評論家・山本健吉の評論「第三の新人」(1953年)をきっかけに、当時純文学を書いていた安岡、吉行らの同世代の作家を総称して呼ぶようになった。1953年の安岡を皮切りに吉行、庄野潤三、遠藤周作らが次々と芥川賞を受賞し、文壇の中でも一つの勢力と見られるようになった。
評論家が付けたレッテルであり、個々の作風にも一貫した厳密な定義があるわけではなかったが、概して私小説的な作品が多く、非政治的で小さくまとまった傾向がしばしば非難の対象になった。しかし後に戦後文学史上の用語として定着した。
一般に第三の新人らの作品は、日常の中の人間性を描く事に焦点を当てており、一応私小説の系譜に連なっている。第一次・第二次戦後派作家(野間宏、大岡昇平ら)は苦しい戦争体験を直接持ち、極限状態における人間を見つめる視点から作品発表を始め、
- 『政治』と『文学』に対する問題意識
- 実存主義的傾向
- リアリズムと私小説否定
といった傾向が見られるのに対し、第三の新人にこうした視点はほぼ皆無である。
当時、第三の新人は次々に芥川賞を受賞したが、芥川賞が現在のように華々しい存在となったのは、1955年後期に受賞した石原慎太郎以降である(遠藤周作は同年の前期受賞)。第三の新人は文壇からおよそ期待はされていなかったし、石原をはじめ、大江健三郎、開高健、北杜夫などの有力多彩な新人がこの世代に続いて現れたため、第三の新人は戦後派と石原らの狭間で、埋もれていってしまうような存在と見られていた(第三という言葉にも、やや軽く見る語感がある)。吉行らもそうした評価に、ことさら声を大にして反発するでもなく、自分たちの文学を地道に築き上げていった。サイデンステッカーの否定的なコメントにも、「サイザンスカ(左様でございますか)」などと揶揄して、軽く受け流すなど、大仰な振る舞いを嫌った雰囲気がある。その後、世相も変わってか、次第に第三の新人の作風も評価されるようになる。その裏には、文芸雑誌『群像』の鬼編集長・大久保房男の働きかけも大きく、短編小説ばかり書く吉行、安岡らに、長編を書くことを強く勧めるなど、彼らのよき理解者もいた。