カズさんの旅たび

 ~歴史、文化、芸術、美食紀行。。

インドへの旅(その6)スジャータ~前正覚山

2013-03-13 | インド(仏跡)(その1)
このブッダ・ガヤーのマハーボディー寺院南側にある蓮池をムチャリンダ池と言うが、ここから南に2、3キロメートル下ったナイランジャラー河(尼連禅河)沿いに、ムチャリンダと名付けられた村がある。
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現地では、そこにある池こそがオリジナルの蓮池(ムチャリンダ池)であると言われている。ぜひとも見学したいと思い、マハーボディー寺院の見学後に車で向かった。狭い道路の両側には住宅が立ち並んでいる。
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数人の地元民に道を尋ねながら進んでいくと、畑の畔道が現れ左手に樹木で覆いかぶさった池が現れた。周りには、牛が数頭座り込んでいた。
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周りはゴミだらけである。しかし、この乾季にも関わらず、池の水はなみなみとしている。マハーボディー寺院の蓮池とこちらの池のどちらが、本物であるかはもちろん誰もわからない。ただし、ここの池には建造物がまったくないため、ゴミを取り除くと仏陀が生きていた時代の風景に近いのは間違いない。
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その後、スジャータ村に向かった。スジャータ村は、ブッダ・ガヤーから東に直線距離にして2キロメートル弱のところに位置している。車で行く場合は、マハーボディー寺院から一旦500メートルほど北に行き、右折してナイランジャラー河に架かる橋を渡る。
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橋を渡ったところが、スジャータ村になる。スジャータ村とブッダ・ガヤーとの間に流れるナイランジャラー河は、現在乾季に当たるため雑草で覆われている。ところが雨季になると、一面大河になり、長雨の際は洪水に見舞われ、この橋も利用できなくなる。
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スジャータ村のさらに東側には、マハーナディー河が流れており、北に5キロメートルほどいったところで、2本の河は合流して1つの河(パルク河)になり、ガヤー方面に流れていく。

スジャータとは、シッダールタ(仏陀)が悟りを得る直前に乳がゆを供養しシッダールタの命を救ったという娘である。ここにスジャータ寺がある。
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真新しい祠があり、中に仏陀像と乳がゆを差し出すスジャータ像が祀られている。申し訳ないがあまり有難さを感じにくい像である。
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右側に菩提樹の木があり回り込むとそばに扉が付いた小さな祠がある。
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こちらの祠の中は、苦行により痩せ細った姿のシッダールタ像が祀られている。
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菩提樹の根元に祀られたストゥーパの浮彫は素晴らしい。多くの仏陀坐像が彫られている。
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祠のあるスジャータ寺の近くには白亜の寺院がある。
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周りには、子供たちが数人遊んでいる。寺を出ると、10ルビー欲しいとすごい勢いで近付いてくる。無視して車で立ち去るが、いつまでも車を追いかけてくる。なんとも心が痛くなる思いであった。
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スジャータ寺から車で5分ほど南東方面に下ったマハーナディー河沿いに、ウルヴェーラー村がある。ここには、苦行林があったと言われる。仏陀が6年間におよぶ苦行を実践した場所はここなのだろうか。現在は、ヒンドゥー教の小さな寺院があり、入口には仏陀の座像がある。
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何をするわけでもなく、住民が数人座っている。
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我々が近付くと、当然のように近付いてきて、しゃべりかけてくるが、全く無視をとおし、一通り見学して、数分で退散した。退散途中にも、女性数人が手を出しながら、布施を要求してきた。退散しながら、ヒンドゥー教をあらためて眺めると、周りは林で覆われており、苦行林の場所はここなのだという気になり来れてよかったと思った。
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ナイランジャラー河の方面を眺めると、数人がマハーボディー寺院の方角に歩いているのが見えた。乾季ならではの風景だ。
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その後、スジャータの徳をたたえて作られたというストゥーパに向かった。思ったより巨大なストゥーパである。ストゥーパの後方(北東方面)には、小さく山が見える。
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この山は、前正覚山(プラークボディー山)と言う。プラークとは(前)の意でボディーとは(さとり・正覚)を意味する。シッダールタは、苦行林で6年間に渡る修行を行ったが、悟りを開けずにいた。シッダールタは、この山で悟りを開こうと向かい、山中の石室で足を組んで座ったという。
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子供たちがストゥーパの上で遊んでいた。
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次に、北東方面に見える前正覚山に向かうことにした。ブッダ・ガヤーからは北東に直線距離で6キロメートルほどの距離に位置する。スジャータ村からは、東に流れるマハーナディー河を越えることになるが、直接の橋は架けられていないので、一旦、渡ったナイランジャラー河を再び渡り、ガヤー方面(北)に向けて進み、先の大橋を渡って行くことになる。ガヤー方面に車を走らせていると、ナイランジャラー河の向こうに再び前正覚山が見えてきた。
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前正覚山とは逆に左前方に山が見えてきた。こちらはガヤー・シーサー(象頭山)である。仏陀は、この山頂で火の献供を行っていた行者カーシャパ3兄弟とその弟子1,000人を前に、「燃えているのは、儀式の火ではなく、実は自らの欲望である。火の献供を実行したところで、自らを清めたり欲望を離れることができない」と説法を行った。
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マハーナディー河はパルク河に合流する。北上するとガヤー市が近づいてきた。時刻は13時半になった。交差点で右折したところでドライバーのヴィージェイが食事にしようと、車を停めたが屋台はハエだらけでまったく食欲がわかなかった。私はバナナで済ませ、その後パルク河を渡り前正覚山に向かった。
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途中、道路上に犬の死骸があった。まだはねられてそんなに時間がたっていないようだ。ハイウェイ上でも2度遭遇したので3匹目である。しばらく走ると「プラークボディーは右」との看板が見えてきた。
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路地を右折して進む。道路は舗装されていない悪路だ。しばらく進むとようやく舗装道路になり左手に前正覚山が見えてきた。
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2、3キロメートル進んだろうか。登山道が見えてきた。
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登山道は舗装されているので快適である。周りには、土産物を売る人や物乞いも多く座っている。以外に標高差は高くないのかあっというまに、山の中腹まで来た。目の前にチベットの寺院が現れた。
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右手に目をやると、巨大な岩が覆いかぶさっており、入口らしきものが見える。
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近づいてみる。この石室は留影窟(ドンゲシュワリー)と呼ばれている。前正覚山で悟りを開こうとシッダールタはこの石室で足を組んで座ったが、その時、浄居天が「ここは悟りを開くところではないので、苦行した所から遠くないピッパラ樹の下の金剛座で悟りを開くように」と勧めた。一方、石室内にいた竜は、立ち去ろうとしていたシッダールタを引き留めたが、シッダールタは竜の願いをかなえるために、自らの影を残して去ったという。
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中に入ってみると、洞窟内には、苦行像が祀られていた。右手にはヒンドゥー神と思しき像もあった。合掌、礼拝して退出した。
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山頂には、アショーカ王が建てたといわれる7つのストゥーパがあると聞いたので、上ろうと思い周りを見渡すが道がない。留影窟そばの地元民に聞くと7つではない、6つだと言い、木々が茂るけもの道を指差し、そこを上れという。指をさす方向には猿が数匹こちらを見つめていた。彼は案内が必要かと聞いてきたが、煩わしいので私は不要だと答えて、そのけもの道を上って行った。
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けもの道を上ると多い茂っていた木々はすぐになくなり、その後石ころだらけの崖となり道がよくわからなくなった。結局ロッククライミングのように、岩に手を添えて道なき道を上って行く。
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やがて、頂上が近いのか、広い尾根道が現れ、チベット旗がなびいていた。ストゥーパはどこにあるのか分からず探していると、目の前に3メートルほどの高さの小山があり一面草が多い茂っているのが見えた。
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小山に上って気が付いた。あちこちに小石が転がっていると思いきや、よく見ると、小石ではなくレンガのかけらであった。この小山はレンガが積まれたストゥーパだったのだ。
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ストゥーパ群はどこも崩壊著しく保存のための活動はなされていないようだ。巡礼者や観光客がここまで来ないことも理由の一つにあるのだろう。結局、ストゥーパは、5つ確認できたが、正確な数までは確認できなかった。
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前正覚山は、ブッダ・ガヤーから見る風景と、山頂からの風景とではまったく違う。山頂に立つとわかるのだが、この山は、北東方面から南西(ブッダ・ガヤー方面)方面へと延びる尾根になっている。この尾根は途切れながらも、これから向かう八大聖地の一つ、ラージギルの五山方面に続いている。
しばらく山頂からの景色に浸った後下山した。途中この崖のようなけもの道に牛が2頭歩いていた。約1時間の見学であった。
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ホテル近くに戻ったが、まだ16時だったので、昨日に引き続き、各国の寺院を見学することにした。17時から日本寺で座禅を組めると聞いたので向かう。
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読経をする僧侶は、若い女性であった。30分読経があり30分座禅する。参加者は5名だった。日本寺はメイン道路から離れているせいか、静かで心が落ち着いた。日本に戻った気分になった。
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18時に座禅は終わりホテルに戻った。その後は昨夜と同様にビールを飲んでターリーを食べて寝た。
(2012.11.20)
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インドへの旅(その5)ブッダ・ガヤー

2013-03-13 | インド(仏跡)(その1)
インドは、仏教発祥の地であり、開祖である仏陀の活躍した舞台は、ガンジス川の中流域を中心に、およそ東西400キロメートル、南北300キロメートル、インドのビハール州とウッタル・プラデーシュ州、インド国境と接するネパールにまたがっている。
後世の人々は、仏陀の誕生から入滅までの仏教における重要な地を四大聖地、八大聖地と名付け、仏教を信仰する多くの巡礼者が訪れてきた。
今回、八大聖地を列車とバスで巡るつもりで計画してきたが、現地の交通事情が予想以上に悪く、全て自力で巡るのは日程的にかなり難しいことがわかった。検討した結果、10日間、車をチャーターして巡ることにした。運転手はカウシャーンビーに行った際のヴィージェイにお願いした。目的地は次の地を予定している。
ブッダ・ガヤー(※)、ラージギール(※)、ナーランダー、パトナ、ヴァイシャーリー(※)、ケッサリア、クシーナガル(※)、ルンビニー(※)、ティラウラコット、ピプラーワー、シュラーヴァスティー(祇園精舎)(※)
(※)は8大聖地。
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最初に最も近いブッダ・ガヤーから訪れることとした。ブッダ・ガヤーは、ビハール州のガヤー市の南方にあり、仏陀が悟りを開いた地として八大聖地の内、最高の聖地とされている。
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バナーラスから近いとはいえ、ブッダ・ガヤーまでは約250キロメートルの距離だ。カウシャーンビーと逆に東にハイウェイ(AH1)を230キロメートル行き、北に20キロメートル一般道を走行する。インドの道路事情を考えると、決して近いとは言えない。お世話になる車は、タタ自動車「インディゴeCS」、ボディは白、1.4リッターのディーゼルエンジンを搭載している。
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今回チャーターした旅行会社のボスは、何としても10日後には、バナーラスに戻って来いと言う。バナーラス最大のプジャーの祭りがあるのが理由らしい。正直、祭りにはあまり興味はなかったが、ともかく、この日程で、朝9時にバナーラスを出発した。ハイウェイに乗ると料金所が現れた。しばらく走行すると再び料金所があり、そこで料金を払う。その後は料金所は現れなかった。
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途中ハイウェイ沿いのレストランで昼食とし、ターリー(ノンべジ)を食べる。100ルビー。ビールがないのが残念である。ちなみに、インドの場合、レストランでオーダーする際、まず最初にノンベジタブルかベジタブルかを聞かれる。
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カウシャーンビー方面(西側)とは異なり、東に向かうハイウェイでは、多少の歩行者はいたが、逆走車や横断者などには遭遇しなかった。ハイウェイを降りて一般道を走行すると、前方のような無茶乗りする人々の光景などが見られた。
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14時過ぎにブッダ・ガヤーのホテルに着いた。多少時間がかかった印象だが、運転手のヴィージェイは、予定どおりだという。カウシャーンビーと違い、定番のコースらしく、頻繁に観光客を連れてくるようだ。ホテルは、ブッダ・ガヤーの中心であるマハーボディー寺院から西方向に直線距離で1キロメートルほど行ったところである。
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地図を見ると、考古学博物館がホテルから300メートルほどの距離にあるので行ってみることにした。すると、ヴィージェイは、車で送っていくという。このあたりは、治安が悪いらしく、特に日本人は多額の寄付を強要されたり、犯罪にまきこまれたりするという。それではと車で送ってもらうが、もちろんあっという間である。帰りも迎えに来ると言うが、見学時間も読めないし煩わしいので、声をかけられても、無視するようにとのヴィージェイ忠告を守ることで、歩くことにする。
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入館料金は、10ルビーと安いが展示物は少ない。撮影は禁止であった。この博物館のウリはマハーボディー寺院にあった紀元前1世紀頃の欄楯(らんじゅん)である。現在のマハーボディー寺院の欄楯は、一部を除きレプリカである。30分ほど見学したが、後になって思い起こすと、マハーボディー寺院の見学後に再度訪れておくとより印象深いものになったかもしれない。

その後、ブータン寺、チベット寺院、印度山日本寺などを見学して、
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マハーボディー寺院に向かう。近くに車を止めて、歩行者専用道路を歩いていく。
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さすがに世界中から仏教徒が訪れる大聖地である。この時間でもかなり混雑している。2002年には世界遺産にも登録されている。靴を預けて入場すると、正面にマハーボディー寺院が見える。高さ52メートルの方錐形で高々とそびえているが、階段の上から眺めているせいか、あまり威圧感は感じない。
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ライトアップされたマハーボディー寺院は幻想的である。しかし、周りの欄楯や大塔の浮彫などはよく見えない。再度翌朝来ることにし、30分程見学して19時ごろホテルに戻った。
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ブッダ・ガヤーは聖地であるため、レストランやホテルではアルコールの提供がされていない。結局、最寄の酒屋でビールを3本(230ルビー)買う。酒屋には、鉄格子があり、手を差し入れて購入する。。ビールは、外から見えないように黒のビニール袋に入れてくれるが、素早くバッグに忍ばせて、ホテル客室内で2人で祝杯をあげる。。
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インドではポピュラーな銘柄のキングフィッシャー・ストロングである。アルコール度数が8%と高いため飲み甲斐がある。すっかり出来上がって夕食に向かう。インド人向けレストランで食べることにした。ブッダ・ガヤーは、観光地のため物価が高いため、多くのガイドはそこで食事を済ますそうだ。近くのホテルのレセプションでチケットを買い、そのホテルの裏のレストラン(というよりほとんど小屋)に向かう。
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怪しい雰囲気であり、不安を覚えたが、皆が食べているターリーを食べる。しかし、これが美味しかった。うまいうまいと言うと、周りで食事をしていたインド人が皆そうだろうと言う顔で笑っていた。値段は30ルビーという安さである。
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翌朝、10時に再度マハーボディー寺院に訪れると、既に巡礼者や観光客でいっぱいである。昨日同様に、靴を預け、階段を下りて大菩提寺の境内に向かう。
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階段下の両脇にストゥーパが並んでいる。ストゥーパには、仏像が細かい浮彫がなされている。
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目の前にトラーナ門をくぐり大塔に向かう。今日は快晴で気持ちが良い。じっくり見学できそうだ。
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右手にも多くのストゥーパが並んでいる。ストゥーパの奥には、巡礼者や僧侶が経を唱えていた。
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参道の左側には仏足跡と小さなブッダパダ寺院がある。
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最初に大塔内の仏陀坐像像にお参りする。正面入口には、多くの警備兵が目を光らせており物々しい雰囲気である。
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この坐像は降魔成道像で11世紀の石仏と言われている。大塔は二層構造になっており、一階の黄金の降魔成道像と二階には立像があるはずだが、二階には登れないようだ。塔内は狭い上、多くの人で込み合っておりとても長居できない。
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次に大塔の周りを巡る。
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仏像はもちろん周りの浮彫の細かさが見事である。
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昨夜は良く見えなかったが大塔外壁は驚くほど細かい彫刻がなされている。玄奘三蔵(602~664)がこのブッダ・ガヤーに訪れた際、「菩提樹があり東に精舎がある。高さ160~170尺、下の基壇の広さが20余歩ある。何層にもなっている龕には、金像が入って四方の壁には珍しい彫刻がされている」と記録している。高さも、珍しい彫刻表現も、現在の大塔の姿と酷似していたことがわかる。
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大塔頂上の傘竿部分の浮彫も細かい。
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ヴィージェイがインド人僧侶と話しをしていたので近づくと、僧侶は日本に何度も訪れていると日本語で話し始めた。多くの巡礼者や観光客がブッダ・ガヤーに訪れるが、ヴィージェイのように勉強していないガイドが多いと嘆いていた。僧侶は、私に対してガイドし始めた。煩わしかったが、ヴィージェイも止めないので、彼の話を聞きながら大塔を回ることにした。僧侶によると、大塔を取り巻く欄楯は全てレプリカではなくオリジナルの欄楯が3か所あると言いその方向を指差した。たしかに、レプリカとは色が異なる。あとの説明は把握している内容ばかりであった。
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大塔の西側に回ると、石垣で囲まれた菩提樹がそびえていた。現在の菩提樹は当時のままではなく5代目になる。アショーカ王の時代にスリランカに仏教が伝わったが、その際にブッダ・ガヤーの菩提樹の枝も伝わったという。その後、ブッダ・ガヤーの菩提樹は枯れてしまったので、スリランカのアヌラーダプラのひこばえを植えたといわれる。つまりは菩提樹の里帰りである。
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石垣の中には金剛宝座がある。ここが仏陀が悟りを開いた箇所で最も聖なる場所である。もちろん、仏陀が生きていた時代は、菩提樹のみで他に建造物はなかったわけである。菩提樹のみを見つめ仏陀の時代をイメージし仏陀への思いをはせた。
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金剛宝座は、紀元前3世紀アショーカ王時代に砂岩で作られたものであり、以前は、金剛宝座のそばまで行けたのだが、麻原彰晃が勝手に座ったため、その後柵ができた。柵中にいる僧侶にカメラを渡すと代わりに撮影してくれる。
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金剛宝座の周りや欄楯の外側にも、多くの巡礼者がひれ伏し経を唱えていた。
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この場所で悟りを開いた仏陀は、7日毎に場所を変えて49日間、悟りへの喜びを味わいながら散策すると足元から蓮華の花が一輪ずつ花開いたという。大塔の北側には、このことをイメージした蓮華の花が並んでいる。
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仏陀の歩んだ場所を順々に周り、南側の蓮池に向かう。途中に柵で囲まれたアショーカ王柱が建っている。
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蓮池に向かう途中でも様々な国の巡礼者や僧侶らが瞑想したり、五体投地を繰り返していた。インド人僧侶はたびたびヴィージェイの仏教への無理解を繰り返すので、いやになっていたところ、姿が見えなくなったので、蓮池に向けて急いで歩いた。

四角形に整った蓮池の中央には、竜王に護られた仏陀像が祀られている。仏陀が悟りを得て菩提樹のもとで過ごしていた時、大雨に見舞われたが、ムチャリンダ竜王が仏陀をとぐろ巻にして雨風から護ったとされる場面を再現している。
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蓮池の見学後、歩行者道路に出たあたりでまたインド人僧侶が現れ、自分の店を見てほしいと誘いをかけてきた。お店には入ったものの全く買う気がないことに気付かれたのか、買わないなら出て行ってくれと急に語気をあらげた。
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ヴィージェイに態度がまずかったのか、尋ねると、嬉しそうにノープロブレムと言っていた。
(2012.11.19~20)
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インドへの旅(その4)カウシャーンビー

2013-03-13 | インド(仏跡)(その1)
ここは、バナーラスから、北西方面に30分ほど車で走ったガンジス川の支流の一つバルナ川である。現在、朝の7時半、何とも幻想的な風景である。
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これからカウシャーンビーに行くことにしている。カウシャーンビーは、現在では寒村にすぎないが、仏陀の時代には北インドに栄えた十六大国の一つ、ヴァッツァ国の都があった。現在では多くの歴史的遺跡が発見されている。

バナーラスからは西に約170キロメートルの道のりだ。途中の120キロメートル地点にあるヒンドゥー教の聖地として有名なアラハバード市を過ぎ、更に60キロメートル先に行ったヤムナー川沿いに位置している。
アラハバードまではバナーラスから直通の列車が走っているが、その先のカウシャーンビー村へは交通機関もなくなり辺鄙な場所になる。

当初、バナーラスからアラハバードまで列車で行き、アラハバードから車をチャーターするつもりでいたが、アラハバードまでハイウェイがあることから、バナーラスから直接車でカウシャーンビー村に行く方が時間短縮になると判断した。そこで車を手配し今朝7時にホテルまで迎えに来てもらい、途中、このバルナ川沿いの運転手の自宅に忘れ物を取りに寄ったわけだ。
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さて、出発し30分程でハイウェイに乗った。前方の道路標識にアラハバードと書かれている。
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何と牛がハイウェイを横断している!
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道路の両端にはバザールなどもあり、住民も自転車や徒歩で気軽に往来している。住民だけでなく牛、ヤギ、犬なんでもありである。インドのハイウェイは、実質一般道と変わらないではないか。やれやれ、前の車はナンバープレートなしで走っている。
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一番の驚きは、車が数珠つなぎで逆走して来たことだ。写真ではわかりにくいが、ここも片側2車線なので、対向車は当然右手の草に覆われている中央分離帯の向こうを走らなければならない。更に驚きは、逆走する車を追い越そうとして猛スピードで正面に突っ込んで来る逆走車がいることである。
しかし、我が運転手はまったく動じずクラクションを鳴らしパッシングしながら、いつものことだと言って力強くアクセルを踏み進んでいく。
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そもそもハイウェイの出入り口が走行車線側にしかないのに、中央分離帯を作っているため、所々にある分離帯の切れ目からUターンして目的の出口に向かわざるを得ないのが実情のようだ。

さて、デンジャラスハイウェイは、アラハバード市内を通らず大きく北側に迂回して、西に向かっている。我々は、迂回後しばらくしてハイウェイを降り、一般道(田舎道)を西南方面に向かう。人や自転車の往来が多くなってきた。
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時刻はもうすぐ11時半になろうとしている。何故これほど時間がかかるのか。。商店が並んでいるので車を停めて休憩する。お昼を食べる時間はなさそうなので、バナナ(20ルピー)を買っておく。
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途中踏切があり、列車通過のため停まったが、だいぶ待たされた。歩行者と自転車は時間が長く待ちくたびれたのか、踏切内に入ってしまっている。危険だ。
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運転手は道路地図を持っていないようで、その都度、窓を開けて地元民に道を訪ねている。何度も人に聞きながら、結局到着したのは12時過ぎであった。そもそもハイウェイ効果があったのだろうか。とは言えこのインドで日本人の時間感覚は通用しない。気にするとストレスが溜まるだけだ。一般道から左方面に坂道を登っていくと、一面見晴らしの良い丘が広がっている。

左手数十メートル先に、アショーカ王柱が見えてきた。どうやらようやくカウシャーンビー村に到着したようだ。中国・唐時代に盛名を馳せた玄奘三蔵(602~664)によると、「城の東南遠からざる所にゴーシタ長者の園があり、中に卒塔婆がある。これは無憂王(アショーカ王)が建てたもので高さ200余尺ある。如来はここで数年間説法された」と記録している。
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アショーカ王柱とは、紀元前3世紀、インド亜大陸を最初に統一したマウリヤ王朝のアショーカ王が仏陀により説かれた法(ダルマ)による国家統治を行うべく、仏教保護に関する方針や政治理念、仏教教団の戒律、領民の生活の上で守るべき事項など様々な内容を王の法勅文として円柱に刻んだもの。高さは15メートル程で、柱頭にはインド四聖獣(象・牡牛・馬・獅子)等が載せられていた。領内各地に30基余り建てたと言われている。

さて、このアショーカ王柱は先端が折れた7メートルほどの高さである。王柱の周りは、一面コンクリートで固められ、鉄柵で覆われているが、その鉄柵はあちこち壊れており、遺跡保護にはなっていない。周りを見ても売店もないし物売りもいない。また観光客らしい人もいない。ただ小遣いをしつこく要求する子供たちが数人遊んでいるだけである。
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王柱の周りには、煉瓦積みの遺跡が広がっている。ゴーシタ園の跡であろうか。
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案内版があったが、残念ながら何が書いているのかわからない。
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こちらにも英語の表示がない。
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残された資料によると、仏陀は悟りを開いてから6年目と9年目にこのカウシャーンビーを訪れるなど、仏教修道の中心地に位置付けていた。そして、ここにはバダリカ園、クックタ園、ゴーシタ園、パーヴァーリヤのマンゴー林と4つの施設があり、仏陀は、これらいずれかの施設において多くの説法を行ったとされている。
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子供たちに4つの施設名を言ってみると、東南方向の道を行けと指さした。しばらくあぜ道を歩いていくと、丘の谷間のそばに遺跡が現れた。
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煉瓦がきれいに積まれている。かなり広範囲に広がっている。
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また丘に面しているため、階段状に遺跡が連なっている。
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更に東側の丘の上からあぜ道を下っていくと、丘の下に向けて煉瓦が伸びている。煉瓦は階段状に積まれており、下に降りることができる。丘全体を取り込んで、建物が建っていたのだろう。
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遺跡のある丘の向こうには、農地が広がっている。なんとものどかな風景である。よく遺跡が残っている。修復されていると思われるが、観光客がほとんど来ないことも良く保存されている理由ではないだろうか。ヤムナー川沿いに都城跡があるはずなのだが、このあたりからはヤムナー川は見えない
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西に向かうと右手に寺院が見えて来た。
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寺院を過ぎると民家らしき建物が何件か見えてきた。
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子供たちが遊んでいるが、裸の子供が多い。
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数件の民家を抜けるとその先は坂道になってヤムナー川が見える。
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女性たちが洗濯をしているようだ。
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このあたりには遺跡らしいものが見えないため、一旦戻り寺院を見学する。塔の下に窓があり覗いてみると、大理石であろうか、60センチメートルほどの高さの柱の四面に立像が彫られている。裸像なのでジャイナ教であろう。すると老人が仏陀、仏陀と言いながら近づいてくる。布に包まれたものを持参し見てくれと言っているようだ。布の中からは、仏像のつま先部分が現れた。老人の宝物らしい。お布施を渡してその場を立ち去る。
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振り向くと運転手は何やら老人と話していたが、もう少し西に遺跡があるらしく、アショーカ王柱そばの最初の通りに戻り車で移動する。西に数十メートル戻り、南に行くと、小高い丘に蛇行して遺跡が繋がっているのが見えた。周りは一面畑である。
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車を降りて歩いて行くとヤムナー川沿いに都城跡と思われる遺跡が広がっていた。
インド十六大国の一つであったヴァッツァ国の首都カウシャーンビーは、ガンジス川中・下流域に位置する6大都市(※)の一つとして繁栄していたと言う。
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(※)6大都市・・チャンパー(アッガ国)、ラージギル(マガダ国)、シュラーヴァスティー(コーサラ国)、サーケータ(コーサラ国)、バナーラス(カーシー国)、カウシャーンビー(ヴァッツァ国)

ヴァッツァ国のウダヤナ王は深く仏陀に帰依していた。仏陀が母の摩耶夫人に説法するため三十三天に昇りこの地を去った際、ウダヤナ王は、仏を拝することができず、仏陀の像を作って祀ったと言われている。これが仏像建立の起源とされている。なお、有名な清凉寺式の生身像は優填(うてん)王思慕像とも言われるが、この際作られた伝承像を模したものであり、優填王とは、このウダヤナ王のことである。
また、ここは仏陀の弟子であったビンドラ・バラダージャ(賓頭盧(びんづる)尊者)の生誕地でもある。
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崖沿いに張り出して遺跡が見える。
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回り込み覗くと防塁の跡のように見える。
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ヤムナー川側から遺跡方向を眺めてみる。あちらこちら不自然に土地が隆起している。長い年月を経てヤムナー川も浸食が進んだであろうが、まだ多くの遺跡が埋もれている可能性はある。かつて大都市として栄えたカウシャーンビーは、現在ではまったくの廃墟であった。。
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時刻は既に14時半である。予想以上に往路に時間がかかった。アラハバードの博物館を見学するつもりだったが、この時間では無理であろう。車に乗り込む前に、振り返ると、山羊たちが歩いてくる。見送りしてくれているようだ。
カウシャーンビー村の遺跡群は、見ごたえがあった。大満足である。運転手もこの場所のことはまったく知らなかったらしく、これだけの規模の遺跡にも関わらず観光客が来ないのはもったいない。もっと宣伝すれば良いと話していた。
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さて、アラハバードに向け車を走らせると、市内が近付くにつれ、混雑が激しくなってきた。
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寺院だろうか。豪華な城門が見える。
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リキシャの往来が激しくなっているのも渋滞の要因だろう。
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16時になった。カウシャーンビー村から約60キロメートルの距離に対して既に3時間半かかっている。お土産屋さんかな?
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アラハバード博物館は断念してアラハバードのサンガムに行くことにした。サンガムとは、ガンジス川とヤムナー川の2つの大河に加え、地下を流れているとされるサラスワティー川も加えて3つの聖なる大河が合流する地を指すのだと言う。
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このサンガムの地は、ヒンドゥー教徒にとっての最大の聖地であり、12年に一度、クンブ・メーラ(水瓶の祭り)が開催され、インド全国から100万人に及ぶ巡礼者が訪れる。来年1月がその開催年にあたっており、まわりには、多くの巡礼者用のテントが準備されている。
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どうやら到着したようだ。多くのオートリキシャと車が停まっている。
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やはり聖地なのだろう。多くの人がいるにも関わらず、皆静かに時を過ごしている。夕日を浴びたヤムナー川は印象的であった。
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多くの船が停泊している。10分ほど散策したのち、バナーラスに戻った。
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(2012.11.18)
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インドへの旅(その3)バナーラス

2013-03-13 | インド(仏跡)(その1)
今朝は、夜明けのガンジス川での沐浴風景を見ようと朝5時にガイドへ車の迎えを頼んだ。ガイドは、途中別のホテルでアメリカ人女性を1名乗せて、15分ほどでガンジス川近くのゴードウリヤー交差点に到着した。この交差点からガンジス川へ続くダシャーシュワメード・ガート通り(中央分離帯がある)は、この時間は車両進入禁止であることから3人は歩いて向かった。早朝にも関わらず多くの人がガンジス川に向けて歩いて行く。
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400メートルほど歩いて通りから左側にある八百屋前の路地を抜けると目の前が開け、ガンジス川沿岸に到着した。ここは「ラージェーンドラ・プラサード・ガート(Rajendra Prasad Ghat)」で、多くの船が並ぶ船着場となっている。

ガンジス川は、ヒマラヤ山脈の南麓ガンゴートリー氷河を水源とし、インド亜大陸の北東部を流れベンガル湾へと注ぎこむ全長約2525キロメートルの大河である。バナーラス(ヴァーラーナスィー)は、上流からは約1900キロメートル地点にあたる平原地帯で、西から大きく北に曲がり込んで東に流れていく左岸に位置している。

そのガンジス川の左岸には、88のガート(川岸に設置された階段)が並んでおり、その多くは沐浴用と法会用で、内2つは火葬場として使用されている。この辺りがガートのほぼ中間地になり、すぐ南隣に沐浴者が最も多く集まる代表的なガート「ダシャーシュワメード・ガート(Dashashwamedh Ghat)」がある。まだ夜明け前のガンジス川のガートには、人が溢れかえり、あちこちで怒号の様な声も聞こえ、殺気立っている。
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バナーラス(ヴァーラーナスィー)は、ヒンドゥ教最大の聖地(中でもシヴァ神)で、多くの信者や観光客が訪れ、最もインドらしい街の一つと言われる。古くは紀元前6世紀頃から紀元前5世紀頃にかけてインド十六大国の一つ「カーシー王国」の首都として水運交通の中心として栄え、宗教的にはヴェーダ時代を通して修行地であった。そして紀元前4世紀には仏教を庇護したマウリヤ朝の支配を経て、その後、歴代ヒンドゥ教王朝の下で、ヒンドゥ教の聖都となり現在に至っている。

ガイドは「ボートを探すので、地元民に声をかけられても無視するように」と我々に伝えた後、その場を離れていった。時刻は午前6時近くになり、明るくなった頃、交渉が終わったのかガイドは戻って来た。我々2人は指定されたボートに乗せられた。

船頭が勢いよくオールを漕ぎ始めると、瞬くうちに混雑した岸辺を離れて、ガートに隙間なく建ち並ぶ建物が目の前に飛び込んできた。左右のピンクの塔と建物の間が「ダシャーシュワメード・ガート」である。
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ガートやガートに建ち並ぶ建物は、18世紀以降に再建されたものが多い。何故なら12世紀末からイスラムの勢力が大きくなり、仏教やヒンドゥ教などの他宗教への侵略と破壊が繰り返されてきたことによるためだ。例外的に、16世紀ムガル帝国3代アクバル皇帝が他宗教に寛容策を採ったことから一時的に再建が進んだが、その後は、再び多くの宗教施設が破壊されてしまった。18世紀に入り、ムガル帝国が弱体化したことで、台頭してきたヒンドゥ教を深く信仰するマラーター王国(1674~1849)の支援などにより再建され現在に至っている。

どのガートでも多くの人が沐浴している。川の水はかなり汚れてゴミだらけであるが、その中で洗濯をしている人もいるのは凄い。沐浴以前に、あまりの水の汚さに触れる気にならないのが正直な感想である。日本人で指を浸しただけで、お腹を壊したという話も聞く。同乗のアメリカ女性に沐浴しないのか聞いたところ、ノーサンキューと思い切り首を振られた。同感だ。
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メインガートである「ダシャーシュワメード・ガート」は、1748年、マラーター王国の宰相バラジ・バジ・ラオにより建てられ、1774年にインドール藩王国の女王アヒリヤー・バーイー(1725~1795)により再建されたもの。女王は、18世紀を代表するヒンドゥ寺院のパトロンであり、自国内外を問わず、多くの寺院の建設・復興事業に尽くしたとされる。
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シカラと呼ばれる赤い塔状の屋根がある「プラヤーグ・ガート(Prayag Ghat)」は、1778年にマラーター王国宰相バーラージー・バージー・ラーオによって建てられたもので、アラーハーバードのプラヤーガ(犠牲を捧げる地)と呼ばれた巡礼地を再現している。
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ボートは、ガンジス川の上流側に向かっている。プラヤーグ・ガートの南隣にある大きなガートは、ヒンドゥ寺院のパトロンであるインドール藩王国の女王アヒリヤー・バーイーの名前に因んだ「アヒリヤー・バーイー・ガート(AhilyaBai Ghat)」である。
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混雑するボートとオールの間をかき分け2人の男性が列になって泳いでいくのは沐浴なのだろうか。。
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南隣は「ムンシー・ガート(Munshi Ghat)」で、1812年にナーグプルの財務大臣の名前に因んで付けられた。その後、1915年、ダルバンガー(ビハール州)のバラモン王がこのガートを購入し、南隣のダルバンガー宮殿まで拡張したため、宮殿前を「ダルバンガー・ガート(Darbhanga Ghat)」と呼んでいる。美しいポーチとギリシャ風の柱を備えた豪華なダルバンガー宮殿は、1930年にチュナール砂岩で建てられたもの。
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しばらくすると、火葬場のある「ハリシュチャンドラ・ガート(Maharaja Harishchandra Ghat)」が見えてきた。火葬場は、もう1つの「マニカルニカ・ガート」が有名だが、こちらのガートは地元の人向けで、比較的規模が小さい。写真撮影は禁止なので、恐る恐る撮影するが船頭からは注意されなかった。
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こちらのガンジス川に向かって3つのポーチがある建物(ラジャスタン様式)は、1670年にウダイプルのメーワール王国(1818年からウダイプル藩王国)の王ラナ・ジャガツィンによって建てられた「ラナ宮殿」で、その前は「ラナ・マハール・ガート(Rana Mahal Ghat)」である。この辺りになると、沐浴する人々はいなくなった。
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朝日が昇ってきたが、ガスっているせいか薄暗く日暮れのようだ。水面にはキラキラと光が反射して幻想的である。ガンジス川もガートから大きく離れると、それほど汚れを感じない。対岸(東)付近には建物らしい構造物はなく、湿地帯が広がっているようだ。
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ヒンドゥ教では、ガンジス川の聖なる水で沐浴をすれば、全ての罪は洗い浄められ、死んだ後に遺灰をガンジス川に流せば、輪廻からの解脱を図ることができると言われている。この聖なる町バナーラスには年間100万人の巡礼者が訪れるという。


ボートは「ハリシュチャンドラ・ガート」の先で、Uターンして「ダシャーシュワメード・ガート」付近まで戻って来たが、通り過ぎて、次に下流に向かった。この辺りからガンジス川の流れは東側に向かって行く。
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しばらくすると、船頭の向こうにバナーラス(ヴァーラーナスィー)を代表する火葬場がある「マニカルニカ・ガート(Manikarnika Ghat)」が見えてきた。ガートには、多くの人が集まっており、寺院の前には火葬用の木材が多く積まれている。左端のジャルサーイー・ガート(Jalasen Ghat)に建つ建物前にも木材が積まれている。24時間火葬の煙は途絶えることがないとされているが、現在も2か所ほど炎が上がっているのが見える。
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「マニカルニカ・ガート」に運ばれてきた死者は、最初に大小のシカラ(塔状の屋根)が集まった「ターラケーシュワル寺院」に安置され、死者の耳にシヴァ神が救済の真言(マントラ)を囁くことで、生前で罪を犯したものも解脱できるとされる。その後死者がガンジス川に浸され、火葬の薪の上に載せられ、施主が火を付ける。遺灰は、ドーム・カーストによりガンジス川に流される。

出発してから1時間ほどボートに揺られた後、出発地点の「ラージェーンドラ・プラサード・ガート」に戻り、船頭に謝礼の50ルビーを払った。
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再び、ガイドと女性の3人でダシャーシュワメード・ガート通りをゴードウリヤー交差点方面に歩いて戻る。途中で銃を下げた警備兵が横を通って行ったので少し驚いた。。通り沿いにはヒンドゥ教寺院が見える。バナーラスには、このように大小数多くのヒンドゥ寺院があちらこちらにあり、その数は1000を越えると言われている。
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ゴードウリヤー交差点まで戻り、交差点の先に停めていた車に乗り込み出発した。時刻はそろそろ午前8時になる。
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その後、車で、市内観光に向かった。最初に、5キロメートルほど南に行ったバナーラス・ヒンドゥ大学に向かう。こちらは、大学の敷地内に建つ「シュリ・カシ・ヴィシュワナート・マンディール寺院(Shri Vishwanath Mandir)」である。寺院は、歴代のイスラム王朝により何度も破壊されたが、都度再建されている。現在の寺院は、1930年代より始まり1966年に完成したものである。

神殿の全高は77メートルあり、インドの寺院ではトップクラスの高さを誇っている。ほとんどが大理石で作られた豪華な寺院で、シヴァ寺院を中心に、ラクシュミナラヤン、ドゥルガー、ガネーシャなど、信仰する神ごとに異なる9つの寺院から構成されている。
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寺院内は白を基調とした大理石造りの美しい吹き抜けの空間があり、一面鮮やかなサンドアートで飾られていた。
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南北に延びる大通りを市内に2キロメートル戻った通りに沿って右側には、大きな四角形の池がある。その池に面して南側に赤い外観が印象的なドゥルガー寺院がある。ドゥルガーとはシヴァ神の妃の女神のことで、この寺院にはヒンドゥ教徒のみしか入れないらしい。
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池の通りを挟んで反対側には、サンカトモーチャン寺院(Sankatmochan Temple)がある。この寺院では神様ハヌマーンを祀っている。ハヌマーンはインドの叙事詩「ラーマーヤナ」で主人公ラーマを助ける猿の戦士のことで、勇敢で忠誠心を持っていると信じられている。敷地内には、多くの猿が我が物顔で動き回っていた。
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見学後、午前10時ごろホテルに戻ってきた。レストランで朝食(トーストとオムレツ、コーヒー)をとり、午後1時頃まで寝た後、ガイドのオートバイに乗せてもらい、ガートの見学に向かうことにした。オートバイに乗る際にヘルメットを要求して着用したが、インドでは、ヘルメットを着用してオートバイに乗っている人をめったに見ない。

途中道路のあちこちで牛を見かけるが、ヒンドゥ教では牛は神聖な動物として扱われ、殺したり、その肉を食したりすることは許されていないことから、自由に闊歩している。しかし臭いがきつくて辛い。。
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ゴードウリヤー交差点が近づくと、混雑してくる。皆やたらにクラクションを鳴らすため、騒音が凄い。道路は側溝などが整備されていないため埃やごみが舞い上がり息苦しくなる。花粉用メガネとマスクが必要だ。。
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ホテルからは20分程で、ようやく交通量が少なくなり、「アッスィーガート(Assi Ghat)」に到着した。このガートは、ガンジス川の最も上流で最南端に位置している。すぐ南には、西からガンジス川に流れ込むアッスィー(剣の意)川との合流地点にあたる場所である。バナーラス・ヒンドゥ大学から近いこともあり、レクリエーションや祭りでよく使用されるとのこと。この日は特に催しはなく、何人かの人が何をするわけでもなく座っている。
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ガートは全部で88あり、全部見るのは無理だが、とりあえず北方面に向けぶらぶら歩いてみる。100メートルほどで、最初に現れた大きな建物は「ガンガー・マハル・ガート(Ganga Mahal Ghat)」と呼ばれ1830年にナラヤン王朝の宮殿として建てられた。現在は海外情報発信の教育機関として使われている。
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上部に青いアーケードが並び左右にポーチがある建物には、ヴィシュヌ派の聖人トゥルシーダース(Tulsidas、1532~1623)が住んでいたことから、このガートを「トゥルシーガート(Tulsi Ghat)」と呼ばれている。彼は16~17世紀にかけての宗教詩人で、ヒンドゥ教の聖典の一つ、古代インドの大長編叙事詩「ラーマーヤナ」から、1584年頃、宗教的大詩篇「ラームチャリットマーナス(ラーマの行跡の湖の意)」を完成させた。これはヒンドゥ教における最も大きな影響を与えた偉大な書として知られており、現在も各地で劇としても催されている。建物内には彼の履物が残されている。なお、近隣にある「サンカトモーチャン寺院」は、彼が設立した寺院である。
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洗濯ものが並ぶ「プラブー ガート(Prabhu Ghat)」で少し、ガートに座り、ガンジス川を眺めてみた。街の喧騒から離れて心をリラックスできる最高の場所だと思った。
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隣の、城門を思わせる巨大なムガル様式の赤い建物が建つガートは「チェート・スィン・ガート(Chait Singh Ghat)と言い、18世紀、バナーラス藩王国の藩主チェート・スィン(Chait Singh)(在位:1770~1810)により建てられたもの。このガートを過ぎると町に向かう道が伸びている。
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一旦、ガートを離れ町にある「イーバカフェ(Iba Cafe)」という日本人が経営するレストランに向かった。
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お昼をだいぶ過ぎたためか、他にお客はいなかった。日本人は厨房にいるのか、注文を聞きに来たのはインド人女性であった。
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丼物が中心のようで、時間も昼をだいぶ過ぎていたので、少し軽めに野菜天丼(295ルピー)を頼んだ。付け合せに生野菜が出てきたが、このカフェの評判を事前に聞いていたので、迷わず食べた。その後もお腹は快適だった。
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再びガートに戻る。「ニランジャンーガート(Niranjani Ghat)」を過ぎるとなだらかなガートが続く広い場所で、前方のネパール国王が建てたガート「シヴァーラー・ガート(Shivala Ghat)」水辺では牛が水浴びをしている。その先の「グルリアー・ガート(Gularia Ghat)」には、やたら人がたむろしている。
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シンプルで長い白い建物の前のガートは「ハヌマーン・ガート(Hanuman Ghat)」で18世紀に造られた。壁面には猿の顔が描かれている。
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20ほどのガートを過ぎると火葬場「ハリシュチャンドラ・ガート」に到着した。写真撮影は禁止なので、この位置からが限界。3か所で薪が組まれ、その上に全身を布で纏った死体が乗せられ、炎につつまれていた。地元の人々や観光客が集まっていた。
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地元の子供たちが、すぐ近くで遊んでいる。子供たちを含め、地元の人々にとってみると日常的な風景なのだろう。本来、このように生と死は別のものでなく隣同士の関係である。昔は、特に日本の田舎でも日常的に見かける風景であった。ガンジス川に目を向けると、ボートから、遺灰を河に流している様子が見え、人間の儚さをあらためて感じてしまう。
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燃えかけの巨木と灰の前に座るサドゥーと観光客の周りに人々が取り囲んでいる。何を話しているのだろう。サドゥーとは、ヒンドゥ教におけるヨガの実践者や放浪する修行者のことをいう。ほとんど裸に近いかっこうで、からだに白い灰を塗って町中を歩いている。
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朝来た「ダシャーシュワメード・ガート」付近まで歩いたようだ。この時間は、どのガートでも人出は少なく散歩には最高だった。
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その後、Uターンして、アッスィーガートに戻り、しばらく待ち、迎えのオートバイで、再び「ダシャーシュワメード・ガート」に行き、夜はプジャーと呼ばれるヒンドゥの踊りを見学した。プジャーとは、神像礼拝の儀礼で、供物を神像に直接ささげ礼拝する祭式だそうだ。
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プジャーの儀式を15分ほど見学した後、ダシャーシュワメード・ガート通りを歩と、朝は気が付かなかったが、あちこちにシルクショップがある。バナーラスは、高級シルクの町で有名でシルクの歴史も古い。仏陀がまだ王子ゴータマ・シッダールタだった頃、カーシー(バナーラス)産で出来た美しい絹の衣を愛用していたとされる。ただし、この辺りは観光客向けで値段が高い。。
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午後8時半になったので、オートバイに乗りホテル近くの昨日行ったレストランに夕食を食べに行く。この日は、麺が食べたくなり、フライヌードルを食べた。カレーとケチャップを使った2種類のソースで、味は普通。その後、ホテルに帰った。
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アッスィーガートからガンジス河を2キロメートルほど上流(南)行った対岸にラームナガル城(Ramnagar Fort)に行ってみる。ラームナガル城は、バナーラス藩王国を樹立した藩主バルワント・シング(1711~1770)により1750年にムガル様式で建てられた。「チェート・スィン・ガート(Chait Singh Ghat)の藩主チェート・スィン(Chait Singh)は、彼の息子である。渡し舟(交渉し往復150ルピー)を雇って対岸に向かう。


城は雨季のガンジス川の増水にも浸水しないように、煉瓦を高く積み上げた砦の上に建てられている。


乗船時間は概ね15分ほどであった。


下船して、坂を上ると、すぐに大きなアーチ門が現れる。門前には川魚を並べ販売している商人の姿が見られた。門は古びているが、上部には、近年塗りなおされたのか鮮やかな紫に彩色されている。チャトリー(小亭)が並んでいる姿は典型的なムガル建築である。


入口を入ると、広い中庭が現れる。ダーバーホール(宮廷の謁見の間)と公衆聴衆ホールは現在、博物館として公開され、館内には、アメリカのビンテージカー、宝石で飾られた椅子、象牙細工、中世の衣装などのコレクションが展示されているが、保存状態があまり良くない印象だ。


城内には、ヴェーダ・ヴィヤーサ寺院、博物館、及び王の住居から構成されている。ハヌマーンのダクシン・ムキ寺院も南に面して建っている。中庭には、18世紀頃のものだろうか大砲が置かれている。城内は綺麗に清掃されているのが良かった。


藩主(マハラジャ)城に居る際は、旗が掲げられるそうだ。なお、王室称号は既に廃止されている。


砦からはガンジス川が一望でき気持ちが良い。

(2012.11.16)
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インドへの旅(その2)サールナート

2013-03-13 | インド(仏跡)(その1)
ニューデリーからの夜行列車は、1時間遅れで無事バナーラスに到着し予定のホテルに向かった。場所は、バナーラス・ジャンクション駅から1キロほど北、ザ・モール・ロードから100メートルほど入ったところにあるMMコンチネンタルである。
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チェックインをして、シャワーを浴びた後、11時半にホテルを出て、車でサールナートに向かう。
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サールナートは、バナーラス郊外の北方10キロメートルに位置しており、ブッダ・ガーヤーで悟りを開いた仏陀が最初に訪れた地である。一緒に苦行に励んでいた5人の比丘たちが、サールナートにいたことから、最初に教えを説こうとしたのだろう。ちなみにサールナートとは、サーランガナータ(鹿の主)に由来しているという。当時は、イシパタナの鹿野苑(ろくやおん)と呼ばれていた。このサールナートは初転法輪の地として、誕生の地ルンビニー、成道の地ブッダ・ガヤー、涅槃の地クシーナガルとともに仏陀の4大聖地と言われている。「大般涅槃経」では、4つの仏陀の記念すべき場所をあげ、その聖地を巡礼する功徳が説かれている。

30分ほどで、サールナートに着き、最初に考古学博物館に行った(5ルビー)。ゲートを入りすぐ右手の小屋に荷物を預ける必要がある。館内は残念ながら写真禁止であった。
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ゲートを入り数十メートル先が、博物館である。博物館入口には、更にセキュリティチェックをするためのゲートがあり、その先にアショーカ王柱(4つ頭の獅子像)がある。
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獅子像は、想像していた以上に大きい。台座の上にあるため、観光客は、像の周りを取り囲んで、獅子を見上げている。像は下から、蓮弁装飾、法輪・象・牡牛・馬・獅子を浮彫にした冠盤の柱頭部分と、その上に背中合わせに配置された4頭の獅子像からなっている。現在この獅子像はインド共和国の紋章になっている。像の表面はよく磨かれており、とても美しい。一瞬大理石かと見まがうが、バナーラス近郊のチュナール産黄灰色砂岩を研磨したもので、紀元前3世紀のものである。

この博物館は、このアショーカ王柱が置かれている正面の展示室と左右に1か所づつ展示室がある。向かって左の展示室奥に博物館を代表する仏陀の初転法輪像がある。台座には、5人の比丘と法輪、鹿が2頭彫られており、その上に柔らかい表情をした仏陀が坐っている。近づくと、三帰依文(Buddham saranam gacchami Dhammam saranam gacchami Sangham saranam gacchami)が、力強く低い声で返し唱えられている。それにしてもすばらしい像である。この博物館は、展示物はさほど多くはないが、どれも秀作であり、なかでも、このアショーカ王柱と初転法輪像は群を抜いている。この2点を見学できただけでも、ここまで来る甲斐があったと思った。

その後、博物館から出て、出店が並んでいるダルマパル・ロードを600メートル程東に歩くと左手にムールガンダ・クティー寺院が見えてくる。
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ムールガンダ・クティー寺院は、日本語で「根本香積堂」と紹介されている。この地は、仏陀が弟子たちと最初の雨安吾(うあんご)を過ごしたとされる場所である。1931年に建てられた。
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堂内に入ると、本尊として黄金の釈迦座像が据えられている。サールナート考古学博物館の初転法輪座像のレプリカとのことだが、正直まったく似ても似つかない。
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堂内には、野生司香雪(のうすこうせつ)氏による仏陀の生涯(30の画題)を描いた壁画がある。1936(昭和11)年作であり、すでに70年以上が経過している。
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野生司香雪氏の絵は、線が細くソフトであるせいか穏やかな気持ちにさせてくれる。どこか女性漫画家を連想させるタッチでもある。
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寺院の周りを取り囲むように、仏陀の言葉が刻まれた石碑が4箇所あった。石碑には、ヒンディー、英、シンハラ、日本語の4カ国語で書かれている。石碑は、新しいものであるが、それぞれの言葉には、力強い仏陀の言葉が刻み込まれている。
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その後、ダメーク・ストゥーパ・モニュメントサイトの敷地内に向かう。入口は、考古学博物館の近くにあるため、歩いて来た道を西に戻る。入場料は100ルビーだが、これは外国人旅行者料金であり、インド人は5ルビーとかなりの料金差がある。敷地内に入ると、右手遠方(東)に、ダメーク・ストゥーパが見える。最初に左の道を北方面に右遠景のダメーク・ストゥーパを見ながら歩いていく。
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しばらく歩くと、鉄の柵に囲まれた、アショーカ王柱が見えてくる。高さは2メートル、直径70センチほどの基部である。かつては、石柱の上に、考古学博物館にある4つ頭の獅子像があったが、現在は3本に折れてしまった基部のみが保存されている。
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通路から離れて遺跡内を東に歩き遺跡を回り込むと、ムーラガンダクティーと書かれた説明版があった。仏陀が、座禅・瞑想をしていた場所であるという。この遺構は、5世紀グプタ朝時代に、建てられた巨大な精舎跡である。当時の精舎は、1辺18.29メートル、高さが61メートルあったが、現在は、その1階部分のみが残っている。正面の階段を上ると、祠堂跡があり、その左手には、2階へ上がる階段が残されている。
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ムーラガンダクティーの南側には、ダルマラジーカ・ストゥーパの基壇がある。ここは、仏陀が5人の比丘に初めて説法をした場所と言われている。7世紀にここを訪れた玄奘三蔵は、ストゥーパの高さは30メートルほどあったと記録しているが、1794年ヴァーラナシー王により破壊されて現在は基壇だけとなっている。各国から訪れた信者たちは、経を唱え、基壇の周りを歩いている。
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ダルマラジーカ・ストゥーパの基壇のそばでは読経姿の僧侶が見える。その奥には巨大なダメーク・ストゥーパが聳えている。
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ムーラガンダクティーの東側は、グプタ朝時代に建立されたパンチャタン寺院がある。直径5メートル、高さ1メートルほどの竃のような小寺院だ。この場所で、5人の高僧が集まり、教団を乱す破戒僧を裁いたといわれる。
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その後、ダメーク・ストゥーパに向かう。直径は28.3メートル、高さ31.3メートルある巨大な円錐形のストゥーパである。ここで仏陀は5人の比丘に初めて説法した場所であると言う。このストゥーパはアショーカ王時代に時代に創建され、グプタ朝時代に現在の姿になったという。
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塔の中ほどには、仏像が飾られていた龕がある。その周りには、ハスの花や幾何学模様などのデザインがほどこされている。ここにも多くの仏教僧や巡礼者が経を唱えていた。
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遺跡の北側は鹿公園となっており柵で仕切られている。数頭の鹿が餌をほしがっているのか、柵の近くまで来ていた。
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他にも多くの遺跡があるが、MONASTERY3、MONASTERY4との表示があるだけで説明書きはない。遺跡内は静かで、穏やかである。何組ものカップルがベンチや遺跡に腰かけている。
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敷地内の中央には、東西にかけて深く掘り下げられた広い空間があり、そこにも多くの遺跡が残されている。
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その後、遺跡を出て、チャウカーンディ・ストゥーパに行くため南に向け歩く。地図を見ると1キロメートルほどのようだ。すると右手奥に巨大な仏像が見える。
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入場のためのゲートは特にない。近づいてみる。
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右手に寺院がある。ここは、タイ寺院(Wat Thai Temple)である。
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寺院を覘くと、本尊として椅像姿の仏像が祀られていた。椅像は両脇を持たない単身仏だが、背後の左右の大理石の波模様が脇侍を配しているかのように見える。
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再び道路に戻ると、リキシャから「乗れ・乗れ」と声をかけられるが、無視して歩いて行く。
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10分ほどで右前方に、ストゥーパの上に八角形の煉瓦造りの建物が建っているチャウカーンディ・ストゥーパが見えてきた。このストゥーパは、仏陀がブッダ・ガヤーで悟りを開き、サールナートに初めて訪れた時に5人の比丘たちと再会した場所と言われている。
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八角形の煉瓦造りの建物は、ムガール帝国のアクバル王の時代に、父フマーユーン王がこの地を訪れたことを記念して1588年に建てられたもので、現在周りは公園になっている。ダメーク・ストゥーパ・モニュメントサイト遺跡の中心からはやや離れているせいか観光客らしい姿は見えない。近くの親子づれやお年寄りが公園のベンチに数人座っているだけである。
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頂上の煉瓦造りの建物を見ると、数人の少年がいたので上れるようだ。ストゥーパの後ろに回り込むと、ところどころ崩れてはいるが、右回りになだらかな煉瓦道が続いている。
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数分で頂上の建物に着いた。中を覗き込むと中心部に小さな石の塊が6個ある。ストゥーパを模したものなのか、それともリンガなのかはよくわからない。
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良い眺めである。北方面を眺めると一面木々に覆われており、中央にダメーク・ストゥーパの頂部が見える。眺めの良さに見とれ、しばらく座り込みサールナートの風景を眺めた後、16時半に、車でサールナートを後にし、バナーラスのホテルに戻った。
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昼抜きであったので、お腹がすいた。近くのレストランでビールを頼みチキンカリーを食べる(365ルビー)。
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(2012.11.15)
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