ホテル・クワリティ(宿泊ホテル)から東西に伸びるディッシュ・バンド・グプタ・ロードを渡り、ラジグル・マーグ通りを南に歩いて、デリー・メトロ(ブルーライン)のラーマクリシュナ・アシュラム・マーグ駅(RK Ashram Marg)に向かった。
これから、オールド・デリーの2大観光地、ジャーマー・マスジドとラール・キラー(レッド・フォート)を見学する。宿泊ホテルからジャーマー・マスジドまで歩くと2キロメートル強だが、デリー・メトロの利便性の良さに満足しているので、少し遠回りだが、ラーマクリシュナ・アシュラム・マーグ駅に向かっているわけだ。この時間、ラジグル・マーグ通り沿いには、赤い制服を着用した楽隊が集まっているが、何かイベントが行われるようだ。
その先では、黄色い衣に身を包み黄色い旗を持つ男性5人を先頭に行列を作り待機している。先頭の男性たちは、ターバンを着用しているのでシク教徒だろう。様子を見ていたかったが、時間が遅くなるので諦めた。
デリー・メトロに乗り、一つ目のコンノート・プレイスでイエロー・ライン(北行き)に乗り換える。そして、次駅のチャウリー・バザール駅を下車(10ルビー)して、オールド・デリーの目抜き通り(チャウリー・バザール)を進むと、前方にジャーマー・マスジドの塔が見え始めた。
ジャーマー・マスジドは、タージ・マハルを建造したムガル帝国第5代皇帝シャー・ジャハーン(在位:1628~1658)によって立案され、1656年に竣工したインド最大のモスクの一つである。建設には5,000人の労働力と6年以上の歳月を要したという。
モスク中庭広場は高台にあり、メインゲートの東門と南北のいずれかの門から入場できる。今回は、西側に到着したため、壁面から回り込み北門から入場することとした。赤砂岩の入場門までの階段は39段ある(南側は33段、東側は35段)。この階段では、かつて屋台や大道芸人の出演場所になっていた。また1857年のインド大反乱(イギリス軍とインド反乱軍の戦い)では激しい戦闘になりインド反乱軍の死体で埋め尽くされた痛ましい歴史がある。
カメラの持込み料300ルビーを払い(入場料は無料)、靴は5ルピー(金額は気持ち)を払って預かってもらう。
入場門をくぐり中庭広場に足を踏み入れ、右側に視線を移すと、ジャーマー・マスジドの礼拝堂(モスク)が、マッカ(メッカ)のある西側に向けて建てられている。モスク前面には池があり、信者はここで身を清めて礼拝に向かうわけだ。金曜日(ジャマー)には、集団礼拝の場となり、多くの信者でモスク内は埋め尽くされる。なお、中庭には最大で25,000人が収容可能だそう。
モスクは、東門、南門、北門とそれぞれアーケードで結ばれスクエアを形成している。
モスク中央のアーチ(イーワン)は、一際大きな作りとなっており、両翼の柱はミナレットになっている。赤砂岩(床部分は大理石)で作られたモスク内部の壁面にはシンプルなアーチ状の装飾が施され、正面のミフラーブ(聖龕)手前の天井には、大きなクリスタルのシャンデリアが吊り下げられている。
モスクの左右に聳えるミナレットは高さ40メートルあり、外壁は白大理石と赤砂岩で縦縞状に彩られている。ミナレットの上から礼拝(サラート)を呼びかけるアザーンは、現在では、頂部に上らずモスクに向かって右側のミナレット中間部にある施設から祈祷の時報係が拡張器を使用して礼拝を呼びかけている(1日5回)。
そして、モスクに向かって左側のミナレットの頂部には100ルピー払えば上ることができるとのことで早速向かうこととした。
チケットはモスクの左端で売っているが入口は南門にある。階段を上って一旦アーケードの屋上に出るので、そこから屋上を歩いた後、ミナレット内の螺旋階段を130段上って頂部に向かう。ミナレット自体は細いため階段を上っていると目が回りそうになり気持ち悪い上、上り詰めた展望台は一人ずつが立てるだけの狭いスペースしかないため非常に怖い。気を付けないと、内側の階段に足を滑らし転落しそうになる。
恐る恐る、金網にしがみつき眼下を覗き込むと、白と黒の大理石で覆われたモスクの3つのドームを見下ろせる。中央のドームは、迫ってくるような威圧感があり、なかなかの迫力だ。風雨にさらされ汚れている印象だが大理石らしい色ムラや風合いも良く見える。それぞれのドームの頂部からは黄金の塔が伸びている。そして、ドームの向こうに見える町並みが、オールド・デリーの中心部にあたる。
次に、右側に視線を移すと、先ほど入ってきた北門が望める。入場した際は、巨大な門の印象だったが、この位置から見下ろすと非常に小さく見える。
更に、視線を右側に移すと、中庭広場越しに、東門が見える。東門はジャーマー・マスジドのメインゲートらしく、北門の左右の2段アーチと異なり3段アーチと大ぶりな造りとなっている。東門の外に伸びる大通り(参道)にはバザールが開催され、多くの人で賑わっている。その大通り先の繁茂した辺りにはデリー・メトロ(バイオレットライン)のジャーマー・マスジド駅がある。そして、中央遠景から左側に伸びる赤い城壁はラール・キラー(レッド・フォート)である。次に、そのラール・キラーに向かうことにする。
ジャーマー・マスジドでは、40分ほど見学した後、北門で預けた靴を受け取り、500メートルほど路地を北に向かったところで右折する。すると前方にラール・キラー(Lal Qila)のラホール門が見えてくる。
ところで、この大通りはチャンドニー・チョウクと呼ばれるオールド・デリー最大の目抜き通りで庶民の台所として知られている。ムガル帝国時代より続く金銀細工や宝石を扱う店なども数多く営業している。
車道には、臨時の鉄柵が設けられ歩道を拡張しているが、拡張箇所の間を縫って営業する輩もいるため、狭くなった車道に車、人力車や人も流れ込み、大渋滞となっている。徒歩でも通過するのに時間がかかる。しかしぶらぶら歩くには楽しい観光スポットだ。
さて、ラール・キラーは、タージ・マハルやジャーマー・マスジドを建造した、ムガル帝国第5代皇帝シャー・ジャハーンの手によるものである。彼は、アーグラやラホール(パキスタン北部のパンジャーブ地方、ラーヴィー川の岸辺に位置するインドとの国境付近にある都市。)に拠点を置いていたが、1639年、新たに、自らの名を冠した新都シャー・ジャハーナーバード(Shahjahanabad)(現:オールド・デリー)の建設に着手する。その中心に建つのが皇帝の居城「ラール・キラー(或いは、レッド・フォート、赤い砦、赤い城、デリー城とも呼ばれる)」であった。
新都は9年の歳月をかけ1648年に完成する。城内には57,000人の人が住み、城外の市街地(2,590ヘクタール)には、およそ40万人の市民が暮らした。しかし、皇帝シャー・ジャハーン自身はデリーとアーグラとを行き来したという。
ところで、城壁の高さを大きく超える巨大な建物がラール・キラーのメインゲートのラホール門である。ラホール門(城内から見てラホールの方向にあるためこう名付けられた。)は、高さ33メートルの左右の門塔(チャトリー(小亭)と呼ばれるムガル建築の装飾建物を頂く)に挟まれ、頂部に7個の丸屋根と2つのミナレットを持った豪華な門でヒンドゥ建築とイスラム建築との折衷様式で造られている。
2キロメートルにも及ぶ赤い城壁の中央(西側)に聳え、遠方からも望める巨大なラホール門を持つラール・キラーはムガル帝国の権威を今も誇り高く示している。なお、現在、毎年8月15日のインド独立記念日には、ここで首相演説が行われている。
そのラホール門の前面まで近づくと、濠と城壁で囲まれた砦があり、上部の堡塁には一定間隔で大砲が配備されているのが見える。この砦を築いたのは、ムガル帝国第6代皇帝アウラングゼーブ(在位:1658~1707)である。この砦の建設により、ラホール門を隠すことになったが、皇帝は門の優雅さより防衛上の強化を優先したのである。なお、皇帝はこの砦を「美女の顔を隠すヴェールだ」と語ったという。
と言うことで、ラホール門から城内に入るには、一旦、砦の左側の塔を回り込んだ奥にある砦門をくぐった後、向かうことになる。
濠を渡り砦門に入り荷物等のセキュリティチェックを受け入場料250ルピーを払う。砦内に入ると右側(場外側)には、砦に上る階段があるがロープが張られ立ち入りできないようだ。砦内のスペースは狭く、入場者はすぐ左側に続くラホール門をくぐることになるが、驚いたのは、砦門に向けて銃を向けている警備員の姿だ。不審な行動をする輩は、ここから撃たれるというわけだ。
砦には上れないようなので、左側に聳えるラホール門をくぐって、城内に向かう。
さて、巨大なラホール門の先には、打って変わって、お土産屋が並ぶ華やかな商店街が続いている。かつて、宮廷の女性たちのためのショッピング街で、チャッタ・チョウク(Chhatta Chowk)(屋根付き市場の意)と呼ばれている。
チャッタ・チョウクを抜けると、左右に芝生が広がる城内になる。通りの左側には「自由のためのインドの闘争に関する博物館(Museum on india's struggle for freedom)」がある。
博物館では人形でインドの歴史が再現されている。1919年、パンジャーブ地方アムリットサルで、ローラット法に抗議のために集まった非武装のインド民衆に対してイギリス軍が無差別に射撃した「アムリットサル虐殺事件」。マハトマ・ガンディー(1869~1948)に、イギリスに協力しても独立へは繋がらないという信念を抱かせる契機となった。
そして、こちらは、そのガンディが、1930年、彼の支持者と共にイギリス植民地政府による塩の専売に反対し、アフマダーバードからダーンディー海岸までの386kmを行進した抗議運動の様子が再現されている。インドのイギリスからの独立運動における重要な転換点となった。
展示台には、刀剣などが飾られている。中央には、ジャマダハル(jamadhar)(ブンディ・ダガーとも)と呼ばれる北インドで使われていた刀剣の一種などがある。柄を握り、拳の先に出した刀で、主に刺すことに特化した武器である。15分ほどさらさらっと館内を見学した後、再び、チャッタ・チョウクから続くメイン通りに戻る。
通りのすぐ先には、花壇があるロータリーになっており、左側から回り込むことになる。花壇向こうに見える門は、ナッカル・カーナ(Naqqar Khana)(ドラム・ハウスの意味)と名付けられた中門で、ここで楽士が時刻や王の帰還を知らせための音楽を奏でたという。現在2階には戦争記念博物館がある。門は赤砂岩で造られており、長年その砂岩の色だったが、近年、建設当初の白色に塗り直された。
門をくぐりながら、天井や壁面を見渡すと、美しい象嵌細工が施されている。
白亜のナッカル・カーナ門をくぐり、振り返り門を見上げると、こちら側は赤砂岩のままであるが、ところどころ、白の石膏が残っている。
ナッカル・カーナ門の先は、広々とした庭園となり、正面に9連式、側廊には3連式のアーチが並ぶ長方形(160メートル×130メートル)の大広間の建物がある。こちらは、ディワーニ・アーム(Diwan-i-Am)(一般謁見殿)で、皇帝は毎日、民衆からの様々な陳情を受け付け解決する公の場であった。
なお、先に造られた、アーグラ城塞内のディワーニ・アーム(材質は白大理石による造り)とほぼ同じデザインを踏襲している。
建物内に足を踏みいれると、細い柱で支えられたアーチで、開放感を感じる造りとなっている。内装はシンプルだが、当時は、豪華な天幕や壁掛け、シルクのカーペットなどで飾られていたという。
ディワーニ・アームから、歩いて来た方向を振り返ると、庇とチャトリー(小亭)以外は、赤砂岩のままのナッカル・カーナ門が望める。今後、白く塗る予定があるのだろうか。晴天の下、綺麗に刈りこまれた芝と周りの樹木の中に佇む、深みのある赤砂岩のナッカル・カーナ門も中々良いと思うのだが。。
それでは、ディワーニ・アームの中央奥にある皇帝の玉座に行ってみる。
ベンガル風丸屋根で覆われた大理石の天蓋があり象嵌細工で施されている。かつては、エメラルド、サファイア、ルビーなど世界中から集められた宝石が埋め込まれ輝いていたという。壁面には、マルチカラーで象嵌細工されたパネルがある。
ディワーニ・アームに向かって左側から奥に進むと更に中庭が続き、建物群が見える。
左側が、貴賓謁見殿のディワーニ・カース(Diwan-i-Khas)で、隣がカース・マハル(皇帝の私室)、右端がラング・マハル(彩りの間)である。
ディワーニ・カースは、貴族や外国の大使との謁見の場で、閣議なども行われていた。屋上の四隅には、やや大ぶりなチャトリー(小亭)が配されている。
建物は、白大理石でできており、内部は、隙間ないほどに精緻な装飾で覆われている。柱の下部には、美しい象嵌細工の花の装飾が施されている。
広間の中央部は花弁アーチで仕切られた長方形の空間が造られている。天井はかつて金と銀で覆われていたが、現在は金メッキされ、周りの梁には、花の紋様が装飾されている。
側廊の天井部分は、格子面に分割され、花弁が表現されている。こちらも、かつては、宝石類が埋め込まれていて眩いばかりだったという。
カース・マハル(皇帝の私室)は、ディワーニ・カースと同じ基壇の上で隣り合っている。
中央の花弁アーチの奥のティンパヌムには天秤(死後の審判で生前の善悪を測られ天国か地獄行きか決定する。)が表現されており、周りにはアラベスクの浮彫などが美しく装飾されている。下部の扉には、透かし彫りが施されており、建物越しに隣のラング・マハル(彩りの間)が見える。
反対側(南)に回り花弁アーチからカース・マハルの内側を覘くと、繊細な浮彫で覆われた壁面が見え、中央には重厚なアーチ門を構成している。
基壇から降りて南側に向けて歩くと芝生の向こうに宮廷女性の居住区画ムムタージ・マハル(Mumtaj Mahal)が見えてくる。後にイギリス軍の詰め所になり、今では考古学博物館(Archaeological Museum)としてムガル帝国時代の絵画、武具などが展示されている。
館内に入って見ると、バハードゥル・シャー2世(ムガル帝国の第17代(最後の)君主(在位:1837~1858)が使用した大理石の椅子や、
ムガル帝国の第6代皇帝アウラングゼーブ(在位:1658~1707)の水の浄化容器。
同じくアウラングゼーブ帝の印章などが展示されている。
他にも、ムガル帝国のダマスカス鋼の鎧や戦斧、殴打用の武器や、
ペルシャ風象嵌細工のダガー・ナイフなどが展示されていた。
ラール・キラーでは約1時間半ほど見学して城外に出た。城壁前の大広場からすぐ右側にある、デリー・メトロ(バイオレットライン)のラ-ル・キラー駅に向かうが、地上近くの階段まで人が並んでいる。並んでいる人に聞いてみると、どうやら、鉄道事故があったらしく運休になっているらしい。再開するのかもわからないので、少し先のデリー・メトロ(イエローライン)に行ってみようと、チャンドニー・チョウク(大通り)を西に向かうことにした。
チャンドニー・チョウク(大通り)では、店舗沿いの歩道を歩いてみるが、やはり混雑しているため、結局車道を歩いて行く。地図を確認したところ、スィク寺院の先を右折した奥にデリー・メトロ(イエローライン)の駅があるようだ。しばらくすると、左前方にスィク寺院が見え始めた。
スィク寺院から右折して路地を歩いて行くと、東西に伸びる大通りに出てしまった。大通りを西に歩くと、右側にデリー駅(ラージャスターン州方面への列車が発着している)が見えてきた。
どうやら行き過ぎたようで、デリー駅前から再び南に向うと、デリー・メトロ(イエローライン)のチャンドニー・チョウク駅が現れた。
無事にメトロに乗ったが、車内は非常に混雑していた。すると、隣にいた男性が、反対側にいたサリーを身に付けた3人組の女性はスリだと教えてくれた。バッグを手前に引き寄せ抱え込みながら、隣のニューデリー駅で下車した。何も取られたものはないようだが、少し気を抜いていたかもしれない。危ないところだった。
午後2時になり、メイン・バザール(バハール・ガンジ)の「クラブ・インディア・カフェ・デリー」で遅めのランチを頂く。スパゲッティーとビール(258ルピー)を頼んだ。結局昨日から立て続けに3度来店したが、いずれも食事時とズレていたので貸切だった。なお、壁には、お店を訪れた日本の女優やアイドル歌手と一緒に写るオーナーの写真などが飾られている。
ところで、今日は午後9時25分発の中国東方航空で日本に帰国することとしている。荷物を持ってうろうろするのも物騒なので、少し早いが、渋滞も想定してインディラ・ガンディー国際空港に向かうことにした。メトロは先ほどの事故やスリの件もあるので、タクシーで向かうことにして、運転手を選び交渉する。結果400ルビーで行ってもらうことにした。
なんと、空港には35分程で到着してしまった。運転手に400ルピーを払いチップとしてさんざん使用した100円均一の万能ナイフを渡すと、非常に喜ばれた(荷物の機内持ち込みを予定していたので、処分を考えていた)。
あまりにもスムーズに到着したのは有りがたいが、インドの空港では、出発3時間前にならないと空港内に入れてもらえないというルールがあるのだ。空港内に入ろうと扉口にいる警備員にEチケットを提示すると、案の定、首を横に振られた。しかたがないので、外でしばらく待つ。
そして午後5時前になり、再度入れるか確認したところ、OKと言われ、入場を許された。午後9時25分発を考えれば、特別に早く許可された印象ではある。
その後、上海を経由して、成田には午後12時50分に到着した。
(2012.12.9)
これから、オールド・デリーの2大観光地、ジャーマー・マスジドとラール・キラー(レッド・フォート)を見学する。宿泊ホテルからジャーマー・マスジドまで歩くと2キロメートル強だが、デリー・メトロの利便性の良さに満足しているので、少し遠回りだが、ラーマクリシュナ・アシュラム・マーグ駅に向かっているわけだ。この時間、ラジグル・マーグ通り沿いには、赤い制服を着用した楽隊が集まっているが、何かイベントが行われるようだ。
その先では、黄色い衣に身を包み黄色い旗を持つ男性5人を先頭に行列を作り待機している。先頭の男性たちは、ターバンを着用しているのでシク教徒だろう。様子を見ていたかったが、時間が遅くなるので諦めた。
デリー・メトロに乗り、一つ目のコンノート・プレイスでイエロー・ライン(北行き)に乗り換える。そして、次駅のチャウリー・バザール駅を下車(10ルビー)して、オールド・デリーの目抜き通り(チャウリー・バザール)を進むと、前方にジャーマー・マスジドの塔が見え始めた。
ジャーマー・マスジドは、タージ・マハルを建造したムガル帝国第5代皇帝シャー・ジャハーン(在位:1628~1658)によって立案され、1656年に竣工したインド最大のモスクの一つである。建設には5,000人の労働力と6年以上の歳月を要したという。
モスク中庭広場は高台にあり、メインゲートの東門と南北のいずれかの門から入場できる。今回は、西側に到着したため、壁面から回り込み北門から入場することとした。赤砂岩の入場門までの階段は39段ある(南側は33段、東側は35段)。この階段では、かつて屋台や大道芸人の出演場所になっていた。また1857年のインド大反乱(イギリス軍とインド反乱軍の戦い)では激しい戦闘になりインド反乱軍の死体で埋め尽くされた痛ましい歴史がある。
カメラの持込み料300ルビーを払い(入場料は無料)、靴は5ルピー(金額は気持ち)を払って預かってもらう。
入場門をくぐり中庭広場に足を踏み入れ、右側に視線を移すと、ジャーマー・マスジドの礼拝堂(モスク)が、マッカ(メッカ)のある西側に向けて建てられている。モスク前面には池があり、信者はここで身を清めて礼拝に向かうわけだ。金曜日(ジャマー)には、集団礼拝の場となり、多くの信者でモスク内は埋め尽くされる。なお、中庭には最大で25,000人が収容可能だそう。
モスクは、東門、南門、北門とそれぞれアーケードで結ばれスクエアを形成している。
モスク中央のアーチ(イーワン)は、一際大きな作りとなっており、両翼の柱はミナレットになっている。赤砂岩(床部分は大理石)で作られたモスク内部の壁面にはシンプルなアーチ状の装飾が施され、正面のミフラーブ(聖龕)手前の天井には、大きなクリスタルのシャンデリアが吊り下げられている。
モスクの左右に聳えるミナレットは高さ40メートルあり、外壁は白大理石と赤砂岩で縦縞状に彩られている。ミナレットの上から礼拝(サラート)を呼びかけるアザーンは、現在では、頂部に上らずモスクに向かって右側のミナレット中間部にある施設から祈祷の時報係が拡張器を使用して礼拝を呼びかけている(1日5回)。
そして、モスクに向かって左側のミナレットの頂部には100ルピー払えば上ることができるとのことで早速向かうこととした。
チケットはモスクの左端で売っているが入口は南門にある。階段を上って一旦アーケードの屋上に出るので、そこから屋上を歩いた後、ミナレット内の螺旋階段を130段上って頂部に向かう。ミナレット自体は細いため階段を上っていると目が回りそうになり気持ち悪い上、上り詰めた展望台は一人ずつが立てるだけの狭いスペースしかないため非常に怖い。気を付けないと、内側の階段に足を滑らし転落しそうになる。
恐る恐る、金網にしがみつき眼下を覗き込むと、白と黒の大理石で覆われたモスクの3つのドームを見下ろせる。中央のドームは、迫ってくるような威圧感があり、なかなかの迫力だ。風雨にさらされ汚れている印象だが大理石らしい色ムラや風合いも良く見える。それぞれのドームの頂部からは黄金の塔が伸びている。そして、ドームの向こうに見える町並みが、オールド・デリーの中心部にあたる。
次に、右側に視線を移すと、先ほど入ってきた北門が望める。入場した際は、巨大な門の印象だったが、この位置から見下ろすと非常に小さく見える。
更に、視線を右側に移すと、中庭広場越しに、東門が見える。東門はジャーマー・マスジドのメインゲートらしく、北門の左右の2段アーチと異なり3段アーチと大ぶりな造りとなっている。東門の外に伸びる大通り(参道)にはバザールが開催され、多くの人で賑わっている。その大通り先の繁茂した辺りにはデリー・メトロ(バイオレットライン)のジャーマー・マスジド駅がある。そして、中央遠景から左側に伸びる赤い城壁はラール・キラー(レッド・フォート)である。次に、そのラール・キラーに向かうことにする。
ジャーマー・マスジドでは、40分ほど見学した後、北門で預けた靴を受け取り、500メートルほど路地を北に向かったところで右折する。すると前方にラール・キラー(Lal Qila)のラホール門が見えてくる。
ところで、この大通りはチャンドニー・チョウクと呼ばれるオールド・デリー最大の目抜き通りで庶民の台所として知られている。ムガル帝国時代より続く金銀細工や宝石を扱う店なども数多く営業している。
車道には、臨時の鉄柵が設けられ歩道を拡張しているが、拡張箇所の間を縫って営業する輩もいるため、狭くなった車道に車、人力車や人も流れ込み、大渋滞となっている。徒歩でも通過するのに時間がかかる。しかしぶらぶら歩くには楽しい観光スポットだ。
さて、ラール・キラーは、タージ・マハルやジャーマー・マスジドを建造した、ムガル帝国第5代皇帝シャー・ジャハーンの手によるものである。彼は、アーグラやラホール(パキスタン北部のパンジャーブ地方、ラーヴィー川の岸辺に位置するインドとの国境付近にある都市。)に拠点を置いていたが、1639年、新たに、自らの名を冠した新都シャー・ジャハーナーバード(Shahjahanabad)(現:オールド・デリー)の建設に着手する。その中心に建つのが皇帝の居城「ラール・キラー(或いは、レッド・フォート、赤い砦、赤い城、デリー城とも呼ばれる)」であった。
新都は9年の歳月をかけ1648年に完成する。城内には57,000人の人が住み、城外の市街地(2,590ヘクタール)には、およそ40万人の市民が暮らした。しかし、皇帝シャー・ジャハーン自身はデリーとアーグラとを行き来したという。
ところで、城壁の高さを大きく超える巨大な建物がラール・キラーのメインゲートのラホール門である。ラホール門(城内から見てラホールの方向にあるためこう名付けられた。)は、高さ33メートルの左右の門塔(チャトリー(小亭)と呼ばれるムガル建築の装飾建物を頂く)に挟まれ、頂部に7個の丸屋根と2つのミナレットを持った豪華な門でヒンドゥ建築とイスラム建築との折衷様式で造られている。
2キロメートルにも及ぶ赤い城壁の中央(西側)に聳え、遠方からも望める巨大なラホール門を持つラール・キラーはムガル帝国の権威を今も誇り高く示している。なお、現在、毎年8月15日のインド独立記念日には、ここで首相演説が行われている。
そのラホール門の前面まで近づくと、濠と城壁で囲まれた砦があり、上部の堡塁には一定間隔で大砲が配備されているのが見える。この砦を築いたのは、ムガル帝国第6代皇帝アウラングゼーブ(在位:1658~1707)である。この砦の建設により、ラホール門を隠すことになったが、皇帝は門の優雅さより防衛上の強化を優先したのである。なお、皇帝はこの砦を「美女の顔を隠すヴェールだ」と語ったという。
と言うことで、ラホール門から城内に入るには、一旦、砦の左側の塔を回り込んだ奥にある砦門をくぐった後、向かうことになる。
濠を渡り砦門に入り荷物等のセキュリティチェックを受け入場料250ルピーを払う。砦内に入ると右側(場外側)には、砦に上る階段があるがロープが張られ立ち入りできないようだ。砦内のスペースは狭く、入場者はすぐ左側に続くラホール門をくぐることになるが、驚いたのは、砦門に向けて銃を向けている警備員の姿だ。不審な行動をする輩は、ここから撃たれるというわけだ。
砦には上れないようなので、左側に聳えるラホール門をくぐって、城内に向かう。
さて、巨大なラホール門の先には、打って変わって、お土産屋が並ぶ華やかな商店街が続いている。かつて、宮廷の女性たちのためのショッピング街で、チャッタ・チョウク(Chhatta Chowk)(屋根付き市場の意)と呼ばれている。
チャッタ・チョウクを抜けると、左右に芝生が広がる城内になる。通りの左側には「自由のためのインドの闘争に関する博物館(Museum on india's struggle for freedom)」がある。
博物館では人形でインドの歴史が再現されている。1919年、パンジャーブ地方アムリットサルで、ローラット法に抗議のために集まった非武装のインド民衆に対してイギリス軍が無差別に射撃した「アムリットサル虐殺事件」。マハトマ・ガンディー(1869~1948)に、イギリスに協力しても独立へは繋がらないという信念を抱かせる契機となった。
そして、こちらは、そのガンディが、1930年、彼の支持者と共にイギリス植民地政府による塩の専売に反対し、アフマダーバードからダーンディー海岸までの386kmを行進した抗議運動の様子が再現されている。インドのイギリスからの独立運動における重要な転換点となった。
展示台には、刀剣などが飾られている。中央には、ジャマダハル(jamadhar)(ブンディ・ダガーとも)と呼ばれる北インドで使われていた刀剣の一種などがある。柄を握り、拳の先に出した刀で、主に刺すことに特化した武器である。15分ほどさらさらっと館内を見学した後、再び、チャッタ・チョウクから続くメイン通りに戻る。
通りのすぐ先には、花壇があるロータリーになっており、左側から回り込むことになる。花壇向こうに見える門は、ナッカル・カーナ(Naqqar Khana)(ドラム・ハウスの意味)と名付けられた中門で、ここで楽士が時刻や王の帰還を知らせための音楽を奏でたという。現在2階には戦争記念博物館がある。門は赤砂岩で造られており、長年その砂岩の色だったが、近年、建設当初の白色に塗り直された。
門をくぐりながら、天井や壁面を見渡すと、美しい象嵌細工が施されている。
白亜のナッカル・カーナ門をくぐり、振り返り門を見上げると、こちら側は赤砂岩のままであるが、ところどころ、白の石膏が残っている。
ナッカル・カーナ門の先は、広々とした庭園となり、正面に9連式、側廊には3連式のアーチが並ぶ長方形(160メートル×130メートル)の大広間の建物がある。こちらは、ディワーニ・アーム(Diwan-i-Am)(一般謁見殿)で、皇帝は毎日、民衆からの様々な陳情を受け付け解決する公の場であった。
なお、先に造られた、アーグラ城塞内のディワーニ・アーム(材質は白大理石による造り)とほぼ同じデザインを踏襲している。
建物内に足を踏みいれると、細い柱で支えられたアーチで、開放感を感じる造りとなっている。内装はシンプルだが、当時は、豪華な天幕や壁掛け、シルクのカーペットなどで飾られていたという。
ディワーニ・アームから、歩いて来た方向を振り返ると、庇とチャトリー(小亭)以外は、赤砂岩のままのナッカル・カーナ門が望める。今後、白く塗る予定があるのだろうか。晴天の下、綺麗に刈りこまれた芝と周りの樹木の中に佇む、深みのある赤砂岩のナッカル・カーナ門も中々良いと思うのだが。。
それでは、ディワーニ・アームの中央奥にある皇帝の玉座に行ってみる。
ベンガル風丸屋根で覆われた大理石の天蓋があり象嵌細工で施されている。かつては、エメラルド、サファイア、ルビーなど世界中から集められた宝石が埋め込まれ輝いていたという。壁面には、マルチカラーで象嵌細工されたパネルがある。
ディワーニ・アームに向かって左側から奥に進むと更に中庭が続き、建物群が見える。
左側が、貴賓謁見殿のディワーニ・カース(Diwan-i-Khas)で、隣がカース・マハル(皇帝の私室)、右端がラング・マハル(彩りの間)である。
ディワーニ・カースは、貴族や外国の大使との謁見の場で、閣議なども行われていた。屋上の四隅には、やや大ぶりなチャトリー(小亭)が配されている。
建物は、白大理石でできており、内部は、隙間ないほどに精緻な装飾で覆われている。柱の下部には、美しい象嵌細工の花の装飾が施されている。
広間の中央部は花弁アーチで仕切られた長方形の空間が造られている。天井はかつて金と銀で覆われていたが、現在は金メッキされ、周りの梁には、花の紋様が装飾されている。
側廊の天井部分は、格子面に分割され、花弁が表現されている。こちらも、かつては、宝石類が埋め込まれていて眩いばかりだったという。
カース・マハル(皇帝の私室)は、ディワーニ・カースと同じ基壇の上で隣り合っている。
中央の花弁アーチの奥のティンパヌムには天秤(死後の審判で生前の善悪を測られ天国か地獄行きか決定する。)が表現されており、周りにはアラベスクの浮彫などが美しく装飾されている。下部の扉には、透かし彫りが施されており、建物越しに隣のラング・マハル(彩りの間)が見える。
反対側(南)に回り花弁アーチからカース・マハルの内側を覘くと、繊細な浮彫で覆われた壁面が見え、中央には重厚なアーチ門を構成している。
基壇から降りて南側に向けて歩くと芝生の向こうに宮廷女性の居住区画ムムタージ・マハル(Mumtaj Mahal)が見えてくる。後にイギリス軍の詰め所になり、今では考古学博物館(Archaeological Museum)としてムガル帝国時代の絵画、武具などが展示されている。
館内に入って見ると、バハードゥル・シャー2世(ムガル帝国の第17代(最後の)君主(在位:1837~1858)が使用した大理石の椅子や、
ムガル帝国の第6代皇帝アウラングゼーブ(在位:1658~1707)の水の浄化容器。
同じくアウラングゼーブ帝の印章などが展示されている。
他にも、ムガル帝国のダマスカス鋼の鎧や戦斧、殴打用の武器や、
ペルシャ風象嵌細工のダガー・ナイフなどが展示されていた。
ラール・キラーでは約1時間半ほど見学して城外に出た。城壁前の大広場からすぐ右側にある、デリー・メトロ(バイオレットライン)のラ-ル・キラー駅に向かうが、地上近くの階段まで人が並んでいる。並んでいる人に聞いてみると、どうやら、鉄道事故があったらしく運休になっているらしい。再開するのかもわからないので、少し先のデリー・メトロ(イエローライン)に行ってみようと、チャンドニー・チョウク(大通り)を西に向かうことにした。
チャンドニー・チョウク(大通り)では、店舗沿いの歩道を歩いてみるが、やはり混雑しているため、結局車道を歩いて行く。地図を確認したところ、スィク寺院の先を右折した奥にデリー・メトロ(イエローライン)の駅があるようだ。しばらくすると、左前方にスィク寺院が見え始めた。
スィク寺院から右折して路地を歩いて行くと、東西に伸びる大通りに出てしまった。大通りを西に歩くと、右側にデリー駅(ラージャスターン州方面への列車が発着している)が見えてきた。
どうやら行き過ぎたようで、デリー駅前から再び南に向うと、デリー・メトロ(イエローライン)のチャンドニー・チョウク駅が現れた。
無事にメトロに乗ったが、車内は非常に混雑していた。すると、隣にいた男性が、反対側にいたサリーを身に付けた3人組の女性はスリだと教えてくれた。バッグを手前に引き寄せ抱え込みながら、隣のニューデリー駅で下車した。何も取られたものはないようだが、少し気を抜いていたかもしれない。危ないところだった。
午後2時になり、メイン・バザール(バハール・ガンジ)の「クラブ・インディア・カフェ・デリー」で遅めのランチを頂く。スパゲッティーとビール(258ルピー)を頼んだ。結局昨日から立て続けに3度来店したが、いずれも食事時とズレていたので貸切だった。なお、壁には、お店を訪れた日本の女優やアイドル歌手と一緒に写るオーナーの写真などが飾られている。
ところで、今日は午後9時25分発の中国東方航空で日本に帰国することとしている。荷物を持ってうろうろするのも物騒なので、少し早いが、渋滞も想定してインディラ・ガンディー国際空港に向かうことにした。メトロは先ほどの事故やスリの件もあるので、タクシーで向かうことにして、運転手を選び交渉する。結果400ルビーで行ってもらうことにした。
なんと、空港には35分程で到着してしまった。運転手に400ルピーを払いチップとしてさんざん使用した100円均一の万能ナイフを渡すと、非常に喜ばれた(荷物の機内持ち込みを予定していたので、処分を考えていた)。
あまりにもスムーズに到着したのは有りがたいが、インドの空港では、出発3時間前にならないと空港内に入れてもらえないというルールがあるのだ。空港内に入ろうと扉口にいる警備員にEチケットを提示すると、案の定、首を横に振られた。しかたがないので、外でしばらく待つ。
そして午後5時前になり、再度入れるか確認したところ、OKと言われ、入場を許された。午後9時25分発を考えれば、特別に早く許可された印象ではある。
その後、上海を経由して、成田には午後12時50分に到着した。
(2012.12.9)