NHK Eテレビで「日本仏教の歩み」再放送
竹村牧男先生のテレビが再放送になっています。 ぜひ、ご覧ください。
http://blog.canpan.info/jitou/archive/3140
こちらでご紹介しました。
言い足りなかったことを加えたいと思います。
常住の大悲
第1回で、先生は「大悲」について、繰り返し強調されました。
「初めに大悲ありき」
「常住の大悲」
すべての人の心の根底で、救済の働きが起きているのです。 常に仏性、絶対無が働いている。 一瞬一瞬、絶対的に苦、自己、世界が否定されています。自我の死、苦の消滅、救済されているのです。 そして、絶対無は、自己、世界、苦楽、様々なもの、「有」に分節します。世界の創造です。これが、悟りで自覚するありさまです。自己、世界のすべてが絶対無の現成です。
それを知らずに、苦悩します。いつも、絶対者からの救済、大悲がきているのに気がつかない。
「維摩経義疏」でも、これを次のようにいっていると、紹介されました。
「大悲やむときなし」
「衆生の在る所至らずという所なし」
すべての人の根底にあるのです。このブログをご覧になっているあなたにもです。常に、自己の根底で世界の否定と世界の創造が繰り返されている。自己は絶対と一つである。 西田幾多郎博士は、自己は創造的世界の創造的要素といいます。
禅僧はこれを自覚するために修行したのです。坐禅や念仏がありました。ただ、公案や坐禅をもちいる方法は在家には不利ですので、西田幾多郎博士は、別の方法を期待しました。独断を捨てて見、独断を捨てて考え、独断を捨てて働く(行為する)と、自覚できるとされました。
私たちは、出家ではないので、家族の中で職場で、これを実践していかねばなりません。現代の日本的マインドフルネスです。意志作用のマインドフルネスを実践し、さらに行為的直観を実践していく。家族の中、職場で、独断を捨てて見、独断を捨てて考え、独断を捨てて行為する(これを西田博士は「至誠」という。竹村先生も日本仏教に至誠心があったことを浮き彫りにしておられます)生活を送る。そうすると、絶対無、絶対有の現成の体験が起きる。すると、意識的自己が消えて、絶対と一つの自覚を得て、社会のために働く、それを西田哲学では、創造的直観といいます。
竹村牧男先生は、この6回でいつも、この根底の核心から説明していかれます。実践は、世界の立場からですから「至誠」です。自己の独断でない立場、広く深い立場から見、考え、行為する。 無評価とは違います。
西田博士は、従来のもの(公案、坐禅)は、家庭、職場のただなかで、活用されないので現代人向きでないと批判しました。聖徳太子が、静かなところで坐禅するのを批判したのと類似する問題点です。大切なことは、形でなく内面でしょう。独断を捨てて見、独断を捨てて考え、独断を捨てて行為すること。すると根底にあるものが働くわけです。いつか、自己の根底に働く大悲の現場に遭遇するのです。マインドフルネスは「正念」「観察」「気づき」です。感覚、動作だけでなく、社会貢献できる価値、そして、自己、他者、社会を傷つける独断、偏見も観察します。
この竹村先生のテレビ放送はすべての仏教者、仏教学者、マインドフルネス者が見て、深く検討してほしいと思います。
竹村牧男先生のテレビが再放送になっています。 ぜひ、ご覧ください。
http://blog.canpan.info/jitou/archive/3140
こちらでご紹介しました。
言い足りなかったことを加えたいと思います。
常住の大悲
第1回で、先生は「大悲」について、繰り返し強調されました。
「初めに大悲ありき」
「常住の大悲」
すべての人の心の根底で、救済の働きが起きているのです。 常に仏性、絶対無が働いている。 一瞬一瞬、絶対的に苦、自己、世界が否定されています。自我の死、苦の消滅、救済されているのです。 そして、絶対無は、自己、世界、苦楽、様々なもの、「有」に分節します。世界の創造です。これが、悟りで自覚するありさまです。自己、世界のすべてが絶対無の現成です。
それを知らずに、苦悩します。いつも、絶対者からの救済、大悲がきているのに気がつかない。
「維摩経義疏」でも、これを次のようにいっていると、紹介されました。
「大悲やむときなし」
「衆生の在る所至らずという所なし」
すべての人の根底にあるのです。このブログをご覧になっているあなたにもです。常に、自己の根底で世界の否定と世界の創造が繰り返されている。自己は絶対と一つである。 西田幾多郎博士は、自己は創造的世界の創造的要素といいます。
禅僧はこれを自覚するために修行したのです。坐禅や念仏がありました。ただ、公案や坐禅をもちいる方法は在家には不利ですので、西田幾多郎博士は、別の方法を期待しました。独断を捨てて見、独断を捨てて考え、独断を捨てて働く(行為する)と、自覚できるとされました。
私たちは、出家ではないので、家族の中で職場で、これを実践していかねばなりません。現代の日本的マインドフルネスです。意志作用のマインドフルネスを実践し、さらに行為的直観を実践していく。家族の中、職場で、独断を捨てて見、独断を捨てて考え、独断を捨てて行為する(これを西田博士は「至誠」という。竹村先生も日本仏教に至誠心があったことを浮き彫りにしておられます)生活を送る。そうすると、絶対無、絶対有の現成の体験が起きる。すると、意識的自己が消えて、絶対と一つの自覚を得て、社会のために働く、それを西田哲学では、創造的直観といいます。
竹村牧男先生は、この6回でいつも、この根底の核心から説明していかれます。実践は、世界の立場からですから「至誠」です。自己の独断でない立場、広く深い立場から見、考え、行為する。 無評価とは違います。
西田博士は、従来のもの(公案、坐禅)は、家庭、職場のただなかで、活用されないので現代人向きでないと批判しました。聖徳太子が、静かなところで坐禅するのを批判したのと類似する問題点です。大切なことは、形でなく内面でしょう。独断を捨てて見、独断を捨てて考え、独断を捨てて行為すること。すると根底にあるものが働くわけです。いつか、自己の根底に働く大悲の現場に遭遇するのです。マインドフルネスは「正念」「観察」「気づき」です。感覚、動作だけでなく、社会貢献できる価値、そして、自己、他者、社会を傷つける独断、偏見も観察します。
この竹村先生のテレビ放送はすべての仏教者、仏教学者、マインドフルネス者が見て、深く検討してほしいと思います。