カズさんの旅たび

 ~歴史、文化、芸術、美食紀行。。

アメリカ・ワシントンD.C.(その2)

2013-07-11 | アメリカ(東海岸)
宿泊先のユース・ホステル前の11thストリートNWを南に500メートルほど進むと、交差点の向かい側に「オールド ポスト オフィス」(中央郵便局)(1899年築、1914年まで使用)が建っている。リチャードソン・ロマネスク様式(19世紀アメリカの建築家の名前に因んでいる)で建てられたもので、現在はホテルになっている。中央に聳える高さ96メートルの時計塔は、D.C.のランドマークとなっている。
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その前庭には、ベンジャミン・フランクリン(1706~1790)の彫像が飾られている。フランクリンは避雷針の実験で知られた科学者だが、実業家としても活躍し、アメリカ独立宣言の起草を行うなど、アメリカ合衆国建国の父とも呼ばれている。こちらの像はフランクリンが初代郵便局長(1775~1776)に就任していたことから、1980年に建てられたもの。他にも、見どころとして、外観からは確認できないが、建物中央から後方にかけて広がる長方形のアトリウム(高さは60メートル)などがある。

一昨日より、アメリカ合衆国東部の連邦直轄地コロンビア特別区(通称ワシントンD.C.)に滞在している。メリーランド州とヴァージニア州に挟まれたポトマック川の北岸に位置しており、言わずと知れたアメリカ合衆国の首都である。これからアメリカ合衆国議会議事堂の見学を予定している。

オールド ポスト オフィス前の交差点を左折すると、ホワイトハウスと議会議事堂とを結ぶペンシルベニア大通りとなり、遠くに目的の議会議事堂の姿を正面に捉えることが出来る。そして、次の交差点の左先には、FBIポリスのロゴ入りワゴン車両が駐車していた。こちらの建物(ジョン・エドガー・フーヴァービルディング)が、海外ドラマに出てくるアメリカの特殊機関「連邦捜査局」(Federal Bureau of Investigation、FBI)である。ちなみに、昨日は乗用車タイプが駐車していた
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連邦捜査局(FBI)から議事堂までは1キロメートルほどの距離(3thストリートSW沿いから望む議事堂の様子)だが、西正面口は大統領就任式に使用されており、見学等訪問者のための入口は東正面口になるため、反対側に回り込むことになる。

そして、こちらが「アメリカ合衆国議会議事堂」(United States Capitol)の東正面口になる。現在の議会議事堂は最初に中央部分が1800年に完成し、1850年代に両翼が拡張された。巨大なドーム(高さ88メートル、直径29メートル)は、南北戦争直後の1866年に建設され、1904年には東正面棟が改築されて、現在の姿となっている。ちなみに西正面口と見分ける一つが中央ペディメントの有無になる。
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リンカーン記念堂から議会議事堂までは「ナショナル・モール(National Mall)」と呼ばれるオープンな国立公園で、こちら東隣の議会議事堂を囲む一帯に広がる住宅街や地域名を「キャピトル・ヒル(Capitol Hill)」と呼んでいる。地理的にはワシントンD.C.のやや東部に位置しているが、住所表示は、議事堂を基準に(NE 北東、NW 北西、SE 南東、SW 南西)と定められている。

セキュリティチェックを受けて入場すると、最初に議事堂の歴史についての映画を鑑賞する。その後10数人のグループに分かれて見学を行う。国会議事堂のドームの下には、直径29メートル、壁の上部まで高さ15メートル、天蓋まで55メートルの「ロタンダ」(1824年築)がある。ロタンダは、南側の下院に、北側の上院へと回廊で結ばれている。

ロタンダ南入口の隣には、フランスの新古典主義の彫刻家ジャン・アントワーヌ・ウードンが制作したジョージ・ワシントンの銅像が飾られている。向かい側にはトーマス・ジェファーソンの銅像があり、他にも、トルーマン、アイゼンハワー、フォード、レーガン、キング胸像などの像が飾られている。


そして、ロタンダの周囲には、アメリカの発展に関する8枚の大きな絵画が掲げられている。入口を境に右側(西面)には、1819年から1824年に製作されたジョン・トランブル作の「独立宣言」と「バーゴイン将軍の降伏」があり、更に「コーンウォリス卿の降伏」、「ジョージ・ワシントン将軍の任務辞任」とアメリカ創設を描いた作品が続いている。
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そして、左側(東面)には、ジョン・ギャズビー・チャップマン作の「ポカホンタスの洗礼」、ロバート・ウォルター・ウィアー作の「巡礼者の乗船」、ウィリアム・ヘンリー・パウエル作の「ミシシッピ川の発見」、ジョン・ヴァンダーリン作の「コロンバスの着陸」と、アメリカ大陸発見に関する出来事が描かれた作品が1840年から1855年に追加された。

ドームのオクルスの周囲に施された浅浮き彫りの群像フリーズは、だまし絵で、アメリカの歴史が19のシーンが描かれている。そして天井頂部には「ワシントンの神格化」が描かれている。共に、ギリシャ・イタリア系アメリカ人の歴史画家コンスタンティーノ・ブルミディ(1805~1880)がフレスコ画で制作したもので、南北戦争の終わりの1865年に11か月かけて描かれた。
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こちらは、国立彫像ホールコレクション(National Statuary Hall Collection)で、もともとあった下院が別に移ったことにより、1864年に現在のホールとなっている。最初の像は1870年に設置されたが、現在では、各州の歴史に登場する著名人が、米国各社から寄贈されたブロンズ60像と大理石39像(ロタンダの像を含む)として所蔵されている。こちらは、ハワイ州のカメハメハ1世の像で、1969年に設置されたもの。


ロタンダの真下となる地下室には、40本の新古典主義のドーリア式柱で支えられた円形のクリプトがある。もともと、ジョージ・ワシントンの埋葬予定地だったが、本人の意思でマウントバーノンに葬られたため、現在は、国立彫像ホールコレクションの彫像の展示室及び保管庫として機能している。ロタンダの見所の一つに、ガットソン・ボーグラム作の「エイブラハム・リンカーンの胸像」(1908年)がある。こちらは、6トンの大理石から切り出され制作されたが、左耳がなく未完成のままとなっている。
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次に、議会議事堂の東正面口前の南北に延びる通り(First St SE)を挟んだ向かい側にある「米国議会図書館」(1800年設立)(Library of Congress)にやってきた。世界最大の研究図書館の一つで、事実上のアメリカ国立図書館として機能している。

こちらの建物は、1897年に建築家ポール・J・ペルツ(1841~1918)により建てられた。クラシックなファサードと精巧に装飾されたインテリアが特徴のボザール様式が採用されている。1980年からは、第3代米国大統領に敬意を表し「トーマス・ジェファーソン・ビルディング」と呼ばれている。正面左右階段を上った柱廊玄関の2階には、9つの著名な偉人の胸像(ワシントン・アーヴィング、ベンジャミン・フランクリンなど)が飾られている。


コレクションには約1億7,300万点のアイテムが含まれ、3,000人以上の従業員がいる。また、内容も普遍的で、主題、形式、または国境に制限されない、世界すべての地域からの470以上の言語の研究資料が含まれている。最初に到着するのが、2階吹き抜けの長方形の大広間である。天井には、明り取りの幾何学文様の6枚の天窓が設置されている。


2階には、大広間を見下ろすことができる回廊がある。回廊は双頭柱が支えるアーチ天井が続き、新古典主義、ルネッサンス、バロックなどの様々な要素を取り入れた装飾が施されている。人物画には印象派、ラファエル前派、アール・ヌーヴォーなど様々な様式からの影響を受けている。インテリアの完成と建物の装飾プログラムは、建設監督官のバーナード・グリーンと、デザイナー兼建築家エドワード・ピアース・ケーシーが担当した。2人は芸術監督として、50人以上のアメリカの画家や彫刻家に作品制作を依頼している。


前面(東側)回廊の中央には、上り階段があり、突き当りの踊り場には、ニューヨーク出身の象徴主義派の画家エリュー・ヴェッダー(Elihu Vedder、1836~1923)によるモザイク画「平和のミネルヴァ」(1896年)が掲げられている。こちらの踊り場からは、向かい側の西側回廊と1階大広間の入口方向が同時に見渡せる。


建物の中央にあるのが、メインの読書室で、8本の巨大な大理石の柱が立ち並ぶ、巨大な円形ドームの真下にある。閲覧席が円状にホール内に配置され、書架は、周囲の大理石の柱間にあるアーチの奥に続いている。アーチの階上にも図書室や閲覧室などがあり、その上には、宗教、商業、歴史、芸術、哲学、詩、法律、科学などを象徴する彫像や肖像画が飾られている。見学には、ガイド付きグループツアー(2時間)があるが、あまり時間がなかったことから、さらっと見学して終えた。

次に、議会議事堂の西口側にやってきた。こちらのテラスからは、アメリカ大統領であり南北戦争時の名高い将軍ユリシーズ S グラントの騎馬像(Ulysses S. Grant Memorial)の後ろ姿と、ワシントン記念塔(Washington Monument)が望める。これからユリシーズ S グラント騎馬像前のプール先の右方向にある「ナショナル ギャラリー オブ アート」(National Gallery of Art、略NGA)に向かう。


議会議事堂からは1キロメートルほどで、目的地の「ナショナル ギャラリー オブ アート」に到着した。このナショナルギャラリーは、銀行家アンドリュー・メロンが、ロンドンのナショナルギャラリーに憧れ、母国アメリカにも同様の国立美術館を造りたいと願い、基金及び自身のコレクションを連邦政府に寄付し、1941年に新古典主義様式の外観を持つ美術館(西館)として完成した。1978年には幾何学的な外観の新館(東館)が建設されている。入館料は、スミソニアン協会が運営する19の博物館の一つであるため無料である。


西館には、中世から19世紀後半までのヨーロッパの巨匠による絵画や彫刻、およびアメリカの芸術家による20世紀以前の作品の展示があり、東館には、近現代美術に焦点が当てられた展示となっている。また西館の西隣には、彫刻庭園がある。今日は西館の展示のみを見学することとし、ポルチコのあるエントランスから入場する。セキュリティチェックを済まし入口を入ると大きな円形ホール(ロタンダ)で、中央に彫刻家ジャンボローニャ(1529~1608)のマーキュリー像が飾られた噴水がある。その噴水に向かって左側(西側)にある展示室に向かう。

こちらは、ゴシック期のイタリア画家ドゥッチョの「預言者イザヤとエゼキエルのキリスト降誕」(1308~1311)で、シエナ大聖堂のための祭壇画のプレデッラとして制作された。左右の預言者は、キリスト誕生を予言すると書かれた巻物を掲げている。中央の小屋には、マリアと誕生したばかりの幼子がおり、手前には2人の助産婦が幼子を産湯につけている。羊飼いの1人は、ドゥッチョ自身と言われている。
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そして、こちらは、シエナ生まれのシモーネ・マルティーニ(1284頃~1344)による「受胎告知の天使」(1330年頃)(West Building, Main Floor — Gallery 3)で、2連祭壇画の左側にあったもの。右側はマリアを描いたパネルだったが、現在、サンクトペテルブルクのエルミタージュ美術館の収蔵となっている。
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パネルは赤い粘土の層で覆った後、天使の手と顔を除いて全体に金メッキを施している。天使のローブは繊細なピンクで描き、折り目は暗い色調で影を落としている。陰影線を出すために表面を削り取るズグラッフィート技法が用いられている。シモーネ・マルティーニは、ドゥッチョの弟子とされ、ジョルジョ・ヴァザーリによると、ジョットの弟子であったとされる。

ルネサンスのフィレンツェ派を代表するフィリッポ・リッピ(1406~1469)による「東方三博士の礼拝」(1440~1460年頃)(Gallery 4)で、もともと、フラ・アンジェリコが制作を始めたが、作品の大部分は、リッピが完成させた。1492年に発表されたロレンツォ・デ・メディチの邸宅の目録には、この絵がフィレンツェの有力な家族のコレクションの中で最も価値があると特定されている。
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ひざまずく3人の東方三博士が聖家族に贈り物を捧げており、その行列は丘を曲がりくねり、古代のアーチの後方から続いている。そのアーチの右側には、裸の少年たちが、壊れた塀の上で様々なポーズをとっているが、これは異教世界の終わりを示唆しているとされる。

他にも、フラ・アンジェリコの作品としては、「聖コスマスと聖ダミアヌスによるパラディアの癒し」(1438/1440年頃)(フィレンツェのサンマルコ教会の祭壇画)、フィリッポ・リッピの作品としては「聖母子」(1440年頃)(Gallery 4)などが展示されている。

イタリアのルネサンス期の画家アンドレア・デル・カスターニョによる「ダヴィデとゴリアテの首」(1450~1455年)(Gallery 4)で、儀式用の盾に貼られた皮に描かれている。盾を持つための5本のボルトが打ち込まれており、表面に突起が確認できる。紋章などを描いた装飾的な盾は現存しているが、著名な画家が物語として描いたものは大変珍しく貴重である。
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足を踏ん張り、手を掲げるダヴィデに対して、ゴリアテの首はダヴィデの足元に転がっていることから、戦いの結果を描いた様に思えるが、よく見るとダヴィデは投石器で石を投げようとしており、ゴリアテの額にはその石が埋め込まれ血を流していることから、異時同図法とみなすことができる。

こちらは、サンドロ・ボッティチェリの「東方三博士の礼拝」(1478/1482年頃)(111センチ×134センチ)(Gallery 7)である。マリアの膝に座る幼児キリストを訪れる3人の博士は、敬意を表して贈り物を贈っている。マリアのいる場所は、質素な厩舎ではなく、牧歌的な風景に面した半廃墟の古典的な寺院の廃墟にあり、周囲には多くの人物が描かれている。
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前景では、数人の人物が跪いて崇拝しており、ボッティチェリの特徴でもある、透明感のある鮮やかで繊細な衣服が豊かな折り目でカスケードしている。右側には、東方の博士の側近の行列が背景に広がり、画面に深みと物語性を際立たせている。

他にも、ボッティチェリの作品としては、ジュリアーノ・デ・メディチ(1478/1480年頃)や、青年の肖像(1482/1485年頃)(Gallery 6)などが展示されている。

こちらは、最大の見どころの一つ、ルネサンス期の芸術家レオナルド・ダ・ヴィンチによる「ジネーヴラ・デ・ベンチの肖像」(1474~1478年頃)で、レオナルドの絵画としてはアメリカ大陸で一般公開される唯一の作品である。ジネーヴラの表情には微笑みはなく、表情は厳しく、視線は鑑賞者に向けられることなく超然としている。また、遠景はトスカーナの田園風景で、その先に教会の2本の尖塔が描かれている。
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モデルのジネーヴラはフィレンツェ貴族アメリゴ・デ・ベンチの娘で、当時16歳だったが、年齢の離れた政務官ルイージ・ニッコリーニとの結婚が約束されており、結婚記念として描かれたとされる。作品は下部分が切断されており、もともとは両腕部分も描かれていたと言われているが、オリジナルの姿は分かっていない。

裏面には「Virtvtem Forma Decorat」(美は徳を飾る)との碑文が描かれている。月桂樹と椰子はヴェネツィアの駐フィレンツェ大使ピエトロ ベンボのエンブレムで、ベンボとジネーヴラは交友がありプラトニックな恋人であったともされている。


イタリアの盛期ルネサンスの画家ラファエロによる「ニコリーニ カウパーの聖母子」(1508年)(大きなカウパーの聖母子)(80.7センチ×57.5センチ)(Gallery 20)である。背景は青い空のみで、聖母子でキャンバスを埋め尽くしている。故郷ウルビーノからローマに向けて出発する前に描かれたとされ、作品名はイギリスのカウパー伯爵のコレクションの一つに因んでいる。
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ナショナル ギャラリーには、もう一点、ラファエロの「カウパーの小聖母」(1505年)(59.5センチ× 44センチ)があるが、この日は展示されていなかった。カウパーの小聖母に描かれたキリストは、凛々しさが感じられる顔立ちだが、こちらのキリストは魅力的で遊び心のある子どもの表情をしている。

こちらは、盛期ルネサンスのヴェネツィアで活動したイタリア人画家ジョルジョーネ(Giorgione)による「羊飼いの礼拝」(1505年頃)(The adoration of the shepherds)(アレンデールのキリスト降誕)(Gallery 10)になる。ジョルジョーネは、詩的な作風の画家として知られ、現存する作品が数点しかないが、こちらの作品は、彼の初期絵画を収集していたアレンデール・グループ(アレンデール子爵チャールズ・バーモントが所有)のジョルジョーネ作品の一つで、グループの絵画はセットとして扱われており、全てジョルジョーネの真作とみなされることが多いが、逆に全てジョルジョーネの作品ではないとされることもある。
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画面の中央には、キリストの神性を認識し、跪いて礼拝する羊飼いを配置している。羊飼いは、素朴でありながら威厳を感じる佇まいである。右側の暗い洞窟と対象的に、マリアとヨセフも礼拝し、明るく親密な雰囲気を作り出している。左側には、消点となるヴェネツィアの風景が明るく描かれている。

こちらの「聖家族」(The Holy Family)(1500年)は、同じく、アレンデール・グループのジョルジョーネ作品とされる一つで、この日は、ナショナル ギャラリーで所蔵する2点が共に展示されていた。
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フランスのロココ期の画家ジャン・オノレ・フラゴナールの「読書する娘」(1769年頃)で、フラゴナールが友人や常連客をモデルに描いた14点の肖像画連作「ファンタジー・ポートレート・シリーズ」のうちの一つである。こちらは1時間ほどで描いた作品で、絵具が勢いよく塗られ、生き生きとした筆遣いを随所に見ることができる。この絵の少女はもともと鑑賞者を向いていたが、後に読書に夢中になる姿に描き直しているとされている。
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フィンセント・ファン・ゴッホによる「ラ・ムスメ」(娘、La Mousmé)(1888年)は、弟テオと同居していたパリから南仏のアルルに移った年の7月末に描いたとされる。ピエール・ロティのお菊さんを読んで知った日本語から名付けられた。モデルは、アルルに住む12歳の女の子で、赤い上着に紫のストライプ、青に大きなオレンジの水玉のスカートで、小さな手にキョウチクトウの花を持っている。
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ゴッホの先品では、他にサンレミの精神病院から解放される直前に描かれた2枚のバラの絵のうちの1枚「バラ」(1890年)(Gallery 83)、36の自画像のうち、最後の自画像の一つとされる「自画像」(1889年)、ゴッホの義理の妹ボンガー夫人を描いた「白い服の少女」(1890年)などが展示されている。

ポール・ゴーギャンの「ファタタ・テ・ミティ(海辺で)」(Fatata te Miti、1892年)で、ゴーギャンが、初めてタヒチ島に滞在した際の作品である。アトリエはタヒチ島の首都パペーテからおよそ45キロメートル郊外にあるパペアリに、自ら竹の小屋を建てている。作品は、漁師が槍で釣りをしている海に、2人のタヒチ女性がパレオを脱いで飛び込む様子が描かれており、官能的な喜びを伝える様に、強烈なトロピカルカラーで彩られている。
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クロード・モネの「散歩、日傘をさす女性」(1875年)で、モネの最初の妻カミーユが長男ジャンとともに草原を散歩する様子が、下から仰ぎ見る構図で描き出されている。
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同じく、クロード・モネの「ヴェトゥイユの画家の庭」(1881年)。モネは、1878年蒐集家エルネスト・オシュデ家族と共に、パリの喧騒を離れ、光の探求のためヴェトゥイユに移住し、描いた作品である。高い地平線と青空へ真っ直ぐに延びる小路の構図により、ヒマワリが咲き乱れる庭の存在が効果的に描かれている。階段の上段にはオシュデ家の娘と息子、そしてワゴンの側にいるのは、モネの息子ミシェルである。モネは、ヴェトゥイユの庭を題材に4作品を描いているが、こちらが最も完成度が高いとされる。
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他にも、モネの作品は、いくつか展示されている。こちらは「ルーアン大聖堂、西ファサード、陽光」(1894年)で、モネがルーアン大聖堂の西側正面の建物内にイーゼル(画架)を置き、ルーアン大聖堂の連作30点を制作した一つである。

「日本の橋と睡蓮の池」(1899年)は、モネが、1890年にジヴェルニーの土地を購入し、花の庭を造った後、隣の敷地を購入し、リュ川の水を引いて日本風の太鼓橋を架け「水の庭」とした。1895年から睡蓮の池の作品に取り組み、1898年以降は大量に描かれるようになる。1900年の「モネ近作展」第1睡蓮の13連作の内の一つである。

「国会議事堂、夕日」(1903年)は、1899年から1901年にかけて数回にわたり訪問し取り組んだ連作の一つで、ロンドンのテムズ川の霧の効果をサヴォイ・ホテルから国会議事堂(ウェストミンスター宮殿)を捉えて描いている。

ピエール オーギュスト・ルノワール(1841~1919)による「じょうろを持つ少女」(1876年)で、アルジャントゥイユにアトリエを構えたクロード・モネ宅で描いたもの。ルノワールは、1873年から2年間、度々モネ宅を訪問し一緒に風景画を制作しており、こちらはその中の一つで、近所の少女の一人を描いたもの。ちなみにルノワールは、戸外制作をするモネの姿も描いている。
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ルノワール作品は他にも多く展示されており、こちらは評価も定まった晩年頃の「髪をアレンジする水浴者」(1893年)で、温かい色調の女性裸体画を数多く制作した作品の内の一つである。

こちらは、フランスの写実主義の画家ギュスターヴ・クールベ(1819~1877)による「トゥルーヴィルのブラックロックス」(1865/1866)である。ごつごつとした切り割く様な岩と、地平線のターコイズブルーの帯、様々なブラシとクールベ最大の特徴であるパレットナイフを使用した夕焼けの空は、写しとったかのような臨場感あふれる表現がなされている。
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クールベは、スイスアルプスに隣接するフランス東部のドゥーブの内陸地域で生まれ、劇的な地形の岩だらけの露頭、急な峡谷、流れる川の絵画表現などで知られている。こちらの作品のトゥルーヴィルとは、ノルマンディーのビーチで、天候と光の気まぐれな沿岸に魅了され描いたマリンシリーズの一つである。

2時間ほどの鑑賞を終え、次にナショナル ギャラリー オブ アートの彫刻庭園の西隣にある「国立自然史博物館」(National Museum of Natural History)にやってきた。こちらも、スミソニアン協会が運営する博物館で入館料は無料である。ナショナル・モール側の入口(南入口)を入ると、大きなドーム真下の円形ホール(ロタンダ)で、中央に大きなアフリカゾウのはく製が飾られている。


最初に円形ホールから右側にある恐竜館に向かった。さすがに、一番人気の博物館と言われるだけのことはあり、かなり混雑していた。展示室には、いたるところに、化石化した骨格が再現展示されている。展示室を入った正面には、恐竜の代名詞とも言われる「ティラノザウルス」(Tyrannosaurus rex)の骨格が展示されている。ティラノザウルスの迫力ある姿は、恐竜の中で最も知名度も高く、長い間、恐竜人気を支え続けてきた最強の肉食恐竜である。
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ちなみに、アメリカ自然史博物館は、アメリカ映画「ナイト ミュージアム」(2006年)の舞台になっている。映画では、夜になると展示物が動き出す不思議な博物館において夜間警備員として働くことになった主人公の活躍をコメディタッチで描いている。

こちらの展示室で最もスペースをとって展示されているのは「ディプロドクス」(Diplodocus)の骨格である。ジュラ紀後期の大型竜脚類で細身で尻尾が非常に長く、全長30メートルほどの巨体を有している。主に、北アメリカ大陸に生息していた大型草食性恐竜の一種である。
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こちらは「トリケラトプス」(Triceratops)で、中生代後期白亜紀の現在の北米大陸に生息した植物食恐竜の一属である。口先は鳥のくちばしの様に尖り、頭骨には大きな骨質のフリルと3本の角があり、体格は、大きな4本足の体はサイに似た形状で、人気恐竜の一つである。展示室には、他にも、ステゴザウルス、アロサウルス、ケラトサウルスなどの骨格が展示されていた。
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2階には「鉱物・宝石コレクション」の展示室がある。国立自然史博物館では、約350,000点の鉱物標本と10,000点の宝石を所蔵しており、実際の展示も、様々な鉱物や宝石が所狭しと展示されている。こちらの中央のトルコ石風の鉱物はバリサイト(バリッシャー石、Variscite)と言い、アルミニウムの豊富な岩石と反応したリンを含む水が、直接堆積して形成されるもの。右隣の甘栗が集まった様な鉱物は、硫黄(いおう、Sulfur)で、殺虫剤、医薬品、農薬、黒色火薬の原料など幅広く用いられている。


こちらは、博物館の最大の見どころの一つ、巨大な青いダイヤ「ホープ・ダイヤモンド」で、持ち主を次々と破滅させながら、人手を転々としていく『呪いの宝石』」として有名である。周りには16個、鎖に45個のダイヤをはめ込んだ白金製のペンダントの中央を飾っており、価格は2億ドル以上と言われている。


続いて、西隣の「国立アメリカ歴史博物館」(The National Museum of American History)に向かった。1階から3階までの3つの展示室と地階に小売店及びダイニングがあるが、1階のエントランスホールを進んだ先の「アメリカ開拓史と交通の展示コーナー」を見学する。入館料は無料。


こちらはサンタクルーズ鉄道の「蒸気機関車ジュピター」(1876年)である。サンタクルーズは、モントレー湾の北端にあるカリフォルニア州サンタクルーズ郡最大の都市で、サンフランシスコから南に115キロメートルに位置している。当時カリフォルニア最大の鉄道会社は、この小さな海岸沿いの町への必要な支線を建設しなかったが、鉄道の開通こそが、町の経済発展に繋がると夢見た住民たちの努力により、独自に建設したもの。
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1876 年に営業を開始し、その機関車「ネプチューン」と「ジュピター」は、サンタクルーズとワトソンビル間の13マイルを旅客と貨物の列車で牽引した。ワトソンビルにはサザン パシフィック鉄道との分岐があり、全国鉄道網の残りのすべてに接続していた。

1913年型フォード・モデルTツーリングカーハンドクランクの代わりに電動スターター、アセチレンガスヘッドライトの代わりに電動ヘッドライトを装備したモデル。
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こちらは「コロンビア電気自動車」(1904年)で、コロンビア女性病院の院長ジョン・オスカー・スキナー博士が1906年から1932年まで運転していたもの。当時は、清潔で静か、快適で、操作が簡単であることから、多くの都市の医師や裕福な女性が購入している。
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都市や大きな町には、車のバッテリーを充電するための電力を供給する電力網があったことから都市部では好まれたが、自動車自体高価で、走行距離は短かく、電気料金は高かった上、バッテリーのメンテナンスや充電は複雑で危険な作業だったことからニーズは限られた。

こちらは、イギリスのロバート・スティーブンソン社によって製造された蒸気機関車「ジョン ブル」(1831年)(John Bull)のレプリカで、1939年にペンシルベニア鉄道のアルトゥーナ工場で製造されたが、スミソニアンの理事会が1981年の150周年に火を入れたことにより、世界最古の運転可能な機関車となった。
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国立アメリカ歴史博物館を出て、ナショナル・モールを西に進むと、ワシントン記念塔が迫って来る。1776年の独立戦争で、ジョージ・ワシントンの名誉ある功績を称えて建造された記念碑で、大理石、花崗岩、砂岩など国産の石材を約3万6千個から造られている。


第二次世界大戦記念碑を過ぎ、リフレクティング・プール沿いを進むと「リンカーン記念堂」(Lincoln Memorial)に到着する。ナショナル・モール西端に位置し、アメリカ合衆国第16代大統領エイブラハム・リンカーンを記念して建立された。ドーリス様式のギリシャ神殿の形をしており、およそ10メートルの高さの柱が36本、建物全体を囲むよう配置されている。一本の柱の円周は、大人5人が手を伸ばして抱えても届かないくらいの大きさがある。
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記念堂の中心に飾られるのは、彫刻家ダニエル・チェスター・フレンチの手によって作り上げられたリンカーンの坐像である。彫像の縦と横の幅はどちらもおよそ5.8メートルある。左手は握られ、右手は開いているが、作者のフレンチの娘が耳に障害を抱えていたため、アメリカ手話での左右の手を表したとも言われている。椅子両端には、ローマ執政官の権威の象徴である束桿がレリーフとして彫られている。
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リンカーン記念堂前の階段から振り返ると、リフレクティング・プールとワシントン記念塔が一望できる。
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リンカーン記念堂やリフレクティング・プールは、猿の惑星(1968年)のリ・イマジネーション作品、「PLANET OF THE APES/猿の惑星」(2001年)(ティム・バートン監督)で、インパクトの強いラストシーンとして登場している。

時刻は、午後3時50分になった。ベトナム戦争で戦った3人の彫刻を過ぎ、ベトナム戦争戦没者慰霊碑のある黒い花崗岩で作られた壁が続くメモリアル・ウォールを通ってナショナル・モールを後にした。

一旦、ホテルに戻り、次に2.6キロメートル北にある「フィリップス・コレクション」(The Phillips Collection)に向かった。到着は午後6時半だった。1921年にアメリカ初の近代美術館として開館したもので、ルノワールの「舟遊びの昼食」ゴッホの「アルルの公園の入口」などヨーロッパ絵画の他20世紀アメリカ絵画のコレクションでも知られている。午後7時半ごろまで鑑賞し、ホテルに戻った。

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翌朝は朝7時発のメガバス(Megabus)に乗り、アメリカ・ワシントンD.C.を後にした。この後、北東およそ200キロメートル先のフィラデルフィアを観光し、午後9時発の夜行バスに乗り、更に北東におよそ500キロメートル先のボストンに向かう予定にしている。
(2013.4.25~26)
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アメリカ・ワシントンD.C.(その1)

2013-07-10 | アメリカ(東海岸)
アーリントン国立墓地(Arlington National Cemetery)に、開園時の午前8時にやってきた。1864年に、南北戦争の戦没者のための墓地として、南軍のロバート・E・リー将軍の住居周辺の土地に築かれたのが始まりで、その後、第一次世界大戦、第二次世界大戦、朝鮮戦争、ベトナム戦争等の戦没者が祀られ、現在でも戦没者やテロ犠牲者などのアメリカ合衆国のために尽くした人物の墓地が存在している。


昨夜、午後5時41分にアメリカ・ワシントン国際空港に到着後、市内のユースホステル(Hostelling International-Washington, DC)に宿泊し、今朝、最寄りのメトロセンター駅からブルーライン(地下鉄)に乗り、西側、アーリントンセンター駅(5駅目)に下車しやってきた。

6本の円柱が並ぶポルチコがあるウェルカムセンターから建物内に入ると、ガラス張りの樽型天井から、明るい光が差し込むエントランス・ロビーになっている。インフォメーションコーナーがあり、ロビー中央にはラッパを吹く衛兵姿の人形がガラスケース内に飾られている。向かい側に見える扉口に向かう。


ウェルカムセンターから、右に続く通りを西に向けて歩いて行くと、周囲には見渡す限りの墓石が広がっている。


ウェルカムセンターから5分ほどでY字路となり、Kennedy Grave site書かれた標識に沿って右側を進むと、再びY字路が現れ、右側の緩やかな丘のサークル通路への階段がある。階段を上りサークル通路を上り半円形の石畳の広場の先の中央階段の先に、第35代大統領ジョン・F・ケネディ(左)と夫人ジャクリーン(右)が眠る場所がある。墓の前には、消えることなく燃え続ける「永遠の炎(Eternal Flame)」がある。高台には、かつてロバート E リーが暮らしていたギリシャ神殿風の大邸宅アーリントンハウスが見える。


サークル通路から階段を下りた先のY字路から左側の通路を通り南方向に墓地を眺めながら歩いて行く。丘の上には、円形劇場のあるギリシャ神殿風の建物が建ち、正面には白い墓石「無名戦士の墓」(Tomb of the Unknowns)がある。身元が不明な戦没者を祀った墓地で、各国の元首や首相、要人が公式訪問した際に訪れ、献花するのがこちらの場所である。この時間、衛兵交代式が行われており、無名戦士の墓の手前に敷かれた黒いシートに衛兵が往復し行われる。
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アーリントン国立墓地は、観光客など多くの訪問者で常に混雑しているが、開園と同時に訪れた今朝は、静謐な雰囲気に包まれていた。50分ほど周囲を見学した後、ウェルカムセンターまで戻り、メモリアルアベニューを東に歩きアーリントンセンター駅がある陸橋に到着した。しかし、爽やかな天気なので地下鉄は利用せずこのまま歩くことにする。

先のポトマック公園を過ぎると、ポトマック川に架かる「アーリントン記念橋」(Arlington Memorial Bridge)があり、対岸となる東正面に「リンカーン記念堂」(Lincoln Memorial)が見える。
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アーリントン記念橋(659メートル)を渡り終えると、通りはリンカーン記念堂の手前から左右に分かれて行く。右側の通りを東方向に歩いて行くと、右側は、大統領夫人による植樹式や、さくら女王のパレードなどで日本でもニュースとなる「桜まつり」で知られる「ウエスト・ポトマック公園」が広がる。

ウエスト・ポトマック公園を通り過ぎると、右側に大きな白い岩のゲートが見えてくる。そのゲートを通り過ぎた先には、公民権運動の黒人指導者「マーティン・ルーサー・キング・ジュニア牧師の記念碑」(Martin Luther King, Jr. Memorial)が建っている。「私には夢がある(I Have a Dream)」と発言した歴史的なスピーチからちょうど48年目にあたる2011年に牧師の偉業を讃えて完成したもので、高さは約9メートルある。


キング牧師の記念碑の周りにも、多くの桜の木が植えられている。そして、キング牧師が見つめる先には「タイベル・ベイスン池」が広がり、対岸(南東方面)には、アメリカ合衆国第3代大統領「ジェファーソンの記念碑」が望める。
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ところで、リンカーン記念堂からアメリカ合衆国議会議事堂までの東西約4キロメートルは「ナショナル・モール(National Mall)」と呼ばれ、この中に、複数のスミソニアン博物館群と、国有の美術館や記念館、庭園、緑地が広がり、多くの観光客が訪れるオープンな国立公園となっている。これから、タイベル・ベイスン池の対岸にあるジェファーソンの記念碑まで歩いた後、スミソニアン博物館群を見学する予定にしている。

タイベル・ベイスン池の最北端に架かる「クッツ記念橋」(Kutz Bridge)を渡る。コロンビア特別区(D.C.)の技術長官チャールズ・W・クッツに因んで1954年に開通した記念橋である。左前方には、ナショナル・モールの中心にそびえ立つ「ワシントン記念塔」が望める。高さ169メートル(約555フィート)の巨大な白色のオベリスクだが、2011年の地震で亀裂などの被害が発生したため、現在は修復工事が続けられている。


クッツ記念橋を渡り終えた後は、池畔に沿って大きく右にカーブしながら続く遊歩道を歩いて行く。クッツ記念橋から約1キロメートルほどで、タイダル・ベイスン池の南畔に到着する。北側の対岸には、ワシントン記念塔が望める。右側に見える建物は、手前から、連邦政府庁舎、アメリカ合衆国製版印刷局、アメリカ合衆国ホロコースト記念博物館になる。
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遊歩道の終点の広いテラスの中央に建つ白い建物が、最初の目的地「ジェファソン記念碑」(Thomas Jefferson Memorial)になる。アメリカ合衆国第3代大統領トーマス・ジェファーソンを記念して建立された記念建造物で、1939年から1943年にかけてニューヨーク市の建築家ジョン・ラッセル・ポープの設計で建てられた。大理石の階段、柱廊、イオニア式柱の円形の列柱、浅いドームから構成された新古典主義様式の建物である。
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記念碑の中央には、ジェファーソン像が飾られている。こちらはコンペティションで応募があった101件の中から、選ばれた地元の彫刻家ルドルフ・エヴァンス(1878~1960)によるもの。高さ5.8メートル、重さ4,500キログラムのブロンズ像である。完成は、第二次世界大戦中に生じた資材不足が影響し1947年であった。後方のパネルには、アメリカ合衆国独立宣言からの抜粋が記されている。


次に、ナショナル・モールの東側にあるスミソニアン博物館群に向かう。こちらは「製版印刷局」(Bureau of Engraving and Printing)の西側エントランスでワシントン記念塔から南に400メートルほどに位置している。アメリカ政府の様々な機密印刷物をデザインし印刷する米国財務省内の政府機関で、最も代表的な製造物は連邦準備の為の連邦準備券(ドル紙幣)である。それに加えて、米国債、軍士官や賞の証明書、入場許可証、多くの種類の身分証明書など様々な文書を製造している。


先隣りが「ホロコースト記念博物館」(United States Holocaust Memorial Museum)になる。土地は連邦政府から寄贈され、民間からの約1600万ドル(183億円)の寄付で設立された。ジェームズ・インゴ・フリードによって設計され、1988年に第40代大統領ロナルド・レーガンが礎石の設置を手伝った。開館は1993年4月で、最初の訪問者はダライ・ラマ14世であった。


そして、こちらの円形ファサードが、ホロコースト記念博物館の東口で、先ほどの西口と反対側の入口になる。左側の三翼の建物が製版印刷局になる。これから、こちらの14thストリートを通ってスミソニアン博物館群へ向かう。
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南北に延びる14thストリートを北に進み、先の交差点を右折し、連邦政府庁舎前を東に進むと前方に高架陸橋が見えてくる。その高架陸橋の先の左側が、スミソニアン博物館群の一つ「フリーア美術館(Freer Gallery of Art)」になる。


こちらは、アジアの美術品を収集していたデトロイトの実業家、チャールズ・ラング・フリーアにより設立され、建築家チャールズ・プラットの設計で1923年に一般公開された。日本を含む中国やインドを中心としたアジアの古美術品を収蔵する美術館である。隣には、古代のアジア・中東諸国の作品が展示される「アーサー・M・サックラー・ギャラリー」があり、地下通路で双方は繋がっている。このことから、フリーア美術館は、フリーア&サックラー・ギャラリー等と統合して「FSG」と称されることもある。

入口は、北側で入館は無料である。それでは中国美術から鑑賞する。こちらは殷王朝後期(紀元前11世紀)の青銅器で「兕觥(じこう)」と呼ばれる怪獣の身体を模した注酒器である。儀式的な酒の水差しとして使用された。殷王朝時代の青銅器は、個性的な文様が駆使され複雑で様々な器形があり世界中で愛好者が多い。
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他にも、周の趙王(周昭王、在位:紀元前977~957)の治世中に成州で開催された3日間の会議と儀式を記念する碑文が刻まれた、四角い箱形の器身に屋根形の蓋を持つ方彝(ほうい)や、酒を温めるための器「斝(か)」などが展示されている。3つの脚、側面の把手、口縁には2本の突起が付いた特徴がある。

こちらは「玉琮」(ぎょくそう)と呼ばれる玉器で、紀元前3500年頃から紀元前2200年頃、中国の長江の下流域に栄えた良渚文化(新石器時代後期の文化)の玉器である。翡翠(ネフライト)を擦切や穿孔し、形を切り出し、磨きあげて光沢を出している。玉琮はさまざまなサイズがあるが、表面には浮彫や線刻が施され、神人マスクなどの文様があるものもある。古い時代のものほど、丁寧に仕上げられた例が多い。墓で頻繁に発見されており、宗教儀礼に使用された考えられるが詳細は不明である。
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11段チューブは、高さ28.5センチ×幅7.5センチ×奥行き7.6センチで、左前面のマスク付き1段チューブは、高さ4.5センチ×幅7.2センチ×奥行き7.2センチとなっている。手前の丸みを帯びた形状のものはブレスレットを思わせる。

他にも、様々な形状の作品が展示されているが、こちらの「玉琮」は、まっすぐなベースにアーチ状の丸みを帯びた形状で、中央部がわずかに膨らみがあり、棒状の口、隆起した楕円形の目、くぼんだ丸い瞳孔の「神人マスク」の装飾が施されている。

翡翠(ネフライト)を素材にした作品では、中国・戦国時代(紀元前475~紀元前221)(秦の始皇帝が中原統一する前)の東周で製作された「ペンダントビーズとゴールドチェーン」なども展示されている。

「コズミックブッダ(The Cosmic Buddha)」(北斉(550~577)時代、石灰岩、河南省出土)と名付けられた立像で、高さ151センチメートル、ほぼ等身大の像である。1923年に北京のコレクターから購入したもので、頭部と両手は失われているものの、がっちりとした体躯で、簡素な僧衣をまとっている。注目すべきは、僧衣の隅々まで施された細かい浮彫である。
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像が製作された北斉時代とは、頻繁に政権交代が起こった中国・南北朝時代(420~589)の政権の一つだが、国内では、広く仏教が流行し、価値ある仏教美術作品も多く排出されている。西域の、ガンダーラ美術やグプタ朝などのインド仏教美術の様式から、北魏様式と呼ばれる中国独自のものと転換していく時代でもあった。ちなみに世界的に知られる雲岡石窟や竜門石窟の造営もこのころである。

コズミックブッダは、宇宙仏の意味で、万物の慈母であることから真言密教の大日如来と考えられる。一方、衣に刻まれた世界は、衆生が生死を繰り返しながら輪廻する三界(欲界・色界・無色界)であり、法華経の譬喩品からの仏陀、或いは、華厳経の三界唯心の教えとしての信仰対象、摩訶毘盧舎那仏とも考えられる。

衣の前胸には、天と地を繋ぐと信じられる欲界の頂点として「須弥山(スメール山)」が刻まれ、2匹の蛇(ナーガ)が絡みつき、須弥山頂上の忉利天(三十三天)では、守護神として多腕の天部を従えた仏陀が説法している。その下に天、人、畜生、餓鬼と続き、足元の裾となる最下部には、人々が苦しむ地獄が刻まれている。

衣の背面にも、浮彫が施されており、こちらには、歴史的な仏陀の生涯の場面などが刻まれている

次に日本美術を見学する。こちらは、江戸初期の狩野派の絵師 狩野探幽(1602~1674)による6曲「韃靼人狩猟・打毬図屏風(1668)」で、狩猟をする場面や、打毬杖(だきゅうづえ)をふるって毬( たま)を奪い合う姿などが力強く、生き生きと描かれている。
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江戸時代後期の浮世絵師 葛飾北斎(1760~1849)による「屏風図」である。こちらは、向かって左から右に、僧正遍昭、大友黒主、小野小町、在原業平の4曲が展示されている。しかし、これらは、もともと6曲の屏風を切り離したもので、残り2扇には、文屋康秀と喜撰法師が描かれていた。
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四天王(東方の持国天、南方の増長天、西方の広目天、北方の多聞天)(鎌倉時代(1185~1333))は、もともと、奈良・興福寺の収蔵仏だったが、明治初期の神仏分離令以降、荒廃した寺院修復の為の資金調達を目的に破損仏像77体を譲渡し、1906年に実業家の益田孝が購入している。その後、益田は17体のみを手元に残し、他の蒐集家に転売している。
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現在では、興福寺の収蔵仏のほとんどは所在が確認されており、アメリカでは、こちらフリーア美術館の四天王像の他、メトロポリタン美術館、フィラデルフィア美術館、ボストン美術館などに収蔵されている。

こちらの「菩薩坐像」は、仏像表面には金泥塗が施され、高い髻(もとどり)や、切れ長の目尻等から、鎌倉時代を代表する「快慶(1185~1220)」或いは、快慶一派の特徴があると評価されている。快慶の作品は、日本では、ほとんどが国宝か重要文化財に指定されており、アメリカでの快慶作品としては、ボストン美術館の弥勒菩薩像、メトロポリタン美術館の地蔵菩薩像・不動明王像などが挙げられる。
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ガンダーラ美術から「四相図のうちの誕生」(クシャーナ朝、パキスタンまたはアフガニスタン出土(ガンダーラ地方)、2世紀後半から3世紀初頭)。四相図とは、仏陀の生涯の四出来事のことで、誕生、成道初転法輪涅槃を指す。仏陀の母親マーヤー(摩耶)は、ルンビニー(現ネパール)園の無憂樹の下で休息していたが、無憂樹に咲く深紅の花に気づき、その一枝を取ろうと手を伸ばすと、右腕の脇から男子が出生した。パネルでは、その誕生の瞬間を捉えている。これは、仏陀が、他の人間と異なり性と無縁であることを示している。
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インド美術から「王が仏陀を訪ねる(シュラーヴァスティーの大いなる奇跡)」(シュンガ朝、BC2世紀、バールフット出土)(インド中部にある仏教遺跡)で、欄楯に刻まれた浮彫の一部である。中央には、花が敷き詰められた空の玉座の上に車輪があり、厚い花輪がかけられている。シュラーヴァスティーは祇園精舎のことで、仏陀が、千仏化現や、双神変などの奇跡を見せ、異教を論破し、教えを説いて人々を仏教へと改宗させた逸話に基づいている。
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仏陀の入滅後、芸術家たちは何世紀にもわたり、仏陀を人間としての姿では表現せず、仏舎利塔での礼拝、仏陀が座った玉座、瞑想した木、歩いた道を示すことで、仏陀の存在を表現し、仏陀の教えを広めてきた。

こちらは「玉座の脚」(東ガンガ朝、13世紀、インド・オリッサ州)で、悪魔の戦士を逆さまに抱えた「ガジャシンハ」が、象牙を素材に玉座の脚に彫刻されている。ガジャシンハとは、インド神話で登場する神獣で、知恵の象徴としての象(ガジャ)の頭と、王を表わす獅子(シンハ)の両方を併せた姿で表現される。カンボジアでは国章のシンボルとして使用されている。
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象牙の滑らかな表面と悪魔を逆さにぶら下げるガジャシンハの力強さが、巧みな曲線で表現されている。岩山の頂きに跨いだ足で体を固定しており、その岩山には、様々な動物や瞑想する隠者などの姿を見ることができる

こちらはネパールの「白い観音菩薩(アヴァローキテーシュヴァラ)」(Amoghapasha Lokeshvara)(マッラ朝前期、14世紀、ネパール、木材とポリクロミー(多彩色)、高さ162.5センチメートル)である。沙羅双樹の木片から製作された1木造である。像は、白い漆喰を用い、滑らかな層で像を覆った後、さまざまな色やパターンで装飾し、ヒマラヤの特産品である宝石の象嵌細工を施した。しかし、現在、宝石と腕2本が失われている。完成当時は、仏教僧院の祠堂で崇められ、敬虔な仏教徒により毎月特別なプージャ(儀式崇拝)が行われていたと考えられている。
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像は、カトマンズ渓谷の非常に人気のある守護神で、しなやかなトリバンガ(三重に曲がる)の姿勢で立ち、楕円形の顔の美しさの中に、若さと慈悲を体現している。特に、頭部の繊細な浮彫技術や、太腿付近の巧みな多色装飾が素晴らしい。

こちらは、アメリカ生まれで、主にロンドンで活動したアーティスト、ジェームズ マクニール ホイッスラー(1834~1903)による「磁器の国のプリンセス」(1865)である。作品は、着物を着たヨーロッパ人女性が、絨毯、日本の屏風、大きな装飾的な磁器の壺などを背景に、扇子を手にし物憂げに前方を見つめる様子を捉えている。
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作品は、その後、美術品収集家に売却され、ロンドン・ケンジントン近郊のタウンハウスで、景徳鎮磁器などで装飾されたダイニングルーム「ピーコック・ルーム(孔雀の間)」に飾られたが、1903年、チャールズ・ラング・フリーアにより部屋ごと購入されたため、当時の環境のまま展示されている。

次に、東に500メートルほど行った「国立航空宇宙博物館」(Smithsonian National Air and Space Museum)にやってきた。スミソニアン地区の博物館の中でも、屈指の人気を誇る博物館であり、この日も、入口付近には大変多くの見学者が集まっていた(写真は南口)。


セキュリティ・ゲートをくぐると、ガラスカーテンウォールの天井から明るい光が差し込む開放的な吹き抜けのエントランスホール「マイルストーン・オブ・フライト・ホール」(108)に至る。その天井からは、高高度極超音速実験機X-15、スピリット・オブ・セントルイス、スペースシップワン、パイオニア10号、スプートニク1号など、歴史上、名だたる航空機、輸送機、宇宙船、人工衛星等が吊り下げられている。
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ピンクのテネシー大理石が敷き詰められたフロアには、アポロ11号のコロンビア司令船や、左側には、1962年のジョン・グレンのマーキュリー6号(フレンドシップ7号)のカプセルなどが展示され、その隣に、月の石に触ってみよう!との表示がある。
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こちらが、月の石で、1972年にアポロ17号が持ち帰ったもの。着陸地点のタウラス・リトロー渓谷近くで採取されたもので、玄武岩で鉄分を含むきめの細かい火山岩で、約40億年前のもの。三角形のピースにカッティングされており、手で直接触れることができる。この日は、特に混雑することもなく、直ぐに触れることができた。


「マイルストーン・オブ・フライト・ホール」を2階から見下ろしてみる。まず、奥に見える戦闘機が「P-59 エアラコメット」で、ベル社が開発し、第二次世界大戦後にアメリカ陸軍航空軍等で使用された双発単座ジェット戦になる。左側には、世界初の木星探査機パイオニア10号が吊り下げられているのが見える。
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そして、目の前の大型機が、高高度極超音速実験機「X-15」66670(1959~1968)(ノースアメリカン社)で、3機製作された内の1号機になる。X-15は自力で離陸せず、母機となるB-52の主翼下に吊り下げられ上空に運ばれた後に切り離され、空中発進する仕組みであった。

ちなみに1号機は、1960年にマッハ3.31、飛行高度41,605メートル、1963年には高度107,960メートルに達し、その後、1967年ウィリアム・J・ナイト(1929~2004)により、2号機で最高速度7,274キロメートル毎時(マッハ6.7)を記録している。
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そして、1階左端の壁際に見える赤い構造物は、「ブライトリング・オービター3号」で、1999年3月、初の世界一周無着陸飛行に成功したロジエール気球(ガス気球と熱気球の機能を一体化した複合気球)になる。

左側には、ベル社の有人実験機で、世界で初めて水平飛行で音速を突破した有人航空機「X-1」(グラマラス・グレニス)(1946~1958)が展示されている。その音速を超えたのが、アメリカ陸軍・空軍軍人チャック・イェーガー(1923~)で、映画「ライトスタッフ」(1983)では、サム・シェパードが演じている。
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中央は、「スペースシップワン」(2003~2004)で、スケールド・コンポジッツ社により開発された有人宇宙船である。2004年に高度約100キロメートルの宇宙空間に向けた弾道飛行を成功させ、世界で初めての民間企業による有人宇宙飛行を実現させた。降下時に尾翼を立て、スピードを抑え機体の過熱を防ぐ等、特徴的な設計となっている。右手前は「スピリット オブ セントルイス号」で、1927年にチャールズ・リンドバーグ(1902~1974)により、ニューヨーク~パリ間を飛び、大西洋単独無着陸飛行に初めて成功した、ライアン・エアラインズ社製の単葉単発単座のプロペラ機「NYP-1」の愛称である。

2階通路の後方(南側)展示室(208)には、チャールズ・リンドバーグと彼の妻アン・モローの写真パネルがあり、後ろに黒い機体の「ロッキード・シリウス」(NR-211)(チンミサトーク)が展示されている。こちらは、1931年に北太平洋航路調査(パンアメリカン航空より依頼)のためニューヨークからカナダ、アラスカ州を経て、日本と中華民国まで飛行した水上機である。
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同展示室(208)にある真っ赤なボディは、1927年に初飛行したロッキードの民間用飛行機「ロッキード ベガ」(NR-7952)である。1931年には、隻眼の飛行士ウィリー・ポスト(1898~1935)により世界一周飛行に使用され、翌年には、アメリア・イアハート(1897~1937)により女性初の大西洋単独横断飛行が成し遂げられている。もともと、旅客機として設計されたが、座席数が少なかったため、記録飛行機として、名を残すことになった。
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東隣の展示室(209)には「ライトフライヤー号」が展示されている。ライト兄弟は1903年12月17日に計4回の飛行を行い4回目で59秒間、260メートルの飛行を達成した。こちらは、アメリカ航空宇宙学会ロサンゼルス支部のボランティアにより製作された複製機で、1999年には、NASAのエイムズ研究センターにより実験飛行がなされ、歴史的な飛行のデータの収集が行われた。
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次に、2階通路を左方向(西側)に進むと、航空輸送の展示室(102)が見下ろせる。下が初期のアメリカの旅客機「ボーイング247-D」(1934)で、全金属(陽極酸化アルミニウム)セミモノコック構造、片持ち梁の翼、格納式着陸装置などの当時の先端技術を取り入れた最初の航空機の一つである。黒と黄色のボディは「ピトケアンPA-5」(1927)で、イースタン航空(1926~1991)を構成するピトケアン航空会社のメールウィング単発機で、ニューヨーク市とジョージア州アトランタ間の郵便機として運行していた。
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上は、「ダグラスDC-3」(1936)で、1930年代から1940年代、第二次世界大戦の航空業界に永続的な影響を与えたダグラス・エアクラフト・カンパニーによって製造されたプロペラ駆動の旅客機である。

2階通路の西端を左折すると、第二次世界大戦軍用機の展示室(205)になる。展示室には階段があり見下ろすことができる。左側が、日本の「零式艦上戦闘機(ゼロ戦)五二型」である。五二型は、二一型、三二型に続いて、速力と防弾性能の向上を図ったタイプとして、太平洋戦争の中盤に後期型のゼロ戦として生産された。最高速度は時速565キロメートル、主翼内の燃料タンクに自動消火装置を装備しており、被弾で火災が発生しても二酸化炭素を噴射して鎮火させることができた。ゼロ戦は各型合計で1万機以上が製造されたが、その内の半数が五二型である。
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零式艦上戦闘機(ゼロ戦)五二型の右奥に見えるのが、イギリスのスーパーマリン社で開発された単発のレシプロ単座戦闘機「スピットファイア」のMk.VIIになる。格闘戦を重視し、旋回性能を向上させるため楕円形で薄い主翼を採用しているのが特徴である。1936年初飛行後、第二次世界大戦のさまざまな状況で活躍した。基本設計が優秀であったことと、戦況に応じたエンジンの出力向上により長期間にわたり活躍し23,000機あまりが生産され1950年代まで使用された。

右端が、イタリアのマッキ社が開発し、第二次世界大戦期にイタリア空軍で運用された戦闘機「MC.202 フォルゴーレ」で、その下のレシプロ単発単座戦闘機は、「P-51」(マスタング)で、アメリカ合衆国のノースアメリカン社が開発しアメリカ陸軍航空軍などで運用された。
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左下が、ドイツ空軍の主要レシプロ戦闘機Bf109(メッサーシュミット)で、約33,000機が生産された。後期には世界初となるジェット戦闘機メッサーシュミットMe 262の実用化にも成功している。
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2階通路の東端からは、「アポロ月着陸船」(Apollo Lunar Module )が見下せる。アポロ計画において、2名の宇宙飛行士を月面に着陸させ、かつ帰還させるための宇宙船で、グラマン社により開発された。こちら(シリアルナンバーLM-2)は、2回目の無人飛行用だったが、最終的に地上テスト用で使用されている。総重量は14,696キログラムある。
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2階のアポロ月への旅の展示室(210)(Apollo to the Moon)には、アポロを打ち上げる巨大なサターン5ロケットの5基あるF1エンジン(サターン1Bのメインエンジン:H-1エンジン?)。ノズル直径は約3.8メートル、推力約680トン(5基で3,400トン)は破格の大きさである。 他にも司令船のコックピットパネルや、地球へ帰還で使用されるアポロ宇宙船の司令船(3名が2週間を過ごす。直径約3.9メートル、質量約5.9トン)を始め、アポロ11号の司令船のハッチなどが展示されている。

アポロ月着陸船の西隣となる展示室スペース・レース(114)の大きなロケットは「V2ロケット」(1944~1952)で、第二次世界大戦中にドイツが開発した世界初の軍事用液体燃料ミサイルであり、弾道ミサイルでもある。隣のペンシル型のロケットは、「RTV-G-1 WACコーポラル」(ワック・コーポラル、WAC Corporal)(1945~1950)で、コーポラル計画の一環としてアメリカで開発された最初の気象観測用ロケットになる。
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大きな構造物は「スカイラブ宇宙ステーション」(The skylab orbital workshop)で、アメリカ初の宇宙ステーションとして建造されたもの。3人の乗組員を支えるための居住区、作業場、保管場所、研究機器など必要な設備が備えられている。当時2基が製造され、1基が1973年5月に周回軌道に打ち上げられたが、その後スペースシャトル計画に伴い本計画が終了したことから、もう1基が博物館に移管されることになった。

天井から吊り下がる飛行機は「V1飛行爆弾」で、第二次世界大戦時にドイツ空軍が開発したミサイル兵器になる。左端のロケットは「ヴァイキング」(1949~1955)で、アメリカ海軍研究所(NRL)の監督下で設計、製造された一連の観測ロケット。その右隣のUEのロゴは、「ジュピターC(Jupiter-c)」(1956~1957)で、アメリカの観測ロケットとして使用されたもの。そして、すぐ右奥の細く黒い先端のロケットは「ヴァンガード(Vanguard)」(1955~1959)で、アメリカが開発した衛星打ち上げ用のロケットになる。
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多色のロケットは「LGM-30 ミニットマン(Minuteman)」(1959~) でアメリカ空軍の大陸間弾道ミサイル(ICBM)で、核弾頭を搭載した戦略兵器になる。右端が「スカウト(Scout-D)」(1961~1994)で、小さな人工衛星を地球の軌道に載せるための打ち上げロケットになる。1時間半ほど見学し、国立航空宇宙博物館を後にした。

その後、Big Bus Toursに乗り、Night Tourに出かけることにしていたが、疲れて諦め、夕食を食べて、宿(Hostelling International-Washington, DC)に帰った。明日も、スミソニアン博物館群を中心に見学することにしている。
(2013.4.24)
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