一身二生 「65年の人生と、これからの20年の人生をべつの形で生きてみたい。」

「一身にして二生を経るが如く、一人にして両身あるが如し」

西部邁

2019年06月24日 | 社会
西部先生は雑誌『表現者』の顧問として長年同誌に密に関与されたが、その商業的経営は極めて難路だったと聞く。実際に『表現者』の版元は二回も入れ替わった。

 TOKYO MXでは『表現者』と提携して毎週土曜日の朝『西部邁ゼミナール』を放送していた。先生が入水された後に、唐突に「西部、西部」と話題になったが、ネット空間では『西部邁ゼミナール』よりも、同じ局で夜に放送されている『ニュース女子』の話題に圧倒され、西部先生を全く顧みることは無かったばかりか、保守論客であることすら、よく知られていなかったのでは無いかと断じざるを得ない。先生が強烈な反米を志向していたことのみをどこかで聞きかじり、「西部は左翼」などと断定していた無知蒙昧の輩もいた。

 保守界隈の人々も、本当にここ最近の西部邁の本を購読し、雑誌を買っていたのか、大変疑わしい。要するに、「西部、西部」と言っておきながら、肝心の保守層は朝日新聞叩きに熱狂し、相も変わらず韓国と中国批判に執心し、沖縄の反基地運動家の策動に注視するばかりで、西部邁が何を言ってきた人で、また西部邁が現在何を言っているのかに、全然注意していなかった様に思える。

 よく言えば余りにも高尚すぎて「いつか読む」枠に入れていたか、悪く言えばその視界にすら入っていなかったのではないか。

 私は、『ニュース女子』が駄目で『西部邁ゼミナール』が良い、といっているわけでは無い。そして朝日新聞を批判するなと言っているわけでも無い。いや寧ろ社会の公器による誤報は糾されてしかるべきであろう。中国の軍拡は脅威では無いという方がおかしい。

 が、先生が入水されてから殊更「西部、西部」というのには違和感を感じる。本当に先生を賞賛するなら、生前からもっと西部邁の本や雑誌を買うべきでは無かったのか。出版不況や雑誌不況が言い訳になるとは到底思えない。書店で『表現者』が平積みでは無く、如何にもムックという扱いでその背表紙のみが陳列されていたのを観たとき、ふと虚しくなったのを覚えている。

 そこには「西部邁」と名前が書かれていたのに、みな素通りしていった。「西部邁」はすでに何年も前から大衆の視界に無かった、というのは些か礼を失し過ぎだろうか。しかし、私以上に熱心な西部先生のファンは、より強い義憤の感情を持ってもおかしくはないはずであろう。