渓流詩人の徒然日記

知恵の浅い僕らは僕らの所有でないところの時の中を迷う(パンセ) 渓流詩人の徒然日記 ~since May, 2003~

刀の差し方

2021年03月08日 | open
刀の差し方はこれ。
やや鶺鴒差しぎみの閂差し。
脇差も閂で
まっ平。
カンヌキ差しは大久保彦左衛
門の『三河
物語』にも記され
ている刀身を地面と水
にす
る帯刀方法で、即抜刀斬りつ
けができ
るので、武張った方
式とされています。
元和偃武以降は、ほんの僅か
鞘尻を下げる
俗称で「鶺鴒差
し」と呼ばれるものが武家

通常の差し方となりました。
また、角度については、45度
まで鞘尻を
下げるのは「落と
し差し」と呼ばれて、
自堕落
でだらしないとされ、武家の
侍たち
は通常はやりませんで
した。侍以外
はやっていた
かも知れません。がまの油
売りの大道芸人などの武士
でも侍でもない階級等
では。
武家の侍はやりません。そ
れは家
の躾として厳然と残
って来ました。
 
なお、閂差しは脇差も大刀も
まっ平に帯
に差します。
脇差が物理的に邪魔になるの
で、通常の
脇差の差し方では
大刀の横引き納刀など
はでき
ません。
博徒のように長ドスの一刀差
しならば
き納刀が可能
です。
 
横引き納刀は太刀を佩いた時
の用法です。
大刀でそれをやるのは、武士
も侍もいなく
なった昭和時代
の創作です。古流ではな
い。
大刀一刀差しを抜刀武技でや
る際に
横引き納刀が武徳会の
某人の弟子によっ
て戦後に考
されて、それがあたかも
古伝
であるかのような誤解と
誤伝が広まった
という事実は、
某人本人の述懐録に記され

おり、疑いようのない事です。
 
武家は脇差も大刀も閂で差した。
(大刀のみごく僅かに鶺鴒)
では、大刀を抜いての戦闘行
為に万一及ぶ
際には脇差は邪
魔にならないのか?
それには独自の方法があります。
大刀を抜刀する前、もしくは
後に、スッと
脇差のみ超落と
し差しにするのです。柄が

に当たる程に密着させて。
こうする事で、大刀は脇差に
一切干渉せず
に自在に振り回
せます。
戦闘が終わり、生き残ってい
たならば、
納刀後に脇差は通
常位置に戻す。
こうした事は、大小二刀差し
が常態だった
武家時代には常
識でしたが、一本差しが
あた
かも武技の基本であるかのよ
うな間違
いを正常と思い込ん
でから、その用法も
忘れ去ら
れることが広がりました。
しかし、江戸期から続く武芸
流派では、
所作事や技法だけ
でなく、用法の理論と
方法が
残っています。それは決して
新派
によるねつ造創作等で
はなく。
 
大刀一刀のみを閂差しに帯び
て座する
現代の抜刀術での
一般方式。


大小両刀帯刀での正座は切腹
臨席か江戸
城に主君が登城し
た際に城外で控える侍士
の所
作であり、それは特殊な状況
のみで
の事です。
武士の一般的な通常の作法で
は、
大刀を帯びたままでの
正座は存在しません。
では、何故大刀一刀差しでの
正座が存在
するのか。
それは、土佐英信流が江戸期
の中後期に
正座作法からの
扱いにくい抜刀斬撃を流

武技の
一環として稽古用に
導入したから
です。
正座作法は小笠原流、伊勢流
の作法から
の援用だった事で
しょう。
あくまで土佐英信流の抜刀術
は甲冑着用
の様式を残した
立膝から始まる。体術系

った長谷川英信の技法を抜刀
術と合体
させて体系化させた
のは長谷川の弟子の
荒井清哲
からでしょう。土佐には和(や
ら)よりも抜刀術部分のみ
が長谷川流と
しては主軸と
なって伝播されて残されま

た。
それが明治以降に再編されて、
正座での
大刀一刀差しから
の抜刀斬撃が流派の初伝

して第17代宗家により編成さ
れた。
その再編と同時に、小刀脇差
や前差しでの
刀法の伝が捨象
されて失伝しました。
現在、失伝部分についての復
元研究が、
斯界の研究者たち
によって成され
ています。物
故者が残した古老の口伝や
残存する
史料に拠って。
 
大小二刀差しの正座は武家政
権時代には
特殊な状況以外に
は存在しません。
大刀は屋内に於いては脱刀し
ます。
これは武士の作法として厳然
たるもので
あり、それは揺る
ぎないものです。
また、大刀の納刀は横引きは
しません。
徳川政権時代には
刀の差し方に決まり
事がある
ので、脇差が邪魔をするため
横引き納刀は物理的にできな
からです。
打刀の横引き納刀は昭和の創
作です。
 
こうしたことは、きちんと現
代剣士も
知っておいたほうが
よいかと思います。
下緒のさばき方一つにしても、
現代方式
が武家政権時代の作
法のままでは決して
ないのだ、
という事も含めて。
現代は、ほぼすべての現代人
は、江戸期
の武家作法ではな
く、現代様式で現代風
に改変
アレンジされた事をやってい
る、
という根幹は明確に認識
する必要がある。
でないと、スマホが江戸期に
あった、と
いう事と同じよう
な間違った捉え方をし
てしま
います。
事実は事実として明確的確に
把握、認識
を。


 

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