カズさんの旅たび

 ~歴史、文化、芸術、美食紀行。。

インドへの旅(その17)シュラーヴァスティー

2013-03-27 | インド(仏跡)(その2)
午後2時半にピプラーワーを出発、今回の目的地の最後となる八大聖地の一つシュラーヴァスティー(舎衛城)に向かう。ピプラーワーからは40キロメートルほど南下し右折して西に約120キロメートル行ったところ。出発から10分ほどで、またヒンドゥ教の祭りに出くわした。クラクションを鳴らしながら、人波を書き分けて進む。


道路沿いには出店もあり、お供え用のお菓子が並んでいる。


30分ほどで、右折して西に向かう。しばらくすると道路標識が現れた。シュラーヴァスティーまで124キロメートルと表示があり、観光バスも走っていることから予定のルートを走っているようだ。ちなみにラクナウ298キロメートルの表示は、ビハール州の隣のウッタルプラデーシュ州の州都のことで、人口280万人の大都市である。


しばらくすると、周りが木々に覆われた田舎道になった。


また、お祭りのようだ。前方から、纏(まとい)のような旗や山車などの道具を手にした集団は行進して来る。度々、速度を落とし、のろのろ運転が続く。


時刻は午後4時半を過ぎ、日が暮れてきた。しばらく標識も現れないことから間違った道路を走行しているのではと不安になった。


建物もない田舎道を進んで行くと、夕日が左側から差し込み眩しい時間が続く。しかし、そもそも西に向かっているはずなのに夕日が左側に見え続けるのはおかしい。道を間違っているのではないか。。すると、久しぶりに道路標識が見えてきた。標識には、トゥルシプルまで10キロメートルと書かれており、やはり間違っている。トゥルシプルはバルランプルの手前にあるウトラウラから北に30キロメートル行った場所である。


ヴィージェイは、地元民に尋ねるなどして修正して運転を続けたが、午後5時を過ぎたころ前の車のスピードが遅くなった。追い抜こうとしたが、渋滞しており、その後、停車して全く動かなくなった。車を下りて様子を見に行くと、100メートルほど先で警官が市内の祭りのため道路封鎖をしている。今日は何やらヒンドゥー教の際日にでもあたっているのだろうか。それにしても、100メートル先が先頭なのは封鎖され時間が経過していないということだ。


1時間たったが、車はまったく動かない。午後8時近くになった。前後の車の様子を見に行くと、観光バスも渋滞の列にいた。時折、後ろから反対車線を暴走して来る車があるが、事情が分かるとじりじりと後退して行く。お腹が減ったので手持ちの果物やお菓子を食べながら、残っていたわずかのウイスキーを飲む。すると、外に出ていたヴィージェイが戻ってきて午後8時半に通行止めは解除するらしいと言った。時間になると、けたたましく周りからエンジン音が聞こえる。ようやく動き出すのか、少し進んだ。


反対車線に車が徐々に現れ始め、こちらも少しづつ進み封鎖ゲートが目の前に現れ始めた。時間は午後9時である。しかし、また動かなくなった。


午後10時を過ぎ、ようやく動いた。しかし警官は、町に向かう直線道路ではなく、左折するよう誘導している。迂回道路なのか大きく右に曲がりながらしばらく走ると街灯が増え始めた。お祭りが終わった影響か、あちらこちらにゴミが散乱している。どうやらこの町がシュラーヴァスティーの起点となるバルランプルのようだ。ホテルを探し始め3階建ての建物の前で車を停めた。荷物を持って外に出るが、看板には英語の案内はない。


3階に上ると通路側にドアが並んでいる。顎鬚が長く伸びた老人が現れて居室のドアを開ける。居室内は、薄明かりでも汚いのが分かる。以前もそうだったが、こういうホテルは水周りが特に酷い。後ろを振りむきヴィージェイを見ると、この時間で他にホテルはないと言う。結局この部屋に決め、チェックインをして、車に乗り食事に出かける。ワインショップを探すが、営業時間は終わっていた。
午後11時を過ぎているので、急がないと屋台も閉まりそうだ。。


慌てて目の前の屋台に入る。食事が出来るか聞くとマトン・カレーならあるという。やたら肉が硬いが、味はまあまあである。チャパティは美味しくなく食べることができなかった。大変疲れた一日であった。。


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バルランプルのホテルで朝を迎える。部屋を出ると3階は半屋上になっており、その屋上先にある洗面場で顔を洗う。


強烈な異臭が鼻を突くので、ホテルの外を眺めると、昨夜の祭りで出たゴミを燃やしているのか、あちらこちらで煙が立ち上っている。ビニール系が燃える強烈な臭いは、ダイオキシンが大量に発生しているのだろうが、日本では考えられない。。。


午前8時半にチェックアウトして、屋台でチャイを頂く。通りは、車の往来が激しく砂埃が舞い上がる上に、ゴミの燃える臭いで頭が痛くなる。


急いで車に乗り込み、シュラーヴァスティーに向かう。最初にバルランプル駅を右側に見ながら踏み切りを越える。


踏切の先からは、北西に向けて延びる直線道路「バーライチ・バルランプル通り」を16キロメートルほど進む。ところで、シュラーヴァスティーは、かつてこの地を治めた伝説の王シュラヴァスタに因んで名付けられた。その後、紀元前6世紀から5世紀には十六大国の一つ「コーサラ国」の首都として栄え、最盛期には90万人もの人口を抱えていたと言われている。ちなみに、シュラーヴァスティーは漢訳で「舎衛城」と呼ばれている。


コーサラ国は、南北の2つの国(南のコーサラ国、北のシュラーヴァスティー国)から成り立っていた。現在は「祇園精舎」の遺跡がある南側を「サヘート」とし、舎衛城のあった北側を「マヘート」として、2つの遺跡群をまとめて「サヘート・マヘート」の呼称を使っている。

これから、北側の舎衛城のあったマヘート地区を見学することとする。「バーライチ・バルランプル通り」沿いに各国の仏教寺院が立ち並び始めた先の路地を右折し「マヘート通り」に入ると、すぐ左側が、祇園精舎の遺跡のあるサヘート地区で、そのまま通りを1キロメートルほど北上すると、前方に山羊が横断しているのが見えた。


その山羊が横断していた場所が、マヘート地区の入口になる。そして「マヘート通り」沿い左右の小高い砂山の盛り上がりが、舎衛城の東西に延びていた城壁の址である。


右側の城壁址に上ってみると、道路のために城壁が切断されていることが分かる。コーサラ国については、詳しい記録は乏しいが、仏陀の熱心な信者だったプラセーナジット王(波斯匿王)の治世が最も繁栄していたらしい。しかし、次のヴィドゥーダバ王(ルリ、或いは毘瑠璃王)になり遠くないころに近郊の十六大国の一つ「マガダ国」に滅ぼされたという。


城壁址から、城内に入った右側の立て看板を見ると、舎衛城は北東側に面して内側に湾曲した半円形の、ふっくらした茄の様な形をしている。直径は2キロメートルで周囲は5.2キロメートルあり、城壁には各方面への4か所の城門が築かれていた。ただし、現在までに舎衛城内で発掘された遺構は、すぐ先の通り沿い右側に建つジャイナ教寺院(ショブナート寺院)を含めた3か所である。
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ショブナート寺院(Shobhnath shrine)の遺構へは「マヘート通り」から遺跡に沿って反対側に回り込んだ東側の階段から入場する。この寺院は、ジャイナ教の救済者・祖師24人のティールタンカラ(最後が開祖マハーヴィーラ)内、3番目のシャンバヴァ(サンババナタ)の生誕地とされている。


遺構は綺麗に修復され、自由に上り下りできるが、中央部後方の主殿(祠堂)には本尊がなく、上部が崩落したのか角材でドーム屋根が支えられている。


主殿(祠堂)に向かって左側を眺めると、通りを挟んで左右に草の盛り上がった舎衛城の城壁址が続いているのが見える。
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次に、再び「マヘート通り」に戻り、舎衛城の中心方向に進むと、2か所の遺構が、通りの左側と通りが大きくカーブした先の右側に見えてきた。


最初に通り右側の建造物から見学する。通りからはやや奥に建っている。ちょうど逆光で眩しいので、反対側まで歩いて行ってみる。
この遺構は、スダッタ長者(須達多、或いは給孤独、アナタピンディカ)の屋敷址に建てられたストゥーパ(仏塔)で「カッチ・クティー」と呼ばれている。


スダッタ長者とは、プラセーナジット王(波斯匿王)の時代、身寄りのない者を憐れんで食事等を給する活動をしていた富豪の長者のことで、そのスダッタはラージャグリハ(王舎城)に商用で訪問していた際、仏陀の説法を聞いて、いたく感動し説法のための精舎を寄進しようと思い立ち土地を探し始めた。そして見つかった土地が、サヘート地区にあった王の息子ジェータ(祇陀、或いは祇多)太子の所有する森林であった。

ジェータ太子は、その土地の譲渡を望むスダッタに対して、金貨を敷き詰めた場所を譲ってやろうと言うと、スダッタは家財を投げ打ち、本当に金貨を敷き詰め始めたため、太子は驚いてそのまま土地を譲渡し自らも精舎建設を援助したという。この精舎が、祇園精舎(正式名は祇樹給孤独園精舎という)という訳である。


そのスダッタ長者の屋敷址に建てられた仏塔は巨大な空母を思わせる形をしており、中央に上り下りできる階段がある。ちょうど僧侶が立っているので、仏塔の大きさもわかりやすい。階段を上り僧侶に一揖して頂部まで行く。


カッチ・クティーの頂部から北東側を望むと川が見える。仏陀の時代は、この場所にウエストラプティ川が流れていたため、舎衛城の北東側は自然の要害となっていた。現在は、時代の流れとともに3キロメートルほど北に移動しており、西から東に向けて蛇行して流れている(ネパール中西部地域からインドのウッタル・プラデーシュ州を流れ、ガンジス川に合流する支流で、仏伝ではアチラヴァティー川と呼ばれていた。)。しかし、雨季に増水し氾濫すると、この場所に水が流れ込み、本流から切り離され池となる。


観光客(巡礼者)が階段を上ってきたので、次に、通りの向こうに見える遺跡に行ってみる。


もう一つの遺構は「マヘート通り」に面して建っている。こちらはアングリマーラの仏塔で「パッキ・クティー」と呼ばれている。アングリマーラとは、本名をアヒンサと言い、人々を殺しては、指を取って首飾りとしていた。その後仏陀に会ってその行いを後悔し、仏陀に帰依する。その場所に建てられたストゥーパであるといわれる。


「パッキ・クティー」も階段があり上ることができる。頂部から周りを眺めると「パッキ・クティー」の敷地を示すブロック塀が取り囲み、遠景に雑木林が広がっている。左側から延びる「マヘート通り」は、1.3キロメートルほど先で祇園精舎の遺跡のあるサヘート地区に到達する。


次に、視線を右方向に写し、西側を眺めると、やはり敷地を示すブロック塀の向こうは、雑木林が広がっている、あぜ道が続く200メートルほど前方に、ひと際大きな樹に囲まれた遺跡らしき構造物と人々が集まっている。特に立て看板などもなく、観光客や巡礼者も訪れる場所ではないようだ。地元民の祈りの場なのか、発掘途中の遺構なのかわからない。

玄奘三蔵によると、プラセーナジット王(波斯匿王)の宮殿址があり、その東側に王が仏陀に敬意を表し建立した「法の殿堂」の址があったことを記録している。「パッキ・クティー」が「法の殿堂」であるとの研究者の説もあることから、その説に従うと、王の宮殿址なのかもしれない。それにしても、この場所に、栄華を誇った王国が存在したとは思えない風景である。
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「パッキ・クティー」の基壇は長方形の建物だったことを示しているが、その後、時代とともに檀上に積み上げられ現在の仏塔の様な建造物となった。ストゥーパの中心部に空洞があるのは、大雨時の予防措置として排水溝が設けられたためである。


「パッキ・クティー」の頂部に立ち、通り向こうの「カッチ・クティー」を眺めてみる。左側から「カッチ・クティー」の背後に、やや起伏のある緑が続いているが、ウエストラプティ川側に設置された城壁の址なのだろうか。。


これから行く祇園精舎の遺跡のあるサヘート地区もそうだが、「サヘート・マヘート」の両遺跡は19世紀半、イギリス人の考古学者アレクサンダー・カニンガムによって発見された。その後、1986年に日本からも関西大学が現地政府と協力し、日印学術調査隊という形で発掘に参加している。2000年以降にも大々的な調査が行われているが、今後も重要な遺構が発掘されるのかもしれない。

「パッキ・クティー」から降りる。中央の空洞は遺構の外まで解放されて通路の様になっている。


ウエストラプティ川の方向に行ってみると、池の様に所々水がたまっている。周りには構造物などは見当たらない。


城内方面に振り返ると、城壁址なのか緑の起伏が見られるが特に見るべきものはないようだ。


次に、「祇園精舎」の見学に向かうため、「マヘート通り」を戻ってジャイナ教寺院(ショブナート寺院)を過ぎ、舎衛城の城壁から城外に出ると、右側に巨大なストゥーパが見え始めた。


「祇園精舎」の北側の道を右折し直進すると、鉄柵があり行き止まりになる。こちらはタイ寺院の入口で敷地内には、巨大な黄金の仏陀像が鎮座している


再び、もとの「マヘート通り」に戻ると、すぐ先に車やバスが停車している。右側に続く赤い塀の内側が、「祇園精舎」の遺跡のあるサヘート地区になる。


バスが停車していた所に遺跡への出入り口があり、窓口でチケット(100ルピー)を購入して入場する。


入口から少し南側の鉄柵付近には多くの猿が集まっている。周りにビニール袋が散乱しているので、観光客が投げ捨てたゴミをあさっているのかもしれない。


入場すると、芝生で覆われた遺跡公園になっておりプロムナードは北に延びている。すぐ左側に現れる遺構「草庵(寺院11)」には、基壇を椅子に僧侶が瞑想している。


その草庵へ向かうには、一旦遺構を通り過ぎた先でプロムナードを左折する。突き当たりには「大僧院(寺院&修道院19)」の遺構があり、手前左側に「草庵(寺院11)」への通路が延びている。その草庵に向かうと入口北側には前殿があり、その奥に回廊のある主殿を挟んで、左右同じ造りのやや複雑な形状をした小部屋(僧室)がある。東南側の基壇から僧室越しに「大僧院」側を眺めて見ると、僧室の回廊側の壁面には、仏龕の様な穴が開いている。


西隣にも「草庵(寺院12)」があるが、こちらはシンプルな形状で、入口を入るとすぐに回廊のある主殿があり、左右に長方形の小部屋(僧室)がある。

西側プロムナードの突き当たりには一辺30メートルほどの矩形の「大僧院(寺院&修道院19)」址がある。入口から入った奥に、一段高い主殿らしき空間がある。その主殿から東側の出入り口側を眺めると、手前に前殿らしき区画があり、その先が広い中庭で、中央やや南東位置に仏塔址がある。中庭周囲には20数室程度に仕切られた小部屋(僧室)がある。
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再び、メイン・プロムナードに戻り、すぐ先の三叉路を北西方面に50メートルほど行った左側(南)には、仏塔(ストゥーパ)が8塔建ち並んでおり、頂部を花弁で荘厳されている。


メイン・プロムナードを更に進むと、すぐ左側に広い階段の先に舞台の様な踏面(ふみづら)がある遺構がある。こちらは仏教の儀式で重要な役割を果たす「戒壇(仏塔5)」であり、出家者はこの場で「授戒」を受けることで僧籍を得ていた。


ちなみに日本では、鑑真(688~763)が東大寺に「戒壇」を築いた後、筑紫の大宰府(観世音寺)、栃木県の下野市(下野薬師寺)に築かれ(天下の三戒壇)、その後、最澄(766~822)により延暦寺に大乗戒壇が築かれている。

「戒壇」の北側にも、仏塔が点在している。直径5メートルはありそうな大きな「仏塔18」は、1世紀、クシャーナ朝時代の僧侶の名前が刻まれた舎利容器が見つかった。
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メイン・プロムナードを更に進むと、遺跡公園の中央付近に「菩提樹」が聳えているのが見える。この菩提樹は、釈迦の十大弟子の一人(多聞第一)阿難(アーナンダ)が仏陀の許可を得て、祇園精舎で修行する弟子たちの支えとして「ブッダ・ガヤーの菩提樹」から移植したものと言われている。


菩提樹は10メートルを大きく越える高さがあり、数本の木柱により支えられている。木には数匹の猿がぶら下がっている。周りは、金柵で囲まれており、所狭しとタルチョーが結ばれている。ドネーションを払うと金柵内に入り、根元前まで近づくことができる。


菩提樹の根元の東側には、正方形状で1.5メートルほどの高さの仏塔が2つ並んでおり、仏塔内部には舎利容器の保管場所があったようだ。更に東側には金細工師の工房があった。
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菩提樹を過ぎると、メイン・プロムナードは更に北に延びており「祇園精舎」の中心部に到着する。


左右の遺構はメイン・プロムナードをまたいで続いている。右側の男性は、煉瓦の隙間の煉瓦を交換するのか、かぎ針の様な道具で、接着部分の取り除く作業をしている。左側には、小さな円形仏塔がある。
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円形仏塔の先隣りには、正方形の基壇「寺院(寺院3)」の址がある。階段を上ると中央に正方形の台があり周りに回廊がある。奥には、主殿らしき小部屋が隣接している。


正方形の寺院の右隣には南隣の仏塔より一回り大きな仏塔址がある。メイン・プロムナードを少し進み、振り返るように「寺院(寺院3)」を眺めると、長方形の敷地が続いていることから、南北に長い大きな寺院だったのだろう。
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その先にも小さな遺構が点在し、その先の一段高い遺構は、仏陀が滞在した「香堂(ガンダクティー)(寺院2)」址で、その先の「大寺院」址へと続く。
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メイン・プロムナードをまたいで東側には「説法堂」址があり、多くの巡礼の参拝者が訪れている。
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「香堂(ガンダクティー)(寺院2)」址は、25メートル×35メートルほどの長方形の敷地の中に建っている。正面入口は、やや全面に張り出し、左右には献灯台が置かれている。


入口から階段を上った二段目には、六面体の煉瓦ブロックの上に金箔の小さな仏塔台がある。仏塔台の左右はテラスになっており「香堂(ガンダクティー)」を周回できる。先ほどまで、多くの巡礼者が参拝に訪れていたため、多くの僧侶たちも集まっていた。僧侶たちはテラスで参拝者から受け取ったお布施を配分していた。


その後、僧侶たちは、菩提樹の方向に移動して誰もいなくなったので、仏塔台の前で合掌し「香堂(ガンダクティー)」の周りを右繞してみる。


その後、この最も重要な場所とされている香堂へ、靴を脱いで上がってみた。頂部は、正方形の空間になっており、その先の最も上座に一人が座れるほどの正方形の空間がある。


メイン・プロムナードの東側の木々の下から「香堂(ガンダクティー)」を眺めてみる。木々が覆い茂った中に小さな遺構が点在している。井戸の址なども見られる。この辺りは、仏陀が良く散策していた場所と伝えられている。
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すぐ北側には、「説法堂」のある遺構がある。複雑な区画になった遺跡だが、南北に長い長方形と東側に正方形の敷地が隣接している。長方形の敷地中央には矩形の説法台がある。説法台の南側には、聴衆のためのスペースがある。長方形の「説法堂」の北東角から説法台を眺めると、対角線上に「香堂(ガンダクティー)」の様子も見渡せる。
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「説法台」は幾層にも積み上げられたひな壇の上にあり、周囲には金箔が張り巡らされ、頂部には花弁で飾られている。仏陀はこの台の上に坐し、弟子たちを前に説法を行ったとされる。説法は、太陽の照り付ける日中は避け、涼しくなる夕方から行われた。説法は、深夜に及び、時には早朝まで続くこともあったと言う。ちなみに「阿弥陀経」などの経典はここで説かれたとされる。


北側の一番奥の「大僧院」址へは、メイン・プロムナードを歩き、建物に突き当たると、右側に回り込んだ東側にある階段を上って行く。大僧院は、一辺40~50メートルの正方形状の基壇で、入口には玄関があり、低い階段を上ると、回廊があり40ほどの小部屋(僧室)が取り囲んでいる。更に上の段には、芝生の回廊が2段続き、その上が正方形の頂部になり中央部に心柱の址のような大きな穴が開いている。


ちなみに、法顕が祇園精舎を訪れた5世紀には、精舎は既に寂れていたが、七層の精舎が建っていたとの記録があるが、この「大僧院」だったのだろうか。。250年後に訪れた玄奘三蔵の時代には、建物は朽ちて遺構のみだったという。

この大僧院を含め多くの僧院・寺院・草庵のある「祇園精舎」には、多くの僧侶が集まり修行に明け暮れたが、それは雨季に限られていた。インドの季節は、乾季(概ね11月~3月)、暑季(概ね4~5月)、雨季(概ね6~10月)と3つに分かれており、雨季以外には、僧侶は個々に遊行しながら修行することが基本であった。雨季にのみ特定の僧院等に滞在して集団で修行を行った理由として、大雨が続き水害が多発する一方、数多くの小動物が活動する時期でもあり無用な殺生を防ぐための措置だったとされる。この雨季における集団修行を「安居」と言う。
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仏陀の成道後から入滅までに行われた「安居」は計45回に上るが、その内の19回が、この「祇園精舎」で行われ、6回は舎衛城東側にあった「鹿子母講堂」(長者ミガーラの夫人ヴィサーカーが建立)で行われた。当時900人に近い僧侶が、それぞれの経蔵毎に分かれて修行していたと言われている。

大僧院から離れプロムナードを西に進むと、仏塔の址があり、その更に西側に沐浴場の址がある。仏塔を過ぎ、沐浴場の際まで下りて反対側まで歩き、遺跡公園方面を眺めてみたがこの時間、他にこの場所まで足を延ばす人はいなかった。水は緑色に濁っており、蛙の楽園となっていた


沐浴場の南側には、一面マンゴーの木が茂っており、仏陀の時代と変わらないであろう風景が続いている。散策していて気持ちがいい。遺跡公園には1時間半ほどいただろうか、時計を見ると午前11時半になっていた。

(2012.11.25~26)
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