渓流詩人の徒然日記

知恵の浅い僕らは僕らの所有でないところの時の中を迷う(パンセ) 渓流詩人の徒然日記 ~since May, 2003~

ヘアスタイル

2020年11月04日 | open


デビューしたての頃の矢沢永吉さん。

1970年代、永ちゃんとキャロルが日本
のヘア
スタイルシーンに一石を投じた
のは
確かだろう。


ただ、それ以前からリーゼントは日本
でも流行していた。不良の間でだけでは
なく大人でも頭がポマードギトギトの
オールバックやリーゼントは普通に
あった。
しかし、それらリーゼントを若者ファ
ッションとして
高めたのはアメリカの
50’sカルチャー
の若者たちだった。
そのアメリカのスタイルは英国ロンドン
で大流行した。
そして、彼らのそのスタイルは音楽と
バイクが結びついて「ロッカーズ」と
いう一つの若者による体制への抵抗
文化を形成していった。

矢沢永吉さんは、デビュー前、元々は
リーゼントスタイルではなかった。

ロンドンブーツにマッシュルームカット。
完全にモッズ系のいでたちだ。

「リーゼント?ダサいよ」と言う矢沢に
「これしかねえよ」と強く言ったのは
バンドメンバー募集の張り紙広告を見て
やって来たジョニー大倉だった。


キャロルのスタイルはジョニー大倉さん
が決定的に方向づけた。
元々ビートルズのコピーバンドだったが、
ビートルズとて、最初は革ジャンにリー
ゼントのロックンロールスタイルだった。
しかし、マネージャーの戦略で甘い
お坊ちゃまモッズ系にスタイルを変更
させられた。
キャロルはそれの逆を狙った。
それは当たった。
やがて、日本でも若者抵抗文化としての
リーゼントスタイルが定着していった。
キャロルは1972年に結成されて75年
に解散するまで、日本国内でキャロル
旋風を巻き起こした。
当時の不良少年も中1あたりから
リーゼントにするのが流行した。
私が通った中学は長髪OKだったが、
まだ世間では戦前風味をかませて
いる
時代錯誤の公立中学も多く、
周りの
中坊は丸坊主の男子ばかり
だったり
した。私たちはリーゼント
にして
いたが、他校の女子中学生
などと
出会ったりして話をすると
「高校生
かと思った」とよく言わ
れた。
ただ、日本のリーゼントは米国本式
のダックテール系と「どツッパリ」
系の二系統に70年代中期以降は分化
して行く。同じリーゼントでもセット
の仕方が両者は異なる。

ただ、キャロルのヤザワが元々は
こっち系ではなかったという事は
意外と知られていないようだ。


どちらかといえば、デビュー前の
永ちゃん
は、つまり、こちら系。


さりとて、ビートルズもマネージャー
強い方向性選定の指示がなければ、
どうなって
いたか分からない。
元々ビートルズはR'nR系だったから。


いつのまにかビートルズはラブ&ピース
になっちまった。
まあ、ロックンロールも愛を歌う音楽
なんだけどさ。
ただ、人類愛ではなく、生き方への愛
なんてのもロックンロールは歌い上げて
いた。
体制派のロックなんてのはあり得なかっ
た。

愛と平和の音楽団となったビートルズが
サブカル抵抗文化の継承者としての片鱗
を見せたのは、女王陛下から授与された
勲章を「今度は私たちが貴方に差し上げ
ましょう」と返却したことだった。
そこには反戦を願うハートがあった。
基本的にロックンローラーはノンポリ
が異様に多いが、本来のロックは抵抗者
としての魂無くしては成立しない。
それは、米国の黒人音楽との結合に
よってR&Bが成立して来た歴史とは
切り離せないからだ。
黒人問題に無関心な日本人のロッカー
たちは、差別や反戦や反体制的な
生き方については存外無関心だ。
日本のローラーたちは、形ばかりを
追い求めるパターンが多い。
「資本主義に毒されすぎなのでは
ないかな」というクリームソーダの
山崎眞行社長(故人)が言ったような
ビシッとした視点で世の中を斬る
ことは日本のロックンローラーは
あまりしない。ノンポリだらけだ。
これは国なりなのか、いかんとも
しがたいが、日本の抵抗文化の
未成熟として忸怩たるものを感じ
ざるを得ない。
そこでも、アメリカ合衆国や英国
ロンドンの若者たちを超えられない
のか、と。



 

 


この記事についてブログを書く
« 個体差 | トップ | 日本刀保管の注意点 〜結露〜 »