渓流詩人の徒然日記

知恵の浅い僕らは僕らの所有でないところの時の中を迷う(パンセ) 渓流詩人の徒然日記 ~since May, 2003~

ククサでコーヒー

2020年05月17日 | open


イタリアのXSRのタツオさんのから数年前
にプレゼントされたククサでネスカフェを
飲みながら『サザエさん』を観ている(笑)。
このアニメ、何年やってるの?
私が子どもの頃からやってるよ。
このまま行くと100年放送とかでギネスに
更新なのではなかろうか。
昭和少年としては、実写版の江利チエミの
サザエさんが強烈な印象で記憶に残って
いる。
『お荷物小荷物』の中山千夏さんのような
強烈な印象だった。
中山千夏さんは、私の中で一つの「1970
年」の象徴でした。YouTubeで中山さん
本人の「あなたの心に」を今聴くことは
できません。削除されまくっています。
多くの人がカバー動画をアップしてます
が、中山さんを超えるカバーを聴いた事
が私はない。
それは、作詞が中山千夏さん自身である
という意味をどこまで噛み砕いているか
ということがあるからかと。
中山さんのあの曲のあえて明るい歌詞は、
「敗北後」に涙を拭って空を見上げている
詩(うた)だからです。
だから、額面通り歌詞をそのまま上辺を
なぞると、自衛隊の歌の上手い人が中島
みゆきさんの「時代」を綺麗に歌ってし
まうようなことになりかねない。
これは、もう、時代的な「敗北の共有」
の心の地平を持っている人でないとうたえ
ない。
なので、いくら「上手に」歌ってもカバー
にもなんにもならないんです。
(こうした時代的な「敗北感の共有」は
漫画家の東本昌平氏は獲得していると私
は思っています)
岡林や初期のたくろうのような直裁では
ない逆説の表現で、あの時代の多くの若者
が噛み締めざるを得なかった心のその在り
かを表現できるって、私は凄いことだと
思う。
その初めは中山千夏さんだった。
「アカシアの雨」のような直接的なスト
レートな表現ではなく、笑顔を浮かべよう
とする中にもうどうしようもなく言い知れ
ない深い悲しみがある。
それは、「あの時代」をタイムリーに、
あるいはたとえやや遅れてでも同時代性と
して、自分自身の痛みとして血肉化できた
人たちでないと解り得ない世界なんです。
完璧なる潰えた、その敗北。
何に?
そう、全てに敗北したんです。
こんなことは、その素肌感覚は、いくら
言葉という言語を連ねても伝わりっこな
い。
それは「生きていた」からです。
バリの中で。
今日飲んだ"解放"というアンプルで完全
に生き変わって。


ククサって、自分で買う物ではないんだっ
てさ。
ほんとは生まれた子どもや親しい友人に
プレゼントする物なんだって。
そして、それを貰った人は、一生使うのだ
そうだ。北欧ではそうした文化があるらし
い。
なんか胸にくるものがある。
まるで日本刀みたいだ。
日本刀も自分で買い求める物もあるけど、
旧来は親から子に代々引き継がれ、あるい
は進呈されたり、無類の盟友に贈られたり
していた。それは物品としての贈答の意味
を遥かに超えていた。日本刀はそうだっ
た。そこには、金銭感覚が一切絡まない。
秀吉が日本で初めてやり出した領地枯渇
から来る代用としての刀剣下賜施策は別
として。
師から贈られた刀は絶対に手放さないし、
友が友に送った刀も手放さない。
前に書いた「ただの棒切れ」ではないけれ
ど、そうしたものが日本刀にはある。
それに通じるものをククサの文化にある事
を知ると、何だか重いものを受け止める。

そうだ。
良いことを思いついた。
腕に覚えの無い私にできるかなあ。

グジ

2020年05月17日 | open




テレビで珍しい映像を観た。
これは珍しい。
泳いでいるところを撮影されるのは希
なんだって。
水中ドローンでの日本一深い湾での深海
撮影なのだけど、私は初めて観た。


嗚呼。
グジ食いたい。
最高ですぜい。



在宅キャンプ

2020年05月17日 | open



友人が在宅キャンプで本日楽しんでる。


軍モノのエスビットは本当に使い勝手が
良い。コンパクトでタフネスで便利で、
いう事ない。


鷄炊き込みご飯を作っちゃうってさ。


メスティンで飯盒のように炊き上げ◎


峠の釜飯の釜に盛り付けて、雰囲気は
気分は峠だぜ!みたいな。
うまそうだなあ。


東京の大都心のど真ん中の住宅街で、戸建て
二階から外の景色がこれって・・・。
ほえ〜。いいね♪
ここんち、一階が実質二階だもんなあ。



カレー

2020年05月17日 | open


私は固形ルーやレトルト以外、カレーを
作ったことがない。
1980年代末期、「カレー食べに来るか
い?」と勤め先の弁護士に言われた。
はいはーい、と新築の新居に休みの日に
遊びに行った。
てっきり奥様が作るのかと思ったら、
無骨な野武士のような弁護士の彼が作る
のだった。驚いた。
「カレーは凝ってるんだ。ちょいとした
もんだぜ、おい」と言う。

今まで食べたカレーの中で一番美味かっ
た。
なんだか、飛葉ちゃんの部屋に飛葉お手製
うどんに呼ばれたワイルドのメンバーに
なったような気分になった。
カレー屋のインドカレーよりも、お店の
日本カレーよりも美味しかった。
銀座の某有名店より美味い。
どうして?と訊くと、「えー?だから言っ
たろ。凝ってるんだって」
確かに、玄人裸足とはこのことだと恐れ
入った。1989年の事である。
「ナンはやらないんですか?」と尋ねた
ら、あれは難しいからまだ手を出していな
いとのことだった。

カレーは簡単そうで奥が深いのだそうだ。
少しの事で味が変わるのだという。
なんかねえ、原料みたいのから作ってた
よ。かなり時間かかっていた。ルーを鍋
にポンてのと全然違うの。
本式カレーにまじもんで挑戦してみたい
なあ。
かなり面白そうだ。
でも、ナンもいいなあ。
美味いナンは大好きだ。
ナン発明した人は天才だね。
聖書に出てくるパンはナンの事だ、きっ
と(笑)。

似ているもの

2020年05月17日 | open

刀匠藤安将平作、小柄小刀、月下兎仰図。
彫小柄同人作。




藤安刀匠後援者の方が、私の為に藤安刀匠
に依頼して打って貰った小柄小刀である。
藤安先生は私の為ならとノリノリで鍛え
たと後援者の方は仰っていた。
月に帰りたいと月の明かりを仰ぎ見る
兎の図を自身彫りで施してある。
素晴らしい。
燕飛も凄烈な魂を揺さぶる画題として
あるが、兎仰も切なさをとめどもなく
呼ぶ。
有難い頂き物だ。

藤安先生からは書簡も頂戴した。
藤安先生は私と刀剣しのぎがプロデュース
する刀工小林康宏に対しても、町井勲氏が
主導して鋼等で便宜を図ってくれたことも
ある。
藤安先生は、先生と町井氏と私の三人で
鉄についての対談集を作ったら面白いの
では、とまで言われていた。
それはまだ実現していない。

戦後に鉄を裁断できる日本刀が消えて
ら、久しぶりに斬鉄刀剣の製作に成功し
たのは紛れもなく刀工小林康宏初代および
二代だった。
そして、藤安将平刀匠がそれに続いて、
康宏と同じく正真の自身作で斬鉄を成功
させた。
切り手は修心流の町井勲先生だった。
これは数年前にTV放映されたのでご覧に
なった方も多くいた事だろう。
90年代中期には俳優の滝田栄氏が康宏作
で深く切り下げた鉄板(私自身の切りつけ
痕も残る)をTV番組で放送紹介していた。
そして、今世紀、東北の志ある刀鍛冶が
藤安刀匠に続いて斬鉄刀を作った。
だが、戦後斬鉄刀剣が消えた後に復活させ
たのは紛れもなく初代康宏だった。
それは東京地方でローカル的に試斬者たち
に密かに知れわたり、「斬鉄剣」と呼ばれ
るようになった。
劇画で流星と名付けられた刀剣がアニメ化
された際に、途中から「斬鉄剣」という
呼称になったのは、康宏の斬鉄剣呼称が
あったからだ。今ではアニメのほうが
本家本元のように思われているが逆だ。
初代小林康宏の斬鉄鍛えの刀剣が斬鉄剣
と呼ばれた刀剣の始まりだ。
多分、これは推測だが、禅語の斬釘截鉄
(鉄をも切り断つ強い意志の事)を業名に
入れた新陰流に通じた康宏作試刀家の
小幡氏あたりが言い始めたのではなかろ
うか。氏は世界で初めて巻藁ではなく巻
畳表を代用することを発案している。
イネ科の藁束を切ることがそれまでは
江戸期からずっと慣例だったが、藁の
入手困難な時代到来に伴い、廃材の畳表
の代用を思いついたことは革命的な発想
だった。
高度経済成長により住宅建築が加速し、
同時に多くの畳表が貼り替えられていた
時代状況を小幡氏は見逃さなかった。
康宏試刀家の小幡氏が畳表を藁の代用で
切る事を開始し、今ではイグサの畳表巻き
を切ることが日本刀試斬の常識となった。

イグサの畳表巻きについては、私が試斬を
始めた1990年代初頭においては、まだ
きちんと「畳表」「イグサ」と誰もが発言
していた。
しかし、今世紀に入り、語句の誤用蔓延
が著しく、藁ではないのにイグサ巻きの
ことを「巻藁」と呼ぶ不見識が半ば常識
化してしまったという嘆かわしい日本語
の乱れが巷でウィルスのように蔓延して
来た。
最近、ようやく見識ある方々によって、
イグサ巻きのことは「畳表」「イグサ」
と呼び直されるようになって来た。
だが、今でもイグサの事を藁と呼んでいる
不見識が多く広まったままだ。
見た目は似ているけど、両者は全く別物
なんですよね。
キャベツをレタスとは呼ばないもの。
「藁」というのはイネ科の植物の茎の事
であり、イグサ科のイグサの茎の事では
ない。
日本の畳は藁で作られて、表にイグサを
特殊な技法で織ったマットを張る。
そのストローのマットが畳表と呼ばれる
物であり、それは藁で出来てはいない。
イグサはイグサだ。
なので、畳表巻きの事を「巻藁」と呼ぶの
はキャベツの事をレタス、レタスと呼ぶ
のと同じで、とんでもなく妙ちくりんな
事なのだ。
この言葉の乱れは、試斬界においてはここ
15年ほどから見られる風潮で、思うにネッ
トで動画が見られるようになった頃から、
誰かが誤謬を広めたようだ。
イグサはイグサである。
間違いは改めればよいだけの事。
見識ある方々は、それまであまり斟酌せず
にマキワラと呼んでいた呼び方を正しく
「イグサ」「畳表」と呼び直すようになっ
て来ている。

友人が「ゴザ」と呼べば?と私に提案した
が、ゴザはそれも異なる。
イグサで作られたマットであることは畳表
とは同じなのだが、ゴザは最初からマット
目的で作られた製品のことだ。
試斬で使うのはゴザではなく、畳の表に
使われていた古畳表そのものであるので
ゴザではない。
ここは微妙だが大切なことだ。
キャベツはレタスではないのである。
似ていても、違うものは違うと識別する
ことは、とりわけ伝統文化や武芸を修練
する場合には大切な事案として目の前に
立ち塞がるのである。
識別と弁別、区別と類別の認知はかなり
重要なことなのだ。
人への差別だけは要らない。

小柄小刀の小刀のことを「小柄」と呼んで
しまうのも、日本刀界の大きな識別不認知
であるといえる。
小柄は柄のことであり、小刀は刀身部分
の事だ。二つが合体して小柄小刀となる。
また、狭義において類別するために小柄
小刀の刀部分のみを指して小柄小刀と呼
こともある。
これらも識別認知が大切な事となって
くる。

日本の小柄小刀は奈良飛鳥時代の貴族の
汎用ナイフである刀子(とうす)に原初が
あるとする説が現在有力だ。
それは筒状の鞘に入れて腰前にぶら下げ
た。飛鳥時代の刀子は正倉院宝物殿にも
納められている。
そして、その刀子が大型化したものが
日本の包丁の発生といわれている。
日本の包丁は江戸中期まではアゴがない
刀子の大きい物のような形をしていた。
例外的に出刃が江戸初期に登場するが、
現在まで続く日本の包丁の形を発明した
のは堺の鉄砲鍛冶から転じた鍛冶職たち
だった。
これはもう単なる名物だけでなく、日本
の包丁の定番となるに至った。
そして、なんと、その日本の包丁は、世界
のクッキングナイフの手本となったので
ある。
それが現代まで続いている。

米国のガーバーの1940年代のモデルは、
カトラリーとして始まったナイフである
のに、何故日本刀の範疇である小柄小刀
に似ていたのか。
なぜ、西洋式のテーブルナイフ用途なのに
独特の洋式テーブルナイフの形ではなく
日本刀に似ていたのか。
そして、どうして、現代に至るまでガー
バーシルエットは日本刀小柄小刀を彷彿
させるのか。

それは、日本の飛鳥奈良から続く刀子の
発展の歴史をなぞる経緯の視点をガー
バー「刃物製作者」「製造販売者」
として有していたからだろう。
この世に日本の刀剣と包丁なくばガー
バー無し、とさえいえる程の間接的影響
日本の刃物文化は外国人に対して及
ぼしているのである。

1940年代のオールドガーバー。
ブレードシルエットラインはまるで日本
の小柄小刀や刀子そのものだ。


刀子。正倉院。宮内庁蔵。


一千数百年前に貴人が実用に供した故か
かなり研ぎ減っている。元々の幅は小柄
小刀と同じく根元の幅と同じだった筈だ。


棒切れ

2020年05月17日 | open


ただの20センチ程の棒切れである。
この棒は、庭先かあるいは毎週通った山
どこかで拾ったのか、娘が3歳頃に宝物
のように大切していた物だ。
なぜ、宝物のように常に持っていたのか
は私は知らない。
今は社会人となった当の本人も、今振り
返ると分からないことだろう。
しかし、いつも身に着けるように彼女は
大切にして毎日これを持っていた。
まるで守り刀のように。
見てみて。
毎日手に持っていたから、表面がつるつる
に磨かれたようになっている。
人知れない、当時の彼女だけが知り得た
思いが形として残っている。

私はこれを今でも大事に保管している。
このただの棒切れは、ただの棒切れでは
ないのである。
こうした精神世界のことは、解らない人
には解らない事だろう。
いや、私自身が、何故だかはよく解ら
ない。
ただ言えることは、ただの棒切れではない
という事だけだ。

ラブレス

2020年05月17日 | open


Robert Waldorf Loveless。
通称ボブ・ラブレス。
地球上のナイフ史に名を刻む偉大な男だ。
彼により現代ナイフの作り方が確立され
た。
ラブレスが日本人のモノヅクリに大いに
影響を受けたことは有名だ。
そして彼はかつて誰もやったことがない
くのことを発明し、手がけたナイフ界
革命児だった。
その柔軟な発想と、徹底した実用主義の
崇高な思想は、彼の作が芸術品と評され
て作品が1丁500万円で取引される現況の
市場原理とは乖離している。
1丁500万円のナイフを実用品としてロープ
を切ったり、研ぎ減らしたりする人はそう
そういないからだ。
では億万長者ならそれをするかというと、
そういう手持ち金員の寡多ではないところ
問題としての様相を呈している。
作品が観賞用の飾り物になってしまうこと
は、ラブレス本人が望んではいなかったこ
とだろう。

だが、これは彼が強い影響を受けた日本の
日本刀の世界でも全く同様の現象が現代で
は生じているので、如何ともし難い。
国宝の日本刀でイグサ畳表や藁束を切る
者はいない。
ラブレスの作品は、作者の本来の意図とは
遊離して、「使わないナイフ」として崇め
立てられることになってしまった。

それでも、ラブレスの意思と遺志は私たち
は十二分に感受することができる。
それは、ラブレス本人が、そのナイフシル
エットのデザインを利権登録などしなかっ
たことによる。
いわゆる、ラブレスのデザインで作られた
多くの「後輩たち」のナイフを私たち一般
人は心置きなく使うことができるのであ
る。
これはひとつの大きな僥倖だ。


今年9月。
偉人ボブ・ラブレスが亡くなって10年目
の季節がやってくる。

日本の様式の不思議

2020年05月17日 | open
 
(国宝毛抜形太刀)
 
日本刀の歴史的な変遷においては、古代
期の上代の横刀(たち)から湾刀である
太刀
(たち)に移行した過程が存在した。
太刀初期には斬撃の際の衝撃緩衝のためか
柄部分が中抜きされた毛抜形太刀が作られ
た。


ナイフでいうならばフルタングである。
それがやがて、柄を作ってそこにナカゴ
をきつく挿し込む形式に日本刀は変化し
た。
 
(国宝)


いわば、フルタングからコンシールドの
ナロータングに変化したのだ。
これはどうしてだろう。
 
ナイフの場合、激しい衝撃を与える場合に
はナロータングよりもフルタングのほうが
丈夫だ。柄にコンシールドされたタング=
ナカゴのタイプだと、ハードな使用を続け
ているとやがてハンドルにガタが出てきて
しまうのはナイフ界の常識だ。
そのため、バトニングなどではフルタング
が一番信頼性が高いのは、物理的な事実と
なっている。
 
かたや、日本刀のほうはどうだろう。
実用刃物であるナイフ界の常識からすると
「退化」とも捉えられかねない変化を見せ
ている。
だが、平安末期に登場した柄拵は、一千年
以上の時を経て、現代でもその基本構造に
変化はない。
つまり、ナカゴという部分の構成と柄との
セットは「完成されている」のである。
ただし、目釘穴の位置と数は実用時代に
おいて変遷がみられる。
柄頭側にあった目釘穴が段々と上に移行
し、凡そ刃区(はまち)から指3本分下部に
移動してからそこで定まったのは、これ
は明らかに何らかの実用的なバトルタイム
プルーフを得ての往時の製作者の知見によ
るものだろう。
また、さらに実用信頼性を付与させるため
には目釘を2本打つための「控え目釘」を
柄頭側に設けることも戦国時代に始まって
いる。目釘1本で斬撃を続けると柄が緩んで
くるからだ。2本目釘のほうが実用的である
ことは論を俟たない。
 
日本刀はナイフとは別な、いわば逆の発想
でハンドル=柄周りの発想が発生して変化
を遂げている。
思うに、その設計思想は、毛抜形太刀に
ヒントがあるように思える。
つまり、斬撃の際の衝撃を緩衝させるため
にあえて木製の柄を導入するに至ったので
はなかろうか、と。
柄仕様の太刀の初期はナイフのフルタング
ハンドルのように埋め込み式だったが、
やがて本格的なナロータングでコンシール
ドする「柄」が登場し、それが不動の定番
となって一千年の幾星霜を駆け抜けている
のが日本刀だ。
柄は使い捨てだったのではなかろうか。
極言すれば、刀剣自体が実用性においては
使い捨てだ。イクサの一回もてばよい。
このことは軍陣に刀工を引き連れて参戦し
た武将が多かったことからも首肯できる。
現在残っている古刀名刀の多くは、戦乱
を「生き残った」個体か、「使われなかっ
た」個体であることだろう。
 
日本刀における柄の効用としては、対衝撃
性の側面ともう一つ重要な「操作性」の
向上が導入された事は想像に難くない。
また、別拵えの別注品にすれば、使用者
の好みに合わせた握りを実現できる。
日本刀の拵=外装品というものは、戦国
時代の足軽や徒士への供給刀=押し着せ
常備刀以外は、すべてオーダーメイド
だった。吊るしの背広のような形式は
基本的には日本刀には新作刀身において
も、既存刀身においてもあまり存在しな
かった。すべて自分に合わせて外装を
新た
に誂えるのだった。
柄については、そうした実用様式が日本刀
では重視されたゆえ、ナイフにおける実用
主義とは別な価値観が日本刀には付与され
ていたので、ナイフとは異なる握る部分の
の発展遷移がみられたのではなかろうか。
ナイフと日本刀。
同じ刃物でも、実用性一つとっても、
その歴史的な位相が異なるといえる。
 
フルタングのナイフ。
フルタングの範疇のうち、ハンドルエンド
=柄頭方向のナカゴ部分を薄くして重量
バランスを取る構造。


このテーパードタングはラブレスが多用
してナイフの世界に革命をもたらした。
彼が偉大だったのは、デザイン形状を何度
でも再現できる「型」を導入した「システ
ム化」を成したことだった。
鍛造ナイフではない現代の型を定めての
削り出しによるストックアンドリムーバル
方式のナイフ製作はロバート・ラブレスが
確立した。


ナカゴの長さや尻の巾等については、日本
刀においても各地の流派で創意工夫がみら
れる。
末備前などは片手打ちが前提なのでナカゴ
は極端に短いが、頑丈さを付与させ、また
バランス取りの為に極端に尻の張ったいわ
ゆる「備前ナカゴ」の形になっている。
逆に相州物などはタナゴの腹のように先が
そほる物が多い。
意外と脇物と呼ばれる五ヶ伝以外の日本刀
は実用重視の環境からか、ナカゴにも創意
工夫が見られたりする。
ナカゴ千両とはよくいったもので、日本刀
はナカゴの形状や仕立てにその流派の特徴
がよく顕れる。日本刀の見所の一つにも
なっている。
 
フルタングに近いテーパードタング。
石川刃物の製作でかなり使い勝手が良い。


石川刃物は岐阜の関にある。
関は今でも日本一の刃物の町だ。
日本刀の古刀五ヶ伝の最後の産地、美濃伝
の中心地が関だ。
美濃伝は日本刀に大革命を起こした。
それは備前伝に端緒を発した「鋼材作り
置き工法」を採用したことだ。
これは鋼の玉潰しからそのまま作刀する
のではなく、現代の板材のように炭素量
ごとに水べしして板状にした材料を大量に
ストックして従来とは生産性を比べ物に
ならない程に向上させたことだ。
その板材を鍛着鍛造すればいつでも即大量
に刀剣を製造できた。それで時代が要求
した膨大な刀剣需要に応えきった。
これは従来の日本刀製作の手間暇かける
非生産的な手法を根本からひっくり返し
たことで、まさに革命的だった。
組み合わせ鍛造においては、貴重な高炭素
の鋼は外皮だけに使う「まくり」や「甲伏
せ(かぶせ/後年にはこうぶせと読ませ
た)」、あるいは刃先だけ鋼を割り込ませ
た「割り込み」という構造にすればよい。
実用性では何ら全鋼の真鍛え=丸鍛え
と遜色ないどころか、鍛え方によっては
無垢鍛えを上回る頑丈さも与えることが
できた。
(それが後には、無垢鍛えよりも部分的に
手間がかかるため、組み合わせ工法の
ほうが本鍛えであると誤認されるように
なる)

この備前と美濃の量産数打ち工法は日本刀
の作り方を抜本的に改変した。
慶長以降の日本刀を「新刀」と呼ぶが、
新刀において美濃伝の影響を受けていない
刀工はほぼいない。
本来は備前が江戸期の日本刀も牽引する
筈だっただろう。
だが、備前長船千軒鍛冶は天正の未曾有の
大洪水で三名のみを残して壊滅してしまっ
たのだ。歴史的な悲劇だった。
長船も福岡も備前鍛冶の中心地は無くなっ
た。
 
備前鍛冶とも技術的に密接な関係にあった
備中備後の吉備国の刀鍛冶たちは、天正
以降も作刀を続けるが、江戸の平和な新
時代が到来して以降、伝説が一人歩きして
武士に人気を博した遠い昔の相州伝を備中
水田鍛冶が「ウケ」を狙ってその作風に改
を試みる等の混迷と苦労も歴史の中に
見て取れる。
新刀初期の備中水田国重などは新刀期に
無垢鍛えを復活させた名人だったが、
幕末には水心子によって不当なネガキャン
が張られたりもした。
江戸期には備後刀の雄であった三原鍛冶も
尾道から新設の三原城や福山城の城内に
抱えられる形で細々と作刀するように
なった。刀剣は刀剣産地から城下へ全国的
に移行した。

そして、日本全国から、新作刀の発注が
全く数十年途絶える時期が到来する。
ここに至って、日本刀の製作方法は完全
に失伝した。
現代における日本刀の製造方法は、失伝
した日本刀の製造方法を手探りで研究
再現
した水心子正秀の工法を模倣している。
明治以降の現代刀鍛冶の系譜は、師匠筋
を辿るとすべて水心子に行き着く。
それは一つの歴史の真実を物語る。
日本刀は江戸期に製法を失伝していたの
だ。
日本刀の復興の中興の祖は水心子正秀
であり、現代に続くナイフの盤石の基礎
を創ったのはボブ・ラブレスである。

上:古刀 下:新刀


右:古刀のナカゴ
左:新刀のナカゴ


右:古刀(戦国時代末期)
左:新刀(江戸期延宝頃)


映画『今夜ロマンス劇場で』(2018)

2020年05月17日 | open



メルヘンちゃんかな。
いろんな名作映画のキャラとシーンを
織り混ぜすぎだ。
ほんだのばいくはとても可愛いのだが、
役者は可愛いだけで女優にはなれない。
綾瀬はるかも、『おっぱいバレー』の時
のようなナチュラルさが出ていない。
まだ、大河での会津の狙撃手のハンサム
ガールの役の時のほうが演技が生きてい
た。綾瀬さんの演技の最高最頂点はドラマ
JINー仁ー』での橘咲役だ。(5月18日
から再放送が始まります)
ほかの役者も、演技が立っていない。
この作品、映画としても映像としても、
全て失敗作のように思える。
加藤剛さんの遺作となったが、加藤さんが
良かった。
『キネマの天地』(1986松竹)のような
テーマの良作を期待したが違っていた。
また、俳優陣の演技としては『Wの悲劇』
(1984角川)のような名作での息を飲むよう
な役者の演技を期待したが、期待外れだっ
た。
これは、俳優のせいではなく、作り手の
の問題だろう。
多くの名作映画からキャラクタとシーンを
頂きマンモスにしては、未達成感が半端な
い。
何なのだろう。
ほだされる面はあるが、心打つ作品の蕊と
いうものが無いのだ。
かといって駄作とも呼べない。
それでも、映画が好きでたまらない、映像
が好きでたまらない、文芸が好きでたまら
ない、という人が作った作品には思えない
というものを感じてしまう。
私の中では「20年後にも観たい映画」とは
位置づかない。
何なのだろう。

多分だが。
ストーリーの奇抜さ重視の仕上がりになっ
ているからではなかろうか。
その系列の作品は、文学であろうと映画で
あろうと、「読み捨て」の系統に属してし
まうのだ。例え結末が分かっていようとも
何度も読ませる筆力や作品性や映像製作の
妙みたいなものが本作からは感じられない
のである。心に残る不朽性を備えた映画
作品とはなっていない。
つまり、そこには人の心を揺さぶり、人の
心を突き動かす「芸術性」が不在ゆえなの
ではなかろうか。

しかし、映画も文学も、受けるのは自分
だ。
観たり読んだりするのは自分が選んでやる
ことなのだ。私自身が選んだことだ。
そこに自分の希望をあらかじめ用意して、
それにそぐわないからと期待の返戻を求め
るものではない。
それは、読み手鑑賞側のお門違いだ。
慮外推参になってしまう。
もっとカラッと素直に文芸には接したい。