Light in June

文学やアニメ、毎日の生活についての日記。

CLANNAD 劇場版

2008-12-01 00:44:22 | アニメーション
CLANNADの劇場版を観ました。これは、たぶん既に誰かが絶対に言っているとは思うのですが、あえて言わせてもらうと、「あしたのCLANNAD」です。『あしたのジョー』とかけているわけですが、どういうことかというと、監督がどちらも出崎統なんですね。で、このクラナドは、出崎色が出すぎ。あの有名な劇画タッチの止め絵の多用など、いかにも出崎統で、クラナドが出崎色に塗り込められている…。やさぐれている朋也なんかは、ジョーかよっ!とツッコミたくなるほど。

ところで、朋也って聖司君に似ている(顔が)と思っているのはぼくだけでしょうか?あの前髪に聖司君を感じてしまうのですが。

劇場版はテレビ版と基本は同じなのですが、でもかなり違ってもいて、例えば演劇部再結成の過程とか、芝居をする時期とか。ことみなどの主要キャラの登場シーンも限られている。特にことみは演劇部に入らず、なぜか合唱部でタクトを振っている。演劇部に入るのは渚と朋也の他には春原だけ。

芝居をし終えた渚に、いきなり抱きついて「好きだ」と告白する朋也には、感動するというより笑ってしまいました。ちょっと急すぎるだろ、と。幻想世界は朋也と渚の夢ということになっていて、渚が自分と同じ夢を見ていたことを知った朋也は感極まってしまって告白するわけですが、ちょっとなあ。

それと、肝心な絵ですが、出来が悪いなあ、と思ってしまいました。動きがどうこうではなく、そもそものデザインがよくない。キャラクターデザインが悪いのかどうかよく分からないのですが、ちょっと下手さがありますよね。洗練されてない、というか。特に女子。少なくとも、渚は京都アニメーション版の方がかわいいですね。

テレビでは、先週、急展開しましたね。急展開というか、一気に時間が流れたというか。もう卒業しちゃったよ!と。病気の渚が死んでしまったら、ぼくはもう本当に泣いてしまいますよ。風子のエピソードで涙をこぼしたぼくです、渚の死には耐えられそうもありません。でももしそうなったら、力石のときのように、現実世界でお通夜をしたいです。しかしこれから渚、どうなるのでしょうか。

ヒロインの病気、死、といった設定や筋書きは、いかにもお涙頂戴風で、しかも陳腐なのですが、やっぱり演出で全てが決定されますね。どんなに陳腐でも、いいものはいいんだ。死や病気をたくさん道具として用いるのはタブーなのだろうと思いますし、それはあまりにも安易でまた馬鹿馬鹿しいことでもあるのですが、しかしその死や病気をきっちりと描く、掘り下げて描くことで、単なる「便利な道具」という立場を返上できるんですね。テレビの話です。

ところで、今日はゴーゴリの『死せる魂』について書こうと思ったのですが、いきなり脱線してしまいました。いま授業でロシア語で読んでいるところなんですよね。よし、明日か明後日に書こう。


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