カズさんの旅たび

 ~歴史、文化、芸術、美食紀行。。

ヴェローナ、ローマ

2013-07-02 | イタリア(ローマ)
パドヴァを出発し、ヴェローナ ポルタ ヌオーヴァ駅に午前9時に到着し、バスに乗り「サン ゼーノ聖堂」(Basilica di San Zeno Maggiore)にやってきた。駅からは北に2キロメートル、ヴェローナ旧市街からは西に2キロメートルほどの距離にあり、教会の後陣側(東側)には、アディジェ川(アディゲ川)が、旧市街に向け蛇行しながら流れている。


教会が最初に建てられたのは、380年、北アフリカ(マウレタニア)出身のヴェローナ8代目司教ゼノが亡くなり、この地に埋葬されたことに始まる。聖ゼノに捧げられた教会であり、ゼノはヴェローナの守護聖人でもある。

10世紀初頭には、西ヨーロッパ各地に侵攻したマジャール人により、(教会の立地が、ヴェローナ城壁の外側だったこともあり)大きく破壊され、967年に、東フランク王で神聖ローマ帝国の皇帝オットー大帝(在位:962~973)からの支援を受け、新たにロマネスク様式で建設された。1117年の地震後に再建され、14世紀にゴシック様式に改修され、16世紀には内装にルネサンス様式が加えられた。バシリカ式・三廊式の教会堂で、ポータル、ロンバルディア帯、ポリクロミア装飾等など、北イタリアを代表するロマネスク建築の傑作と言われている。

ファサードの前面には、装飾物はなく、石畳のみが整然と敷かれたサンゼーノ広場が広がっている。今日は雨が降る寒い朝で、人通りもほとんどなく、辺りは閑散とした雰囲気である。

ファサードに向って左側には、13世紀から14世紀にかけて建てられた赤レンガの古い修道院の塔が聳え、 右側には、1178年に完成し、1242年の雷被害後に再建された高さ62メートルのロマネスク様式の鐘楼が、聖堂とは独立して建っている。その鐘楼上部の各側面には、3つのランセット窓が重なった2つのオーダーが装備され、室内には、1149年、1423年、1755年制作の6つの鐘が設置されている。
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ファサード中央を飾るバラ窓は「幸運の車輪」と呼ばれ、12世紀末にヴェローナで活躍した建築家ブリオロット デ バルネオ(~1225)により制作された。12時の場所には立っている人、4時の場所には転んだ人、6時の場所には起き上がっている人の浮彫が施されている。

ポータル(扉口)の上を飾るルネットには、ロマネスク彫刻の巨匠ニッコロ(ニコロ)が手掛けた「ヴェローナ自治体の奉献」の浮き彫りが施されている。これは、1138年のヴェローナのコムーネ(自治都市)誕生を記念して制作されたもので、悪魔を踏みつける聖ゼノを中心に、右側に、馬上の貴族と商人、左側に、人民と武装歩兵が配されている。貴族が持つ旗はヴェローナ・コムーネの象徴で、聖ゼノから市民を守るに値する者として手渡される。ルネットの下には、聖ゼノの逸話として、向かって左に「ガリエヌスの娘の悪魔祓い」、右に「アディジェ川での荷車の奇跡」が表現されている。
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ニコロは、ピエモンテ州ヴァル ディ スーザにあるサクラ ディ サン ミケーレ修道院のゾディアコ門(干支の門)の浮彫彫刻を手掛け、フェラーラ大聖堂、サン ロマーノ教会で活動し、こちらのサン ゼーノ聖堂が最後の作品と言われている。

ポータルの左右壁面には、浮彫のパネルが施され、向かって右側がルネットを手掛けた巨匠ニコロと彼の工房による作品で「旧約聖書(創世期)」と「東ゴート王国のテオドリック王」を主題としている。作品は、左から右に、そして下へと続いており、一段目の左から「原罪と楽園追放、始祖たち、イヴの誕生、原罪、動物の創造、アダムの創造、テオドリックの狩り、テオドリックの天罰」と続いている。アダムの上部には、ニコロが制作したことを示すフレーズが刻まれている。
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そして、向かって左側は、ニコロの弟子とされる巨匠グリエルモ(ウィリアム)(ウィリジェルモ)(Wiligelmo、~1162)の作品で「新約聖書(イエスの生涯)」と「騎士の決闘」が主題となっている。場面は左から右に、そして下に「キリストの捕縛、磔刑、エジプトへの逃避、キリストの洗礼、東方三博士の礼拝、神殿奉献、天使がヨセフに警告する、受胎告知、降誕、羊飼いへの受胎告知、テオドリックとオドアケルとの決闘、歩兵の決闘」と続いている。
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次に、左右の浮彫の間に設けられたポータルを入ると、裏側にブロンズ製レリーフで構成されたドアがある。以前は、外側の玄関ドアだったが、保存目的で室内側に置かれるようになった。縁取りを含め73枚のレリーフがあるが、各扉に24枚ずつ(約56×52センチメートル)合計48枚のパネルが見どころである。制作は11世紀頃とされるが、入れ替えもあり、左右の作風も異なっていることから複数の作者(作者は不明)によるものとされる。
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向かって右側の扉には、旧約聖書(天地創造)を主題としたパネルが続いている。一段目左から右に「女性の創造と原罪、先祖の非難、楽園追放」と続き、二段目左から右に「カインとアベル、アベルの殺害、ワインに酔っ払ったノア」、そして、三段目左から右に「神はアブラハムに星を見せられる、アブラハムと3人の天使、イサクの燔祭」と続いている。
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次の四段目左から右には、旧約聖書(出エジプト)を主題にした「シナイ山のモーセ、初子の死、モーセとファラオ」と続き、五段目左から右には「バラム、エッサイの木、ソロモンと2人の預言者」と続いている。
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バラムとは、旧約聖書(民数記)に登場する異邦人占い者で、バラク王からイスラエルを呪うように依頼されるが、断って逆にイスラエル側を祝福したとされる。パネルでは、バラムがロバに乗って使者と共にバラク王のもとに向かう場面が表現されている。次のエッサイとは、ダビデ王の父で、キリストの両親の祖先とされている。パネルでは、そのエッサイの身体から木がはえ、枝の間にはキリストの先祖たちが、頂上にはキリストが表現されている。

六段目左端のマスクはドアノブで、その右隣から「聖ゼノを訪れる皇帝の特使、ガリエヌスの娘の悪魔祓い」と続いている。こちらは聖ゼノの逸話で、最初が、アディジェ川のほとりで釣りをする聖ゼノに、悪魔に取りつかれたガリエヌス皇帝の娘を助けてほしいと2人の特使が訪れ、次に、公邸に到着した聖ゼノが、娘の体から悪魔を追い払う場面となっている。
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そして七段目の左端には旧約聖書からの主題「ネブカドネザルと炉の中の子供たち」があるが、右隣の「荷車の奇跡、王冠を与えられる聖ゼノ」と、再び聖ゼノの逸話となっている。最初が、アディジェ川のほとりで釣りをする聖ゼノの前で、荷車の牛(馬)が、悪魔よって川に引きずり込まれるが、聖ゼノの祈りにより救われる場面となる。しかし、肝心の悪魔と対峙するゼノの場面は切り取られた様に失われている(ファサードのルネットに施された悪魔の姿は残されている)。そして最期は、ガリエヌス皇帝に王冠を与えられる場面で終える。

最下段の左から右には、旧約聖書の「アブラハムの犠牲、箱舟を準備するノア、ミカエルとルシファー」と続いている。

次に、向かって左側の扉に移る。一段目左から右に新約聖書を主題にした「受胎告知、キリストの誕生(羊飼いと三人の賢者)、エジプトへの逃避」から始まり、二段目左から右に「神殿の浄化(寺院からの商人の追放)、キリストの洗礼、神殿の医師たちの中にいるキリスト」、三段目左から右に「エルサレムへの入場、洗足式、最後の晩餐」、四段目の左から右に「キリストの捕獲、十字架を背負うキリスト、キリストの裁判」へと続いている。

五段目左から右に「鞭打たれるキリスト、磔刑、キリストの墓の前のマリアたち」、六段目左から右に「キリストの地獄への降下、キリストの昇天」と続き、隣は、右扉と対になる様に、マスク形のドアノブとなっている。
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七段目左から、衛兵により牢獄で斬首され、聖ヨハネの首が運ばれる「洗礼者聖ヨハネの斬首」。右隣が、アクロバティックな動きで踊るサロメと、ヘロデ王のもとにヨハネの首が届く「ヘロデの晩餐会」。更に右隣が「ヨハネの首がヘロディアへ渡される」と3パネルは連画になっている。最期の八段目は、左から右に「授乳中の女性2人、楽園(エデン)追放、仕事と死」と続いている。
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身廊には、ジュベ(隔壁桟橋)があり、手前の階段を下りるとクリプト(地下聖堂)で、聖ゼノのお棺が収められている。クリプトは10世紀初頭に工事が始まり、最初のロマネスク様式の教会が完成する約1世紀にわたり続けられた。その後、地震による倒壊後に修復され、1225年に彫刻家アダミーノ ダ サン ジョルジョにより、現在の二重リングの装飾が施された入口アーチが完成している。花や果物、駆ける動物たち、狩猟の場面、怪物、鳥、人物像などの浮彫が施されている。
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アーチの上には、真新しい赤い大理石の欄干と7体の彫像が飾られている。彫像は、キリストを中心に左右に使徒が並んでいる。左から、マタイ、ヨハネ、ペテロ、キリスト、大ヤコブ、トマス、ペトロ(シモン)である。更に、左側廊に、バルトロマイ、マティア、小ヤコブが、右側廊には、アンデレ、フィリポ、タダイと並んでいる。

左右側廊の上り階段を通り、身廊を先に進むと、後陣にある主祭壇にはアンドレア マンテーニャ(1431~1506)による「聖母マリアと諸聖人達」が飾られている。1456年に修道院長グレゴリオ コッレール(後のヴェネツィア総主教)が発注したもので、祭壇画は1460年に完成している。作品を手掛けたマンテーニャは、パドヴァの「オヴェタリ礼拝堂」のフレスコ画や、サンタ ジュスティーナ修道院の聖ルカの多翼祭壇画(1453~1454)(ブレラ美術館所蔵)の作品を通じて、高く評価される芸術家の一人となっていた時期である。
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「聖母マリアと諸聖人達」については、人文学の教養を備え広い視野を持つグレゴリオ コッレールの要望もあり、伝統にとらわれない新しい発想の祭壇画を作ることができていると評価されている。イタリア北部で描かれた最初の完全なルネサンスの祭壇画で、当時のヴェローナの画家の見本にもなった。渦巻き装飾が施された木製フレーム(額)もマンテーニャがデザインしている。

祭壇には、天使、音楽家、歌手に囲まれた高台の椅子に座る聖母子像のパネルを中心に、左右にそれぞれ4人の聖人を配置する三福パネル(ポリプティク)となっている。左パネルには、左から鍵を持つ灰色髭の「聖ペテロ」、司教ローブ姿の「聖ゼノ」、若い「福音記者ヨハネ」、剣を持つ「聖パウロ」が、そして右パネルには、左から、修道僧姿の「ヌルシアのベネディクトゥス」(480頃~547)、「ローマのラウレンティウス」(225~258)、「教皇グレゴリウス1世」(在位:590~604)、砂漠の隠者姿の「洗礼者聖ヨハネ」が、中央パネルから延びる対角線に沿って対称的に配置され、身振りや体勢などにも相互作用が見られる。
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プレデッラは、左から「復活、磔刑、オリーヴ山での祈り」が描かれているが、こちらは3点とも、画家パオリーノ カリアーリ(1764~1835)(パオロ ヴェロネーゼ(1528~1588)の子孫)によるコピーである。これは祭壇画自体が、1797年にナポレオンによりフランスに奪われ、1806年に、パリで取り外されたことによる。その後、主要3パネルと額縁は、1815年にヴェローナに戻されるものの、外されたプレデッラのオリジナルは現在、「磔刑」がルーヴル美術館に、「復活」と「オリーヴ山での祈り」がトゥール美術館に所蔵されている。

次に、ヴェローナの中心広場「ブラ広場(Piazza Bra)」前にある「グラン グアルディア宮」(Palazzo della Gran Guardia)にやってきた。こちらはヴェネツィア総督ニコロ ドナが建築家ドメニコ クルトーニに依頼して1609年に建築が始まったが、長い中断を経て建築家ジュゼッペ バルビエリにより1853年に完成している。現在は、会議、イベント、展示会場として使用されており、先月から、絵画の企画展「ボッティチェッリからマティスまでの人物・肖像画」(2/2~4/1)が行われている。
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壁面には、企画展の告知として、ルノワールの「ブージヴァルのダンス」(1883)と、ヤン ファン エイク(1390頃~1441)の「青いターバンの男の肖像」をあしらった垂れ幕が掲げられている。

グラン グアルディア宮前には、ブラ広場が広がり、正面(北東側)の広場の先に、円形闘技場「アレーナ ディ ヴェローナ(Arena di Verona)」が望める。保存状態の良い古代ローマ時代の遺構で、20,000人まで収容可能。国際的なロックバンドやポップバンドのコンサートなどが開催されており、中でも、1936年以来毎年夏に開催されるオペラ音楽祭「アレーナ ディ ヴェローナ音楽祭」の会場として知られている。
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左側(西方向)には、ゴム車両の観光機関車が停車していた。こちらは、2012年から運行開始されたパノラマ ツアー(40席)用の観光バス(Dotto Trains Muson River)で、ブラ広場のブラ門(グラン グアルディア宮の西隣から繋がる門)を出発し、コルソ ポルタ ヌオーヴァを通って、サン ゼーノ大聖堂、カステルヴェッキオ要塞、ボルサリ門、ドゥオーモ、ピエトラ橋、エルベ広場、ジュリエットのバルコニー、サンフェルモ教会、ジュリエットの墓と周遊する。環境に優しいエンジンを搭載し、歴史的中心部の狭い通りも運行が可能なのが特徴とのこと。
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そして、右側(東方向)には、新古典主義の豪華な「バルビエリ宮 (Palazzo Barbieri)」(1848年築)が建ち、現在はヴェローナの市庁舎で、ヴェローナ観光案内所も入居している。建物の裏側は円形闘技場を思わせる半円形の建物になっており、その内側に中庭を持っている。建設したのは、グラン グアルディア宮と同じ建築家ジュゼッペ バルビエリで、こちらには、彼の名前が付けられている。


外は本降りの雨になったが、これからグラン・グアルディア宮の企画展の見学をするので、あまり影響はない。本企画展は、ヴィチェンツァに引き続く巡回開催となる。見どころは、ブルケンタール国立博物館所蔵の、ヤン ファン エイクの「青いターバンの男の肖像」(1429年)、アントネッロ ダ メッシーナの「磔刑」(1460年)、メムリンクの二連祭壇画「本を読む男」「祈る女性の肖像」(1490年)などである。


他には、ボッティチェッリ、フラ アンジェリコ、マンテーニャ、ジョヴァンニ ベッリーニ、ブラマンティーノ、フィリッポ リッピ、ルーカス クラナッハ、ポントルモ、ルーベンス、カラヴァッジョ、ヴァン ダイク、レンブラント、ベラスケス、エル・グレコ、ゴヤ、ティエポロなどの肖像画や人物画や、マネ、モネ、セザンヌ、ゴーギャン、ゴッホなどの印象派、ムンク、ピカソ、マティス、モディリアーニ、ジャコメッティ、ベーコンまでの20世紀の偉大な画家に至るまでの作品と、大変充実した企画展となっている。

概ね3時間ほど見学した後、次に「カステルヴェッキオ美術館」に向かった。この時間には、雨も止んでおり、グラン グアルディア宮前の通りを左(北北西)に歩いて向かった。400メートルほど進んだ丁字路先にある城壁の内側に目的の美術館がある。

城壁に設けられた門をくぐると長方形の中庭で、正面北棟(新館)と東棟(事務室・図書室)の白壁2階建ての建物が「カステルヴェッキオ美術館」になる。美術館を取り巻く城壁は、1259年から1387年にヴェローナの実権を握ったデッラ スカラ家(スカリジェリ家)のカングランデ2世(在位:1351~1359)が、1354年から1356年にかけて防衛のために築いたカステルヴェッキオ要塞で、居城・ヴェッキオ城、カステルヴェッキオ橋とともに建設された(カステルヴェッキオ要塞 平面図)。
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東棟前の通路左右には、小さな山羊の顔をあしらった噴水と、古びた半円形の鉢を持つ噴水があり、その先の北棟右端のアーチ扉が美術館入口になる。ちなみに北棟の後方にはアディジェ川が流れている。

美術館は、1958年から72年に、ヴェネツィア生まれの建築家カルロ スカルパ(Carlo Scarpa、1906~1978)により改修されたが、スカルパは、丸太梁のある平天井、格子扉、階段、手すりなど、古城の雰囲気を残しつつ、作品毎の展示台の形状や配置、付属する金具類にもこだわりが感じられる。

こちらは、新館1階の第2室で、ロマネスク様式彫刻を中心とした展示エリアとなる。正面壁面には、殉教のしるしの車輪を持つアレクサンドリアのカタリナ像が展示され、左側には聖マルタ像が、右端には聖セシリアの像が展示されている。これらは、サンタナスタシア教会のマエストロによる作品になる。そして左手前にはヴェローナで活躍した彫刻家ジョヴァンニ ディ リジーノ(1320頃~)によるバルトロマイ像が展示されている。いずれも14世紀の彫像である。
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新館2階の第10室には、後期ゴシック様式を代表する画家ピサネッロ(1395頃~1455頃)の初期代表作「ウズラの聖母」(1420年頃)が展示されている。タイトル名は聖母足元のウズラに因んでいる。ピサネッロの絵画作品は10点ほどしか残っていないため貴重な作品でもある。


第13室には、ヴェネツィア派を代表する画家で巨匠ジョヴァンニ ベッリーニ(1430頃~1516)による「聖母子」(1475年)が展示されている。赤い衣を纏った聖母が、広い大空と穏やかな陽光を背景に、穏やかに眠る幼子に手を合わせる静謐さを感じる作品となっている。ベッリーニ作品では、他にも、立ち上がった幼子を聖母が抱きしめる別バージョン作品も展示されている。


同じく、第13室には、ヴェネツィア(ムラーノ出身)の画家で、ベッリーニ以前にヴェネツィアを代表したアルヴィーゼ ヴィヴァリーニ(Alvise Vivarini、1446頃~1502頃)による「聖母子」がある。暗いタイル状の石壁前で、赤い衣装にレースストールを胸元に付け、頭から金刺繍付き青白いヴェールを覆っている。抱きかかえられる幼子キリストが、胸の前で両手を合わせ、聖母の顔をしっかりと見つめる姿が印象的な作品である。


美術館の西側には大きな要塞塔(7基ある塔の中で最も高い)が聳えており、塔の西側の美術館(本館2階と3階)にも、ロマネスク様式絵画と国際ゴシック派絵画の展示室がある。新館・本館全体の展示作品は多いが、時間もないので、カロート、マンテーニャ、アルティキエロ、ヴェロネーゼ、バルトロメオ モンターニャなど、数点を鑑賞して城壁の見学に向かった。南側と西側に残る城壁上の胸壁沿いには散歩路が設けられており、散策することができる。
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北棟と塔と直結する渡り廊下には、彫刻家ジョヴァンニ ディ リジーノ(所説あり)によるヴェローナの領主カングランデ1世(在位:1291~1329)の騎馬像(大理石)が展示されている。彼は有力なギベリン(皇帝派)の指導者で、戦いに明け暮れたが、彼の時代にデッラ スカラ家(スカリジェリ家)の勢力は頂点に達した。


渡り廊下先の塔の手前にある折り返し階段を上ると、城壁上の散歩路に到着する。散歩路から、南側の城壁や美術館到着時にくぐったアーチ門などが見下ろせる。城壁の外の南東側がブラ広場の方向で、周囲には多くの建物が並ぶヴェローナ旧市街の街並みが広がっている。
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北側にはアディジェ川が流れ、「カステルヴェッキオ橋」が架かっている。この橋はカステルヴェッキオ要塞の建設途中に、敵勢力による暴動対策の脱出ルートを目的に、建築家ジョヴァンニ フェラーラにより建設された。第二次世界大戦中に破壊されたが、1951年に再建されている。下段が石造、上段が赤レンガで作られている。アディジェ川の水の流れに対応して、川の中央と左岸側に大小2つの五角形の基部を持つ大きな柱が、やや傾斜した120メートルの長さの陸橋を支えている。幅は6メートルで歩行者専用の石畳となっている。
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対岸には、屋外博物館のある公共公園(かつて武器庫だったアルセナーレ フランツ ヨーゼフ1世公園)があり、その向かい側は、緑豊かな住宅地ボルゴトレント地区となる。遠景の丘の上には、マドンナ ディ ルルド教会があり、ヴェローナの街並みを一望することができる。

北西側から南に流れてきたアディジェ川は、カステル ヴェッキオ橋を境に、大きく左に曲がり北東方向に流れて行く。そして、前方に見えるヴィットリア橋を過ぎ、白い鐘楼(ヴェローナ大聖堂)の先から、今度は大きく右に曲がり流れて行く。右端のカステル ヴェッキオの塔のすぐ横に見える遠景の煉瓦色のガルデッロ塔が、ヴェローナ旧市街の中心となる「エルベ広場」になる。
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ヴィットリア橋は、1918年、建築家エットーレ ファジウオーリが、ヴィットリオ ヴェネトの戦いの勝利と第一次世界大戦の終結を祝って建設した。第2次世界大戦末期の1945年には、退却するドイツ兵により破壊されるが、右のアーチだけは無傷で残った。1953年に再建されている。ヴィットリア橋のすぐ横にある鐘楼は、サンテウフェミア教会(1331年建築)である。

塔の西側は、渡り廊下となり、そこから、南側に広がる小さな中庭が見渡せる。こちらは、要塞の中でも古い時代の遺構になる。左側の城壁の真下を通る通りは、橋から続く歩行者通路になり、その先の門を出ると、一般道になる。右側にも城壁があり、向かい側に美術館の本館展示室(旧スカラ邸宅)が続いている。
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美術館を午後4時に出て、ヴェローナ ポルタ ヌオーヴァ駅まで戻ってきた。これから午後4時50分発の優等列車フレッチャルジェント(Frecciargento)9481号(銀の矢の意味)(39ユーロ)に乗りローマ・テルミニ駅に向かう。乗車時間は2時間50分の予定である。


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昨夜は、パドヴァに出かける前日に泊まったテルミニ駅すぐ南側にあるB&B_Railway24に再び泊まり、今朝8時半、500メートルほど南西側にある「サンタ プラッセーデ聖堂」(Basilica di Santa Prassede)に向かった。四大ローマ バジリカのうちの一つ「サンタ マリア マッジョーレ大聖堂」前の、大きな広場を横断した南側の建物の裏路地沿いにひっそりと扉口がある。


サンタ プラッセーデ聖堂は、聖プラクセデスに捧げられた教会で、822年、教皇パスカリス(在位:817~824)が母テオドラの墓所として建設したものである。その聖堂内にある「サン ゼノーネ礼拝堂」(Cappella de san Zenone)に施されたビザンツ様式のモザイク画が、歴史的価値もあり特に美しいことで知られている(サンタ プラッセーデ聖堂プラン)。

サン ゼノーネ礼拝堂は、キリストのメダイヨンを中心に聖人たちの胸像メダイヨンが並ぶモザイク画の下に扉口がある。その扉をくぐると、正面(東側)に、聖母子を中心に、左右に聖プラクセデスと聖プデンツィアーナの姉妹を配するモザイク祭壇がある。姉妹はローマ上院議員プデンテの娘だったが、2世紀に迫害を受け殉教し聖人となった。そして真上のヴォールト天井には、金を背景に、キリストの胸像メダイヨンを支える対角線に立つ4人の天使のモザイク画が広がっている。

ヴォールト天井の天使の足元から続く、左側(北側)のルネットには、ベールに包まれた手で殉教の冠を提示する聖人アグネス(290頃~305)、聖人プデンツィアーナ、少し離れて聖人プラクセデスの全身像が表現されている。下部の分厚いヴォールトには、色鮮やかな縁取りがされた装飾文様が一面に施されている。
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奥のルネットは、2層にモザイク画が分かれている。上部は、山の上に子羊キリストが表され、そこから流れる 4 つの川で喉の渇きを潤している鹿が表現されている。 下部には聖母マリアを中心に、左右に聖人プラクセデスと聖人プデンツィアーナが、左端に教皇パスカリスの母テオドラが並んでいる。テオドラの背後の四角形は、制作時に彼女が生きていたことを示している。右側面には、キリストによるアダムとイブの冥界からの解放が表現されている。
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右側(南側)のルネットには福音書を持つヨハネと窓を挟んで巻物を持つアンデレと大ヤコブが表現されている。下部の分厚いヴォールトには、北側と同様に、色鮮やかな縁取りがされた装飾文様が一面に施され、その奥のルネットには、キリストの祝福と左右は、ウァレンティヌスと聖ゼノではないかと言われている。
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サンタ プラッセーデ聖堂は、サン ピエトロ大聖堂を縮小したバシリカ式の教会で、後陣アーチにも美しい9世紀のモザイク画(キリスト、ペテロ、パウロ、福音書記者、聖プデンツィアーナ、聖プラクセデス、天国への門、天のエルサレム、教皇パスカリスの碑文など)が残されている。

サンタ マリーア マッジョーレ教会と、サンタ プデンツィアーナ教会を見学し、午前11時半を過ぎたので、カフェに入り軽く昼食を食べる。この後、スクデリア デル クイナーレ美術館(Scuderie Del Quirinale)での「ティツィアーノ」展(3/4~6/16)に向かうことにしている。


美術館は、大統領官邸「クイリナーレ宮殿」の向かい(西側)にあり、18世紀に宮殿の厩舎として建てられた。1999年から美術館として運営しているが、常設ではなく企画展を行う美術館である。今回の企画展は、ヴェネツィア絵画が果たした極めて重要な作品(アントネッロ ダ メッシーナからジョヴァンニ ベッリーニ、ロレンツォ ロット、ティントレットなど)を振り返りつつ、ヴェネツィアのみならずヨーロッパ中で人気を博した巨匠ティツィアーノの初期から後期までの作品をたどる内容となっている。

ティツィアーノ展のポスターを飾るのは「フローラ」(1515年頃)で、ティツィアーノの師ジョルジョーネがヴェネツィア学派で確立したモデルとされている。彼女の左手にはピンク色のマントがあり、右手には花や葉を携えている。ティツィアーノは、同時期に、彼女を多くの作品で描いている。


展示作品としては、ヴェネツィアのイエズス会教会のために制作された「聖ローレンスの殉教」(1558年)、「墓」(1559年)(プラド美術館)、「賢明の寓意」(1565~1570年頃)(ロンドン ナショナル ギャラリー)など、多くの有名作品が集結している。

鑑賞後は、南東側にあるトッレ アルジェンティーナ広場に歩いて向かう。途中でヴィットーリオ エマヌエーレ2世記念堂を正面に眺めながらヴェネツィア広場を横断し、1キロメートルほどで到着する。

トッレ アルジェンティーナ広場にある、共和政ローマ時代の4つの神殿の遺跡やポンペイウス劇場の跡などを見学した後、次に、トラム8系統に乗り、ベッリ停留所で下車する。時刻は午後5時になっていた。ベッリ停留所は、テヴェレ川にかかるガリバルディ橋を渡った南たもとにあり、向かい側には、ジュゼッペ ジョアキーノ ベッリ(1791~1863)の記念碑が建つベッリ広場がある。ベッリは、イタリアの詩人で、幼いころに両親を失い、貧困と労働の青年期を送るものの、貴族女性との結婚を契機に教皇庁に職を得て、ソネット形式による盛んな詩作を行ったことで知られている。
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当初、サン ピエトロ イン モントリオ教会や、サンタ チェチリア イン トラステヴェレ聖堂を予定していたが、時間的に難しくなった。このため、今日の最終目的となる「サンタ マリア イン トラステヴェレ聖堂」に向かうことにする。ベッリ停留所からは、ベッリの記念碑と反対側(西方向)に歩いて行く。

ショップなどの店舗が入る多くの建物が立ち並ぶローマ中心地の石畳の小道(ルンガレッタ通り)を400メートルほど西に進むと、視界が開け、中央にバロック様式の噴水が飾られた50メートル四方ほどのトラステヴェレ広場となる。その先に「サンタ マリア イン トラステヴェレ聖堂」(Basilica di Santa Maria in Trastevere)のポルチコ(柱廊玄関)のあるファサードが望める。
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聖堂はローマで最初のキリスト教礼拝の場所だったとされる。伝説によると、3世紀に教皇カリストス1世(在位:217頃~222頃)によって建設され、340年に教皇ユリウス1世(在位:337~352)により完成している。現在のロマネスク様式の聖堂は、教皇インノケンティウス2世(在位:1130~1143)が改築したもので、その後、教皇クレメンス11世(在位:1700~1721)や教皇ピウス 9 世(在位:1846~1878)時代に修復が行われている。

ポルチコは 1702年に後期バロックの建築家カルロ フォンタナ(Carlo Fontana、1634頃~1714)によって改築されたもので、上に4人の教皇の彫像が飾られた欄干が設置されている。そのテラス奥の壁面は12世紀のモザイク画で、「授乳の聖母」を中心に、足元に小さな2人の寄進者と、左右に5人ずつの乙女が配されている。上下には色あせたフレスコ画が残っている。
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身廊には、カラカラ浴場からの22本の花崗岩の柱があり、左右の側廊と隔てられている。いくつかの柱頭には、古代の神々の名残りがある。床は12~13世紀のコスマテスク細工で覆われており、19世紀に大きく修復されている。金箔を貼った木製の格間天井は、盛期バロックの画家(ボローニャ派)のドメニキーノ(1581~1641)が、1617年に設計したもので、中央には聖母被昇天が描かれている。

中でも、ビザンチン様式で制作された後陣の黄金のモザイクが見どころになる。最上部のドーム部(アプス)は、12世紀(1143年頃)制作の「戴冠の聖母」のモザイク画で、登場人物は正面を向いた2次元で配置されている。中央には、王冠をかぶり、宝石をあしらった豪華なローブを着るマリアとキリストが東洋風の玉座に一緒に座っている。
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キリストは、マリアの肩に腕を回している珍しい図像となっており、マリアの手には、ソロモンの歌の一節「彼の左腕を私の頭の下に置いて、彼の右腕は私を抱きしめる」の銘文が掲げられ、キリストには「わたしの選ばれた者よ、来なさい。そうすれば、あなたをわたしの玉座に座らせよう」との銘文が掲げられている。そして、キリストの頭上には、色とりどりの扇状で表現された楽園が表され、その楽園から父なる神の手が御子の頭上に勝利の花輪を贈っている。

マリアの隣には、左から右へ、教会の模型を持つ教皇インノケンティウス2世、ローマのラウレンティウス(225~258)、教皇カリストゥス1世が脇を固め、キリストの隣には、左から右へ、聖ペテロ、教皇コルネリウス(在位:251~253)、教皇ユリウス1世、司祭カレポディウス(~232)が配されている。アプス下部の細い水平帯には、パスカルの子羊(キリスト)を中心に他の十二匹の子羊(使徒)がキリストの方向を向いている。
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ドーム部側面の凱旋門には、メシヤ(油を注がれた者の意味でキリストを指す。)の到来を告げた旧約聖書の二人の預言者、イザヤ(左)とエレミヤ(右)が描かれ、その下には、モザイク作家で画家のピエトロ カヴァリーニ(1259~1330頃)が1291年に制作したモザイクパネル「マリアの生涯からの情景」がある。モザイクは6枚の正方形のパネルで、イザヤの真下に、マリアの人生の始まりとなる「マリアの誕生」のパネルがある。
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マリアの誕生の右には、「受胎告知」が、そして、「降誕」「東方三博士の礼拝」「神殿奉納」と続き、預言者エミリアの下になる右端の凱旋門には、マリアの人生の終焉となる「マリアの眠り」のパネルとなっている。

ちなみに、モザイク画「降誕」のマリアの足元にある「タベルナ メリトリア」の銘文とは、ローマ市内で困窮していた退役軍人のために設立したお店で、キリストの降誕を予兆する様に、油が流れ出ると言う奇跡が起きたことに因んでいる。また、笛を吹く羊飼いや、羊の群れを見守る羊飼いの図像は、ビザンティン美術においてしばしば見られるものである。「東方三博士の礼拝」について、丘の上に見える城塞はエルサレムの街になる。カヴァリーニの作品は、写実的描写と遠近感の試みが高く評価されている。

降誕と東方三博士の礼拝の下には「聖母子のメダリオンと聖ペテロと聖パウロ」のモザイク・レリーフがあり、その下部にある紋章の傍らで跪いて手を合わせるのは、モザイクパネル「マリアの生涯からの情景」をカヴァリーニに依頼したベルトルド ステファネスキ枢機卿である。
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更に、「聖母子のメダリオンと聖ペテロと聖パウロ」の左右には、マリアの神秘のシンボルを描いた天使のフレスコ画が描かれている。そして最下段には聖歌隊席が設えられている。
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今夜は、ポポロ広場近くの人気のイタリアン レストラン「アド ホック(Ad Hoc)」で夕食を頂いた。メニューには、アラカルトとテイスティングメニュー(ランドとシーの2種)がある。トリュフを使った料理が有名で、アラカルトメニューには、トリュフのリスト(6種類)がある。

この日は、テイスティングメニュー(ランド)を注文した。内容は、(アミューズグール)、前菜のテイスティングパスタテイスティングコース肉のテイスティングコースデザートの4品である。見た目は少なめに感じるが、かなりボリュームがある。味付けもしっかりしておりペアリングには最適で、中でも三種類のトリュフのパスタは極上の香りが合わさり大変美味しい。

食後は、昨夜に続き、テルミニ駅の南沿いジョヴァンニ・ジョリッティ通りにあるB&B_Railway24に泊まり、翌朝4時半、すぐ目の前にある停留所からシャトルバスT.A.Mに乗り、フィウミチーノ空港に向かった。そしてフィウミチーノ空港からは、7時20分発エールフランス(AF2305)便に乗り、パリ・シャルルドゴール空港で日本航空(JL042)に乗り換え、翌21日の早朝6時55分に羽田空港に無事到着した。
(2013.3.18~21)
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ローマ、パドヴァ

2013-07-01 | イタリア(ローマ)
こちらのオベリスクは、「サン ジョバンニ イン ラテラノ大聖堂」(以下:ラテラノ大聖堂)前の「サン ジョバンニ広場」に建つ「ラテラノ オベリスク」で、もともとはトトメス3世によりカルナックに建てられたもの。357年にローマに運ばれ、大競技場チルコ マッシモに飾られていたが、その後、埋もれてしまい、1580年代後半に発掘・修復され、教皇シクストゥス5世(在位:1585~1590)の命により、頂部に十字架が取り付けられ現在の場所に設置されている。
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ラテラノ オベリスクの南東側に建つ三階建ての煉瓦色の建物が「ラテラノ宮殿」で、南側はラテラノ大聖堂の北身廊に直結している。そして、その右隣のサン ジョバンニ広場に面して建つロッジアのある大きな2層のポルチコは、ラテラノ大聖堂の北翼廊のサイドファサードで、教皇ピウス4世(在位:1559~1565)時代の2対鐘楼の前面に、教皇シクストゥス5世が、信頼する建築家ドメニコ フォンターナ(1543~1607)に指示し建設したもの。
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ラテラノ宮殿とラテラノ大聖堂の歴史は古く、ローマ皇帝コンスタンティヌス1世(在位:306~337)が、313年、元ラテラヌス家の邸宅をキリスト教徒に譲ったのが始まりとされている。その後、教皇の住まいがラテラノ宮殿となり、敷地内にあったバシリカが教皇の司教座聖堂(カテドラル)となり、その後は、歴代の教皇により増改築されていくのである。

ところで、このローマまでは、昨夜、成田空港から午後9時55分発のエールフランス航空に乗り、パリ・シャルル ド ゴール国際空港を経由して、今朝9時5分にイタリア・フィウミチーノ空港(ターミナル1)に到着している。日本との時差は-8時間であることから、トランジット時間を含め20時間弱の移動時間だった。その後は、空港から鉄道でテルミニ駅まで移動し、駅南の今夜宿泊するB&B_Railway24に荷物を預け、メトロに乗って最寄りのサンジョバンニ駅から歩いてきたところ。

最初に、サン ジョバンニ広場の西側に建つ「ラテラノ洗礼堂」から見学することにする。こちらは広場裏側となる西側駐車場から洗礼堂を眺めた様子である。ラテラノ洗礼堂は八角形の平面を持つ建物で、ラテラノ大聖堂から独立して建っている。最初に洗礼堂を建設したのは、コンスタンティヌス1世と言われ「コンスタンティヌス洗礼堂」とも呼ばれている。現在の洗礼堂は、教皇シクストゥス3世(在位:432~440)により再建されたもので、レンガ造りの外観は、教皇インノケンティウス10世(在位:1644~1655)が、バロックを代表する建築家フランチェスコ ボッロミーニ(1599~1667)に指示して、当初の八角形の形状を継承して1657年に建築したもの。


洗礼堂内は外観形状と同じ八角形になっている。中央には、大きなブロンズの洗礼槽が置かれ、周囲に八角形の柱を繋ぐ装飾環状と格天井を備えた豪華な洗礼場となっている。洗礼槽は、バスタブの様な造りで、洗礼の際には、装飾上蓋を取り外して行われる。周囲の壁面には多くの絵画や装飾が施され、間には周歩廊を形成している。洗礼堂はローマ最古から続く唯一のもので、八角形の構造自体が、他の洗礼堂のモデルとなっており、装飾写本「生命の泉」の象徴的なモチーフにもなっている。
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八角形の周歩廊の左側(南側)に見える開け放たれた扉の先は、アトリウムのある礼拝堂(両側に2つの祭壇がある)(こちらは、東側の木製の磔刑像がある祭壇のアプスの装飾)で、洗礼堂への入口にもなっている。洗礼堂内には、他に北、東、西、南東の壁面に扉があり、西の扉の柵の向こうには、ブロンズの洗礼者ヨハネが飾られた礼拝堂が見える。こちらの礼拝堂は、教皇ヒラルス(在位:461~468)の時代に追加されたもの。


東の扉を入ると、福音記者ヨハネの礼拝堂があり、南東側の扉を入ると「サンヴェナンツィオ礼拝堂」がある。こちらの礼拝堂は、教皇ヨハネス4世(在位:640~642)が、地元ダルマティア(現:クロアチア)で発生したスラヴ人によるキリスト教信者の捕縛事件を無事解決できたことに謝意を表し建てた礼拝堂で、40人ほどが座れそうな会衆席がある大きな礼拝堂である。
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こちらの祭壇には、初期キリスト教の壁画モザイクが美しい姿のまま残っており大変貴重である。まず、祭壇の上部後壁には、3つの窓と、福音記者の4つのシンボル、エルサレムとベツレヘムの都市が表現されている。その下の中央アプスには、天使を伴なったキリストが半身像の珍しい姿で、雲の中から現れる「キリスト昇天」が表されている。その下には、聖母を中心に聖人たちが表現されており、左端に教会模型を持つ聖人が寄進者となるヨハネス4世である。

ヨハネス4世の隣には、聖ヴェナンティウス、福音記者聖ヨハネ、聖パウロ、聖母、聖ペテロ、洗礼者聖ヨハネ、ドムニオーネ司教、教皇テオドルス1世(在位:642~649)が並んでキリストを讃えている。
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アプスの左右後壁には、8人の殉教者がモザイクで表現されている。向かって右壁の中央側からは、司教マウロ(vescovo Mauro)、執事セプティミウス(diacono Settimio)、アンティオキアヌス(Antiochiano)、ガイアヌス(Gaiano)と続いている。
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そして、向かって左壁の中央側からは、アナスタシウス(Anastasio)、修道士アステリウス(monaco Asterio)、テリオス(Telio)、パウリニアヌス(Paoliniano)と続いており、彼ら8人の殉教者の遺物は、このラテラノ洗礼堂に納められている。
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次に、 ラテラノ大聖堂に入り南翼廊に隣接する「ラテラノ回廊」にやってきた。大聖堂は無料だが、回廊見学は有料となる。イヤホンガイドが付いているが英伊仏独西の5国語のみとなる。こちらの回廊は、もともと大規模なベネディクト会修道院の一画だったが、現在は回廊のみが残っている。修道院の修道士たちは、共同生活をしながら、大聖堂での奉仕活動に取り組んでいたと言われている。

こちらは南回廊から北回廊を眺めた様子で、その上が、大聖堂の南翼廊になるが、広場に面した北翼廊とはだいぶ様相が異なっている。


回廊の壁面側は、16世紀以前に使用されていた調度品や美術品、部材などを展示するミュージアムとなっている。東回廊の中程には「マグダラのマリア祭壇」を飾っていた、三角形のスラブと三連アーチの装飾板(13世紀)が展示されている。ローマの大理石職人ヴァッサレット一族によるコスマテスク様式(ロマネスク様式とゴシック様式を兼ね備えたもの)によるもので、上記のスラブには一族のアデオダート ディ コスマ(Adeodato di Cosma、~1332)の名前が残されている。
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同じく東回廊のすぐ左側には、歴代のローマ法王が戴冠式の際に座った教皇座が展示されている。こちらは、1099年の教皇パスカリス2世(在位:1099~1118)から、1560年1月の教皇ピウス4世(在位:1559~1565)までの戴冠式で使用されていたもの。


回廊は、13世紀前半のもので、一辺が約36メートルあり、ローマの回廊では最大の規模を誇っている。こちらは、西回廊から東回廊を眺めた様子で、中庭中央には、かつて「サマリア人女性の井戸」と呼ばれた9世紀制作の井戸が飾られている。
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東西の回廊中央からは、中庭に出入りするためのゲートが設けらているが、柵で閉ざされており入ることはできない。その入口左右には、それぞれ自然発生した蔓が絡み合う様な不思議な柱と、左右にスフィンクスとライオンの像が飾られている。


すぐ、右側の先隣りにも、捻じられた2連の捻じり柱や、その隣には象嵌細工が施された円柱など、個性的な柱が並んでいる。南回廊を望むと、アーチ群の壁面には、コスマテスク様式の傑作装飾が残されている。多色の象嵌で縁取られた、赤、紺青などの斑岩と蛇紋岩の円形と正方形が交互に並ぶ優雅な装飾と、その上に、象嵌縁取りと螺旋状の葉にマスクが並ぶ装飾コーニスが施されている。
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では、最後にラテラノ大聖堂の内部を見学する。ラテラノ大聖堂は、ローマにおける古代ローマ様式の大聖堂(ローマ バシリカ)で、四大ローマ バジリカのうちの一つとされる。他に、サン ピエトロ大聖堂、サンタ マリア マッジョーレ大聖堂、サン パオロ フオーリ レ ムーラ大聖堂(城壁外の聖パウロ大聖堂)があり、更にサン ロレンツォ フオーリ レ ムーラ大聖堂(城壁外の聖ラウレンティウス大聖堂)を加えて五大バジリカと呼ぶこともある。

1580年代後半の教皇シクストゥス5世が行った改修工事の後、教皇インノケンティウス10世が、1646年に、さらなる改修を決定し、お気に入りの建築家フランチェスコ ボッロミーニに委ねている。ボッロミーニは、現在の5つの身廊(中央が格天井、左右がドーム天井、左右側廊が平天井)が並行する大規模な構造を完成させている。中でも、中央の身廊を支えるピラスター柱の間には、壁龕を設け浮彫彫刻を施し、交互にアーチを配置する姿は、見どころの一つでもある。
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ピラスター柱の間にある壁龕彫刻の下は空間だったが、1702年に、教皇クレメンス11世(在位:1700~1721)と大司教により、十二使徒像を配置することが決まり制作された。デザインスケッチは、教皇のお気に入りの画家カルロ マラッタ(1625~1713)が担当し、複数の著名な彫刻家が選ばれた。向かって主祭壇の左側には「ペトロ(1704~1711)」(フランス人彫刻家ピエール エティエンヌ モンノー作)の像が飾られている。
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そして、そのペトロからナルテックスにかけて、アンデレ(彫刻家カミーノ ルスコーニ作)ヨハネ(彫刻家カミーノ ルスコーニ作)、アルファイの子ヤコブ(彫刻家アンジェロ デ ロッシ作)、バルトロマイ(彫刻家ピエール ルグロ作)、熱心党のシモン(彫刻家フランチェスコ モラッティ作)と並んでいる。

ペトロに対して向かい側の主祭壇右側には「パウロ(1704~1708)」(フランス人彫刻家ピエール エティエンヌ モンノー作)の像が飾られている。
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そして、パウロからナルテックスにかけて、ゼベダイの子ヤコブ(大ヤコブ)(彫刻家カミーノ ルスコーニ作)、トマス(彫刻家ピエール ルグロ作)、フィリポ(彫刻家ジュゼッペ マッツォーリ作)、マタイ(彫刻家カミーノ ルスコーニ作)、タダイ(彫刻家ロレンツォ オットーニ作)と続いている。

そのボッロミーニの身廊の後陣には、金を背景に鮮やかなモザイクで覆われたアプスがある。ただし、現在のモザイクは、1878年、教皇レオ13世(在位:1878~1903)の指示により修復されたもので、一部オリジナルタイルは使用されているが、大半は当時のモザイク職人によるリメイクである。
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オリジナルのモザイクは、1292年、教皇ニコラウス4世(在位:1288~1292)(歴史上最初のフランシスコ会教皇)の指示のもと、ヤコポ トリッティ(Jacopo Tritti)(左下に署名がある)とフランシスコ会の修道士ヤコポ ダ カメリーノ(Jacopo da Camerino)が制作している。

モザイクの中央にはキリストの十字架と聖霊の鳩が描かれ、向かって左側には、聖母、足元で跪く教皇ニコラウス4世、アッシジのフランチェスコ、ペテロ、パウロ、そして右側には、洗礼者ヨハネ、パドヴァのアントニオ、ヨハネ、アンデレが表現されている。
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中央交差部にあるゴシック様式のシボリウム(高祭壇)は、1367年にアヴィニョン捕囚時期にも関わらす、大聖堂の荒れ果てた姿を見かねて、一時的にローマに戻り大聖堂の修復を指揮した、教皇ウルバヌス5世(在位:1362~1370)が、シエナ出身の建築家ジョヴァンニ ディ ステファノ(~1391)に依頼した記念碑的な作品である。
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上部の金の格子の中には、聖ペテロと聖パウロの頭蓋骨の聖遺物が祀られた聖籠があり、その下に、聖人や磔刑図、善き羊飼い、幼子の玉座とマリアの戴冠式などが描かれたフレスコ画がある。しかし、現在の教皇祭壇は、1851年に教皇ピウス9世(在位:1846~1878)が、フィリッポ マルティヌッチ(~1862)に依頼して再構築したもの。ただし、フレスコ画はオリジナルのものを修復している。

教皇祭壇の手前には、ネオゴシック様式の金色の錬鉄製の欄干で縁取られ、階段下に大理石で囲まれた告白室がある。中央には洗礼者ヨハネ像が飾られ、手前には、教皇マルティヌス5世(在位:1417~1431)の墓がある。


大聖堂内には、他にも、右通路に、教皇セルギウス4世(在位:1009~ 1012)とアレクサンデル3世(在位:1159~1181)、左通路に教皇クレメンス12世(在位:1730~1740)、そして、後陣に向かって右翼廊には、強大な教皇権を実現した教皇インノケンティウス3世(在位:1198~1216)の墓がある。

こちらは、左翼廊にある教皇レオ13世(在位:1878~1903)の墓で、25年の長きにわたり教皇職を務め93歳で亡くなっている。サンピエトロ大聖堂に埋葬されたが、1924年にこちらに移された。以上の様に、現在ラテラノ大聖堂には、歴代の教皇のうち6人の墓が納められている。


ナルテックス側の右側廊にある左右の二連円柱に囲まれた額には、ジョット ディ ボンドーネ(1267頃~1337)による「ラテラノ大聖堂で聖年を宣言するボニファティウス8世」(1300年)が飾られている。

教皇ボニファティウス8世(在位:1294~1303)は、モザイクの後陣が完成し新しくなったラテラノ大聖堂において、1300年を「聖年」と定めて盛大な祭典(聖年祭)を挙行している。フレスコ画は、その聖年祭において、ラテラノ大聖堂の2階のロッジア中央に設けられた天蓋の下、左右に聖職者と枢機卿を配した教皇ボニファティウス8世が、群衆を祝福する様子が描かれている。更に左右には、多数の高位聖職者が見守り、階下の広場には多くの群衆が描かれていたが、そちらは失われている。
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この当時、フランス王フィリップ4世(在位:1285~1314)が、イングランドとの戦費調達のためフランス国内の教会課税を実施しており、収入源の重要な地位を占めていたフランスでの課税が大きな痛手となっていた教皇庁だったが、この聖年祭により教会財政は潤いを取り戻している。

1301年、ボニファティウス8世は、再び王権発動をし教会課税を推し進めようとしたフィリップ4世と争うが、1303年のアナーニ事件で屈辱を受けて憤死している。この影響から、ローマ教皇権の衰退が始まるが、追い打ちをかける様に、1305年に大聖堂に火災が発生し甚大な被害を受けている。1309年には、教皇クレメンス5世のアヴィニョン捕囚(1305~1377)が行われ、嵐や地震などの災害も頻発し、大聖堂はその後60年にわたり荒れ果ててしまう。

ジョットの作品のある側廊のナルテックス側が、大聖堂への出入口となる。こちらが、広場から見上げた正面東側ファサードになる。頂部に聖人たちが立ち並ぶ壮麗なファサードは、教皇クレメンス12世(在位:1730~1740)が、1732年、アレッサンドロ ガリレイ(1691~1737)に依頼し完成させたもので、後期バロック様式に古典的な要素を加味したものとなっている。中央ペディメントには、キリストの頭部の円形モザイク画が飾られているが、これは13 世紀後半にファサードを飾っていた大きなモザイク画の名残りである。
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ファサードは、風通しの良いロッジアで構成されており、1階中央には、教皇アレクサンデル7世(在位:1655~1667)が、建築家フランチェスコ ボッロミーニに依頼し、フォロ ロマーノのキュリア ジュリア或いは元老院から移設したブロンズの「キュリアの門」があり、大聖堂の中では、最も古い時代のものとされている。
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キュリアの門に向かって右隣りが、大聖堂への出入口で、更にその右隣りには、25年に1度の聖年にのみ開けられるブロンズの聖なる扉がある。そして、廊下の南側の突き当りには、高さ3.22メートルのローマ皇帝コンスタンティヌス1世の彫像が飾られている。もともとローマ時代の像を、彫刻家ルッジェーロ ベスカペ(~1600)が、下半身全体と台座を制作して復元したもの。
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ラテラノ大聖堂のファサードに隣接してラテラノ宮殿の東ファサードがある。現在の建物は、教皇シクストゥス5世が、1586年にラテラノ オベリスクや北翼廊のサイドファサードと共にドメニコ フォンターナに依頼したもので、ファルネーゼ宮殿に触発され再建された。その後、ラテラノ宮殿は教皇の夏の住居として再び使用され、19世紀まで行われたラテラノ大聖堂での戴冠式まで利用されている。


ラテラノ宮殿のファサードと向かい合う様に、道路の向かい側には、スカラ サンタ(聖なる階段)がある。(こちらは、ラテラノ宮殿の北側からの様子)。この階段は、ローマ総督ピラトによる裁判でキリストが死刑宣告を受けた時に上った階段とされ、後に皇帝コンスタンティヌス1世の母ヘレナが、エルサレムのピラト宮殿からローマに移送したものとされる。キリスト教徒にとっては最も神聖な場所であり、信者たちは決して足では踏まず、ひざまずいて祈りを捧げながら階段を上がって行くのである。
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今夜は、ジュゼッペ ヴェルディのバリトン ロールの最高峰のひとつ「二人のフォスカリ」を鑑賞するために、「ローマ歌劇場」にやってきた。場所は、テルミニ駅から南西方面に300メートルほどに位置している。日本ではローマ オペラ座とも呼ばれ、もともと、1880年11月に開場した「コスタンツィ劇場」が前身で、数度にわたる名称の変遷、改修工事をへて現在に至っている。


近年では、1958年にローマ市庁が、マルチェッロ ピアチェンティーニに設計を依頼し、改修・近代化が行われた。ファサード、入口、ロビーなど大規模な変更がなされている。現在の総席数は約1,600となっている。


演目の「二人のフォスカリ」は、イングランドの詩人で貴族のバイロン卿(1788~1824)が、ヴェネツィア共和国総督フランチェスコ フォスカリ(在任:1423~1457)の一生をもとに書いた作品をベースに、ヴェルディがオペラとして仕上げたもの。全三幕あり本日の公演は、リッカルド ムーティ指揮、ルカ サルシ(フランチェスコ フォスカリ)、フランチェスコ メーリ(ヤコポ フォスカリ)、そして、タチアナ セルジャン(ルクレツィア)が演じている(メッセージボード(当日プログラム))。

ストーリーは、1457年のヴェネツィア共和国ドゥカーレ宮が舞台である。総督フランチェスコ フォスカリの息子ヤコポ フォスカリが、殺人の疑いで引き立てられてくる。ヤコポは妻ルクレツィアとともに正当な裁判を要求するが、フランチェスコは十人委員会の決定は覆せないと拒絶する。その後、真犯人から自白があり、フランチェスコは、息子の無罪に喜ぶが、ルクレツィアから、既にヤコブが流刑中の船内で亡くなったと告げられる。更に十人委員会の決定により、フランチェスコは総督の地位を剥奪され、悲嘆と屈辱に耐えられず絶命してしまう。

指揮者のリッカルド ムーティは、2009年からローマ歌劇場の音楽監督となり、2011年には終身名誉理事となっている。最期に、ムーティが、舞台に登場すると、一層大きな拍手に包まれた。
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オペラ鑑賞後は、テルミニ駅近くにある「リストランテ テーマ」(Ristorante Tema)で食事をして一日を終えた。リストランテは、手ごろな値段で魚料理(お勧めはムール貝のワイン蒸しと、手長海老のクリームリゾット)が美味しいと評判のお店である。

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今日は、今朝6時55分テルミニ駅発に乗車し、午前10時7分にパドヴァ駅に到着した。パドヴァ(Padova)は、ヴェネト州にある都市で、周辺地域を含む人口約21万人の基礎自治体(コムーネ)、パドヴァ県の県都、経済・通信のハブ地である。ヴェネツィアのサンタ ルチア駅までは、東に40キロメートル(約30分)の距離である。

今夜はパドヴァ駅前のホテル(ホテル グランディタリア、Hotel Grand'Italia)を予約しているので、荷物を預けて、600メートルほど南に歩き、ブレンタ川を渡り、右岸沿いのアレーナ庭園の先にある「スクロヴェーニ礼拝堂」近くまでやってきた。

スクロヴェーニ礼拝堂には、午後1時45分から予約をしているが、まだ時間があるので、先に「エレミターニ教会」に向かう。南側に見える矩形の回廊を持つ建物が「エレミターニ市立美術館」で、その南側に隣接する鐘楼のある建物がエレミターニ教会となる。


エレミターニ教会は、1276年に、ベネチア建築の推進者として知られる建築家ジョヴァンニ デッリ エレミターニ(~1320)により、聖アウグスティヌス(聖オーガスティン)騎士団の修道院として建設された。その後、1806年まで修道院だったが、現在はパドヴァ教区教会となっている。

長い歴史のある教会は、多くの装飾品や美術品で豊かになっていたが、1944年の第二次世界大戦における英米軍による空襲で深刻な被害を受けている。中でも、ファサード、天井、後陣付近に大きな破壊を受け、特に、主祭壇の右側にある「ドット礼拝堂」と先隣りの「オヴェタリ礼拝堂」は完全に破壊されてしまう。当時、教会は軍事利用され、鉄道駅に近かったことなどが攻撃対象になった原因とも言われている。教会内部は単身廊で、船体天井で構成されているが、これは、空襲前も同じで、第二次世界大戦前に残されていた教会模型に基づいて再建されている。

主祭壇には、ヴェネツィアとパドヴァで活躍した画家ニコロ セミテコロ(~1370)による磔刑図が掲げられ、後陣左側面には、グアリエント ディ アルポ(1310~1370)によるフレスコ画(聖フィリップと聖アウグスティヌスの物語)が残されている。こちらは、19世紀以前に既に劣化が激しかったため、1880年頃に壁から剥がされ別の場所で保管され破壊を免れている。
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主祭壇前から、右先隣りに「オヴェタリ礼拝堂」がある。礼拝堂内には、初期ルネサンスを代表する画家で、パドヴァ派の「アンドレア マンテーニャ」(1431~1506)が、弱冠17才で作品に取り組み9年の歳月を費やして完成させたフレスコ画が残されている。

後陣の後壁の窓に囲まれた中央には、使徒たちが聖母を見上げる「聖母被昇天」のフレスコ画が細長いサイズで残されている。そして、向かって左側面には左右2面、上下3段に渡り「聖ヤコブの物語」が描かれている。これらのフレスコ画の大半も、1880年頃に剥がされ別の場所で保管されていたため大きな破壊は免れているが、かなり劣化している。

最上段には「聖ヤコブとヨハネの召命」、「聖ヤコブの説教」の場面があり、2段目の左側は「ヘルモゲネスの解放」(ヤコブが、魔術師ヘルモゲネスを改宗させ洗礼を授ける)で、右側は「聖ヤコブの裁き」(ヤコブは、台座の前で天蓋のある椅子に座ったヘロデ アグリッパ1世により判決を受ける)となっている。
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最下段の左側が「聖ヤコブの奇跡」(ヤコブの足元に跪く信者に手を掲げている)だが、多くが剥離して白絵で代用されている。そして右隣には「聖ヤコブの殉教」(うつぶせにされたヤコブに対し処刑人が斧を振り上げる)が描かれている。
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対となる右側面には「聖クリストフォロスの物語」が描かれているが、最上段と二段目は、マンテーニャではなく、パドヴァの画家アンスイノ ダ フォルリによる作品で、「王との別れ」「悪魔の王との出会い」「幼子キリストを船で運ぶ」「説教」が描かれているが、二段目は破壊され、ほとんどが白絵となっている。

そして、最下段は、アンドレア マンテーニャの作品になる。クリストフォロスは、キリストとの出会いの後、旅に出て、多くの異教徒をキリスト教に改宗させるが、やがて捕えられ、数々の拷問を受ける。炎も、降り注ぐ矢も彼を苛むことはできなかったが、その矢の一本が拷問を命じた王の眼に命中してしまう。結局、クリストフォロスは、首をはねられ殉教するが、クリストフォロスの血を塗った王の眼は回復し、王はキリスト教に改宗したと言われている。
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左側が「聖クリストフォロスの殉教」だが、劣化が激しく、左端の柱に立つクリストフォロスの姿は、僅かに見える右足だけになっている。上部の建物から外を眺めている王に矢が刺さる姿が描かれている。

そして、最下段の右隣は「聖クリストフォロスの遺体の移送」で、殉教後、横たわったクリストフォロスの巨体(「黄金伝説」では5メートルを超える大男だったとされる)を兵士が抱えて運ぼうとする場面が描かれている。後方から連なる建造物や人物が遠近法で表現されており、横たわるクリストフォロスも建物とリンクする様に描かれていることから、大きな足が、眼の前に迫って来る様な迫力がある。後年の大作「死せるキリスト(1480頃)」に繋がる表現方法を既に取り入れている印象がある。
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次に、予約時間が近づいてきたので、スクロヴェーニ礼拝堂に向かう。隣接するアレーナ公園は、もともと古代ローマの円形劇場(アンフィテアトルム)があった場所で、礼拝堂は、その跡地近くに、1305年、高利貸で財産を築いた一族出身のエンリコ デッリ スクロヴェーニにより建てられた。このスクロヴェーニ礼拝堂には、1305年にジョット ディ ボンドーネ(1267頃~1337)が、彼の画家としての名声が高まる一方だった30代後半に描いたフレスコ画がある。


ジョットは、イタリア・ルネサンスへの先鞭を付けた偉大な芸術家と見なされており、中でも、スクロヴェーニ礼拝堂のフレスコ画は、ジョットの代表作であり、初期ルネサンス絵画の中でも最高傑作の一つといわれている。入口は、後陣の北側にあり、多くの見学予定者が集まっている。そのジョットの代表作を見るためにこのように世界中から愛好家たちがやってくるのである。


スクロヴェーニ礼拝堂の壁面には、四面全ての壁に、上中下の三段に分割された37のフレスコ画画と、最下部に装飾画(七つの美徳と悪徳)がそれぞれ描かれている。礼拝堂は、受胎告知と聖母マリアの慈愛に捧げられ、人類の救済におけるマリアの果たす役割を祝福するものになっている。ジョットは、連作開始にあたり、南壁にある6つの窓を基準とし、反対側の北壁のスペースの配置を計算することで、全体のレイアウトを決定している。

連作は、内陣中央部の凱旋門ルネットの高いところ、父なる神が大天使ガブリエルにマリアへの受胎告知を行うように指示する場面から始まっている。そして「ヨアキムとアンナの物語」(上段、南壁)、「マリアの物語」(上段、北壁)と続き、凱旋門に戻り、「受胎告知」の場面となる。アーチ左側のガブリエルが受胎を告知すると、アーチ右側のマリアがガブリエルからのお告げを受ける配置となっている。
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続いて「キリストの物語」(中段、南壁と北壁)が始まる。再び、凱旋門に戻って、「ユダの裏切り」(ユダがキリストを裏切るためのお金を受け取る)の場面となり、下段、南壁から「最後の晩餐」の場面へと続いている。

「最後の晩餐」の先隣りの南壁の中央部に描かれるのが、キリストを処刑に追いやる裏切りの第一歩となる「ユダの接吻」で、評価が高い場面の一つとされる。キリストと光輪を失った裏切り者ユダとの厳しいアイコンタクトは、武装した群衆とも合わさり、暴力的なドラマの効果を生み出している。
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下段、北壁の最後のパネルは「聖霊降臨」(ペンテコステ)で、西壁(カウンターファサード)には「最後の審判」が描かれている。審判、天国、地獄全体を1つの場面とし、すべての人物を単一の空間に含める伝統的な手法が取られている。中でも、裁判官キリストのマンドルラのオーラから発する4筋の炎の川が流れ込む地獄の阿鼻叫喚の表現はインパクトが強い。
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ジョットと同世代の、共にフランチェスコ会の信者で友人でもあったフィレンツェ生まれの詩人ダンテ アリギエーリ(1265~1321)は、スクロヴェーニ礼拝堂のフレスコ画制作のためパドヴァに滞在していたジョットのもとを訪れている。ダンテは、1304年から1308年頃に「神曲」(地獄篇)を執筆していることから、ジョットのフレスコ画から大きな影響を受けたかもしれない。

文化財保護の観点から、控室でビデオを見ながら温度を安定させた後の見学だったため、滞在時間30分のうち、実際の見学時間は、15分から20分と短い時間だった。。写真撮影は禁止だったので、画像はウィキメディア・コモンズ (Wikimedia Commons)からお借りした。

アレーナ公園から、500メートルほど南に行ったパドヴァ大学の西側のエルベ広場北側には「パラッツォ デッラ ラジョーネ」(ラジョーネ宮)がある。このエリアは、中世の頃、市庁舎兼裁判所として、パドヴァの政治、経済の中心地で、街のシンボルとして親しまれている。もともと12世紀に着工し14世紀には、現在のポルチコのある外観になったと言われている。


内部は、アーチ型の天井が2種組み合わされた構造で、船底をひっくり返した様な形状となっている。エレミターニ教会を設計した建築家ジョヴァンニ デッリ エレミターニによるものである。1階には「ソット イル サローネ」と呼ばれる食料品店を中心とした商店街となっており、地元民の食生活を支える場として多くの人が訪れている。

夕食は、ホテル近くのリストランテを利用した。


最初に、フリッタティーネと、タコのグリルを注文した。ワインはヴェネトの赤で、コッリ エウガネイ ロッソ リゼルヴァを注文する。


次に、ニョッキを頼み、最後にデザートとしてプリンを食べ、パドヴァの一日を無事終えた。

(2013.3.16~17)
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