アーグラにある宿泊ホテル(ゴパール)を朝6時半に出て、タージ・ロードを北東に向け歩いている。目的地のタージ・マハルまでは1.7キロメートルほどである。暗闇の中、前方から牛が直進してきたので慌てて避けるが、牛は見向きもせず直進していった。。
ホテルからは15分ほどで西門のチケット売り場に到着した。窓口で入場料750ルピーを支払い、入場を待つ観光客の列に並ぶ。午前7時になると同時に、正面のゲートが開いた。
ゲートを抜けると、アーケードのある建物で囲まれた通路になり、すぐ左側でセキュリティチェックが行われる。荷物のチェックなどを無事終え入場が許可され、前面通路を東方向に直進する。
しばらく歩くと、左右に芝生のある庭園が現れ、その先左側には大楼門(正門)が、右側には南門(出口)が見える。それぞれの交差地を左折(北側)して大楼門に向かう。大楼門は、約30メートルの高さがあり、イスラム建築でお馴染みの、中央に大きなアーチ(イーワーンと呼ばれる半ドームを持つ前方開放式の空間がある。)があり、頂部には11個の丸屋根が、両側頂部には八角形の塔が並んでいる。
大楼門のアーチ先には観光客が集っているのが見える。開場前に、かなり多くの観光客が並んでいるように感じたが、いざ入場してみると思ったほどの人数ではなかった。日中は暑い上に溢れんばかりの観光客で混雑すると聞いていたので、早朝の見学は大正解のようだ。
アーチ前では、朝靄に佇むタージ・マハルの美しさに圧倒され、その場に立ち尽くしてしまった。多くの観光客も同様に、なかなか足を踏み出そうとしない。
タージ・マハルは、ムガル帝国の第5代皇帝シャー・ジャハーン(在位:1628~58)が、1631年に、若くして亡くなった最愛の王妃ムムターズ・マハルのために、22年の歳月を有し、天文学的な費用をかけて建った総大理石造りのインド・イスラム建築を代表する墓廟である。1983年には、ユネスコの世界遺産に登録されている。
しばらくして、数人がタージ・マハルに向け歩きだしたので付いて行く。周りを見渡すとゴミ1つ落ちていない。開場間近の時間でもあり、世界遺産で世界中から多くの観光客が訪れる場所なので、清掃が行き届いているのは当然だが、これまでのインド体験を踏まえると少し驚いた。
水路脇の美しく手入れされた緑沿いの参道を歩いて行くと、朝日が昇り始めタージ・マハルがほんのり赤く色づき始めた。
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タージ・マハルの威容が近づくにつれ、遠くからは気が付かなかったが、支える基壇が巨大な壁の様に立ちはだかってくる。庭園から基壇の上までは7メートルの高さがあり、その基壇上から最も高いドーム先端までは58メートルあるという。
なお、タージ・マハルとタージ・マハルを支える基壇は、欄干で覆われた赤砂岩の基壇の上にある。タージ・マハルの基壇に向かうには、一旦左側に進み赤砂岩の基壇に入り、係員から、ビニールの靴カバーを受け取り、それを履いた上で赤砂岩の基壇の中央まで進む。そしてタージ・マハルの基壇への階段を上るというわけだ。
基壇の上から、先ほど歩いて来た庭園と大楼門を眺めると、まだ朝靄の中に見える。
さて、それでは基壇上からタージ・マハルを見学してみよう。最初に周囲を巡ってみる。
墓廟は横と奥行きが共に57メートルある正方形を基本にして、四隅をカットした変形八角形をしている。この形がどの角度から見ても均整がとれて見える理由と言われる。そして、墓廟の南側正面と北側後面には大アーチが、他の面には、二段組の小アーチがある。その全てのアーチはイーワーンで、下部には外光を取りいれるための格子状の窓がある。
柱や周りには幾何学的紋様のアラベスクの象嵌や浮彫などが施されている。特に、宝石(碧玉、翡翠、トルコ石、サファイア)や鉱石(ラピスラズリ、カーネリアン)などを象嵌として惜しみなく埋め込んだことが、ムガル帝国を破産寸前まで追い詰めた原因と言われている。
白のイメージが強いタージ・マハルだが、柔らかい日差しの中においては、大理石のパーツ毎が生み出す風合や装飾の濃淡も感じられ一層得した気分になる。
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墓廟はもちろんのこと、基壇から、尖塔(ミナレット)など全てが大理石からできており、歩いているだけで贅沢な気持ちになる。なお、東奥に見える建物は、タージ・マハルの基壇の一段下の赤砂岩の基壇端にあり、西側にも対となる形で建っているが、西側がモスクで東側が集会場である。
タージ・マハルの北側の基壇の下には、ヤムナー川が広がっており、この時間、朝靄がかかって幻想的に見える。
正面の大アーチ(イーワーン)を間近から見上げてみると、美しい象嵌のアラベスク紋様やカリグラフィー(アラビア文字)の装飾が配されている。半ドーム内にはヴォールトをかたどった浮彫装飾が随所に見られる。
アーチの下部には生花の表情をそのまま写し取ったかのように一つ一つ異なった姿で表現されている草花の装飾があり、その上には、馬蹄アーチと多弁アーチ(複数の円弧曲線を花弁状につないだアーチ)を組み合わせた様な浮彫が規則正しく並んでいる。
扉のある中央部は、格子状の窓を組み合わせてアーチ型の装飾を形成しているが、驚くことに全て大理石をくり抜いて造られている。
そばに寄ってみると、正六角形にくり抜かれているのが分かる。全く歪みや不揃いがなく、まるでCGでデザインされたかのようだ。
墓廟の内部に入ると廟内の床は星形八角形と十字形を組み合わせた大理石のタイルで覆われている。
早朝のため光が内部まで入らないので、やや見づらいが、中央の八角形のホールの中心には王妃ムムターズ・マハルの墓石があり、その横には一回り大きな夫(第5代皇帝シャー・ジャハーン)の墓石がある。
再び外から中央のドームを見上げてみると、朝日が反射して一層美しくみえる。
基壇上の対角の四か所にあるミナレットは、中央ドームよりやや低い40メートルの高さがある。近づいて真下から見上げてみると、白と言うよりクリーム色といった印象を受ける。望遠で途中の節にあたる部分を見ると、手が抜かれることなく丁寧な装飾がされているのは流石だ。先端は灯台のようにも見える。なお、4本のミナレットは王妃ムムターズ・マハルに仕える4人の侍女を表していると言われている。
左右(東西)対で建つ東側の集会場の建物に行ってみる。集会場は赤砂岩で造られているが、タージ・マハルと変わらぬ繊細な装飾が下部から、イーワーンに至るまで隙間なく施されている。
イーワーンから朝日を浴びるタージ・マハルを眺めた後、再び、公園を歩き、大楼門(正門)に戻る。名残惜しくなり、途中何度も振り返ってタージ・マハルの美しい姿を見ながら遠ざかった。
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大楼門前から再び水に映るタージ・マハルを眺めると、太陽を浴び、白大理石が一層輝いてみえる。日差しの角度により、様々な表情を与えてくれるため、夕方にも再訪したくなった。なお、水面へその姿が映りこむシンメトリーの姿が一番美しいと言われている。
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観光客も少なく早朝の涼し中、美しいタージ・マハルの姿を見られたことに、すっかり満足して南門から敷地を後にした。時間は午前8時15分になっていた。
南門を出たところに銃を肩に下げた警官がいて驚いた。この南門近くには、レストランが集まっているので朝食を食べようとお店を探すと、入口に日本語で親子丼がお勧めと書かれていたフード・カフェ・レストランに入った。ミネラルウォーター(20ルピー)とラーメン(溶き卵が入っていた。)(50ルピー)を食べてホテルに戻った。
少し、仮眠してから、次にホテルで頼んだ車(800ルピー)に乗り、混雑するアーグラ市内(インド鉄道が走る高架橋下の道路そばに土砂を運ぶブルドーザーが最も渋滞した原因だった。。)を抜けて約40キロメートル西に位置するファテープル・シークリーに向かった。
実は、アーグラ城塞に行くつもりだったが、ホテルのスタッフからやたらと勧められ、多少時間もありそうなので行くことにした。
市内を出て高速道路に乗るとスムーズに走行し50分ほどでファテープル・シークリーに到着した。ファテープル・シークリーは、ムガル帝国第3代皇帝アクバル(在位:1556~1605年)によって1574年、アーグラから遷都した新都で「勝利の都」を意味する。
アクバル帝は跡継ぎに恵まれなかったが、この地に住む聖者サリーム・チシュティー(イスラム教の神秘主義者)の予言により王子サリーム(のちのジャハーンギール)が誕生したこと、1573年に、グジャラート地方での戦いに勝利したことから、1569年この地に新たな都の建設を始め1574年に完成した。ファテープル・シークリーは、ヒンドゥ建築とイスラム建築との融合がなされた幾何学的な都市計画で造られ、1986年に世界遺産に登録された。その遺跡群は、現在、宮廷地区とモスク地区とに分かれている。
階段上に聳えるのは、グジャラート地方の征服を記念した凱旋門ブランド・ダルワーザー(壮麗門)で、モスク地区の南門にあたる。なお、今回は、時間の関係からモスク地区(無料)だけを見学する。
都市遺跡は、全て大階段上の丘にあり、ブランド・ダルワーザーの高さは地上から54メートルに位置している。上り詰めて振り返ると町が一望できる。
ブランド・ダルワーザーは、大きなイーワーンと呼ばれる半ドームを持つ前方開放式の空間があるアーチで、随所にインド風の要素を取り入れて造られたムガル建築の最高傑作と言われている。そのイーワーン内に装飾されたアーチ門の左右には、同様のアーチの浮彫装飾が並び、その周りには赤砂岩に白大理石の象嵌をアラベスク紋様に配した繊細な装飾が施されている。
ところで、乗ってきた車は、階段下から数百メートル手前で進入禁止になり、すぐさまオートリキシャに乗せられた。階段の下では、杖を持つ痩せた白シャツ老人が待っており、その老人の後に付いて階段を上っていく。門から先は土足禁止のため、そばのいる係員に靴を預けて中に入る。
入口左右の木造の扉に打ち込まれた蹄鉄は、病気になった家畜が聖者の力によって治癒することを祈願したものらしい。
さて、扉を抜けると、広い中庭が現れアーケードが取り囲んでいる。まず、東側(右側)には、王の門があり、西側(左側)にあるのが、ジャーマー・マスジド(金曜モスク)である。金曜モスクは、サリーム・チシュティーなどの廟(ダールガー)が祀られていることからダールガー・モスクとも呼ばれている。モスク内には細かな象牙細工の礼拝堂中央のミフラーブ(マッカの方向を示す聖龕)や、ヒンドゥ建築の影響を受けた柱や庇などがある。
そして、北側(正面)に見える白い建物は、白大理石で建設された聖者サリーム・チシュティーを祀った廟である。皇帝アクバルに息子が授かると予言した聖者に対し感謝するため建てたお墓である。
そして、その右側に建つ建物が大勢のスーフィー(イスラム神秘主義の修道僧)の墓を納めるイスラム・ハーン廟で、本来聖者や聖職者が講話などを行う建物であった。
それでは、サリーム・チシュティー廟を見学してみよう。近づくと分かるが、廟の側面は全て白大理石の透かし彫りで覆われている。
壁面の透かし彫りは精緻を極める。側面の窓は全て大理石をくり抜いて作られている。。
庇の下の組み物はS字カーブの形をしており、そのカーブを補うように複雑な透かし彫りが施されるなど、何とも手の込んだ造りとなっている。そして足元のタイルの色合いも素晴らしい。
タージ・マハルでも、この厚みの大理石を精密に彫刻する職人技に感服したが、それを超えるほどの複雑な透かし彫り(※八角形の縁取り内にある星形八角形の透かし彫りと五角形の縁取り内ある星形五角形の透かし彫りが規則的に配置されている。)には驚くばかりである。
ファテープル・シークリーは、1574年から1584年まで10年間にわたりムガル帝国の首都となったが、水利が悪く、1584年には、ラホールに首都が移される。しかし1598年以降は、再びアーグラの地へと移ったという。ファテープル・シークリーはその後も、慢性的な水不足と猛暑が続いたため、1588年には(建設後わずか14年間)で廃墟となった。
ところで、オートリキシャと案内役の老人には合計350ルピーと日本の百円均一ショップで購入しておいた3色ボールペンを1本づつ渡すと、満面の笑みを浮かべて感謝された。あと、薄汚れた絵はがき(150ルピー)を買ってしまったのは誤算であった。。再び、車に乗り、次に、アーグラ城塞に向かった。
途中、高速道路でトラックが横転する事故があり、多少の渋滞があったが、アーグラ城塞の駐車場には、午後2時前に到着した。チケットショップで入場料250ルピー払い入場する。
アーグラ城塞は、皇帝アクバルがデリーからアーグラへの遷都に伴い建設したもので、1565年に着工し1573年に完成した。その後第4代皇帝ジャハーンギール、第5代皇帝シャー・ジャハーンまで3代に亘る皇帝の居城となった。最初に濠を渡り南側のアマル・スィン門から城塞に入る。
アマル・スィン門を抜けると、次にも門が見える。
2番目の門を抜けると3番目に見晴台がある巨大な2本の円柱に囲まれたアクバル門が見えてくる。この門をくぐり、
建物(壁)に囲まれた殺風景な上り坂を進んでいくと、坂は徐々に壁の高さまで近づき、
一気に視界が広がる。右側には、芝生が広がり正面に赤砂岩造の建物が見える。こちらはアクバル帝によって建てられた唯一現存する建物で、息子の名前に因んでジャハーンギール宮殿と名付けられている。宮殿は赤い砂岩で造られており、壁面に所々見える白色は白大理石を埋め込んでいるそうだ。正面のイーワーン内には、ダヴィデの星(六芒星)が白大理石で表現されている。
なお、宮殿の前にある柵で覆われた巨石は、ロイヤル・ハンマームと呼ばれる王の風呂である。
ジャハーンギール宮殿内は、中庭のある回廊で取り囲まれている。回廊を支えるのは、浮彫り装飾が隙間なく施された角柱で、
柱頭部分からは、庇と腕木の間に木工彫刻を思わせるような組物が配される凝った造りがなされている。そして列柱間には多弁アーチを形成しているが、乳頭を思わせる細工物で飾られているが印象的である。
一つの多弁アーチを下から見上げると4重に細かく彫刻されており、どれくらいの職人がこれらの制作に携わっていたのか考えただけでも気が遠くなる。
ジャハーンギール宮殿を更に東側に進むと広いテラスに出る。中央には花弁状になった噴水(配管?)の跡が残っている。
テラスの東壁からは、ヤムナー川越えにタージ・マハルがよく見える。タージ・マハルは、ここアーグラ城塞で湾曲し、東1キロメートルほどの下流で再び湾曲するヤムナー川の外側に建っている。その位置に建てられたことで川面に建物が映りシンメトリー効果が得られるのだと言う。しかし今は乾季にあたるため水量は少ないことからその効果はなく周りには河原が広がっている。
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次に、北側のアーケードのある建物を抜けると、右側にバンガルダールと呼ばれる突起物のある湾曲屋根の黄金パビリオンがあり、その中からも、ヤムナー川や、タージ・マハルが望める。
更に、北側には白大理石の建物があり、左側に伸びる大理石の壁のくぐり戸をぬけると、シャー・ジャハーン帝の寝殿(ハース・マハル)がある。小さな鏡と金属と陶磁器などで飾られており「鏡の御殿」とも呼ばれている。そして、寝殿の前(西側)には、大きな池があり、皇帝は水浴する女官たちを眺めていたという。
池の先には、アングリー庭園が広がっている。庭園は通路により4つに分けられた四分庭園で、中央には四角い池の跡がある。庭園の緑は幾何学的に区分けされている。
そして寝殿に向かって左側(北側)に行き、寝殿手前の対となる黄金パビリオンの先にあるのが、アーグラ城塞を代表する見所の一つ、5代目皇帝のシャー・ジャハーン帝が実子のアウラングゼーブ帝によって、晩年に幽閉された八角形の塔ムサンマン・ブルジュ(囚われの塔)である。中には入れないが、西側と南側から塔内を見学できる。最初に、西側から柵越しに塔内を覗き込んでみる。
床には大理石彫刻の噴水があり、周りには象嵌細工が施されたアーチやアラベスク紋様など幽閉場所とは思えないほどの装飾や浮彫で覆われている。右側の極太の列柱の奥に見える光の方角からタージマハルが見えるのだろう。幽閉された皇帝シャー・ジャハーンはこの場所で74歳で亡くなるまでの7年間を過ごしたと言われている。
今度は両側に透かし彫りの格子窓のある通路(※六角形の縁取り内に星形六角形の透かし彫りを中心に、周りに6個の六角形の透かし彫りが取り囲む)から黄金パビリオン側に回り込み南側から塔内を眺めてみよう。少し、逆光となり暗いが、噴水の浮彫装飾は揺れ動く水面の様に滑らかに表現されている。
さて、この後は、柵越しに塔内を見学する観光客の後に見える屋上に向かう。
屋上には、対の円柱で支えられた多弁アーチが続くアーケード建築のディーワーネ・カース(貴賓謁見の間)があり、白大理石の壁には、アラベスク紋様の象嵌細工や浮彫装飾などが施されている。左に見えるのが八角形の塔ムサンマン・ブルジュ(囚われの塔)だ。
ディーワーネ・カースは、向かって右側にアーケードが続いており、その下には、アーチ回廊に囲まれたマッチ・バワン(魚宮殿)と呼ばれる中庭がある。その1階のアーチ内には当時バザールがあり、賑わっていたという。
ディーワーネ・カースの前は、広いテラスになっており、東側に皇帝シャー・ジャハーンが眺めていたムサンマン・ブルジュ(囚われの塔)と、ヤムナー川沿いの亡き王妃の廟所タージ・マハルとを一緒に眺めることができる。
ディーワーネ・カース前から回廊沿いを対角(北西)まで歩き扉をくぐると、宮廷の女官たちのための宮廷礼拝堂ナギーナ・マスジド(宝石のモスク)がある。
マッチ・バワン(魚宮殿)の西回廊と背中合わせに建つ建物が、白大理石造りの9連式アーチが続くディーワーネ・アーム(公謁殿)である。かつては木造だったが、第5代皇帝シャー・ジャハーン帝によって現在の建物になった。ここで、一般民衆の訴えを聞いた皇帝が裁定を下していた。
内部は列柱が立ち並ぶ3廊式のホールとなっており、正面奥には皇帝の玉座のための空間があり、周りにはアラベスク紋様や宝石がはめ込まれるなど一層繊細な装飾が施されている。
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ディーワーネ・アームの前面(西側)は広場になっておりその先にプロムナードが南北に伸びている。その先にあるアーケードの後方には、妃たちのためにシャー・ジャハーン帝が造ったとされる白大理石造り清楚な姿が印象的なモーティ・マスジド(真珠のモスク)が望める。午後3時半を過ぎたところで、アーグラ城塞を後にした。
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ホテルに戻り仮眠した後、買い込んでいたビールをつまみと一緒に飲んで、午後7時過ぎにタージ・マハル南門の賑やかな通りに食事に出かける。この時間、ラクダなども往来するなど中東を思わせる雰囲気も感じた。
今夜はレストラン・トリートの2階のテラス席から通りを眺めながらオムライス(50ルピー)とオレンジジュース(20ルピー)を頼んだ。今日は、ムガル建築美術の傑作を3か所も堪能するという充実した一日となった。
(2012.12.4)
ホテルからは15分ほどで西門のチケット売り場に到着した。窓口で入場料750ルピーを支払い、入場を待つ観光客の列に並ぶ。午前7時になると同時に、正面のゲートが開いた。
ゲートを抜けると、アーケードのある建物で囲まれた通路になり、すぐ左側でセキュリティチェックが行われる。荷物のチェックなどを無事終え入場が許可され、前面通路を東方向に直進する。
しばらく歩くと、左右に芝生のある庭園が現れ、その先左側には大楼門(正門)が、右側には南門(出口)が見える。それぞれの交差地を左折(北側)して大楼門に向かう。大楼門は、約30メートルの高さがあり、イスラム建築でお馴染みの、中央に大きなアーチ(イーワーンと呼ばれる半ドームを持つ前方開放式の空間がある。)があり、頂部には11個の丸屋根が、両側頂部には八角形の塔が並んでいる。
大楼門のアーチ先には観光客が集っているのが見える。開場前に、かなり多くの観光客が並んでいるように感じたが、いざ入場してみると思ったほどの人数ではなかった。日中は暑い上に溢れんばかりの観光客で混雑すると聞いていたので、早朝の見学は大正解のようだ。
アーチ前では、朝靄に佇むタージ・マハルの美しさに圧倒され、その場に立ち尽くしてしまった。多くの観光客も同様に、なかなか足を踏み出そうとしない。
タージ・マハルは、ムガル帝国の第5代皇帝シャー・ジャハーン(在位:1628~58)が、1631年に、若くして亡くなった最愛の王妃ムムターズ・マハルのために、22年の歳月を有し、天文学的な費用をかけて建った総大理石造りのインド・イスラム建築を代表する墓廟である。1983年には、ユネスコの世界遺産に登録されている。
しばらくして、数人がタージ・マハルに向け歩きだしたので付いて行く。周りを見渡すとゴミ1つ落ちていない。開場間近の時間でもあり、世界遺産で世界中から多くの観光客が訪れる場所なので、清掃が行き届いているのは当然だが、これまでのインド体験を踏まえると少し驚いた。
水路脇の美しく手入れされた緑沿いの参道を歩いて行くと、朝日が昇り始めタージ・マハルがほんのり赤く色づき始めた。
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タージ・マハルの威容が近づくにつれ、遠くからは気が付かなかったが、支える基壇が巨大な壁の様に立ちはだかってくる。庭園から基壇の上までは7メートルの高さがあり、その基壇上から最も高いドーム先端までは58メートルあるという。
なお、タージ・マハルとタージ・マハルを支える基壇は、欄干で覆われた赤砂岩の基壇の上にある。タージ・マハルの基壇に向かうには、一旦左側に進み赤砂岩の基壇に入り、係員から、ビニールの靴カバーを受け取り、それを履いた上で赤砂岩の基壇の中央まで進む。そしてタージ・マハルの基壇への階段を上るというわけだ。
基壇の上から、先ほど歩いて来た庭園と大楼門を眺めると、まだ朝靄の中に見える。
さて、それでは基壇上からタージ・マハルを見学してみよう。最初に周囲を巡ってみる。
墓廟は横と奥行きが共に57メートルある正方形を基本にして、四隅をカットした変形八角形をしている。この形がどの角度から見ても均整がとれて見える理由と言われる。そして、墓廟の南側正面と北側後面には大アーチが、他の面には、二段組の小アーチがある。その全てのアーチはイーワーンで、下部には外光を取りいれるための格子状の窓がある。
柱や周りには幾何学的紋様のアラベスクの象嵌や浮彫などが施されている。特に、宝石(碧玉、翡翠、トルコ石、サファイア)や鉱石(ラピスラズリ、カーネリアン)などを象嵌として惜しみなく埋め込んだことが、ムガル帝国を破産寸前まで追い詰めた原因と言われている。
白のイメージが強いタージ・マハルだが、柔らかい日差しの中においては、大理石のパーツ毎が生み出す風合や装飾の濃淡も感じられ一層得した気分になる。
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墓廟はもちろんのこと、基壇から、尖塔(ミナレット)など全てが大理石からできており、歩いているだけで贅沢な気持ちになる。なお、東奥に見える建物は、タージ・マハルの基壇の一段下の赤砂岩の基壇端にあり、西側にも対となる形で建っているが、西側がモスクで東側が集会場である。
タージ・マハルの北側の基壇の下には、ヤムナー川が広がっており、この時間、朝靄がかかって幻想的に見える。
正面の大アーチ(イーワーン)を間近から見上げてみると、美しい象嵌のアラベスク紋様やカリグラフィー(アラビア文字)の装飾が配されている。半ドーム内にはヴォールトをかたどった浮彫装飾が随所に見られる。
アーチの下部には生花の表情をそのまま写し取ったかのように一つ一つ異なった姿で表現されている草花の装飾があり、その上には、馬蹄アーチと多弁アーチ(複数の円弧曲線を花弁状につないだアーチ)を組み合わせた様な浮彫が規則正しく並んでいる。
扉のある中央部は、格子状の窓を組み合わせてアーチ型の装飾を形成しているが、驚くことに全て大理石をくり抜いて造られている。
そばに寄ってみると、正六角形にくり抜かれているのが分かる。全く歪みや不揃いがなく、まるでCGでデザインされたかのようだ。
墓廟の内部に入ると廟内の床は星形八角形と十字形を組み合わせた大理石のタイルで覆われている。
早朝のため光が内部まで入らないので、やや見づらいが、中央の八角形のホールの中心には王妃ムムターズ・マハルの墓石があり、その横には一回り大きな夫(第5代皇帝シャー・ジャハーン)の墓石がある。
再び外から中央のドームを見上げてみると、朝日が反射して一層美しくみえる。
基壇上の対角の四か所にあるミナレットは、中央ドームよりやや低い40メートルの高さがある。近づいて真下から見上げてみると、白と言うよりクリーム色といった印象を受ける。望遠で途中の節にあたる部分を見ると、手が抜かれることなく丁寧な装飾がされているのは流石だ。先端は灯台のようにも見える。なお、4本のミナレットは王妃ムムターズ・マハルに仕える4人の侍女を表していると言われている。
左右(東西)対で建つ東側の集会場の建物に行ってみる。集会場は赤砂岩で造られているが、タージ・マハルと変わらぬ繊細な装飾が下部から、イーワーンに至るまで隙間なく施されている。
イーワーンから朝日を浴びるタージ・マハルを眺めた後、再び、公園を歩き、大楼門(正門)に戻る。名残惜しくなり、途中何度も振り返ってタージ・マハルの美しい姿を見ながら遠ざかった。
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大楼門前から再び水に映るタージ・マハルを眺めると、太陽を浴び、白大理石が一層輝いてみえる。日差しの角度により、様々な表情を与えてくれるため、夕方にも再訪したくなった。なお、水面へその姿が映りこむシンメトリーの姿が一番美しいと言われている。
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観光客も少なく早朝の涼し中、美しいタージ・マハルの姿を見られたことに、すっかり満足して南門から敷地を後にした。時間は午前8時15分になっていた。
南門を出たところに銃を肩に下げた警官がいて驚いた。この南門近くには、レストランが集まっているので朝食を食べようとお店を探すと、入口に日本語で親子丼がお勧めと書かれていたフード・カフェ・レストランに入った。ミネラルウォーター(20ルピー)とラーメン(溶き卵が入っていた。)(50ルピー)を食べてホテルに戻った。
少し、仮眠してから、次にホテルで頼んだ車(800ルピー)に乗り、混雑するアーグラ市内(インド鉄道が走る高架橋下の道路そばに土砂を運ぶブルドーザーが最も渋滞した原因だった。。)を抜けて約40キロメートル西に位置するファテープル・シークリーに向かった。
実は、アーグラ城塞に行くつもりだったが、ホテルのスタッフからやたらと勧められ、多少時間もありそうなので行くことにした。
市内を出て高速道路に乗るとスムーズに走行し50分ほどでファテープル・シークリーに到着した。ファテープル・シークリーは、ムガル帝国第3代皇帝アクバル(在位:1556~1605年)によって1574年、アーグラから遷都した新都で「勝利の都」を意味する。
アクバル帝は跡継ぎに恵まれなかったが、この地に住む聖者サリーム・チシュティー(イスラム教の神秘主義者)の予言により王子サリーム(のちのジャハーンギール)が誕生したこと、1573年に、グジャラート地方での戦いに勝利したことから、1569年この地に新たな都の建設を始め1574年に完成した。ファテープル・シークリーは、ヒンドゥ建築とイスラム建築との融合がなされた幾何学的な都市計画で造られ、1986年に世界遺産に登録された。その遺跡群は、現在、宮廷地区とモスク地区とに分かれている。
階段上に聳えるのは、グジャラート地方の征服を記念した凱旋門ブランド・ダルワーザー(壮麗門)で、モスク地区の南門にあたる。なお、今回は、時間の関係からモスク地区(無料)だけを見学する。
都市遺跡は、全て大階段上の丘にあり、ブランド・ダルワーザーの高さは地上から54メートルに位置している。上り詰めて振り返ると町が一望できる。
ブランド・ダルワーザーは、大きなイーワーンと呼ばれる半ドームを持つ前方開放式の空間があるアーチで、随所にインド風の要素を取り入れて造られたムガル建築の最高傑作と言われている。そのイーワーン内に装飾されたアーチ門の左右には、同様のアーチの浮彫装飾が並び、その周りには赤砂岩に白大理石の象嵌をアラベスク紋様に配した繊細な装飾が施されている。
ところで、乗ってきた車は、階段下から数百メートル手前で進入禁止になり、すぐさまオートリキシャに乗せられた。階段の下では、杖を持つ痩せた白シャツ老人が待っており、その老人の後に付いて階段を上っていく。門から先は土足禁止のため、そばのいる係員に靴を預けて中に入る。
入口左右の木造の扉に打ち込まれた蹄鉄は、病気になった家畜が聖者の力によって治癒することを祈願したものらしい。
さて、扉を抜けると、広い中庭が現れアーケードが取り囲んでいる。まず、東側(右側)には、王の門があり、西側(左側)にあるのが、ジャーマー・マスジド(金曜モスク)である。金曜モスクは、サリーム・チシュティーなどの廟(ダールガー)が祀られていることからダールガー・モスクとも呼ばれている。モスク内には細かな象牙細工の礼拝堂中央のミフラーブ(マッカの方向を示す聖龕)や、ヒンドゥ建築の影響を受けた柱や庇などがある。
そして、北側(正面)に見える白い建物は、白大理石で建設された聖者サリーム・チシュティーを祀った廟である。皇帝アクバルに息子が授かると予言した聖者に対し感謝するため建てたお墓である。
そして、その右側に建つ建物が大勢のスーフィー(イスラム神秘主義の修道僧)の墓を納めるイスラム・ハーン廟で、本来聖者や聖職者が講話などを行う建物であった。
それでは、サリーム・チシュティー廟を見学してみよう。近づくと分かるが、廟の側面は全て白大理石の透かし彫りで覆われている。
壁面の透かし彫りは精緻を極める。側面の窓は全て大理石をくり抜いて作られている。。
庇の下の組み物はS字カーブの形をしており、そのカーブを補うように複雑な透かし彫りが施されるなど、何とも手の込んだ造りとなっている。そして足元のタイルの色合いも素晴らしい。
タージ・マハルでも、この厚みの大理石を精密に彫刻する職人技に感服したが、それを超えるほどの複雑な透かし彫り(※八角形の縁取り内にある星形八角形の透かし彫りと五角形の縁取り内ある星形五角形の透かし彫りが規則的に配置されている。)には驚くばかりである。
ファテープル・シークリーは、1574年から1584年まで10年間にわたりムガル帝国の首都となったが、水利が悪く、1584年には、ラホールに首都が移される。しかし1598年以降は、再びアーグラの地へと移ったという。ファテープル・シークリーはその後も、慢性的な水不足と猛暑が続いたため、1588年には(建設後わずか14年間)で廃墟となった。
ところで、オートリキシャと案内役の老人には合計350ルピーと日本の百円均一ショップで購入しておいた3色ボールペンを1本づつ渡すと、満面の笑みを浮かべて感謝された。あと、薄汚れた絵はがき(150ルピー)を買ってしまったのは誤算であった。。再び、車に乗り、次に、アーグラ城塞に向かった。
途中、高速道路でトラックが横転する事故があり、多少の渋滞があったが、アーグラ城塞の駐車場には、午後2時前に到着した。チケットショップで入場料250ルピー払い入場する。
アーグラ城塞は、皇帝アクバルがデリーからアーグラへの遷都に伴い建設したもので、1565年に着工し1573年に完成した。その後第4代皇帝ジャハーンギール、第5代皇帝シャー・ジャハーンまで3代に亘る皇帝の居城となった。最初に濠を渡り南側のアマル・スィン門から城塞に入る。
アマル・スィン門を抜けると、次にも門が見える。
2番目の門を抜けると3番目に見晴台がある巨大な2本の円柱に囲まれたアクバル門が見えてくる。この門をくぐり、
建物(壁)に囲まれた殺風景な上り坂を進んでいくと、坂は徐々に壁の高さまで近づき、
一気に視界が広がる。右側には、芝生が広がり正面に赤砂岩造の建物が見える。こちらはアクバル帝によって建てられた唯一現存する建物で、息子の名前に因んでジャハーンギール宮殿と名付けられている。宮殿は赤い砂岩で造られており、壁面に所々見える白色は白大理石を埋め込んでいるそうだ。正面のイーワーン内には、ダヴィデの星(六芒星)が白大理石で表現されている。
なお、宮殿の前にある柵で覆われた巨石は、ロイヤル・ハンマームと呼ばれる王の風呂である。
ジャハーンギール宮殿内は、中庭のある回廊で取り囲まれている。回廊を支えるのは、浮彫り装飾が隙間なく施された角柱で、
柱頭部分からは、庇と腕木の間に木工彫刻を思わせるような組物が配される凝った造りがなされている。そして列柱間には多弁アーチを形成しているが、乳頭を思わせる細工物で飾られているが印象的である。
一つの多弁アーチを下から見上げると4重に細かく彫刻されており、どれくらいの職人がこれらの制作に携わっていたのか考えただけでも気が遠くなる。
ジャハーンギール宮殿を更に東側に進むと広いテラスに出る。中央には花弁状になった噴水(配管?)の跡が残っている。
テラスの東壁からは、ヤムナー川越えにタージ・マハルがよく見える。タージ・マハルは、ここアーグラ城塞で湾曲し、東1キロメートルほどの下流で再び湾曲するヤムナー川の外側に建っている。その位置に建てられたことで川面に建物が映りシンメトリー効果が得られるのだと言う。しかし今は乾季にあたるため水量は少ないことからその効果はなく周りには河原が広がっている。
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次に、北側のアーケードのある建物を抜けると、右側にバンガルダールと呼ばれる突起物のある湾曲屋根の黄金パビリオンがあり、その中からも、ヤムナー川や、タージ・マハルが望める。
更に、北側には白大理石の建物があり、左側に伸びる大理石の壁のくぐり戸をぬけると、シャー・ジャハーン帝の寝殿(ハース・マハル)がある。小さな鏡と金属と陶磁器などで飾られており「鏡の御殿」とも呼ばれている。そして、寝殿の前(西側)には、大きな池があり、皇帝は水浴する女官たちを眺めていたという。
池の先には、アングリー庭園が広がっている。庭園は通路により4つに分けられた四分庭園で、中央には四角い池の跡がある。庭園の緑は幾何学的に区分けされている。
そして寝殿に向かって左側(北側)に行き、寝殿手前の対となる黄金パビリオンの先にあるのが、アーグラ城塞を代表する見所の一つ、5代目皇帝のシャー・ジャハーン帝が実子のアウラングゼーブ帝によって、晩年に幽閉された八角形の塔ムサンマン・ブルジュ(囚われの塔)である。中には入れないが、西側と南側から塔内を見学できる。最初に、西側から柵越しに塔内を覗き込んでみる。
床には大理石彫刻の噴水があり、周りには象嵌細工が施されたアーチやアラベスク紋様など幽閉場所とは思えないほどの装飾や浮彫で覆われている。右側の極太の列柱の奥に見える光の方角からタージマハルが見えるのだろう。幽閉された皇帝シャー・ジャハーンはこの場所で74歳で亡くなるまでの7年間を過ごしたと言われている。
今度は両側に透かし彫りの格子窓のある通路(※六角形の縁取り内に星形六角形の透かし彫りを中心に、周りに6個の六角形の透かし彫りが取り囲む)から黄金パビリオン側に回り込み南側から塔内を眺めてみよう。少し、逆光となり暗いが、噴水の浮彫装飾は揺れ動く水面の様に滑らかに表現されている。
さて、この後は、柵越しに塔内を見学する観光客の後に見える屋上に向かう。
屋上には、対の円柱で支えられた多弁アーチが続くアーケード建築のディーワーネ・カース(貴賓謁見の間)があり、白大理石の壁には、アラベスク紋様の象嵌細工や浮彫装飾などが施されている。左に見えるのが八角形の塔ムサンマン・ブルジュ(囚われの塔)だ。
ディーワーネ・カースは、向かって右側にアーケードが続いており、その下には、アーチ回廊に囲まれたマッチ・バワン(魚宮殿)と呼ばれる中庭がある。その1階のアーチ内には当時バザールがあり、賑わっていたという。
ディーワーネ・カースの前は、広いテラスになっており、東側に皇帝シャー・ジャハーンが眺めていたムサンマン・ブルジュ(囚われの塔)と、ヤムナー川沿いの亡き王妃の廟所タージ・マハルとを一緒に眺めることができる。
ディーワーネ・カース前から回廊沿いを対角(北西)まで歩き扉をくぐると、宮廷の女官たちのための宮廷礼拝堂ナギーナ・マスジド(宝石のモスク)がある。
マッチ・バワン(魚宮殿)の西回廊と背中合わせに建つ建物が、白大理石造りの9連式アーチが続くディーワーネ・アーム(公謁殿)である。かつては木造だったが、第5代皇帝シャー・ジャハーン帝によって現在の建物になった。ここで、一般民衆の訴えを聞いた皇帝が裁定を下していた。
内部は列柱が立ち並ぶ3廊式のホールとなっており、正面奥には皇帝の玉座のための空間があり、周りにはアラベスク紋様や宝石がはめ込まれるなど一層繊細な装飾が施されている。
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ディーワーネ・アームの前面(西側)は広場になっておりその先にプロムナードが南北に伸びている。その先にあるアーケードの後方には、妃たちのためにシャー・ジャハーン帝が造ったとされる白大理石造り清楚な姿が印象的なモーティ・マスジド(真珠のモスク)が望める。午後3時半を過ぎたところで、アーグラ城塞を後にした。
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ホテルに戻り仮眠した後、買い込んでいたビールをつまみと一緒に飲んで、午後7時過ぎにタージ・マハル南門の賑やかな通りに食事に出かける。この時間、ラクダなども往来するなど中東を思わせる雰囲気も感じた。
今夜はレストラン・トリートの2階のテラス席から通りを眺めながらオムライス(50ルピー)とオレンジジュース(20ルピー)を頼んだ。今日は、ムガル建築美術の傑作を3か所も堪能するという充実した一日となった。
(2012.12.4)
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