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「一身にして二生を経るが如く、一人にして両身あるが如し」

第三の新人(1953年)

2012年12月30日 | 日本文学

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  • 評論家・山本健吉の評論「第三の新人」(1953年)をきっかけに、当時純文学を書いていた安岡、吉行らの同世代の作家を総称して呼ぶようになった。1953年の安岡を皮切りに吉行、庄野潤三、遠藤周作らが次々と芥川賞を受賞し、文壇の中でも一つの勢力と見られるようになった。

    評論家が付けたレッテルであり、個々の作風にも一貫した厳密な定義があるわけではなかったが、概して私小説的な作品が多く、非政治的で小さくまとまった傾向がしばしば非難の対象になった。しかし後に戦後文学史上の用語として定着した。

    一般に第三の新人らの作品は、日常の中の人間性を描く事に焦点を当てており、一応私小説の系譜に連なっている。第一次・第二次戦後派作家(野間宏、大岡昇平ら)は苦しい戦争体験を直接持ち、極限状態における人間を見つめる視点から作品発表を始め、

    1. 『政治』と『文学』に対する問題意識
    2. 実存主義的傾向
    3. リアリズムと私小説否定

    といった傾向が見られるのに対し、第三の新人にこうした視点はほぼ皆無である。

    当時、第三の新人は次々に芥川賞を受賞したが、芥川賞が現在のように華々しい存在となったのは、1955年後期に受賞した石原慎太郎以降である(遠藤周作は同年の前期受賞)。第三の新人は文壇からおよそ期待はされていなかったし、石原をはじめ、大江健三郎開高健北杜夫などの有力多彩な新人がこの世代に続いて現れたため、第三の新人は戦後派と石原らの狭間で、埋もれていってしまうような存在と見られていた(第三という言葉にも、やや軽く見る語感がある)。吉行らもそうした評価に、ことさら声を大にして反発するでもなく、自分たちの文学を地道に築き上げていった。サイデンステッカーの否定的なコメントにも、「サイザンスカ(左様でございますか)」などと揶揄して、軽く受け流すなど、大仰な振る舞いを嫌った雰囲気がある。その後、世相も変わってか、次第に第三の新人の作風も評価されるようになる。その裏には、文芸雑誌『群像』の鬼編集長・大久保房男の働きかけも大きく、短編小説ばかり書く吉行、安岡らに、長編を書くことを強く勧めるなど、彼らのよき理解者もいた。

  • 安岡章太郎(1920-    )
  • 1951年 『ガラスの靴』で作家デビュー。同作は第25回芥川賞の候補となる
  • 1952年 『宿題』で第27回芥川賞候補、『愛玩』で第28回芥川賞候補となる
  • 1953年 『悪い仲間』・『陰気な愉しみ』にて第29回芥川賞を受賞
  • 1954年 結婚。
  • 1960年海辺の光景』で芸術選奨野間文芸賞を受賞。ロックフェラー財団に招かれアメリカ留学。
  • 1967年 『幕が下りてから』で第21回毎日出版文化賞を受賞
  • 1974年 『走れトマホーク』で第25回読売文学賞小説賞を受賞
  • 1975年 第三十二回芸術院賞受賞
  • 1981年 『流離譚』で日本文学大賞を受賞
  • 1985年 三田文学会理事長となる。
  • 1988年 遠藤周作に影響を受けた結果、カトリックの洗礼を受ける
  • 1989年 『僕の昭和史』全3巻で野間文芸賞を受賞
  • 1991年 「伯父の墓地」で川端康成文学賞を受賞
  • 1992年 1950年代から現代文学にいたる業績で1991年度朝日賞を受賞
  • 1996年 『果てもない道中記』で第47回読売文学賞随筆・紀行賞を受賞
  • 2000年 『鏡川』で大佛次郎賞を受賞
  • 2001年 長年の文学活動により、文化功労者となる。
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