カズさんの旅たび

 ~歴史、文化、芸術、美食紀行。。

ギリシャ(その2)

2019-05-23 | ギリシャ
メテオラは、ギリシア北西部テッサリア地方北端にある奇岩群により形成されたキリスト教修道院である。この険しい地形は、俗世から離れて瞑想するためには理想の環境とされ、9世紀には修道士が住み始め、現在の修道院共同体は14世紀頃に成立された。現在は6つの修道院が活動中で、1988年には世界遺産に登録されている。この絶景は「ルサヌ修道院」が建つ岩山下の駐車場展望台から、北西方面の岩山上の「ヴァルラーム修道院」を眺めた様子である。
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ちなみに、左端遠方には、カストラキ村を通過して最初に現れる「聖ニコラオス・アナパフサス修道院」を望むことができる。

これから、ヴァルラーム修道院を見学することにしている。昨夜宿泊したカランバカ西地区にある「テアトロ・ホテル」から、北西部にあるカストラキ村を経由して山道を上り、聖ニコラオス・アナパフサス修道院、ルサヌ修道院を過ぎた後、700メートルほど先にある三差路を左折し、更に現れる三差路も左折すると、前方にややずんぐりとした岩山上に建つヴァルラーム修道院が見え始める。なお、左右岩山の間に見えるのがカストラキ村である。
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ヴァルラーム修道院は、14世紀に隠修士ヴァルラームが建てたのが始まりで、現在の修道院は、1541年にヨアニナ(イオアニア)出身のセオファニスとネクタリオス兄弟修道士が建立している。修道院へは、手前の岩山に造られた扉口から入場する。扉を入り岩山左側面の歩道を進むと、前方に修道院の建つ岩山が現れる。歩道は吊り橋を渡り、岩山の左回りに続く階段に延びている。階段は近年造られたもので、修道士たちは右上の1536年建造の塔に備え付けられた滑車とロープを使い上り下りしていた。現在も物資の運び上げに使われている。


吊り橋を渡りながら左側を見ると、先ほどまでいた「ルサヌ修道院」のある岩山を望むことができる。ルサヌ修道院は1545年の創立で、1950年以降は女子修道院となっている。
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階段は急だが、岩山の中腹から頂上までは距離が短いので、それほど苦にはならない。周りの景色を眺めていると空を飛んでいる様な不思議な気持ちになるが、修道院の敷地内に到着してしまうと平地にある修道院と変わらない風景である。教会堂に描かれた美しいフレスコ画が見所だが、撮影は禁止されていた。


次に、ヴァルラーム修道院の西に位置する「メガロ・メテオロン修道院(The Great Meteoron Monastery)」に向かう。三差路まで戻り、左側の上り坂を進んで行くが、この時間(午前11時半)になると、上り坂は縦列駐車の車で隙間がないほど混雑している。500メートルほど上り詰めた終着地がメガロ・メテオロン修道院の入口だが、実際には一旦、階段を下りて陸橋を渡り、前方に隣接する岩山の階段を上って行くため結構な距離がある。


階段から望む見晴らしは絶景の一言に尽きる。階段から見える「ヴァルラーム修道院」は西側からの眺めで、入口のあった東側のずんぐり形の岩山とは対照的に切り立った崖になっている。下に広がる緑が雲海の様に広がり、まるで天空に築かれた城の様に見える。


メガロ・メテオロン修道院は、14世紀に聖地アトス山から移り住んだ聖アナスタシオが開いたとされ、メテオラでは最大規模の修道院で、標高616メートルと最も高い位置にある。修道院へは、岩壁に沿って造られた階段を左右左右と上って行き、最後の洞窟通路を抜けるとドームがある教会堂に到着する。なお、手前に見える塔の頂部にある建物は、物資の輸送に使われる小屋である。
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修道院の教会堂には、1483年から1552年間に作成された美しいフレスコ画が余すところなく描かれており、天蓋飾りや振り香炉、瓔珞、羅網、幢幡などで荘厳されている。


ドーム頂部には「全能者ハリストス」と、側面には12使徒が描かれている。
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見晴らし台からは、カストラキ村全体を見下ろせる上、遠景のビニオス川や、後方に聳える標高2000メートル級のピンドゥス山脈まで見渡すことができる。今日は天候にも恵まれ最高の眺めを堪能することができた。
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こちらは16世紀の修道院の厨房の様子で、当時の調度品や煤で汚れた壁などもそのまま保存されている。


手前の展示室には20世紀初頭の修道院の暮らしや、こちらの滑車で上り下りする様子などがモノクロ映像で繰り返し紹介されており非常に興味深かった。


修道院は2か所しか見学していないが、だいたい満足してしまった。時刻も午後1時を過ぎ次の予定もあるので、残りの2つの修道院は外観だけ見ようと向かった。元来た道を今度は下り、昨夜のサンセットポイントを通過してカランバカ市内方面に1.5キロメートルほど進む。右前方に2つの修道院の内の一つ「アギア・トリアダ修道院」が見えてくると、すぐに大きく左折する三差路が現れ、右方向(南側)に向かう。

ところで、左右の奇岩群の間から見える町並みはカランバカである。カランバカの町は、この東西左右の奇岩群に挟まれたすぐ南側に三角州の様に広がっている。これから向かう2つの修道院は、その東側の奇岩群に位置している。ちなみに、4つの修道院は、西側(右側)の奇岩群の後方北西部に位置していたことから、カランバカの街並みは見えなかったというわけだ。


アギア・トリアダ修道院は、1475年、ドメティオスにより創建された。この北側から向かう車道沿いからの眺めが一番美しいと言われている。修道院へ行くには、車道から歩行者用のスロープを岩下まで下り切った後、岩山沿いにある階段を上って行くことになる。ちなみに、カランバカ市内外れからは、トレッキングコースが延びており40分ほどで行くことができる。
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その、トレッキングコースなどを含めアギア・トリアダ修道院は、1981年公開の映画「007/ユア・アイズ・オンリー」のロケで使われた。映画では、修道院の場所をアジトとする悪役クリスタトスのもとへ007(主演ロジャー・ムーア)がロック・クライミングで対決に向かう緊張感のあるクライマックス・シーンが繰り広げられた。

修道院への物資の配送は、車道沿いにあるロープウェイが使われる。この場所から修道院を眺めると、断崖絶壁の岩山の上にある様にはみえない。


最後に、道なりに600メートル南東終点には、1367年に共住の修道院として創建され、現在は女子修道院の「聖ステファノス修道院(Monastery of St Stephen)」が建っている。観光客が少ないと思ったら休館日だった。午後2時になったので出発することにした。それにしても、メテオラの観光化ぶりには驚かされた。俗世から離れて瞑想するための理想の環境とは、だいぶ様相が異なってしまったのではないか。。。


次は、ペロポネソス半島北西部の町パトラス(パトラ)に向かう。テルモピュレからカランバカまでは平坦な道程だったが、ここからは、ギリシャの背骨とも言われる「ピンドゥス山脈(標高2000メートル級)」を越え、更にイオニア海沿いを南下してペロポネソス半島に向かう合計約300キロメートルの行程となる。

まずは、カランバカからE92号線(片側一車線)をビニオス川に沿って北側のリグコス山と南側のラクモス山の間を北西方向に40キロメートルほど進み、標高1000メートル級にある国道2号線(E90号線)(片側二車線の高速道)に乗り換えて、ピンドゥス山脈西側に位置するヨアニナ(イオアニア)方面に向かう。


高地を走行する国道2号線は幾度となくトンネルが続く。道路幅も広く綺麗で走行しやすいが、サービスエリアも料金所もない。後半は下り坂が続き、山脈を越えたことが感じられる。50キロメートルほど走行した後、ヨアニナ・インターからアルタ方面に向け国道5号線を南下する。ちなみにヨアニナはイピロス地方の首府で人口約12万人、パンボティス湖の畔にある。


国道5号線沿いの、古代にアンプラキアと呼ばれたアルタの町を過ぎると、右前方に「アンヴラキコス湾」が見えてきた。東西約40キロメートル、南北約15キロメートル、西側をイオニア海に面した幅700メートルほどの湾口を持つ閉鎖性水域湾で、湾口南北には、アクティオ(古代のアクティウム)とプレヴェザの町があり海底トンネルで結ばれている。紀元前31年には、オクタウィウス(ローマ帝国初代皇帝アウグストゥス)がマルクス・アントニウスを破った「アクティウムの海戦」の舞台となった。


ヨアニナ・インターから国道5号線を2時間ほど南下した午後6時頃、ようやくギリシャ本土側の港町アンディリオに近づいた。前方にコリンティアコス湾が望め、対岸のペロポネソス半島に向けてリオ・アンディリオ橋が架かっているのが見える。背景には、パナチャイコ山脈(最高地点は1,926メートル)が聳えている。


連絡橋は、2004年に開通した斜張橋で、総距離では世界最長(2,882メートル)とされている。橋の建設には、深海部への橋脚の固定、地震、津波対策、プレート運動の変化などをクリアする最先端の技術が集積している。


連絡橋を渡るとアテネから延びる高速8A号線と合流し、その先のパトラ・セントレから一般道に入りパトラス(パトラ)市内に向かう。パトラは、ペロポネソス半島の北西部に位置するイオニア海に面した港湾都市で都市圏人口は約26万人、アテネとテッサロニキに次ぐ第3の都市と言われている。アテネからは215キロメートル西に位置している。

今夜宿泊予定のパトラのホテルは予約しているが、夕食場所は決まっていなかったためパトラ湾沿いの幾つかのレストランを探しに来た。夏場の海水客向けのお店が何件かあるが、気に入る店はなかったため、景色だけ眺めて後にした。ちなみに対岸に見える小高い二つの山はギリシャ本土側で、山裾に先ほど通過した国道5号線が通っている。


3キロメートルほど海岸線を南に下り、パトラ駅前を過ぎ市内中心部から東側の旧市街方面に向かった。旧市街にはダシリオと呼ばれる標高100メートルほどの緑に覆われた小高い丘があり、その南側中腹にパトラ要塞がある。古くはアクロポリスだったが、551年に発生した地震で倒壊したため、資材などを再利用し、この要塞が、東ローマ皇帝ユスティニアヌス1世(在位:527~565)の指示により建設された。

要塞の敷地は、西側(パトラ湾側)を頂角とする概ね二等辺三角形をしており、塔と門で強化された外壁で囲まれている(敷地面積は22,725平方メートル)。東側の底辺側の外壁に要塞入口があるが、この時間(午後7時)は既に閉館されていた。


要塞内の北東角(右底角)にパトラ城が建っており、入口右側の木々の後ろから僅かにその威容を望むことができた。要塞は、807年にアラブ人とスラヴ人により包囲されるが、他都市の力を借りずに撃退している。この勝利はパトラの守護聖人、聖アンデレのお陰と考えらている。


その後、要塞は第4回十字軍の後、1205年にはフランス騎士ギヨーム・ド・シャンリットのアカイア公国(1205~1432年)が所有し堀が造られ、地元のラテン大司教が1430年まで所有するが、1458年にはオスマン帝国に奪われてしまう。その後、ヴェネツィアが、奪取するが、再びトルコ人の管理下におかれ、ギリシャ独立後は、第二次世界大戦後までギリシャ軍によって使用された。現在は夏の文化イベントに使用され劇場としても利用されているとのこと。

このダシリオの丘の中腹には他にも歴史的建造物が多い。パトラ要塞から更に150メートルほど南側に下ると、スクィンチ式のビザンティン建築「パントクラトール教会」が建っている。西側にナルテクス、東側にアプスがある単純型の構造をしており、南側に教会入口からは、参道の様に直線の坂道が、Dim. Gounari通り(東西に延びる幹線道路)方向に延びている。


パントクラトール教会から直線距離で200メートル西側には、ローマ時代の奏楽堂(ローマオデオン)が建っている。第15代ローマ皇帝アントニヌス・ピウス或いは第16代ローマ皇帝マルクス・アウレリウスの治世である160年頃に建てられたとされ、現在は、部分的に再建、修復され、夏の公演やコンサートの野外劇場として使用されている。修復中の壁は、舞台背後の壁(スカエナエ・フロンス)で、その奥に半円形の座席が並んでいる。


以上、さらさらっと、旧市街を観光して、ローマオデオンから南西に400メートルほど下ったDim. Gounari通り手前に建つ今夜の宿泊場所、メゾン・グレックエ・ホテル(Maison Grecque)に向かった。


ホテルでチェック・インした後、Dim. Gounari通りを西に向かい、パトナ市裁判所の先を左折して300メートルほど行った「聖アンデレ教会」に向かった。教会の南北は緑に覆われた公園で、ファサードは広場のある西側に面している。その広場の更に西側には、パトラ駅前から続く大通りが走っており、その向こうはパトラ湾になる。

この地は、ローマ帝国の第5代皇帝ネロ(在位:54~68)治世に、聖アンデレがパトラに布教で訪れた際に捕らえられて、エックス字型の十字架で処刑され殉教したと言われている。その後、聖アンデレは、パトラの守護聖人となりバシリカ様式の教会が建てられ、世界中のキリスト教徒の巡礼の場所となった。


現在の建物は、建築家アナスタシオス・メタクサスのもと、1908年に始まり66年後の1974年に完成したもので、敷地面積1,900平方メートル、建物の長さ約60メートル×幅約52メートルあり、7,000人規模の収容人員を誇るビザンティン様式の教会である。中央ドームの頂部にキリストを象徴する高さ5メートルの黄金十字架が、そして、その四隅に小ドームが、更に東西南北に延びる身廊先端左右の小ドームを併せて合計12個所の小ドームがあり、12使徒を象徴する十字架が聳えている。


ギリシャ最大の教会でバルカン半島では、ブカレストのルーマニア人民救世大聖堂、ベオグラードの聖サヴァ大聖堂、ソフィアのアレクサンドルネフスキー大聖堂に次ぐ4番目に大きいビザンティン様式の教会とされる。この時間は午後8時を過ぎたころで、ちょうど、日の入り時間となり、教会が美しく赤色に染まりだした。

教会の内部は日の入り時間が近づいてやや暗い印象だが、ビザンチン様式の壁画とモザイクで装飾された空間は荘厳で美しい。「全能者ハリストス」や聖アンデレが描かれた中央ドームの真下には、繊細に彫刻された三層の傘に無数の電球が並ぶ巨大で豪華なシャンデリアがぶら下がっている。下部には双頭の鷲が取り囲んでいる。


内陣とアプスを区切るテンプロンは白大理石で、王門を中心に大小のイコンが二段のアーチ型の窓に飾られている。奥には、パトラの町を守るように生神女マリヤ(パナギア)が描かれている。


テンプロンに向かって左奥の祭壇には聖アンデレを象徴するエックス型の十字架が飾られている。周りには、最近修復されたのか一面美しいフレスコ画で覆われている。祭壇左側には、エックス十字架を持つ聖アンデレや、アプスには、この地で処刑され殉教する聖アンデレの姿が描かれている。


20分ほど見学して、再びDim. Gounari通りまで戻り、レストランを探しつつ歩いたが、エクスペディアの評価と客層やお店の雰囲気の良さ等からリストランテ・サルメリア(salumeria Ristorante)で食事をすることにした。パトラ中央広場のゲオルギオス1世広場(Georgiou I Square)からMaizonos通りを100メートルほど南側の路地に入った静かな場所にある。


飲み物はビールやワインを頼み、料理はサラダイカポーク肉を頼んだ。非常に美味しかったが、イカの量が少ないのが残念だった。デザートが無料サービスなのが嬉しかった。1時間ほど滞在した。

ホテルは、東に向け路地を500メートルほど歩いて、突き当りを右折した所である。方格状に道路が通っているが、細い路地ばかりで、薄暗くやや怖い雰囲気である。ホテルすぐ近くには、旧市街の坂道に美しくライトアップされた「Ekklisia Pantanassa教会」が建っていた。ちなみに教会に向かって左先隣りには、階段が続き、上った先にローマ時代の奏楽堂(ローマオデオン)がある。


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翌朝、8時前に朝食を食べ、9時前にホテルを出発した。これからオリンピア(オリュンピア)に向かう。Dim. Gounari通りを西に向かい、パトラ-Bインターから高速道路5号線(E55線)に乗りピルゴス方面に向け南下する。快適な片側2車線の高速道だったが、10キロメートルほどで片側1車線の9号線(E55線)となった。


ピルゴスの手前から74号線に乗り換え山間部に向け約20キロメートル進むとオリンピアに到着した。パトラのホテルからは120キロメートル(2時間ほど)の行程だった。目的地のオリンピア遺跡群は、隣接する小さな町、アルヘア・オリンビアの目抜き通りを南下した車止めから、ツアーバス専用駐車場を抜け歩道を450メートルほど東方面に歩いたところにある。なお、一般駐車場は、車止めの手前を左折して300メートルほど離れているため、近場に駐車するなら縦列駐車になる。

オリンピアは、ペロポネソス半島西部に位置し、古代オリンピックが行われた場所で、数多くの遺跡が発掘されている。1829年にフランス人考古学者により始められ、19世紀にはドイツの発掘隊も加わり貴重な彫像などが発見された。20世紀半ばには競技場跡が発掘され、1989年には「オリンピアの考古遺跡」として世界遺産に登録された。

最初に、車止めからすぐの場所にある「古代オリンピック歴史博物館」を見学して、遺跡群に向かった。入口はクロノス山(標高113.9メートルだが、遺跡との高低差は50メートルほどの小さい丘)の西側にあり、入場後は南に延びる道幅8メートルほどの広い砂利道を左右に広がる遺跡を見学しながら進んでいく。こちらの地図(下が北)では、①と⑲の間の通路を南に向かっている。


入口から100メートルほど進んだ左側にある遺跡は「プリタニオン」と呼ばれ、紀元前4世紀、マケドニア王フィリッポス2世によりギリシャ統一を記念して建造された古代オリンピックの評議会の事務所で、大祭のときには迎賓館として使用された。背景に見える柱はヘラ神殿で、右側に見える柱は「フィリペイオン」と呼ばれる円形神殿の址である。


砂利道を進み、左折すると、すぐ左側に「フィリペイオン(円形神殿)」が現れる。こちらもマケドニア王フィリッポス2世による奉納で、息子のアレキサンダー大王治世で完成したとされる。遺跡の重要な領域は、180メートルほどの不規則な四角形で北側のクロノス山側を除き、東西南は壁に取り囲まれていた。このフィリペイオン(円形神殿)は、その領域の北西角にあたる。


そのフィリペイオン(円形神殿)の東隣に、紀元前590年頃に建てられた「ヘラ神殿」の址が残る。神殿は、ギリシャの神々の女王ヘラに捧げられたギリシャで最も初期のドーリア式寺院の一つで、縦50メートル×横18.75メートル×高さ7.8メートルの大きさだった。当初、柱は木材だったが、腐敗や劣化により、徐々に石の柱に置き換わったと考えられている。4世紀初頭の地震により破壊された。


ヘラ神殿の更に東隣の足元にはロープで囲まれた聖火採火壇址がある。近代オリンピック(1896年アテネ開催)における聖火はこの場所で凹面鏡を用いて太陽から採火されている。


ところで、古代オリンピックの始まりは紀元前8世紀に遡る。伝染病の蔓延に困ったエリス王イフィトスが、争いをやめて「オリュンピア祭」をせよと「デルポイの神託」を受けた事に由来すると伝えられている。これがゼウス神への奉納競技の始まりで1000年以上、293回に渡り行われたが、ローマ帝国皇帝テオドシウス1世の異教神殿破壊令により393年開催が古代オリンピック最後の年となった。

聖火採火壇址の北側のクロノス山麓の緩斜面には、ニンファエウム(泉の神ニンフを祀る神殿)の址がある。2世紀にギリシャ人の貴族でローマの元老院議員であったヘロディス・アッティコスと、妻のアスパシア・アニア・リジラが奉納したもの。ヘロディス・アッティコスは、多くの建築プロジェクトに資金を提供したパトロンで知られている。現在は、半円形の基壇のみが残っているが、当時はその上に11の壁龕が2段に並び、その中にローマ五賢帝の像などと共にヘロディス・アッティコスや家族の像も飾られていた。


この辺りで、復元模型図(南側上空から北方面を俯瞰するイメージ)を見ると、遺跡群の位置関係が分かりやすい。

聖火採火壇址の東隣には、メトロンと呼ばれる母神に捧げられた小ぶりな神殿址がある。そして、クロノス山麓の緩斜面の中央に見えるニンファエウムの右側に建つ柱と壁面から東側へ約100メートルの間にギリシャの各ポリスの宝物庫が12棟並んでいた。


メトロン址を過ぎ、更に東側に進むと、左右を石垣で囲まれた通路があり、右側にも大規模な建造物の址が南側に続いている。通路を覆うアーチが、北東部の壁になる。その壁を過ぎ通路を進んで行くと、その先には古代オリンピックのスタジアムが広がっている。


スタジアムは、長さ212.54メートル×幅30~34メートルで、現在の陸上競技のように、トラックの一端に白いブロックが配置され、競技者が並んで、レース開始するための起点として作られた。更にコースは、走りやすい様に固い粘土で作られた。2004年のアテネ・オリンピックではこのスタジアムで男女砲丸投の競技が行われた。


再び遺跡中央の領域内に戻り、大規模な建造物の址に沿って進み南端から振り返って全体を見てみる。この遺跡は「エコ・ストア」と呼ばれる屋根付きの柱廊を持つ南北に100メートルほど続く大きな建物で、古代ギリシャでは、商品の販売や展示、宗教的集会や公開集会など、様々な用途で使用された。現在は中央に復元された柱が一本建っているだけである。なお、北側にはクロノス山が見え、エコ・ストアの東側には、東領域の壁が続いており、その背後にスタジアムの緑が広がっているのが見える。


この辺りで、復元模型図(南側上空から北東方面を俯瞰するイメージ)を見ると、遺跡群の位置関係が分かりやすい。

「エコ・ストア」の南側から遺跡の中央付近に進むと「ゼウス神殿」の正面階段があり、その手前やや南側に柱が復元されており「勝利の女神ニケ」の像が飾られていた

ゼウス神殿は立入禁止になっており、全体像を理解するには、南側に回り込み、東南角から斜めに見ると分かりやすい。紀元前470年頃(紀元前457年に完了)にエーリス出身の建築家リボンによりドリス様式で建てられた(東西64.12メートル×南北27.68×高さ20.25メートル)もので、主要な構造は質の悪い地元の石灰岩であったらしく、大理石に見える様にスタッコの薄い層でコーティングされた。屋根は、ペンテリック大理石のタイルで覆われ、半透明になるほど薄くカットされたため、外光が内部に届き明るく照らしていたとされる。


神殿北西側の柱が1本だけ復元されてている。基壇の上には、外側に6本×13本の柱が配置され、内部には、7本の柱が2列に並び、3つの通路を形成していたという。フィロンによる世界の七不思議の一つであるゼウス像(座像で全長は約12メートル)が存在したことでも知られる。1950年代に制作者のペイディアスの工房がゼウス神殿から100メートル西で発見されたことから信憑性が高まった。


遺跡群を出て200メートルほど北に行ったクロノス山の北西側の麓に「オリンピア考古学博物館」がある。博物館には先史時代からローマ時代までの大理石の彫像や銅製の像、鎧兜、ガラス製品などが12室の展示室におさめられている。


こちらの展示室には、紀元前7~前8世紀ごろに制作されたブロンズ彫刻を中心に展示されている。中央には、翼のある女性像で、目には骨がはめ込まれている。ブロンズ製の大鍋や鼎の上部に取っ手として取り付けられていたライオンの頭部やグリフィンの頭部が多く展示されているが、これらは奉納品として制作された。

ブロンズ彫刻では、他にも紀元前490年のマラトンの戦い(紀元前490年)にアテナイ・プラタイア連合軍が勝利したことを記念して奉納された兜群が展示されている。

紀元前5世紀初めの「アテナ女神の頭部像」。アテナ女神は、蓮の花で飾られたヘルメット風の王冠を被っている。巨人族と戦う場面を表現した一部と考えられている。


紀元前480~前470頃の「ゼウスとガニュメーデース(ガニメデ)」で、破風の形をした土台の上に立っている。ゼウスは右腕でガニメデを右腕下からしっかりと抱きしめ、左手には木製の杖を持っている。服装は、上半身は裸で、左腕と腰には長い赤色のチュニックをゆるく掛けており突き出した左足は裸足である。
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ゼウスが被る帽子からは髪が覗いている。表情はかすかに笑みをたたえ、鋭い顎に残る濃い茶色髭が印象的である。一方、ガニメデの体は多数の断片から再構成され表情は緊張しつつも物思いにふけっている。やや広めの鍔のある帽子を被り、長い髪は肩に垂れ下がり、左手に雌鶏を持っている。1878年にスタジアム南西側と西側の2か所から発見された。


ガニュメーデース(ガニメデ)は、トロイアの王子だったが、大神ゼウスは、その美しさにほれ込み、王子をさらって、永遠の若さと不死を与えてオリュンポスの神々の宴席給仕係としたとされる。

紀元前425~420年にギリシャの彫刻家パイオニオスによって作られた「勝利の女神ニケ」像。パロス島産大理石(パリアン)で作られたこの像は、大きく破損した破片から復元されたが、顔、首、腕、左脚の一部、翼などは欠けている。


像は1875年から76年にかけてゼウス神殿正面口(東側)の近くで発掘された。もともと像は三角形の柱の上に立っており、柱を含め、12メートルもの高さに及んだという。「メッセニア人とナウパクティア人は戦争の戦利品からこの像をゼウス・オリンピオスに捧げた。メンデのパイオニオはそれを作り、彼はまた寺院のアクロテリアを作るための競争に勝った」と記されている。
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「勝利の女神ニケ」の正面には、ひと際大きな展示室があり、ゼウス神殿の東西のペディメント(破風)を飾っていた彫刻とメトーブ(壁面装飾)が展示されている。


「勝利の女神ニケ」に向かって右側には「ラピテス族とケンタウロスの戦い」の場面を表現した彫像群で、ゼウス神殿の西側に飾られていたものである。神殿の巨大さを体感できる迫力ある展示方法である。
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アポロン神を中心に、左右にはラピテース族の王ペイリトオスと友人のアテナイの王テーセウスの頭部と剣を振りかざした腕のみが残っている。それぞれの王がケンタウロスと争う迫力ある姿が表現されていたのだろう。
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剣を振りかざすペイリトオスの左隣には、彼の花嫁デイダメイアがケンタウロスの一人エウリュティオーンに襲われそうになっている瞬間がリアルに表現されている。

対して、神殿正面東側の破風を飾っていたのは、「オイノマオスとペロプスとの戦車競走」で、ゼウス神を中心に左右にオイノマオスとペロプスが並び、その左右にステローペ女神とヒッポダメイア女神が、更にその左右に双方の乗る馬車が並んでいる。戦車競走前の整列した姿を表現しているようである。
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神殿を飾っていたメトーブ(壁面装飾)は、展示室前後に6枚ずつ、ヘラクレスの十二の功業(前470~前456)が展示されている。多くは損傷が激しいが、こちらの「ヘスペリデス(ニンフたち)の黄金の林檎」は比較的良く残っている。アテナ女神とアトラスが天空を担いだところでヘラクレスが林檎を取って行く場面だが、壁面装飾とは思えないほどに写実的に深掘りされているのが分かる。


「幼いディオニューソスを抱くヘルメス」。上に掲げた右手は失われているが、抱きかかえる幼児に一房のブドウを与えようとしている姿といわれている。美術史家の間では、プラクシテレス作の真贋論争が続いているが結論が出されていない。プラクシテレスは、紀元前4世紀の最も有名なアッティカの彫刻家で、初めて等身大の女性ヌード像を作った彫刻家である。プラクシテレスの作彫刻は現存せず多くの複製が残っているものとされる。
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ヘルメスの顔や胴体は、美しく光沢を放っており、非常に洗練された作品である。西暦3世紀後半に発生した地震により失われたが、1877年、ヘラ神殿址で木の幹に寄りかかっている姿で発見された。
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こちらの展示室の中央には、ローマの元老院議員ヘロディス・アッティコス夫妻が建造したニンファエウム(泉の神ニンフを祀る神殿)を飾っていた、第14代ローマ皇帝ハドリアヌス(在位:117~138)ポッパエア・サビナ(第5代ローマ皇帝ネロの2番目の妻)ヘロディス・アッティコスの娘などの彫像群に加え、泉の中央部に飾られた牡牛の彫像などが展示されていた

(2019.5.22~23)

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