カズさんの旅たび

 ~歴史、文化、芸術、美食紀行。。

オーストリア・ウィーン(その1)

2018-07-08 | オーストリア
ウィーン国際航空に午後5時過ぎに到着、ホテルに荷物を置き、急ぎウィーン中心部にやってきた。多くの地下鉄(Uバーン)路線と近郊電車(Sバーン)が交差するカールスプラッツ駅(Karlsplatz)を下車、地下街から地上に上がると、目の前の大通りの向かい側に、音楽の都ウィーンを代表する「ウィーン国立歌劇場」が鎮座している。収容人員2,280人、オペラシーズン9月から翌6月までの観客動員数は約60万人とパリ、ミラノと並んで、ヨーロッパ三大オペラ劇場の一つと言われている。
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※ルートマップは、こちらを参照。

国立歌劇場は、1869年にウィーン帝立・王立宮廷場として建設された。第二次世界大戦では大きな被害を受けたが、1955年、ベートーベンのオペラ・フィデリオで再開され現在に至っている。専属オーケストラのウィーン国立歌劇場管弦楽団の歴代音楽総監督には、グスタフ・マーラー、リヒャルト・シュトラウス、ヘルベルト・フォン・カラヤンなど錚々たる巨匠らが務めており、2002年から2010年まで小澤征爾が務めたことでも知られている。

国立歌劇場手前の大通りは、世界でも美しい通りの一つとして知られるリング通りで、中心部(ウィーン歴史地区(2001年世界遺産))を取り囲む環状道路(1周約4キロメートル、道路幅約57メートル)となっている。周辺にはウィーンを代表する多くの建造物や歴史的名所が点在している。
なお、このリング通りは1857年まで城壁と堀があった場所で、当時は堀を橋で渡り城門(全部で11か所あった)から入場していた。ヨーロッパ中世時代は防衛上、城郭で囲まれていた都市が多かったが、ウィーンも同様であった。
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リング通りに面し国立歌劇場の右隣には豪華な建物が建っている。1892年創業の5つ星ホテル「ブリストル」で、カルロス1世(スペイン国王)、セオドア・ルーズベルト大統領、レナード・バーンスタイン、ジャコモ・プッチーニ、ポール・マッカートニー、カトリーヌ・ドヌーブなど世界のロイヤルファミリー、各界セレブやVIPの定宿として利用されてきた。
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時刻は既に午後7時半だが、日の入りまでは一時間ほど時間があるので、リング通りを渡り国立歌劇場とホテル・ブリストルの間を通ってウィーン中心部を散策してみる。


国立歌劇場は、正面から見ると小ぶりな印象だが、横から見ると奥行きがかなりある。その歩道に並んでいるのは、シティ・バイクと呼ばれるレンタサイクルで、1時間1ユーロ(別途登録料1ユーロ)で貸し出ししている。同様の場所は、ウィーン市内に120か所ほどあり、何処でも貸し出し・返却が可能とのこと。使い慣れると便利かもしれない。
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ところで、この国立歌劇場は、2015年公開のアメリカ映画「ミッション・インポッシブル/ローグ・ネイション」のロケ場所となった。
映画では、組織(シンジケート)を追っていたイーサン(トム・クルーズ)が、オペラ(トゥーランドット)鑑賞中のオーストリア首相を舞台裏から狙うスナイパーと対決する。その後、国立歌劇場の出入り口が封鎖されたため、イーサンは、国立歌劇場内で出くわした謎の女イルサ(レベッカ・ファーガソン)と一緒に屋根裏から脱出し、正面に見える翼廊屋上からロープで下りてくると言ったシーン。シリーズごとにパワーアップするトム・クルーズの体を張ったアクションには関心させられた。

国立歌劇場の先向かいに建つのは「ホテル・ザッハー」。1876年エドゥアルト・ザッハーにより建てられ、その後、未亡人アンナ・ザッハーにより、貴族や外交官が宿泊する世界の最高の格式あるホテルの一つとなった。なお、チョコレートケーキの王様と称される「ザッハトルテ」とは、このホテルで最初に提供されたことが由来となっている。
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さて、そのホテル・ザッハーから北に伸びる通りはウィーンきっての繁華街「ケルントナー通り」(歩行者天国)で、いつも人通りが絶えない。


こちらでは、ストリート・ミュージシャンによる演奏会が行われている。


こちらのお兄さんはやたらラフな服装だが、スリムな体型とヴァイオリンを弾く姿はかっこいい。


ショーウインドウが続く右側には「マルタ騎士団教会」がある。住居らしい窓が並んでいる建物の間にあるためわかりづらいが、変形十字架が飾られていることで目印になる。建物外観は19世紀のものと新しいが、もともとは13世紀、オーストリア公(バーベンベルク家)レオポルド6世(1176~1230)が騎士団をウィーンに招いたことがきっかけになっており、現在の教会は14世紀に建てられたもの。内部にはその当時の姿を多く留めているという。


ホテル・ザッハーから200メートルほどで、左右にやや大きな路地がある交差点が現れる。
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右手に「ノルトゼー」がある。ノルトゼーとは、魚介類専門のレストラン・チェーンで、魚介類を素材としたサラダ、サンドイッチ、フライなどが手頃な値段で提供されている。

なお、中心部を散策した後の午後8時半頃に夕食を頂いてみた。食材や食品がショーウインドー内に並んでいるので注文しやすかったし、注文した海鮮ピラフは、サクサクとした揚げたてのフライが盛られておりビールとの相性も良く美味しかった。

ノルトゼーから路地沿いに見えるカフェは「フラウエンフーバー(Frauenhuber)」で、もともとはオーストリア大公マリア・テレジア(1717~1780)の専属料理人だったフランツ・ヤーンのレストランだった。1824年から現在のカフェとして営業している。モーツァルトやベートーベンが演奏したことでも知られている。


ノルトゼーと逆に左手の路地を入ったすぐ先には広場(ノイアーマルクト)がある。この広場では19世紀まで小麦粉や穀物が売られていた。中央には1737年から1739年にかけてウィーンを代表する彫刻家ゲオルク・ラファエル・ドンナーにより作られた「ドンナーの泉(ドナウ川と支流を意味する寓意像)」があり、市民や観光客の憩いの場になっている。なお、ドンナーの泉の後方に見える尖塔のある建物は、ウィーンの最古の教会の一つ、「ミヒャエル教会」である。


広場のすぐ南側には、カプツィーナー教会の「カイザーグルフト(皇帝納骨所)」がある。1617年、神聖ローマ皇帝マティアスの皇后アンナ(1585~ 1618)が、自分たち夫妻の墓所としての構想を思いたち建設した。その後のハプスブルグ家の代々149人(12人が皇帝、19人が皇妃及び王妃)等の棺が納められている。


ところで、もともと、スイスの一地方領主にすぎなかったハプスブルク家が、このウィーンを治めることになったのは、1278年、オーストリア公となったルドルフ1世(1218~1291)が、断絶したバーベンベルク家に代わりこの地を支配したことが始まりである。彼は、ハプスブルク家として初めて神聖ローマ皇帝に推挙され、その後も支配権を拡大していくことから、ハプスブルク帝国の栄光の始祖とされている。

再び、ノルトゼー前に戻り、ケルントナー通りを更に200メートル進むとシュトック・イム・アイゼン広場が現れる。ここでケルントナー通りは終了となる。広場から、そのケルントナー通りを振り返ると、右側には、新バロック様式の美しいエクイタブル宮(Palais Equitable)が建っている。もともと19世紀にアメリカから来たエクイタブル保険会社の建物として造られた。頂部ドーム上には、アメリカから乗って来た船が象徴として模られている。
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そして、シュトック・イム・アイゼン広場の先右手(ケルントナー通りから見て)には、ウィーンのシンボル「シュテファン寺院」が建っている。12世紀半ばからロマネスク様式の教会として建築され、14~16世紀頃に、現在の後期ゴジック様式に改築された。巨大な塔(南塔)は137メートルの高さがあり1359年に完成したもので、市民からはシュテッフルという愛称で呼ばれている。塔には見晴らし台があり階段(343段)で上ることができる。
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なお、ベルヴェデーレ宮殿所蔵でルドルフ・ボン・アルト(Rudolf Von Alt)(1812~1905)が描いた1832年のシュテファン寺院の姿は、180年以上たった現在とほとんど同じであることに驚かされる。

シュテファン寺院の入口は広場に面した西側ファサードにある(入場は無料)。扉口のティンパヌムや弧帯(アーキヴォルト)は細かく彫刻されており、見ごたえがある。


聖堂内は全長107メートルに及ぶ広さがあり、ゴジック様式のすらりと伸びる柱や高い天井アーチに照明と外光がまじりあい、崇高な雰囲気を与えてくれる。
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内陣に向かって、左側には、1510~1515年にかけて石灰砂岩で作られた説教壇がある。支柱箇所の繊細な彫刻が特に美しく、制作者のアントン・ピルグラムが、覘き窓から乗り出しているが、この時間は近づけず見えない。上部には西方の四大教会博士が彫られている。そして、主祭壇に向かい右側祭壇には神聖ローマ皇帝フリードリヒ3世(1415~1493)の棺が、左祭壇にはフリードリヒ3世が寄進したとされる「ヴィーナー・ノイシュタットの祭壇」がある。他にも歯痛のイエス・キリストなども見所である。地下のカタコンベには、ペストで亡くなった約2000体もの骨とハプスブルグ家の人々の内臓を入れた壺などが安置されている(ガイドツアーのみ見学可能)。

さて、シュテファン寺院から広場を北側に回り込むと、プンメリンという巨大な鐘が吊るされた北塔がある。もともとは、南塔と同じ高さを予定していたが、財政難で途中までとなった。エレベーターで上ることができる。
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外壁の屋根には、鷲を形取ったオーストリアの国章(向かって左)とウィーン市の紋章(右)がモザイク状にタイル(瓦)で作られている。鷲の下には復元された年(1950年)の数字が刻まれている。


細い路地を東に向かうと「モーツァルト・ハウス」の表示がある。モーツァルトが1784年から3年間住んだ場所で、オペラ「フィガロの結婚」が作曲されたという。


シュテファン寺院から500メートルほどで、シュトゥベントール(Stubentor)(U3)駅がある。ここには、中世の城壁の跡が残されている。


城壁のそばには、シュテファン寺院を中心に城壁が築かれていた16世紀中頃の様子をブロンズで表現した模型が飾られている。この模型の城壁は、シュテファン寺院の大きさと比べて意外なほど狭いように思うがどうなのだろう。


地下に下りる階段からは、発掘された城壁の一部を間近に見ることができる。この遺構は、11箇所の城門の一つとのこと。更に階段を降りた先の改札横にもおもむろに城壁の土台の部分が残されているのには驚いた。


地下鉄の入口の東側は広場になっており、オーストリア・ハンガリー帝国の政治家でウィーン市長を務めた、カール・ルエーガー(Karl Lueger、1844~1910)の銅像が建っている。


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さて、翌日再び、シュトック・イム・アイゼン広場にやってきた。広場には、シュテファンスプラッツ駅(U1、U3)があり、駅を出た先に伸びる歩行者通りはグラーベンと呼ばれている。
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グラーベンは、堀と言う意味だが、リングにあった中世の堀のことではなく、古代ローマ時代に築かれていたローマ帝国の駐屯地の堀のことである。ローマ帝国はドナウ河を北側の国境としており、ドナウ川沿いのウィーン、ブダペスト、ベオグラードなどに防衛のための駐屯地を置いていた。このあたりがウィーン(ウィンドボナと呼ばれた)駐屯地の最南部だった。
グラーベンを歩いてみると、道幅は広く、距離は短い(突き当たりの建物が見える)ため、広場のようでもある。通りの中央には、彫像やオブジェらしき像が見える。
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最初の彫像は、レオポルドの泉(Leopoldsbrunnen)と呼ばれている。レオポルドとは、バーベンベルク家のオーストリア辺境伯レオポルト3世(1073~1136)のことで、後に聖人となり、ウィーンの守護聖人となっている。


次に、ペスト記念柱が見えてくる。ヨーロッパ中に蔓延したペストは1678年ウィーンも襲い約10万人の死者を出した。そのぺスト終結を記念して、マリア・テレジアの祖父である神聖ローマ皇帝レオポルド1世(1640~1705)により制作されたものである。当初は木製だったが数年後に現在の姿になった。
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ペスト記念柱の先の右側路地奥には緑のドーム屋根が美しい「ペーター教会」が建っている。もともと8世紀頃に建てられたとされるが、1276年に火災にあいロマネスク様式に改築された。そして、ベルヴェデーレ宮殿を手がけたルーカス・フォン・ヒルデブラントの設計で1701~1733年にバロック様式として建設され現在に至っている。


外観は、こじんまりした印象だったが、教会内部は見事なまでの豪華なバロック空間が広がっている。この時間はミサが行われており、祭壇前に行くことができなかった。
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丸天井にはカールス教会の内装も手がけたロット・マイヤー作の「聖母マリアの被昇天」が描かれている。
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教会の外には、観光馬車が待機していた。そして、背後のグラーベン沿いに建つ後期ルネッサンス様式の建物は、グラーベンホーフ(1873年建築)と呼ばれ、オーストリアの建築家、都市計画家オットー・ワーグナー(1841~1918)の手によるもの。彼はウィーン分離派の中心人物の一人で、機能性・合理性を重視する近代建築の理念を表現した。
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このグラーベンホーフには、フランスのレザーグッズブランドのロンシャンや、ドイツのジュエリー、ウェレンドルフなどの高級ブランド店舗が入っている。

グラーベンのペスト記念柱を中心に、東側の「レオポルドの泉」と対になるように、西側には「ヨゼフの泉(Josefsbrunnen)」がある。両ブロンズ像は、1804年、神聖ローマ帝国フランツ2世(1768~1835)の命により建てられた。では、像の西側に回り込んで、グラーベン全体を見てみる。
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そして、グラーベンの終点には、ユリウス・マインル・アム・グラーベン(Julius Meinl am Graben)というウィーン最大の高級食品専門店が建っている。入口の左右には、ギリシャ彫刻を思わせるような女神像の柱が飾られ高級感を醸し出している。金額はやや高めだが、調味料や真空パックされた食材など、ワンランク上といった見栄えの良さもあり、お土産には最適である。


グラーベンの終点から右側の細い路地を200メートルほど進むと大通りに出る。右側の広場はホーエルマルクトと言い、中心には「結婚の泉(Vermählungsbrunnen)」と名付けられたオブジェがある。そして奥に見える白い建物と左側の建物とは、


仕掛け時計で繋がっている。1914年当時アンカー保険会社(現:ヘルヴェチア・フェアズィッヒェルング)の建物だったことからアンカー時計と名付けられた。


上部の”分”を示す数字を左から右へと”時”を表すローマ数字が移動して現在時刻を示している。ローマ数字の下には、ウィーンに関係する有名人12人が時間毎に登場する、現在午後6時12分。5時を表す神聖ローマ皇帝ルドルフ1世が時計板から去り、次の6時を表すハンス・プッフスバウム(シュテファン寺院の建築家)が時計版に現れたところである。
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有名な人物としては、カール大帝(2時)、マリア・テレジア(11時)、ハイドン(12時)など。12時には、12体の人形が音楽にのり順番に現れるとのこと。

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ところで、リング内には、ケルントナー通り、グラーベン、コールマルクトと3つのメインストリート(歩行者天国)があり、それぞれ”コ”の字で繋がっている。
グラーベンの終点ユリウス・マインル・アム・グラーベン(高級食品専門店)から左折し、南西に伸びるコールマルクトの歩行者天国を200メートルほど行った突き当たりには「ミヒャエル広場」があり、その広場を見下ろすように「ホーフブルク王宮」が建っている。
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王宮は13世紀頃にオーストリア公国公城として建てられたが、神聖ローマ皇帝ルドルフ1世(ハプスブルク家の初代皇帝)(1218~1291)治世より、ハプスブルク家の居城兼王宮となっている。王宮は増改築を繰り返した結果、現在では18の棟が複雑に入り組む2500以上の部屋があり、その一部は「皇帝の部屋」、「銀器コレクション」、「シシィ博物館」として公開されている。

中央ドームの下の「ミヒャエル門」と呼ばれる大きな門をくぐると、建物内はドームまで続く巨大な空間となっており、右側には、博物館の出入り口がある。反対側の門を抜けると、先は建物に囲まれた中庭になっており、中央に神聖ローマ帝国フランツ2世(1768~1835)の彫像が飾られている。
中庭側から見た王宮は、正面側の弧を描く外観と異なり、長方形の建物になっており、ミヒャエル門は正面側と比べ小ぶりに造られている。
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フランツ2世の彫像を中心に中庭全体を見るとこんな感じ。


次に左側の建物にある門(左側の建物の門からミヒャエル門を振り返った様子)を抜けると、英雄広場(Heldenplatz)になっており、先に見える5つの門は「ブルク門」と名付けられている。
なお、ブルク門の先がリング通りになり、そのリング通りの向かい側に「美術史博物館」がある。


ブルク門に向かって右側の英雄広場の中央には、カール大公(1771~1847)の騎馬像がある。カール大公とは、神聖ローマ皇帝フランツ2世の弟で、1809年のアスペルン・エスリンクの戦いでナポレオンを破った人物として知られている。なお、後方のゴシック風の尖塔はリング通り沿いに建つウィーン市庁舎である。


反対側には、カール大公の騎馬像と向かい合うようにオイゲン公(1663~1736)の騎馬像がある。オイゲン公とは、神聖ローマ皇帝レオポルト1世(ハプスブルク家)に仕え、オーストリア軍の将校となり、長期に渡って続いた対オスマン帝国との戦争(大トルコ戦争)で活躍し英雄となった人物。

そして、オイゲン公の騎馬像の後ろには、王宮と良く似た形状の「新王宮」が建っている。新王宮は、1913年に完成した比較的新しい宮殿で、古楽器、狩猟・武器のコレクションの展示やギリシャの古代エフェソスの出土品などが展示された博物館になっている。
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では、再び、ミヒャエル門をくぐりミヒャエル広場まで戻ってきた。次に広場に向かって右側(王宮の建物に沿って)に進んでみる。


王宮の外壁の先にも、また門が見え、王宮の建物と別の棟が繋がっている。。どこまでが、王宮なのか正直わかりづらい。


門をくぐると、右側が広場になっており、神聖ローマ帝国ヨーゼフ2世(1741~1790)像が建っている。ヨーゼフ2世像の後ろの建物は、18世紀後半に神聖ローマ皇帝カール6世(1685~1740)の命により、バロック建築の巨匠フォン・エアラッハ親子によって建てられた「国立図書館(プルンクザール)」である。プルンクザールとは大広間の意味で、フレスコ画で飾られた中央の丸天井の下が豪華な大広間になっていることから名付けられた。
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くぐってきた門の建物(左側の赤い屋根)は1572年創設の「スペイン乗馬学校」である。名前の由来は当時スペイン種が強靭馬であったことこら名付けられた。馬場の様子は、門の中にあるガラス越しから覗き見できる。乗馬学校は、2015年にユネスコ無形文化遺産に登録されるなど古典馬術の伝統が今も引き継がれているそうだ。

そして右側が「パラヴィッチーニ宮」で、入口の女神像は、1949年製作イギリス映画キャロル・リード監督の「第三の男」のハリー・ライムのアパートとして登場する。ウィーンではこのような、映画「第三の男」ゆかりの場所を尋ねる専用ツアーがあるとのこと。
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通りを更に進むと右側に、「アルベルティーナ宮殿」が見えてくる。宮殿名は、マリア・テレジアの娘の夫の名前が由来になっている。現在は、アルベルティーナ美術館(大階段を上ったテラスに入口がある。)として、100万点を超える印刷グラフィック、6万点に上る素描などが所蔵されている。なお、宮殿反対側のテラスには巨大な温室植物園(レストランがある)があり、ブルク ガルテン(王宮庭園)が広がっている。
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そして、アルベルティーナ宮殿の先に見える緑の屋根の建物がウィーン国立歌劇場で、手前の左側の白い建物が「ホテル・ザッハー」。その先がケルントナー通りの入口になる。なお、こちらから見えるホテル・ザッハーの1階には、老舗の「カフェ・モーツァルト」がある。
これでリング通り内の見所は概ね見てきたのではないか。。

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現在時刻は午後7時過ぎ。夕食には少し早いが、このあと、予定があるので「レストラン・ミュラーバイスル」に行く。場所は、ケルントナー通りのマルタ騎士団教会の先から東側の路地を入り200メートルほど進んだ所にある。時間も早くテラスも十分空いていた。


飲み物は、ビールと赤ワインを注文する。食事は、サラダ、スープ、メイン、デザートのセットメニューを注文した(日本語メニューがある)。サラダはきゅうり、レタス、トマト、オリーブにすりおろしチーズが乗ったもの。スープはポテトスープ、メインは牛肉シチューかウィーン風カツレツがあった。揚げ物はあまり好みではないが、カツレツはウィーン名物でもあるため、一度は食べてみようと注文した。きつね色にこんがり揚がった姿は美しく、揚げ物好きにはたまらないかも。。


レストランから通りを南側に進むと、音楽の家(ハウス・デァ・ムジーク)と名付けられた博物館がある。もともとカール大公の宮殿だったところ。


そのまま通りを南に歩くと、シュヴァルツェンベルク通りとなり、その先でリング通りと交差する。信号のすぐ左側が路面電車の乗り場になる。なお、正面にはシュヴァルツェンベルク広場があり、カール・シュヴァルツェンベルク元帥(1771~1820)の騎馬像が建っている。彼は、ナポレオン戦争期のオーストリアの将軍で、1813年の諸国民戦争では、プロイセン、オーストリア、ロシア、スウェーデンの連合軍の指揮官を務め、ナポレオン軍を破った英雄である。
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路面電車に乗ってリング通りを進んでいく。途中右側に見える国立歌劇場を、左側に見える美術史博物館を過ぎ、5つ目の停留所で下車する。すると、反対車線(左側)には、ギリシャ神殿風の国会議事堂が見える。建物は1883年に完成したもので、建築家のテオフィル・フォン・ハンセンの作による。彼は民主主義発祥のギリシャの古典様式がウィーンの街に相応しいと考案し採用された。
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国会議事堂を過ぎた先の横断歩道からリング通りを渡り、反対車線沿いの歩道を進むと、木々が覆い茂る公園になり、特設の店舗が並ぶ賑やかなエリアが現れた。


何軒かのお店を過ぎて左側を見ると、ウィーン・ゴシック建築を代表する「ウィーン市庁舎」が望める。1872~1873年にフランツ・フォン・シュミットによりネオゴシック様式で建てられた。中央塔の高さは98メートルある。今夜はこの市庁舎前広場(ラートハウス広場)でフィルム・フェスティバルが開催される。
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座席はまだ空席があるようだ。午後9時を過ぎたころ、最初に市長らしき人物の挨拶がながれ、本編が始まった。演目は「カリギュラ」とのことだが、男女がターンテーブルなどで踊り続けるというものなど。満腹感と音楽の心地よさで何度も寝てしまった。


1時間ほどいたが、演目途中で引き上げることにした。。市庁舎とリングを挟んで向かい側にはライトアップされ白亜に輝く「ブルク劇場」が建っている。ブルク劇場と言えば、モーツァルトの数々のオペラの初演などが行われたことで知られているが、その当時は現在の場所と異なり、ホーフブルク王宮の一部として、ミヒャエル広場に面して建っていた。現在のブルク劇場は1888年に完成し戦後1955年に再建されたもの。
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帰りもリング通りから、路面電車に乗り、国立歌劇場前で降りて、カールスプラッツ駅からUバーンでホテル(U4で3駅目)に帰った。
(2018.7.8~10)

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