渓流詩人の徒然日記

知恵の浅い僕らは僕らの所有でないところの時の中を迷う(パンセ) 渓流詩人の徒然日記 ~since May, 2003~

流用 〜飛鳥朝 刀子風〜

2020年05月28日 | open



大阪堺のログナイフのレザーシースが、
誂えたようにブローニングのチーターに
ぴったりという現実。
ハンドルの半分程が潜るので逆さにしても
ナイフは落ちない。
このシースはチューブ型で、腰前に吊す
方式で、日本の古代の刀子と全く同じ携帯
方法を採る。
日本の古代の刀子自体が現代ナイフにそっ
くりなブレード形状であり、特に奈良以前
の刀子は現代ナイフそのものだといえる。
このチューブシースにしても刀子の鞘と同
じ装着携帯方法であるというのは面白い。
腰前ぶら下げ着用は、意外と使い易いので
ナイフをこの方式でアウトドア活動で多用
している方も多いのではと思う。
日本刀の太刀も刀身を水平にしての吊り
下げだったが、これも世界各国で刀剣は
吊り下げ式が多かった。これまた興味深
い現象だ。
日本では、その後、短刀が寸伸びして
刀という物が発生し(古代鉄刀とは別な
カテゴリー)、それを帯に差すことが一般
化した。
やがては太刀が廃れて打刀をさらに長く
させた物をメインの携帯刀剣として帯びる
形式に変わった。
刀は鎌倉期には登場していたが、打刀が
太刀の代用になったのは戦国期である。
江戸時代は、甲冑着用時以外は完全に
刀を帯刀した。
太刀は刃を下にして吊すので帯刀ではなく
佩用と呼ぶ。刀は帯び、太刀は佩くので
あった。

さらに太刀風外装でありながら刀のように
帯びる拵も登場し、それは半太刀拵と呼ば
れるようになった。
半太刀拵のさらに打刀拵との折衷物も登場
し、刀装具は幕府の厳しい規制の中にあっ
ても、武人各人の自由意思を体現する武器
としてあったといえる。
日本の文化的特徴として、武器自弁の原則
がある。特に刀剣に関しては武人各人が
自分の好みの物を自由意思で選択する。
それゆえ、絶対に他人の刀剣を揶揄したり
馬鹿にしたり嘲笑してはならなかった。
そんな失礼無頼慮外千万をしたら、それだ
けで「刀にかけても」の刃傷になるは必定
だった。

ただし、刀剣吟味において、刀の実利評価
は武士は好んで手厳しく行なっていた。
だが、決して、一度人の差料となった刀
は、どんな刀であっても愚弄することを
武士はしなかった。
そんな度外れた慮外なことをする武士は
一人もいないが、現代では誰でも刀を
買えるので、ネットなどでは目を覆いたく
なるように人の差料を嘲笑愚弄したりする
「刀持ち」もいたりする。
嘆かわしいことであると同時に、日本の
伝統文化、武士武人の魂といかに程遠いか
が窺い知れる。
むしろ、武芸とは無縁のアウトドア愛好家
のほうが、人のナイフを馬鹿にしたりは
しないまっとうな旧来の日本人的な性質を
持っていることが見られるので、私などは
複雑な気持ちになる。
と、同時に、日本の刀を使う武技をやる
現代人の極々一部のネット民に、他人の
差料を愚弄、罵詈雑言三昧の族(やから)が
いるのは、同じ帯刀者としては実にこっぱ
ずかしくなる。
得てして、そうした者は、匿名の影に隠れ
て平気で人の子どもや家族の事も愚弄しま
くって喜んでいる。
また、関係のない妻子や幼児のことをあげ
つらったり個人情報を晒したり揶揄対象に
したりする。
信じがたいことだが、そうした卑劣極まり
ないことを平気でやる。
あれは人なのか?

匿名ネットに巣くうそうした者は、刃物
を持ちながら人の道を外した者なのだ
う。
無論、武道や武術や武人の心などとも無縁
な存在だ。
どうせ刃物を持つなら、人の心からの本物
の笑顔を運べる空気に触れるようになれば
いいのに。

刀子/正倉院蔵



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