カズさんの旅たび

 ~歴史、文化、芸術、美食紀行。。

インド・ニューデリー(その2)

2013-03-31 | インド(アーグラ、ニューデリー)
ホテル・クワリティ(宿泊ホテル)から東西に伸びるディッシュ・バンド・グプタ・ロードを渡り、ラジグル・マーグ通りを南に歩いて、デリー・メトロ(ブルーライン)のラーマクリシュナ・アシュラム・マーグ駅(RK Ashram Marg)に向かった。


これから、オールド・デリーの2大観光地、ジャーマー・マスジドとラール・キラー(レッド・フォート)を見学する。宿泊ホテルからジャーマー・マスジドまで歩くと2キロメートル強だが、デリー・メトロの利便性の良さに満足しているので、少し遠回りだが、ラーマクリシュナ・アシュラム・マーグ駅に向かっているわけだ。この時間、ラジグル・マーグ通り沿いには、赤い制服を着用した楽隊が集まっているが、何かイベントが行われるようだ。


その先では、黄色い衣に身を包み黄色い旗を持つ男性5人を先頭に行列を作り待機している。先頭の男性たちは、ターバンを着用しているのでシク教徒だろう。様子を見ていたかったが、時間が遅くなるので諦めた。


デリー・メトロに乗り、一つ目のコンノート・プレイスでイエロー・ライン(北行き)に乗り換える。そして、次駅のチャウリー・バザール駅を下車(10ルビー)して、オールド・デリーの目抜き通り(チャウリー・バザール)を進むと、前方にジャーマー・マスジドの塔が見え始めた。


ジャーマー・マスジドは、タージ・マハルを建造したムガル帝国第5代皇帝シャー・ジャハーン(在位:1628~1658)によって立案され、1656年に竣工したインド最大のモスクの一つである。建設には5,000人の労働力と6年以上の歳月を要したという。

モスク中庭広場は高台にあり、メインゲートの東門と南北のいずれかの門から入場できる。今回は、西側に到着したため、壁面から回り込み北門から入場することとした。赤砂岩の入場門までの階段は39段ある(南側は33段、東側は35段)。この階段では、かつて屋台や大道芸人の出演場所になっていた。また1857年のインド大反乱(イギリス軍とインド反乱軍の戦い)では激しい戦闘になりインド反乱軍の死体で埋め尽くされた痛ましい歴史がある。

カメラの持込み料300ルビーを払い(入場料は無料)、靴は5ルピー(金額は気持ち)を払って預かってもらう。


入場門をくぐり中庭広場に足を踏み入れ、右側に視線を移すと、ジャーマー・マスジドの礼拝堂(モスク)が、マッカ(メッカ)のある西側に向けて建てられている。モスク前面には池があり、信者はここで身を清めて礼拝に向かうわけだ。金曜日(ジャマー)には、集団礼拝の場となり、多くの信者でモスク内は埋め尽くされる。なお、中庭には最大で25,000人が収容可能だそう。

モスクは、東門、南門、北門とそれぞれアーケードで結ばれスクエアを形成している。
モスク中央のアーチ(イーワン)は、一際大きな作りとなっており、両翼の柱はミナレットになっている。赤砂岩(床部分は大理石)で作られたモスク内部の壁面にはシンプルなアーチ状の装飾が施され、正面のミフラーブ(聖龕)手前の天井には、大きなクリスタルのシャンデリアが吊り下げられている


モスクの左右に聳えるミナレットは高さ40メートルあり、外壁は白大理石と赤砂岩で縦縞状に彩られている。ミナレットの上から礼拝(サラート)を呼びかけるアザーンは、現在では、頂部に上らずモスクに向かって右側のミナレット中間部にある施設から祈祷の時報係が拡張器を使用して礼拝を呼びかけている(1日5回)。

そして、モスクに向かって左側のミナレットの頂部には100ルピー払えば上ることができるとのことで早速向かうこととした。


チケットはモスクの左端で売っているが入口は南門にある。階段を上って一旦アーケードの屋上に出るので、そこから屋上を歩いた後、ミナレット内の螺旋階段を130段上って頂部に向かう。ミナレット自体は細いため階段を上っていると目が回りそうになり気持ち悪い上、上り詰めた展望台は一人ずつが立てるだけの狭いスペースしかないため非常に怖い。気を付けないと、内側の階段に足を滑らし転落しそうになる。


恐る恐る、金網にしがみつき眼下を覗き込むと、白と黒の大理石で覆われたモスクの3つのドームを見下ろせる。中央のドームは、迫ってくるような威圧感があり、なかなかの迫力だ。風雨にさらされ汚れている印象だが大理石らしい色ムラや風合いも良く見える。それぞれのドームの頂部からは黄金の塔が伸びている。そして、ドームの向こうに見える町並みが、オールド・デリーの中心部にあたる。


次に、右側に視線を移すと、先ほど入ってきた北門が望める。入場した際は、巨大な門の印象だったが、この位置から見下ろすと非常に小さく見える。


更に、視線を右側に移すと、中庭広場越しに、東門が見える。東門はジャーマー・マスジドのメインゲートらしく、北門の左右の2段アーチと異なり3段アーチと大ぶりな造りとなっている。東門の外に伸びる大通り(参道)にはバザールが開催され、多くの人で賑わっている。その大通り先の繁茂した辺りにはデリー・メトロ(バイオレットライン)のジャーマー・マスジド駅がある。そして、中央遠景から左側に伸びる赤い城壁はラール・キラー(レッド・フォート)である。次に、そのラール・キラーに向かうことにする。


ジャーマー・マスジドでは、40分ほど見学した後、北門で預けた靴を受け取り、500メートルほど路地を北に向かったところで右折する。すると前方にラール・キラー(Lal Qila)のラホール門が見えてくる。

ところで、この大通りはチャンドニー・チョウクと呼ばれるオールド・デリー最大の目抜き通りで庶民の台所として知られている。ムガル帝国時代より続く金銀細工や宝石を扱う店なども数多く営業している。

車道には、臨時の鉄柵が設けられ歩道を拡張しているが、拡張箇所の間を縫って営業する輩もいるため、狭くなった車道に車、人力車や人も流れ込み、大渋滞となっている。徒歩でも通過するのに時間がかかる。しかしぶらぶら歩くには楽しい観光スポットだ。


さて、ラール・キラーは、タージ・マハルやジャーマー・マスジドを建造した、ムガル帝国第5代皇帝シャー・ジャハーンの手によるものである。彼は、アーグラやラホール(パキスタン北部のパンジャーブ地方、ラーヴィー川の岸辺に位置するインドとの国境付近にある都市。)に拠点を置いていたが、1639年、新たに、自らの名を冠した新都シャー・ジャハーナーバード(Shahjahanabad)(現:オールド・デリー)の建設に着手する。その中心に建つのが皇帝の居城「ラール・キラー(或いは、レッド・フォート、赤い砦、赤い城、デリー城とも呼ばれる)」であった。

新都は9年の歳月をかけ1648年に完成する。城内には57,000人の人が住み、城外の市街地(2,590ヘクタール)には、およそ40万人の市民が暮らした。しかし、皇帝シャー・ジャハーン自身はデリーとアーグラとを行き来したという。


ところで、城壁の高さを大きく超える巨大な建物がラール・キラーのメインゲートのラホール門である。ラホール門(城内から見てラホールの方向にあるためこう名付けられた。)は、高さ33メートルの左右の門塔(チャトリー(小亭)と呼ばれるムガル建築の装飾建物を頂く)に挟まれ、頂部に7個の丸屋根と2つのミナレットを持った豪華な門でヒンドゥ建築とイスラム建築との折衷様式で造られている。

2キロメートルにも及ぶ赤い城壁の中央(西側)に聳え、遠方からも望める巨大なラホール門を持つラール・キラーはムガル帝国の権威を今も誇り高く示している。なお、現在、毎年8月15日のインド独立記念日には、ここで首相演説が行われている。

そのラホール門の前面まで近づくと、濠と城壁で囲まれた砦があり、上部の堡塁には一定間隔で大砲が配備されているのが見える。この砦を築いたのは、ムガル帝国第6代皇帝アウラングゼーブ(在位:1658~1707)である。この砦の建設により、ラホール門を隠すことになったが、皇帝は門の優雅さより防衛上の強化を優先したのである。なお、皇帝はこの砦を「美女の顔を隠すヴェールだ」と語ったという。


と言うことで、ラホール門から城内に入るには、一旦、砦の左側の塔を回り込んだ奥にある砦門をくぐった後、向かうことになる。


濠を渡り砦門に入り荷物等のセキュリティチェックを受け入場料250ルピーを払う。砦内に入ると右側(場外側)には、砦に上る階段があるがロープが張られ立ち入りできないようだ。砦内のスペースは狭く、入場者はすぐ左側に続くラホール門をくぐることになるが、驚いたのは、砦門に向けて銃を向けている警備員の姿だ。不審な行動をする輩は、ここから撃たれるというわけだ。


砦には上れないようなので、左側に聳えるラホール門をくぐって、城内に向かう。


さて、巨大なラホール門の先には、打って変わって、お土産屋が並ぶ華やかな商店街が続いている。かつて、宮廷の女性たちのためのショッピング街で、チャッタ・チョウク(Chhatta Chowk)(屋根付き市場の意)と呼ばれている。


チャッタ・チョウクを抜けると、左右に芝生が広がる城内になる。通りの左側には「自由のためのインドの闘争に関する博物館(Museum on india's struggle for freedom)」がある。


博物館では人形でインドの歴史が再現されている。1919年、パンジャーブ地方アムリットサルで、ローラット法に抗議のために集まった非武装のインド民衆に対してイギリス軍が無差別に射撃した「アムリットサル虐殺事件」。マハトマ・ガンディー(1869~1948)に、イギリスに協力しても独立へは繋がらないという信念を抱かせる契機となった。


そして、こちらは、そのガンディが、1930年、彼の支持者と共にイギリス植民地政府による塩の専売に反対し、アフマダーバードからダーンディー海岸までの386kmを行進した抗議運動の様子が再現されている。インドのイギリスからの独立運動における重要な転換点となった。


展示台には、刀剣などが飾られている。中央には、ジャマダハル(jamadhar)(ブンディ・ダガーとも)と呼ばれる北インドで使われていた刀剣の一種などがある。柄を握り、拳の先に出した刀で、主に刺すことに特化した武器である。15分ほどさらさらっと館内を見学した後、再び、チャッタ・チョウクから続くメイン通りに戻る。


通りのすぐ先には、花壇があるロータリーになっており、左側から回り込むことになる。花壇向こうに見える門は、ナッカル・カーナ(Naqqar Khana)(ドラム・ハウスの意味)と名付けられた中門で、ここで楽士が時刻や王の帰還を知らせための音楽を奏でたという。現在2階には戦争記念博物館がある。門は赤砂岩で造られており、長年その砂岩の色だったが、近年、建設当初の白色に塗り直された。


門をくぐりながら、天井や壁面を見渡すと、美しい象嵌細工が施されている

白亜のナッカル・カーナ門をくぐり、振り返り門を見上げると、こちら側は赤砂岩のままであるが、ところどころ、白の石膏が残っている

ナッカル・カーナ門の先は、広々とした庭園となり、正面に9連式、側廊には3連式のアーチが並ぶ長方形(160メートル×130メートル)の大広間の建物がある。こちらは、ディワーニ・アーム(Diwan-i-Am)(一般謁見殿)で、皇帝は毎日、民衆からの様々な陳情を受け付け解決する公の場であった。

なお、先に造られた、アーグラ城塞内のディワーニ・アーム(材質は白大理石による造り)とほぼ同じデザインを踏襲している。

建物内に足を踏みいれると、細い柱で支えられたアーチで、開放感を感じる造りとなっている。内装はシンプルだが、当時は、豪華な天幕や壁掛け、シルクのカーペットなどで飾られていたという。


ディワーニ・アームから、歩いて来た方向を振り返ると、庇とチャトリー(小亭)以外は、赤砂岩のままのナッカル・カーナ門が望める。今後、白く塗る予定があるのだろうか。晴天の下、綺麗に刈りこまれた芝と周りの樹木の中に佇む、深みのある赤砂岩のナッカル・カーナ門も中々良いと思うのだが。。


それでは、ディワーニ・アームの中央奥にある皇帝の玉座に行ってみる。


ベンガル風丸屋根で覆われた大理石の天蓋があり象嵌細工で施されている。かつては、エメラルド、サファイア、ルビーなど世界中から集められた宝石が埋め込まれ輝いていたという。壁面には、マルチカラーで象嵌細工されたパネルがある。


ディワーニ・アームに向かって左側から奥に進むと更に中庭が続き、建物群が見える。


左側が、貴賓謁見殿のディワーニ・カース(Diwan-i-Khas)で、隣がカース・マハル(皇帝の私室)、右端がラング・マハル(彩りの間)である。


ディワーニ・カースは、貴族や外国の大使との謁見の場で、閣議なども行われていた。屋上の四隅には、やや大ぶりなチャトリー(小亭)が配されている。


建物は、白大理石でできており、内部は、隙間ないほどに精緻な装飾で覆われている。柱の下部には、美しい象嵌細工の花の装飾が施されている。


広間の中央部は花弁アーチで仕切られた長方形の空間が造られている。天井はかつて金と銀で覆われていたが、現在は金メッキされ、周りの梁には、花の紋様が装飾されている。


側廊の天井部分は、格子面に分割され、花弁が表現されている。こちらも、かつては、宝石類が埋め込まれていて眩いばかりだったという。


カース・マハル(皇帝の私室)は、ディワーニ・カースと同じ基壇の上で隣り合っている。


中央の花弁アーチの奥のティンパヌムには天秤(死後の審判で生前の善悪を測られ天国か地獄行きか決定する。)が表現されており、周りにはアラベスクの浮彫などが美しく装飾されている。下部の扉には、透かし彫りが施されており、建物越しに隣のラング・マハル(彩りの間)が見える。


反対側(南)に回り花弁アーチからカース・マハルの内側を覘くと、繊細な浮彫で覆われた壁面が見え、中央には重厚なアーチ門を構成している。


基壇から降りて南側に向けて歩くと芝生の向こうに宮廷女性の居住区画ムムタージ・マハル(Mumtaj Mahal)が見えてくる。後にイギリス軍の詰め所になり、今では考古学博物館(Archaeological Museum)としてムガル帝国時代の絵画、武具などが展示されている。


館内に入って見ると、バハードゥル・シャー2世(ムガル帝国の第17代(最後の)君主(在位:1837~1858)が使用した大理石の椅子や、


ムガル帝国の第6代皇帝アウラングゼーブ(在位:1658~1707)の水の浄化容器。


同じくアウラングゼーブ帝の印章などが展示されている。


他にも、ムガル帝国のダマスカス鋼の鎧や戦斧、殴打用の武器や、


ペルシャ風象嵌細工のダガー・ナイフなどが展示されていた。


ラール・キラーでは約1時間半ほど見学して城外に出た。城壁前の大広場からすぐ右側にある、デリー・メトロ(バイオレットライン)のラ-ル・キラー駅に向かうが、地上近くの階段まで人が並んでいる。並んでいる人に聞いてみると、どうやら、鉄道事故があったらしく運休になっているらしい。再開するのかもわからないので、少し先のデリー・メトロ(イエローライン)に行ってみようと、チャンドニー・チョウク(大通り)を西に向かうことにした。


チャンドニー・チョウク(大通り)では、店舗沿いの歩道を歩いてみるが、やはり混雑しているため、結局車道を歩いて行く。地図を確認したところ、スィク寺院の先を右折した奥にデリー・メトロ(イエローライン)の駅があるようだ。しばらくすると、左前方にスィク寺院が見え始めた。


スィク寺院から右折して路地を歩いて行くと、東西に伸びる大通りに出てしまった。大通りを西に歩くと、右側にデリー駅(ラージャスターン州方面への列車が発着している)が見えてきた。

どうやら行き過ぎたようで、デリー駅前から再び南に向うと、デリー・メトロ(イエローライン)のチャンドニー・チョウク駅が現れた。

無事にメトロに乗ったが、車内は非常に混雑していた。すると、隣にいた男性が、反対側にいたサリーを身に付けた3人組の女性はスリだと教えてくれた。バッグを手前に引き寄せ抱え込みながら、隣のニューデリー駅で下車した。何も取られたものはないようだが、少し気を抜いていたかもしれない。危ないところだった。


午後2時になり、メイン・バザール(バハール・ガンジ)の「クラブ・インディア・カフェ・デリー」で遅めのランチを頂く。スパゲッティーとビール(258ルピー)を頼んだ。結局昨日から立て続けに3度来店したが、いずれも食事時とズレていたので貸切だった。なお、壁には、お店を訪れた日本の女優やアイドル歌手と一緒に写るオーナーの写真などが飾られている。


ところで、今日は午後9時25分発の中国東方航空で日本に帰国することとしている。荷物を持ってうろうろするのも物騒なので、少し早いが、渋滞も想定してインディラ・ガンディー国際空港に向かうことにした。メトロは先ほどの事故やスリの件もあるので、タクシーで向かうことにして、運転手を選び交渉する。結果400ルビーで行ってもらうことにした。


なんと、空港には35分程で到着してしまった。運転手に400ルピーを払いチップとしてさんざん使用した100円均一の万能ナイフを渡すと、非常に喜ばれた(荷物の機内持ち込みを予定していたので、処分を考えていた)。

あまりにもスムーズに到着したのは有りがたいが、インドの空港では、出発3時間前にならないと空港内に入れてもらえないというルールがあるのだ。空港内に入ろうと扉口にいる警備員にEチケットを提示すると、案の定、首を横に振られた。しかたがないので、外でしばらく待つ。


そして午後5時前になり、再度入れるか確認したところ、OKと言われ、入場を許された。午後9時25分発を考えれば、特別に早く許可された印象ではある。

その後、上海を経由して、成田には午後12時50分に到着した。
(2012.12.9)
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インド・ニューデリー(その1)

2013-03-31 | インド(アーグラ、ニューデリー)
ニューデリーの朝、これから、デリー・メトロに乗ってデリー中心部から南に15キロメートルにある世界最高のミナレット「クトゥブ・ミナール(Qutub Minar)」に向かう。宿泊しているホテル・クワリティ(Hotel Kwality)最寄りのメトロ駅はメイン・バザール(バハール・ガンジ)の西側にある。


昨夜食事したレストラン・グリーンチリから500メートルほどで、デリー・メトロ(ブルーライン)のラーマクリシュナ・アシュラム・マーグ駅(RK Ashram Marg)に到着した。現在朝の7時半、まだ肌寒い。


ところで「デリー・メトロ」は、日本が資金・技術面で支援(円借款で供与)して建設された都市型鉄道で、1990年代に計画され、2002年に「レッドライン(1号線)」と「イエローライン(2号線)」、2005~2006年には「ブルーライン(3号線・4号線)」、2010年には「グリーンライン(5号線)」と「バイオレットライン(6号線)」とが順次開業をしている。

ラーマクリシュナ・アシュラム・マーグ駅は、2005年12月末に開業したばかりの新しい高架駅である。しばらくすると、6両編成のステンレス製無塗装の車両(三菱自動車工業株式会社と現代ロテム社製)が到着した。車内はシンプルな造りで、ロングシートに、立ち客用のポールと、つり革が備え付けられている


デリー・メトロに乗り一つ目のコンノート・プレイス(デリーのビジネス、ショッピングの中心的エリア)にあるラジーブ・チョーク駅(Rajiv Chowk)でイエローライン(車両の側面には、路線を示す色帯が施されている。)に乗り換えて目的地のクトゥブ・ミナール駅に到着した。運賃も20ルピー程度と安く30分ほどの乗車時間だった。


クトゥブ・ミナール駅も高架駅のため、ホームから外を眺めると、木々の向こうにクトゥブ・ミナールの塔(中央やや右)が微かに見える。
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改札を出て、通りを歩いて行くと20分ほどで、クトゥブ・ミナールがはっきりと見え始めた。


クトゥブ・ミナールは、1206年、奴隷王朝のクトゥブッディーン・アイバク(在位:1206~1210)が、デリーをイスラム都市に整備する目的で、インド最初のモスク(クワットゥル・イスラム・マスジット)のミナレット(尖塔)として建てた。

奴隷王朝(1206~1290)とは、7世紀後半、ヴァルダナ朝(仏教を保護)以降の北インドの分裂時代(ラージプート)を終焉に導いたゴール朝(10世紀、アフガニスタンのガズナを都としたトルコ系イスラム王朝ガズナ朝の領内から始祖)の奴隷兵士アイバクが興したインド初めてのイスラム王朝で、デリー・スルタン5王朝の最初の王朝である。

なお、ゴール朝は、1203年にはインドのパーラ朝(750~1174)を滅ぼしナーランダーなど様々な僧院を破壊したため、その後インドの仏教は急速に衰退していくことになる。それでは、入口で250ルピーを支払い入場する。


塔は五層からなり、下の三層が赤砂岩、上の二層は大理石と砂岩で造られている。塔の直径は基部が14.3メートルに対して先端部の直径は2.75メートルと上部に向けて細くなっていく。塔の高さは72.5メートルあり世界で最も高いミナレットである。近づくとその大きさに圧倒される。一帯の遺跡群は、1993年に「デリーのクトゥブ・ミナールとその建造物群」の名で世界遺産に登録された。
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一層目には、円形と三角形の断面が繰り返す造りで、コーランの一部がカリグラフィーで刻まれている。二層目は円形で、三層目は三角形の断面が柱を取り囲んでいる。14世紀に四層目を修復し五層目にドームを付け加え100メートル級に達したが、ドームは地震で落下してしまったという。そして、塔のすぐ南側にある四角い建物は、
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アラーイ・ダルワーザと呼ばれ、「奴隷王朝」後継のデリー・スルタン第2王朝ハルジー朝(1290~1320)」第3代スルタンのアラー・ウッディーンが1310年に建てた南門(当時は正門であった)である。南門は赤砂岩で造られており、カリグラフィーやアラベスクの紋様が刻まれ、白大理石がはめ込まれ朝日を浴びて美しく輝いている。


南門を入るとドームのある空間で四方の其々のアーチから出入りが出来る。右側(東側)のアーチを抜けると、砂岩で造られたドームを頂き、側面を透かし彫りの窓で覆われた小ぶりの建物がある。建物内には、1537年ムガル帝国時代に建設された聖者イマーム・ザミンの墓がある。


アラーイ・ダルワーザの門からクトゥブ・ミナールを離れ、西にしばらく進むと廃墟が現れる。アラウッディーン・マドラサでインド最古のイスラム神学校の跡である。遺跡内には、中庭と思われる跡や小さなドームが残っている。


アラウッディーン・マドラサを北側から再びクトゥブ・ミナールの近くまで戻り、柵の前で北側に回り込むと、


塔への入口があるが閉鎖されている。内部には378段の階段があり先端部まで上ることができた。しかし、1982年に修学旅行中の少女たちが階段で折り重なって倒れ死傷する事故があり、それ以来、内部への立入りは禁止されているとのこと。
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塔の入口前から北側に伸びる通りを、左側にあるクワットゥル・イスラム・マスジット(モスク)の外壁に沿って歩き、先にある東口からモスク敷地内に入る。


クワットゥル・イスラム・マスジットは、1188年、クトゥブ・ミナールの建築に先立ちインドで最初のイスラム王朝(奴隷王朝)のアイバクにより建てられたインドで現存する最も初期のモスクである。


現在も、建物を支える列柱が数多く残っているが、ヒンドゥ様式とイスラム様式が混在した様式となっているのは珍しい。これは当時あったヒンドゥ教・ジャイナ教の寺院を破壊して、その石材を再利用し制作されたためであり、建築に携わった職人もヒンドゥ教徒であったと言われている。


柱を良く見ると、ヒンドゥ教の神々らしき像の彫刻などが残っているのが分かる。
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列柱の残る回廊を背にして中庭には高さ7メートル(直径は約44センチメートル)のチャンドラヴァルマン鉄柱が立っている。一般に「アショーカ王柱」と呼ばれているが、アショーカ王の建てたものではなく、約700年後の3~4世紀グプタ朝時代(415年に建てられたともいわれる。)に造られたとされる。


鉄柱にはサンスクリット語の文字が刻まれ、頂上には装飾的なチャクラ(輪)があしらわれている。鉄の純度は100パーセント近いため、風雨にさらされているにも関わらず錆びていないが、純度の高い鉄製が錆びないとは科学的には誤りらしく、オーパーツ(場違いな工芸品)の一つにも挙げられている。しかし鉄柱の地下部分(埋もれている部分は約2メートル)では腐食が始まっていると言われている。


クワットゥル・イスラム・マスジットを出て、北側に向かうと、途中の西側には、アーチ装飾が美しい、奴隷王朝第3代スルタンのイールトゥミッシュ(在位:1211~1236)の大理石の石棺がある。北インドを支配したイスラム王朝の墓廟としては最古のものだがドームは崩落している。
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クワットゥル・イスラム・マスジットから北に150メートルほど離れた残骸の様な遺構は未完のミナレット「アラーイーの塔」である。1312年にハルジー朝のアラー・ウッディーン(在位:1296~1316)がクトゥブ・ミナールを超える塔を建設しようとしたが財政難で工事が中断し、現在は直径25メートルの巨大な基底部が残るのみである。


アーグラでムガル帝国の建築群を堪能していたが、時代を遡った初期のインド・イスラム文化(デリー・スルタン朝)の遺構に対してはその後の変遷をも感じながら興味深く見学できた。クトゥブ・ミナールは、世界遺産にも関わらず、この日は来場者も少なく郊外の緑に囲まれた遺跡散策ができ、気持ちも晴れやかになった。何と言っても朝からオートリキシャとの交渉もせず、快適で綺麗なメトロに乗れたことはラッキーだった。

園内を出て、再び20分ほど歩き、午前9時半にクトゥブ・ミナール駅に戻り、デリー・メトロ、イエローラインに乗り、途中バイオレットラインに乗り換えてJLN STADIUM駅で降りて、デリー中心部にあるフマーユーン廟に向かった。


フマーユーン廟(Humayun's Tomb)は、ムガル帝国の第2代皇帝フマーユーン(在位:1530~1540、1555~1556)の墓廟である。インドにおけるイスラム建築の精華の一つと評され、その建築スタイルはアーグラのタージ・マハルにも影響を与えたといわれる。


入場料250ルピーを支払い敷地に入ると、プロムナードが直線に伸びる庭園になり、白い二階建てのアーチ門が見える。右側には、イーサー・ハーン廟の入口門が見えるが、工事中で見学することができないようだ。この門の奥には1547年に建てられた宰相イーサーハーンの墓廟がある。さて、白いアーチ門を抜けると、更にプロムナードが伸び、前方に門が見える。


赤砂岩の入口門をくぐると前方に目的のフマーユーン廟が見えた。


墓廟周囲の庭園は、10ヘクタール以上の広大な敷地を有し、4つの区画に分けられたペルシア風の正方形の庭園(四分庭園)を構成している(※入口側からの俯瞰模型)。庭園には水路や園路が格子状に配され、それぞれの交差には小空間や露壇、池泉などが設けられている。


墓廟はアーチを持つ基壇(下層)と、その上に設けられた上層建築との二層構造となっている。下層(基壇)は、アーケードをめぐらせた東西南北の四面とも一辺約95メートルの矩形で、高さは約7メートルある。基壇の中央アーチの階段を上れば、そのまま上層建築のファサード前に到着できる。その上層建築は一辺約48メートルで、中央墓室を4つの正方形の墓室が対角上に取り巻くように配置されており、
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各面の中心にアーチ状の天井をもつ二段のイーワーン(南側入口はアーチのみ)があり、それぞれの窓は、格子状の大理石透かし彫りで形成されている。そして、イーワーン上部には、ヒンドゥ建築技法のチャトリや小さなミナレット(尖塔)が装飾されている。
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墓廟内へは、正面に向かって右側に回り込んだ南側の扉から入場する。墓廟内に入った天井には、モノトーン調の落ち着いた細工が施されている。


墓廟の中央墓室に進むと、3連アーチ窓が2段に並ぶ広い空間になる。


総白大理石の外殻ドームは高さ約38メートルあるが、中央の内部ドームを見上げると、屋根と天井を構成する二重殻を採用していることから12メートルほど下にあり、快適さを感じる程よい高さに工夫されている。


中心部に置かれている白大理石の石棺が皇帝フマユーンの墓だが、これは模棺(セノターフ)で、実際の皇帝の遺体を納めたお棺は同じ場所の直下に安置されているという。模棺の周りの幾何学紋様は、白大理石の星形正八角形を中心にしたパターンのようだが、視点によってズレを感じ、気持ちが悪い。


中央墓室の周りの4つの正方形の墓室にも模棺が置かれている。こちらは、ハミーダ・バーヌー・ベーグム(皇帝フマーユーンの妃で、第3代皇帝アクバルの母)とダーラー・シコー(ムガル帝国の第5代君主シャー・ジャハーンとムムターズ・マハルとの長男)などの模棺である。他にも墓廟には、重きをなしたムガル帝国の宮廷人たちの遺体等、全て合わせ計150人の死者が埋葬されているという。


墓廟から出てファサード前に立つと正面入口門の手前に美しい四分庭園の緑を望むことができる。デリー中心部の世界遺産だし混雑していると思ったが、来場者が少なくゆっくり見学できた。しかし、アーグラのタージ・マハルを見学した後に来るべきではなかったかもしれない。。


次に、オートリキシャに乗って(50ルピー)、ニューデリー国立博物館に移動する。


この時間、小学校らしき団体見学があり、館内から、敷地内を通って公道まで続く行列ができていた。あまりの生徒の多さに今日は貸切なのではないかと不安になったが、入館料600ルピーを支払い入場することができた。展示室はインダス文明の都市遺跡ハラッパー(Harappa)(BC3300~BC1700前後)の遺跡から出土した文物等からスタートする。


粘土でつくられた人形や、


陶器のコレクションが展示されている。


次に、仏教関連の展示室になる。マウリヤ朝時代(BC317頃~BC180頃)の巻き口髭が印象的な男性頭部像が展示されている。


こちらは「仏舎利を運ぶ象の行列(シュンガ朝、BC2世紀、バールフット出土)」。クシーナガルの地で亡くなった仏陀の遺骨は、当初統治部族のマッラ族が仏舎利の専有を表明したが、周辺国との間に争いが発生する事態となったため、結果として8等分され、それに容器と残った遺灰を加えて周辺内外の10か所の寺院に奉納された(八分起塔)。

この作品は、シュンガ朝時代(BC2世紀半ば)に、バールフット(インド中部にある仏教遺跡)で建てられた大ストゥーパ(仏塔)及び欄楯彫刻の一部で、踊る女性を先頭に象に乗った部族の行列が仏舎利容器を運ぶ姿を表している。
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全体的に丸みを帯びやや稚拙な印象を受けるが、伸び伸びと表現されており芸術性豊かな魅力的な作品。中央やや後部の象と象の間には仏舎利容器が表現されている。
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そして、その八分起塔から約200年後に、インド統一を果たしたマウリヤ朝のアショーカ王(在位:BC268頃~BC232頃)は、全国8か所に奉納されていた仏舎利のうち7か所の仏舎利を発掘・分類し8万余の膨大な寺院への再配布を行った。

その礼拝対象の一つとしてサーンチーにストゥーパが造られるのだが、こちらが、そのストゥーパの四方に設置されたトーラナ塔門(2本の方柱に上部に横梁が3本が渡されている。)のうち、南門の横梁に相当する破片である(BC1~2世紀)。横梁の渦巻形の端の上には守護像としてグリフォン(鷲獅子)の様な怪物が乗っている。


更に、同時期のBC1世紀頃から、インドでは石窟寺院(アジャンター石窟群等)などが各地に造られ始めた。石窟寺院には、礼拝対象の仏陀を象徴するストゥーパ等を祀る「チャイティヤ(祠堂)窟」と僧衆の居所「ヴィハーラ窟」があった。

こちらは「ティンパヌムの装飾(クシャーン朝、1世紀、マトゥーラ(カンカーリ・ティーラー)出土)」で、寺院の入口壁面(ティンパヌム)を飾った装飾の破片で、様々な動物に乗り、運搬する様子が表現されている。
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ところで、博物館内に入ったころ、まだ、小学校の生徒たちは、館内の廊下から館外に向け並んで待機させられていた。生徒の見学が始まったら大混雑するのではと不安になったが、実際には、生徒は一糸乱れず、一列でするすると展示室を一目しながら通り過ぎて行った。作品には近づかないので、鑑賞にはまったく影響がなかった。教育が行き届いているのだろうか、大変驚かされた。。

「美女酔態(クシャーン朝、2世紀、マトゥーラ(マホーリー出土))」。酔いつぶれしゃがみ込む女性像は、ほとんど全裸で豊かな肉体を誇示しておりインド神話に登場する豊饒・多産の女神ヤクシー(夜叉女)そのものである。
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「仏陀立像(2世紀、ガンダーラ出土)」。ガンダーラ地方はインドの西北、現在のパキスタン北部に位置し中央アジアからインド通路への要衝として重要な地域であった。BC6世紀には、アケメネス朝ペルシアの一州ともなったが、BC4世紀にアレクサンドロス大王がペルシア帝国を滅ぼし、ギリシア文化(ヘレニズム)が伝えられた。1世紀にはクシャーナ朝のカニシカ王が篤く仏教を保護したことにより、この地にヘレニズムと仏教が融合したガンダーラ美術が誕生し、初めて仏像が造られた(マトゥーラ地方が最初との説もある)。ガンダーラ仏の特徴は、波状の頭髪を束ねて髪を結い、風貌も鼻筋が通ったギリシア彫刻の影響を受けている。
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「執金剛神を従える仏陀(2世紀、ガンダーラ出土)」。金剛手、持金剛とも称される仏教の護法善神である。金剛杵を執って仏法を守護するため、この名がある。
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シッダールタ王子を訪れるアシタ仙人(2世紀、アマラーヴァティー出土)」。作品は、ストゥーパ欄楯柱の浮彫装飾で、王子の誕生を祝って宮廷にかけつけたアシタ仙人が、父シュドーダナ王(浄飯王)に対し「長じて偉大な王になるか、出家して偉大な宗教者になる」との予言を伝える場面。卓越した彫りの深浅技術が、見事な光の陰影を生み出している。アシタ仙人の予言に喜びつつも、出家への不安を感じる父王の姿を中心に多くの人物が生き生きと写実的に表現されている。

アマラーヴァティーは、インド東南部アーンドラ地方のクリシュナ川沿いにあり、デカン高原を中心とした中央インドを統治したサータヴァーハナ朝(BC230頃~220頃)が拠点としていた地で、国家の保護の下、バラモン教、仏教やジャイナ教などが栄えた。
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そして、こちらは「仏伝図(3世紀、ナーガルジュナコンダ出土)」。欄楯柱のレリーフは三段になっており、下段には、マーヤー夫人の「託胎霊夢(白象が右脇から胎内に入り込む夢を見て王子を懐妊する)」の後、マーヤー夫人の夢をバラモンが占う「占夢」が表現され、中段には、ルンビニー園で産気づき無優樹の樹枝を右手で掴むと右脇腹から王子が誕生する場面で、王子は傘と払子で表されている。上段には、先程と作品と同じくのアシタ仙人の予言の場面が表現されている。
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ナーガルジュナコンダは、サータヴァーハナ朝後のイクシュヴァーク朝が拠点を置いた南インドの仏教文化の中心地で、多くの遺跡が発掘されている。アマラーヴァティーを流れるクリシュナ川上流にあるが、現在はダムが建設され遺跡群は丘の上に移設・保護されている。

「仏伝図(3世紀、ナーガルジュナコンダ出土)」。アシタ仙人の予言を聞いたシュドーダナ王は、シッダールタ王子が出家しないように、宮殿内で何不自由ない豪奢な生活をさせる場面が、巨大な横梁に表現されている。


「仏陀立像(グプタ朝、5世紀、サールナート出土)」。サールナートは、ヴァーラーナシー(ベナレス)の北方10キロメートルに位置する仏教の四大聖地の一つ。仏陀が悟りを開いた後、初めて教えを説いた初転法輪の地とされる。その周辺から出土した像は「サールナート仏」と呼ばれている。こちらの作品は、薄手の通肩の衣を身に付けた仏陀の肉体美を感じさせる見事な作品である。
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なお、サールナート考古博物館に収蔵されている「初転法輪像」は最高傑作と評されている。

金色のストゥーパが展示されている。手前(左右2組)の仏舎利容器が、仏陀の生誕地カピラヴァストゥ(ピプラーワー)から出土したもの。黄金細工の容器には、チベット、ネパール、カンボジア、ミャンマーなどのイメージを反映した仏陀像が取り囲んでいる。ガラスケースには、舎利が納められており見ることができる。舎利容器の周りでは合掌する信者の姿が絶えない。

ところで、ビハール州の州都パトナー博物館で見た、ヴァイシャーリーの仏塔から出土した舎利容器については、厳重な警備の下、特別室で拝観したこともあり神々しさを感じ感激したが、こちらの展示方法は、見世物にしている様な印象を受け少し不満を感じた。。

ヒンドゥー教関連の作品も多く展示されている。こちらは「ヴィシュヌ像(グプタ朝、5世紀、サールナート出土)」で、仏陀立像(サールナート仏)とよく似た肉体表現がされている。ヴィシュヌはヒンドゥ教において、シヴァと並ぶ最高神として崇められる存在だ。


「ガネーシャ像(パーラ朝、5世紀、サールナート出土)」。言わずと知れたヒンドゥ教のスーパースター。インドでは現世利益をもたらす神とされ、非常に人気がある。また「富の神様」として商人などから絶大な信仰を集めている。車のフロントガラスに飾るドライバーも多い。パーラ朝は、北東インド(ベンガル地方とビハール地方を中心とした地域)を支配した王朝(750~1174頃)で、仏教を厚く保護した。この時代、絵画、彫刻、青銅の鋳造技術などが著しく進歩して、仏教美術では「パーラ式仏像」を生み出し世界的に有名となった。


「マヒシャースラの殺し屋(パーラ朝、10世紀、ビハール出土)」。ヒンドゥ教の書物「デーヴィー・マーハートーミャ(神の栄光)」から、女神ドゥルガー(3つ目を持ち額中央に1つ目がある。10本或いは18本の腕にそれぞれ神授の武器を持ち獅子に乗る。)が、マヒシャースラ(アスラ神族ラムバーと水牛の間の子)を倒す場面を表現したもの。
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「ナヴァ・グラハ(九曜神)(プラティーハーラ朝、8世紀、チットールガル、ラージャスターン州出土)」。まぐさ石に表現されている。中央の坐像たちは、インド占星術が扱う9つの天体を神格化した神でインド神話に登場する。プラティーハーラ朝(750頃~1036頃)とは、インドの分裂時代(ラージプート)の北西インドを支配したヒンドゥ王朝である。
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「ガンガー像(グプタ朝、5世紀)素焼き」。ガンジス川を神格化した女神で、クンビーラ(ワニの乗り物)に乗っている。ガンジス川は、ヒンドゥ教徒にとって聖なる川と信仰されており、沐浴すれば全て罪は浄められ、死後、遺灰を川に流せば輪廻から解脱できるとされている。


「四面多羅菩薩像(ガーハダヴァーラ朝、11世紀・サールナート出土)」。インド神話に登場する女神ターラーで、仏教では観音様の眼から放たれた慈悲の光から生まれたとされている。「救度仏母」とも呼ばれ、あらゆる衆生を救いまたあらゆる仏の母であるとも言われている。チベット仏教では特に人気がある。ガーハダヴァーラ朝(1090~1193)とは、インドの分裂時代(ラージプート)の北西インドを支配したヒンドゥ王朝である。
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「仏陀と6人の弟子(3~4世紀、ミーラン遺跡)」。仏塔壁画からの断片で、絵の力強さにヘレニズムの影響を受けている。左側の両肩を覆う朱の衣を着た人物が仏陀で、右側の6人の弟子を伴っている。弟子の一人は手に払子を持っており、右側には花が描かれている。仏陀の故国カピラヴァストゥの訪問により、釈迦族の王子や子弟たち6人が次々と出家し弟子となった場面であろう。
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ミーランは、タクラマカン砂漠の南にあった古代のオアシス都市で西域南道に位置している。1907年、イギリスの探検家オーレル・スタインにより発見され研究が進められた。

他に「牛飼いの女性たちと戯れるクリシュナ(1730年。パハール語バソーリ派)」など、ペルシアの細密画を祖としたムガル帝国の宮廷で作成された細密画の連作を鑑賞した。こちらの題材は、クリシュナを讃える逸話の一つで、インドラ神が降らせた大雨に対し、クリシュナがゴーヴァルダナ山を引き抜き指に乗せ、牛飼いたちを雨から守り、牛飼いの女性たちの人気を集めた場面である。
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そして次に、クリシュナが牛飼いの女性たちの内の1人、ラーダーを愛する細密画に続く。。

豊富なコインの展示には驚かされた。展示室には、鋳造作業の模型や、インドの各王朝が鋳造した金・銀・銅貨コインから、イギリス植民地時代の多種類のコインまで展示されている。


他の展示としては、ムガル帝国時代の武器・楯・甲冑や、実物大の模型の象の武装などが展示されていた。


中庭にアショーカ王が摩崖岩に刻ませた詔勅(法勅碑文)が展示されている。アショーカ王はカリンガ戦争で多くの犠牲を出したことを反省し、仏法につとめ、子孫が同じあやまちを犯さないように、法勅を各地の岩や石柱に刻んだ。


約2時間強、じっくりと博物館を見学した後、デリー・メトロに乗り、コンノート・プレイスで乗り換え、ラーマクリシュナ・アシュラム・マーグ駅(RK Ashram Marg)まで戻った。


メイン・バザール(バハール・ガンジ)沿いを歩いて、


雑居ビル3階にある「クラブ・インディア・カフェ・デリー」で遅めの昼食(午後2時半)を食べることにした。


この時間、お客は他にいなかった。窓際の席に座り、市場が開かれている広場を眺めながら、生ビールとチーズペンネ(計280ルピー)を頂いた。ワインがないのが残念だったが、久しぶりにチーズを使った料理は嬉しかった。

その後、疲れたので、ホテルに戻り休んだ後、午後10時過ぎに再訪して、今度は焼きそば、春巻き、生ビール(計275ルピー)を頼んだ。
(2012.12.8)
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インド・マトゥーラ

2013-03-30 | インド(アーグラ、ニューデリー)
アーグラにあるホテル・ゴパールで朝を迎える。レストランで軽い朝食を食べて屋上に上がり周りを見渡してみると、工事中の建物などが多く、あまり眺めは良くない。しかし、遠方に見えるタージ・マハルは、先日の見学時の印象と合わさり一層美しく見える。


これからマトゥーラに向かうことにしている。マトゥーラは、アーグラから50キロメートルほど北(デリーからは145キロメートルほど南)にあるウッタル・プラデーシュ州の都市で、タージ・マハルのそばを流れるヤムナー川の上流に面している。ここは、紀元前後から2世紀頃にかけて、仏像彫刻が始まった地(インド北西部のガンダーラ地方と同時期に)として知られており、市内にあるマトゥーラ博物館にはクシャーン朝(1世紀~3世紀)からグプタ朝(4世紀~6世紀)時代の仏像を中心に多くの彫像が展示されている。


しかし、インドでのマトゥーラの知名度は仏教彫刻と言うよりヒンドゥ教やジャイナ教の聖地として知られている。ジャイナ教では7人目の祖師スパルスバーナルハの生誕の地として知られ、ヒンドゥ教ではヴィシュヌ神の化身クリシュナの生誕地クリシュナ・ジャナムブーミや、ヤムナー川沿いの寺院など7大聖地の一つとして知られ多くの信者が訪れる。

アーグラを出発して45分ほど過ぎたころ、19号線左側に白い巨大なヒンドゥ教ババ・ジャイ・グルデフ寺院(Baba Jaigurudev Mandir)が見えてきた。この先の交差点を右折するとマトゥーラ中心部に到着する。


運転手(Mr.マノース)は、最初にマトゥーラ市内北部に位置するクリシュナ・ジャナムブーミに案内するという。混雑する市内中心部への交差点を通りすぎ、更に19号線を3キロメートルほど北上して右折した。


しばらく進むと鉄道の踏切が現れた。クリシュナ・ジャナムブーミへは、車を乗り入れることができない為、ここから徒歩になる。線路を横断しながら右側を眺めると遠方にブトシュワー駅(マトゥーラジャンクション駅の次駅)のホームが見える。


目の前に牛が歩いている。インドではどこでも見る光景だが、中々見慣れない。。


通りを進むと、右側に、巨大な貯水池(Potara Kund)が見えてきた。ガート(池や川岸に設置された階段状の親水施設)があることから沐浴や葬礼の場なのだろう。しかし、この時間は少年が魚釣りをしているだけだった。


そろそろ目的地は近いようで、辺りは賑やかな通りになった。


通りの左側に番人の像が立つゲートが見えた。ここが、ヴィシュヌ神の化身クリシュナの生誕地クリシュナ・ジャナムブーミらしい。正門ゲートの上には、叙事詩マハーバーラタで知られる、クリシュナとアルジュナの対話を主題とした二輪戦車(Ratha)像が飾られている。


正門ゲートに向かって右側にセキュリティチェックがある。貴重品以外、カメラも持参禁止で預けさせられた。その後、正面ゲートから入場し坂を上って行く。


坂を上り詰めた先には、クリシュナの生誕地を記念して建てられたバグワット・バワン寺院(セキュリティチェックの更に右側にある3階建ての建物の後方)がある。敷地内はかなり広い。寺院本堂奥には、クリシュナ像が祀られ、広い外陣も設けられており、多くの参拝者で賑わっていた。敷地内にも、クリシュナやヒンドゥ教に関する書物や絵本、画像、彫像などが売られていた。寺院は高台にあり、市内が眺望できるのが良かった。


午前中の参拝はお昼の12時で一旦終了するらしい。40分ほど見学して終了時間の12時に再び正門を出て通りに戻ってきた。この時間、辺りは多くの人で賑わっていた。


通り沿いにも多くのお店が軒を連ねており、やはりヒンドゥ教に関する品々が並んでいる。


その後、午後12時40分に目的地のマトゥーラ博物館に到着したが、休館だった。。運転手(Mr.マノース)が街の人に聞いたところ何やらヒンドゥ教関連の行事が理由で突然休館になったらしい。事前に、運転手の旅行会社に今日は開館しているか確認した際は大丈夫と言っていたため多少の不信感を抱いた。。
合点いかないが、仕方がないので諦めてアーグラに戻ることにした。途中のレストラン昼食(カレー)を食べ、午後3時半頃ホテルに戻った。
************************************

翌朝、午前中の列車に乗って直接ニュー・デリーに戻る予定だったが、マトゥーラ博物館にはどうしても行きたかったので、急遽、運転手を通じて旅行会社に、マトゥーラまでの乗車券と、マトゥーラから乗車して夜にニュー・デリーに戻る乗車券とに変更するように依頼した。昨日の負い目があったのか、すんなり対応してくれた。そして、午前10時28分アーグラ駅発の電車に乗りマトゥーラに向かった。マトゥーラ・ジャンクション駅には、20分遅れの午前11時40分に到着した。


駅からマトゥーラ博物館までは2キロメートルほどだが、今日は荷物も持っての移動のためオートリキシャ(料金:30ルビー)で向かうことにした。


博物館には10分ほどで到着した。多少不安もあったが、入口が開いており安堵した。今日は開館している。入場料45ルビーを払い、入口で荷物を預けてセキュリティチェックを受ける。他には来館者はいないようだ。マトゥーラ博物館は1874年にSir F.S.グロウス(Growse)により建てられた歴史ある政府系の博物館である。


入場してすぐ左側には博物館を代表する「カニシカ王立像(1世紀クシャーン朝、マトゥーラ(マート)出土)」が展示されている。カニシカ王は、1世紀から3世紀頃、中央アジアから北インドにかけて勢力を拡大したイラン系の王朝クシャーン朝の第4代君主カニシカ1世(在位:144年頃~171年頃)のことで、クシャーン朝では最も有名な王として知られ仏教を厚く保護した。
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像は頭部と両腕とを欠いているが、185センチメートルある巨像だ。右手は剣の上端に乗せ、左手で長剣の柄を握っている。ペルシア風マントをまとい、長靴(足首と踵を結ぶベルト付)を履いた大きい足で大地をしっかりと踏み締める姿には力強さを感じる。正面の衣の裾に沿ってMaharaja rajatiraja devaputro Kanisko(大王、王の王、天子、カニシコ)との銘文がある。カニシカ王立像は、20世紀初頭、マトゥーラ北方のバラモン寺院跡で発見された。
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こちらには「王座に座るヴィマ・カドフィセス像(1世紀クシャーン朝、マトゥーラ(マート)出土)」が展示されている。像はクシャーン朝第3君主ヴィマ・カドフィセス(在位:90年頃~144年頃)のことで、カニシカ1世の父親で知られている。作品は、頭部を欠き、胸にあてた右手に武器を持つ痕が残されている。足にはカニシカ王立像と同様の大きな長靴を履いており、王座の左右には獅子像が表されている。
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近くには、同時期制作の見事な獅子像(舌を出している)が展示されている。

「サカ王子のトルソー(1世紀クシャーン朝、マトゥーラ(マート)出土)」。サカとは、BC1世紀の西北インドに興ったスキタイ系のサカ人による諸王朝で、中でもクシャトラパ王国は北西インドからマトゥーラまでを統治した。クシャーン朝の前時代に活躍した。
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展示室内には空調設備はなく、所々に天井扇や壁取付扇など、最近の日本では見かけなくなった設備がある。こちらは、入館した最初の展示室の奥から入口左側にあるカニシカ王立像方向を眺めた様子である。
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さて、次にシュンガ朝時代の作品をみてみよう。ところで、シュンガ王朝(BC180年頃~BC68年頃)とは、仏教を保護したアショーカ王(在位:BC268年頃~BC232年頃)で知られるマウリヤ朝(BC317年頃~BC180年頃)の最後の王に仕えたプシャミトラ・シュンガ(在位:BC180年頃~BC144年頃)が、マウリヤ朝を滅ぼし自ら王位に付き創設した王朝である。この時代はインド最初期の仏教美術が栄えた時代とされる。

こちらは「欄楯の女性頭部(BC2世紀、シュンガ朝)」で、このメダリオンには髪を団子状に束ねた女性の頭部を中心に細かい浮彫が施されていることに驚かされる。欄楯とはストゥーパなど周囲の神聖な場所を俗界の地と区別するために設けられた玉垣のことである。
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シュンガ朝時代の欄楯彫刻では、他にも美しいメダリオンや、仏陀の前世物語(ジャータカ)を題材にした欄楯などが展示されている。

こちらにも、同様の髪型をした女性の胸像(BC1世紀後半、シュンガ朝)が彫られた作品が展示されている。やや歯をかみしめた様な表情で、右手に払子(?)を持っている。
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こちらは「菩提樹と法輪(BC1世紀、シュンガ朝、マトゥーラ(バラトプル)出土)」。やはり欄楯に彫刻されたもの。仏陀はこの時代までは、菩提樹や法輪など仏の象徴として表現されたため、仏像としてはまだ登場していない。
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それでは、次にクシャーン朝時代に制作された仏教作品を見ていこう。こちらは「偉大な終焉(great demise)の象徴(1世紀クシャーン朝、マトゥーラ(ヴリンダーヴァン)出土)」と名付けられた作品で、仏陀の涅槃を仏塔(ストゥーパ)で表している。
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そして、こちらが「菩薩立像(1世紀クシャーン朝、マトゥーラ(マホーリー)出土」とあるが、初期の仏陀像とされている。マトゥーラ仏の特徴である黄班文がある赤色砂岩で造られており、少しわかりにくいが、右肩を露出する偏袒右肩で薄い衣をまとっている。右腕は欠いているが、左手は腰の位置でたくし上げた衣を掴んでいる。近くに同時期(やや後)制作と思われる立像が展示されているが、右手はこの立像と同じく施無畏印(相手に恐れなくてよいと励ます)を結んでいたのかもしれない。
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足の間の台座には、蓮華の蕾(束?)の様なものが表現されており非常に興味深かった。同様の表現が見られる同時期の立像にもあったので、この時代の様式の一つなのだろう。

像は仰ぎ見るほどに大きい為に頂部は確認できないが、頭に肉髻や額の白毫はないようだ。これほどの巨像が今まで残っていることに驚きを感じる。
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こちらは「二龍王(ナーガ)による灌水(2世紀マトゥーラ(カンカーリ・ティーラー)出土)」。釈迦族のシュドーダナ王(浄飯王)とマーヤー(摩耶)夫人との間に生まれたシッダールタ王子は、伝説では、生まれてすぐに7歩を歩き、右手で天を、左手で地を指し「天上天下唯我独尊」と唱えたとされるが、この像の右腕は欠けている。そして体格は、幼児と言うより、他のマトゥーラ仏の立像に似ている。
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そして、こちらは偏袒右肩で結跏趺坐する「仏陀像(1世紀クシャーン朝、マトゥーラ(バイパス)出土)」。両腕は欠いているが、丸顔で唇が厚く柔らかい表情は、先ほどの立像と良く似ている。そして頭部には肉髻がある。大きい光輪は良く残っており、半円形状の弧を連ねた連弧紋様がとりまいている。
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近くには、頭部を欠いているが、同じ1世紀制作の偏袒右肩で結跏趺坐をする仏陀像や、同時期制作と思われるやや肉感的なマトゥーラ仏が展示されている

こちらは「仏陀坐像(2世紀前半、マトゥーラ(カトラー)出土)」で、初期マトゥーラ仏像を代表する傑作である。この作品を見ることを楽しみにしていたが、高さは70センチメートルほどで思ったより小さかった。偏袒右肩で薄い衣をまとい、右手は施無畏印を結び、左手は左肘を強く張り膝の上に置き、獅子が3頭(中央の獅子は正面を向き、左右の獅子は横向)配された台座の上に結跏趺坐している。台座には「菩薩」と銘文が刻まれているが、悟りを開いた仏陀の姿である。
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顔は、丸顔で見開いた眼、下唇はやや厚く微笑みの表情をしており、頭には巻貝型の肉髻を付けている。手のひらと足の裏には千輻輪相(三宝標と法輪)が刻まれている。払子を持って立つ脇侍は、仏陀の後ろから覗き込むような姿をしており微笑ましい。上部左右には二体の飛天が舞っており、仏陀の光輪はやや小さめだが連弧紋様で、後ろに菩提樹が見える。
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こちらは「涅槃(2世紀、クシャーン朝、マトゥーラ出土)」。仏陀の入滅を表現したレリーフである。沙羅双樹の樹のそばの欄干のある建物のベッドの上で右手を枕に横たわっている。同時期のマトゥーラ仏では珍しい螺髪姿で、光輪には半円状の連弧文がある。周りには悲しむ弟子たちの姿があるが、特に、仏陀の背後の3人の悲しむ姿(中央に両手を挙げる人物、左右に右手で頭を抑える人物、長髪を前面に垂らして顔を覆う女性らしき人物)は印象的である。
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「ストゥーパ(3世紀)」。ストゥーパの下部には、仏陀の四大事(誕生、成道、初転法輪、涅槃)が浮き彫りにされている。
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「仏陀立像(2世紀、クシャーン朝、マトゥーラ出土)」。薄手の衣を通肩に着けており、ややなで肩である。仏陀は施無畏印を結び、左手は肩の位置で衣を掴んでいる。手のひらには輪宝の紋様はない。丸みを帯びた微笑みの表情はマトゥーラ仏の特徴を持ち、額には白毫があり、頭部には巻貝型の肉髻を付けている。光輪は完全な形で残っており、やはり半円形状の弧を連ねた連弧紋様がとりまいている。
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こちらは「仏陀頭部(クシャーン朝、マトゥーラ(チャーバラ・マウンド)出土)」。制作年は書かれていないが、クシャーン朝時代の丸みを帯び、やや微笑んだ表情のマトゥーラ仏である。額には白毫があり、頭部にはカパルダと呼ばれる巻貝型の肉髻を付けている。眺めていると穏やかな気持ちにさせてくれる仏像だ。
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「仏陀頭部」の後方には、2メートルを超える「ヤクシャ立像(BC1世紀後半、シュンガ朝、パールカム(マトゥーラ)出土)」が立っている。シュンガ朝時代の巨像を今も鑑賞できるのは驚きだ。
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更に、後方には、テラコッタの展示室があり、シュンガ朝(BC2世紀~1世紀)クシャーン朝(1世紀~3世紀)グプタ朝(4世紀~6世紀)時代のテラコッタ作品なども展示されている。


それでは、次にグプタ朝時代の仏像を見てみよう。ところでグプタ朝(320年~550年頃)とは、マウリヤ王朝(BC317年頃~BC180年頃)の後継として、分裂時代を経た約500年後にインド北部を統一した王朝(マウリヤ王朝の初代王と同じ名前のチャンドラグプタ(1世)と言い、首都も同じパータリプトラ(パトナー))で4世紀に最盛期を迎えた。このころマトゥーラを含むインド中北部では、ガンダーラ美術が入り始めたが、グプタ朝仏教美術を確立しインド文化の黄金時代を迎えた。

こちらの壁面中央には、一際大きな立像がピンク色で縁取りされて展示されている。


像は「仏陀立像(5世紀、グプタ朝、マトゥーラ(ジャマールプル・ マウンド)出土)」と表示され、均整のとれた体躯で、身体に密着した衣を通肩に着けている。衣内の腰紐の盛り上がりや、足の付け根から膝のくるぶしなど驚くほど写実的に表現されている。右手は欠けているが、左手は軽く衣を掴んでいるものの、手のひらが開きこちら側に見せていることから与願印にも似ている。
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向かって左側には、やや小さめの「仏陀立像(434年、グプタ朝、マトゥーラ(ガバインド・ナガー)出土)が展示されているが、右手は施無畏印を結び、縵網相(一人でも多くの人を救うという水かきのような膜)が表現されているのでおそらく同じであったのだろう。

頭部は、日本人には馴染み深い螺髪姿で、顔は柔らかい表情だが崇高さと気品さを感じさせる。光背には、菩提樹の葉や法輪、花弁などの様々な紋様が複雑に表現され、全体として、仏像の一つの到達点すら感じさせる見事な像である。。なお、日本に仏像と共に仏像文化が伝えられたのは6世紀半ば頃とされていることから、この像はその約100年ほど前に造られたということになる。
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足の間には、特に装飾物はなく、台座の両端に合掌する人物が表現されている。

5世紀の仏陀頭部。鼻筋の通ったやや面長な顔をしているおり、クシャーン朝時代のマトゥーラ仏とはだいぶ表情が異なっている。
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仏像以外の作品をみてみよう。
こちらは「パールシュバナータの頭部像(2世紀)」。ジャイナ教の祖師マハーヴィーラに先だつ23番目の祖師パールシュバナータの頭部像である。頭部には螺髪より単純化された渦巻き状の髪が表現され、小顔で眼光が鋭い。ナーガ(蛇神)が上部にあるが、仏陀が悟りを開く時に蛇王ムチャリンダが盾となり雨や風から守ったとされていることから、やはり守護神として表現されているのだろう。ナーガ(蛇神)は、もともとはインド神話に起源があり頭が7つある姿で表現されることが多いとされる。
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「富と財宝の神クベーラ(2世紀、マトゥーラ(マホリ)出土)」は、インドの重要な神様。仏教に取り入れられ毘沙門天となった。
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こちらの展示室には、多くの欄楯柱が並んでいる。


ヤクシニー(夜叉)と思ったが、それぞれ、違った作品名が付いている。こちらは「ワインポットとブドウの房を持つ女性像(2世紀)」と名付けられ、豊満な裸体で表現されている。
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他にも、「菩提樹の下で刀剣を持つ女性(1世紀)」「ゴブレット(足付きワイン用グラス)を持つ女性(2世紀)」「手鏡を持ち座編み椅子に座る女性(2世紀)」シャーラバンジカ(樹下美人)像(2世紀)などの作品が展示されていた。多くの作品には菩提樹や葡萄などの樹木が登場するが、古代インドでは、女性が樹木に触れることで花が咲き、実を付けるとの信仰があったようだ。

6世紀以降の作品では、ヒンドゥ教に関する彫像が多く展示されており、どれも細かく彫り込まれており見ごたえがある。「ブラフマー神、ヴィシュヌ神、シヴァ神、スーリヤ神像(9世紀)」「瞑想する4武装のヴィシュヌ神」「ヴィシュヌ神の猪神への化現(9~10世紀)」「シヴァ神の化身ヴィーバドラとガネーシャに囲まれた7毋神(12世紀)」などが展示されていた。

博物館の中央には噴水のある中庭があり、所々に彫刻が置かれている。


回廊はアーケードになっており多くの彫像が展示されていた。


見学者が少なかったため、ほとんど貸しきり状態で過ごせた。日本で言うところの国宝クラスの作品が多く展示されているが、係員はたまにしか姿を表さず、展示品の表示は手書きの上、無造作に配置されている印象だった。とは言え間近で作品をゆっくり鑑賞できたことは大満足だった。結果午後2時過ぎまで滞在した。列車の時間までは、まだだいぶあるので、ヤムナー川沿いのヴィシュラム・ガートや寺院に行ってみることとし、重い荷物を持って歩いて向かうと、すぐに人通りが多くなった。


しばらくすると前方に時計台の石造りの門ホーリー・ゲートが現れた。


ゲートを過ぎると、日用品を売る商店や土産物屋なども増え、商店街の様な雰囲気になった。


ヤムナー川が見えてきた。このあたりが、ヴィシュラム・ガートになるのだろう。ガートで辺りを眺めていると、少年が近づきボートに乗ってほしいと営業攻撃をかけてくる。辺りを見渡しても、他に乗船している観光客も見当たらず、あまり気が乗らなかったので断り続けるが、ディスカウントといってやたらしつこく勧めてくる。結局50ルビーで10分だけ乗ることにした。


ガートは、賑やかな印象があるのだが、この日のヴィシュラム・ガート付近は何故かやたら静かで人が少ない。


乗船して10分が過ぎたが、何度言っても戻ろうとしないので、強めに要求したら戻り始めた。


ボートを下りた場所には、ピンク色が鮮やかなクリシュナ寺院が建っている。すると、何処からかボートの少年の仲間なのか青年が2人現れ、 クリシュナ寺院を案内し始め、チップを要求してきたが、毅然とした態度で案内を断るといなくなった。


ガートの近くでは、手押し車で焼き芋を売っており、その香ばしい香りに誘われ1つ購入する(20ルピー)。少し食べ始めたところで、突然猿に飛びかかれ焼き芋を取られた。焼き芋はよいが怪我をしなくて良かった。


午後4時半になったので、サイクルリキシャ(30ルビー)に乗って、マトゥーラジャンクション駅に向かう。途中で500ml缶ビール(90ルビー)とゆで卵2個(10ルビー)を買う。


駅でチキン(22ルピー)、オレンジ2個(20ルピー)と水(12ルピー)を買い、ビールを飲みながら、デリー行き列車(午後7時29分発の12137 Punjab mail)を待つが予定通りには来ない。


薄暗いホームで列車の到着を待っていた時、子供のころ、夜の薄暗い国鉄駅で寂しさと不安な気持ちを感じながら中々来ない列車を待っていたことをふと思い出した。。
列車は、午後8時を過ぎたころに到着した。マトゥーラジャンクション駅は、アーグラ駅と違い、多くの乗客の乗り降りがなく、車内灯は消灯されたままだったので、連結の灯りを頼りに、予約していた寝台ベッドを探して横になった。


車内は暖かかったため少し寝たようだ。ニューデリーには、午後10時20分に無事到着した。


まずは今夜の宿泊ホテルを探さねばならない。もともと昼過ぎにニューデリーに戻り、明るいうちにホテルを探すつもりだったが、マトゥーラ博物館に寄ったため到着が遅くなってしまった。急ぎ目星を付けていたホテル・クワリティ(Hotel Kwality)に向かい宿泊の交渉を始めた。場所はパハールガンジから北側の大道り(ディッシュ・バンド・グプタ・ロード)を越えた所にある。


無事泊まることが決まり、部屋で一息つき荷物を片付けた後、夕食を食べに出かけた。時刻は午後11時になっていた。少し遠いが、この時間ではパハールガンジ(メインバザール)近辺しか開いていないだろうと思い、歩いて15分ほどの場所にある「レストラン・グリーン・チリ」に向かった。店内には2人の客だけだった。食事が可能か聞いたところOKだったので、ビール(150ルピー)、野菜丼(150ルピー)、タンドリーチキン(180ルピー)を頂いた

無事にニューデリーに戻ることができたためか、今夜のビールと食事は格別に美味に感じられた。
(2012.12.6~7)
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インド・サンカーシャ

2013-03-30 | インド(アーグラ、ニューデリー)
今日は、ウッタル・プラデーシュ州ファッルカーバード(Farrukhabad)県にある仏教八大聖地の一つ「サンカーシャ」(Sankassa/Sankisa)に向かうことにしている。サンカーシャは、アーグラから北東160キロメートルにあり、交通機関もない辺鄙な場所であることから、車をチャーターした。朝7時にアーグラの宿泊ホテル・ゴーパル(タージマハル南に位置)を出発し、これからヤムナー川をアンベッカー橋で渡り、一路東に向かう。


ヤムナー川を渡り、すぐに、片側三車線ある高速道路を思わせる国道19号線(NH 19)を走行すると、あっという間にアーグラ市内を離れ、左右に続いていた街並みが無くなり緑に変わっていく。出発時間も早かったせいか道路は空いており、幸先の良いスタートである。


国道19号線を1時間ほど走行した後、インターチェンジを降りて一般道を進むと、街並みが広がり通行量が多くなってきた。フィロザバード(Firozabad)(フィロザバード県の行政庁所在地)で、ガラス製造やバングル(リストバンド)などの生産中心地として知られている。街の名前は、ムガル帝国の第3代君主アクバル(在位:1556~1605)治世、派遣された税金徴収官フィロズ・シャー・マンサブダーリーに因んで名付けられた。
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通りの右側に、巨大な建物が建ち、バスやオートリキシャが多数駐車して人々が集まっている。その建物前からの二股道を左方向に向かい振り返ると、建物の全貌を確認することができる。白い横長の3階建ての建物で、屋上に欄干とチャトリが設置されているが、こちらは、宿泊施設や病院、各店舗に加えジャイナ教「マンディア寺院」が併設された複合施設である。更にその複合施設の南側には、長径200メートルほどの長方形の敷地にジャイナ像(高さ約13メートル)が立つ、フィロザバードを代表するジャイナ教寺院「チャダミラル寺院」が隣接している。

市内を少し走行した後、休憩して朝食を取ることにした。このエリアには市場があり、派手に飾ったオートリキシャの運転手が食事や休憩をしている。屋台などの食材は日本人のお腹にはリスクがあるので、この日はバナナやリンゴ等皮付きの果物と乾物などの加工食品を持参して車内で食べた。


休憩を終え、出発してしばらくすると道路は空きだしたが、30分位で再び混雑し始めた。フィロザバードから20キロメートル東のシコハバード(Shikohabad)辺りだろう。シコハバードはフィロザバード地区にある小さな街だが、シヴァ神に捧げられたヒンドゥ教の巡礼センターがあり、各方面への道路や鉄道が接続する交通の要所となっている。


シコハバードを過ぎ、木々や農地が広がる田舎道を進んで行くと、南北に満々と水を湛えた川が現れた。実は1842年から1854年に建設された「ローワー・ガンガ運河」(Lower Ganges Canal)で、ガンジス川とヤムナー川間の約9,000平方キロメートル規模の農地を灌漑する目的で造られた運河システム(アッパーとローワーがある)である。


フィロザバードから約1時間半、40キロメートルほど進んだ所で、マインプリ県の行政庁所在マインプリ(Mainpuri)に到着した。アーグラから東に約100キロメートルに位置しており、農産物や木彫品、噛みたばこの産地として知られている。他にも、湖やヤムナー川の支流川が流れるなど、水資源が豊かな街で、クラウンチャーサナ(青サギ)、オオヅルなどが生息し、絶滅危惧種と言われるソデグロヅルの飛来地としても知られている。

マインプリの中心部を抜けると、ウッタル・プラデーシュ州の中央を南北に横断する国道34号線(NH34)との交差点に到着する。こちらの交差点を直進して給水塔が建つ通りを進むとマインプリ地区にある小さな街ボガオン(Bhogaon)の中心部に至る。一方、交差点を左折して北西に向かうと170キロメートル先でアリーガル(Aligarh)、そしてニューデリー(New Delhi)に至る。


これから、この交差点を右折して東に向かうこととしている。東には、70キロメートル先にガンジス川上流右岸の街カンナウジ(Kannauj)があり、そのカンナウジを経由して、カーンプル(Kanpur)やウッタル・プラデーシュ州の州都ラクナウー(Lucknow)へと続いている。ちなみにカンナウジは、北インドの古都で知られ、中国唐代の僧、玄奘三蔵(602~664)が大唐西域記で「曲女城」と記しその繁栄ぶりを伝えている。

交差点を右折して国道34号線を東方面へと進むと、すぐに左側(北側)に小さな湖が見え、対岸にボガオンの街並みが見える。


国道34号線を10キロメートルほど東に進んだ所で、トラック、バス、車が多く駐車するエリアとなった。周りにはバラック小屋が立ち並び、食品などを販売している。こちらは、マインプリ地区にある村ベワー・グラミーム(Bewar Grameem)で、マインプリから30キロメートル東に位置する人口7千人の寒村だが、各主要都市からの道路が交差する交通の要衝となっている。


こちらの交差点からは、カンナウジ、カーンプル方面へ向かう国道34号線と別に、右折して南60キロメートルにあるイターワー(Etawah)方面への国道と、左折して北東35キロメートルにあるファッルカーバード方面(ガンジス川上流右岸)への一般道が延びている。

目的地のサンカーシャは、ベワー・グラミームの北部に位置しているが、直接繋がる通りがないためファッルカーバード方面に向かい、途中で左折することになる。


マインプリから約1時間が経過した。ムハンマダバード(Mohammadabad)まで行き、左折してサンカーシャ・ロード(Sankisa Road)を利用するのが推奨ルートとされているが、かなり遠回りになる。運転手は、車を停め、前方から現れたジープに道を尋ねる。


小さな交差路を左折して雑草と木々に覆われた細い通りを進む。何処を走行しているのか分からないが、運転手によるとまもなく到着するとのこと。


ジープに道を尋ねてから30分ほどで、辺りは開け左側に建物や屋台が現れた。いつの間にか、サンカーシャ・ロードを走行していたらしく、屋台の先を大きく左に曲がった先が目的地のサンカーシャである。車を降りて散策してみる。


左に曲がると広いサンカーシャ・ロードが南方面に延びている。すぐ左側には、ラクナウの旅行会社による「サンカーシャ」の案内板が掲げられている。案内板には「サンカーシャは、仏教徒にとって重要な聖地(仏陀の三道宝階降下の場所)で、玄奘三蔵の大唐西域記でも言及されている」と記載されている。時計を見ると午前11時を過ぎたところだったので、出発して約4時間かかったことになる。


これまで、八大聖地では、バナーラスを起点に、ブッダ・ガヤー、サールナート、ラージギール(王舎城)、ヴァイシャーリー、クシーナガル、ルンビニー、シュラーヴァスティー(舎衛城、祇園精舎)と巡ってきたが、遂に最後の聖地を訪れることができた。さて、サンカーシャは、仏陀が、祇園精舎に滞在していた際に、近隣のオーラジャハールの丘から昇天して三十三天(忉利天)にいる母マーヤー夫人(摩耶夫人)のために法を説き、3ケ月後に帰還した地(三道宝階降下の伝説)といわれている。

通り沿いにインドの公営宿舎(ラビ・ツーリスト・バンガロー)(Rahi Tourist Bungalow Sankisa)の看板があり、右側(西側)の敷地には、タルチョーが張り巡らされ、白く大きなストゥーパ(仏塔)が建っている。特に入場制限がある様子もないので、敷地内に入ってみる。奥には、宿泊施設と思われる建物が並び、仏陀の立像も見える。


ストゥーパは真新しく造られたばかりに見える。覆鉢部の上に相輪を載せるインド型だが、側面に刳形(繰形)が施され、やや釣鐘状で、頂部には尖塔がそびえており、スリランカやタイで見られる様式に似ている。正面階段上には仏陀座像が飾られ周囲には欄楯が取り囲む繞道が形成されている。更に外側にも欄楯があるが、片側のみで、左側に象の彫刻が並ぶ基壇を望むことができる。
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ストゥーパの先には、土嚢袋の上に菩薩像が寝かされており、その先に台座があることから設置準備中と思われる。一番奥には、極彩色の蓮の台座に立つ彩色された仏陀立像が飾られている。像は、右手を挙げ左手を下げているが、右手は指で輪を作っており、阿弥陀如来像の印相に似ている。隣にはタイ・スコータイ様式の「歩行する黄金の仏陀像」が飾られ、天蓋が備えられている。
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ストゥーパの西隣には、大きな菩提樹があり、鮮やかな柿色の礼拝施設で荘厳されている。施設の周囲には、仏陀座像を祀る祠が並んでいる。いずれも、巡礼者や観光客のために造られた宿泊施設と礼拝施設と思われるが、新しすぎて芸術的な価値は低い。
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車に乗り、サンカーシャ・ロードを南に向け進む。右側にロイヤル・レジデンシー・ホテル(The Royal Residency)と書かれた看板があり、敷地内に大きな白い仏塔が建っている。停車して入口で尋ねると、昨年完成した日本人観光客向けのホテルで日本寺院も併設しているとのことだが、仏塔は違うのではと思った。


再びサンカーシャ・ロードを進む。広い直線道は、何やら聖域への参道を歩んでいる様な気持ちになった。


1キロメートルほど先で、左右に石壁が続く入口が現れ、目的地サンカーシャ遺跡に到着した。入口の格子扉は開け放たれているので、そのまま侵入して広い敷地内に車を駐車した。敷地の中央には、四方に枝を伸ばす大きな菩提樹が聳え、前後に小さな仏塔を頂く祠堂とアショーカ王柱が飾られた建屋がある。この時間、他に駐車中の車はなかったので、観光客や巡礼者はいないようだ。


立方体に半円形のストゥーパを頂く「白い祠堂」にはアーチ型の鉄扉が取り付けられ鍵がかけられているが、近づくと係員が現れて開けてくれた。サンカーシャにおける仏陀伝説によると、母マーヤー夫人がいる三十三天(忉利天)から3つの階段が降ろされ、中央の黄金階段から仏陀が、右側の白金階段から払子を手にした梵天(ブラフマー神)が、左側の水精(石英)階段からは、仏陀に天蓋を翳した帝釈天(インドラ神)が降下されたと伝わっている。祠堂内部には、その伝説を踏まえた「三道宝階降下のレリーフ」が収められている。
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三尊像の手前には蓮傘や花が供えられている。ちなみに、仏陀が昇天したとされる祇園精舎は、サンカーシャから直線距離で、概ね300キロメートル東に位置している。

さて、サンカーシャにおける最大の見どころは、菩提樹のそばに飾られたアショーカ王柱の柱頭彫刻である。アショーカ王柱とは、インド亜大陸をほぼ統一し、仏教を守護したマウリヤ朝第3代の王アショーカ王(前304~前232)が、領内各地の石柱に刻んだ(摩崖もあり)詔勅であり、それらが各地で発掘されることで、仏陀が活動したゆかりの地が特定される根拠ともなっている。これまで、王柱については、サールナート、カウシャーンビー、ブッダ・ガヤー、ヴァイシャーリー、ルンビニーで見てきたが、柱頭彫刻は、サールナートとヴァイシャーリーの二か所で、共に獅子像が施されていた。
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そのサンカーシャの柱頭彫刻は、階段付きの低い基壇の上に、四方の石柱が宝形造の屋根を支える東屋風の簡素な建屋の中央に飾られている。周囲に縦格子フェンスが張り巡らされ、階段側に扉があり鍵がかけられている。
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玄奘三蔵や、中国東晋時代の僧、法顕(337~422)が、サンカーシャ(劫比他(カピタ)国)を訪れた際は、共に、柱の上に獅子を作り四面には美しい浮彫が取り巻いていると報告している。

しかし、こちらには、王柱はなく、柱頭彫刻のみで、更には獅子ではなく象の彫刻である。イギリスの考古学者でインド考古調査局の設立に関わり、数々のインドの仏教寺院遺跡の発掘に大きく寄与したアレキサンダー・カニンガム(1814~1893)によると、玄奘三蔵と法顕は象を獅子と間違えたとしており、この象こそ二人が見たものと断言しているが、どうなのであろう。

像を下から見上げると、鼻が破損しているので、獅子にも見えるが、足元を見れば象の蹄(爪)であり見間違えたとは考えにくい。。また、玄奘三蔵は、「獅子はうずくまり階段の方向を向いている」と記しているが、どう見ても足を踏ん張って立っている。
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劫比他国が、このサンカーシャだとするカニンガム説に否定を唱える学者もいるが、他に特定された土地があるわけでもなく、獅子像が発掘されていないことから謎は深まるだけである。いずれにせよ、古代の彫像であることは明らかで、蓮弁をかたどった鐘形と、繊細な花の装飾が施された冠盤の上に立つ象の存在感には惹きつけられるものがあり、歴史的・美術的価値はかなり高い。
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ところで、玄奘三蔵が言う階段とは、大きな伽藍にあった階段のことで、その伽藍には1,000人以上の僧が修行していたとされる。しかし、現在では、振り返った先に、聳えるもう一本の大きな菩提樹と、その隣に見える小高い丘が残るだけである。


菩提樹の幹に隠れるように向かい側には、屋根もなく崩れかけたレンガ小屋が建っている。そして、右側の小高い丘が「三道宝階降下の伝説」の場所で、後世に、巨大なストゥーパ(仏塔)が造られたが、崩壊して現在の姿になった。


その左側の煉瓦で造られた小屋を入ると壁龕がありヒンドゥ教で人気が高い神猿ハヌマーンの像が飾られていた。


右側の「三道宝階降下の伝説」の場所には、階段が設けられており上ることができるが、煉瓦や石材が、あちらこちらに散乱している。


階段は、踏み石の大半が崩れ落ちており階段の役目を果たしていない。上るのもやっとの状態である。


何とか上り終えると、頂上には白い祠と、右側に柿色の祠が設置されている。周りには、煉瓦や石材が埋もれており、全体が人工物だったことが頷ける。


白い祠は、頂上のほぼ中央に、やや厚みのある基壇の上に建てられている。立方体で頂部に小さなストゥーパが乗り、正面の入口を覆っていた鉄格子の扉は、壊れて外側に立て掛けられている。


祠の中には、金の縁取りがある赤いマントを着たヴィシャーリ女神(Vishari Devi)(マーヤ夫人の女神名)が祀られている。台座は白タイルで供物が供えられ、像は大理石から造られ、金箔が施された壁龕の中に納められている。天井からは、複数の鐘が吊り下げられている。この場所が仏陀が三十三天(忉利天)から降り立った場所とされるが、ストゥーパが崩壊した今では聖地としては余りにもうら寂しい。。
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祠に穴が開いていたので、後側から見ると、白漆喰が剥がれ煉瓦が大きく崩れている。足元には、石材の址が残っている。写真を撮っていると、二人の少年が近づいて来て撮ってほしいというので撮影した。


隣の柿色の祠の入口は、ムガル建築で見られるイーワーン型で、内部には、中央と側面にヒンドゥ教の神像(神猿ハヌマーン?)が祀られているが、雑にペンキが塗られておりよくわからない。。


南側を見下ろすと、麓には訪れる巡礼者が礼拝するために歩いたと思われる址が残っている。その先には木が茂り敷地の境界を示す石壁が築かれている。敷地の先には、田畑が広がり、南に向けて農道が続いている。舗装道だが、大半は破損して砂利道となっている。地図を確認すると、約17キロメートル先がベワー・グラミームになる。
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西南方向を眺めると、煉瓦が垂直に積まれた箇所が見え、やはりその先に境界を示す石壁が続いている。サンカーシャ遺跡がある敷地の広さは、概ね東西150メートル×南北250メートルほどと狭い範囲だが、玄奘三蔵が訪れた際、劫比他(カピタ)国には、周囲二十余里の大都城があったと記している。
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1里が400~500メートルとすると、二十余里は周囲8キロメートル以上となる。カニンガムは、サンカーシャ遺跡の周囲に約6キロメートルに及ぶ十二角形の城壁址を発見したことから、玄奘三蔵が訪れた劫比他国であると確信している。現在の航空写真を良く見るとサンカーシャ遺跡を中心に、半径500メートルと半径1キロメートル付近にうっすらと二重のサークル状の址があり頷ける。

階段を下りてストゥーパを西側から見上げると、おわん型の小高い丘に煉瓦造りの遺構が折り重なっているのが分かる。舎衛城の奇跡と言われる祇園精舎のオーラジャハール遺跡は、後世に巨大なストゥーパを建設し、頂部に参拝可能な精舎を築いていたが、こちらにも近年まで高い基壇の上に、高さ20メートルほどの2階建ての煉瓦造りのストゥーパが建っていた。しかし、大半が崩落してしまったため、現在のおわん型の小高い丘の様な姿となったとのこと。
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ストゥーパには、僅かに側防塔を思わせる円形の塔が残っているが、下部は大きく崩壊している。煉瓦の繋ぎとなるモルタルも残っておらず、煉瓦一つ一つが浮いている様に見える。これでは更に崩壊が加速するだろう。いずれにせよ、ストゥーパは、後世に造られたものだが、耐震設計に乏しいことから地震などで崩壊したと思われる。
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ちなみに玄奘三蔵が訪れた際には、高さ70余尺のストゥーパを三道宝階の黄金、白金、水精(石英)で飾り、その上に精舎が建ち、内部に三道宝階降下の像が祀られていたという。ストゥーパを一周して、案内板が置かれた側から眺めてみるが、やはり崩壊著しい。。そこら中にゴミが散乱しているのは更に残念で寂しい気持ちにさせられる。。
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一通り見学を終え、アショーカ王柱と「三道宝階降下のレリーフ」が収められた祠堂を通り過ぎ、出入口付近まで歩いていると、大型観光バスがやってきた。ともかく静かな中で見学できたことは良かった。


来た際は車で通過したため気づかなかったが、入口の横に薄汚れたピンク色の建物があり、数人の人がしゃがみ込んでいる。建物内に何か展示物でもあるのかと思い覗いてみたが何もなかった。


建物の横を通り過ぎて行った女性の様子を窺っていると、左前方の路地に入って行った。路地の先には集落があり、牛糞を干している農家があった。生物燃料であり、ビハール州ではよく見かけた。。


サンカーシャ・ロード沿いには、いくつか寺院が建っている。集落への入口の先の向かい側(東側)には「ラマ教の修道院」があり、チベット式ストゥーパ「チョルテン」が建っている。チョルテンは、ピラミッド状に積み上げた基壇の上に甕状の覆鉢を乗せる形状が特徴で、白の覆鉢部に鮮やかな彩色の縁取りを装飾するが、こちらは全く彩色が施されていない。空き地が多く、手前に白い花壇の枠だけが設けられていることからも、建設途中かもしれない。


ラマ教の修道院の入口前からサンカーシャ・ロードを眺めると、左側にロイヤル・レジデンシー・ホテルの仏塔が見え、やや手前の向かい側には、広い敷地に建物が建っている。


歩いてその広い敷地の入口まで行くと、炎の様にゆらぐ唐草文様の破風門が建ち、リンネルに「ミャンマー寺院」と書かれている。入口の扉は閉まっていた。。


以上でサンカーシャの訪問は終了である。アーグラから公共交通機関で訪問する場合は、サンカーシャの寺院や巡礼者用の施設に宿泊を予定しないと難しいが、むしろ車をチャーターして日帰りで訪問するのが正解だと思った。ただし、運転手は法外なチップを要求するなどあまり良い印象は持てなかった。

帰りは、達成感もあり安心して車内に転がって寝た。午後4時半を過ぎた頃、起き上がり座ると、ヤムナー川が見えてきた。無事アーグラに到着のようだ。

(2012.12.5)
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インド・アーグラ

2013-03-30 | インド(アーグラ、ニューデリー)
アーグラにある宿泊ホテル(ゴパール)を朝6時半に出て、タージ・ロードを北東に向け歩いている。目的地のタージ・マハルまでは1.7キロメートルほどである。暗闇の中、前方から牛が直進してきたので慌てて避けるが、牛は見向きもせず直進していった。。


ホテルからは15分ほどで西門のチケット売り場に到着した。窓口で入場料750ルピーを支払い、入場を待つ観光客の列に並ぶ。午前7時になると同時に、正面のゲートが開いた。


ゲートを抜けると、アーケードのある建物で囲まれた通路になり、すぐ左側でセキュリティチェックが行われる。荷物のチェックなどを無事終え入場が許可され、前面通路を東方向に直進する。


しばらく歩くと、左右に芝生のある庭園が現れ、その先左側には大楼門(正門)が、右側には南門(出口)が見える。それぞれの交差地を左折(北側)して大楼門に向かう。大楼門は、約30メートルの高さがあり、イスラム建築でお馴染みの、中央に大きなアーチ(イーワーンと呼ばれる半ドームを持つ前方開放式の空間がある。)があり、頂部には11個の丸屋根が、両側頂部には八角形の塔が並んでいる。


大楼門のアーチ先には観光客が集っているのが見える。開場前に、かなり多くの観光客が並んでいるように感じたが、いざ入場してみると思ったほどの人数ではなかった。日中は暑い上に溢れんばかりの観光客で混雑すると聞いていたので、早朝の見学は大正解のようだ。


アーチ前では、朝靄に佇むタージ・マハルの美しさに圧倒され、その場に立ち尽くしてしまった。多くの観光客も同様に、なかなか足を踏み出そうとしない。

タージ・マハルは、ムガル帝国の第5代皇帝シャー・ジャハーン(在位:1628~58)が、1631年に、若くして亡くなった最愛の王妃ムムターズ・マハルのために、22年の歳月を有し、天文学的な費用をかけて建った総大理石造りのインド・イスラム建築を代表する墓廟である。1983年には、ユネスコの世界遺産に登録されている。


しばらくして、数人がタージ・マハルに向け歩きだしたので付いて行く。周りを見渡すとゴミ1つ落ちていない。開場間近の時間でもあり、世界遺産で世界中から多くの観光客が訪れる場所なので、清掃が行き届いているのは当然だが、これまでのインド体験を踏まえると少し驚いた。


水路脇の美しく手入れされた緑沿いの参道を歩いて行くと、朝日が昇り始めタージ・マハルがほんのり赤く色づき始めた。
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タージ・マハルの威容が近づくにつれ、遠くからは気が付かなかったが、支える基壇が巨大な壁の様に立ちはだかってくる。庭園から基壇の上までは7メートルの高さがあり、その基壇上から最も高いドーム先端までは58メートルあるという。


なお、タージ・マハルとタージ・マハルを支える基壇は、欄干で覆われた赤砂岩の基壇の上にある。タージ・マハルの基壇に向かうには、一旦左側に進み赤砂岩の基壇に入り、係員から、ビニールの靴カバーを受け取り、それを履いた上で赤砂岩の基壇の中央まで進む。そしてタージ・マハルの基壇への階段を上るというわけだ。


基壇の上から、先ほど歩いて来た庭園と大楼門を眺めると、まだ朝靄の中に見える。


さて、それでは基壇上からタージ・マハルを見学してみよう。最初に周囲を巡ってみる。


墓廟は横と奥行きが共に57メートルある正方形を基本にして、四隅をカットした変形八角形をしている。この形がどの角度から見ても均整がとれて見える理由と言われる。そして、墓廟の南側正面と北側後面には大アーチが、他の面には、二段組の小アーチがある。その全てのアーチはイーワーンで、下部には外光を取りいれるための格子状の窓がある。


柱や周りには幾何学的紋様のアラベスクの象嵌や浮彫などが施されている。特に、宝石(碧玉、翡翠、トルコ石、サファイア)や鉱石(ラピスラズリ、カーネリアン)などを象嵌として惜しみなく埋め込んだことが、ムガル帝国を破産寸前まで追い詰めた原因と言われている。
白のイメージが強いタージ・マハルだが、柔らかい日差しの中においては、大理石のパーツ毎が生み出す風合や装飾の濃淡も感じられ一層得した気分になる。
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墓廟はもちろんのこと、基壇から、尖塔(ミナレット)など全てが大理石からできており、歩いているだけで贅沢な気持ちになる。なお、東奥に見える建物は、タージ・マハルの基壇の一段下の赤砂岩の基壇端にあり、西側にも対となる形で建っているが、西側がモスクで東側が集会場である。


タージ・マハルの北側の基壇の下には、ヤムナー川が広がっており、この時間、朝靄がかかって幻想的に見える。


正面の大アーチ(イーワーン)を間近から見上げてみると、美しい象嵌のアラベスク紋様やカリグラフィー(アラビア文字)の装飾が配されている。半ドーム内にはヴォールトをかたどった浮彫装飾が随所に見られる。


アーチの下部には生花の表情をそのまま写し取ったかのように一つ一つ異なった姿で表現されている草花の装飾があり、その上には、馬蹄アーチと多弁アーチ(複数の円弧曲線を花弁状につないだアーチ)を組み合わせた様な浮彫が規則正しく並んでいる。


扉のある中央部は、格子状の窓を組み合わせてアーチ型の装飾を形成しているが、驚くことに全て大理石をくり抜いて造られている。


そばに寄ってみると、正六角形にくり抜かれているのが分かる。全く歪みや不揃いがなく、まるでCGでデザインされたかのようだ。


墓廟の内部に入ると廟内の床は星形八角形と十字形を組み合わせた大理石のタイルで覆われている。
早朝のため光が内部まで入らないので、やや見づらいが、中央の八角形のホールの中心には王妃ムムターズ・マハルの墓石があり、その横には一回り大きな夫(第5代皇帝シャー・ジャハーン)の墓石がある。


再び外から中央のドームを見上げてみると、朝日が反射して一層美しくみえる。


基壇上の対角の四か所にあるミナレットは、中央ドームよりやや低い40メートルの高さがある。近づいて真下から見上げてみると、白と言うよりクリーム色といった印象を受ける。望遠で途中の節にあたる部分を見ると、手が抜かれることなく丁寧な装飾がされているのは流石だ。先端は灯台のようにも見える。なお、4本のミナレットは王妃ムムターズ・マハルに仕える4人の侍女を表していると言われている。


左右(東西)対で建つ東側の集会場の建物に行ってみる。集会場は赤砂岩で造られているが、タージ・マハルと変わらぬ繊細な装飾が下部から、イーワーンに至るまで隙間なく施されている。


イーワーンから朝日を浴びるタージ・マハルを眺めた後、再び、公園を歩き、大楼門(正門)に戻る。名残惜しくなり、途中何度も振り返ってタージ・マハルの美しい姿を見ながら遠ざかった。
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大楼門前から再び水に映るタージ・マハルを眺めると、太陽を浴び、白大理石が一層輝いてみえる。日差しの角度により、様々な表情を与えてくれるため、夕方にも再訪したくなった。なお、水面へその姿が映りこむシンメトリーの姿が一番美しいと言われている。
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観光客も少なく早朝の涼し中、美しいタージ・マハルの姿を見られたことに、すっかり満足して南門から敷地を後にした。時間は午前8時15分になっていた。


南門を出たところに銃を肩に下げた警官がいて驚いた。この南門近くには、レストランが集まっているので朝食を食べようとお店を探すと、入口に日本語で親子丼がお勧めと書かれていたフード・カフェ・レストランに入った。ミネラルウォーター(20ルピー)とラーメン(溶き卵が入っていた。)(50ルピー)を食べてホテルに戻った。


少し、仮眠してから、次にホテルで頼んだ車(800ルピー)に乗り、混雑するアーグラ市内(インド鉄道が走る高架橋下の道路そばに土砂を運ぶブルドーザーが最も渋滞した原因だった。。)を抜けて約40キロメートル西に位置するファテープル・シークリーに向かった。


実は、アーグラ城塞に行くつもりだったが、ホテルのスタッフからやたらと勧められ、多少時間もありそうなので行くことにした。


市内を出て高速道路に乗るとスムーズに走行し50分ほどでファテープル・シークリーに到着した。ファテープル・シークリーは、ムガル帝国第3代皇帝アクバル(在位:1556~1605年)によって1574年、アーグラから遷都した新都で「勝利の都」を意味する。


アクバル帝は跡継ぎに恵まれなかったが、この地に住む聖者サリーム・チシュティー(イスラム教の神秘主義者)の予言により王子サリーム(のちのジャハーンギール)が誕生したこと、1573年に、グジャラート地方での戦いに勝利したことから、1569年この地に新たな都の建設を始め1574年に完成した。ファテープル・シークリーは、ヒンドゥ建築とイスラム建築との融合がなされた幾何学的な都市計画で造られ、1986年に世界遺産に登録された。その遺跡群は、現在、宮廷地区とモスク地区とに分かれている。


階段上に聳えるのは、グジャラート地方の征服を記念した凱旋門ブランド・ダルワーザー(壮麗門)で、モスク地区の南門にあたる。なお、今回は、時間の関係からモスク地区(無料)だけを見学する。


都市遺跡は、全て大階段上の丘にあり、ブランド・ダルワーザーの高さは地上から54メートルに位置している。上り詰めて振り返ると町が一望できる。


ブランド・ダルワーザーは、大きなイーワーンと呼ばれる半ドームを持つ前方開放式の空間があるアーチで、随所にインド風の要素を取り入れて造られたムガル建築の最高傑作と言われている。そのイーワーン内に装飾されたアーチ門の左右には、同様のアーチの浮彫装飾が並び、その周りには赤砂岩に白大理石の象嵌をアラベスク紋様に配した繊細な装飾が施されている。


ところで、乗ってきた車は、階段下から数百メートル手前で進入禁止になり、すぐさまオートリキシャに乗せられた。階段の下では、杖を持つ痩せた白シャツ老人が待っており、その老人の後に付いて階段を上っていく。門から先は土足禁止のため、そばのいる係員に靴を預けて中に入る。


入口左右の木造の扉に打ち込まれた蹄鉄は、病気になった家畜が聖者の力によって治癒することを祈願したものらしい。


さて、扉を抜けると、広い中庭が現れアーケードが取り囲んでいる。まず、東側(右側)には、王の門があり、西側(左側)にあるのが、ジャーマー・マスジド(金曜モスク)である。金曜モスクは、サリーム・チシュティーなどの廟(ダールガー)が祀られていることからダールガー・モスクとも呼ばれている。モスク内には細かな象牙細工の礼拝堂中央のミフラーブ(マッカの方向を示す聖龕)や、ヒンドゥ建築の影響を受けた柱や庇などがある


そして、北側(正面)に見える白い建物は、白大理石で建設された聖者サリーム・チシュティーを祀った廟である。皇帝アクバルに息子が授かると予言した聖者に対し感謝するため建てたお墓である。


そして、その右側に建つ建物が大勢のスーフィー(イスラム神秘主義の修道僧)の墓を納めるイスラム・ハーン廟で、本来聖者や聖職者が講話などを行う建物であった。


それでは、サリーム・チシュティー廟を見学してみよう。近づくと分かるが、廟の側面は全て白大理石の透かし彫りで覆われている。


壁面の透かし彫りは精緻を極める。側面の窓は全て大理石をくり抜いて作られている。。


庇の下の組み物はS字カーブの形をしており、そのカーブを補うように複雑な透かし彫りが施されるなど、何とも手の込んだ造りとなっている。そして足元のタイルの色合いも素晴らしい。


タージ・マハルでも、この厚みの大理石を精密に彫刻する職人技に感服したが、それを超えるほどの複雑な透かし彫り(※八角形の縁取り内にある星形八角形の透かし彫りと五角形の縁取り内ある星形五角形の透かし彫りが規則的に配置されている。)には驚くばかりである。


ファテープル・シークリーは、1574年から1584年まで10年間にわたりムガル帝国の首都となったが、水利が悪く、1584年には、ラホールに首都が移される。しかし1598年以降は、再びアーグラの地へと移ったという。ファテープル・シークリーはその後も、慢性的な水不足と猛暑が続いたため、1588年には(建設後わずか14年間)で廃墟となった。

ところで、オートリキシャと案内役の老人には合計350ルピーと日本の百円均一ショップで購入しておいた3色ボールペンを1本づつ渡すと、満面の笑みを浮かべて感謝された。あと、薄汚れた絵はがき(150ルピー)を買ってしまったのは誤算であった。。再び、車に乗り、次に、アーグラ城塞に向かった。

途中、高速道路でトラックが横転する事故があり、多少の渋滞があったが、アーグラ城塞の駐車場には、午後2時前に到着した。チケットショップで入場料250ルピー払い入場する。

アーグラ城塞は、皇帝アクバルがデリーからアーグラへの遷都に伴い建設したもので、1565年に着工し1573年に完成した。その後第4代皇帝ジャハーンギール、第5代皇帝シャー・ジャハーンまで3代に亘る皇帝の居城となった。最初に濠を渡り南側のアマル・スィン門から城塞に入る。


アマル・スィン門を抜けると、次にも門が見える。


2番目の門を抜けると3番目に見晴台がある巨大な2本の円柱に囲まれたアクバル門が見えてくる。この門をくぐり、


建物(壁)に囲まれた殺風景な上り坂を進んでいくと、坂は徐々に壁の高さまで近づき、


一気に視界が広がる。右側には、芝生が広がり正面に赤砂岩造の建物が見える。こちらはアクバル帝によって建てられた唯一現存する建物で、息子の名前に因んでジャハーンギール宮殿と名付けられている。宮殿は赤い砂岩で造られており、壁面に所々見える白色は白大理石を埋め込んでいるそうだ。正面のイーワーン内には、ダヴィデの星(六芒星)が白大理石で表現されている。


なお、宮殿の前にある柵で覆われた巨石は、ロイヤル・ハンマームと呼ばれる王の風呂である。

ジャハーンギール宮殿内は、中庭のある回廊で取り囲まれている。回廊を支えるのは、浮彫り装飾が隙間なく施された角柱で、


柱頭部分からは、庇と腕木の間に木工彫刻を思わせるような組物が配される凝った造りがなされている。そして列柱間には多弁アーチを形成しているが、乳頭を思わせる細工物で飾られているが印象的である。


一つの多弁アーチを下から見上げると4重に細かく彫刻されており、どれくらいの職人がこれらの制作に携わっていたのか考えただけでも気が遠くなる。


ジャハーンギール宮殿を更に東側に進むと広いテラスに出る。中央には花弁状になった噴水(配管?)の跡が残っている。


テラスの東壁からは、ヤムナー川越えにタージ・マハルがよく見える。タージ・マハルは、ここアーグラ城塞で湾曲し、東1キロメートルほどの下流で再び湾曲するヤムナー川の外側に建っている。その位置に建てられたことで川面に建物が映りシンメトリー効果が得られるのだと言う。しかし今は乾季にあたるため水量は少ないことからその効果はなく周りには河原が広がっている。
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次に、北側のアーケードのある建物を抜けると、右側にバンガルダールと呼ばれる突起物のある湾曲屋根の黄金パビリオンがあり、その中からも、ヤムナー川やタージ・マハルが望める


更に、北側には白大理石の建物があり、左側に伸びる大理石の壁のくぐり戸をぬけると、シャー・ジャハーン帝の寝殿(ハース・マハル)がある。小さな鏡と金属と陶磁器などで飾られており「鏡の御殿」とも呼ばれている。そして、寝殿の前(西側)には、大きな池があり、皇帝は水浴する女官たちを眺めていたという。


池の先には、アングリー庭園が広がっている。庭園は通路により4つに分けられた四分庭園で、中央には四角い池の跡がある。庭園の緑は幾何学的に区分けされている


そして寝殿に向かって左側(北側)に行き、寝殿手前の対となる黄金パビリオンの先にあるのが、アーグラ城塞を代表する見所の一つ、5代目皇帝のシャー・ジャハーン帝が実子のアウラングゼーブ帝によって、晩年に幽閉された八角形の塔ムサンマン・ブルジュ(囚われの塔)である。中には入れないが、西側と南側から塔内を見学できる。最初に、西側から柵越しに塔内を覗き込んでみる。


床には大理石彫刻の噴水があり、周りには象嵌細工が施されたアーチやアラベスク紋様など幽閉場所とは思えないほどの装飾や浮彫で覆われている。右側の極太の列柱の奥に見える光の方角からタージマハルが見えるのだろう。幽閉された皇帝シャー・ジャハーンはこの場所で74歳で亡くなるまでの7年間を過ごしたと言われている。


今度は両側に透かし彫りの格子窓のある通路(※六角形の縁取り内に星形六角形の透かし彫りを中心に、周りに6個の六角形の透かし彫りが取り囲む)から黄金パビリオン側に回り込み南側から塔内を眺めてみよう。少し、逆光となり暗いが、噴水の浮彫装飾は揺れ動く水面の様に滑らかに表現されている。

さて、この後は、柵越しに塔内を見学する観光客の後に見える屋上に向かう。

屋上には、対の円柱で支えられた多弁アーチが続くアーケード建築のディーワーネ・カース(貴賓謁見の間)があり、白大理石の壁には、アラベスク紋様の象嵌細工や浮彫装飾などが施されている。左に見えるのが八角形の塔ムサンマン・ブルジュ(囚われの塔)だ。


ディーワーネ・カースは、向かって右側にアーケードが続いており、その下には、アーチ回廊に囲まれたマッチ・バワン(魚宮殿)と呼ばれる中庭がある。その1階のアーチ内には当時バザールがあり、賑わっていたという。


ディーワーネ・カースの前は、広いテラスになっており、東側に皇帝シャー・ジャハーンが眺めていたムサンマン・ブルジュ(囚われの塔)と、ヤムナー川沿いの亡き王妃の廟所タージ・マハルとを一緒に眺めることができる。


ディーワーネ・カース前から回廊沿いを対角(北西)まで歩き扉をくぐると、宮廷の女官たちのための宮廷礼拝堂ナギーナ・マスジド(宝石のモスク)がある。


マッチ・バワン(魚宮殿)の西回廊と背中合わせに建つ建物が、白大理石造りの9連式アーチが続くディーワーネ・アーム(公謁殿)である。かつては木造だったが、第5代皇帝シャー・ジャハーン帝によって現在の建物になった。ここで、一般民衆の訴えを聞いた皇帝が裁定を下していた。


内部は列柱が立ち並ぶ3廊式のホールとなっており、正面奥には皇帝の玉座のための空間があり、周りにはアラベスク紋様や宝石がはめ込まれるなど一層繊細な装飾が施されている。
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ディーワーネ・アームの前面(西側)は広場になっておりその先にプロムナードが南北に伸びている。その先にあるアーケードの後方には、妃たちのためにシャー・ジャハーン帝が造ったとされる白大理石造り清楚な姿が印象的なモーティ・マスジド(真珠のモスク)が望める。午後3時半を過ぎたところで、アーグラ城塞を後にした。
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ホテルに戻り仮眠した後、買い込んでいたビールをつまみと一緒に飲んで、午後7時過ぎにタージ・マハル南門の賑やかな通りに食事に出かける。この時間、ラクダなども往来するなど中東を思わせる雰囲気も感じた。


今夜はレストラン・トリートの2階のテラス席から通りを眺めながらオムライス(50ルピー)とオレンジジュース(20ルピー)を頼んだ。今日は、ムガル建築美術の傑作を3か所も堪能するという充実した一日となった。

(2012.12.4)
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