Light in June

文学やアニメ、毎日の生活についての日記。

特になし

2011-11-10 23:17:39 | Weblog
本当は今日は『プロコフィエフ短編集』の感想を書こうと思っていたのですが、なんか気分が乗らないのでそれはやめて、ぼそぼそととりとめもないことを書いてみる。

先日、ついうっかり将来のことを考えてしまったせいで胸糞が悪くなって、なかなか寝付けませんでした。近年のぼくは割と寝付きがよかったのですが、この間は久々に輾転反側した。う~む、難しい言葉はあまり使いたくないのですが、他に言葉が出てこない・・・。寝心地が悪くて寝返りを打ちまくった、と書けばいいのか。ただそうすると「寝」という字を連発してしまうので、避けたいという気持ちもあり・・・まあもういいや。

ぼくは研究者には向いていない気がするのですが、というのは性格的にも能力的にも言えるのですけれども、じゃあ他に適職があるかと問われれば、「ない」と答えざるを得ないのであって、まあ正直に言うとぼくは小学生の頃から作家になりたかったんだよな、とここで子どもの頃の朧げな夢を披歴しても詮ないことですけど、自分には小説家の才能はないと諦めたのが8年くらい前で、結局ぼくにはやりたいこともやれることも何もないのだった。

才能豊かで「自分にはやりたいことなんてない」と言っていられる人間は傍から見れば幸せですが、ぼくなんかは才能がない上に「自分にはやりたいことなんてない」と無気力オーラをぶんぶん出している始末ですから、憐れですね。憐れなはずなんです。でも傍から見れば、東大の博士まで進んで何を言ってるんだくそいまいましい奴めと思われるのがオチなので、親しくない人にはあまり愚痴はこぼせない。と思ったけど、ぼくは誰にでも「自分なんて最下層の人間ですから・・・」と言い訳をしているな。

いま政界は大揺れですが、それを巡って、賛成する人も反対する人も、どちらもとにかくエネルギッシュであることには感心する。変なことに感心する人間だなあと思われるかもしれませんけど、何かに情熱を傾けられる、というのは実はちょっとした神様のご褒美的な、その人の魅力だったりするんですよね。才能と情熱とどちらが欲しいか、と問われれば、ぼくは情熱が欲しい、と答えるでしょうね、才能と引き換えにするのは御免こうむるけれども。

まあ聴いてみてください

2011-11-09 23:18:57 | 音楽
amazarashi 『古いSF映画』


=歌詞=

昨日の夜遅く テレビでやっていた映画を見たんだ
未来の世界を舞台にした 海外の古いSF
すでに世界は汚染されて マスクなしじゃ肺がただれて
瓦礫の如きメトロポリス 未開の惑星みたいな地球
逃げ込んだ先は地下室 ただしの80000km2の
昔はシェルターと呼ばれていたが 今じゃ都市と呼んで差し支えない
人工太陽 人工植物 そもそも人工じゃないものはない
ほぼ人間と変わらぬAI 誰もそれに疑問は抱かない

殺人 略奪 治安維持も無く 力は力でしか抗えない
犯罪の5割はアンドロイド 科学の飽和を憎む主人公
前時代のCGもほどほどに 徐々に核心に迫るミステリ
だが実は彼もアンドロイド ってのがその映画のラストカット

僕らが信じる真実は 誰かの創作かもしれない 僕らが見てるこの世界は 誰かの悪意かもしれない
人が人である理由が 人の中にしかないのなら 明け渡してはいけない場所 それを心と呼ぶんでしょ

風がそよぎ 海が凪ぎ 空に虫と鳥が戯れる 木々は今青々と
四季の変わり目にさんざめく 見てみろよ
当たり前にある景色も 大事にしなきゃなって思うでしょ
この世界に不必要なのは人類だって話もある
説教じみた話じゃつまらない 分かってるだからこそ感じて
経験は何よりも饒舌 そしてそれを忘れちゃいけないよ
草木に宿る安堵の情念 昔の人は神様と呼んだ
ほら触れて想像してみなよ この温もりを君は何と呼ぶ?

僕らが信じる真実は 誰かの創作かもしれない 僕らが見てるこの世界は 誰かの悪意かもしれない
人が人である理由が 人の中にしかないのなら 明け渡してはいけない場所 それを心と呼ぶんでしょ

どう? 理解できたかな これが人類の原風景 上映はこれにて終了です 拡張現実プラネタリウム
お帰りの際は保護服と マスクをお忘れないように 手元のモニタでご確認を 本日の東京汚染予報

僕らが信じる真実は 誰かの創作かもしれない 僕らが見てるこの世界は 誰かの悪意かもしれない
人が人である理由が 人の中にしかないのなら 明け渡してはいけない場所 それを心と呼ぶんでしょ
僕らが愛した故郷が 殺されてしまうかもしれない 僕らが待ってた未来は 誰かの筋書きかもしれない
人が人である理由が 人の中にしかないのなら 受け入れてはいけない事 それは君自身が決めなきゃ

昨日の夜遅くテレビで やっていた映画を見たんだね
不安になるのは分かるけれど フィクションはあくまでフィクション
この先どうなるかなんて そんなこと僕に聞かないで
答えは君自身が見つけて 僕は名も無いアンドロイド

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

YouTubeに公式映像がアップされたので、とりあえず貼っときます。公式HPでも同じ映像見られて、前にリンクを貼っておきましたが(『古いSF映画』というエントリ)、しかもそちらの方が大画面ですが、なんとなく。

この映像が気になったの人は、「夏を待っていました」→「クリスマス」→「アノミー」→「古いSF映画」の順番で観返すといいと思う。

ちなみに歌詞に些細な間違いありますが、公式HPそのままです。
音が小さめなので、大音量推奨。

古書と腹痛からポーランドに変わる話

2011-11-07 23:43:49 | 本一般
今日の午後、図書館に繰り出して授業で使う本を借りて、ついでにロシアの小説も少々借りて、帰りに古書店へ寄ってやはり少々の本を購入しました。

というのが午後の出来事なのですが、これと並行して腹痛が続きました。図書館で既にちょっとまずいかなあ、という気配はあったのですが、まあ大丈夫だろうと甘く見たのが悪かった。古書店で物色している間にソレは次第に自らの存在を誇示し始め、やがて物狂おしいビッグウェーブとなってぼくを急襲することに。こりゃいけない、とぼくは思い直して、必要な本だけを慌てて買い込むと、おもむろに(!)自転車をこぎ出したのでした。猛スピードでこげなかったのは、それほど逼迫している状況だったからです。幸い何事もなく家に辿り着きましたが、危なかった。しばらくして緊張の糸が解けたぼくは、あるいは疲れ果ててしまったぼくは、猛烈な眠気に襲われたのでした。

古書店ではルナチャルスキーの芸術論集と『ポーランド入門』と、あとロシアの小説を買いました。最後の本がお目当ての本だったのですが、500円でラッキー。意外と安かった。

『ポーランド入門』は、ポーランド文学と日本近代文学との関わりや、ポーランドの芸術や歴史を簡単に紹介している文字通りの入門書なのですが、日本の文学との関係というのはとても興味深いですね。二葉亭がポーランド文学も邦訳したという話は初めて聞きました。

また、日本では今までシェンケーヴィチが大いに読まれてきたようで、確かに『クオ・ヴァディス』の翻訳はぼくも三種類持っています。まあそれはいいとしても、とりわけ正宗白鳥、田山花袋、有島武郎らに影響を与えたと論じられると、そうだったのか、と目を開かされる思い。

それから、ヴィトケーヴィチの作品「小さな館で」と「狂人と尼僧」が翻訳されているということも知ることができて、まさに思わぬ収穫。

ポーロンド文学と日本文学との比較研究が現在どれほど進んでいるのか残念ながらぼくは知らないのですが、ポーランド語のできる人は、是非ともこういう分野で活躍してほしいですね。と、勝手なことを放言する。まあぼくもポーランド語は読めないわけではないのですが・・・と思ったけど、もうほぼ完全に忘れているな・・・

黄昏の時代にフィクションを読む少女

2011-11-06 15:42:07 | 音楽
「古いSF映画」ですが、これ、すばらしい。多層的で多義的な映像と歌詞による圧倒的な迫力の世界。それでいてメロディは優しく荘厳で、歌声は祈りにも似ている。何やら古代の叙事詩の吟唱を聴いているような気持ちにさせられる。

さて、映像の世界観ですが、最初に多層的で多義的と書きましたが、ぼくはこんなふうに解釈しました。まず、世界は大きく4層に分かれている。簡単に言えば、「夏を待っていました」の世界と「クリスマス」の世界と「アノミー」の世界と「古いSF映画」の世界。「アノミー」と「古いSF映画」の世界は繋がっていて、前者は地下シェルター、後者は地上であり、共に何らかのカタストロフィ後の世界。そして「クリスマス」は現実・現代の世界であり、物語=フィクションでそれら「アノミー」と「古いSF映画」の世界のことを知っている。つまり、「アノミー」と「古いSF映画」は一つのフィクションで、「クリスマス」はそれに対応した現実、あるいはそれを客観視した現実。「夏を待っていました」は、テルテル坊主のいる世界で、たぶん時間を超越した世界。

何か大きな事件が起きて地上は荒廃し、生き残った人々は8万平方キロメートルの地下シェルターへ避難。長い年月が経ち、人口の半分はアンドロイドになっている。治安維持もなく、荒んだ世界。地上には青空が広がるが、瓦礫の山がうずたかく積もっている。

そんな昔話を本で読む少女。薄暗い窓外では雪がしんしんと降っている。しかし突然襲来する得体の知れない兵器。フィクションはあくまでフィクションだと思っていたけれども、破滅は現実にも起こりうるのだということを知る。

このとき繋がる「クリスマス」と「アノミー」と「古いSF映画」の世界。どこからか飛来するテルテル坊主は世界の破滅を食い止めようとしているのか。「アノミー」では既にその力を失っているが、「クリスマス」では兵器をも凌ぐほどの力を有している。

「アノミー」で上空から垂れ下がるロープが通じる先は、果たして地上なのか、それとも「クリスマス」の現実世界なのか。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

こんな感じの妄想に属するぼくの空想ですが、当たっているとか外れているとかはもはやどうでもよくて、とにかく豊かな世界観に触発されてしまったのです。

それにしても、これほどの映像をバックにしても色褪せないどころか尚一層その切実さを増す歌詞の深みと豊饒さ、そして歌声の力強さと優しさにはただただ驚嘆するばかり。ときに祈りをあげるように静謐で、ときに荒々しく叫ぶ歌声。amazarashi史上随一の名曲が誕生した。

バルト海の奇妙な果実

2011-11-04 22:58:01 | アニメーション
阿佐ヶ谷でバルト三国のアニメーションやります。

http://www.laputa-jp.com/school/balt_screening/

これはこれで楽しみなのですが、昼間に言及した「古いSF映画」に今は夢中。



僕らが信じる真実は 誰かの創作かもしれない 僕らが見てるこの世界は 誰かの悪意かもしれない
人が人である理由が 人の中にしかないのなら 明け渡してはいけない場所 それを心と呼ぶんでしょ
僕らが愛した故郷が 殺されてしまうかもしれない 僕らが待ってた未来は 誰かの筋書きかもしれない
人が人である理由が 人の中にしかないのなら 受け入れてはいけない事 それは君自身が決めなきゃ



これって名作ではないですか。このサビの部分、メロディがとても美しい。
amazarashi、これはちょっと、もしかするともしかしますね。爆発的に人気が出るかも。
MVも、今までの物語が何か繋がってくる感じ。

サビの部分の歌詞だけ読んでもたぶんこの歌の素晴らしさは分かってもらえない。じゃあどうして引用するんだと半畳を入れられそうですけれども、そうせざるを得ないほど惚れ込みました。明らかに原発問題を想定して書かれている歌詞なのですが(秋田氏自身も震災の影響を認めている)、これは・・・。「古いSF映画に仮託して原発反対を叫ぶ」とかそういう薄っぺらい解釈では追いつけないですよ。もっと深い、というか、もっと豊か。そう、何か豊饒な世界観がある。そして、果てしなく優しい。

爆発的増加

2011-11-03 23:17:44 | Weblog
ブログの編集画面を開いた瞬間、目を疑いました。訪問者数が968IPで、順位が374位だって!?そんなアホな。

何か特別なことを書いた記憶はないのですが、訪問者数が爆発的に増加。明日には激減すると思われますが、ともかく不思議。ひょっとして、古本まつりというキーワードにひっかかったのかなあ。アクセス解析ができないので分かりませんが、ポニョについて書いたときだってこんなには増えなかったぞ。

まあ、いい。ブログは淡々と続けるだけ。

理解したい

2011-11-02 22:04:49 | Weblog
昨日はブログを更新してすぐにネットが使えなくなり、困った思いをしましたが、幸い解消しました。以前も同じことがあったのですが、どうやらモデムの不具合らしい。

さて。
夕刻に月を見ていて、こんなことをふと思いました。「君はどこかでだれかとこの月を見ているのだろうか?・・・ぼくはここにいるよ」。

「ここにいるよ」というのは『ほしのこえ』にも登場する有名な台詞ですけれども、「ぼく(私)はここにいるよ」というメッセージの切実さを、実はぼくはあまり理解できていないような気がしています。ときどき分かったような気になることもあるのですが、でもたぶんぼくは十全に理解していない。

昔、中学生日記のスペシャルで放送されたドラマ最後のシーンで、野球の強豪チームに入学するピッチャーに対し、女房役のキャッチャーが「おれはここを守る」と言ってホームベースでミットを構えた姿が、ぼくは長い間忘れられないでいます。いわば親友の出世を祝うばかりでなく、もちろん妬まず、自分は自分のやることをやる、という姿勢に感銘を受けました。

『ほしのこえ』にも衝撃を受けたわけですが、恐らくぼくにとって、「ぼくはここにいる」というメッセージは、何か強烈に訴えかけるものがあるのでしょう。でも、それがなぜなのかがよく分かりません。それがどういう意味を持っているのかさえぼくにはよく分かりません。

二人の間に強い絆があって、一人はどこか遠くで何かに励んでいる。一方で自分はと言えば、元の場所に留まり続けている。そういう前提で発せられる、「ぼくはここにいるよ」というメッセージ。

駄目だ、今のぼくには分からない。多くのことがぼくには分からない。小難しい政治や経済は必ずしも知りたいとは思わないけれども、人間の感情の機微は、理解したいと思う。それこそ、教室の黒板消しのにおいとか、夜中のコンビニの安心する感じとか、そういうものをぼくは大切にしたい。それらがどうして郷愁を誘うのか、どうして心地よいのか、どんなふうに心地よいのか、切実な感情の思いがけない流露みたいなものを、どうにかして理解したいと思う。それさえ分かったら、それさえ分かったらねえ。

古本まつり その他の行事

2011-11-01 21:03:09 | 本一般
いま、神田古本まつりが神保町で開催中でして、11月3日の文化の日までやっているのですが、今年は行こうかどうか迷い中。というのも、風邪で咳が出るようになったので、菌をまき散らしに行くのもいかがなものかと。自分も辛いし。平熱なので体は別にしんどくはないのですが、どうしようかなあ。

秋の恒例行事は他にもありまして、一つは酉の市。今年は三回あるみたいで、その最初が明日(今夜新宿では前夜祭だそうです)。

あとは紅葉狩りかなあ(でも、どこへ?)。

計画を立てたり現地の様子を夢想するのは楽しいですが、実現しなさそうだなあ。

あとあっちに行ったりこっちに行ったりしたいけど、なかなか難しそう・・・。
どうか色んなことがよい方に転がってくれますように。