こちらはルネッサンス期の画家ピエロ・デッラ・フランチェスカ(1412~1492)の彫像で、彼の生まれ故郷サンセポルクロ(旧:ボルゴ・サンセポルクロ)にある「ピエロ・デッラ・フランチェスカ庭園公園」に飾られている。靴職人の子として誕生したピエロは、この地で、20代前半まで画家として徒弟修行をし、その後フィレンツェに向かっている。
サンセポルクロは、トスカーナ州アレッツォ県にある、人口約16,000人の基礎自治体(コムーネ)で、今朝、フォルリから、アウトストラーダA14でチェゼーナまで行き、国道3bisで、アペニン山脈を南に横断してやってきた。
東西2キロメートルほどの長方形の小さな町で、旧市街の入口となる西側には、南北200メートルほどにわたり、初代トスカーナ大公でフィレンツェのメディチ家コジモ1世(1519~1574)により築かれた城門と城壁が保存されている。ピエロの彫像が立つ公園は、その旧市街の北西側に位置しており、西隣に「サン・フランチェスコ教会」が建っている。
サン・フランチェスコ教会の南側にある「サンセポルクロ市立美術館」には、そのピエロにより描かれた「ミゼリコルディアの多翼祭壇画」(横330センチ×高さ273センチ)が展示されている。作品は、1445年から描かれ、当初3年間で完成させる予定だったが、17年後の1462年に完成している。
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地元の慈善団体「ミゼリコルディア信心会」の依頼で制作されたもので、ミゼリコルディアとは「慈悲の聖母」を意味している。作品は、聖母が慈悲深げに両手を広げ、マントで教会の屋根にも似た奥行きのある空間を作り出し、信者を包み込む姿を中心に構成されている。向かって右側の聖セバスティアヌスと洗礼者ヨハネが最初に描かれ、左側の聖アンデレ、聖ベルナルディーノは1450年頃に描かれた。プレデッラの「キリストの生涯」は弟子により描かれている。
サン・フランチェスコ教会の西隣の交差点から南側に進むと、町の中心地となり、左側に市役所、先隣に「サンセポルクロの大聖堂」(10世紀築、1520年より大聖堂)、更にその先に「ベルタの塔広場(Piazza Torre di Berta)」と続いている。
次に、15キロメートルほど南に位置するモンテルキ(Monterchi)にやってきた。トスカーナ州アレッツォ県にある人口約1,700人の小さな基礎自治体(コムーネ)で、町の南側に、一辺200メートルほどの三角形の小山に広がる旧市街がある。その旧市街への入口となる南麓側にある「出産の聖母美術館」に、ピエロ・デッラ・フランチェスカが描いたフレスコ画「出産の聖母」(高さ260センチ×横幅203センチ)が展示されている。
作品は、1455年から1465年頃の間に制作されたと考えられている。モンテルキは、ピエロの母親の出身地で、1459年にこの地で亡くなっており、ピエロは葬儀のために帰省して「出産の聖母」を描いたと推測されている。もともと、モンテルキにあった「サンタ・マリア・ディ・モメンターナ礼拝堂」に描かれたフレスコ画だったが、1785年頃、墓地建設のために礼拝堂が廃止され、1889年になって発見された。その後、1911年に政府によりサンセポルクロに移動するものの、最終的にモンテルキで保管されることになった。
しかし、依頼主や所有主がはっきりしなく、こちらの美術館も安住の地とはなっていない。近年、世界中から鑑賞のために訪れる美術愛好家も多く、また安産や懐妊を願う女性もよく訪れる。ところで、妊娠した聖母は1300年代にトスカーナ地方で流行し、いくつか描かれたが、その後の「トレント公会議」で禁じられている。
出産の聖母には持物がなく、頬が赤く健康そうな妊婦といった表情で、左手を腰に当て、重そうなお腹を前に突き出し、右手で衣のお腹部分を開けている。左右には、それぞれ緑色と赤色の衣服を身につけた天使がカーテンを広げている。ちなみにこちらは裏側の様子。
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出産の聖母は、ロシアの映画監督アンドレイ・タルコフスキーがイタリアで製作した映画「ノスタルジア」(1983年)にも登場している。冒頭、トスカーナを取材に訪れた作家が、古い教会を尋ねると蝋燭が一杯に灯された中、女性信者が「出産の聖母」の前で祈りを捧げているといった神性な場面だった。
美術館での見学後、隣の旧市街側の一段上の高台にある、トスカーナ料理店「センツァ・テンポ(senza tempo)」で昼食を頂くことにした。テラス席もあるが、暑かったので、店内のテーブル席に案内してもらった。料理は、夜のこともあるので、シンプルに、生野菜、アリオーネソースのスパゲッティを注文した。セコンドピアットは、Lボーンステーキがお勧めとのことで、注文すると、塩胡椒で味付けした脂身が少なく赤身の肉厚ステーキで、柔らかく甘みもあり大変美味しかった。レモンが添えられていたのも良かった。
トスカーナ料理の名物は「キアニーナ牛」と呼ばれるブランド熟成肉で、骨付きを炭火で焼いたステーキが最も美味しいとされる。古代から生息するイタリアの在来種で、世界中の牛の祖先とも言われ、真っ白な大きな体が特徴で、トスカーナ州東部からウンブリア州方面に広がるキアーナ渓谷に因んでいる。
食後は、西側に広がる山を越え、アレッツォ(Arezzo)に向かった。距離にして30キロメートル、約30分の距離である。
アレッツォは、トスカーナ州アレッツォ県の県都で、周辺地域を含む人口約9万8000人の基礎自治体(コムーネ)である。共和政ローマ時代にはアレティウム(Arretium)と呼ばれ、アレティウムの戦い(紀元前283年頃)の舞台として知られ、ポエニ戦争(紀元前264年~紀元前146年)時代には軍需物資を供給するローマの重要な中継点として発展した。帝政ローマ時代においては、ローマ第3の都市として栄え、特に農業や陶器産業が発展し主要な収入源となっている。
12世紀には、自治都市(コムーネ)となり、他の都市と同様に教皇派と皇帝派の対立が激しくなる。14世紀以降は、ペルージャとの戦争を経て、フィレンツェ共和国に併合され、16世紀にはメディチ家が支配するトスカーナ公国の領土となっている。
アレッツォでは、最初に「サン・フランチェスコ教会」にあるピエロ・デッラ・フランチェスカのフレスコ画の傑作「聖十字架伝説」の見学に向かった。アレッツォ駅から北に向け直進すると、円形の敷地を持つ「グイード・モナコ広場」が現れ、中心に、アレッツォ出身で楽譜記譜法の原型を考案した音楽教師グイード・アレッツォ(グイード・モナコ)(991頃~1050)像が建っている。
グイード・モナコ広場を横断すると、再び直線道(グイード・モナコ通り)になり、旧市街へ向かう上り坂になる。250メートル行った突き当りの丁字路を右折すると、東西に延びるカヴール通りとなり、南側に「アレッツォ市立近代・現代美術館」(旧:キアーヴィ ドーロ ホテル)と、先隣に直結して、目的地の「サン・フランチェスコ教会」に到着する。グイード・モナコ通りは、再開発された広い直線道だが、カヴール通り(旧ヴァッレルンガ街道)は、アレッツォ旧市街でも最も古い通りの一つである。
「サン・フランチェスコ教会」の東隣には、南北に延びるサン・フランチェスコ通りが交差しており、その交差点から、西側のカブール通りを向いて建つのが、彫刻家パスクアーレ・ロマネッリ(1812~1887)による「フォッソンブローニ像」(1867年)である。ヴィットリオ フォッソンブローニ(1754~1844)は、アレッツォ生まれの政治家、数学者、経済学者、技術者・外交官として活躍し、特にアレッツォ県のヴァル ディ キアーナの開墾事業に貢献した人物として知られている。
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サン・フランチェスコ教会のファサードに向かって左端にある小さな扉を入った所に、チケットショップがある。そして、その身廊の突き当りにある中央祭壇「バッチ礼拝堂」に、1447年から1466年にかけて、ピエロ・デッラ・フランチェスカが描いた傑作「聖十字架伝説」のフレスコ画がある。作品は、窓の左右後壁と両側壁のそれぞれ三層に分かれている。窓に向かって右上から下に「預言者エレミヤ」「③聖木を埋める男性」「④コンスタンティヌス大帝の夢」、左上から下に「預言者エゼキエル」「⑥ユダの拷問」「受胎告知」が描かれている。※番号はストーリー順。
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ちなみに、祭壇手前に掲げられた十字架は、マエストロ・ディ・フランチェスコによる「十字架上のキリストとその足に接吻する聖フランチェスコ」(1250~1260)である。
窓に向かって右側壁の上部には、エデンの園においてアダムが息子に埋葬され、その際に植えられた木が十字架になると示唆する「①アダムの死」がある。そして、その下の中央に、シバの女王が、聖木から作られた橋が将来キリストの受難に繋がり、ユダヤ王国の終焉となることをソロモンに伝え、これを聞いたソロモンが、橋を切って埋めさせた「②聖木を礼拝するシバの女王と、ソロモンとシバの女王の会見」(3.3メートル×7.4メートル)の連画が描かれている。
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その下には、ローマ帝国の皇帝コンスタンティヌス1世(在位:306~337)がはじめてキリスト教を公認するきっかけとなったミルウィウス橋の戦い(312年)が描かれた「⑤コンスタンティヌス大帝の勝利」がある。
反対側の左側壁には、上部から、ヘラクレイオス帝が聖十字架を高く掲げ、エルサレム市民から歓迎される「⑨聖十字架の賞揚」が描かれ、中央に、コンスタンティヌス1世の母ヘレナ(聖ヘレナ)が、エルサレムで聖十字架を発見する「⑦聖十字架の発見と検証」が、下部に聖十字架が重要な役割を果たす東ローマ・サーサーン戦争(602~628)「⑧ヘラクレイオス帝とホスロー王の戦い」が描かれている。ピエロ・デッラ・フランチェスカの明るい色彩と開放感のある背景のもとに織りなす人物描写は圧倒されるほどの美しさがある。
サン・フランチェスコ教会の向かい側のテラス席の先隣にある白い3階建ての建物には、1804年創業の老舗カフェ「カフェ・ディ・コスタンティ」があるが、今日は休みらしい。コスタンティとは、16世紀に設立された歴史あるアカデミア(学会)で、19世紀初頭までこの場所にあった本部に因んでいる。
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次に、カヴール通りを東に100メートルほど進み、交差点を左折した上り坂(イタリア通り)のすぐ右側に「ピエーヴェ・ディ・サンタ・マリア教会」のファサードが覆いかぶさるように迫って建っている。13世紀に再建されたもので、1階には5連アーチ門に3つのポータルがあり、その内の中央から教会内に入場できる。そのポータルの上には、3層にわたり、柱で支えられたロッジアがあり、うち2層は大小のアーチで、最上層はアーキトレーブとなっている。壮観な眺めだが、見慣れないファサードで多少違和感がある。ロッジアの奥には明かり採りのためのバラ窓やアーチ窓などを確認できる。
ファサードの右側上部に高さ50メートルの角状の鐘楼が聳えている。1216年に工事が始まり1330年に完成しており、側面を設計上リスクがあったのか、バットレスピラスターで補強されている。鐘楼は「デッラ チェントブーケ」(100の穴)と名付けられており、それぞれムリオン(縦仕切り)のある窓が2基づつ5層にわたり続いている。合計4面で80の窓となり、100に届かないことから、6層以上があったと言われているが裏付ける証拠はない。
ロマネスク様式の主祭壇は、3つのアーチで支えられた2階建てで、2階の欄干の奥にシエナ派の巨匠の1人、ピエトロ・ロレンツェッティ(1285頃~1348頃)(アンブロージョ・ロレンツェッティの兄)が1320年に制作した「アレッツォ教区教会の多翼祭壇画」(画像出典:ウィキメディア・コモンズ (Wikimedia Commons))の衝立が飾られている。祭壇画には、聖母子を中心に、聖人の福音記者ヨハネ、アレッツォ司教の聖ドナート、使徒ヨハネ、マッテオ(マタイ)が描かれている。上部のアプスにもピエトロ・ロレンツェッティのフレスコ画があったが、現在は失われている。この日は結婚式が執り行われており近づくことができなかった。
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ファサードから鐘楼側に回り込み、教会の壁面に沿って進むと、アレッツォの中心広場「グランデ広場」(別名:ヴァザーリ広場)になる。広場の中心から西側に振り返ると、高低差10メートルの勾配を持つ斜面をそのまま活かしているのが分かる。
先程訪問した、左側の「ピエーヴェ・ディ・サンタ・マリア教会」の後陣は、下部が浮き彫りアーチで、その上2層にわたりロッジア(中層はアーチ、上層はアーキトレーブ)が施されている。弧を描くロッジアは壮観で、19世紀後半に大規模な改修がされたが、美しいロマネスク様式を見せてくれる。そして、右隣の半円形の階段の上には「元裁判所宮殿」(1780年築)が、更にその右隣には、フラテルニタ・デイ・ライチ慈善会により1262年に創建された「フラテルニタ・デイ・ライチ宮殿」(現:ライチ美術館)が並んでいる。
1375年からゴシック様式で着工され、15世紀のルネサンス様式を経て、16世紀半ばに、アレッツォ生まれでフィレンツェの都市改造事業にも携わったマニエリスム期の画家兼建築家のジョルジョ・ヴァザーリ(1511~1574)によって完成した。ヴァザーリは、日本でも「芸術家(美術家)列伝」の作者で知られている。その後、18世紀後半に、トスカーナ大公で、神聖ローマ皇帝のレオポルト2世(1747~1792)の支援で改装され現在に至っており、様々な時代の様式が融合した歴史ある建築物である。
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ポーチ上のティンパヌムには、アレッツォ出身の画家スピネッロ・アレティーノ(1350~1410)による「ピエタ」(現:コピー)が描かれ、その上の2層目には、聖母子のレリーフ(慈悲の聖母)と左右にアレッツォ司教の聖ドナートと聖グレゴリオの彫刻が施されている。こちらは、1434年に制作参加したベルナルド・ロッセッリーノ(1409~1464)を中心とする彫刻グループによるもの。聖母子レリーフは、聖母がマントで信者を包み込む”慈悲の聖母”(ミゼリコルディア)を主題にしているが、幼子を抱いているバージョンは珍しい。。その上のバルコニー風の小回廊は1460年に追加されている。頂部の3つの鐘のある塔には、1552年にジョルジョ・ヴァザーリにより設計された天文時計が飾られている。
「グランデ広場」(別名:ヴァザーリ広場)の現在の姿は、トスカーナ公国の初代大公コジモ1世(1519~1574)が、新領主の権威を示すために、丘の上に「メディチ要塞」(1538~1560)を再建し、それまで広場の北側にあったポポロ宮殿、コムーネ宮殿など自治都市時代からの行政府の建物を一掃し、再開発をジョルジョ・ヴァザーリに指示したもの。その一環として、北面の「ロッジア宮殿」(別名:ヴァザーリの柱廊)は、1572年から建設が始まった。しかし完成は、ヴァザーリ後任の建築家アルフォンソ・パリージ時の1595年のことだった。
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広場の中程には、公告の掲示場所だった中世の柱のオブジェ(ペトローネ)が残されている。
広場では、毎年6月と9月の年2回、サラセン人の馬上槍試合(ジョスト ラ デル サラチーノ)が行われている。試合は、チーム対抗で、疾走する馬上から、鎧を着たサラセン人の人形が持つ的を槍で突くといった内容。試合前には、中世の衣装を身にまとった人々のパレードが行われ大いに賑わう。
広場の東側には、右側に一際高い胸壁のある塔の「ラッポリー宮殿」(Palazzo Lappoli)(1930年代再建)が、広場を見下ろす様に建っており、1階には土産ショップや、カフェなどが営業している。そして左隣には、中世から続く歴史ある邸宅が階段状に繋がり建っており、それぞれ、縦仕切りの格子窓やアーチ窓で、木製バルコニーが取り付けられているものもある。これら邸宅の北側には、サン・マルティーノ通りが延びている。
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中世の建物が取り囲む「グランデ広場」は、地元出身の俳優、映画監督でコメディアンのロベルト・ベニーニが、監督、脚本、主演を務めたイタリア映画「ライフ・イズ・ビューティフル」(1997年)の舞台として世界的に知られている。特に、グイド(ロベルト・ベニーニ)一家の3人がサン・マルティーノ通りから、一台の自転車に乗りグランデ広場に駆け下りて来るシーンは有名で、他にもサン・フランチェスコ広場や周辺の通りで撮影がなされている。
広場南側にも古い建物が並び、ラッポリー宮殿に似た胸壁の塔を持つ建物「コファーニ・ブリッツォラリ宮殿」(Palazzo Cofani-Brizzolari)がある。15世紀に建てられた(塔は12世紀築)もので、1930年代に再建されている。他に広場の東南側ある屋根付き井戸(15世紀)や、西南側にある新古典主義様式の大理石の噴水(1603年)なども見所である。
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次に「ロッジア宮殿」(ヴァザーリの柱廊)前を通って、西側から、丘の上に向かい、プッブリコ・デル・プラート公園の西側、アレッツォの最も標高の高いエリアに建つのが「アレッツォ大聖堂」(ドゥオーモ)である。おそらく、古くは街のアクロポリスがあった場所に16世紀初頭に建設されたゴシック様式教会で、石階段の上に建っている。
未完成のままだったファサードは、ダンテ・ヴィヴィアーニ(1861~1917)が、1914年にネオゴシック様式で完成させており、装飾群は、ジュゼッペ・カシオリ、エンリコ・クアトリニ、ダンテ・ヴィヴィアーニにより施されている。3つあるポータルのルネットは浅浮き彫りで装飾されている。中央のポータルには、切妻があり、頂部がキリスト、向かって左右に聖グレゴリオとアレッツォ司教の聖ドナートがそれぞれ天蓋の下に飾られている。上部には円形のバラ窓がある。
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大聖堂は、アレッツォ司教の聖ドナート(~362)に捧げられている。聖ドナートはアレッツォでは2番目の司教で、ローマ帝国ユリアヌス帝(在位:361~363)下の362年に(時期は諸説あり)詳細は不明だが殉教し列聖されている。今日ではアレッツォの守護聖人で、癲癇の子供を治療したことから、癲癇の守護聖人とも評されている。祭壇には、彼の遺骨(頭部以外)を収めた大理石の石棺が置かれ、上部を彫刻家・建築家アグノロ ディ ベンチュラ(1312頃~1349)により、聖母子像など浮き彫りが施された12本のゴシック様式の尖塔柱によって飾られている。
1384年に、フランスの傭兵隊長アンゲラン7世により頭部の遺骨を略奪されたが、現在は返却され、ピエーヴェ・ディ・サンタ・マリア教会に収められている。
聖堂内は、3つの身廊があり、それぞれが交差ヴォールトで覆われた6つに分割され、翼廊はない。祭壇に向かいすぐ手前の左身廊壁には、1327年に亡くなったアレッツォの司教兼領主グイド・タルラティ(Guido Tarlati)の大きな慰霊碑が飾られている。1330年にシエネの彫刻家兼建築家アゴスティーノ・ディ・ジョヴァンニ(1285頃~1347頃)が、アグノロ ディ ベンチュラとの協力で制作したもの。
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正面の張り出しパネルには、左右の天使がカーテンを広げた中央に、大きくデフォルメされた司教が横たわり、それぞれ左右後方に多くの人が集まっている。その下には、司教の生涯が16(4×4)枚のパネルに浅浮き彫りで表現されている。シーンは、アレッツォの司教と領主の人生、軍事的成功、そして統治の成果などを表している。建築家ジョルジョ・ヴァザーリは、記念碑のデザインについて、ジョット・ディ・ボンドーネ(1267頃~1337)を参考にしていると言及している。
その慰霊碑の右下の聖具室に通じる扉の横に、ピエロ・デッラ・フランチェスカが描いた「マグダラのマリア」(1459年)のフレスコ画が残されている。わずかに隆起した眉毛に、やや視線を下げ、高貴な雰囲気を醸し出している。肩にかかる豊かな髪の毛は1本ずつ細かく描かれ、緑色の下衣に、右手で朱色のマントをたくし上げ、左手に香油壺を持っている。背後のアーチの左柱は、後から設置された慰霊碑で隠れているが、他にも何か描かれていたのだろうか。。
アレッツォから北西に約8キロメートル離れたアルノ川に架かる「ブリアーノ橋」(Ponte Buriano)にやってきた。美術研究家によると、レオナルド・ダ・ヴィンチの「モナリザ」(1503年から1506年に制作)の右背景に描かれた橋がこちらの橋と言われている。橋は砂岩素材で、長さ158メートル、幅5.80メートル、高さ10メートル、7つの低いアーチで構成されている。記録では1277年に架けられ1558年に再建、その後18世紀に2度修理されている。
モナリザに描かれた橋と比べると、ブリアーノ橋は、アーチが低い様に見えるが、水量の違いからなのか、何とも言えないが、河川敷には、現在、レオナルド・ダ・ヴィンチが描いたドローイング「ウィトルウィウス的人体図」(1485~1490年頃)をデザインした案内板が解説付きで掲げられている。
そして、アレッツォから30キロメートル南にある、トスカーナ州アレッツォ県、人口約22,000人の基礎自治体(コムーネ)のコルトーナ(Cortona)に到着した。コルトーナは、トスカーナ州で最も古い丘の町の一つで標高600メートルの丘の中腹にあり、玄関口となる「ガリバルディ広場」には、見晴らしの良い眺望が広がっている。時刻は午後8時半、ギリギリ日没前に到着することができた。
夕食は、ガリバルディ広場から、華やかなナツィオナーレ通りを250メートルほど西に歩いたコルトーナの中心「レプッブリカ広場」にある「トラットリア(La Grotta)」に向かった。広場の南側に面した「エノテカ(Molesini)」と「フラワーショップ」間の細い路地を入った突き当りにある。
入口手前に7テーブルほど設置されたテラス席があり、そちらを案内された。なお、店内は、石造りの洞窟スタイルで1階に3部屋ほどあり、位置的には広場に面したエノテカの裏側になるようだ。La Grottaは、トスカーナ郷土料理店で、特にお肉が美味しいと評判である。ワインは、サンジョヴェーゼ種のコルトーナ・ワイン(Angelo Vegni Cortona Sangiovese)を頼んだ。
料理は、まずアンパティストとして、トマトのサラダ、プリモピアットとして、自家製パスタ、タリアテッレとポルチーニ茸などを頼んだ。
セコンドピアットは、ビステッカ アッラ フィオレンティーナ(トスカーナ州の郷土料理Lボーンステーキ)、サルシッチャ(ソーセージ)のグリルを、コントルノ(セコンドピアットの付け合わせ)として、野菜のグリルなどを頼んだ。ドルチェ(デザート)はプリンを頂いた。評判どおり、どの料理も大変美味しかった。人気店でこの日も多くの客が来店しており、ほぼ満席の印象だった。
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コルトーナの玄関口となるガリバルディ広場は、小さなサークル(ラウンドアバウト)で、バスの停留所や車の送迎のための停車場となっており、中央にイタリア王国成立に貢献した軍事家ジュゼッペ・ガリバルディ(1807~1882)を記念したオベリスクが建っている。こちらは、南側から街並みを背景に眺めた様子で、南西側から東側にかけては、欄干手すりのある円形の展望エリアになっている。
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その展望台から南側を眺めてみる。キアーナ渓谷が広がり、丘の斜面に街が続き麓に州道が通っている。すぐ先からウンブリア州となり、遠景として「トラジメーノ湖」が望める。紀元前217年にカルタゴの将軍ハンニバル(前247~前183頃)が、ガイウス・フラミニウス率いるローマ軍を待ち伏せして破った「トラシメヌス湖畔の戦い」が繰り広げられた場所で、ここから見える北湖畔が主に戦場となった。
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やや左側に視線を移動した丘の中腹には、麓から街に上るチェザーレ・バッティスティ通りが走っている。通り左側にある円柱の建物の先に、昨夜宿泊したホテルがある。
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こちらが、宿泊したホテル「Hotel Villa Marsili」で、部屋からは、ガリバルディ広場ほどの標高はないが、パノラマが一望できた。ガリバルディ広場までは、ホテル北側の坂道を200メートルほど西に上ってくると到着する。
さて、昨夜の夕食に引き続き、再び、ガリバルディ広場から「ナツィオナーレ通り」を西に250メートルほど進み、コルトーナのメイン広場「レプッブリカ広場」にやってきた。古代ローマ時代から続く公共広場で、西側にランドマークの「コルトーナの市庁舎」(16世紀改築)が面して建っている。12世紀にロマネスク様式で建てられた庁舎で、広場から続く長い階段は憩いの場所となっている。昨夜も多くの人が階段に座っていたが、今朝は誰も座っていない。
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広場の中心から振り返って、ナツィオナーレ通りの方面を眺めてみる。右側の灰色の建物の1階がエノテカ(Molesini)で、その右隣の路地の先が、昨夜のトラットリア(La Grotta)の場所になる。そのナツィオナーレ通りは、広場を横断して、市庁舎の階段左側のアーチ門を抜けてローマ通りとなり続いていく。
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レプッブリカ広場からは放射線状に道が発出しており、市庁舎の階段右側から延びる通りを北西方向に向かうと、すぐに「シニョレッリ広場」に到着する。正面左側に13世紀に建てられたプレトーリオ宮(現:エトルリア・アカデミー博物館)があり、その先隣に柱廊が美しい1854年建設のネオ・クラッシック様式の劇場(映画館、コンべンションホール)が建っている。
その劇場の手前を左折して進むと「コルトーナ大聖堂」(ドゥオーモ)に到着する。5世紀から6世紀の間にあった寺院の遺跡の上に建てられ、11世紀に教区教会となり、教皇ユリウス2世(在位:1503~1513)により1507年に大聖堂となった。その後何度か改修され現在に至っており、ポーチの横には、アーチや窓の痕が残っている。ファサードに向かって左側は旧市街の西端の城壁となり、美しいパノラマが広がっている。
教会内は、15世紀の後半にルネサンス建築で再建されたものをベースに、身廊を覆うヴォールトは、18世紀初頭に整備されている。主祭壇は、1664年制作の大理石と半貴石の豪華な祭壇で飾られている。この時間はミサの最中で多くの参列者が集まっていた。
ファサードに向かって右側面には、16世紀後半に建設されたロッジアが続いている。フィレンツェの近郊、フィエゾーレより産出した青味がかったグレーの砂岩「ピエトラ・セレーナ(Pietra Serena)」(晴れやかな石の意)が使用されている。細工しやすく、トスカーナ地方の装飾的な建築各部に使用されている。後方の大鐘楼は1566年、地元出身の建築家で、ミケランジェロの助手でもあったフランチェスコ・ラパレッリ(Francesco Laparelli、1521~1570)により建てられた。
そしてコルトーナ大聖堂のファサードの向かい側には、「コルトーナの司教区美術館」があり、ここに、コルトーナ最大の見所の一つフラ・アンジェリコ(1390頃~1455)の「受胎告知」が展示されている。他にも、コルトーナ出身の画家ルカ・シニョレッリ(1450頃~1523)の作品などが展示されている。
こちらが「コルトーナの受胎告知」(1433~1434)(175センチ×180センチ)で、もともと、コルトーナのジェズ教会に所蔵されていた。下部のプレデッラには、聖母の生涯が描かれている。フラ・アンジェリコによる板絵の受胎告知は3点あり、こちらがその内の一つ。他の2点は、プラド美術館と、サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ美術館(アレッツォ県サン・ジョヴァンニ・ヴァルダルノ)にある。他にフレスコ画が2点あるが、共にフィレンツェのサン・マルコ美術館にある。
右側には「コルトーナの三連祭壇画」(1436~1437)(218センチ×240センチ)が展示されている。祭壇画は、中央に大きな玉座に座る聖母子が、遠近法を駆使しやや前面に描かれ、足元左右に純粋さを表す赤と白のバラの花瓶が置かれている。そして、聖母に向かって左側に、聖ドミニコと聖ニコラスが、右側に洗礼者ヨハネとアレクサンドリアの聖カタリナが配されている。その下のプレデッラには、聖ドミニコの物語が描かれている。
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「コルトーナの司教区美術館」の隣には建物がなく、テラスとなっており、斜面沿いの街並み越しにトスカーナの大地が望める。大聖堂の広場の少し手前から下へと続く道に入ると、大きく左に曲がり、勾配の急な下り坂に繋がっている。振り返ると広場の先に建つファサード横のロッジアと大鐘楼が大きく見上げるほどの位置にある。
路地には中世の邸宅が建ち並び、煉瓦造りのバルコニーを木材で支えている建物もある。近くで見てみると、バルコニーは、やや波打っており安全面で不安を感じる。。
古い街並みが続く路地を抜け「レプッブリカ広場」に戻ってきた。そしてレプッブリカ広場で少し買い物をした後、ナツィオナーレ通りを歩いてガリバルディ広場に戻り、広場西側にあるホテル サン ルカ1階にある「リストランテ・トニーノ(Tonino)」で昼食を食べることにした。
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テラスからは、眩しい日差しの下、トスカーナの雄大な眺望が広がっている。ランチメニューは、アンパティスト、プリモピアット、セコンドピアット、ドルチェとも品数は4~5品ほど。こちらは「カプレーゼ」で、鮮やかな色合いのトマトに、厚切りのモッツァレッラ、新鮮なバジルの一品。美味しいオリーブオイルをかけて頂く。
こちらは「クロスティーニ トスカーナ」で、炙ったバゲットに、鶏のレバーペーストをこんもりと盛った一品。濃厚感はあるものの上品で芳醇な香りが素晴らしい。
こちらは「スパゲッティ・ポモドーロ・エ・バジリコ」で、トマトとにんにくとバジルで作る、シンプルながら奥深い一皿。ちなみに、プリモピアットでは、他に、カルボナーラ、ラザニア、ラビオリポルチーニ、リボッリータがあった。セコンドピアットでは、フィレ アラ グリリア、ピカタ ア ヴィーノ オ リモーネ(レモン又は白ワイン風味の仔牛チーズ焼)、アニェッロ スコッタディート(子羊ロース肉)、オムレツがあったが、頼まなかった。。
食後は、コルトーナを後にし、フィウミチーノ空港に向かった。突き抜けるような青空に中世の街並みがよく映える。。そんな中央イタリアの旅はこれで終了である。
(2006.7.15~16)
サンセポルクロは、トスカーナ州アレッツォ県にある、人口約16,000人の基礎自治体(コムーネ)で、今朝、フォルリから、アウトストラーダA14でチェゼーナまで行き、国道3bisで、アペニン山脈を南に横断してやってきた。
東西2キロメートルほどの長方形の小さな町で、旧市街の入口となる西側には、南北200メートルほどにわたり、初代トスカーナ大公でフィレンツェのメディチ家コジモ1世(1519~1574)により築かれた城門と城壁が保存されている。ピエロの彫像が立つ公園は、その旧市街の北西側に位置しており、西隣に「サン・フランチェスコ教会」が建っている。
サン・フランチェスコ教会の南側にある「サンセポルクロ市立美術館」には、そのピエロにより描かれた「ミゼリコルディアの多翼祭壇画」(横330センチ×高さ273センチ)が展示されている。作品は、1445年から描かれ、当初3年間で完成させる予定だったが、17年後の1462年に完成している。
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地元の慈善団体「ミゼリコルディア信心会」の依頼で制作されたもので、ミゼリコルディアとは「慈悲の聖母」を意味している。作品は、聖母が慈悲深げに両手を広げ、マントで教会の屋根にも似た奥行きのある空間を作り出し、信者を包み込む姿を中心に構成されている。向かって右側の聖セバスティアヌスと洗礼者ヨハネが最初に描かれ、左側の聖アンデレ、聖ベルナルディーノは1450年頃に描かれた。プレデッラの「キリストの生涯」は弟子により描かれている。
サン・フランチェスコ教会の西隣の交差点から南側に進むと、町の中心地となり、左側に市役所、先隣に「サンセポルクロの大聖堂」(10世紀築、1520年より大聖堂)、更にその先に「ベルタの塔広場(Piazza Torre di Berta)」と続いている。
次に、15キロメートルほど南に位置するモンテルキ(Monterchi)にやってきた。トスカーナ州アレッツォ県にある人口約1,700人の小さな基礎自治体(コムーネ)で、町の南側に、一辺200メートルほどの三角形の小山に広がる旧市街がある。その旧市街への入口となる南麓側にある「出産の聖母美術館」に、ピエロ・デッラ・フランチェスカが描いたフレスコ画「出産の聖母」(高さ260センチ×横幅203センチ)が展示されている。
作品は、1455年から1465年頃の間に制作されたと考えられている。モンテルキは、ピエロの母親の出身地で、1459年にこの地で亡くなっており、ピエロは葬儀のために帰省して「出産の聖母」を描いたと推測されている。もともと、モンテルキにあった「サンタ・マリア・ディ・モメンターナ礼拝堂」に描かれたフレスコ画だったが、1785年頃、墓地建設のために礼拝堂が廃止され、1889年になって発見された。その後、1911年に政府によりサンセポルクロに移動するものの、最終的にモンテルキで保管されることになった。
しかし、依頼主や所有主がはっきりしなく、こちらの美術館も安住の地とはなっていない。近年、世界中から鑑賞のために訪れる美術愛好家も多く、また安産や懐妊を願う女性もよく訪れる。ところで、妊娠した聖母は1300年代にトスカーナ地方で流行し、いくつか描かれたが、その後の「トレント公会議」で禁じられている。
出産の聖母には持物がなく、頬が赤く健康そうな妊婦といった表情で、左手を腰に当て、重そうなお腹を前に突き出し、右手で衣のお腹部分を開けている。左右には、それぞれ緑色と赤色の衣服を身につけた天使がカーテンを広げている。ちなみにこちらは裏側の様子。
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出産の聖母は、ロシアの映画監督アンドレイ・タルコフスキーがイタリアで製作した映画「ノスタルジア」(1983年)にも登場している。冒頭、トスカーナを取材に訪れた作家が、古い教会を尋ねると蝋燭が一杯に灯された中、女性信者が「出産の聖母」の前で祈りを捧げているといった神性な場面だった。
美術館での見学後、隣の旧市街側の一段上の高台にある、トスカーナ料理店「センツァ・テンポ(senza tempo)」で昼食を頂くことにした。テラス席もあるが、暑かったので、店内のテーブル席に案内してもらった。料理は、夜のこともあるので、シンプルに、生野菜、アリオーネソースのスパゲッティを注文した。セコンドピアットは、Lボーンステーキがお勧めとのことで、注文すると、塩胡椒で味付けした脂身が少なく赤身の肉厚ステーキで、柔らかく甘みもあり大変美味しかった。レモンが添えられていたのも良かった。
トスカーナ料理の名物は「キアニーナ牛」と呼ばれるブランド熟成肉で、骨付きを炭火で焼いたステーキが最も美味しいとされる。古代から生息するイタリアの在来種で、世界中の牛の祖先とも言われ、真っ白な大きな体が特徴で、トスカーナ州東部からウンブリア州方面に広がるキアーナ渓谷に因んでいる。
食後は、西側に広がる山を越え、アレッツォ(Arezzo)に向かった。距離にして30キロメートル、約30分の距離である。
アレッツォは、トスカーナ州アレッツォ県の県都で、周辺地域を含む人口約9万8000人の基礎自治体(コムーネ)である。共和政ローマ時代にはアレティウム(Arretium)と呼ばれ、アレティウムの戦い(紀元前283年頃)の舞台として知られ、ポエニ戦争(紀元前264年~紀元前146年)時代には軍需物資を供給するローマの重要な中継点として発展した。帝政ローマ時代においては、ローマ第3の都市として栄え、特に農業や陶器産業が発展し主要な収入源となっている。
12世紀には、自治都市(コムーネ)となり、他の都市と同様に教皇派と皇帝派の対立が激しくなる。14世紀以降は、ペルージャとの戦争を経て、フィレンツェ共和国に併合され、16世紀にはメディチ家が支配するトスカーナ公国の領土となっている。
アレッツォでは、最初に「サン・フランチェスコ教会」にあるピエロ・デッラ・フランチェスカのフレスコ画の傑作「聖十字架伝説」の見学に向かった。アレッツォ駅から北に向け直進すると、円形の敷地を持つ「グイード・モナコ広場」が現れ、中心に、アレッツォ出身で楽譜記譜法の原型を考案した音楽教師グイード・アレッツォ(グイード・モナコ)(991頃~1050)像が建っている。
グイード・モナコ広場を横断すると、再び直線道(グイード・モナコ通り)になり、旧市街へ向かう上り坂になる。250メートル行った突き当りの丁字路を右折すると、東西に延びるカヴール通りとなり、南側に「アレッツォ市立近代・現代美術館」(旧:キアーヴィ ドーロ ホテル)と、先隣に直結して、目的地の「サン・フランチェスコ教会」に到着する。グイード・モナコ通りは、再開発された広い直線道だが、カヴール通り(旧ヴァッレルンガ街道)は、アレッツォ旧市街でも最も古い通りの一つである。
「サン・フランチェスコ教会」の東隣には、南北に延びるサン・フランチェスコ通りが交差しており、その交差点から、西側のカブール通りを向いて建つのが、彫刻家パスクアーレ・ロマネッリ(1812~1887)による「フォッソンブローニ像」(1867年)である。ヴィットリオ フォッソンブローニ(1754~1844)は、アレッツォ生まれの政治家、数学者、経済学者、技術者・外交官として活躍し、特にアレッツォ県のヴァル ディ キアーナの開墾事業に貢献した人物として知られている。
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サン・フランチェスコ教会のファサードに向かって左端にある小さな扉を入った所に、チケットショップがある。そして、その身廊の突き当りにある中央祭壇「バッチ礼拝堂」に、1447年から1466年にかけて、ピエロ・デッラ・フランチェスカが描いた傑作「聖十字架伝説」のフレスコ画がある。作品は、窓の左右後壁と両側壁のそれぞれ三層に分かれている。窓に向かって右上から下に「預言者エレミヤ」「③聖木を埋める男性」「④コンスタンティヌス大帝の夢」、左上から下に「預言者エゼキエル」「⑥ユダの拷問」「受胎告知」が描かれている。※番号はストーリー順。
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ちなみに、祭壇手前に掲げられた十字架は、マエストロ・ディ・フランチェスコによる「十字架上のキリストとその足に接吻する聖フランチェスコ」(1250~1260)である。
窓に向かって右側壁の上部には、エデンの園においてアダムが息子に埋葬され、その際に植えられた木が十字架になると示唆する「①アダムの死」がある。そして、その下の中央に、シバの女王が、聖木から作られた橋が将来キリストの受難に繋がり、ユダヤ王国の終焉となることをソロモンに伝え、これを聞いたソロモンが、橋を切って埋めさせた「②聖木を礼拝するシバの女王と、ソロモンとシバの女王の会見」(3.3メートル×7.4メートル)の連画が描かれている。
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その下には、ローマ帝国の皇帝コンスタンティヌス1世(在位:306~337)がはじめてキリスト教を公認するきっかけとなったミルウィウス橋の戦い(312年)が描かれた「⑤コンスタンティヌス大帝の勝利」がある。
反対側の左側壁には、上部から、ヘラクレイオス帝が聖十字架を高く掲げ、エルサレム市民から歓迎される「⑨聖十字架の賞揚」が描かれ、中央に、コンスタンティヌス1世の母ヘレナ(聖ヘレナ)が、エルサレムで聖十字架を発見する「⑦聖十字架の発見と検証」が、下部に聖十字架が重要な役割を果たす東ローマ・サーサーン戦争(602~628)「⑧ヘラクレイオス帝とホスロー王の戦い」が描かれている。ピエロ・デッラ・フランチェスカの明るい色彩と開放感のある背景のもとに織りなす人物描写は圧倒されるほどの美しさがある。
サン・フランチェスコ教会の向かい側のテラス席の先隣にある白い3階建ての建物には、1804年創業の老舗カフェ「カフェ・ディ・コスタンティ」があるが、今日は休みらしい。コスタンティとは、16世紀に設立された歴史あるアカデミア(学会)で、19世紀初頭までこの場所にあった本部に因んでいる。
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次に、カヴール通りを東に100メートルほど進み、交差点を左折した上り坂(イタリア通り)のすぐ右側に「ピエーヴェ・ディ・サンタ・マリア教会」のファサードが覆いかぶさるように迫って建っている。13世紀に再建されたもので、1階には5連アーチ門に3つのポータルがあり、その内の中央から教会内に入場できる。そのポータルの上には、3層にわたり、柱で支えられたロッジアがあり、うち2層は大小のアーチで、最上層はアーキトレーブとなっている。壮観な眺めだが、見慣れないファサードで多少違和感がある。ロッジアの奥には明かり採りのためのバラ窓やアーチ窓などを確認できる。
ファサードの右側上部に高さ50メートルの角状の鐘楼が聳えている。1216年に工事が始まり1330年に完成しており、側面を設計上リスクがあったのか、バットレスピラスターで補強されている。鐘楼は「デッラ チェントブーケ」(100の穴)と名付けられており、それぞれムリオン(縦仕切り)のある窓が2基づつ5層にわたり続いている。合計4面で80の窓となり、100に届かないことから、6層以上があったと言われているが裏付ける証拠はない。
ロマネスク様式の主祭壇は、3つのアーチで支えられた2階建てで、2階の欄干の奥にシエナ派の巨匠の1人、ピエトロ・ロレンツェッティ(1285頃~1348頃)(アンブロージョ・ロレンツェッティの兄)が1320年に制作した「アレッツォ教区教会の多翼祭壇画」(画像出典:ウィキメディア・コモンズ (Wikimedia Commons))の衝立が飾られている。祭壇画には、聖母子を中心に、聖人の福音記者ヨハネ、アレッツォ司教の聖ドナート、使徒ヨハネ、マッテオ(マタイ)が描かれている。上部のアプスにもピエトロ・ロレンツェッティのフレスコ画があったが、現在は失われている。この日は結婚式が執り行われており近づくことができなかった。
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ファサードから鐘楼側に回り込み、教会の壁面に沿って進むと、アレッツォの中心広場「グランデ広場」(別名:ヴァザーリ広場)になる。広場の中心から西側に振り返ると、高低差10メートルの勾配を持つ斜面をそのまま活かしているのが分かる。
先程訪問した、左側の「ピエーヴェ・ディ・サンタ・マリア教会」の後陣は、下部が浮き彫りアーチで、その上2層にわたりロッジア(中層はアーチ、上層はアーキトレーブ)が施されている。弧を描くロッジアは壮観で、19世紀後半に大規模な改修がされたが、美しいロマネスク様式を見せてくれる。そして、右隣の半円形の階段の上には「元裁判所宮殿」(1780年築)が、更にその右隣には、フラテルニタ・デイ・ライチ慈善会により1262年に創建された「フラテルニタ・デイ・ライチ宮殿」(現:ライチ美術館)が並んでいる。
1375年からゴシック様式で着工され、15世紀のルネサンス様式を経て、16世紀半ばに、アレッツォ生まれでフィレンツェの都市改造事業にも携わったマニエリスム期の画家兼建築家のジョルジョ・ヴァザーリ(1511~1574)によって完成した。ヴァザーリは、日本でも「芸術家(美術家)列伝」の作者で知られている。その後、18世紀後半に、トスカーナ大公で、神聖ローマ皇帝のレオポルト2世(1747~1792)の支援で改装され現在に至っており、様々な時代の様式が融合した歴史ある建築物である。
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ポーチ上のティンパヌムには、アレッツォ出身の画家スピネッロ・アレティーノ(1350~1410)による「ピエタ」(現:コピー)が描かれ、その上の2層目には、聖母子のレリーフ(慈悲の聖母)と左右にアレッツォ司教の聖ドナートと聖グレゴリオの彫刻が施されている。こちらは、1434年に制作参加したベルナルド・ロッセッリーノ(1409~1464)を中心とする彫刻グループによるもの。聖母子レリーフは、聖母がマントで信者を包み込む”慈悲の聖母”(ミゼリコルディア)を主題にしているが、幼子を抱いているバージョンは珍しい。。その上のバルコニー風の小回廊は1460年に追加されている。頂部の3つの鐘のある塔には、1552年にジョルジョ・ヴァザーリにより設計された天文時計が飾られている。
「グランデ広場」(別名:ヴァザーリ広場)の現在の姿は、トスカーナ公国の初代大公コジモ1世(1519~1574)が、新領主の権威を示すために、丘の上に「メディチ要塞」(1538~1560)を再建し、それまで広場の北側にあったポポロ宮殿、コムーネ宮殿など自治都市時代からの行政府の建物を一掃し、再開発をジョルジョ・ヴァザーリに指示したもの。その一環として、北面の「ロッジア宮殿」(別名:ヴァザーリの柱廊)は、1572年から建設が始まった。しかし完成は、ヴァザーリ後任の建築家アルフォンソ・パリージ時の1595年のことだった。
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広場の中程には、公告の掲示場所だった中世の柱のオブジェ(ペトローネ)が残されている。
広場では、毎年6月と9月の年2回、サラセン人の馬上槍試合(ジョスト ラ デル サラチーノ)が行われている。試合は、チーム対抗で、疾走する馬上から、鎧を着たサラセン人の人形が持つ的を槍で突くといった内容。試合前には、中世の衣装を身にまとった人々のパレードが行われ大いに賑わう。
広場の東側には、右側に一際高い胸壁のある塔の「ラッポリー宮殿」(Palazzo Lappoli)(1930年代再建)が、広場を見下ろす様に建っており、1階には土産ショップや、カフェなどが営業している。そして左隣には、中世から続く歴史ある邸宅が階段状に繋がり建っており、それぞれ、縦仕切りの格子窓やアーチ窓で、木製バルコニーが取り付けられているものもある。これら邸宅の北側には、サン・マルティーノ通りが延びている。
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中世の建物が取り囲む「グランデ広場」は、地元出身の俳優、映画監督でコメディアンのロベルト・ベニーニが、監督、脚本、主演を務めたイタリア映画「ライフ・イズ・ビューティフル」(1997年)の舞台として世界的に知られている。特に、グイド(ロベルト・ベニーニ)一家の3人がサン・マルティーノ通りから、一台の自転車に乗りグランデ広場に駆け下りて来るシーンは有名で、他にもサン・フランチェスコ広場や周辺の通りで撮影がなされている。
広場南側にも古い建物が並び、ラッポリー宮殿に似た胸壁の塔を持つ建物「コファーニ・ブリッツォラリ宮殿」(Palazzo Cofani-Brizzolari)がある。15世紀に建てられた(塔は12世紀築)もので、1930年代に再建されている。他に広場の東南側ある屋根付き井戸(15世紀)や、西南側にある新古典主義様式の大理石の噴水(1603年)なども見所である。
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次に「ロッジア宮殿」(ヴァザーリの柱廊)前を通って、西側から、丘の上に向かい、プッブリコ・デル・プラート公園の西側、アレッツォの最も標高の高いエリアに建つのが「アレッツォ大聖堂」(ドゥオーモ)である。おそらく、古くは街のアクロポリスがあった場所に16世紀初頭に建設されたゴシック様式教会で、石階段の上に建っている。
未完成のままだったファサードは、ダンテ・ヴィヴィアーニ(1861~1917)が、1914年にネオゴシック様式で完成させており、装飾群は、ジュゼッペ・カシオリ、エンリコ・クアトリニ、ダンテ・ヴィヴィアーニにより施されている。3つあるポータルのルネットは浅浮き彫りで装飾されている。中央のポータルには、切妻があり、頂部がキリスト、向かって左右に聖グレゴリオとアレッツォ司教の聖ドナートがそれぞれ天蓋の下に飾られている。上部には円形のバラ窓がある。
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大聖堂は、アレッツォ司教の聖ドナート(~362)に捧げられている。聖ドナートはアレッツォでは2番目の司教で、ローマ帝国ユリアヌス帝(在位:361~363)下の362年に(時期は諸説あり)詳細は不明だが殉教し列聖されている。今日ではアレッツォの守護聖人で、癲癇の子供を治療したことから、癲癇の守護聖人とも評されている。祭壇には、彼の遺骨(頭部以外)を収めた大理石の石棺が置かれ、上部を彫刻家・建築家アグノロ ディ ベンチュラ(1312頃~1349)により、聖母子像など浮き彫りが施された12本のゴシック様式の尖塔柱によって飾られている。
1384年に、フランスの傭兵隊長アンゲラン7世により頭部の遺骨を略奪されたが、現在は返却され、ピエーヴェ・ディ・サンタ・マリア教会に収められている。
聖堂内は、3つの身廊があり、それぞれが交差ヴォールトで覆われた6つに分割され、翼廊はない。祭壇に向かいすぐ手前の左身廊壁には、1327年に亡くなったアレッツォの司教兼領主グイド・タルラティ(Guido Tarlati)の大きな慰霊碑が飾られている。1330年にシエネの彫刻家兼建築家アゴスティーノ・ディ・ジョヴァンニ(1285頃~1347頃)が、アグノロ ディ ベンチュラとの協力で制作したもの。
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正面の張り出しパネルには、左右の天使がカーテンを広げた中央に、大きくデフォルメされた司教が横たわり、それぞれ左右後方に多くの人が集まっている。その下には、司教の生涯が16(4×4)枚のパネルに浅浮き彫りで表現されている。シーンは、アレッツォの司教と領主の人生、軍事的成功、そして統治の成果などを表している。建築家ジョルジョ・ヴァザーリは、記念碑のデザインについて、ジョット・ディ・ボンドーネ(1267頃~1337)を参考にしていると言及している。
その慰霊碑の右下の聖具室に通じる扉の横に、ピエロ・デッラ・フランチェスカが描いた「マグダラのマリア」(1459年)のフレスコ画が残されている。わずかに隆起した眉毛に、やや視線を下げ、高貴な雰囲気を醸し出している。肩にかかる豊かな髪の毛は1本ずつ細かく描かれ、緑色の下衣に、右手で朱色のマントをたくし上げ、左手に香油壺を持っている。背後のアーチの左柱は、後から設置された慰霊碑で隠れているが、他にも何か描かれていたのだろうか。。
アレッツォから北西に約8キロメートル離れたアルノ川に架かる「ブリアーノ橋」(Ponte Buriano)にやってきた。美術研究家によると、レオナルド・ダ・ヴィンチの「モナリザ」(1503年から1506年に制作)の右背景に描かれた橋がこちらの橋と言われている。橋は砂岩素材で、長さ158メートル、幅5.80メートル、高さ10メートル、7つの低いアーチで構成されている。記録では1277年に架けられ1558年に再建、その後18世紀に2度修理されている。
モナリザに描かれた橋と比べると、ブリアーノ橋は、アーチが低い様に見えるが、水量の違いからなのか、何とも言えないが、河川敷には、現在、レオナルド・ダ・ヴィンチが描いたドローイング「ウィトルウィウス的人体図」(1485~1490年頃)をデザインした案内板が解説付きで掲げられている。
そして、アレッツォから30キロメートル南にある、トスカーナ州アレッツォ県、人口約22,000人の基礎自治体(コムーネ)のコルトーナ(Cortona)に到着した。コルトーナは、トスカーナ州で最も古い丘の町の一つで標高600メートルの丘の中腹にあり、玄関口となる「ガリバルディ広場」には、見晴らしの良い眺望が広がっている。時刻は午後8時半、ギリギリ日没前に到着することができた。
夕食は、ガリバルディ広場から、華やかなナツィオナーレ通りを250メートルほど西に歩いたコルトーナの中心「レプッブリカ広場」にある「トラットリア(La Grotta)」に向かった。広場の南側に面した「エノテカ(Molesini)」と「フラワーショップ」間の細い路地を入った突き当りにある。
入口手前に7テーブルほど設置されたテラス席があり、そちらを案内された。なお、店内は、石造りの洞窟スタイルで1階に3部屋ほどあり、位置的には広場に面したエノテカの裏側になるようだ。La Grottaは、トスカーナ郷土料理店で、特にお肉が美味しいと評判である。ワインは、サンジョヴェーゼ種のコルトーナ・ワイン(Angelo Vegni Cortona Sangiovese)を頼んだ。
料理は、まずアンパティストとして、トマトのサラダ、プリモピアットとして、自家製パスタ、タリアテッレとポルチーニ茸などを頼んだ。
セコンドピアットは、ビステッカ アッラ フィオレンティーナ(トスカーナ州の郷土料理Lボーンステーキ)、サルシッチャ(ソーセージ)のグリルを、コントルノ(セコンドピアットの付け合わせ)として、野菜のグリルなどを頼んだ。ドルチェ(デザート)はプリンを頂いた。評判どおり、どの料理も大変美味しかった。人気店でこの日も多くの客が来店しており、ほぼ満席の印象だった。
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コルトーナの玄関口となるガリバルディ広場は、小さなサークル(ラウンドアバウト)で、バスの停留所や車の送迎のための停車場となっており、中央にイタリア王国成立に貢献した軍事家ジュゼッペ・ガリバルディ(1807~1882)を記念したオベリスクが建っている。こちらは、南側から街並みを背景に眺めた様子で、南西側から東側にかけては、欄干手すりのある円形の展望エリアになっている。
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その展望台から南側を眺めてみる。キアーナ渓谷が広がり、丘の斜面に街が続き麓に州道が通っている。すぐ先からウンブリア州となり、遠景として「トラジメーノ湖」が望める。紀元前217年にカルタゴの将軍ハンニバル(前247~前183頃)が、ガイウス・フラミニウス率いるローマ軍を待ち伏せして破った「トラシメヌス湖畔の戦い」が繰り広げられた場所で、ここから見える北湖畔が主に戦場となった。
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やや左側に視線を移動した丘の中腹には、麓から街に上るチェザーレ・バッティスティ通りが走っている。通り左側にある円柱の建物の先に、昨夜宿泊したホテルがある。
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こちらが、宿泊したホテル「Hotel Villa Marsili」で、部屋からは、ガリバルディ広場ほどの標高はないが、パノラマが一望できた。ガリバルディ広場までは、ホテル北側の坂道を200メートルほど西に上ってくると到着する。
さて、昨夜の夕食に引き続き、再び、ガリバルディ広場から「ナツィオナーレ通り」を西に250メートルほど進み、コルトーナのメイン広場「レプッブリカ広場」にやってきた。古代ローマ時代から続く公共広場で、西側にランドマークの「コルトーナの市庁舎」(16世紀改築)が面して建っている。12世紀にロマネスク様式で建てられた庁舎で、広場から続く長い階段は憩いの場所となっている。昨夜も多くの人が階段に座っていたが、今朝は誰も座っていない。
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広場の中心から振り返って、ナツィオナーレ通りの方面を眺めてみる。右側の灰色の建物の1階がエノテカ(Molesini)で、その右隣の路地の先が、昨夜のトラットリア(La Grotta)の場所になる。そのナツィオナーレ通りは、広場を横断して、市庁舎の階段左側のアーチ門を抜けてローマ通りとなり続いていく。
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レプッブリカ広場からは放射線状に道が発出しており、市庁舎の階段右側から延びる通りを北西方向に向かうと、すぐに「シニョレッリ広場」に到着する。正面左側に13世紀に建てられたプレトーリオ宮(現:エトルリア・アカデミー博物館)があり、その先隣に柱廊が美しい1854年建設のネオ・クラッシック様式の劇場(映画館、コンべンションホール)が建っている。
その劇場の手前を左折して進むと「コルトーナ大聖堂」(ドゥオーモ)に到着する。5世紀から6世紀の間にあった寺院の遺跡の上に建てられ、11世紀に教区教会となり、教皇ユリウス2世(在位:1503~1513)により1507年に大聖堂となった。その後何度か改修され現在に至っており、ポーチの横には、アーチや窓の痕が残っている。ファサードに向かって左側は旧市街の西端の城壁となり、美しいパノラマが広がっている。
教会内は、15世紀の後半にルネサンス建築で再建されたものをベースに、身廊を覆うヴォールトは、18世紀初頭に整備されている。主祭壇は、1664年制作の大理石と半貴石の豪華な祭壇で飾られている。この時間はミサの最中で多くの参列者が集まっていた。
ファサードに向かって右側面には、16世紀後半に建設されたロッジアが続いている。フィレンツェの近郊、フィエゾーレより産出した青味がかったグレーの砂岩「ピエトラ・セレーナ(Pietra Serena)」(晴れやかな石の意)が使用されている。細工しやすく、トスカーナ地方の装飾的な建築各部に使用されている。後方の大鐘楼は1566年、地元出身の建築家で、ミケランジェロの助手でもあったフランチェスコ・ラパレッリ(Francesco Laparelli、1521~1570)により建てられた。
そしてコルトーナ大聖堂のファサードの向かい側には、「コルトーナの司教区美術館」があり、ここに、コルトーナ最大の見所の一つフラ・アンジェリコ(1390頃~1455)の「受胎告知」が展示されている。他にも、コルトーナ出身の画家ルカ・シニョレッリ(1450頃~1523)の作品などが展示されている。
こちらが「コルトーナの受胎告知」(1433~1434)(175センチ×180センチ)で、もともと、コルトーナのジェズ教会に所蔵されていた。下部のプレデッラには、聖母の生涯が描かれている。フラ・アンジェリコによる板絵の受胎告知は3点あり、こちらがその内の一つ。他の2点は、プラド美術館と、サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ美術館(アレッツォ県サン・ジョヴァンニ・ヴァルダルノ)にある。他にフレスコ画が2点あるが、共にフィレンツェのサン・マルコ美術館にある。
右側には「コルトーナの三連祭壇画」(1436~1437)(218センチ×240センチ)が展示されている。祭壇画は、中央に大きな玉座に座る聖母子が、遠近法を駆使しやや前面に描かれ、足元左右に純粋さを表す赤と白のバラの花瓶が置かれている。そして、聖母に向かって左側に、聖ドミニコと聖ニコラスが、右側に洗礼者ヨハネとアレクサンドリアの聖カタリナが配されている。その下のプレデッラには、聖ドミニコの物語が描かれている。
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「コルトーナの司教区美術館」の隣には建物がなく、テラスとなっており、斜面沿いの街並み越しにトスカーナの大地が望める。大聖堂の広場の少し手前から下へと続く道に入ると、大きく左に曲がり、勾配の急な下り坂に繋がっている。振り返ると広場の先に建つファサード横のロッジアと大鐘楼が大きく見上げるほどの位置にある。
路地には中世の邸宅が建ち並び、煉瓦造りのバルコニーを木材で支えている建物もある。近くで見てみると、バルコニーは、やや波打っており安全面で不安を感じる。。
古い街並みが続く路地を抜け「レプッブリカ広場」に戻ってきた。そしてレプッブリカ広場で少し買い物をした後、ナツィオナーレ通りを歩いてガリバルディ広場に戻り、広場西側にあるホテル サン ルカ1階にある「リストランテ・トニーノ(Tonino)」で昼食を食べることにした。
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テラスからは、眩しい日差しの下、トスカーナの雄大な眺望が広がっている。ランチメニューは、アンパティスト、プリモピアット、セコンドピアット、ドルチェとも品数は4~5品ほど。こちらは「カプレーゼ」で、鮮やかな色合いのトマトに、厚切りのモッツァレッラ、新鮮なバジルの一品。美味しいオリーブオイルをかけて頂く。
こちらは「クロスティーニ トスカーナ」で、炙ったバゲットに、鶏のレバーペーストをこんもりと盛った一品。濃厚感はあるものの上品で芳醇な香りが素晴らしい。
こちらは「スパゲッティ・ポモドーロ・エ・バジリコ」で、トマトとにんにくとバジルで作る、シンプルながら奥深い一皿。ちなみに、プリモピアットでは、他に、カルボナーラ、ラザニア、ラビオリポルチーニ、リボッリータがあった。セコンドピアットでは、フィレ アラ グリリア、ピカタ ア ヴィーノ オ リモーネ(レモン又は白ワイン風味の仔牛チーズ焼)、アニェッロ スコッタディート(子羊ロース肉)、オムレツがあったが、頼まなかった。。
食後は、コルトーナを後にし、フィウミチーノ空港に向かった。突き抜けるような青空に中世の街並みがよく映える。。そんな中央イタリアの旅はこれで終了である。
(2006.7.15~16)