カズさんの旅たび

 ~歴史、文化、芸術、美食紀行。。

チェコ・プラハ

2013-02-12 | チェコ
夕方、カルロヴィ・ヴァリからプラハに戻ってきた。今夜は、ヴルタヴァ川(ドイツ語名:モルダウ川)右岸の旧市街にある歴史的な劇場建築の一つ「エステート劇場(The Estates Theatre)」(スタヴォフスケー劇場)で、モーツァルトのオペラ「フィガロの結婚」を鑑賞した。フィガロの結婚は、1786年にモーツァルトにより作曲され、ウィーンで初演され早々に打切られるが、こちらエステート劇場では大成功を収めた記念すべきオペラである。
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エステート劇場では、フィガロの結婚の成功により、新たに新作を依頼し、翌年にはモーツァルト自身の指揮で「ドン・ジョヴァンニ」の初演を果たしており、これらの縁により、エステート劇場では、現在もモーツァルトのオペラを中心に上演している。

そのフィガロの結婚は、セビリアにあるアルマヴィーヴァ伯爵の屋敷が舞台で、結婚式を目前に控えた、伯爵の召使いフィガロと伯爵夫人の侍女スザンナに対して、浮気心を起こしてスザンナをものにしようと企む伯爵と、何とか懲らしめようとする伯爵夫人たちが巻き起こすドタバタ喜劇である。

エステート劇場が建設されたのは1783年のことで、チェコの貴族ノスティツ伯爵(1725~1794)により、国家と芸術を司る神ミューズを称える目的で建てられた。古典様式のスタイルが採用され、今もその当時の美しい姿のまま残されている。観客席は1階席と周囲のボックスシート(1~3階)と桟敷席(4~5階)を含め650席ほどと、ややこじんまりしており、この日は1階後方席から鑑賞したが舞台全体やオーケストラピットも近く感じられた。

周囲は、青色を基調に金色の装飾が施され、天井には、赤を基調にミューズを題材とした美しい装飾が施されている。ミロス・フォアマン監督の1984年の映画「アマデウス」のオペラシーンでもそのまま使われており、まさに歴史の舞台に立った様でもあり感慨ひとしおである。
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劇場の敷地は、東西80メートル×南北20メートルほどの長方形で、外観にはピラスター装飾に鮮やかなミントグリーンの色彩が施されているが、 午後10時過ぎの薄暗い街灯の光の中では落ち着いて見える。西側のファサードは、曲線の美しさが強調された突出した造りで、前面にペディメントとエンタブラチュアを支える古典様式の円柱で飾られている。エンタブラチュアには、祖国と芸術に捧げると言った意味の、パトリアエと音楽(Patriae et musis)と碑文が刻まれている。
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オペラ鑑賞後は、近くにある「カフェ・ミュシャ Cafe Mucha 」で食事をした。チェコ料理中心のレストランで、ペチェナー・カフナ(ローストダック)と、魚のフライ、茹で野菜やクネドリーキ(練って茹でたパン)を頂いた。レストランの創業者はチェコ出身の画家アルフォンス・ムハ(ミュシャ)(1860~1939)とゆかりのある人物とのことで、壁にはミュシャの作品が至る所に飾られている。
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プラハでの宿泊ホテルは、ヴルタヴァ川に架かるシュテファーニクフ橋の旧市街側にある「クラリオン ホテル」で、レヴォルチュニ通りの西側にある。レストランからは北東方面に約1キロメートルと歩けない距離ではないので、午後11時半頃までゆっくり過ごした。

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プラハはチェコ共和国の首都で、人口約120万人を持つ同国最大の都市である。プラハ市街中心部を流れるヴルタヴァ川(ドイツ語名:モルダウ川)沿いには、様々な時代の歴史ある建物が数多く現存しており、1992年には「プラハ歴史地区」として世界遺産に登録されている。

今日は「プラハ城(Pražský hrad)」の見学に出かけることにしている。プラハ城は、かつてのボヘミア国王や神聖ローマ皇帝の居城で、世界で最も大きい城の一つと言われている。東西430メートル、南北70~140メートルの細長い敷地を持ち、プラハの街を見下ろす様に「フラッチャ二の丘」の頂に聳えている。こちらは、ヴルタヴァ川右岸(東側)のスメタナ博物館南側から「カレル橋」と「プラハ城」を眺めた様子である。
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ヴルタヴァ川右岸の旧市街側からプラハ城へ向かうには、「カレル橋」を渡り、マラーストラナ地区(城下町)から「ネルドヴァ通り」のゆるやかな坂道を上った「フラッチャ二広場」側のプラハ城「正門」(西門)から入場するのが一般的なルートだが、この日は、ホテルから15番トラムで下流にある「シュテファーニクフ橋」を横断し、そのままヴルタヴァ川左岸沿いを進んで、マラーストラナ停留所で下車して、少し急な古城階段を上り、プラハ城の東側に建つ黒塔側の「東門」から入場した。

到着時間は概ね午前10時頃で、こちらはプラハ城内から東門の「黒塔」を振り返った様子。黒塔は、12世紀頃、要塞建設と同時に城壁門として建てられたロマネスク様式の四角形の塔で、高さ26メートルある。


黒塔に向かって右側の建物は、ボヘミア貴族ロブコヴィツ家の収集した美術館「ロブコヴィツ宮殿」 で、左側には、おもちゃ博物館や、「黄金小路」と名付けられた100メートルほどの狭い路地がある。プラハ城の敷地内には無料で入場できるが、城内の各施設へは別途チケットが必要となる。

その黄金小道へは、予め購入しておいたプラハカードでチケットを取得して入場した。敷地内には、色とりどりの古いアパートが並び、中世の鎧や、槍、衣装などが展示され、お土産や、書籍なども販売されている。入口に22とかかれた青い家は、チェコの作家フランツ・カフカ(1883~1924)が仕事場として1年ほど使用しており、一番の観光名所となっている。すぐそばに、フランツ・カフカのカフェもある。


プラハ城内の東西を横断する中央通りを西に向け歩いて行くと、大きな広場に到着する。前方西側には「聖ヴィート大聖堂」の後陣が望め、振り返った東側には「聖イジー教会」が建っている。聖イジーとは、古代ローマ末期の聖人で、ドラゴン退治の伝説でも有名な聖ゲオルギオスのチェコ語表記である。上部ペディメントには、騎馬姿の聖イジーがドラゴンを退治する浮彫装飾が飾られている。


プラハ城が最初に建設されたのは9世紀(870年頃)とされるが、はっきりしない。聖イジー教会の赤いファサードは17世紀後半にバロック様式で造られたが、もともとは、920年にプシェミスル朝(ボヘミア公)ヴラチスラフ1世(905/15~921)により木造建築で建てられたプラハ城内では最も古い教会で、973年にはベネディクト会系女子修道院が併設されている。ちなみに、ヴラチスラフ1世の長男が、ヴァーツラフ1世(在位:921~935)で、チェコの守護聖人聖ヴァーツラフとしても知られ、真のキリスト者にして国と民族を守った英雄として今も語り継がれている。

教会内は、身廊壁に小さな三連アーチの窓、木製の平天井、40メートルの高さの大きなアプスなど、ロマネスク様式で建てられている。これは、1142年のプラハ城火災後に、石造りで改修されたことによる。そのアプスには「聖母戴冠」が、手前には「天のエルサレム」が描かれたフレスコ画があるが、剥落して大半が失われている。
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そしてそのアプスの南隣りには、リュドミラ(ルドミラ)の生涯が描かれた天井画「聖リュドミラ礼拝堂」がある。リュドミラ(860~921)とは、少年ヴァーツラフ1世を、信仰篤いキリスト教徒として育てた祖母であり、摂政を務めた人物。当時のボヘミアは、まだキリスト教を受け入れ始めた時期で、リュドミラは、非キリスト教徒のヴァーツラフ1世の母ドラホミーラとの対立を深め、最後は自身のベールで絞殺され聖人となった。その後も、ボヘミアの守護聖人として崇敬されている。

主祭壇は、3つのアーチ窓を背景に、鉢が飾られた木製の祭壇と左右の椅子だけが置かれた簡素なものとなっている。また、祭壇の表面には、聖イジーの浮彫で装飾されているが、馬上姿ではなく聖イジーがドラゴンの上に跨る姿勢で槍を指し退治している。


祭壇の左右バロック階段の下には、地下に下りる階段があり、ボヘミア公・ボヘミア王家プシェミスル朝の歴代公王の遺骨が埋葬された礼拝室(クリプト)がある。そして、左右バロック階段下の南身廊側に置かれた切妻造の木棺はヴラチスラフ1世の墓で、その南側廊には聖リュドミラの彫像墓石が置かれている。彫像は、胸元で手を合わせ祈り、ベールをひも状にして首に巻きつけられた姿で横たわっている。。

聖イジー教会の南西角には、フレスコ画が描かれたドーム天井がある細長い立方体の小礼拝堂が隣接している。その礼拝堂東面に1722年に建設されたバロック様式の渦巻き形状の柱を持つ「聖ヤン・ネポムツキ―」(ネポムクの聖ヨハネ)の祭壇が飾られている。なお、右側には、聖母子像が描かれたやや小ぶりの木製祭壇がある。


聖ヤン・ネポムツキ―(1340頃~1393)の彫像は、チェスキークルムロフの旧市街でも飾られていたが、ボヘミアの守護聖人として大変有名な人物。14世紀ボヘミアの司祭、ローマ・カトリック教会の聖人で、ボヘミア王ヴァーツラフ4世(在位:1378~1419)とカトリック教会との対立で、拷問を受けて亡くなり、カレル橋から投げ捨てられたが、その後発見され埋葬された。1729年に列聖され、墓碑は向かい側の「聖ヴィート大聖堂」に納められている。

次に、プラハ城での大きな見所の一つ「衛兵の交代式」が行われる午後12時が近づいていることから、急ぎ「聖ヴィート大聖堂」と南側の大統領府との間の「第三の中庭」(プラハ城中心部)を通過してプラハ城の正門(西門)に向かった。
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衛兵の交代式自体は、プラハ城の正門(西門)で、毎時ジャストに行われるが、午後12時の交代式が音楽隊のファンファーレなど最も盛大な中で行われ人気が高い。時間ギリギリに、プラハ城内の「第一の中庭」にやってきたが大混雑していた。この時間は、正門からの入退場も封鎖され、正門外のフラッチャ二広場側も同様に大混雑している。背伸びして僅かに見られたほどだった。
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ところで、フラッチャ二広場の右側にある白い建物は「大司教宮殿」で、広場を挟んで左側の建物が「ナショナルギャラリー」で、チェコスロバキア共和国の初代大統領トマーシュ・マサリク(在任:1918~1935)の銅像がこちら(プラハ城)に向いて建っている。

正門の角柱の上には、フラッチャ二広場側に向いて「闘う巨人像」と呼ばれる二体の像が飾られている。1771年、彫刻家イグナーツ・ブラツェルにより制作されたもので、左右にはハプスブルク家の象徴である「鷲の像」や、ボヘミア王家の象徴である「ライオンの像」、「キューピット像」なども飾られているが、現在は全て複製に置き換えられている。
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衛兵の交代式が終わって、再び、正門側(西門)からプラハ城中心部に戻ることにした。「第一の中庭」から、17世紀に造られた初期バロック様式の「マティアスの門」(※夕方の大司教宮殿前側からの画像)(神聖ローマ皇帝マティアス(在位:1612~1619)に因む)をくぐり、バロック様式の噴水のある「第二の中庭」(1687年築)を経由して、プラハ城の中心部「第三の中庭」に到着する。

プラハ城の中心部となる「第三の中庭」には敷地の大半を占める「聖ヴィート大聖堂」が聳えている。その大聖堂の南側廊が広場で、向い側に大統領府、旧王宮と政治の中枢となる建物が続いている。

大統領府(大聖堂南塔の展望台からの様子)は、チェコスロバキア共和国の設立に伴い、初代大統領トマーシュ・マサリクの後援の下、スロヴェニアの建築家ヨジェ・プレチニック(1872~1957)によって設計された。その後チェコ共和国になった現在も利用されている。ちなみに大統領が在館の時はポールにチェコ国旗が立つことになっているので、今日はいらっしゃるらしい。


その大統領府を守る様に、中庭にはドラゴンを退治する「聖イジーの騎馬像」が飾られている。ただし、こちらは複製で、14世紀に造られたオリジナルの騎馬像は王宮内部に保存されている。


「第三の中庭」では、大統領府の東隣りにある「旧王宮」を見学した。王宮の建設は10世紀頃で、その後16世紀まで歴代のボヘミア王の宮殿だった。こちらは旧王宮内にある後期ゴシック様式のアーチ型のホール「ヴラディスラフ・ホール」で、東西62メートル×南北16メートル、高さ13メートルと、当時世界最大級と言われた。ドイツ人の建築家ベネディクトリード(1454~1536)の指導の下、1502年頃に建設され、現在も当初の形で保存されている。


美しい形をした花弁文様のリブ・ヴォールトが特徴で、この大きなホール空間を支えている建築技術の高さにも驚かされる。戴冠式などの国家的行事で使用され、現在も大統領選挙などで使用されている。こちらはホールの東側から西側を眺めた様子である。

ヴラディスラフ・ホールの東端の北隣には、ボヘミア王ウラースロー2世(在位:1471~1516年)治世に建設された「議会の間」がある。こちらは1861年まで議会会場として使用されたが、その後は近くのトゥーン宮殿に移管されている。左側には白いルネサンス様式のポータルが設置され、左側の黒い扉は、土地台帳などのある保管庫に通じ、右側の白い扉は、外に通じる乗馬階段(傾斜が緩やかな階段)となり、馬に乗ったまま駆け上りポータルまで来ることができた。また、ホールへの非常口や運搬ルートとしても活用された。


手前の壁にはオーストリア女大公(ボヘミア女王)マリア・テレジア(1717~1780)、息子のヨーゼフ2世(1741~1790)、レオポルド2世(1747~1792)などの肖像画が飾られている。

ヴラディスラフ・ホールの東壁に設置された高さ1メートルほどの階段を上り、ボヘミアの紋章が飾られたアーチ門をくぐると、目前に「オールセインツ教会」の内陣が現れる。12世紀に創設され、1386年に現在の姿となり、その後数度の改修がなされている。ルネサンス様式の単一身廊と、ゴシック様式の聖歌隊席で構成されている。


最後に「聖ヴィート大聖堂」を見学する。聖ヴィート大聖堂は、925年、ヴァーツラフ1世(聖ヴァーツラフ)(在位:921~935)が、東フランク王ハインリヒ1世から聖遺物(ルカニアの聖ヴィトゥス)を与えられ、現在の聖ヴィート大聖堂の南塔付近に小さなロトンダを建築したことに始まる。11世紀に同場所に大きなバジリカが建設されたが、現在のゴシック様式の大聖堂の建設は、1344年にフランス人建築家マティアの設計で始まった。

その後、ドイツ人建築家ペトル・パルレーシュ(1333頃~1399)が継承するものの、カレル橋や他の多くの教会建設が重なるなど遅々として工事は進まず、15世紀前半には「フス戦争」で工事が停止し、聖像破壊運動で被害を被った。15世紀後半にようやく南塔(高さ99メートル)が完成するが、財政逼迫で工事は打ち切られる。1873年、ファサードにゴシック様式の2つの塔(高さ82メートル)の建設が始まり、全ての工事が終了したのは、建設開始から約600年の歳月が費やされた聖ヴァーツラフの没後1000年となる1929年のことであった。
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南側の広場から、全体をカメラで収めようと試みるが巨大な姿に圧倒される。中でもトレサリーや立ち並ぶ尖塔などゴシック建築の精緻な装飾は目を見張るものがある。正面の南塔の頂部は、ルネサンスとバロックの要素が取り入れられている。上部の尖塔アーチに時計があり、更に下のコーニスの間にも、もう1台設置されているが、上の時計が時間を、下の時計が分を表している。

南塔の右隣の南袖廊の下には3つの尖塔アーチ「黄金の門」があり、上部壁面に1370年頃に制作された「最後の審判」の3つのモザイク画がある。中央のキリストは、苦しみの道具を運ぶ天使に囲まれた裁判官で、その下に聖プロコピウス(Prokop、~1053)、聖ジギスムント(Zikmund、~524)、聖ヴィート(聖ヴィトゥス)、聖ヴァーツラフ、聖リュドミラ(ルドミラ)、聖アダルベルト(Vojtěch、956~997)の6人の聖人が仲裁者として表現されている。
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碑文の下には、神聖ローマ皇帝で、ボヘミア王のカール4世(1316~1378)と、彼の4番目の妻エリーザベトが傅いている。両脇は、聖母マリアと洗礼者ヨハネで、背後に使徒が6人ずつ配され、左下では、死者が蘇り天使が迎え、右下では、大天使ミカエルと、地獄に落ちた罪人の姿が表現されている。

大聖堂の内部は、高さ34メートル、幅60メートル、奥行き124メートルの大空間となっている。大聖堂を設計、建築した建築家ペトル・パルレーシュは、天井を初期ゴシック様式の交差ヴォールトの様に1本ではなく2本とし、いわゆるパルレーシュのヴォールトと呼ばれる編み目を構成するネット・ヴォールトを開発し採用している。


聖ヴィート大聖堂で最大の見どころの一つが「アルフォンス・ムハ(ミュシャ)」が制作したチェコ芸術の最高傑作と言われる、ステンドグラス「聖キュリロスと聖メトディウス」で、大聖堂の入口側から3番目の身廊北側に飾られている。
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キュリロスとメトディウスは、9世紀にモラヴィア王国(現在のチェコの東部)を始めスラブ地方でキリスト教の布教を行った神学者の兄弟で、キリル文字の元を作ったことでも知られている。周囲の青を基調とした場面が、キュリロスとメトディウスの生涯で、中央に赤を基調に、少年のヴァーツラフ1世と祖母リュドミラ(ルドミラ)が配置され、ボヘミアがキリスト教を受け入れていった歴史が表されている。

内陣には周歩廊があり5つの礼拝室に分かれている。その南東側の礼拝室の向かい側に「ネポムクの聖ヨハネ(聖ヤン・ネポムツキ―)の墓碑」が置かれている。1736年にフィッシャー・フォン・エルラッハ(1658~1705)により、約2トンの純銀を使って制作されたもので、周囲を、天使や騎士が護る姿で彫刻された大変豪華なものである。
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聖ヴィート大聖堂の中で最も重要とされるのが、神聖ローマ皇帝カール4世が12世紀に建てさせた「聖ヴァーツラフ礼拝堂」で、衝立には、チェコの守護聖人となったヴァーツラフ1世の生涯とキリストの受難が描かれ、紫水晶、瑪瑙など宝石と金箔で覆われている。南の壁の右側にある扉の先にある部屋には、カール4世が自身の戴冠式の為に1347年に制作させた、聖ヴァーツラフへと捧げられた「聖ヴァーツラフの王冠」が、他の戴冠用宝飾と共に保管されている。王冠は、1836年に行われたフェルディナント1世の戴冠式に用いられたのが最後で、現在は非公開。扉には7つの錠で閉じられ、大統領、市長、大司教などの7人により鍵が保管されるなど、厳重に管理されている。
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次に、聖ヴィート大聖堂の南塔の展望台に上ってみた。展望台は、プラハカード対象外となるため、別途チケットの購入が必要となる。入口は南塔の真下にあり、展望台は287段を上った56メートル地点となる。その展望台からは、ヴルタヴァ川に架かる両側に大きな黒い塔の建つ「カレル橋」やその先の「旧市街」など、プラハ市内の美しいパノラマを一望できる。手前のマラーストラナ地区には、左側の細い尖塔とドームの「聖トマーシュ教会」や、右側の大きなドーム(直径20メートル)の「聖ニコラス教会」(聖ミクラーシュ教会)などが望める。
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東側には、聖ヴィート大聖堂と向かい合う様に赤いファサードの「聖イジー教会」が建っている。聖イジー教会の2本の白い尖塔は、サイズが異なり、向かって左側の幅の狭い尖塔が”イヴ”で、右側の聖ヤン・ネポムツキ―小礼拝堂の後方の幅の広い尖塔が”アダム”と呼ばれている。手前の右下のコの字型の建物は「旧王宮」である。
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「聖イジー教会」の後方に、プラハ城東門に建つ「黒塔」が見える。この場所から見るプラハ城内の建物群は、まるで、巨大な軍艦の船首側の様であり、艦橋から眺めている気分になる。

視線を上げると、プラハ市内を南から流れてきたヴルタヴァ川が、大きく東に曲がって流れる様子が確認できる。右側の大きな橋は、カレル橋の隣に架かる「マーネス橋」で、そのマーネス橋を渡った先に建つゴシック様式の尖塔が「プラハ旧市街広場」になる。そして、マーネス橋の左側(下流)に架かる橋は、レトナー公園とユダヤ人街区からプラハ旧市街広場への通りを結ぶ「チェフーフ橋」で、その次が今朝トラムで横断した「シュテファーニクフ橋」となる。
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そして、こちらが北側の様子。目の前の塔は、中央交差部に建つ小塔で、北袖廊のすぐ先の緑がプラハ城の北の堀(鹿の堀)で、その堀を挟んで「クラーロヴスカー庭園(カレル庭園)」が広がり、先にプラハ市北西(プラハ6)ブベネチュ地区の街並みへと続いている。
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こちらは、西側のファサードに南北に建つ2本の尖塔で、その南側の尖塔の左下方が、建物で囲まれた「第二の中庭」となる。第二の中庭には、聖十字架礼拝堂の尖塔や、尖塔の下にある「第一の中庭」側の「マティアスの門」に通じるアーチ門も確認できる。
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その先には「フラッチャ二広場」から続く通りが西に延びている。次に、その通りを行った前方右奥に見える横長の建物「チェルニン宮殿」の先にあるレストランで昼食を食べ、その後は、近くの「ロレッタ教会」や、すぐ南の「ぺトシーンの丘」の南麓(ストラホフ地区)にある「ストラホフ修道院」などの見学に向かう予定にしている。

プラハ城の正門(西門)から、西に10分ほど歩き、南北に延びるケプレロヴァ通り沿いにある「ホテル・サヴォイ」のレストラン・フラッチャ二・サヴォイ(Restaurant Hradčany Savoy)に到着した。時刻は午後1時50分を過ぎていた。


こちらのお店は、チェコ料理が美味しく、雰囲気、サービスともに良いとの評判を聞いてやってきた。前菜は、サラダと、豚肉の燻製ハムのスライスで、メインの魚料理は、中はふっくら、外はしっかりソテーされるなど焼き具合も良く、付け合わせのホワイトとグリーンのアスパラガスも食感が異なり、フレンチ感覚もあり中々素晴らしい。


肉料理はかなりのボリュームがあり、ソースと付け合わせの焼きネギや香草系の野菜との相性も上々。ポテトサラダ状に練って固め焦げ目を付けたジャガイモも手が込んでいる。料理は、見た目も味もワンランク上といった感じで、やはりチェコビールとの相性が良い。注文したビールは、プルゼニで見学したプルゼニュスキー プラズドロイ醸造所のピルスナー・ウルケルだった。


午後3時過ぎに、レストランを出て、ケプレロヴァ通りを南に向かい、突き当りの「ストラホフ修道院醸造所」を大きく西側から回り込む様にして南側にある「ストラホフ修道院」(Strahovské nádvoří)のバロック門に到着した。

バロック門をくぐり、公園内に続く緩やかな石畳の道を東に向け歩いて行くと、ストラホフ修道院の「聖母被昇天大聖堂」のファサード前に到着する。1143年、プラハのヨハネ司教ジンドリック・ズディクとボヘミア公で初代ボヘミア王のヴラチスラフ2世(1035頃~1092)によりプレモントレ修道会(厳格な観想修道生活と托鉢修道会との間に生まれた)の修道院として創設された。もともとはロマネスク様式だったが、後にバロック様式で再建されている。


拝廊側に鍵がかかった鉄格子があり、身廊内に立ち入ることはできなかった。主祭壇は、外枠の円柱と内枠の捻(ねじ)り柱のバロック様式の大理石祭壇で、中央に金の浮彫レリーフで「聖母の被昇天」が表現され、手前にはキリストの磔刑像が飾られている。天井もバロック様式で装飾され、左右の身廊壁アーチには、合計10基の側祭壇が設置されている。


ストラホフ修道院の最大の見所は、聖母被昇天大聖堂の南側の建物内にある「世界で最も美しい図書館」である。図書館は、東西に隣接した2つの中庭を持つ建物の2階にあり、西翼北側の1階が入口となる。2階に上がると、白漆喰のヴォールト天井の廊下があり、廊下沿いに木製家具や展示ケースが並び、装飾写本や蔵書が展示されている。他に、中国の玉、瑪瑙、珊瑚などの置物、仙人像や仏像、日本の伊万里茶碗や天狗面なども展示されており多少違和感があった。


世界で最も美しい図書館は、廊下の突き当り右側にある「神学の間(Teologickýsál)」で、精緻な装飾が施された豪華なバロック天井で覆われている。1679年に修道院長(哲学者、神学者)のジェロニーム・ヒルンハイムが建設したもので、その後も、歴代の修道院長により、修理、再建がなされている。1950年以降は国の施設となるが、ビロード革命以後は、修道院とともに、プレモントレ修道会に返還されている。現在も図書館には図書、写本、版画など約20万点が所蔵されている。
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こちらは廊下の手前にある「哲学の間(Filosofický sál)」で、1779年、修道院長のヴァルカフ・マヤールにより、モラヴィア地方にあった廃止修道院からの図書を移設するために新たに建てられた。天井のフレスコ画はオーストリアの画家フランツ・アントン・モールベルチュ(1724~1796)によるもので、人類の精神的な発展がテーマとなっている。
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図書館の見学を終え、ストラホフ修道院の「聖母被昇天大聖堂」北側外壁に沿って白壁と赤い屋根を見上げながら、東側に歩いて行く。


東側に聳えるバロック様式の2本の尖塔を通り過ぎた先にある小さな公園からは「ラウル・ワレンバーグ・プロムナード」と呼ばれる緑の中の散策道が続いているのが見える。眺望の良い場所で、左側のスイス大使館、プラハ城の聖ヴィート大聖堂などが建つ「フラッチャ二の丘」から麓にかけて広がるプラハの街並みが一望できる。この時間雲一つない快晴となり、赤い屋根と青い空とのコントラストが素晴らしい。
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散策道を進み、スイス大使館から左右に回り込む様にして、北へと通りを進むと、大きな時計塔をファサード上部に備えた「ロレッタ教会」が右側に見えてくる。1626年にイタリアの建築家ジョバンニオルシにより作られた教会で、内側に大きな中庭を持っている。
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その中庭には、聖母マリアがイスラエルで受胎告知を受けたとされる家「サンタカーサ」のレプリカが設置されている。教会名のロレッタとは、イスラエルにあったサンタカーサが、天使たちによってイタリアのロレッタ村に運ばれた伝説に因んでいる。サンタカーサの外壁には、イザヤ、預言者モーセ、預言者エレミヤ、ダビデ王などの彫像と浮彫レリーフが飾られている。浮彫レリーフは、聖母マリアの生涯を題材としたもので、手前の西側には、受胎告知とエリザベト訪問が刻まれている。
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サンタカーサの内部の壁面や礼拝堂も、ロレッタ村にあるオリジナルに従って忠実に再現されている。礼拝堂には、杉の木で造られたマリアの巡礼像が銀のレリーフに納められている。


プラハ城「西門」(正門)前に戻ってきた。フラッチャニ広場は昼間の混雑が嘘の様に静まりかえっている。これからフラッチャニ広場越しに僅かに見えるドームの教会「聖ニコラス教会」(聖ミクラーシュ教会)に向かう。
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フラッチャニ広場からトフノブスカ通りの階段を下って行くと、すぐにマラーストラナ広場に到着する。その東隣に「聖ニコラス教会」(聖ミクラーシュ教会)が建っている。もともとは13世紀のゴシック教区教会で、ミラのニコラオスに捧げられていたが、1775年にはイエズス会により再建され、現在ではプラハを代表するバロック教会と言われている。西側ファサードは起伏がある特徴的な外観で、聖ペトロと聖パウロ、イエズス会のイグナティウスとフランシスコ・ザビエルの彫像が飾られている。


午後6時からコンサートが開催されるとのことで、少し前から着席していたが、すぐに観客で一杯になった。金と大理石の彫像群で飾られた美しい主祭壇を背景に奏でられる歌と演奏は、天井から差し込む光と相まって一層荘厳な雰囲気につつまれる。主祭壇の上部には黄金の聖ニコラス像が飾られ、49メートルの高さにあるドーム天井には、バロック画家ヨハン・ルーカス・クラッカー(1717~1779)によるフレスコ画「聖ミクラーシュの生涯」が描かれている。なお、モーツァルトは、プラハに滞在していた際、こちらの教会でオルガン演奏している。
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1時間ほど鑑賞した後、次に、午後8時からのスメタナとドボルジャークのコンサートを聴きに旧市街にある「プラハ市民会館」に向かう。

カレル橋を渡り、旧市街広場からツェレトナー通りを東に進むと、プラハのランドマーク「火薬塔(The Powder Tower)」が見えてくる。1475年に建てられた旧市街を護っていた城門の塔門の一つで、18世紀からは銃の火薬庫としても使われたが、老朽化から1886年に、カレル橋の橋塔をモデルに疑似ゴシック様式で現在の姿に建て替えられた。65メートルの高さで展望台が設置されている。火薬塔の下部が接続する左側の建物が目的の「プラハ市民会館」で、門をくぐり、左に回り込むと到着する。


1正面口の上部には、豪華な飾り迫縁やスタッコ彫像で飾られたアプスを思わせる大きな半ドームがあり、寓話的要素を盛り込んだモザイク画が施されている。もともと、この場所には、14世紀から15世紀にかけてボヘミア王が住む宮廷があったが、1912年にアールヌーボー様式で「市庁舎」が建設された。現在は「プラハ市民会館」となっており、クラシック コンサート、オペラ、バレエが上演されるほか、ファッション ショーなどのイベントも行われている。


コンサートは1,200名収容可能な大ホール「スメタナホール」で行われた。チェコを代表する作曲家スメタナに因んで名付けられ、プラハ交響楽団のメインコンサートホールでもある。鋼鉄リベットで支えられたアールヌーボー様式の幅の広いアーチ天井で、天井の中央に円形窓と前後対象に帯状の小窓が設置された開放的な造りである。中央のパイプオルガンは、4,000を超えるパイプがある世界でも最大級のもので、中央にスメタナの横顔レリーフが飾られている。左右両側には、スメタナの「わが祖国」とドヴォルザークの「スラヴ舞曲」を象徴するスタッコ彫刻が飾られている。
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コンサートは、スメタナの「わが祖国~モルダウ~」やドヴォルザークの「新世界より」など日本でも大変馴染みのある曲で凝縮された1時間だった。

プラハ市民会館には、他にもホール、サロンやカフェなどがあり、ほぼ毎日数回実施されるガイドツアーで見学することができる。ちなみに、こちらはガイドツアー最大の見所の一つ「市民の間」(プライマーホール)で、アルフォンス・ムハ(ミュシャ)がスラブ民族を題材とした装飾を手がけている。天井の円形フレスコは「スラブの団結」で、中央にスラブの人々を守る鷲が描かれ、側面には、天井を支える様に、スラブの歴史を支えてきた歴史上重要な人物が配されている。


コンサート終了後は、西に500メートル行った、プラハの心臓部と言われる「プラハ旧市街広場」を散策した後、レストラン・オレンジムーンに向かった。プラハ3のオルシャニ墓地の西側にある老舗の本格的なタイ料理レストランで、トムヤンクン、春巻き、タイカレーなどを頂いた。評判通り大変美味しかった。

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今朝は、午前9時過ぎにプラハの最も有名な観光地の一つ「カレル橋」にやってきた。最初に、旧市街側の袂に建つ橋塔「オールドタウン・ブリッジタワー」をくぐる。この塔は14世紀後半の建築で、プラハの聖ヴィート大聖堂の建設に携わった建築家ペトル・パルレーシュ(1333頃~1399)と彼の工房によるもので、ゴシック建築の最高傑作とされている。


30年戦争の際にはスウェーデン軍によって大きな被害を受けたが、その後修復され、1874年から1878年には、チェコの建築家ヨーゼフモッカーの指導の下で大規模な再建が行われた。かつて橋の通行税の徴収場所としての機能や、侵攻してくる敵からプラハの街を守るための見張り台の役割も果たした。そのオールドタウン・ブリッジタワーをくぐると「カレル橋」になる。カレル橋はその名前の由来となった神聖ローマ皇帝カール4世(カレル4世)の命のもと、橋塔の建設と同じ、建築家ペトル・パルレーシュによって設計され、1357年に建築が開始、約45年の月日をかけ1402年に完成した。
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カレル橋の左右欄干には、それぞれ15体ずつ合計30体の聖人像が飾られている。中でも、5番目の左側にある彫像は、日本人にもお馴染みのフランシスコ・ザビエル(1506~1552)像で、数人の大男が抱える台座の上に飾られている。ザビエルは、イエズス会創設者の一人で、当時ポルトガル領だったインドや日本などアジアを中心に宣教活動を行った。こちらの像は、ザビエルがインド人首長に洗礼(バプテスマ)を行う姿を表現したもの。1711年、フェルディナンド・ブロコフにより制作されたが、1890年のヴルタヴァ川洪水の際に破壊され1913年にコピーとして制作された。


12番目の左側にある彫像は「聖ルトガルディスの夢」と題されたブラウン(1684~1738)のバロック彫刻の傑作で、オリジナルは、国立博物館に収蔵され、こちらには1995年制作のコピーが飾られている。ルトガルディス(1182~1246)とは、フランドル地方のシトー会修道女で、キリストの受難を瞑想する際、宙に浮き、頭から血を流したとされ、スティグマータ(聖痕を受けた者)として捉えられている。彫像は、幻視(ヴィジョン)として現れたキリストが、彼女のために身をかがめて語り掛ける姿を表現している。


中央付近の右側手摺りには、聖ヤン・ネポムツキー(ネポムクの聖ヨハネ)の遺体を投げ捨てたとされる場所を十字架で表している。この場所から少し先の8番目の像が、聖ヤン・ネポムツキー像で、30体の聖人像の中で、唯一銅製の彫像となっている。頭の上には金色の5つ星が輝き、手には金色の棕櫚の葉を持っているのですぐに分かる。


その聖ヤン・ネポムツキー像の台座レリーフの2枚の銅板に触れると一生の幸運に恵まれるという言い伝えがあることから、多くの観光客が列を作って順番を待っている。レリーフは、毎日触れられていることから光り輝いている。


13番目の左側にある像はプラハの聖アダルベルトで、11世紀にプラハ司教を務め、ボヘミア、ポーランド、ハンガリー、プロイセンの守護聖人となった聖人。他にも10番目左側に聖ウィンケンティウスと聖プロコプ、12番目に聖カイエタヌス、15番目右側に3世紀末の小アジアで活動した双子の医者、聖コスマスと聖ダミアヌスの像などが飾られている。カレル橋の終点には、旧ユディット橋の小さな橋塔と、旧市街側の橋塔(オールドタウン ブリッジタワー)と併せて建設された大きな橋塔(レッサータウン・ブリッジタワー)の2つの橋塔が建っている


この後、ホテル最寄りの「シュテファーニクフ橋」にトラムで移動し、ヴルタヴァ川を渡った北岸のホレショビツェ地区にある「ナショナルギャラリー」で絵画鑑賞して過ごした。館内には、ピカソ、モネ、ゴッホ、ロダン、ゴーギャン、セザンヌ、ルノワール、シーレ、ムンク、ミロ、クリムトなどの近代美術絵画を始め、アルフォンスミュシャ、オットーグットフロイント、フランティセッククプカなどのチェコの絵画や彫刻などが展示されている。2時間ほど鑑賞して、旧市街に戻った。

昨夜コンサートで訪れた「プラハ市民会館」のガイドツアーに参加して館内を見学した後、昨夜に引き続き「プラハ旧市街広場」にやってきた。広場の位置関係は、概ねカレル橋とプラハ市民会館との中間地点にある。11世紀頃から教会や商人たちの住居が建てられ、それに伴い広場が形成されてきた。プラハ歴史地区の中心地であり、周囲には、プラハの歴史を見続けてきた様々な時代の様式の建物が建ち並んでいる。

広場の中央、やや北寄りには、ヤン・フス(1369頃~1415)の銅像が広場南側を向いて建っている。コンスタンツ公会議で、自らにおける信念を通して有罪になり火あぶりの刑に処せられたチェコ出身の宗教思想家で、1915年に死後500周年を記念して建立された。
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東側後方のロココ様式の建物は、プロイセンゴルツ家のゴルツ伯爵(~1765)の「ゴルツ・キンスキー宮殿」で、現在は、17世紀から20世紀までのチェコ風景画コレクションを展示する国立美術館となっている。そして、右側には、14世紀半ばから16世紀前半にかけてゴシック様式で建てられた「ティーンの前の聖母教会」が聳えている。ティーンとは税関を意味しており、税関がそばにあったことから名付けられた。西側ファサードは中ほどから前面の建物に直結して建っている。

左側に視線を移していくと、旧市街広場の西隣にある緑の公園に面して北側に「聖ミクラーシュ教会」が建っている。1737年にドイツ出身のチェコの建築家キリアン イグナツ ディーンツェンホファー(1689~1751)によりバロック様式で再建(創建は1273年)された。身廊中央部の大きなドームが特徴で、南側のファサードの両側に2本の塔が聳えている。なお、マラーストラナ広場に建つ聖ミクラーシュ教会と同じ名前だが、関係はなくそれぞれ別の教会である。
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教会内部は白とピンク色の大理石を基調に金の装飾が施されている。皇帝の王冠をデザインした巨大なシャンデリアは、1880年にロシア皇帝アレクサンドル2世(在位:1855~1881)によって地元の正教会に寄贈されたもの。重さ1,400キログラムある。


天井のフレスコ画は、1736年にバイエルンの画家コスマ ダミアン アサム(1686~1739)によって制作されたもので、ミラのニコラオス(270頃~345頃)の生涯が描かれている。


緑の公園を挟んで南側には、大きな時計塔が聳えた初期ゴシック様式の旧:市庁舎(13~14世紀築)が建っている。その時計塔の南面には、プラハを代表する観光名所「プラハの天文時計」(プラハのオルロイ)がある。1410年に文字盤、1490年頃に暦表盤と装飾が追加され、その後は修復が繰り返されたが、17世紀後半に彫像群が追加され現在に至っている。
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天文時計の上下2つの円盤の内、上が空の太陽や月の位置などの天文図を示すための文字盤で、その下が月々を表す浮き彫りの暦版である。文字盤左右には2体ずつ計4体の彫像が配置され、一定の時間になると動き出し死神が鐘を鳴らす。その鐘の音に合わせて上部の2つ窓から12使徒の像が現れる(使徒の行進)細工となっている。ちなみに、時計塔にはエレベーターが設置され、展望台からはプラハ市内を一望できる。

その後「旧市街広場」から300メートルほど北西側にある「国立マリオネット劇場」で「ドン・ジョヴァンニ」の人形劇を鑑賞した。プラハで初演されたモーツァルトのゆかりのある演目で、ほぼ毎夜、午後8時から上演しており、子供向けだけでなく大人も楽しめる大衆娯楽として人気がある。特に人形のコミカルな動きが会場の笑いを誘っていた。


終演後、近くのチェコ料理レストランで食事をしてホテルに戻った。日程が限られた中、見所が大変多かったこともあり、駆け足の観光になってしまったが、これでチェコ旅行は終わりである。翌朝、午前9時過ぎの飛行機に乗り、モスクワを経由して日本(成田空港)に帰国した。
(2005.6.27~29)
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チェコ・ボヘミア

2013-02-11 | チェコ
こちらは、チェコの南ボヘミア最大の都市「チェスケー・ブジェヨヴィツェ」から北に約9キロメートル郊外にある「フルボカー・ナド・ヴルタヴォウ城(Státní zámek Hluboká)」(フルボカー城)(白亜の城)で、13世紀頃からは約300年間ボヘミア王国が、その後17世紀からはドイツのシュヴァルツェンブルク家が所有するなど歴史的に重要な城館とされている。


このフルボカー城までは、昨夜、プラハ・ルズィニエ国際空港に到着し、プラハ10にある「クオリティ ホテル(Quality Hotel)」に泊まり、今朝、プラハ駅北側のフローレンツ・バスターミナルからバスに乗車し、近郊のチェスケー・ブジェヨヴィツェで乗り換えやってきた。プラハからの乗客の大半は地元の人と言った様子で、車内では会話もなく静まり返っていたのが少し怖かった。

フルボカー城は、東側のヴルタヴァ川(ドイツ語名:モルダウ川)と西側の湖との間の城壁に囲まれた丘の上にあり、最寄りのバス停からは、北東に700メートル離れている。現在の白い城館は、19世紀にチューダー・ゴシック様式で改修され、1947年からは国営として管理運営されている。

城内の見学は、午後3時過ぎのガイド・ツアーに参加した(写真撮影は禁止)。見学は、エレオノーラ皇妃(シュヴァルツェンベルク家)の部屋、モーニングサロン、読書室、喫煙サロン、ダイニングルーム、図書室などで、木彫り、金、革、織物の壁紙やタペストリーで豪華に装飾されている。他にも、16世紀から19世紀のヨーロッパ絵画や豪華なステンドグラス、デルフト、ドイツ、アジアの陶器、象眼細工の家具などコレクションも豊富である。


ガイド・ツアー終了後は、敷地内の英国庭園を散策し、バス停近くの、ネオゴシック様式の「ネポムクの聖ヨハネ教会」(19世紀中築)向かいにあるカフェのテラスで、チェコビール(プルゼンスキー・プラズドロイ社のピルスナー・ウルケル)を飲みながらバスの到着時間を待った。

バスは乗車時間30分ほどで、チェスケー・ブジェヨヴィツェに戻った。旧市街にあるホテルにチェックインした後、夕食を食べ(飲み物は、フランコフカ種の赤ワインと、地元のブドヴァイゼル・ブドヴァル)、旧市街中心地「プシェミスル オタカル2世広場」(The square of Premysl Otakar2)に足を延ばした。ライトアップされた広場は、午後11時になり人通りが少なく寂しい雰囲気である。広場の北東側には明るく照らされた、旧市街のシンボル「黒塔」(右隣は聖ニコラウス聖堂)が、広場を見守る様に聳えている姿が印象的だった。


チェスケー・ブジェヨヴィツェ(ドイツ名:ブドヴァイス)は、人口およそ10万人の南ボヘミア州最大の政治・商業の中心都市である。中でも、ビール醸造では、13世紀から続く長い歴史があり、夕食時に飲んだ、ブドヴァイゼル・ブドヴァル醸造所で作られる「ブドヴァル」は世界的に有名である。ちなみに、アメリカのバドワイザーは、ドイツからの移民がブドヴァイスにあやかり名付けたもので、長年、商標権をめぐり争いが続いている。

広場の中心には「サムソンの噴水」が設置されている。円形のボウルを支えるのは4人のアトランティス像で、噴水の最上部の彫刻が、獅子と戦うサムソンで旧約聖書をモチーフにしている。ビールの話ばかりになるが、チェスケー・ブジェヨヴィツェでは、他にサムソン醸造所があり「サムソン・ビール」をつくっているが、こちらの噴水像に因んでいる。。


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昨夜は、旧市街の中心地「プシェミスル オタカル2世広場」から50メートルほど西側の閑静な通り沿いにあるプチホテル「Hotel U Solné Brány」に泊まった。
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今朝は、朝食前に旧市街を散策することにした。ホテル前には西側に抜ける路地が通っている。すぐ先の建物のくぐり戸を抜けると、急に建物が無くなり、木製の橋が架かる小さな運河の向かいに公園だけが広がっている。街の終点と言った感じで、運河で護られた中世都市だったことが伺える。

木製の橋手前から運河沿いを右の方向(北側)に歩いて振り返って見ると、この時間は人通りも少なく、時折風による木々のざわめきだけが聞こえるだけで、静寂に包まれている。


地図を確認すると、チェスケー・ブジェヨヴィツェの街は、南から流れてきたマルシェ川と、南西側から流れてきたヴルタヴァ川(モルダウ川)が合流し、ヴルタヴァ川として北西方面に流れて行く合流点の東側に広がっている。旧市街は、その合流点のすぐ手前のマルシェ川からサークル状に引かれた運河の内側にあり、こちらの木製の橋のすぐ南にマルシェ川が流れている。

運河沿いには、チェスケー・ブジェヨヴィツェで最も古いゴシック様式「聖母マリア奉献教会付属ドミニコ会派修道院」が建っている。左側の煉瓦造りの建物が修道院の西側拝廊となり、右側の白漆喰の壁面は、向かい側にある正方形の中庭の回廊を形成する建物である。こちらには3メートルほどの高さの石塀が城壁の様に続いており、修道院の敷地には入ることができない。


修道院の拝廊を過ぎた先にある交差点を右折すると、旧市街の中心地「プシェミスル オタカル2世広場」へ向かう東西通り「フロズノヴァ(Hroznova)通り」となり、前方に昨夜見上げた街のシンボル「黒塔」を望むことができる。


右側に並ぶピンクと黄色の建物の先を右側に回り込むと、修道院の北袖廊から後陣にかけて広場になっている。運河沿いの静けさから一転、多くの買い物客で賑わう朝市の風景が飛び込んでくる。正面が修道院の入口の北袖廊で、右側の白い建物は美術館だが、この時間、両方とも扉は閉ざされていた。


市場で、サクランボとイチゴを買って、カフェやショップが並ぶフロズノヴァ通りを東にしばらく進むと、交差点の角が小さな広場で、南側に黒塔が、更に南隣りにカトリック主教区の大聖堂「聖ニコラウス聖堂」が建っている。「黒塔」は、16世紀半ば、約30年かけて建てられたもので、高さは72メートル、上部が展望台になっている。


時計塔の下には、彫像が飾られている。チェコのカトリック聖職者ヤン・ヴァレリアン・ジルシク司教(JanValktorinJirsík、1798~1883)で、1851年から1883年にかけて、チェスケー・ブジェヨヴィツェの4番目の司教を務めた。特に教育に力を入れ、語教育学校やチェコ語グラマースクールを設立し、更に女子修道院を設立した人物とのこと。


聖ニコラウス聖堂の扉が開いていたので内部に入るとミサが行われていた。最初の聖堂は、14世紀半ばに初期ゴシック様式で建てられたが、現在の建物や祭壇衝立は、司教の大聖堂に昇格した1785年に建設された。なお、祭壇画はフリンブルク生まれのバロック画家ゲオルク・バッハマン(Georg Bachmann、~1652)により描かれたもの。


聖ニコラウス聖堂のファサード前を通り過ぎたすぐ南側が、旧市街の中心地「プシェミスル オタカル2世広場」への入口になる。広場は、ボヘミア王オタカル2世(1230~1278)の騎士ヒルツォによってつくられた。ヒルツォ(クリンゲンベルクのヒルツォ)(Hirzo z Klingenbergu、~1275頃)は、ラインラントで生まれ、プシェミスル朝のボヘミア王ヴァーツラフ1世(在位:1230~1253)と次男でボヘミア王のオタカル2世との廷臣で、王室料理のマスターにも任命されている。
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広場は長さがおよそ130メートルのほぼ正方形で、周囲にはカラフルな建物が建ち、1階のアーケードにはカフェや雑貨店が並んでいる。今日は、土曜日でまだ朝8時前でもあり人通りが少ない。広場の中央にある「サムソンの噴水」には、ヴルタヴァ川の水が利用されており、直径17メートルの八角形の石の貯水池で囲まれている。南ボヘミアで活躍したチェコのバロック彫刻家ヨーゼフ・ディートリッヒ(1677~1753)により制作された。


広場に面した建物で一番の見所は、南西の角にある3つの塔が聳える「市庁舎」で、もともと2つのゴシック様式の建物を1つにし、1730年にバロック様式で再建したもの。中央の時計塔には、コンピューター制御のカリヨン(16個のベルで構成)が設置され、最大80の音楽を日時や季節に応じて奏でられるとのこと。
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中央の5つの窓の上には、チェコの歴史的な地域区分として、中央にボヘミア、向かって左右にモラビアとシレジアの紋章が飾られ、両端に市民の忠実を表したエンブレムが飾られている。その上には、ドラゴンの頭の形をした4つのガーゴイルがあり、屋上にはサムソンの噴水を制作した、ヨーゼフ・ディートリッヒによる4体の寓話像が飾られている。

東南角には1階アーチがひと際大きく、角に、尖塔付きの三層バルコニーが特徴のネオ・ルネサンス様式の黄色い建物が建っている。”蜂の城”を表す「パラス・フチェラ」と呼ばれる建物で、文字通り蜂を思わせる黄色い漆喰と2階以上に彫像や、4階には中央に蜂をデザインした装飾紋章などが飾られている。
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一通り、広場を見学した所で、ホテルに戻り、朝食(チーズ、ハム、ゆで卵、スクランブルエッグ、パンなど)を頂いた。その後、チェックアウトして、旧市街東側にあるバスターミナル(チェスケー・ブジェヨヴィツェ中央駅前)から、次の目的地チェスキー・クルムロフに向かった。
チェスケー・ブジェヨヴィツェでは、人通りも少なくコンパクトな旧市街のみ観光したことから、政治・商業の中心都市の印象は持てなかった。


チェスケー・ブジェヨヴィツェからは、南西に約25キロメートル、バスで約30分ほどで、チェスキー・クルムロフのバスターミナル(Autobusove nadrazi)に午前9時50分頃到着した。バスターミナルは、街の東側のやや高台に位置しており、階段を下りた先に通る160号線沿いを歩いて向かう。しばらくすると木々で覆われていた右側が開け旧市街が一望できる。まるでおとぎの世界を思わせる様な景観が広がっている。
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チェスキー・クルムロフ(Český Krumlov)は、南ボヘミア州の小さな都市で、(ボヘミアの、、川の湾曲部の湿地帯)を意味している。しかしその名称は、チェコスロバキア領となった1920年以降のことであり、それまではクルマウ(Krumau)と呼ばれていた。人口14000人ほどの小さな街で、クルムロフ城を中心とした中世の街並みを留めるチェコで最も美しい街と言われ多くの観光客が訪れる。

160号線はすぐ先で、交差点となり、右折して「ホルニ通り」から旧市街に入って行く。ここからはなだらかな下り坂の石畳の歩行者専用通りとなる。すぐ先の小さな渓谷に架かるアーチ陸橋を渡ると右側に地域歴史博物館が、左側に「ホテル ルゼ(Hotel Růže)」がある。古くは16世紀にイエズス会の寮として建てられた歴史を持ち、中庭を持つ約70室の居室に加え、会食のための大小5つのホールを持つ5つ星ホテルである。今夜はこちらのホテルに宿泊することにしており、チェックインを済まし身軽になって旧市街の散策に向かう。


地域歴史博物館の先隣りは空き地の展望台で、クルムロフ城のシンボルの塔が見渡せる。城は、塔の周囲の「下城(ローワーキャッスル)」と、西側の「ローゼンベルク宮殿(アッパーキャッスル)」の2つのエリアで構成されている。その下の尖塔は「旧:聖ヨシュト教会」で、神聖ローマ皇帝ヨーゼフ2世(在:1765~1790)による改革により1788年に廃止され、その後様々な用途に活用され、現在は住宅と「マリオネット博物館」が入居している。
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クルムロフ城は、南部出身のチェコ貴族ヴィトコフチ家により、13世紀半ばに旧市街と併せて建設されたのが始まりで、1302年にはボヘミアの有力貴族ローゼンベルク(ロジェンベルク)家の所有となり、16世紀にはルネサンス都市として謳歌した。しかしそのローゼンベルク家が財政破綻したことから、17世紀、神聖ローマ皇帝より、エッゲンベルク家に与えられる。そして、1719年以降エッゲンベルク家を相続した有力貴族シュヴァルツェンベルク家により、バロック様式で改築され、現在の姿となった。

その後、オーストリア=ハンガリー帝国の支配を経て、第一次世界大戦後にはチェコスロバキア領となるが、チェスキー・クルムロフは、次第に荒廃していった。歴史的な評価が増すのは、プラハの春が訪れた1960年代後半以降のことである。

それでは、これからクルムロフ城の見学に向かうことにする。石畳の「ホルニ通り」を西に向け下って行くと三差路になり、左側に「聖ヴィート大聖堂」が現れる。最初の教会が、ローゼンベルク家により建てられ、その後ローゼンベルク家の霊廟となった。シュヴァルツェンベルク家の支配となってからも新たな礼拝堂が追加され、再建が繰り返されるなど発展していく。ネオ・ゴシックタワーの塔は、1894年からで、それまでのバロック・タマネギドーム型タワーから置き換えられたもの。


三差路から右側に進むとすぐ先が旧市街の中心地「スヴォルノスティ広場(Náměstí Svornosti)」で、左側(南側)には1716年制作のペスト記念柱(噴水は19世紀築)が建っている。そして、広場の北西角から北に延びる狭い「ラドニチュ通り」の坂道を下って行くと「クルムロフ城の塔」が見えてくる。ラドニチュ通りは歴史的文化財が残るエリアで、18世紀のバロック様式の建物が並んでいる。


坂道を下りきるとヴルタヴァ川となり「ラゼブニッキー橋(Lazebnický most)」(理髪師の橋)を渡る。こちらは右側の下流方向の様子で、多くの手漕ぎボートが航行している。


ラゼブニッキー橋の中央欄干には左側にキリストの磔刑像が、右側に聖ヤン・ネポムツキー(1340頃~1393)像(ネポムクの聖ヨハネ)が向かい合う様に飾られている。ヤン・ネポムツキーは、14世紀ボヘミアの司祭、ローマ・カトリック教会の聖人で、ボヘミアの守護聖人でもある。水難からの庇護者としても崇敬され、橋の守護聖人ともされている。十字架や棕櫚の枝を手にし、頭上に5つの星が輝く姿で表現されるが、こちらの像は、右手の棕櫚の枝と、頭上の5つの星が失われている。
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ラゼブニッキー橋を渡ると、東側への上り坂「ラトラン通り」になり「旧聖ヨシュト教会」の「マリオネット博物館」の入口前を通る。扉口は開いており、数多くの人形が紐に吊るされ販売されている。外壁上部には、聖母マリア像が祀られた壁龕が残されている。
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ラトラン通りを、大きく左に回り込む様に上り詰め、最初のアーチ門を入って庭園までやってきた(旧聖ヨシュト教会前から階段を上るルートもある。)。左側にある案内板(下が北方面)を確認してみると、白い矢印と白線で見学ルートが示されている。現在地には熊のマークの表示があるが、この先のアーチ門の手前が堀になっておりローゼンベルクの時代から熊が飼われている。案内板にはクルムロフ城の北側にも川(ポレチュニツェ川)が示されている。クルムロフ城は、ヴルタヴァ川とポレチュニツェ川とに挟まれた小高い岩の岬に築かれた要害であることが分かる。
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堀には石の陸橋が架かっており、両側には多くの観光客が熊を見ようと堀を覗き込んでいる。その陸橋を渡りアーチ門をくぐると、クルムロフ城の下城(ローワーキャッスル)の中庭に到着する。こちらは、中庭を横断して西側の「ローゼンベルク宮殿」(アッパーキャッスル)の入口付近から眺めた様子。それではクルムロフ城のシンボルの塔へ上ってみる。中庭中央の石の噴水(1641年制作)先の南東角にあるファサード下の階段が入口になる。
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塔はもともとゴシック様式だったが、1581年にイタリア人建築家バルダッサロ マギー(1550~1619頃)により現在のルネサンス様式となった。

塔の外観とファサードの外観の装飾は、ルネサンス絵画とズグラッフィート技法で、1590年にローゼンベルクの宮廷画家バルトロマイ ベラネク(ジェリネクとも呼ばれる、~1618)によって施された。ズグラッフィートは漆喰の表面の湿った層を掻き落として線画を描く壁の装飾技法で、16世紀、ルネサンス期のイタリアで広く流行したのをきっかけに、ドイツ、オーストリア、チェコなどでその地方特有のモチーフを取り入れフレスコ画に代わるものとして広く導入された。
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塔の展望台は5階にあり、周囲を19列のアーケードで飾られている。塔の直径は12メートル、階段数は162段、高さは54.5メートル、ヴルタヴァ川からの高さは86メートルある。塔の上部には最重量1,800キログラムを含む4つの鐘(1406年)が掛けられている。

塔の展望台からの眺望は素晴らしく、いつまでも眺めていたい気持ちになるほど。ここまでのルートを俯瞰的に追いかけてみる。左端の木々の間に見える駐車場がバスターミナルで、中央の木々の谷間が、最初にこちらのクルムロフ城を眺めた160号線沿いの展望台になる。そして、その先の建物の間から右折して旧市街に入った。右端の大きな地域歴史博物館のすぐ手前のアーチ陸橋も確認できる。
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続いて、左端の地域歴史博物館のその先隣りの空き地が、クルムロフ城を眺めた展望台で、ホルニ通りを挟んで、その奥の中庭がある大きな建物が「ホテル ルゼ」になる。そして、右端が「聖ヴィート大聖堂」で、通り沿いから見上げた際は気づかなかったが、身廊の屋根がひと際高いのが分かる。
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「聖ヴィート大聖堂」から右側に視線を移すと、大聖堂横の三差路を右折した先の旧市街の中心地「スヴォルノスティ広場」があり、グリーンのファサード前の「ペスト記念柱」も何とか見える。そして、広場から手前に延びる通りが、先ほど通った「ラドニチュ通り」になる。こちらからの眺めは、ほぼ南方向を向いている。遠くには、丘陵地が広がり、いくつか建物も見えるが、旧市街の建物の密集ぶりとは大きな差がある。
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ヴルタヴァ川を渡った左下にあるラゼブニッキー橋は、写真に映らなかった。。塔の展望台からは、旧市街を包み込む様に流れるヴルタヴァ川の様子が良く見える(手前が下流)。中島の先端付近が旧市街の中心からみて真北にあたる。ヴルタヴァ川は南のボヘミア盆地の南縁の一部にあたるシュマヴァ山地やドイツ側からの複数の川を源流とし、北方面に蛇行を繰り返しながら、こちらチェスキー・クルムロフに流れ込んでいる。
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すぐ左側には「旧聖ヨシュト教会」の塔が、手の届きそうと思えるほどの位置にある。その向かい側の旧市街との間をヴルタヴァ川は西から東へ(右から左へ)流れ、この後も蛇行を繰り返しながら、チェスケー・ブジェヨヴィツェに流れて行く。
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こちらは、東側を眺めた様子。ラゼブニッキー橋を渡って、右下から左に回り込む様に「ラトラン通り」を進み、手前に見えるアーチ門のクルムロフ城の下城(ローワーキャッスル)への城門口(東門)から入場した。城内の中庭の左側(北側)の長方形の建物が「製塩所」(1500年頃)で、向かい合う南側のルネサンス様式の建物が「厩舎」である。このすぐ先が庭園となり案内板が設置されていた場所になる。
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ちなみに、前方の芝生が広がる先に建つ塔は「ミノライト修道院」で、その先隣りに1560年創業の「エッゲンベルク・ビール醸造所」が、右隣には「ピヴォヴァルスカー庭園」がある。ビール醸造所は、チェスキー・クルムロフの領主「エッゲンベルク家」に因んでいる。

そして西側に見える大きな建物が「ローゼンベルク宮殿」(アッパーキャッスル)で、手前の広場が、こちらの塔への入口となった「石の噴水」のあるクルムロフ城の下城(ローワーキャッスル)の中庭となる。それでは、塔を下りてローゼンベルク宮殿に行ってみる。中庭とローゼンベルク宮殿との間には、堀があり、レンガ造りの橋を横断して入場する
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ローゼンベルク宮殿には2つの中庭がある。宮殿東翼の1階にはルネサンス様式のローゼンベルクの部屋があり、フランドルのタペストリー・コレクションで覆われている。西翼にはマスカレード・ホールや絵画と写真ギャラリーがあり、中庭から階段を上った南翼にはバロック様式のセント・ジョージ(聖ゲオルギオス)礼拝堂がある(1334年創設、1753年ゴシック様式からの改築)。細長の幅の狭い礼拝堂だが、天井が高く、南側の4枚のアーチ窓から外光が取り入れられ明るい雰囲気である。主祭壇の聖母マリアの上に聖ゲオルギオスの彫像が飾られている。
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西翼から先のアーチ橋「クローク橋」(マントル橋、Plášťový most)は1764年に建設された深い堀に架かる5階建ての陸橋で、橋のレンガの手摺りには、バロック様式の彫像のコピーが飾られている。こちらはローゼンベルク宮殿側に振り返った様子で、左側は「カンタリスのフェリックス(1515~1587)像」で、聖母から差し出された幼子を抱きかかえる場面を表している。


右側には「パドヴァのアントニオ(1195~1231)」像が飾られている。アッシジのフランチェスコに共感し、彼の創設したフランシスコ会に入会し、イタリアや南フランスを中心に活動した人物で、飾り気のないフードの付いた修道服を身に着けている。その先にはチェコの守護聖人聖ヴァーツラフとして知られる「ボヘミア公ヴァーツラフ1世像(在位:921~935)」と「聖ヤン・ネポムツキー像(ネポムクの聖ヨハネ)」が飾られている。こちらはラブカポッドザムケム橋側から「クローク橋」(マントル橋)を見上げた様子で、彫像が手摺りに4体並んでいるのが分かる。


「クローク橋」(マントル橋)を渡ると、バロック劇場がある建物に至る。位置関係は、塔の展望台から眺めると分かりやすい。ヴルタヴァ川側に庭を持つL字型の屋敷がそうである。旧市街から、中島を経由して「ラブカポッドザムケム橋」を渡り、「クローク橋」(マントル橋)の下をくぐり、坂を上って向かうこともできる。また、北側のポレチュニツェ川先の駐車場からもルートが繋がっている。
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そのL字型の「バロック劇場」は、1767年にシュヴァルツェンベルク家のヨーゼフ1世アダムにより整備されたもので、世界で最も保存状態の良い劇場の一つと言われている。教会の会衆席を思わせる木製のベンチと、周囲にバルコニー状の貴賓席があり、様々な効果を演出できる奥行きのある舞台と手前にオーケストラ・ピットが設置されている。1990年代に大幅な改修工事が行われた。

バロック劇場の南側(ヴルタヴァ川側)の城壁に沿って西に向け歩いて行くと「シャトー庭園」に至る。長さ700メートル、総面積10ヘクタールの広大な庭園は16世紀後半、後期バロック様式で造られた。乗馬学校や庭園北部に1708年建築のフレスコ画で装飾された2階建てのパビリオン、ベラーリエなどがある。こちらは、シャトー庭園の中ほどにある18世紀半ばに建設された豪華な装飾が施された噴水である。


庭園にはレストランがあり、エッゲンベルク・ビール醸造所の出来立てビールが頂ける

以上で「クルムロフ城」の見学は終了である。その後、旧市街にあるエゴン・シーレ美術館や、「ホテル ルゼ」の中にある「イエズス会コングレスホール」でミニコンサートなどを鑑賞して過ごした。


夕食は旧市街中心地「スヴォルノスティ広場」西側から延びる「パンスカ通り」沿いにあるチェコ料理のレストランで、スマジェニーシール(チーズと子芋のフライ)魚のフライなどを頂いた。付け合わせには、茹でたジャガイモ、トマト、キュウリのスライスなどが添えられている。カリっと揚げられておりチーズも魚も大変美味しく、チェコビールとの相性は抜群で美味しいが、フレンチ、イタリアン料理などラテン系料理と比較すると、物足りない。。
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翌朝、ホテルのレストラン(ナイトリーホール)で朝食を頂いた。ハム、スクランブルエッグ、パン、コーヒーと簡単なものだが、ハムの種類が多かったのは良かった。レストランの南扉から外に出ると、ホテルの南壁に隣接して「サンセットテラス」と名付けられた美しいテラスがあるが、朝は営業していないようだ。ホテルの南壁には古びた日時計が残されている


テラスの真下は15メートルほどの切立った崖となっている。下を流れるヴルタヴァ川のすぐ先には堰が設けられ、旧市街への流入を調整している。対岸沿いには散策路が続いており、前方の橋からは旧市街の聖ヴィート大聖堂付近に至るが、この時間歩いている人はいない。前方の緑茂る丘の方角が西側になることから、夕方には美しい夕日を眺めながら食事ができるのだろう。。
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チェックアウトしてバスで、チェスケー・ブジェヨヴィツェまで移動し、鉄道に乗り換えて、約2時間ほどで次の目的地「プルゼニ中央駅」に午後12時に到着した。プラハ - プルゼニ線の終端駅だが、駅舎を挟んで、左右に別の路線が乗り入れる中間駅でもある。駅舎はネオ・ルネサンス様式とアール・ヌーヴォー様式で建てられた豪華な建物でファサードは西側を向いている。
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プルゼニは、プラハ、ブルノ、オストラバに次ぐチェコ第4の都市で、ビールのピルスナーの由来はこの街の名前に由来している。これから、プルゼニ中央駅から北に10分ほど歩いた所にある「プルゼニュスキー プラズドロイ(Plzeňský Prazdroj)醸造所」(1842年に開設)を見学することにしている。


こちらは「ピルスナー・ウルケル」というピルスナースタイルの元祖とされるビールを製造している歴史ある醸造所で、100%チェコ産の原材料・技術を使うことをモットーとしている。見学コースでは、かつて醸造、貯蔵を行っていた地下室を中心に、非殺菌のビールを木樽から直接注いで飲ませてくれる。無濾過で琥珀色のビールはホップの爽やかな香りとすっきりとした味わいを堪能できる。


醸造所での見学後は、西に10分ほど歩いて「共和国広場」に足を延ばした。東西168メートル×南北191メートルの長方形でチェコ国内では最大規模の中世広場の一つである。古くは13世紀後半に木製舗装で建設され、16世紀に水道管が引かれ、18世紀後半には墓地があったが、19世紀半ばに現在の姿となった。広場の建物は主にゴシック様式とルネサンス様式で建てられている。
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こちらの広場に到着して一番驚いたのは、広場の中央やや北寄りに大きなゴシック様式の「聖バルトロメイ大聖堂」(塔は北側)が忽然と聳えていること。一般的に、広場に面するか、広場近くの通り沿いに建てられることなどが多いが、こちらの場所が穏やかで静かな雰囲気だったことが建設理由とも言われている。大聖堂は共和国広場と同時期の13世紀後半に建てられ、塔の高さは103メートルとチェコの聖堂では最も高い。


午後2時を過ぎて、お腹が減ったので、広場から東側の通り沿いにあるレストランで遅い昼食を頂いた。店内にはプルゼニュスキー プラズドロイのロゴが至る所にあり、料理もピルスナー・ウルケルと相性が良く美味しく頂いた。再び「共和国広場」に戻り散策を続ける。

北側の中央に建つズグラッフィートの装飾が施された豪華な建物は「市庁舎」(1496年以来)で、左側の北西側には、プルゼニの彫刻家クリスチャン・ウィドマン(Kristian Widman)による1681年制作の「聖メアリーペスト記念柱」が飾られている。
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聖バルトロメイ大聖堂の塔に上り、東側を眺めると、サッカースタジアムがあり、その先の緑の一体が、プルゼニュスキー プラズドロイ醸造所で、更にその先がプルゼニ中央駅になる。塔からの眺望は素晴らしいが、広場を見下ろすと目がくらみそうになる。。
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西側には、ネオ・ムデハル様式の「大シナゴーグ」(1892年に建設、1997年再建)が建っている。ブダペストにあるヨーロッパ最大のシナゴーグに次ぐ大きさを誇っている。その先の煙突が建ち並ぶ工場は、シュコダ・ホールディングで、20世紀前半にヨーロッパ有数の工業コングロマリットだったシュコダ財閥の本拠地があった場所である。
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次の目的地、カルロヴィ・ヴァリ(Karlovy Vary)(ドイツ名はカールスバート)のカルロヴィ・ヴァリ・ドルニー駅には、午後5時に到着した。カルロヴィ・ヴァリは、プルゼニから北西に約70キロメートル行った西ボヘミアに位置する人口約5万人の中堅都市で、温泉保養地として知られている。

そのカルロヴィ・ヴァリ・ドルニー駅は、東西を流れるオフルジェ川(エーガー川)の南側、右岸沿いにあり、今夜の宿泊ホテル「ホテル ロマンス プスキン」は、駅からタクシーで南東方向に5分ほど行った、オフルジェ川の支流、デプラ川沿いの温泉街中心にある。


ホテルは、王冠の様にも見える、お洒落でエレガントな建物で、カルロヴィ・ヴァリを紹介する観光写真には必ずと言ってよいほど登場している。1階にレセプションとレストランがあり、客室は2階以上で、この日は眺めの良い正面側のベランダ付の3階の部屋にしてもらいラッキーだったが、常に多くの観光客からカメラが向けられている状態で、気軽にベランダへは出にくかった。。そのホテル ロマンスの前面は坂道で、隣の上り側にも色とりどりのホテルが並んでいる。


ホテル ロマンスの下り側にもホテルが並び、坂道の向かい側(東側)は、高低差があり低い場所に広場がある。その広場へは、ホテル ロマンス前に設置された大階段を下りて行く。途中の踊り場には、噴水のオブジェが飾られている。


大階段を降りたすぐ左側には、トルジニー・コロナーダがある。コロナーダ(Kolonáda)とは温泉水を飲むことができる施設のことを指している。つまり、日本のように温泉に浸かるのではなく、温泉街にある温泉水(16ヵ所のコロナーダがある)を飲み比べしながら散策するのがカルロヴィ・ヴァリ流の楽しみ方という訳である。

こちらのトルジニー・コロナーダの温泉口は、大階段を下りすぐ左に回り込んだアーケード内の左壁側にあり、2番、源流、カール4世、64度と書かれている。そしてその上には、神聖ローマ皇帝カール4世(1316~1378)(ボヘミア王カレル1世)が遠征中、偶然に源泉を発見した際の様子が木彫りのレリーフに表現されている。カール4世は、カルロヴィ・ヴァリの温泉水により負傷していた足が治癒したと伝えられている。
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更に、ホテル ロマンス前の坂道の上にあり、広場からは高台にある「シャトーコロナーダ(Chateau Colonnade)」は、列柱で囲まれた円形の東屋内に蛇口があり、見晴らしが良い。温泉水を飲む際は、地元のお店で販売している専用のカップがお勧めで、取っ手部分がストロー状になっており、熱い温泉水も安心して飲むことができる。

時刻は午後6時を過ぎ、ホテルレストランのテラスが空いていたので夕食にすることにした。飲み物は、生ビール(ブドヴァイゼル・ブドヴァル)、フランコフカ種の赤ワインを頼み、料理は、トースト・ハワイクリーム系のニンジンスープクネドリーキを添えたローストビーフ、新鮮なブロッコリーの春のスパゲッティ、ポテトピューレと魚の切り身、レモン添えで、最後にデザート(チョコバナナアイス)を頼んだ。見た目も美しく丁寧に調理されており、美味しく頂いた。洗練された高級感漂う街の風景や、テラス席の気持ち良さも相まって大変満足できた。


正面に建つアールデコの建物は、アストリアホテルで、その左隣には、L字型の敷地を持つガラス張りの近代建築「ヴジーデルニー・コロナーダ(Vřídelní kolonáda)」がある。その建物内を右側奥の突き当りまで行くと、間欠泉(ヴジードロ / Vřídro)が噴出する場所に到着する。深さ2500メートルの地下から毎分2000リットルの温泉水が噴出するのを室内にいながら目の前で見られることができ観光客に人気がある。


後方に見える二つのバロック様式の尖塔は1736年に建てられたカトリック教会「聖マリー・マグダレナ教会(chram svaté Máří Magdaleny)」である。

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翌朝、レストランで朝食を食べ、温泉街の散策に出かけた。最初に、ホテル前の大階段を降り、左折してトルジニー・コロナーダ前を左に見ながら、石畳の通りを歩いて行くと、左右にホテルや土産ショップなどが続くお洒落な歩行者通り「ラーズニェスカ通り(lazenska)」となり、北方面に続いている。300メートルほどで、視界が広がり広場に到着する。こちらは、その広場から振り返った様子。
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正面のアパートメントの右側が歩いてきたラーズニェスカ通りで、左側にはテプラ―川が、そのラーズニェスカ通りと並行する様に流れており、対岸にも豪華でカラフルな建物が並んでいる。


広場の左側(西側)には、「ムリーンスカー・コロナーダ(Mlýnská kolonáda)」と名付けられた柱が並ぶアーケード状の回廊が続いている。チェコ人建築家「ヨセフ・ジーテク(Josef Zitek)」によって1881年にネオ・ルネッサンス様式で造られた温泉施設である。広場はテプラ―川をふさいでいるが、温泉施設の先からは再びテプラ―川が姿を表している。


更にテプラ―川沿いを下流に向け北に350メートル進むと、ホテル コープ クリヴァンの向かい側の公園に東屋風のサドヴァー・コロナーダ(kolonáda Sadového pramene)がある。


テプラ―川を渡った東側は丘陵地の斜面で、スパ ホテル サーマル(Spa Hotel Thermal)が建っている。そのホテル付属施設のプールの上が展望台でそこからの眺望がすばらしいとのことでやってきた。期待通り展望台からは、自然の風景と調和する様に美しい街並みが広がっている。
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右側の赤い屋根は、ラゼンスキー ホテルで、その右隣がサドヴァー・コロナーダの向かいに建っていたホテル コープ クリヴァンである。そして、右後方の山の中腹に建つ宮殿風の建物は、5つ星ホテルのサヴォイ ウエストエンド ホテルで、アールヌーボー様式のヴィラ5棟から構成されている。

正面の谷間にテプラ―川が流れ、上流側に沿って温泉街が続いている。前方に聖マリー・マグダレナ教会の2つの塔が見え、更に遠方高台の豪華なネオ・ルネッサンス様式の建物は、5つ星スパ ホテル インペリアルである。
(2005.6.23~27)
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