けろっぴぃの日記

最近、政治のことをはじめとして目を覆いたくなるような現状が多々あります。小さな力ですが、意見を発信しようと思います。

公明党と結の党に聞いてみたい、集団的自衛権の大きな論点

2014-05-30 00:57:13 | 政治
集団的自衛権の議論が盛り上がっている。様々な報道番組などでも議論は白熱しているが、しかし如何せん、論点が噛みあっていないような気がする。その最も本質ともいえる部分を今日は問題提起してみたい。私が答えを持っているというのではなく、あくまでも問題提起である。是非とも公明党、結の党の責任者には答えを出して頂きたいと思う。

その問題を述べる前に、公明党と結の党に共通するものの考え方を先に整理してみたい。

まず今回、安倍総理は手段的自衛権や集団的安全保障及びグレーゾーン事態に関する15事例を示した。それ以前にも、、第1次安倍政権時代に集団的自衛権に関する検討のための諮問機関「安保法制懇」の有識者が典型的な4類型を示していた。「集団的自衛権の突っ込んだ議論の整理」でも議論したが、公海上の米艦船に攻撃が及んだ場合、その近くにいる自衛隊の艦船が共同で反撃できるかという点が分かり易く、その米艦船が日本の防衛上、何らかのかかわりがあって展開しているなどの条件は必要なのだろうが、その際には個別的自衛権の拡張で米軍の防御のために自衛隊も反撃できるという立場がある。これは結の党の江田代表などは繰り返し主張していることで、集団的自衛権の限定容認を主張する日本維新の会との間で大きなギャップとなって存在する。しかし、テレビなどで江田代表が何説いているかと言えば、「やるべきことは同じなのだから、仮に日本維新の会と結の党が政権与党になり、連立政権を組むことになっても政策上の対立という問題にはならないと主張する。公明党も同様で、先ほどの類型に対しては、個別的自衛権で対応できるから、敢えて集団的自衛権を持ち出す必要などどこにもないと主張する。

そこで、私の疑問である。

現実の政治とは、喫緊の危機に対して現実的な対応を求められるのだから、決して「言葉遊び」で議論を煙に巻くようなことはあってはならない。だから、安倍総理の15事例に捕らわれず、個別の事例について、集団的自衛権か個別的自衛権かの議論は横に置き、それが自衛隊の活動として許されるのか否かは先に判断されるべきである。何故なら、「集団的自衛権」という言葉がもつ範囲があるとすればその範囲が何処までで、何が許されて何が許されないのかが分からないと、「集団的自衛権」という言葉でくくって良いのかどうかが分かり難いのだが、その範囲が何処までとは関係なくピンポイントで「この事例」と明言されれば、その事例は自衛隊が行動して良いパターンか否かは100倍も議論がし易いからである。先の米軍の防衛に関しては、若干の条件付きかも知れないが、結の党も公明党も「自衛隊は米軍を警護するために武力行使することが許される」との判断であった。

しかし、ここまでの議論を整理した後で、「では、武力行使が許されるとして、それを『個別的自衛権の拡張』と呼ぶのと『集団的自衛権』と呼ぶのとで、どちらの方が国際社会にとって妥当なのか?」という問いかけをするならば、それは特に外国の専門家の方々にでも聞けば答えが出るはずで、日本国内での思い込みの議論をするよりも議論は単純化するはずである。そもそも憲法9条には集団的自衛権も書かれていなければ個別的自衛権も書かれていない。だから、前述の結の党、公明党が「自衛隊の武力行使が許される」と判断するケースにおいて、それが「個別的自衛権の拡張」か「集団的自衛権」のどちらに該当するかは幾ら憲法9条をひっくり返して読んでも答えなど出るはずもない。国内の議論はどちらにしてもバイアスがかかっていて、どの意見がニュートラルなのかが分かり難い。であれば、アメリカや欧州諸国の軍事専門家にでも聞いてみて、後から「個別的自衛権」か「集団的自衛権」を決めれば良い話である。
何故この様に言うのかと言えば、テレビの報道では恣意的に「集団的自衛権」は「悪」で、「個別的自衛権」は「善」だという風潮があるが、これは森本前防衛大臣も指摘しているが、第2次世界大戦の大日本帝国のアジア諸国への侵略は、個別的自衛権の拡張という位置づけで正当化されていたからである。多分、中国が最近行っている覇権主義にしても、彼らは「どの国もが個別にもっているはずの固有の権利」と主張しているのであるが、しかし、誰が見てもそれは「権利の拡大解釈」でしかない。つまり、「個別的自衛権」であれば拡大解釈しても誰も諸外国は責めたりしないなどと言うのは大いなる勘違いである。一方で、集団的自衛権の考え方に関するコンセンサスは出来上がりつつあるから、拡大解釈などを伴わない通常の集団的自衛権の枠内で議論が閉じる「集団的自衛権」を根拠にする議論は、多分、多くの諸外国は違和感を持たずに受け入れてくれる公算が大である。

だから最初の質問は、どうしてこの様なプロセスで議論をしないのかということを説いたい。つまり、個別の事態に「集団的自衛権」と「個別的自衛権」のフィルターをかけずに「必要最小限の武力行使」の範疇にあるのか否かを判断し、その判断の説明に「集団的自衛権」と「個別的自衛権」のどちらの説明を用いるのが妥当なのかを後から考えるというプロセスである。この辺を説明することなしに、言葉遊びに終始するのは止めて頂きたいものである。

ところで、もうひとつ疑問があるので追加させて頂く。話を戻せば、「自衛隊の武力行使が許される」か「許されない」かの判断は、憲法9条に照らして判断されるべきである。ここで重要なのは、結の党も公明党も「自衛隊の武力行使が許される」と認めてこそいるが、それは明らかに日本の艦船が攻撃されていないのだから、それにも拘らず反撃が許される理由はただ一つしかない。それは、憲法9条のもとで自衛隊の存在が違憲と判断されない理由と同一であり、「国を守るための必要最小限」の武力行使の範疇と見なしているからである。しかし、安保法制懇がこの様な類型を挙げて議論するには理由があり、少なくともそれまでの政府の見解では「直接攻撃がない以上、それは『国を守るための必要最小限の武力行使』とは言えない」という判断をしていたはずである。つまり、これまでは「個別的自衛権の範囲ではない」ものを、これからは「個別的自衛権の範囲内」と変更しようというのだから、それは憲法9条に対する「必要最小限の武力行使」に関する政府見解をオフィシャルに変更することを意味する。これまでの日本政府の立場は、「集団的自衛権の定義」を明確にすることなく、漠然とした集団的自衛権を「必要最小限の武力行使」の外側に置いていたが、その「集団的自衛権の定義」を明確にして、その一部分が「必要最小限の武力行使」の内側に該当すると説明し、これが憲法の解釈改憲だと批判されている。しかしそれならば、「この戦闘行為は、個別的自衛権の範疇から外れ、憲法違反である」という行為を「憲法上、個別的自衛権の範疇であり許される」と考えを改めることは、これは憲法の解釈改憲に当たらないのかを教えて欲しい。勿論、論理的な説明とセットでの話である。常識的に考えれば、これも憲法の解釈改憲に該当しないはずはないから、「集団的自衛権」というキーワードを用いた解釈改憲はNGだが、「個別的自衛権」というキーワードならOKという説明は、論理的に破綻している。多分、この様な説明をしていると論理的な説明が出来なくなり、結果的に最初の議論に立ち戻り、個別の事態を是々非々で判断し、その背景の論理武装は後からで良いという話になるはずである。

何故か、この様な論点については誰も議論しようとはしない。誰もが、相手の攻め易い場所ばかりを狙ってきて、本質的な「そもそも論」に戻ろうとしない。しかし、折角、論点を明らかにしたのだから、もっと本気で議論をするべきである。

まずは結の党と公明党に、この辺の見解を聞いてみたいところである。

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