稽古なる人生

人生は稽古、そのひとり言的な空間

気ままにバイクポタリング(5月5日)

2018年05月06日 | バイク・クルマ
4日は出荷日したので5日はバイクの日にした。
世間は子供の日。自分的にはバイクな日だ。

行き先を決めずに北上し、163号に出て右折。
取りあえず木津を抜けて笠置まで行く。
笠置の旧道を越えたかったがバイクでも通行不可のようだ。

南山城村の道の駅で小休止。
伊賀上野で昼食。王将で餃子とレバニラ炒め。そのあと給油。


(南山城の道の駅、バイクなので土産は買えない)


(伊賀上野城)

信楽や甲賀に行こうかと思ったが南下した。
琵琶湖方面は混んでいるような気がしたからだ。


(宇陀川に架かる小さな橋の上で)

名張を抜けて赤目四十八滝を目指す。
滝は見ずに行き止まりで写真を撮っただけ。
途中の小さな滝で写真を撮る。


(赤目四十八滝の突き当たり)


(途中の小さな滝に目が止まる)


(流れる水がきれいだった)



長谷寺、桜井、三輪、耳成山を抜けて大和高田。
そうそう、大和高田には遠い親戚がいる。
以前、「粕井」でググると「粕井靴下」と出てきたのだ。

場所だけ見ておこうか・・・


(大和高田は踏切が多い)

高田の警察で場所を聞く。
忙しそうだったが親切に教えてもらった。

曽祖父、粕井秋五郎には4人の男の子が生まれた。
信一、信二、忠一、義雄である。信二は生まれて間もなく夭折したらしい。

長男信一(豊誠)の孫が私である。
伯父が作った家系図には、三男の忠一の子に「粕井董(ただし)」とある。
この董(ただし)さんのお子さんが粕井靴下なんだろうと思う。
私からすると「はとこ=又従兄弟(またいとこ)」になるわけだ。

親父が生きているうちに聞いておけば良かった。
もしかしたら伯父のほうでは付き合いがあるかも知れない。



(伯父、宏の書いたメモリアルより)
(上段中央が大叔父「粕井忠一」、その子の「粕井董(ただし)は下段中央」)


曾祖母、粕井マスさんの妹(名は不明)には粕井豊次郎と粕井浩という男の子がいた。
死んだ親父からすると叔父さんになるわけだ。姉妹揃って養子をもらったか。
ちなみのマスさんのお母さんはヒサという名であったらしい。

豊次郎と浩の家系が今も繋がっているのかはわからない。

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今回は写真を撮っただけ。


(大和高田市の粕井靴下)


(粕井靴下の前の粕井誠)

二上山を越えて柏原、八尾を抜けて東大阪の事務所まで。
やはり仕事が気になる。結局遅くまで仕事をしてしまった。

でも、気分転換になった。
こういう気ままなバイクポタリングは本当に良いものだ。
走行距離200キロだからポタリングとは言えないかも。

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2018年5月7日追記

伯父の宏が亡くなったので、伯父の書いたメモリアルを見ていた。
そこに大叔父、粕井忠一の事が書いてあった。
そのままここに記す。
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叔父 粕井忠一
明治30年生まれ、都島工業機械科の第4回の卒業で、僕の大先輩。当時都島工業は高等小学校を卒業してからの4年間の修業年限だった。在学中に腕が結核性関節炎にかかり、手術によって癒えたけれど、後年肺に再発することになる。病気のため一流会社に就職できず、仕方なく近くの山階鉄工所という町工場に就職することになる。就職して職人の保守的なところを改善し、東洋紡に口座を開き、業務改善に絶大な貢献をした。しかし30代を過ぎて肺結核で倒れ、長期療養中、社長が死んで退職を余儀なくされ、それがショックだったのか、昭和9年37才の若さで死んだ。非常に手先が器用で、カメラ・マンドリン・模型飛行機・ラジオなど楽しんでおり、病臥中も会社が功績を認めて給料をくれていたから病床で編み物をしていた。友子叔母と結婚した当座は小阪に住んでいて、後に久宝寺へ移った。療養のため生駒山の中腹に住んでいたこともあった。昭和9年、僕が都島工業に合格したことを非常に喜んでくれたけれど、それから3ヶ月ほどして亡くなった。葬式のとき、遺児の董(ただし)君も敏子さんも親の死の意味がわからず、大勢の人が集まっているのを喜んでいたのが痛々しかった。叔母はまだ30才前で、その後郷里の陵西村市場(現在大和高田市市場)に退職金の一部で家を建て、隣の郵便局に勤めて2人の子供を育てた。
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やはり、粕井靴下は粕井董(ただし)さんである。

董(ただし)さんのお子さんはわからない。いるのかいないのかもわからない。
靴下の製造をやっていたのに、なぜ衣料問屋のホワードと取引が無かったのかも謎である。
コメント
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