稽古なる人生

人生は稽古、そのひとり言的な空間

№132(昭和63年3月10日)

2020年10月28日 | 長井長正範士の遺文


〇次にもう一つ古い笑いばなしを書いておきます。これは“蝦名違い。”と題して道話にも載っています。

ある迷信家が元日の朝、屠蘇、雑煮も目出度く祝い、さあこれから廻礼に出かけようと、ひょいと門前を見ると、一人の子供が、オイオイと泣いております。彼は「めでたい元日の朝、所もあろうに、門前で泣き顔を見るとは縁起がわるいわい」としょげておりましたが、ふと思いつき、近くのお寺の坊さんの所へやって来て、ことの次第を話致しますと、お坊さんはニコニコしながら『縁起悪いどころか、そんな目出度いことはない。今年は福の神が舞い込んで来たのじゃよ。

よく聞きなさいよ。“七福に、貧乏神が追い出され、門の所で、わいわいと泣く。”と、どうじゃな目出度いじゃろう』と言われたので彼は「なるほど」と大いによろこんで廻礼をすませて、女房に声はずませて、「おい!今日はめでたい。元旦から縁起が良いわい。実はこれこれ、しかじかで、和尚さんの所へ行くと、さすが和尚さんはえらい。“七福が貧乏神に追い出され、門のところでわいわいと泣く”と即座に詠まれた。どうだ!目出度いではないか」と。

これを聞いた女房は「何です、七福が貧乏神に追い出され、ですって、それがどうして目出度いんですか、馬鹿馬鹿しい」というので彼も、「なるほど、そう言えばそうだ。ちっともめでたくねえ。あの和尚め!元日早々から俺を馬鹿にしやがって」とプンプン腹立てて、寺にかけつけ「今朝の歌はちっともめでたくねえ」『目出度くない?七福が貧乏神に追い出され、門のところでわいわいと泣く・・・何んと目出度いことではござらぬか』と、聞いてみると、なるほどめでたい。

「いや、女房のやつめ、勘違いをしていやがるわい。どうも有難う」と言って、飛んで帰り、「やいやい、やっぱりめでたい。お前が間違えている。七福が貧乏神に追い出され・・・」『何ですって、七福が貧乏神に追い出されるって?あんた、どうかしてるよ』「はてな?お前のいう通り、よし、もう一度お寺に行ってくる」と。三度めに寺の門をくぐったが、今度は念のために紙に書いて貰いました。そこで始めて“七福に”とあるべきを“七福が”と勘違いしていたことがわかりました。

以上、このようなことが、日常生活でよくあることですが、此頃は助詞の使い方が間違ったり、日本の言葉づかい、そのものが間違いだらけで、ひとかどのアナウンサーが、堂々と間違った言葉でしゃべっているのを聞くと、日本語も乱れた!と嘆かざるを得ないです。特にここ数年、おびただしい新語・流行語のラッシュで、われわれ年寄りは、新語・流行語には、何だか馴染めな淋しさを感じる今日此頃です。

例えば、「新人類」、「知的水準」。「亭主元気で留守がいい」、「激辛」、「やるしかない」、「バクハツだ!」等、又、今は忘れかけていますが、「イッキ、イッキ」、「トラキチ」、「私はコレで会社をやめました」等、テレビではやったものでした。然し、ヤング達に流行した会話に「とか」と、文章の止めの「××したりして」があります。「ネコもしゃくしも、めったやたらに愛用したりして。日本語文章の乱れや破壊というほどではありませんが、テレビを見聞きしていると、いやになります。去年の新語・流行語で、自由国民社から発表された中に、国税査察官の活躍をとりあげて、ヒットした映画「マルサの女」から、査察を意味する「マルサ」が新語部門の金賞であったらしい。又、流行語部門、特別部門を写しとっておきましたので、次に書いておきます。時代を知るために参考になるやも。続く。
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