けろっぴぃの日記

最近、政治のことをはじめとして目を覆いたくなるような現状が多々あります。小さな力ですが、意見を発信しようと思います。

今更ながらの安保法制の論点の切り分け~その1~

2015-10-03 22:15:56 | 政治
今更ながらの話題であるが、これまでの反省の意味を込めて、安保法制についての「議論の仕方」の私なりの整理してみたい。

まず第1に重要なのは、論点を切り分けることである。その論点とは、大きくは(A)安保法制の合憲性に関する議論、(B)安保法制におけるリスクの考え方、(C)安保法制における歯止めのかけ方、の3点である。更にもう一つの切り口として、(1)集団的自衛権に関する議論、(2)集団的安全保障に関する議論、の二つがある。これらの組み合わせで3×2のマトリックスを作れるが、ある部分は共通の議論になるかも知れない。その辺は整理して順番に議論すべきである。

なお、書いていたらそれなりの量になりそうなことが分かったので、今日はその一部のみを書き、続きは明日以降にしたい。まずは(A)と(1)の組み合わせについて・・・。

(A-1) 安保法制の合憲性に関する議論 [集団的自衛権の場合]
まず、先日のブログにも書いたが、砂川判決のポイントは、最高裁は高度に政治的な議題に対しては行為統治論を採用し、仮にそこで議論が分かれる様なことがあっても、「一見してきわめて明白に違憲無効と認められない」法案や行為は「違憲」とは見なさないことを宣言している。これは判例として現時点では確立された認識なのだと思う。共産党ですら、この認識は否定できないだろう。上述の論点(B)のリスクとは、安全保障上のリスクを議論しているのだが、多分、共産党などの主張は「判例としては確立しているが、これだけ憲法学者がNoと言っているのだから、違憲立法の判決が出てもおかしくはない。そのリスクは(仮に小さくても)無視できないはずだ!」という、違憲審査上のリスクを主張しているのだと思う。そのリスクはゼロではないのは明らかだが、「リスク・マネージメント」の観点からは、様々な選択肢にリスクもあればメリットもあり、その選択肢を選択した場合のリスクに加えて、選択しない場合のリスクも考えなければならない。その様なリスクを総合的に判断をする権限は、憲法上、その時の政府に与えられており、国家・国民の利益に照らし合わせて最良の判断をすることが義務付けられている。これまでにも行政側の「不作為の罪」が問われた例は腐るほどある訳で、適切な判断を下さないリスクの罪が問われる以上、価値判断が分かれる状況であっても、時の政府が必要不可欠と判断するのであれば、「違憲判決」のリスクよりも重い「不作為のリスク」の回避を選択する権限は政府にあるはずである。とすれば、「違憲」を理由に法案廃棄を主張するのであれば、判断が分かれないほどの「一見してきわめて明白に違憲無効と認められる」理由を説明し、その主張の反論に対して丁寧に論破することをすべきである。現在の状況は、反対派は「政府が俺たちを納得させないから悪い!」というスタンスだが、それは「安保法制の必要性」の議論に関する話であり、「安保法制の違憲性」を主張するのが反対派ならば、「一見してきわめて明白に違憲無効と認められる」理由の説明責任は反対派側にある。

その点をはき違えてはいけない。

次に、次の議論に行く前に例え話をさせて頂きたい。次の様なケースをイメージして欲しい。ある人が、他人の物を盗んだとする。これは窃盗罪である。しかし、「あの人の物を盗みました」と言えば窃盗罪が成立するが、「あの人の物を、拝借しただけです」と言えば罪に問われないなどという話は有り得ない。犯罪行為とは、その行為そのものの犯罪性を問うのであって、その行為を説明する表現の仕方で有罪/無罪が変わるなどということはいうことは有り得ない。即ち、明文化された法律があるなら、その法律に照らした違法性の有無は、その行為自体によって判断されるべきである。しかし、その様な法律とは異なり、ある種のコンセンサスで成り立っている事柄は、そのコンセンサスを崩す様な行動は周りの者から受け入れられない。例えば、会社の寮の同僚同士で車が必要になり、みんなでお金を出し合ってカー・シェアリングをすることになったとする。しかし、忙しくて中々車を使う機会がない同僚に対し、一人だけ頻繁にその車を使う機会がある者がいたとする。コンセンサスとして、他の人が使っていない時には使う権限を認められているので、カー・シェアリングとして利用している分には構わない。しかし、その人が他の人に「(実質的に)あの車は俺の物だよ!」などと豪語しまくっていたら、そのコンセンサスは崩れてしまう。ひとつの行為に対し、他の人が広く認める説明をする限りにおいては、その権限は広く認められるのだろうが、到底認められないような説明をし出したら、その後に大きなトラブルが発生するリスクを回避する為、仲間外れにされても致し方ない。

これは何のことを言っているかと言えば、憲法に照らして合憲か違憲かの議論は、その行為の中身によって議論されるべきで、その行為が合憲であるならば、その行為の呼び方(説明の仕方)を変えたところで合憲/違憲の判断結果に影響を及ぼすのは非論理的である。まず確認したいのは、例えば最近話題になっている通り、民主党の岡田代表は朝鮮半島有事の際に、日本海の公海上で米軍の艦船が北朝鮮からミサイル攻撃された際に、その時近くにいた自衛隊の艦船が防御の為にミサイルを迎撃するのは許されるべきであると発言している。櫻井よしこ氏がNHKで発言し、民主党が発言取り消し要求を求め、それに櫻井氏が反論し、更に民主党が再反論しているが、このやり取りの中でも民主党の公式見解は「その行動自体は認めるべき」「ただし、呼び方は集団的自衛権より個別的自衛権が良い」とのスタンスに立っている。しかし、これは明文化された憲法に関する議論だから、同じ行動に対して呼び方を変えたら合法で、別の呼び方だと違法になるというのは論理的に破綻している。前回の民主党の代表選でも散々、岡田代表はこの様に説明しており、行動自体に問題がない事は何度も認めている。同様のことは、維新の党でも言えるはずである。以前、日本維新の党と結の党が合併する際にも、橋下大阪市長は「集団的自衛権」に賛成で、江田憲次元代表は「集団的自衛権ではなく個別的自衛権で対応」すべしとして、集団的自衛権には反対して対立していたが、両党の議員の説明では「中身的には意見は一致している」から問題ないとしていた。つまり、行動を基準にすれば両党で差がなく、あくまで呼び方のみが違うという説明だった。であるとすれば、「集団的自衛権が違憲である」から安保法案反対というのは論理的に破綻している。さらに言えば、国際法として集団的自衛権も個別的自衛権も認められているが、個別的自衛権の範囲が何処までかというのはコンセンサスベースでしか共通認識は得られていない。そのコンセンサスとしては、「ほとんどすべての戦争は、自衛の名のもとの個別的自衛権の拡大解釈から始まったので、個別的自衛権は極めて抑制的に実施されるべきである。一方、緊急避難的状況で、複数の国家の同意のもとで集団的自衛権を行使することは認められている。つまり、「これは、カーシェアリングで借りてる車だよ!」と言って車を(集団的自衛権と同様に)他の人との合意のもとでの利用ならば認めるが、「この車は俺様のものだ!」と言って車を(個別的自衛権と同様に)俺様のみの勝手な言いっぷりで独占しようとしていれば、それは認められないという話になる。国際的には、集団的自衛権という説明なら納得するが、個別的自衛権との説明だと納得できないという考え方が一般的なのである。だから、政府は個別的自衛権の拡大解釈という見方を明確に否定しているのである。

結論としては、行為としては何処までが合憲かを明確にし、そこまでは法的整備をきっちりやるべきであることを国民として認識すべきことと、その法的整備の対象である行動の呼び方を、国際的なコンセンサスに照らして適切に呼ぶことを、我々はもっと冷静に話し合わなければならない。

なお、集団的安全保障的な視点では、何処までが許されるべき行動かについての民主党、維新の党などの共通の認識は現時点では出来上がっていない様に感じる。この点は、後述する議論となる。

・・・続く・・・

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