もう殆ど機関車の窯状態。
古刀三原。
やはり三原だ。三原もしくは古三原。
末三原ではない。
ただ、地鉄の練りは末物の安芸国大山
鍛冶の作に非常に似ている。地鉄の
中に銀河系宇宙があるような鉄味。
古代山陽道沿いに備中国青江、備後国
国分寺助国、備後国三原(尾道の山中)、
安芸国大山、周防国二王たちは地理的に
線上で繋がるが、刀剣自体の作域も各々
の相関として細部は異なれど総体として
かなり似たものを持っている。
備後三原鍛冶を称して、尾道に寺院多き
ゆえに大和からの影響を多く受けたと
するこれまでの斯界の説は、文献資料等
の根拠を欠くこともあるが、作刀自体
から見るに、もしかすると妥当性に乏し
いということはないだろうか。
備中国青江から続く周防国二王まで、
何らかの技術的交流、人的交流が
あったのではなかろうかと思われる
フシが実見する刀剣からは強く見られる
のだ。
現存する作刀を実際に経眼するに、その
作刀ベルトラインが薄っすらと浮かび
上がってくるのである。
そして、さらに東に進むと鵜飼(宇甘)
派がいた。
現存刀の作域からも、これらを結ぶ
地理的結合ラインと物流と人的流入の
時代的事実も射程に入れての総合的な
研究解析をしないと、この中つ国の
日本刀ベルトライン近似性は説明が
つかない。
当該地域の日本刀の歴史研究解明の為
には、別個に各派のみを抽出して研究
してるところからさらに一歩踏み込ん
で前に足を進める必要があるのではなか
ろうか。
そうした解析視点はこれまで斯界に
おいても不存在だったわけではない。
「北国物」などの鉄味の黒さは派に
関係なく連綿性がある現実を実際の
現存刀から看取していたし、地域的
繋がりや共通性に着目する視点は有し
ていた。
だが、中国地区の中世までの古刀に
関しては、備前という五箇伝の刀剣
大国があるゆえか、「備前とその他
大勢の脇物」という中央史観が強大
な権力を持っていた。
それが日本各地の日本刀の客観的な
歴史解明を阻害してきた事実がある。
日本刀界における中央史観は特定五箇伝
のみを日本刀の代表であるかのように
思い込ませるように「創られた」概念
だ。
元来、日本刀の歴史的変遷と作域の
区分け学習のために設定された五箇伝
という作出概念は、いつの時代からか
「五箇伝以外は日本刀に非ず」という
ような歪んだ視点に乗っ取られてしま
った。
この偏狭な視点こそが日本刀の包括的
な研究の最大阻害要因となっている。
五箇伝はあくまで便宜上の学習の為
の分類にしか過ぎない。
その厳然たる事実をもう一度日本刀
愛好家たちは捉えなおす必要がある
と私は思料する次第だ。
表現している。
んだ男、チャック・イェーガー。
けてだらしなく歩くような間抜
けはいない。
に、爪先はまっつぐに前を向け
て歩く。
行法だ。
着地も離れも股関節、膝、
くるぶしを不必要に捻ること
になり、身体機能を損なう。
では全力疾走で適切に走るこ
とはできない。
蹴り方、全てまっすぐに体の関
節を円滑に動くようにして使っ
ている。二足歩行の人類の体の
構造は二足歩行するのに適した
構造となっている。そこがガニ
股外開きの猿とは大きく異なる
点だ。
しゃがむ際にはむしろ爪先を
やや内に向けるようにして
安定を得ている。本能でそう
している。
の際には身体機能を正しく
用いるために足先の向きは
歩行する間抜けは人類だけ
かも知れない。全力で走る
必要性の認識が希薄になった
からだろう。
を見ても隙が無い。
ジェームズ・ディーンのジーンズはLee。
これは噂の別バージョンの紺色のタイプ
こちらは赤バージョンだろう。
薄手の安い作業ジャケットも彼が着ると
現在、小学校教育では国公立を問わず
一輪車を体育の授業に導入している。
これは私たちの時代には無かったこと
であり、子どもの体幹を鍛えるのに適切
かと思われる。
ただし、落とし穴がある。
一輪車の体軸の取り方と二輪車はまるで
異なるのだ。
一輪車でバランスを取るように、背骨の
真ん中の軸線で二輪車には乗れない。
跨って乗っても、操縦ができない。
これは自転車だろうがモーターサイクル
だろうがである。
最近、異様に一輪車のような自動二輪
の乗り方が増えているのは、一輪車と
二輪車の体の使い方を区別識別弁別する
教育が欠如しているからではなかろうか。
二輪の場合、背筋を伸ばして背骨を伸ば
しきると、加速減速のGに対しての対処
ができなくなる。体がヤジロベエの
ようになってしまうからだ。
二輪の場合は、上体は脱力させて背骨を
ごく自然に軽く曲げる「ゆるみ」が
絶対的に必要になる。
路面からのショックも、足、脚、膝、
尻、腰、背骨、上体というように全身
で衝撃を吸収する。
背筋を伸ばしっぱなしで上体を起こして
二輪を運転すると、路面からの衝撃が
そのまま脊髄を直撃し、身体を壊す。
また前傾の二輪車では、日本の立礼の
ように背筋を伸ばしたまま腰を曲げて
前屈するような姿勢は二輪車では×だ。
体重がハンドルにかかり、前輪のセルフ
ステアという最重要挙動を殺すので
極めて危険を誘発するからだ。
前傾の場合も、下半身で車体をホールド
し、上体は軽く背中を曲げてごく自然
に前に伏せる。
ベタ伏せの場合は背筋が伸びてようが
丸くなっていようが構わない。
これは自動二輪も自転車も同じ。
自転車でも全伏せの場合には背骨を
あえて伸ばす走法もある。
問題は、自動二輪の場合ならば、タンク
から腹と胸が離れるように起こしてから
の状態だ。
通常走行の上体が起きた場合も、衝撃
緩衝とG対応と両輪バランス取りのため
には、背骨に定規を入れたような硬直伸
ばしでは自動二輪の操縦は困難になるし、
何よりも、付随する体各部の諸体勢から、
繊細で適切な操作ができなくなり、危険
なのだ。
一輪車と二輪車は、車軸からのバランス
の軸線が異なる。
一輪には一輪の理屈があり、二輪には
二輪の理屈がある。
二輪車の操縦と三輪車、四輪車の操縦
がまるで異なるのと同じことだ。
タイヤが付いている乗り物は、その
個体種別によっての適切な乗り方が
あるので、それを的確に理解しない
と、なかなか車輪付き乗り物は乗り
こなすことができない。
最近は小学校でやらないのだろうか。
自転車の乗り方の講習を。
1960年代は交通事故が激増したから
か、小学生向けの早期交通教育と
して自転車の乗り方、交通法規の
説明の授業が神奈川県にはあった。
ああした早期交通教育と二輪の乗り
方を教育機関で教えるのは、交通
社会として非常に有意義だと思う。
子どもたちを守るためにも。
一輪車は体育・運動としての体躯
の機能発達のため、二輪車は交通
社会に溶け込むための教育として
大切な事だと私は確信している。