある。)
劇中では描かれないが、レイはマクドナルド兄弟との契約でもミキサーの時の契約と同じような轍を踏む羽目になっている。
アメリカは契約に基づく訴訟社会、契約書の中身の読解力や交渉が出来なければ、相手の都合の良いようにされてしまうということを如実に表している。
契約書はよく読んで、ビジネススキームをしっかり考えてからサインしよう、というのがこの映画から読み取れる一つの学びになっている。(レイは自伝でも契約書に苦しむ様に言及しており、自身がその点において迂闊であることは認めている)

◻️マクドナルド兄弟の視点
マクドナルド兄弟は自分たちの店で、ファストフードのオートメーションのやり方を見事に確立したが、一方で、そのフランチャイズでは自分たちの信念を曲げてしまった。(テニスコートで店舗の絵を描いて、人を実際に流してキッチンを設計したのはかなりイノベーティブなやり方だろう。トヨタのカイゼンにも通ずる) 必ずしも、フランチャイズを始めたことは間違いではなかったが、その後の失敗を思えば、最初の決断も誤りだったかのように思えてくるだろう。
が、マクドナルド兄弟の本当の失敗はその後の展開にある。
レイ・クロックの暴走を止められなかったし、彼に最初に契約した契約書を守らせることも、再交渉時に譲歩することも出来なかった。元々、レイが最初に助けを求めてきた再交渉時に少しでもレイを助けていれば、ここまでの事態にはならなかった可能性すらある。
得べかりし利益(逃した魚)はとてつもなく大きかったが、大したお金を得られないままに、マクドナルド兄弟は庇(フランチャイズ権)を貸して母家(自分たちの元々の店舗)すら取られる羽目に陥った。彼らの最初の決断は巻き戻せない決断となってしまったのだった。

◻️レイ・クロックの視点
レイの視点から見れば、自分が決めた仕事や方針を「やり抜くこと」の重要性を思い知らされる。また、契約に納得出来なければその方向性を再度議論し、一度自身がサインした契約書でも放り出して新たな方向性を探ることも厭わない。成功の裏には成功への貪欲さがある。彼の場合、この映画の中での大きな転機、point of no returnは2つある。

・カリフォルニアの片田舎のマクドナルドを「発見」し、渋るマクドナルド兄弟を粘り強く説得してフランチャイズを始めたこと

・マクドナルド兄弟との契約を粘り強く交渉して最後には反故にしつつ、マクドナルドチェーンを不動産買収を元にしたチェーンに作り直したこと

大変、面白いことにレイ・クロックは明らかに単独ではどちらもやり抜くことはできなかった。
もし、レイがマクドナルドを知らなければ、彼は単なるミキサー売りで終わっていただろう。
また、ビジネスモデル転換を出来ていなければ、単純に破産して失敗者となり、マクドナルドとともに歴史の流れに埋もれていただろう。ビジネスモデル転換自体も彼のアイデアではない。

◻️ハリーが考案したビジネスモデルの転換

https://knnkanda.hateblo.jp/entry/2019/11/24/200457


"You're not in the hamburger business, you're in the real estate business."

この映画で静かな会話シーンながらに1番エキサイティングな瞬間、そしてセリフと言ってもいいが、それがハリーの上記のセリフである。
このハリーが起案した単なるフランチャイズからのビジネスモデルの転換はマクドナルドを資産リッチな会社に変貌させた。
マクドナルドの主要ビジネスはたちまちレストランのフランチャイズチェーンから不動産業となり、着実な利益を産むことになった。

映画でも早すぎて全てが追えなかった内容ですが、下記記事に詳しいです。

https://blog.goo.ne.jp/lemonwater2017/e/4931a9ff8216acf0f5aa25a454410daf

ビジネスでは「ビジネスモデルをどのように考えるか」で大きく稼ぎ方が変わる、と言うことを端的に示している好例でしょう。
誰を相手にビジネスをしているのか、お金はどこから支払われるのか、どうやってお金を自分たちの元に支払われるように流れを作るのか。
レイ・クロックは確かに「徹底的にやりぬく力」があるけれど、どんなに頑張ってもやり方がまずければ、お金をもらえる仕組みが無ければ、倒産しかねなかったわけだ。レイがイリノイで愚直に質の高いハンバーガーを売ろうとしていたからこそ、ハリーとも出会えた、とも考えられるが。(もし、劇中のような出会いだったのだとしたら、だご)
この映画は勿論、レイ・クロックの自伝を元にした作品ではあ?が、マクドナルド自体の会社としての成功の秘訣が何だったのか、というと、ハリーの存在、そして彼の起用無くしては、こんにちのマクドナルドチェーンは存在していなかったのだろう。
ハリーを見そめたレイにも人を見る目があったとも言えるが…。


シン・エヴァンゲリオン ★★★★★

2022-08-17 21:44:33 | ★★★★★
映画 シン・エヴァンゲリオン 劇場版
なるほどなあ、と納得。今作は相当わかりやすかった。解説や考察をあれこれ、一通り読むと解釈が人によって違うのがよくわかる。映像からしか判断できないことも多いものなあ…でもこれで長い長い長い「もやもや」が晴れて少し寂しいながらも一区切りついた感じがする。それにしてもついにちゃんと向き合ったのか、という気はする。Qからどう続けるのか気になってたけど、きちんとQの落とし前をつけつつ、長らく気になっていたことにようやく向き合った。
具体的には碇シンジというよりはゲンドウ側の話にフォーカスしたのが良かったのだと思う。子による父殺しの物語というのはありふれてるからか、展開としては父殺しでもないところは今風なのかもしれない。

鬱展開の後、ラスト2話で謎な展開が続いたTV版最終回。
その後の期待された旧劇場版でも結局は視聴者が観たかったものではない謎展開で観客はみんな置き去りになってしまった。
思わせぶりな謎や難解設定ワードを数多く作り上げつつ、新劇場版も完結まで足掛け14年?も掛かってしまった。25年前、TVアニメ版を観ていた時、わたしはそれこそ中学生だったが、今では子どものいるいい歳したおっさんになってしまった。
毎度毎度気になっていたのが、碇ゲンドウや冬月、ゼーレの面々の目的やその手段の謎具合が激しく、旧劇場版では碇ゲンドウは「ユイと出会う」という目的を達成するも、LCL化してしまい、息子であるシンジとの間の距離は縮まらないままに終わってしまっていた。そもそも、エヴァンゲリオン という作品世界では父親は常に息子への理解が無く、息子を突き放す存在として描かれてきた。そのことそのものが、シンジの中の空虚感にも繋がってきたし、「父親に認められたくてエヴァに乗る」というシンジの動機を物語として生み出してきた。
そんなずーっと距離しか描かれてこなかったゲンドウとシンジは今作では対話を通じて両者の「理解」は進んでいるとも言える。そしてこれこそが、エヴァンゲリオン に不足していた物語ではあったのだと思う。
日本のアニメでは例えば、ガンダムでも父親は殆どいつも理解が無いことが多かったとは思うが…(アムロにはテム・レイが居たが、アムロの良き理解者というわけでも無かった) ジブリアニメなどでも父親が肯定的に描かれることはあまり無かったように思う。昔のアニメだと巨人の星での星一徹のような極端な例もあるが、時代とともに父と息子の在り方も変わってきている。
ゲンドウの場合、今作では明確にほぼ全ての心情を明言して吐露しているため、大変わかりやすい。ユイに恋に落ちるまで、そして、その後の葛藤も含め、細かく描かれている。そして、その葛藤や迷いがシンジを遠ざけた理由であることも語られる。

ドントルックアップ ★★★★

2022-08-17 21:41:30 | ★★★★
ドントルックアップとアメリカ
笑えるようで笑えない。笑えないようで笑える。

アメリカの政治や社会をSF映画の体で痛烈に批判。SF映画要素はほとんど無くて基本的にはコメディ。だが、役者が本当に豪華。こんなに豪華な役者陣で織りなす惑星追突に絡むドタバタ劇を描く。

Netflixで観られたので鑑賞。
序盤の始まり方から大統領に会うちょっと前までの展開はまさにアルマゲドン的な展開が訪れるのかと思われるのだが、そこから二転三転して斜め上の展開になっていく。コメディなので、重要なシーンがある、という類の映画ではないが、ある意味で目が離せない展開も多く、引き込まれる展開であったと思う。

本当に大事なことは何なのか。
決定的なタイミングで誰が何をどうすべきなのか。理性や科学は時に権力や政治に利用されてるのではないか。時に科学は簡単に無視されてはいないか。政治や権力を司る一握りの人たちがどれだけ欲深く、自分だけが良ければ良いと思っているのか。資本主義/民主主義は人類が滅亡の危機の時にきちんとあるべき行動や選択を取れるのか。行き過ぎた資本主義は人を滅ぼすのではないか。どんなに科学を重視する人でも時に目先の色んな欲に目が眩んでないか。中立であるべき権力は資本におもねってはいないか。本来他者を思いやるべき立場の人たちが自己中心的な考え方をしすぎてはいないか。大事なメッセージは伝え方が大変に重要ではないか。それはデータが先がいいのか、事実が先がいいのか、結論から話すべきなのか。世界の終わりは政治家の汚職よりも軽いニュースなのか。
データは科学者以外には丸めて話すべきか、それとも細かい数値の話は必要か。どんなことも軽々しく取り扱うべきなのか。
あるべき方向に話が進んでいる時に横槍を入れて捻じ曲げたやつらは最後に何を得るのか。
話し方は丁寧な方がいいのか。それとも声を荒げた方がみんなは耳を貸すのか。事実を直視しない人たちは何をしたら直視してくれるようになるのか。そして、その時には手遅れではないのか。本来、市民に求められる態度や心構えとはどういうものなのか。


主人公は最初、Twitterでのフォロワーを荒稼ぎして自己の欲求を満たしていたようにも思えるが、それは最終的にはテレビに出まくったりと様々な形で彼の秘めたる承認欲求を満たしていく。look up!, don't look up!のくだりまでくると、もはや、どこかで見た選挙戦みたいな様相を呈してくる。
「そこにそれがあるかどうかはもはや、重要ではない時期」にそうした本質ではない言い争いをしているというのが末期的である。
そこにあることを実際に視覚的に証明できても、もはや人類の文明社会はあと数日しかないことがほぼ明白だったりする。
「今、目の前にある危機を回避するために取るべき最適解を取らない人たち」というのは何も衆愚だけではなくて、それによって選ばれた人たちや資本主義の中ではとびきりのエリートのはずのお金持ちだったりするのも示唆的だ。誰もが単純に考えれば、やるべきことは決まっていることをどうして素直にやれないのか。誰も協力し合えないのか。罵り合いになってしまうのか。

この映画のそこかしこに散りばめられている光景はなんならコロナ禍前後にアメリカに住む多くの人たちが何度も見た光景であり、コロナ禍におけるアメリカの暗喩であることは明白だ。
宇宙人が攻めてきたり、彗星が落ちてきたりでも構わないが、最悪の事態に、事態を収拾させずむしろ、その事態を利用してなんとか儲けてやろうとか、自分の政治的地盤を確かなものにしてやろうとか、そんなことをする人たちというのは本当にたくさんいる。コロナ禍よりも更にもっと酷い深刻な事態として彗星衝突を物語の狂言回しとして置いただけで、描かれた話の殆どが今のアメリカや世界に繋がる「どこかで見た光景」である。

現実には世界最悪のパンデミックの最中、アメリカでは80万人以上がコロナで亡くなったと言われている。全世界では500万人と言われている。アメリカの死者数は南北戦争や世界大戦で亡くなったアメリカ人の数よりもはるかに多いと言われている。歴史上、類を見ないほど人が亡くなったコロナ禍においても世界はひとつには全くなれなかった。史上最速でワクチンは出来たし、急ピッチで治療薬は普及に向けて生産されているが、まだまだコロナは収束していない。マスク付けるだけで暴動が起こり、ワクチンを受けさせようとしても20-40%の人はワクチンを受けようともしない。人々は対立し、コロナそのもので人が死ぬのに、完全に政治issueと化した。
我々はつまり、未曾有の危機を前にして団結とはずいぶん遠いところにいる。自国の利益を優先し、他国の批判を繰り返し、国と国の境は閉ざされ人の往来は激減した。映画館は閑散として、今も客足はなかなか戻らない。ブロックバスター級の映画であってもNetflixで公開されたりするし、HBO maxなどでも早期に公開されたりする。おかげでこんな映画でもサクッと家で観られたりするわけだが。

そんな世界の危機でも団結できないし、現実を直視できないし、科学を無視しまくる利己的な人たちを揶揄してまざまざと劇中で描いてるという意味で、今まさに観るべき映画なのかもしれない。

願わくば、コロナ禍よりも更に酷い危機に瀕しては人類はきちんと団結出来れば良いのだが。

シンウルトラマン ★★★★

2022-08-17 21:39:23 | ★★★★
新宿TOHOシネマズで鑑賞。
IMAXレーザーで観たかったけどグッと堪えて普通の方の劇場で。



ネタバレします!未見の方はここから先は読まないでください!



面白かった!ここまでウルトラマンをしっかりやってくれるなら、なんなら3部作か2部作くらいでやってほしかった!話の流れ的には最初の1分でウルトラQ的な粗筋をめちゃくちゃスピーディーに見せてくれる。最初の字幕読む時間がマジで無かった。わざととしか思えない笑。前日談でこれだけで観たいくらい。一気に5体ほど怪獣を見せてしまいます。

「あの」シンゴジラと地続きの世界ではない…とは思われるものの、パラレル的に出てくる最初の禍威獣ゴメス(ゴジラに似てた)やらタイトルカットへの流れ、後半に出てくる政府中枢にいる竹野内豊、嶋田久作、とどこかシンゴジラとの連続性を感じさせる演出が多かったですね。(斎藤工も何気にシンゴジラには自衛官役で出ている)
科学特捜隊、転じて禍特対というネーミングや既に怪獣を撃退してきて自衛隊を指揮下に収めるほどの実績を引っ提げて登場するところも大変ググっと来ました。
それにしても全編通して、長澤まさみ!これは長澤まさみ好きな人はかなりクラクラくるのではないでしょうか。巨大化エピソード含め。

とにかく驚くほど原典の「ウルトラマン」をしっかりやっていて、役名こそ新作になっていてキャラクターそれぞれは違う役回りではあったものの、仲間・チームで難題を乗り越えようとしていくところはしっかりと科学特捜隊してたな、と。できればオレンジ色のジャケットを羽織って欲しかった気はするものの、衣装は政府機関らしくスーツで通したのはリアル感追求のための製作側の美学なんでしょうね。(お話にウルトラマンと怪獣という荒唐無稽な大嘘が出てくるので…)
音楽は一部はきちんと原作重視。この点もなかなかにくい演出でした。一部ではシンゴジラでも使われたジャズが流れたりしてこの辺りもまたシンゴジラとの地続き感がありました。
撮影はiPhoneを多用したとインタビュー記事にあるのでたまに画質が粗めの映像が出てくるのがiPhoneなんだろなと。結構、下から仰ぐアングルが多かったですね。ちょっと普通のカメラでは撮らないような角度や距離の映像もところどころにありましたね。個人的には画質はある程度粒が揃ってて欲しかった派ではあります。(画質があまり変わると撮影者視点で現実に引き戻されてしまうので…)

お話的な導入は食い足りなさを生じさせないわかりやすい流れ。

起: 外星人ウルトラマン登場、2体の怪獣を倒す

承: 外星人ザラブ星人登場 スーパーハッカーも顔負け

転: 外星人メフィラス登場、それも全て私だ

結: ゾフィー(ゾーフィ)がゼットンを放つ(放映初期の視聴者や児童書の誤解をそのまま、採用って胸熱) 人類の叡智を結集して解決方法を見出し、ウルトラマンが死力を尽くし、「トップをねらえ」よろしくなんとか脱出する

後半のメフィラスが仕掛けるアサミ(長澤まさみ)巨大化エピソードやベータカプセルを利用した巨大化技術のバックグラウンドはお話的な転換点にきちんとなっていて、そこをきっかけに「マルチバース全体を脅かしかねる脅威として利用されかねない地球」をゾフィーがあっさりとゼットンを使い滅ぼそうとするというのがなかなか。(ゾフィーの淡白さがだいぶ怖い。光の国の存在が恐ろしいものに思える)
メフィラスの人類巨大化計画というのはエヴァの人類補完計画味もあってこれまた庵野節でした。(「あれもこれも全て私だ」感がやはりメフィラス星人感があったんですねえ)

以下のフジ隊員の巨大化に関しての忸怩たる思いを吐露してる記事を読むと樋口監督はまさにそのエピソードを払拭すべく、長澤まさみを巨大化させたのだなと感慨深くなりました。(いや、単に「長澤まさみを巨大化させたかっただけ」かもしれないけど!大河ドラマのナレーションと言い、三谷幸喜や庵野秀明、樋口監督含め長澤まさみに対するクリエイター側のイメージって…と思うところがありますね…)

https://www.sankei.com/article/20160707-G2AQQYXF5BLVDPTCF7XJ6MK6V4/?outputType=amp

CGは「狙ってそうした」のだとは思うのですが、もう少し重量感欲しかったところがちらほら。ウルトラマンがメフィラスやザラブ星人と戦うシーンなどでそうした感覚を覚えました。具体的には後ろに飛び退くウルトラマンのシーンとかはもう少し、「重量感や質量感」が欲しかった。まー、1000tを超える設定のウルトラマンの質量的にもはや、全てが超常的なムーブになってるのでそれに対して重量感や質量感を議論するのはおかしいのかもしれないけど。(そういえば体重は35,000tから修正されてましたね。)

空想科学読本の著者も勿論つっこんでいました。
https://news.yahoo.co.jp/byline/yanagitarikao/20220524-00297420

あと、各所でも言われてると思うけどゼットンのCGバリバリ感は流石に2022年の今、もう少しなんとかならんかったんかなとは思う。なので最終決戦なのに悲壮感が薄くなってしまったようにも思う。テンション上がるシーンはどっちかというと、ギターサウンドバリバリのメフィラス戦であった。
予算がもっとあれば、もっと凄い作品になったのでは…。日本は良い製作陣に製作費をぶっ込まない。(たまにぶっ込んで酷い目に遭うからだろうけど…このあたり、円谷作品だから…とか言わずにシンゴジラやエヴァの功績も当て込んでもっと予算を注ぎ込んで欲しかった。

星人戦でもメフィラス星人あたりはもう少しデザイン含めてオリジナルに寄せてもよかったのでは?と。CGの質感はもう少し、予算投入して頑張って欲しかった。(ゼットンに至っては予算が尽きたんかな?と思うくらい。)そういう意味で低予算だったのでは、というツッコミもそこかしこで見られ、役者への報酬とかで製作費を使い切ってしまったのでは?とも感じられてしまいました。

「なぜ日本にばかり…」というウルトラマンシリーズの疑問はメフィラスが払拭してくれるし、メフィラスの引き際の良さといい、作品的にはメフィラス星人の登場から退場までが白眉の出来かと。「特命全権大使メフィラス」と書かれた名刺を出してきて怪訝な顔になるシーンとか大好物だわ…と。ブランコに乗るシーンも居酒屋に場所を変えて割り勘を言い出すシーンといずれの場面もとても好感が持てるキャラ造形でした。その後、戦闘に至るまで星人としての姿を見せなかったのも彼なりの人間社会への融和のための美学だったのだろう、と思わせるに足る雰囲気でした。

そこで出てくる交渉役が矢口蘭堂ならぬ「政府の人」竹野内豊というのがまたなんとも言えません。政府の人はその後、ウルトラマンとも「世界を滅ぼせるけどしない」というギリギリの駆け引きをしますが、やはり人類の保有するレベルよりも高い技術を保有する外星人との交渉はまさに薄氷であり、ある意味でゴジラよりもタチが悪いというのが見えて面白かった。光の国の皆さんのやや過激な一面が垣間見えましたね。政府の人もブラフとは言え、交渉材料として、禍特対の人たちの命を俎上に載せてくる鬼畜ぶりではありました。(交渉材料が身内ってのも無理があるよね。)


スペシウム光線には耐え切れたザラブ星人が八つ裂き光輪でサクッと倒されたりとかそんな八つ裂き光輪も最大化しても全くゼットンには通じないとかウルトラバリアーもさっぱり効果を発しないとか細かいディテールは説明しないが描写で描くのもよかった。(実際、本家のウルトラマンでも技の解説は殆ど無いですものね)
スペシウムの解説はザラブ星人がサラッとしてくれます。
話題になった「ウルトラマンにカラータイマーが無いデザイン」のはあまり違和感無くて、本家のゼットン戦で弱点とされた胸部が弱点ではなくなったのも個人的には好印象。いや、胸に攻撃受けること多いしね…