再び原点回帰なり!

未熟なビジネスマンの心のつぶやき

社長の役割・条件とは?

2012-04-29 16:54:04 | チャット
先週、日経BP社主催のセミナーに初めて出席した。聴衆の対象者は、中小企業の経営者、特に社長である。

会場のホテル大宴会場が満席となるような盛況ぶりであり、実に多数の社長がいるものだと感心した。また、それだけ社長が日々の経営に不安と心配を抱えているからこその裏返しだとも思う。

セミナーのテーマは、「不安な時代に飛躍する『社長の条件』」であった。

講師には、大企業より2名の社長が出席し、それぞれの会社でのさまざまな取組みを紹介された。さすがに日本を代表する優良企業だけあり、各社長のお話にはそれなりの説得力はあった。ただし、どちらの社長も創業者ではなく、数代目の方であったので、その点ではある種の物足りなさも感じた。

こういう場合、どうしても自らの会社の状況に置き換えて話を聞くことになるが、やはり創業何十年と生き残ってきた大企業の話は、今の自分とは相当な距離感を感じざるを得ない。

今の自分の会社も十年、二十年後に生き残っていたとしたら、こうしたすばらしい大企業になっていて欲しいものだが、創業者としてそこへ行き着くまでの基盤をどう次の世代に残せるのか。この難問への答えにはなかなか出会えないものだ。

そんな問いに対する正解や一般解等あろうはずもないのであるが、何かしらの拠り所を求めたくなるものである。そのこと自体が自分の弱さかもしれないが。

創業期の社長の役割と条件とは?それは自分自身および現状との悪戦苦闘の中からしか、掴み取ることはできないと、十分に分かってはいるつもりであるが。

ただ社長という組織のリーダーとしては、その組織が大きかろうと弱小であろうとも、共通することがあることだけは、今回のセミナーで改めて確認できた。

社長の役割は、自ら率いる組織を常に変化させるための『決断』と、一旦、変化の方向性を決めたなら、あるところまでぶれることなく『実行』をすること。

そして、何よりもその決断と実行を支えるのは、社長の内面の『勇気』であり、そこにはゆるぎなき『信念』がなければならない。

このことだけは、組織の大小には関係なく、創業期であろうと、成長期であろうと、成熟期であろうと、成長し続ける企業のトップに求められる唯一無二の条件なのであろう。

「企業の成長は、社長の器で決まる」

この言葉は何度聞いても重いものである。



原発再稼働に想う

2012-04-21 10:42:04 | コラム
世間では関西電力の大飯原発の再稼働問題がかまびすしい。

政府の対応は、一見手順を踏んで進めているようではあるが、今夏の電力需給不足への応急的な対応姿勢が否めない。政府の再稼働止む無しという雰囲気が余計に地元のみならず国民の不信を生んでいるのだ。

また、地元という概念も、今までとはまったく異なるものとなっていることを知るべきではないか。もはや原発の問題は、立地自治体およびその県だけの問題ではない。

大飯原発の場合は、大飯町と福井県だけの問題ではなく、京都府や滋賀県、さらには琵琶湖の水を飲料水として使っている近畿圏一円の自治体が地元的な位置づけとなっている。

私はこのような地元の概念すらも、すでに間違っていると感じている。つまり、今や原発の問題は、日本国民全員が地元意識を持つべきであり、すでに持っている方がからに居るのではないか。

もっと言えば、世界の情勢では原発は必須となっている。特に、アジア等の新興国では、原発なしでは経済成長は望めない。もし、中国で原発事故が起これば、それは対岸の火事では済まされない。当然、黄砂以上に、日本にも大きな影響がある。

こう考えると、極東の小さな国の日本だけが脱原発をしたとしても、それで安全安心が確保できるというのは、あまりに島国根性極まれりではないだろうか。

だからこそ政府の対応は単に関西における地域的な対応から、一原発の再稼働を議論するべきではなく、むしろグローバルな視点を加味しつつ、日本国全体として再稼働に対するというよりも、原子力技術全体をどうしていくのかという議論を深めていき、早急に一つの方向性を出すべき時に至っている。

その上で国民の全員は無理にしても、その大半が納得できるのであれば、再稼働止む無しということにならざるを得ない。その場合、国民全体が原発のリスクを認知し受容し、今までとは違った仕組みで安全運転への監視を強めて行かねばならないことは当然である。

そのような前提に立った対応が今の政府にはできていないところに、大きな問題があるのではないか。

私は個人的には、消費税の問題や、ましてや大臣の資質の問題などよりも、もっと深刻かつ重要な問題だと思うのだが、今この問題に先頭に立って真正面から解決して行こうというリーダーが不在であることも、この国の不幸である。

まず大前提として、この国の長期的に明るい未来を冷静に考えた場合に、原発を再稼働させていくことは不可欠ではないのか。ただし、もう絶対にあんな悲惨な事故は起こしてはいけないのも当たり前である。その事故は、日本国内だけではなく、世界中の原発で起こしてはいけないのだ。

そのためには日本は何が必要で何をすべきなのか。身体を張ってこの国のエネルギー政策の根本を構築して行くリーダーを切望したい。そうでないと本当にこの国のみならず、地球全体の将来は暗いものとなる。

そして、われわれ日本国民は、このようなリーダーを支えていかなければならない。ただし、相当の反対は予想される。

今こそ、未来から「エネルギー・電力の鬼」とでも評されるような腹の据わったリーダー像が必須なのだが。



世界史への憧憬

2012-04-15 11:43:35 | チャット
「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」

この言葉は、社会主義を弾圧し、保護主義を採った政治家であるドイツの鉄血宰相ビスマルクの有名な言葉である。

ドイツ統一過程において、国民の意見が分かれていたとき、ドイツの統一が「鉄と血」のみによって成し遂げられるという国際政治の非情さを愚者は経験によってしか理解できないだろう、という意味だそうだ。

歴史は、特に世界史は、受験勉強時代の遥か昔から、唯一楽しいと感じた科目であった。それ以外の勉強は、なかなかおもしろいなどという境地に達することはなかったように思う。

目的のためには、通らなければならない道だ程度で、ある意味割り切っていたようにも思う。

ただ世界史の勉強だけは、そうではなく、新しいことを知るたびに、ある種の喜びを感じたものである。

なぜなのかと今頃になって考えてみると、ある特定の時代を想定すると、その瞬間には世界中でいろいろなことが同時に起こっており、そして世界全体の歴史を刻んでいく。その壮大さと奥深さ、そしてその歴史を記述することの難しさを想像すると、とても何かわくわくするような感じを得る。

一般的に歴史の教科書がおもしろくないのは、ある地域を限定して、そこで数百年間を説明し、その後に地域を変えて、また数百年さかのぼって記述がされる。いわゆる細切れによる分かりにくさが大きな原因ではないだろうか。

だからと言って、教科書のような書物として、どう書けばいいのかとなると、なかなか妙案がない。

古代から現代までの年表を広げて、年代を横軸に、縦に地域を設定すると、世界史のおもしろさが倍増する。これは受験の時に、テクニックとしてある先生がアドバイスしてくれたことでもある。

このような歴史の視座を与えられたことで、受験という功利的なことではなく、歴史への興味が変わったようにも思う。

1492年はコロンブスが新大陸(アメリカ)を発見した年、その年にヨーロッパでは何が起こっていたか、中国では、日本では、・・・・と見ていくと、へぇー、なるほどということが山積している。

この発見が歴史を知るおもしろさなのだ。ただ、それを試験のために記憶しようとすると、途端に興味が薄れるのかもしれない。

先日、日経の書籍紹介欄に「世界史(上下)」という文庫本が出た。思わず迷わずアマゾってしまった。

そうしたらなんとその書籍は、世界で40年以上にわたって読み続けられている本だそうで、どうやって世界の歴史全体をたった2冊900ページの文庫本に納められているのか。今からわくわくして読み始めたところである。

これで私も多少なりとも賢者に近づきたいものではあるが・・・・。




日経本誌への記事掲載

2012-04-08 11:30:55 | ニュース
日本経済新聞社の本誌に会社の活動として掲載されることは、原則として一部上場企業のみである。

昔、日経の記者からこういう原則論を聞いたことがある。

確かに日本を代表する経済新聞なのだから、経済的なインパクトの大小が記事掲載是非の大きな判断基準となることはある意味当たり前であろう。そうであれば、上場企業相当の大企業でなければ、なかなか日本経済にインパクトがある活動はできないものだ。

ただ最近では、必ずしも上場していない中小企業でも、おもしろく、ユニークな活動であれば、積極的に取り扱っていこうという方針転換は少し前からなされたらしい。

それでも、中小規模の企業がなかなか日経本誌で扱ってもらうことは難しい。ましてや、われわれのような創業4年足らずのベンチャーでは言うまでもない(添付記事参照)。

それがこの半月の間に、少なくとも当社の名前と活動が2回も登場した。このことは大変光栄であると素直に喜んでいる共に、この活動を新聞記者が取り扱ってくれるまでに具体化できた過程で、多くの方々や企業にお世話になったことを感謝したい。

今回、掲載された活動結果などは、私どものような弱小企業だけでは、とても達成できなかったのであり、たまたま多少ユニークなベンチャー企業ということが、大きく取り扱ってくれた理由であろう。

したがって、こうしたことに決して奢ることなく、むしろ謙虚に足下を見つめ直し、今後、掲載の栄誉に負けないような振る舞いをしていかなければならないと肝に銘じている。

そのためには、中小規模のベンチャーだからこそできる地道でかつ具体的な成果を一つ一つ積み上げていくことでしかない。身の丈を常に意識しつつ、ただ自らが弱小であることに臆することなく、一歩一歩かつ堂々と前に進む。

この姿勢だけは、これからもより一層堅持しつつ、仲間と一緒に歩んでいきたい。


「20120407.pdf」をダウンロード

「20120319vegliaesco.pdf」をダウンロード




新年度の始まり

2012-04-01 11:23:05 | コラム
明日から新年度が始まる。

新しく社会人になる若者が慣れないスーツ姿で闊歩する初々しい季節でもある。今年から、彼らの大半は平成生まれとなる。

平成元年は、1989年。日本経済が頂点を極めた年代でもある。

それから22年。日本が徐々に輝きを失いながら、衰退していく過程を経験した若者達でもある。

でも、今まであまり良くなかったということは、これから良くなっていく可能性もあるということ。そう前向きにとらえて欲しい。

そのためにわれわれ先輩達も努力し、若者の成長をサポートしていきたい。

彼らには、我々にはまったくない強みを持っている。それは第一にITリテラシーではないか。

インターネットやスマートフォンが当たり前の時代をコンピュータと共に育ってきたデジタル世代。やはり、まったくものの見方や考え方が、アナログ世代の我々とは異なるはずだ。

きっと新しい発想と共に、この国に新しいイノベーションを起こしてくれるであろう。そんな期待をしている。

そして、われわれ先輩世代は、未来に大きな可能性のある若者を否定することなく、大きく見守っていきたい。決して邪魔だけはしないように気をつけたい。きっと彼らはやってくれる。

ボストンで生まれた愚息も明日から社会人一年生。なんと駄目な奴だとついこの間まで思っていたのが、親ばかと言われるかもしれないが、結構、しっかりしてきた。そして最近、まったく違う発想と行動で時に驚きさえ覚えることがある。

近い将来、きっとこの父親を超えてくれることであろう。ただ簡単には超えられないように、また超えさせないよに、こちらもまだまだ頑張らねばならない。

それこそが、親が子供にすべき最後の務めかもしれない。むしろ子供にできる最後の贈り物かもしれない。

そのためにも、まずは自分自身の成長を期せねばならない。もう若くはないので、それほど一気に大きな成長は期待できないが、少しずつ少しずつでも、前に進みながら成長していきたいものだ。