クレタ島の首府イラクリオンから西に約20キロメートル離れたアムーディ(Ammoudi)のアパートメント・ホテル(Erivolos Apartments)で朝を迎えた。昨日は、イラクリオン港に午後8時前に到着したものの、ホテルには午後10時頃と遅い到着となった。実は、主要幹線90号線から近い場所にも関わらず、リガリア湾(アギア・ペラギア地区)を望む海岸段丘の坂道沿いにあることや、灯りも少なく暗いことから迷ってしまったのである。
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夕食は、リガリア湾に面した「レストラン・シロッコ」(ホテルの場所が分からず教えてもらった)に閉店30分前の午後10時半に入店した。料理は魚介類の盛り合わせを注文し美味しく頂いた。食べ終わるころには閉店時間も過ぎ、店内はほとんど客がいなくなったものの、サービスのデザートも快く提供してくれ有難かった。
食後、誰もいないレストラン前の砂浜から湾沿いの大型ホテルを眺めると、右側中腹にうっすら緑の灯りのホテルが確認できた。ホテルには午前0時前に戻り、プールサイドから、リガリア湾を眺めて無事一日を終えた。
以上の様に昨夜はドタバタ劇があったが、今朝は午前9時過ぎにホテルを出発し、無事「ハニア」にやってきた。ハニアは、イラクリオンから西に約145キロメートル行った北岸に位置し、周辺を含め人口70,000人と、クレタ島ではイラクリオンに次ぐ規模の港町である。主要幹線90号線からは、インターを下りて、南北に延びる「ヴェネツィア時代の防壁」西壁に沿って北上し、湾岸道から防壁の北壁を回り込むと到着する。
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ここから歩いて防壁東側の上り坂を進むと、すぐに石畳の道になり旧市街の繁華街が現れる。繁華街の左右にはレストランやホテルがひしめく様に並んでいる。通りを100メートルほど進んだ先にある狭い路地を左折して少し進むと、視界が大きく開ける。こちらが、ハニアを代表する「ヴェネツィアン・ポート」で、今もヴェネツィア時代の美しい風景が残っている。港沿いには景色を眺めながら飲食できる多くのレストランやカフェが並んでいる。
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湾に沿って東側に視線を移していくと、複数のドームが印象的な「ジャニサリー・モスク」が見える。こちらのモスクは、1645年の「クレタ戦争」の後、オスマン帝国により建てられたが、1878年のハレパ協定の締結、1923年のギリシャとトルコの住民交換などイスラム教徒がトルコに移住した後はミナレットが撤去された。その後は倉庫、観光案内所、博物館を経て、美術作品の企画展やイベント開催会場として活用されている。
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ヴェネツィアン・ポートは、南側への入り江になるが、モスクの先から東方面にかけては港湾が広がっている。その港湾から続く堤防には、海賊の襲来から町を守るために築かれた聖ニコラオス(サンタクロース起源説)の砦があり西側にまで延びている。そしてその堤防の先端には「ヴェネツィア式灯台」が建っている。
灯台は、もともとはヴェネツィア人によって15世紀に建設され、19 世紀半ばにエジプト人によって修復されたが、現在は灯台としての機能はなく、土台には登れるが内部には入れない。その灯台と湾の北端とは100メートルほどの間隔の湾口となっている。ちなみに、北端の赤い建物は「クレタ海洋博物館」で、その先の城壁を西側に回り込むと「ヴェネツィア時代の防壁」の北壁に戻る。
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次に港から南に延びる「ハリドン通り」を100メートルほど歩くと、右側にバジリカ様式の「ハニア考古学博物館」が現れる。博物館は1962年に設立されたが、もともとは「聖フランシスコ修道院(ヴェネツィア教会)」であった。その後、オスマン帝国時代にはモスクとして使用され、20世紀初頭には映画館となり、更には軍事設備の倉庫として使用されるなど変遷を繰り返した。
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博物館を入ると中央に身廊があり左右に連続するアーチで仕切られた側廊がある。教会の姿を残しながら、館内にはハニアの町と周辺及びクレタ島内で発掘されたミノア文明前後の土器やローマ時代の工芸品などが展示されている。
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内陣側の床には複数のモザイク画が展示されている。こちらは「ポセイドンとアミュモネ」で、ハニアがキドニア(シドア)と呼ばれていた3世紀中頃の個人邸宅のトリクリニウム(ダイニング)を飾っていたもの。左側の破損画は、サテュロスがアミュモネに欲情して襲いかかる場面で、右側は、ポセイドンが三叉戟を投げてサテュロスを追い払いアミュモネを救助した場面である。更に上のフレームには、官能的な喧嘩の暗示として闘鶏が表現されている。
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こちらの可愛い絵柄の容器は、アプテラ(ハニア近郊の古代都市)の役人宅の墓から出土した「クライ・ピュクシス(陶器の化粧道具入れ)」で「後期ミノアIIIB期(LMIIIB)後宮殿時代」(前1300~前1250)のもの。表面には、長い衣服を着た男が多くの鳥が舞う野原でギターを弾く様子が描かれている。プレーヤーはアポロン、オルフェウス、歌手、司祭など様々な解釈があるが、音楽場面には葬儀など宗教的な意味が含まれている。
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こちらの展示コーナーは、ミノア文明の前のキクラデス文明(前3000頃~前2000頃)より更に前の「初期ミノアI期(EMI)前宮殿時代」(前3650~前3500)のクレタ土器を集めたものである。口縁から伸びる突起のある椀や、灰黒色のピュルゴス土器など個性的な形の土器が並んでいる。
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こちらは「初期ミノアI期~II期(EMI、EMII)前宮殿時代」(前3650~前2300)の展示コーナーで、左側には、鳥型のティーポット(前3000~前2300)や注ぎ口が上を向いたヴァシリキ様式の土器など個性的な形の容器が展示されている。容器には線状に描かれた文様がうっすらと残っている。いずれも多くは修復されていると思われるが、5000年も以前の古代の土器がこのように今も存在していることが信じられない。。
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時代は下り「初期ミノアIII期(EMIII)前宮殿時代」(前2300~前2160)~「中期ミノアII期(MMII)古宮殿時代」(前1800~前1700)にかけての様々な容器で、中段左から3つ目の放射状に文様が描かれたミノア文明における代表的な「カマレス土器」や、燻製器や舟形トレイなど個性的な形状をしているもの多い。
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「中期ミノアIA期(MMIA)前宮殿時代」~「後期ミノアII期(LMII)後宮殿時代」(前2000~前1425頃)の動物を中心とした置物で、一番上の車輪の牛は玩具と考えられている。左下のキクラデス型の置物(前2800~前2200)は、クレタ島の中央南部のコウマサ墓地から発掘したもので、肩幅が広く腕を組み脚が短く非常に小さいが、厚みがかなり薄く繊細な造りのため、アクリル板に入れて展示されている。右側手前の足の置物は、クレタ島の聖域とワークショップ(作業場)から出土したもので、供物と考えられている。
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他にも、ミノア文明が崩壊した後の、ギリシャ各地にポリスが出現していた頃の作品で、神事に使われた鳥に扮した女性の粘土の置物(前600〜前575)や東地中海のガラス花瓶(前5世紀)などが展示されていた。
30分ほど見学した後「ハリドン通り」を更に南に行くと東側のアティナゴラ広場の先に「ギリシャ正教会のハニア聖堂」が建っている。もともとこの場所には、11世紀初頭に小さな教会があったが、その後取り壊され、倉庫や石鹸工場などになった。現在の教会は、オスマン帝国領クレタ時代の1850年から1860年にかけて建てられたもの。
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教会内には、クレタ島の19世紀の著名なイコン画家たちの手による多くのイコンが飾られている。イコノスタシスの一部には、地元の金細工師によって作られた銀のカバーで煌びやかに荘厳されている。そのイコノスタスの背後には、キリストと左右に聖ピーターと聖ポールが描かれた画家ココティスによるフレスコ画があり、その上のアプスには聖母マリアが描かれている。
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ハニア聖堂から南東に200メートルほど進んだ旧市街の中心地には、1913 年に開設された十字型の屋内市場「ハニア・マーケット」があり、煉瓦造りの趣のある外観や豊富な品揃え等が、地元を含め多くの人々から親しまれている。屋内には76もの店舗が建ち並び、新鮮な魚や肉類、チーズ、ハーブ、スパイスに加え、アパレル製品やサンダル、靴なども取り扱っている(月から土曜日営業で月水土は午前のみ営業)。今日のお昼はこちらの屋内市場で総菜をテイクアウトし、その後は、渓谷トレッキングを体験することとしている。
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クレタ島は、2000メートル級の山々が連なり盆地や渓谷が形成される地形で、中でもサマリア渓谷やインブロス渓谷などトレッキングコースが人気スポットとして知られている。これからそのインブロス渓谷に向かうこととし、ハニアから主要幹線90号線をイラクリオン方面に30キロメートル戻り、ヴラィセス(Vryses)インターを下り、20キロメートル南のアスキーフー村から更に5キロメートルほど進んだ通り沿いに現れる数件のタベルナが、目的のインブロス村(Imbros)である。
インブロス村のタベルナ手前の三差路に「インブロス峡谷入口」の立看板があり、すぐ横の空地に駐車し歩いて行ったが、入口(砂利道の左側に建つコンテナハウス風の石造りの建物)は1キロメートル先にあったため、街道をもう少し進んでから歩くべきだった。。入口の女性スタッフに入場料2.5ユーロを支払い、裏側の公衆トイレを利用した後、出発した。
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インブロス峡谷のトレッキングコースは、終着地点にあるコミターデス村までの全長8キロメートル(サマリア渓谷は15キロメートル)で、高度780メートルから650メートルを下るコースである。出発直後の歩きやすい道は、すぐに岩や石が転がる悪路になった。足元に気を付けないと足を挫いてしまう。
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前方からけたたましい音が聞こえ、山羊が現れ通り過ぎていった。クレタ島には「クリ・クリ」と呼ばれる珍しい野生の山羊が生息すると言われているらしい。。
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コース途中には道標など人工物はまったくないことから、GPSなどで確認しないと位置がわからない。ちなみにコースには、他に3~4人が歩くのみで、未開の地を歩いているようだった。中間から後半にかけて巨石が積み重なり、アップダウンや奇岩など中々見所も多かった。
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辺りが開けエーゲ海が見え始めると、誰もいない古びたカフェに続き、無人の木造チケットハウスが現れ到着した。全体を通してコースは概ねなだらかに下っており距離もちょうどで、足を挫くことなく完歩できて良かった。踏破時間は3時間だった。近くのワンコが歓迎に現れやたらまとわりつかれた。
コミターデス村は海岸段丘にあり街道が斜面を蛇行しながら続いている。街道沿いのタベルナに頼みインブロス村まで車で送ってもらったが(13キロメートル、25ユーロ)、つづら折りが続く急な坂を一気に上りきり、その後は高地走行が続く街道だった。
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さて、夕食は、ヴラィセスから主要幹線90号線をイラクリオン方面に30キロメートルほど戻ったレシムノ(レティムノ)を予定してる。レシムノは、イラクリオン、 ハニアに次ぐクレタ島の第三の規模の港湾都市で、2都市のほぼ中間に位置している。東西に続く海岸から"おわん"型に突き出た小半島の北側高台に「ヴェネツィア時代の城塞(フォルテッツァ)」址があり、城塞の南側に広がる旧市街が目的地である。
レストラン(Castelo Restaurant)へは、城塞南西側の駐車場からIoannou Melissinou通りを東に500メートル歩いた場所にある。途中、年配夫婦が経営する路地裏のパン屋で朝食を買い、ほどなく到着した。混雑しているテラスは若干空きがあったが、冷え込みだしたことから店内で頂くことにした。
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料理は、最初に前菜を頼み、メインはスペアリブを頼んだ。甘めのソースを絡め、ポテトサラダ上に乗っている。
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最後に、海老とムール貝のリングイネを頼んだが、いずれもおいしく頂けた。
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最後にサービスデザートを頂いた。レストランはお洒落で開放的な吹き抜け空間になっており、階段を上り始めると2階と屋上のテーブル席も見える。2階のトイレを利用したが清潔で可愛いインテリアに好感が持てた。1時間半ほどゆっくり食事した後、レストランを出た。
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レストランから東に300メートルほど歩くとレシムノの港「ヴェネツィアン・ポート」に到着する。ヴェネツィア共和国時代に造られた小さな港で、タベルナが軒を連ねている。前方には小さな灯台が建っている。
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この時間のヴェネツィア時代の城塞はライトアップされていた。城塞は、オスマン帝国の侵略を防御する目的として1573年から1580年にかけて、ヴェネツィア人により丘の上(パライオカストロ)に建設された。城塞内には1646年にオスマン帝国により教会から改修されたモスクの丸い屋根が残っている。城塞からの眺めは美しく、夏には屋外劇場でコンサートが開催されているそうだ。
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2泊したアムーディのアパートメント・ホテル(Erivolos Apartments)からは今朝も抜けるような青空が広がり、レストラン(フロント兼用)とプールを通して美しいリガリア湾の風景が一望できる。少し敷地内を散策してみた。
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レストランの上にある展望テラスから部屋を眺める。駐車場から階段を上りプールサイドで折り返して上った最初の青い棟1階である。部屋は広くキッチンもあり快適だったが、洗面台のポップアップ排水栓の調子が悪く、結局水回りはキッチンを利用した。一番驚いたのは駐車場で、パントマイムの様な歩き方をしないと転がり落ちてしまうほどの傾斜地に設けられており、特に斜面下側のドアを開ける際はかなり注意が必要だった。
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さて、今日は「クノッソス宮殿」の見学に行くことにしている。ホテルをチェックアウトし、主要幹線90号線をイラクリオン・インターまで戻り、案内表示に従い、市内と逆の南方面に向かった。インターからクノッソスまでは約5キロメートルの距離である。
「クノッソス宮殿」は、伝説のミノス王の王宮とされ、1900年以降、アーサー・ジョン・エヴァンズ(1851~1941)とイギリスの調査隊により発掘された。クレタ島には、紀元前7000年頃から人々が住み始めていたが、この地に紀元前2000年頃から宮殿が建設され始め、政治、経済、祭祀の中心として繁栄したが、紀元前1700年頃に起こった大地震で倒壊してしまう。その後、古宮殿を越える壮麗な新宮殿が建設された。現存する遺跡の大部分は、この新宮殿のもので、その遺跡群への入口は街道東側に設けられた駐車場の奥になる。
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入場料16ユーロ(イラクリオン考古学博物館とのセット券)を支払い、入口を入ると最初にアーサー・エヴァンズの胸像が現れる。彼はイギリスの考古学者で、青銅器時代のエーゲ文明の研究における先駆者であった。1899年にはクレタ発掘財団を設立し、クノッソス遺跡の発掘を推進し、翌1900年より宮殿址ならびに未解読の線状文字資料を多数を発掘したことからクレタ文明の解明に大きな貢献を果たした。そのエヴァンズ像の後方には円形の「供物の井戸」が3つ並んでいる。
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「供物の井戸」の東側に石畳が続き、その先に大きな宮殿の遺構が現れる。その宮殿壁の南北に沿って「王の道」と呼ばれる舗装された通りが郊外から続いていた。手前の石畳は、宮殿西側の「西広場(The West Court)」で、宮殿から約30メートルにわたり敷き詰められている。
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宮殿壁に続く「王の道」は、メイン入口の一つである「西玄関(ウェスト・ポーチ)」に繋がっていた。西玄関は、4.6メートル×4.25メートルの主室がある柱廊玄関で後方に2つの小部屋があった。
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西玄関の南側から遺跡の上に造られた現在の見学通路を東方面に進んで行く(宮殿の案内図はこちら)。右側には、回廊の区画址が続き、左側には朱色の鮮やかな円柱が支える2階建ての復元された建物が現れる。円柱は円形型の柱頭が太く下方に向けて細くなっており、ギリシャ式の柱とは逆の形をしている。その建物を回り込むと、古典期を思わせる「南正門(サウス・プロピュライア)」(左側のみを復元したもの)が現れる。
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手前足元の段差を越えると南正門の中に入り、天井を支える円柱(やはり下方に向けて細くなる)と角柱が並び、再び円柱(復元されていない)を過ぎると、宮殿中枢部に向かう階段(アッパー・プロピュライア)が続いていた。南正門の左右壁面には供物などを運ぶ人々「行列の壁画の廊下」が描かれており、現在一部がレプリカで展示されている(こちらはイラクリオン考古学博物館展示のオリジナル№1、オリジナル№2)。復元された南正門を横からから見ると、右壁側の円柱基礎が残っており門の大きさをイメージすることができる。
(注)以降リンクを貼った壁画等出土品は、全てイラクリオン考古学博物館の展示作品である。
「南正門」右側の円柱基礎の先にはやはり左側の復元された柱と対になる角柱下部が並び、その先に階段(アッパー・プロピュライア)が続いている。そして右側には、崩れた遺跡が広がっている。
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階段右側に並ぶ貯蔵瓶(ピトゥス)を眺めながら、階段を上り詰めると、広いテラスになっており、テラス中央の角柱址までがアッパー・プロピュライア・エリアになる。その先から「ロビー」、「三柱式ホール」(数十センチ残る壁面基礎の先で12メートル四方)の「宮殿中枢部(高貴な館、piano nobile)」となる。そして、更にその先に「中央広場(セントラル・コート)」へ下りる中央階段があり、その奥に見える、高窓がある石積みの「壁画の部屋」へと続いている。
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右側に視線を移すと、宮殿の1階部分の様子や、手前の「開口空間(ロッジア)」先に中央広場が広がっている。更に後を振り返ると、ロッジアから続く遺跡群の南端の通路沿いに、牡牛の角を模した 「奉納の角」(博物館展示のオリジナル)が飾られている。その東側に復元された石造りの廊下があり壁面には「百合の王子」のレプリカ(オリジナルはこちら)が展示されている。廊下はすぐに中央広場に通じている。
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ところで、現在歩いているこのテラスは、宮殿の2階フロアにあたり、当時は3階まであった。テラス屋根で保護されている西側(ウエスト・マガジン)にはオリーブオイル、ワイン、その他の農産物などの大きな貯蔵瓶(ピトゥス)を保管する22ほどの部屋があり、約50ガロン(227リットル)のピトゥスとして400瓶もの収容が可能だった。ちなみに上部には「西広場」を見下ろすことができる大きな部屋(宴会場)があり収穫祭等の儀式が行われていたと考えられている。この場所から女神官(巫女)にゴブレット等を捧げるフレスコ画が発見されている。また、濃いめのメイクに、髪を丁寧に結い、輪結びスカーフを身に着けた「パリジェンヌ」(前1450~前1300)と名付けられた壁片は有名である。
次に「三柱式ホール」から中央階段北側に隣接する「壁画の部屋」(高窓がある石積みの建物)に行ってみる。入口は左側から中央階段の北側に回り込んだ所にある。
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建物内は、高窓からも外光が差し込み、明るい雰囲気である。壁には当時描かれていた壁画のレプリカが数点展示されている。部屋の南側は、円柱で区切られ、1階から高窓まで吹き抜けとなっている。
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以下は「壁画の部屋」に掲げられていた主なフレスコ画のオリジナルで、牡牛跳び(前1600~前1400)、青の婦人達(前1600~前1450)、聖なる森と踊り、三者の神殿、黒人の隊長(前1350~前1300)、青い鳥、猿と山の植物の風景。
次に「壁画の部屋」の南側から、中央階段を下りて中央広場に出る。中央広場側から「宮殿中枢部」(西翼)方向を眺めると「壁画の部屋」真下のアーケード前に観光客が集まっている。こちらがクノッソス宮殿における最大の見所の一つ「玉座の間」になる(クノッソス宮殿の立体模型参照)。
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こちらの玉座の間が、アーサー・エヴァンズにより発見された際、伝説のミノス王の実在を示すものではないかと言われた。ギリシャ神話では、ミノス王はクノッソスの都を創設し、宮殿を築いてエーゲ海を支配したとされる。最も知られる伝説として、妃がポセイドンからミノス王に送られた美しい牡牛とまじわって怪物ミノタウロス(頭は牛で体は人間)を生んだため、困った王はアテナイの名匠ダイダロスに命じて、一旦入ったら出ることが困難な迷宮(ラビリントス)をつくらせ、ミノタウロスをその奥に住まわせたとされる。
その「玉座の間」のアーケード奥の部屋には、北側壁面にアラバスター(雪花石膏)の玉座と、取り囲む様に朱色の壁面に描かれたグリフィンとベンチが設置されている。玉座自体はオリジナルで、ヨーロッパで最も古い玉座と言われている。現在における最も有力な説として、グリフィンがミノア文明では女神(或いは巫女)と関連付けられていたことや、玉座背もたれの湾曲エッジと座席の女性的なくぼみなどから、宗教儀式を目的とした「女性祭司」の部屋だったと考えられている。
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なお、グリフィンの一部や、玉座とベンチとの間を彩っていた壁画が僅かに残っている。
そして床には儀式のためにアラバストロン(香油やマッサージ油の容器)が用意された。グリフィンは神聖の象徴として儀式に使用され、南側の円柱を介した小さな部屋は、儀式用の沐浴や洗濯のための部屋だったと考えられている。
一方で「玉座の間」は女王のための部屋で、壁画は王家の紋章を表し、南側の部屋は控えの間だったとの説も有力である。いずれにせよ両室を併せて約30人が収容できる規模があった。
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中央階段に向かって左側のテラス屋根で覆われている場所は祭儀室(カルト・ルーム)で「三者の神殿」(リンク先は壁画)があった。階段側に隣接した場所に神殿リポジトリがあり、蛇女神像が出土している。
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後のミケーネ文明を遥かに凌ぐ規模を持つこの宮殿の最大の特徴は中央広場で、それを囲むように重要な施設が配置されている宮殿の構造は、高度な官僚機構と強い王権の存在を示している。また、巨大な倉庫を備えていたのも重要な点で、ここから宮殿が支配領域内の物資を集積して再分配する機能を持っていたと考えられている。
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次に中央広場の「東翼エリア」の見学に向かう(再び、宮殿の案内図はこちら)。東翼エリアは中央広場の東側の斜面下に向けて階層が広がっている。中央広場の中央東側に隣接してテラス屋根で覆われたエリアにある手すりから南側を見ると、手前の「大階段」のある「王家の邸宅(ロイヤル・アパートメント)」に続き、前方には、「女王の間」と、更に南側のテラス屋根に覆われた「神殿」が、中央広場に隣接した一段下に望める。
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場所を変えて中央広場の手すりから「大階段」(通行不可)側を見てみよう。階段は踊り場で折り返して地下1階の朱色の円柱が並ぶ回廊に到着している。
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再び「大階段」側に戻り横の手すりから身を乗り出して、地下1階を覗き込むと、更にその下にも朱色の円柱がある地下2階があるのが分かる。これまで見学した「宮殿中枢部」(西翼)は3階建(一部高窓あり)だったとされるが、こちら東翼の「王家の邸宅」は中央広場から2階建てで、地下に2階の計4階建であった。
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東翼エリアの下に向かうには、中央広場に沿って少し北にある石階段を下りていく。階段を下りたすぐ右側に倉庫らしき址があり、床に空いた穴と大きな壷が並んでいるのが見える。壁面の黒ずみはかつて宮殿を襲った火災の跡とも言われている。
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倉庫に沿った見学用通路の扉先には、大階段から覗き込んだ地下1階の回廊を見ることができる。中には入ることはできないが、朱色の円柱や復元された壁画などが見える。中でもミノア人の宗教的シンボルを表す特徴的な盾のデザインは歴史的な価値があり見所の一つである。
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東翼エリアには、様々な大きさの部屋があり、配置は一定の統一がなかったようである。そもそも多種多様な用途に応じた施設が、所々に外光を取り入れつつ、公私の部屋と廊下や階段で結ばれる集塊の様な建物だった。一旦入ったら出ることが困難な迷宮(ラビリントス)と言われた所以である。
外に戻り、中央広場の方向を振り返ると、階段の右側に中央広場を支える外壁の石積みが見える。僅かに見える窓枠のある階層のある建物は、西翼の「壁画の部屋」で、右側にはクノッソス宮殿を代表する「牡牛の壁画」のある建物が見える。
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更に通路を進んで下に向かう。階段を更に下った左手の建物は「大瓶の倉庫」でピトゥスが置かれている。このエリアは、貯蔵施設やワークショップなど工業施設がある区画だったと考えられている。
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「大瓶の倉庫」から更に階段を下りて、最下位まで降り、南側に向かう。南東まで進み、右側の階段を上ると「王家の邸宅」区画に到達する。この場所からは右側の朱色の円柱が並ぶ「王の間」と、左側の壁面の「女王の間」がL字状に繋がり、更に後方の「大階段」の区画も一望できる。現在、王の間と女王の間とは1階部分のみが残るが、もともとの4階建ての姿は、同方角から見た(クノッソス宮殿の立体模型)を参照するとイメージがわきやすい。
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その「王の間」は、東南にお馴染みの円柱を三本ずつ配して東南に回廊を形成している。この時間は逆光で見辛いが、内部は、正面の正方形の部屋と西隣に角柱で区分けされたもう一つの部屋が並んでいる。その西隣の部屋の北側壁面から王座や天蓋の残骸が発見されている。そして更に西側には明り取り(サンルーム)があった。「王の間」は開放的な造りであることから私室ではなく、儀式などの目的で使用されていたと考えられている。
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「王の間」の南西側にある「女王の間」には、南側にある「神殿址」との間の路地を入った先の朱色の角柱の間(手前の扉はサンルーム)越しに見学できる。正面北側の上部壁面には、気持ちよさそうに泳ぐイルカの壁画があり、その下に幾何学模様の縁取りがある2つの扉口がある。向かって左側は、すぐ先が突き当りで、右、左と進む通路があり北隣の王の間へ通じている。右側は右側上部への階段が続いている。正面扉口の右隣には、隣のサンルームへの出入口があり、上には明り取りの窓が開けられている。
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左側の壁面には、大きな窓が開いており、手前の扉口から回り込むと小部屋がある。その部屋には、排水口があり宮殿内の主要な下水システムに接続されていたことからトイレや浴槽などがあったと考えられている。
そして右側手前にはベンチがあり、隣のサンルームとは二本の朱色の角柱で仕切られ外光が差し込んでいる。仕切りの壁面には長い波状の髪束を持ち天から舞い降りた女神「踊り子」が描かれている。
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真下に見える観光客が集まる「女王の間」から、南側にある「神殿址」との間の階段を上ると「王家の邸宅」を見下ろせる。先端がサンルームの吹き抜け空間で、左側の階段が「女王の間」に続いている。階段の左先が「王の間」である。このテラスは2階の床にあたることから、当時は更に2階上の部屋まであったわけだ。
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再び、階段を下りて途中の踊り場から南に広がる「神殿址」を見学する。回廊の中央に1メートル半ほどの小さな正方形の部屋があり、部屋の背面に漆喰の粘土ベンチの上には、 奉納の角と周りに女神像や奉納物など多くのテラコッタ像が置かれていた。
階段を一番下まで下りて「大瓶の倉庫」まで戻り北側への通路を通って「北翼エリア」に向かう。中央広場の北側に、ひと際高く積まれた石壁の上に朱色の柱廊が並ぶ壮大な「牡牛の壁画」の建物の場所になる。当時は手前にも向かい合う様に同様の建物が聳え、建物間の下には数メートル幅の狭い通路(坂道の北側通路)が、25メートル先の「中央広場」まで続いていた。
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坂道の北側通路は「牡牛の壁画」のある建物の先で西側に直角に曲がりなだらかに上った後、出口に続いている。目前の2列の角柱には「北柱ホール(ノース・ピラーホール)」があった。柱は西側に6列、東側に5列あり、東西10メートル×南北22メートルもの区画を持つ大規模なホール(2階建て)だった。ホールは宴会場だった説がある(クノッソス宮殿の立体模型)。
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西に延びる通路を上るとすぐ左側に「北の清めのたらい」と名付けられた深さ2メートルほどの地階を持つ正六面体の小ぶりな復元建物がある。訪問者が宗教的な清めの儀式に使ったと考えられ、同様の施設はクレタ島内の他の遺跡からも発掘されている。通路は右側の劇場沿いを通り、遺跡北西から「王の道」と合流して東の街道方面に延びていく。「クノッソス宮殿」は、後宮殿時代の紀元前1370年頃に再び大規模な災害が起こり被害を受けたが、修復されることのないまま、歴史の表舞台から姿を消してしまったという。
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次に、イラクリオン市内に戻りイラクリオン考古学博物館に到着した。場所は新市街との境になる旧市街側のエレフテリアス広場北側にある。博物館は1883年に古代コレクションとして始まり、その後20世紀初頭の地震で崩壊したが、1952年に再開され1964年に拡張して現在に至っている。
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ギリシャで最も重要な博物館の一つで、クレタ島の新石器時代からローマ時代までの5500年以上の代表的な遺物が収められている。中でもクレタ島のミノア文明のコレクションは充実している。こちらの展示室には、ミノア時代の「両手を挙げた女神像」などが展示されている。
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クレタ島中央南部ファイストス宮殿から出土した、多色彩の浮彫で豪華に装飾された宴会用の豪華な「カマレス土器」のセット(前1800~前1700)で、百合が付いたクラテール、大きなフルーツスタンド、食器スタンド、水差しから構成されている。これらの器は同様の装飾モチーフを持っていることから、同じ職人により制作されたものと考えられる。
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「後期ミノアIB期(LMIB)新宮殿時代」(前1600~前1450)のクノッソス宮殿を代表するリュトンの一つ。献酒の際に使用された牡牛のリュトンで首に注ぎ口があり、鼻が空気抜きになっている。精巧な作りで高度な技術を持っていたことがわかる。
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同じく雌ライオンの頭部を忠実に再現したリュトン(前1600~前1500)で、方解石の石灰岩から造られている。目と鼻には、もともと異なる素材がはめられていた。クノッソス宮殿の中枢部から出土した。
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高度な芸術性を持った作品が多く造られた「後期ミノアII期(LMII)後宮殿時代」(前1450~前1370)の土器群。自然主義的なものから草花文様や抽象文様など多様な土器が制作される。
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クレタ島東岸のパライカストロから出土したリュトン(前1500~前1450)で、向かって右端のあぶみ壷から、底部を尖ったアンフォラ型にかけて、タコ、オウムガイ、海藻などが描かれた土器は「海洋文様式」と呼ばれている。隣には摩耗して少し怖い印象の山猫のリュトンが展示されている。
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海洋文様式では、こちらの多くの土器が並ぶ中央台に展示される、クレタ島北東部のプセイラ島から出土した、海を示す網状模様に泳ぐイルカのリュトンも素晴らしい。
やや大ぶりのリュトンが並んでいるが、ザクロス宮殿(クレタ島の東海岸)から出土(前1500~前1450)した緑泥石(黄金で覆われていた)のリュトンは秀逸である。表面下部には煉瓦積みの中に「奉納の角」が刻まれ、中央には聖杯が支える渦巻き文様の上の神話世界(山上の祠堂)が表現されている。
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こちらの展示室には、クノッソス宮殿などから出土したフレスコ画が一堂に会している。
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博物館には予想を超える多くの作品が展示されており、3時間近く見学したものの最後は駆け足になってしまった。午後6時半に博物館を出て、午後9時発の飛行機でアテネに戻った。
(2019.5.26~28)
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夕食は、リガリア湾に面した「レストラン・シロッコ」(ホテルの場所が分からず教えてもらった)に閉店30分前の午後10時半に入店した。料理は魚介類の盛り合わせを注文し美味しく頂いた。食べ終わるころには閉店時間も過ぎ、店内はほとんど客がいなくなったものの、サービスのデザートも快く提供してくれ有難かった。
食後、誰もいないレストラン前の砂浜から湾沿いの大型ホテルを眺めると、右側中腹にうっすら緑の灯りのホテルが確認できた。ホテルには午前0時前に戻り、プールサイドから、リガリア湾を眺めて無事一日を終えた。
以上の様に昨夜はドタバタ劇があったが、今朝は午前9時過ぎにホテルを出発し、無事「ハニア」にやってきた。ハニアは、イラクリオンから西に約145キロメートル行った北岸に位置し、周辺を含め人口70,000人と、クレタ島ではイラクリオンに次ぐ規模の港町である。主要幹線90号線からは、インターを下りて、南北に延びる「ヴェネツィア時代の防壁」西壁に沿って北上し、湾岸道から防壁の北壁を回り込むと到着する。
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ここから歩いて防壁東側の上り坂を進むと、すぐに石畳の道になり旧市街の繁華街が現れる。繁華街の左右にはレストランやホテルがひしめく様に並んでいる。通りを100メートルほど進んだ先にある狭い路地を左折して少し進むと、視界が大きく開ける。こちらが、ハニアを代表する「ヴェネツィアン・ポート」で、今もヴェネツィア時代の美しい風景が残っている。港沿いには景色を眺めながら飲食できる多くのレストランやカフェが並んでいる。
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湾に沿って東側に視線を移していくと、複数のドームが印象的な「ジャニサリー・モスク」が見える。こちらのモスクは、1645年の「クレタ戦争」の後、オスマン帝国により建てられたが、1878年のハレパ協定の締結、1923年のギリシャとトルコの住民交換などイスラム教徒がトルコに移住した後はミナレットが撤去された。その後は倉庫、観光案内所、博物館を経て、美術作品の企画展やイベント開催会場として活用されている。
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ヴェネツィアン・ポートは、南側への入り江になるが、モスクの先から東方面にかけては港湾が広がっている。その港湾から続く堤防には、海賊の襲来から町を守るために築かれた聖ニコラオス(サンタクロース起源説)の砦があり西側にまで延びている。そしてその堤防の先端には「ヴェネツィア式灯台」が建っている。
灯台は、もともとはヴェネツィア人によって15世紀に建設され、19 世紀半ばにエジプト人によって修復されたが、現在は灯台としての機能はなく、土台には登れるが内部には入れない。その灯台と湾の北端とは100メートルほどの間隔の湾口となっている。ちなみに、北端の赤い建物は「クレタ海洋博物館」で、その先の城壁を西側に回り込むと「ヴェネツィア時代の防壁」の北壁に戻る。
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次に港から南に延びる「ハリドン通り」を100メートルほど歩くと、右側にバジリカ様式の「ハニア考古学博物館」が現れる。博物館は1962年に設立されたが、もともとは「聖フランシスコ修道院(ヴェネツィア教会)」であった。その後、オスマン帝国時代にはモスクとして使用され、20世紀初頭には映画館となり、更には軍事設備の倉庫として使用されるなど変遷を繰り返した。
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博物館を入ると中央に身廊があり左右に連続するアーチで仕切られた側廊がある。教会の姿を残しながら、館内にはハニアの町と周辺及びクレタ島内で発掘されたミノア文明前後の土器やローマ時代の工芸品などが展示されている。
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内陣側の床には複数のモザイク画が展示されている。こちらは「ポセイドンとアミュモネ」で、ハニアがキドニア(シドア)と呼ばれていた3世紀中頃の個人邸宅のトリクリニウム(ダイニング)を飾っていたもの。左側の破損画は、サテュロスがアミュモネに欲情して襲いかかる場面で、右側は、ポセイドンが三叉戟を投げてサテュロスを追い払いアミュモネを救助した場面である。更に上のフレームには、官能的な喧嘩の暗示として闘鶏が表現されている。
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こちらの可愛い絵柄の容器は、アプテラ(ハニア近郊の古代都市)の役人宅の墓から出土した「クライ・ピュクシス(陶器の化粧道具入れ)」で「後期ミノアIIIB期(LMIIIB)後宮殿時代」(前1300~前1250)のもの。表面には、長い衣服を着た男が多くの鳥が舞う野原でギターを弾く様子が描かれている。プレーヤーはアポロン、オルフェウス、歌手、司祭など様々な解釈があるが、音楽場面には葬儀など宗教的な意味が含まれている。
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こちらの展示コーナーは、ミノア文明の前のキクラデス文明(前3000頃~前2000頃)より更に前の「初期ミノアI期(EMI)前宮殿時代」(前3650~前3500)のクレタ土器を集めたものである。口縁から伸びる突起のある椀や、灰黒色のピュルゴス土器など個性的な形の土器が並んでいる。
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こちらは「初期ミノアI期~II期(EMI、EMII)前宮殿時代」(前3650~前2300)の展示コーナーで、左側には、鳥型のティーポット(前3000~前2300)や注ぎ口が上を向いたヴァシリキ様式の土器など個性的な形の容器が展示されている。容器には線状に描かれた文様がうっすらと残っている。いずれも多くは修復されていると思われるが、5000年も以前の古代の土器がこのように今も存在していることが信じられない。。
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時代は下り「初期ミノアIII期(EMIII)前宮殿時代」(前2300~前2160)~「中期ミノアII期(MMII)古宮殿時代」(前1800~前1700)にかけての様々な容器で、中段左から3つ目の放射状に文様が描かれたミノア文明における代表的な「カマレス土器」や、燻製器や舟形トレイなど個性的な形状をしているもの多い。
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「中期ミノアIA期(MMIA)前宮殿時代」~「後期ミノアII期(LMII)後宮殿時代」(前2000~前1425頃)の動物を中心とした置物で、一番上の車輪の牛は玩具と考えられている。左下のキクラデス型の置物(前2800~前2200)は、クレタ島の中央南部のコウマサ墓地から発掘したもので、肩幅が広く腕を組み脚が短く非常に小さいが、厚みがかなり薄く繊細な造りのため、アクリル板に入れて展示されている。右側手前の足の置物は、クレタ島の聖域とワークショップ(作業場)から出土したもので、供物と考えられている。
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他にも、ミノア文明が崩壊した後の、ギリシャ各地にポリスが出現していた頃の作品で、神事に使われた鳥に扮した女性の粘土の置物(前600〜前575)や東地中海のガラス花瓶(前5世紀)などが展示されていた。
30分ほど見学した後「ハリドン通り」を更に南に行くと東側のアティナゴラ広場の先に「ギリシャ正教会のハニア聖堂」が建っている。もともとこの場所には、11世紀初頭に小さな教会があったが、その後取り壊され、倉庫や石鹸工場などになった。現在の教会は、オスマン帝国領クレタ時代の1850年から1860年にかけて建てられたもの。
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教会内には、クレタ島の19世紀の著名なイコン画家たちの手による多くのイコンが飾られている。イコノスタシスの一部には、地元の金細工師によって作られた銀のカバーで煌びやかに荘厳されている。そのイコノスタスの背後には、キリストと左右に聖ピーターと聖ポールが描かれた画家ココティスによるフレスコ画があり、その上のアプスには聖母マリアが描かれている。
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ハニア聖堂から南東に200メートルほど進んだ旧市街の中心地には、1913 年に開設された十字型の屋内市場「ハニア・マーケット」があり、煉瓦造りの趣のある外観や豊富な品揃え等が、地元を含め多くの人々から親しまれている。屋内には76もの店舗が建ち並び、新鮮な魚や肉類、チーズ、ハーブ、スパイスに加え、アパレル製品やサンダル、靴なども取り扱っている(月から土曜日営業で月水土は午前のみ営業)。今日のお昼はこちらの屋内市場で総菜をテイクアウトし、その後は、渓谷トレッキングを体験することとしている。
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クレタ島は、2000メートル級の山々が連なり盆地や渓谷が形成される地形で、中でもサマリア渓谷やインブロス渓谷などトレッキングコースが人気スポットとして知られている。これからそのインブロス渓谷に向かうこととし、ハニアから主要幹線90号線をイラクリオン方面に30キロメートル戻り、ヴラィセス(Vryses)インターを下り、20キロメートル南のアスキーフー村から更に5キロメートルほど進んだ通り沿いに現れる数件のタベルナが、目的のインブロス村(Imbros)である。
インブロス村のタベルナ手前の三差路に「インブロス峡谷入口」の立看板があり、すぐ横の空地に駐車し歩いて行ったが、入口(砂利道の左側に建つコンテナハウス風の石造りの建物)は1キロメートル先にあったため、街道をもう少し進んでから歩くべきだった。。入口の女性スタッフに入場料2.5ユーロを支払い、裏側の公衆トイレを利用した後、出発した。
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インブロス峡谷のトレッキングコースは、終着地点にあるコミターデス村までの全長8キロメートル(サマリア渓谷は15キロメートル)で、高度780メートルから650メートルを下るコースである。出発直後の歩きやすい道は、すぐに岩や石が転がる悪路になった。足元に気を付けないと足を挫いてしまう。
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前方からけたたましい音が聞こえ、山羊が現れ通り過ぎていった。クレタ島には「クリ・クリ」と呼ばれる珍しい野生の山羊が生息すると言われているらしい。。
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コース途中には道標など人工物はまったくないことから、GPSなどで確認しないと位置がわからない。ちなみにコースには、他に3~4人が歩くのみで、未開の地を歩いているようだった。中間から後半にかけて巨石が積み重なり、アップダウンや奇岩など中々見所も多かった。
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辺りが開けエーゲ海が見え始めると、誰もいない古びたカフェに続き、無人の木造チケットハウスが現れ到着した。全体を通してコースは概ねなだらかに下っており距離もちょうどで、足を挫くことなく完歩できて良かった。踏破時間は3時間だった。近くのワンコが歓迎に現れやたらまとわりつかれた。
コミターデス村は海岸段丘にあり街道が斜面を蛇行しながら続いている。街道沿いのタベルナに頼みインブロス村まで車で送ってもらったが(13キロメートル、25ユーロ)、つづら折りが続く急な坂を一気に上りきり、その後は高地走行が続く街道だった。
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さて、夕食は、ヴラィセスから主要幹線90号線をイラクリオン方面に30キロメートルほど戻ったレシムノ(レティムノ)を予定してる。レシムノは、イラクリオン、 ハニアに次ぐクレタ島の第三の規模の港湾都市で、2都市のほぼ中間に位置している。東西に続く海岸から"おわん"型に突き出た小半島の北側高台に「ヴェネツィア時代の城塞(フォルテッツァ)」址があり、城塞の南側に広がる旧市街が目的地である。
レストラン(Castelo Restaurant)へは、城塞南西側の駐車場からIoannou Melissinou通りを東に500メートル歩いた場所にある。途中、年配夫婦が経営する路地裏のパン屋で朝食を買い、ほどなく到着した。混雑しているテラスは若干空きがあったが、冷え込みだしたことから店内で頂くことにした。
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料理は、最初に前菜を頼み、メインはスペアリブを頼んだ。甘めのソースを絡め、ポテトサラダ上に乗っている。
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最後に、海老とムール貝のリングイネを頼んだが、いずれもおいしく頂けた。
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最後にサービスデザートを頂いた。レストランはお洒落で開放的な吹き抜け空間になっており、階段を上り始めると2階と屋上のテーブル席も見える。2階のトイレを利用したが清潔で可愛いインテリアに好感が持てた。1時間半ほどゆっくり食事した後、レストランを出た。
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レストランから東に300メートルほど歩くとレシムノの港「ヴェネツィアン・ポート」に到着する。ヴェネツィア共和国時代に造られた小さな港で、タベルナが軒を連ねている。前方には小さな灯台が建っている。
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この時間のヴェネツィア時代の城塞はライトアップされていた。城塞は、オスマン帝国の侵略を防御する目的として1573年から1580年にかけて、ヴェネツィア人により丘の上(パライオカストロ)に建設された。城塞内には1646年にオスマン帝国により教会から改修されたモスクの丸い屋根が残っている。城塞からの眺めは美しく、夏には屋外劇場でコンサートが開催されているそうだ。
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2泊したアムーディのアパートメント・ホテル(Erivolos Apartments)からは今朝も抜けるような青空が広がり、レストラン(フロント兼用)とプールを通して美しいリガリア湾の風景が一望できる。少し敷地内を散策してみた。
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レストランの上にある展望テラスから部屋を眺める。駐車場から階段を上りプールサイドで折り返して上った最初の青い棟1階である。部屋は広くキッチンもあり快適だったが、洗面台のポップアップ排水栓の調子が悪く、結局水回りはキッチンを利用した。一番驚いたのは駐車場で、パントマイムの様な歩き方をしないと転がり落ちてしまうほどの傾斜地に設けられており、特に斜面下側のドアを開ける際はかなり注意が必要だった。
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さて、今日は「クノッソス宮殿」の見学に行くことにしている。ホテルをチェックアウトし、主要幹線90号線をイラクリオン・インターまで戻り、案内表示に従い、市内と逆の南方面に向かった。インターからクノッソスまでは約5キロメートルの距離である。
「クノッソス宮殿」は、伝説のミノス王の王宮とされ、1900年以降、アーサー・ジョン・エヴァンズ(1851~1941)とイギリスの調査隊により発掘された。クレタ島には、紀元前7000年頃から人々が住み始めていたが、この地に紀元前2000年頃から宮殿が建設され始め、政治、経済、祭祀の中心として繁栄したが、紀元前1700年頃に起こった大地震で倒壊してしまう。その後、古宮殿を越える壮麗な新宮殿が建設された。現存する遺跡の大部分は、この新宮殿のもので、その遺跡群への入口は街道東側に設けられた駐車場の奥になる。
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入場料16ユーロ(イラクリオン考古学博物館とのセット券)を支払い、入口を入ると最初にアーサー・エヴァンズの胸像が現れる。彼はイギリスの考古学者で、青銅器時代のエーゲ文明の研究における先駆者であった。1899年にはクレタ発掘財団を設立し、クノッソス遺跡の発掘を推進し、翌1900年より宮殿址ならびに未解読の線状文字資料を多数を発掘したことからクレタ文明の解明に大きな貢献を果たした。そのエヴァンズ像の後方には円形の「供物の井戸」が3つ並んでいる。
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「供物の井戸」の東側に石畳が続き、その先に大きな宮殿の遺構が現れる。その宮殿壁の南北に沿って「王の道」と呼ばれる舗装された通りが郊外から続いていた。手前の石畳は、宮殿西側の「西広場(The West Court)」で、宮殿から約30メートルにわたり敷き詰められている。
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宮殿壁に続く「王の道」は、メイン入口の一つである「西玄関(ウェスト・ポーチ)」に繋がっていた。西玄関は、4.6メートル×4.25メートルの主室がある柱廊玄関で後方に2つの小部屋があった。
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西玄関の南側から遺跡の上に造られた現在の見学通路を東方面に進んで行く(宮殿の案内図はこちら)。右側には、回廊の区画址が続き、左側には朱色の鮮やかな円柱が支える2階建ての復元された建物が現れる。円柱は円形型の柱頭が太く下方に向けて細くなっており、ギリシャ式の柱とは逆の形をしている。その建物を回り込むと、古典期を思わせる「南正門(サウス・プロピュライア)」(左側のみを復元したもの)が現れる。
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手前足元の段差を越えると南正門の中に入り、天井を支える円柱(やはり下方に向けて細くなる)と角柱が並び、再び円柱(復元されていない)を過ぎると、宮殿中枢部に向かう階段(アッパー・プロピュライア)が続いていた。南正門の左右壁面には供物などを運ぶ人々「行列の壁画の廊下」が描かれており、現在一部がレプリカで展示されている(こちらはイラクリオン考古学博物館展示のオリジナル№1、オリジナル№2)。復元された南正門を横からから見ると、右壁側の円柱基礎が残っており門の大きさをイメージすることができる。
(注)以降リンクを貼った壁画等出土品は、全てイラクリオン考古学博物館の展示作品である。
「南正門」右側の円柱基礎の先にはやはり左側の復元された柱と対になる角柱下部が並び、その先に階段(アッパー・プロピュライア)が続いている。そして右側には、崩れた遺跡が広がっている。
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階段右側に並ぶ貯蔵瓶(ピトゥス)を眺めながら、階段を上り詰めると、広いテラスになっており、テラス中央の角柱址までがアッパー・プロピュライア・エリアになる。その先から「ロビー」、「三柱式ホール」(数十センチ残る壁面基礎の先で12メートル四方)の「宮殿中枢部(高貴な館、piano nobile)」となる。そして、更にその先に「中央広場(セントラル・コート)」へ下りる中央階段があり、その奥に見える、高窓がある石積みの「壁画の部屋」へと続いている。
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右側に視線を移すと、宮殿の1階部分の様子や、手前の「開口空間(ロッジア)」先に中央広場が広がっている。更に後を振り返ると、ロッジアから続く遺跡群の南端の通路沿いに、牡牛の角を模した 「奉納の角」(博物館展示のオリジナル)が飾られている。その東側に復元された石造りの廊下があり壁面には「百合の王子」のレプリカ(オリジナルはこちら)が展示されている。廊下はすぐに中央広場に通じている。
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ところで、現在歩いているこのテラスは、宮殿の2階フロアにあたり、当時は3階まであった。テラス屋根で保護されている西側(ウエスト・マガジン)にはオリーブオイル、ワイン、その他の農産物などの大きな貯蔵瓶(ピトゥス)を保管する22ほどの部屋があり、約50ガロン(227リットル)のピトゥスとして400瓶もの収容が可能だった。ちなみに上部には「西広場」を見下ろすことができる大きな部屋(宴会場)があり収穫祭等の儀式が行われていたと考えられている。この場所から女神官(巫女)にゴブレット等を捧げるフレスコ画が発見されている。また、濃いめのメイクに、髪を丁寧に結い、輪結びスカーフを身に着けた「パリジェンヌ」(前1450~前1300)と名付けられた壁片は有名である。
次に「三柱式ホール」から中央階段北側に隣接する「壁画の部屋」(高窓がある石積みの建物)に行ってみる。入口は左側から中央階段の北側に回り込んだ所にある。
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建物内は、高窓からも外光が差し込み、明るい雰囲気である。壁には当時描かれていた壁画のレプリカが数点展示されている。部屋の南側は、円柱で区切られ、1階から高窓まで吹き抜けとなっている。
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以下は「壁画の部屋」に掲げられていた主なフレスコ画のオリジナルで、牡牛跳び(前1600~前1400)、青の婦人達(前1600~前1450)、聖なる森と踊り、三者の神殿、黒人の隊長(前1350~前1300)、青い鳥、猿と山の植物の風景。
次に「壁画の部屋」の南側から、中央階段を下りて中央広場に出る。中央広場側から「宮殿中枢部」(西翼)方向を眺めると「壁画の部屋」真下のアーケード前に観光客が集まっている。こちらがクノッソス宮殿における最大の見所の一つ「玉座の間」になる(クノッソス宮殿の立体模型参照)。
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こちらの玉座の間が、アーサー・エヴァンズにより発見された際、伝説のミノス王の実在を示すものではないかと言われた。ギリシャ神話では、ミノス王はクノッソスの都を創設し、宮殿を築いてエーゲ海を支配したとされる。最も知られる伝説として、妃がポセイドンからミノス王に送られた美しい牡牛とまじわって怪物ミノタウロス(頭は牛で体は人間)を生んだため、困った王はアテナイの名匠ダイダロスに命じて、一旦入ったら出ることが困難な迷宮(ラビリントス)をつくらせ、ミノタウロスをその奥に住まわせたとされる。
その「玉座の間」のアーケード奥の部屋には、北側壁面にアラバスター(雪花石膏)の玉座と、取り囲む様に朱色の壁面に描かれたグリフィンとベンチが設置されている。玉座自体はオリジナルで、ヨーロッパで最も古い玉座と言われている。現在における最も有力な説として、グリフィンがミノア文明では女神(或いは巫女)と関連付けられていたことや、玉座背もたれの湾曲エッジと座席の女性的なくぼみなどから、宗教儀式を目的とした「女性祭司」の部屋だったと考えられている。
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なお、グリフィンの一部や、玉座とベンチとの間を彩っていた壁画が僅かに残っている。
そして床には儀式のためにアラバストロン(香油やマッサージ油の容器)が用意された。グリフィンは神聖の象徴として儀式に使用され、南側の円柱を介した小さな部屋は、儀式用の沐浴や洗濯のための部屋だったと考えられている。
一方で「玉座の間」は女王のための部屋で、壁画は王家の紋章を表し、南側の部屋は控えの間だったとの説も有力である。いずれにせよ両室を併せて約30人が収容できる規模があった。
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中央階段に向かって左側のテラス屋根で覆われている場所は祭儀室(カルト・ルーム)で「三者の神殿」(リンク先は壁画)があった。階段側に隣接した場所に神殿リポジトリがあり、蛇女神像が出土している。
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後のミケーネ文明を遥かに凌ぐ規模を持つこの宮殿の最大の特徴は中央広場で、それを囲むように重要な施設が配置されている宮殿の構造は、高度な官僚機構と強い王権の存在を示している。また、巨大な倉庫を備えていたのも重要な点で、ここから宮殿が支配領域内の物資を集積して再分配する機能を持っていたと考えられている。
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次に中央広場の「東翼エリア」の見学に向かう(再び、宮殿の案内図はこちら)。東翼エリアは中央広場の東側の斜面下に向けて階層が広がっている。中央広場の中央東側に隣接してテラス屋根で覆われたエリアにある手すりから南側を見ると、手前の「大階段」のある「王家の邸宅(ロイヤル・アパートメント)」に続き、前方には、「女王の間」と、更に南側のテラス屋根に覆われた「神殿」が、中央広場に隣接した一段下に望める。
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場所を変えて中央広場の手すりから「大階段」(通行不可)側を見てみよう。階段は踊り場で折り返して地下1階の朱色の円柱が並ぶ回廊に到着している。
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再び「大階段」側に戻り横の手すりから身を乗り出して、地下1階を覗き込むと、更にその下にも朱色の円柱がある地下2階があるのが分かる。これまで見学した「宮殿中枢部」(西翼)は3階建(一部高窓あり)だったとされるが、こちら東翼の「王家の邸宅」は中央広場から2階建てで、地下に2階の計4階建であった。
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東翼エリアの下に向かうには、中央広場に沿って少し北にある石階段を下りていく。階段を下りたすぐ右側に倉庫らしき址があり、床に空いた穴と大きな壷が並んでいるのが見える。壁面の黒ずみはかつて宮殿を襲った火災の跡とも言われている。
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倉庫に沿った見学用通路の扉先には、大階段から覗き込んだ地下1階の回廊を見ることができる。中には入ることはできないが、朱色の円柱や復元された壁画などが見える。中でもミノア人の宗教的シンボルを表す特徴的な盾のデザインは歴史的な価値があり見所の一つである。
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東翼エリアには、様々な大きさの部屋があり、配置は一定の統一がなかったようである。そもそも多種多様な用途に応じた施設が、所々に外光を取り入れつつ、公私の部屋と廊下や階段で結ばれる集塊の様な建物だった。一旦入ったら出ることが困難な迷宮(ラビリントス)と言われた所以である。
外に戻り、中央広場の方向を振り返ると、階段の右側に中央広場を支える外壁の石積みが見える。僅かに見える窓枠のある階層のある建物は、西翼の「壁画の部屋」で、右側にはクノッソス宮殿を代表する「牡牛の壁画」のある建物が見える。
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更に通路を進んで下に向かう。階段を更に下った左手の建物は「大瓶の倉庫」でピトゥスが置かれている。このエリアは、貯蔵施設やワークショップなど工業施設がある区画だったと考えられている。
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「大瓶の倉庫」から更に階段を下りて、最下位まで降り、南側に向かう。南東まで進み、右側の階段を上ると「王家の邸宅」区画に到達する。この場所からは右側の朱色の円柱が並ぶ「王の間」と、左側の壁面の「女王の間」がL字状に繋がり、更に後方の「大階段」の区画も一望できる。現在、王の間と女王の間とは1階部分のみが残るが、もともとの4階建ての姿は、同方角から見た(クノッソス宮殿の立体模型)を参照するとイメージがわきやすい。
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その「王の間」は、東南にお馴染みの円柱を三本ずつ配して東南に回廊を形成している。この時間は逆光で見辛いが、内部は、正面の正方形の部屋と西隣に角柱で区分けされたもう一つの部屋が並んでいる。その西隣の部屋の北側壁面から王座や天蓋の残骸が発見されている。そして更に西側には明り取り(サンルーム)があった。「王の間」は開放的な造りであることから私室ではなく、儀式などの目的で使用されていたと考えられている。
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「王の間」の南西側にある「女王の間」には、南側にある「神殿址」との間の路地を入った先の朱色の角柱の間(手前の扉はサンルーム)越しに見学できる。正面北側の上部壁面には、気持ちよさそうに泳ぐイルカの壁画があり、その下に幾何学模様の縁取りがある2つの扉口がある。向かって左側は、すぐ先が突き当りで、右、左と進む通路があり北隣の王の間へ通じている。右側は右側上部への階段が続いている。正面扉口の右隣には、隣のサンルームへの出入口があり、上には明り取りの窓が開けられている。
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左側の壁面には、大きな窓が開いており、手前の扉口から回り込むと小部屋がある。その部屋には、排水口があり宮殿内の主要な下水システムに接続されていたことからトイレや浴槽などがあったと考えられている。
そして右側手前にはベンチがあり、隣のサンルームとは二本の朱色の角柱で仕切られ外光が差し込んでいる。仕切りの壁面には長い波状の髪束を持ち天から舞い降りた女神「踊り子」が描かれている。
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真下に見える観光客が集まる「女王の間」から、南側にある「神殿址」との間の階段を上ると「王家の邸宅」を見下ろせる。先端がサンルームの吹き抜け空間で、左側の階段が「女王の間」に続いている。階段の左先が「王の間」である。このテラスは2階の床にあたることから、当時は更に2階上の部屋まであったわけだ。
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再び、階段を下りて途中の踊り場から南に広がる「神殿址」を見学する。回廊の中央に1メートル半ほどの小さな正方形の部屋があり、部屋の背面に漆喰の粘土ベンチの上には、 奉納の角と周りに女神像や奉納物など多くのテラコッタ像が置かれていた。
階段を一番下まで下りて「大瓶の倉庫」まで戻り北側への通路を通って「北翼エリア」に向かう。中央広場の北側に、ひと際高く積まれた石壁の上に朱色の柱廊が並ぶ壮大な「牡牛の壁画」の建物の場所になる。当時は手前にも向かい合う様に同様の建物が聳え、建物間の下には数メートル幅の狭い通路(坂道の北側通路)が、25メートル先の「中央広場」まで続いていた。
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坂道の北側通路は「牡牛の壁画」のある建物の先で西側に直角に曲がりなだらかに上った後、出口に続いている。目前の2列の角柱には「北柱ホール(ノース・ピラーホール)」があった。柱は西側に6列、東側に5列あり、東西10メートル×南北22メートルもの区画を持つ大規模なホール(2階建て)だった。ホールは宴会場だった説がある(クノッソス宮殿の立体模型)。
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西に延びる通路を上るとすぐ左側に「北の清めのたらい」と名付けられた深さ2メートルほどの地階を持つ正六面体の小ぶりな復元建物がある。訪問者が宗教的な清めの儀式に使ったと考えられ、同様の施設はクレタ島内の他の遺跡からも発掘されている。通路は右側の劇場沿いを通り、遺跡北西から「王の道」と合流して東の街道方面に延びていく。「クノッソス宮殿」は、後宮殿時代の紀元前1370年頃に再び大規模な災害が起こり被害を受けたが、修復されることのないまま、歴史の表舞台から姿を消してしまったという。
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次に、イラクリオン市内に戻りイラクリオン考古学博物館に到着した。場所は新市街との境になる旧市街側のエレフテリアス広場北側にある。博物館は1883年に古代コレクションとして始まり、その後20世紀初頭の地震で崩壊したが、1952年に再開され1964年に拡張して現在に至っている。
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ギリシャで最も重要な博物館の一つで、クレタ島の新石器時代からローマ時代までの5500年以上の代表的な遺物が収められている。中でもクレタ島のミノア文明のコレクションは充実している。こちらの展示室には、ミノア時代の「両手を挙げた女神像」などが展示されている。
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クレタ島中央南部ファイストス宮殿から出土した、多色彩の浮彫で豪華に装飾された宴会用の豪華な「カマレス土器」のセット(前1800~前1700)で、百合が付いたクラテール、大きなフルーツスタンド、食器スタンド、水差しから構成されている。これらの器は同様の装飾モチーフを持っていることから、同じ職人により制作されたものと考えられる。
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「後期ミノアIB期(LMIB)新宮殿時代」(前1600~前1450)のクノッソス宮殿を代表するリュトンの一つ。献酒の際に使用された牡牛のリュトンで首に注ぎ口があり、鼻が空気抜きになっている。精巧な作りで高度な技術を持っていたことがわかる。
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同じく雌ライオンの頭部を忠実に再現したリュトン(前1600~前1500)で、方解石の石灰岩から造られている。目と鼻には、もともと異なる素材がはめられていた。クノッソス宮殿の中枢部から出土した。
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高度な芸術性を持った作品が多く造られた「後期ミノアII期(LMII)後宮殿時代」(前1450~前1370)の土器群。自然主義的なものから草花文様や抽象文様など多様な土器が制作される。
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クレタ島東岸のパライカストロから出土したリュトン(前1500~前1450)で、向かって右端のあぶみ壷から、底部を尖ったアンフォラ型にかけて、タコ、オウムガイ、海藻などが描かれた土器は「海洋文様式」と呼ばれている。隣には摩耗して少し怖い印象の山猫のリュトンが展示されている。
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海洋文様式では、こちらの多くの土器が並ぶ中央台に展示される、クレタ島北東部のプセイラ島から出土した、海を示す網状模様に泳ぐイルカのリュトンも素晴らしい。
やや大ぶりのリュトンが並んでいるが、ザクロス宮殿(クレタ島の東海岸)から出土(前1500~前1450)した緑泥石(黄金で覆われていた)のリュトンは秀逸である。表面下部には煉瓦積みの中に「奉納の角」が刻まれ、中央には聖杯が支える渦巻き文様の上の神話世界(山上の祠堂)が表現されている。
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こちらの展示室には、クノッソス宮殿などから出土したフレスコ画が一堂に会している。
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博物館には予想を超える多くの作品が展示されており、3時間近く見学したものの最後は駆け足になってしまった。午後6時半に博物館を出て、午後9時発の飛行機でアテネに戻った。
(2019.5.26~28)
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