スペイン滞在の最終日となった。バスク州ギプスコア県ラサルテ オリア(Lasarte-Oria)にあるホテル「タサルテル」(Txartel)を、午前6時過ぎに出発し、マドリッド バラハス国際空港まで、一路、約400キロメートルを南下する。
途中、約270キロメートル先の「サント ドミンゴ デ シロス修道院」(Santo domingo de Silos)に寄ることとし、ブルゴスからマドリード方面に南下する高速道路(A-1)途中から、南東方面の高速道路(N-234)に乗り換える。50キロメートル先から、西に一般道(BU-910)を12キロメートル行くと到着する。午前10時半過ぎだった。
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こちらは北側の「マヨール広場」から、西南方向の修道院を眺めた様子。鐘楼の右下が後陣になり、手前にロメロス デ カーニャス通りが走っている。そして、その通り沿いに面した後陣の左側の建物は「観光案内所」で、屋上壁に「Casa Consistorial」(役所)と書かれている。
修道院の場所には、もともと、サン セバスティアンに捧げられた修道院があったが、10世紀の末にイスラム教徒(コルトバ宰相アル マンスール)による度重なる襲撃を受け荒廃してしまう。現在の修道院は、1041年、カスティーリャ王フェルナンド1世(在位:1037~1065)が、ラ リオハのサン ミジャン デ ラ コゴージャの修道士ドミンゴ(聖ドミニコ)を修道院院長に任命したことによる。ドミンゴは、クリュニーの改革にも触発され、修道院の再建に努力を惜しまなかったため、多くの巡礼者が訪れるようになった。しかしドミンゴの死後は、財政難となり再び荒廃してしまう。
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18世紀にはロマネスク様式の修道院は取り壊され、スペインの大建築家ベンチュラ ロドリゲス(1717~1785)により、現在のギリシャ十字形に改築されている。1835年にはスペイン国内でメンディサバル法(永代所有財産解放令)が出され、再び荒廃するが、19世紀末にフランスからベネディクト派の修道士達が訪れ、ベネディクト派修道院として再興され今日に至っている。現在、30人ほどの修道士がキリストの精神に倣って祈りと労働のうちに共同生活(修道生活)をしている。
ちょうど、団体客が列をなして修道院に入って行ったので、その列について一緒に入った。鉄格子の向こうに見える暗い礼拝堂は、団体客の見学と同時に格子扉が開錠され、灯がつけられたことで、黄金の聖ドミンゴ祭壇の鮮やかな輝きが広がった。祭壇中央には聖遺物容器らしい金銀で装飾された聖杯が台座の上安置され、下部には、青系を基調としたマンドーラに覆われた栄光のキリストの装飾が施されている。
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礼拝堂は八角形で、祭壇の左右それぞれ3面に絵画が計12枚、天井ドームの側面にも計2枚が掲げられている。聖ドミンゴの生涯などが表されている。
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ところで、サント ドミンゴ デ シロス修道院を有名にしたものにグレゴリオ聖歌がある。1993年、30人ほどの修道士たちの祈りの歌を録音した「CANTO GREGORIANO」がスペインでヒットし、その後、ヒット チャートのトップに躍り出て、翌1994年1月までに癒しの音楽として25万枚を超える驚異的な売上げを記録、世界中で大ヒットした。
グレゴリオ聖歌の名称は、ローマ教皇教皇グレゴリウス1世(在位:590年~604年)の名に由来しており、伝承では彼自身も多くの聖歌を作曲したとされている。神聖ローマ皇帝カール大帝(シャルルマーニュ(在位:742年~814年))は、積極的に帝国内にグレゴリオ聖歌を広めて、聖権力および世俗権力の強化を図ったという。その後もグレゴリオ聖歌はルネサンス音楽、西洋音楽に大きな影響を与えることとなる。
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サント ドミンゴ デ シロス修道院のロマネスク様式の回廊は、彫刻や装飾など細部にまで匠の技巧(シロスの名匠)が凝らされ、スペインでも屈指の美しい回廊として知られている。回廊は2階建てで、時代的には1階部分が古く、11世紀~12世紀初頭に造られた64もの対をなす柱頭彫刻があるが、特筆すべきなのが、回廊四隅の内側に2点づつ表現される計8点の浮彫パネルである。最初に、入口そばの北東隅のパネルから見ていく。
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こちらは「キリストの埋葬と復活」と名付けられたパネルで、棺を境に上が埋葬で、下が復活を表している。中央水平方向に横たわるキリストの左右には対になるかのようにホセ デ アリマテアとニコデモが頭を垂れ、棺の蓋を天使が斜めに支える不思議な構図になっている。棺の蓋の右上、三角空間には3人の聖女が香油を持ち悲しみに耽りながら神々しく立っている。棺の下部には、眠る番兵達を逆三角形に構成し表現されている。キリストの埋葬と復活の数日間の出来事を1枚のパネルに見事に表現した傑作である。
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次に「キリストの十字架降下」を見てみよう。ホセ デ アリマテアとニコデモと対照的に、キリストの右手を包み込みいたわっている聖母マリアの悲哀の表情が何とも印象的である。大地には、岩の塊の様なものが並んでいるが、これにより揺らぎを演出し、世の中の動揺を表現しているとされる。
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回廊の中心には、手入れの行き届いた緑の中庭があり、西側回廊の近くには、この修道院のシンボル、イトスギの木が見える。
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それでは回廊を時計回りに歩き、南東隅のパネルを見てみよう。「キリストの昇天」と、
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「精霊降臨(ペンテコステ)」を現した浮彫パネルである。2枚とも使徒と聖母を2段に配置している構図は比較的良く似ているが、それぞれのパネルの上部に、波打つ雲を上下に配置することでキリストの昇天(上)と降臨(下)を対比的に表しているところが見事である。
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イトスギのある南西側から回廊入口のある北東方面を眺める。この位置から鐘楼が良く見える。
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回廊の南西隅には、天使ガブリエルが処女マリアの前に現れ受胎を告げる「受胎告知」のパネルがある。さらに、このパネルでは、マリアが天使から冠を授けられていることから「聖母の戴冠」も同時に表現されている。構図的に、聖母はパネル内で大きくスペースを取っており、ロマネスクには見られない写実性が表現(ゴシック様式)されている。明らかに他のパネルとは作者も制作年代も異なることがわかる。
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隣りには「エッサイの木」のやや損傷が激しいパネルがあるが、こちらもゴシック的であり、作者は「受胎告知」と同じであろう。
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西側回廊を支える円柱の中心には、こちらも修道院を代表する「ねじれ円柱」がある。まるでゴムでできているかの様に4本の円柱がねじれている。
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柱頭部分は損傷が激しいが、最後の晩餐の場面を現している。
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ほかの柱頭彫刻も見てみよう。
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こちらのグリフォン風の動物は、茎が絡み合って足と首が押さえつけられている。
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こちらは上半身が女性で下半身が翼を持つ鳥、ハルピュイアである。
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こちらも顔は女性で体は空想動物が表現されている。口から蛇が出ているが、女性の口から男性を誘惑する言葉が吐かれると言う意味らしい。修道士に対し、肉欲への溺れを戒めするための比喩的表現なのだろう。
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こちらの鳥の羽毛は驚くほど細かく刻まれている。
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最後に、北西隅のパネルを鑑賞する。こちらが、この修道院を代表する作品の「聖トマスの不信」。構図の中心点は、左側で右腕を上げて受難の傷を見せるキリストに対し、左端のトマスが傷に指を差し入れる場面である。使徒たちは2人の情景を見ているが、特に右側の9人の使徒をキリスト側に向けた斜め平行線上に配置することにより、鑑賞者が2人の情景に視点が行く様に誘導している。
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そして、最後の1枚、こちらのパネルも修道院代表作の一つ「エマオの巡礼」である。復活したキリストがエルサレム近郊のエマオの町で、二人の弟子の前に姿を現す。そして弟子たちは、彼をキリストだと気づかず、エルサレムでの噂の出来事を語り始めるといった場面である。キリストは、左手で衣の袂を抑え、前に出す右足の甲をやや中央に向け今にも振り返ろうとしている瞬間の躍動感溢れる見事な構図である。キリストが肩に掛けている袋には小さな帆立貝が付いているが、これはサンチャゴ巡礼を表しているのだろう。
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回廊の天井を見ると、後世の作だが、松材で作られたモサラベ様式の見事な彩色文様で覆われている。
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最後に北側回廊に向かう。浮彫パネルや柱頭彫刻は見事であるが、回廊の足元に広がる玉石の幾何学模様のモザイクも見事である。
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こちらの石棺には、聖ドミンゴの姿を刻んだ横臥像が安置されている。足元には、当時、ローマ教皇の象徴でもあった3頭の獅子が石棺を支えている。
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足元には、トカゲの様な怪物にそれぞれ聖職者が座り、手を合わせて聖ドミンゴを祝福している。1073年、亡くなった修道士ドミンゴはこの場所に葬られた。その後、1076年には国王と高位聖職者により改葬式が挙行され遺骨は修道院内に移された。修道士ドミンゴは聖人となった。
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その後、併設されたサン セバスティアン修道院教会の祭壇を見学する。教会は18世紀に崩落し、新たに19世紀に再建されている。祭壇には、キリストの磔刑像が祀られているが、アプスを含め周りには特に装飾もなくいたって簡素な造りである。この場所では、修道院の修道士たちによるグレゴリオ聖歌を聞く音楽会が開催的に開催されている。この日は時間帯が合わず鑑賞はできなかった。
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こちらには1705 年に設立された薬局がある。修道院では様々な薬用植物の研究が行われ、薬草から治療薬を精製していた。棚の中には薬を作るために使った人体について記した書物や器具等が飾られている。
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こちらの棚には、様々な形の薬壺が並んでいるが、これらは「陶器の町」で知られるタラベラ デ ラ イナ(カスティーリャ ラ マンチャ州トレド県)の陶器で作られたもの。フェリペ2世(在位:1556年~1598年)が城壁を覆うタイルとしてここタラベラ産のセラミックを用いたことから、その名が国際的に知られるようになった。
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観光案内所と修道院との間の交差点から、北に伸びるラス コンデサス通りに入ると、美術館の標識があったので行ってみる。この通りの建物は古いものが多い。こちらの住宅は、壁が剝げ落ち部材がむき出しで、2階の出窓を二重の梁と方杖で支えている様子が見える。
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美術館があったが残念ながら閉まっていた。
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戻ろうと、再び、同じ通りを引き返すと、途中からサント ドミンゴ デ シロス修道院の鐘楼が望める。
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サント ドミンゴ デ シロスでは、1時間ほど滞在した後、出発した。修道院まで来たルートとは逆の西方向に行き、最初のラウンドアバウトから南西方面(BU-910)に向かう。時刻はそろそろ午後1時になろうとしている。サント ドミンゴ デ シロス修道院から南西へ45キロメートルほど行った「アランダ デ ドゥエロ」(Aranda de Duero)で、昼食をとることにした。
アランダ デ ドゥエロは、東西に流れるドウロ川(全長897キロメートル)と、さらに北東側から注ぎ込む2つの支流の間にあり、サント ドミンゴ デ シロスからのBU-910は、その内側となる街の環状道路に到着する。アランダ デ ドゥエロは、カスティーリャ イ レオン州内にある世界的な高級ワイン産地の一つ、リベラ デル ドゥエロ(DO)の中心地で、ドウロ川沿いには270を超えるワイナリーが存在している。
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環状道路の中心には、街のシンボル「サンタ マリア教会」があり、その近くにあるバルに入った。
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昼時には遅い時間帯だったので店内は空いていた。タパスをいただく。
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バルでの食事も、これで終わりである。
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こちらが、15世紀に建設された「サンタ マリア教会」の南翼廊のファサードで、シモン デ コロニアの息子フランシスコ デ コロニアにより、1515年頃、イサベル ゴシック様式で建てられた。隅々まで、絢爛豪華で繊細な浮彫装飾が施され、芸術性の高さに圧倒させられる。
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弧帯(アーキヴォルト)の上部には、ゴルゴタの丘(キリスト受難)を中心に、左右に十字架を背負うキリストと、復活を表すメダリオンが配されている。更にその上には、アランダの紋章盾や、鷲と獅子に支えられたスペイン王家の紋章などの浮彫が施されている。
アーキヴォルトは、尖塔アーチで、聖人やアカンサス模様の浮彫が続き、内側には懸華の透かし彫り縁取りが施されている。そしてティンパヌム(タンパン)には、キリストの誕生(左)と賢者によるキリスト崇拝(右)の浮彫が、その上には羊飼いへのお告げ(左)と東方三博士のパレード(右)の場面が表現されている。アーチ天井は星空で、礼拝する子供の天使の浮彫が飾られている。
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ファサード前の路地を南に50メートルほど進むと「マヨール広場」がある。広場では、ワイン祭りがあったらしく、多くの人が集まっていた。しかし残念ながら、この時間イベントは既に終了していた。
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アランダ デ ドゥエロでは、1時間ほど滞在し、その後、市内を南北に横断する高速道路(A-1)(イルンからブルゴスを経由してマドリッドまで結ぶ)に乗り、130キロメートル南のマドリッド バラハス国際空港に向かった。
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そして、午後6時25分発でパリに向かい、午後10時5分発の日本航空838便で日本に帰国した。
(2008.9.28)
途中、約270キロメートル先の「サント ドミンゴ デ シロス修道院」(Santo domingo de Silos)に寄ることとし、ブルゴスからマドリード方面に南下する高速道路(A-1)途中から、南東方面の高速道路(N-234)に乗り換える。50キロメートル先から、西に一般道(BU-910)を12キロメートル行くと到着する。午前10時半過ぎだった。
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こちらは北側の「マヨール広場」から、西南方向の修道院を眺めた様子。鐘楼の右下が後陣になり、手前にロメロス デ カーニャス通りが走っている。そして、その通り沿いに面した後陣の左側の建物は「観光案内所」で、屋上壁に「Casa Consistorial」(役所)と書かれている。
修道院の場所には、もともと、サン セバスティアンに捧げられた修道院があったが、10世紀の末にイスラム教徒(コルトバ宰相アル マンスール)による度重なる襲撃を受け荒廃してしまう。現在の修道院は、1041年、カスティーリャ王フェルナンド1世(在位:1037~1065)が、ラ リオハのサン ミジャン デ ラ コゴージャの修道士ドミンゴ(聖ドミニコ)を修道院院長に任命したことによる。ドミンゴは、クリュニーの改革にも触発され、修道院の再建に努力を惜しまなかったため、多くの巡礼者が訪れるようになった。しかしドミンゴの死後は、財政難となり再び荒廃してしまう。
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18世紀にはロマネスク様式の修道院は取り壊され、スペインの大建築家ベンチュラ ロドリゲス(1717~1785)により、現在のギリシャ十字形に改築されている。1835年にはスペイン国内でメンディサバル法(永代所有財産解放令)が出され、再び荒廃するが、19世紀末にフランスからベネディクト派の修道士達が訪れ、ベネディクト派修道院として再興され今日に至っている。現在、30人ほどの修道士がキリストの精神に倣って祈りと労働のうちに共同生活(修道生活)をしている。
ちょうど、団体客が列をなして修道院に入って行ったので、その列について一緒に入った。鉄格子の向こうに見える暗い礼拝堂は、団体客の見学と同時に格子扉が開錠され、灯がつけられたことで、黄金の聖ドミンゴ祭壇の鮮やかな輝きが広がった。祭壇中央には聖遺物容器らしい金銀で装飾された聖杯が台座の上安置され、下部には、青系を基調としたマンドーラに覆われた栄光のキリストの装飾が施されている。
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礼拝堂は八角形で、祭壇の左右それぞれ3面に絵画が計12枚、天井ドームの側面にも計2枚が掲げられている。聖ドミンゴの生涯などが表されている。
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ところで、サント ドミンゴ デ シロス修道院を有名にしたものにグレゴリオ聖歌がある。1993年、30人ほどの修道士たちの祈りの歌を録音した「CANTO GREGORIANO」がスペインでヒットし、その後、ヒット チャートのトップに躍り出て、翌1994年1月までに癒しの音楽として25万枚を超える驚異的な売上げを記録、世界中で大ヒットした。
グレゴリオ聖歌の名称は、ローマ教皇教皇グレゴリウス1世(在位:590年~604年)の名に由来しており、伝承では彼自身も多くの聖歌を作曲したとされている。神聖ローマ皇帝カール大帝(シャルルマーニュ(在位:742年~814年))は、積極的に帝国内にグレゴリオ聖歌を広めて、聖権力および世俗権力の強化を図ったという。その後もグレゴリオ聖歌はルネサンス音楽、西洋音楽に大きな影響を与えることとなる。
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サント ドミンゴ デ シロス修道院のロマネスク様式の回廊は、彫刻や装飾など細部にまで匠の技巧(シロスの名匠)が凝らされ、スペインでも屈指の美しい回廊として知られている。回廊は2階建てで、時代的には1階部分が古く、11世紀~12世紀初頭に造られた64もの対をなす柱頭彫刻があるが、特筆すべきなのが、回廊四隅の内側に2点づつ表現される計8点の浮彫パネルである。最初に、入口そばの北東隅のパネルから見ていく。
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こちらは「キリストの埋葬と復活」と名付けられたパネルで、棺を境に上が埋葬で、下が復活を表している。中央水平方向に横たわるキリストの左右には対になるかのようにホセ デ アリマテアとニコデモが頭を垂れ、棺の蓋を天使が斜めに支える不思議な構図になっている。棺の蓋の右上、三角空間には3人の聖女が香油を持ち悲しみに耽りながら神々しく立っている。棺の下部には、眠る番兵達を逆三角形に構成し表現されている。キリストの埋葬と復活の数日間の出来事を1枚のパネルに見事に表現した傑作である。
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次に「キリストの十字架降下」を見てみよう。ホセ デ アリマテアとニコデモと対照的に、キリストの右手を包み込みいたわっている聖母マリアの悲哀の表情が何とも印象的である。大地には、岩の塊の様なものが並んでいるが、これにより揺らぎを演出し、世の中の動揺を表現しているとされる。
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回廊の中心には、手入れの行き届いた緑の中庭があり、西側回廊の近くには、この修道院のシンボル、イトスギの木が見える。
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それでは回廊を時計回りに歩き、南東隅のパネルを見てみよう。「キリストの昇天」と、
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「精霊降臨(ペンテコステ)」を現した浮彫パネルである。2枚とも使徒と聖母を2段に配置している構図は比較的良く似ているが、それぞれのパネルの上部に、波打つ雲を上下に配置することでキリストの昇天(上)と降臨(下)を対比的に表しているところが見事である。
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回廊の南西隅には、天使ガブリエルが処女マリアの前に現れ受胎を告げる「受胎告知」のパネルがある。さらに、このパネルでは、マリアが天使から冠を授けられていることから「聖母の戴冠」も同時に表現されている。構図的に、聖母はパネル内で大きくスペースを取っており、ロマネスクには見られない写実性が表現(ゴシック様式)されている。明らかに他のパネルとは作者も制作年代も異なることがわかる。
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隣りには「エッサイの木」のやや損傷が激しいパネルがあるが、こちらもゴシック的であり、作者は「受胎告知」と同じであろう。
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西側回廊を支える円柱の中心には、こちらも修道院を代表する「ねじれ円柱」がある。まるでゴムでできているかの様に4本の円柱がねじれている。
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こちらのグリフォン風の動物は、茎が絡み合って足と首が押さえつけられている。
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こちらは上半身が女性で下半身が翼を持つ鳥、ハルピュイアである。
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こちらも顔は女性で体は空想動物が表現されている。口から蛇が出ているが、女性の口から男性を誘惑する言葉が吐かれると言う意味らしい。修道士に対し、肉欲への溺れを戒めするための比喩的表現なのだろう。
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最後に、北西隅のパネルを鑑賞する。こちらが、この修道院を代表する作品の「聖トマスの不信」。構図の中心点は、左側で右腕を上げて受難の傷を見せるキリストに対し、左端のトマスが傷に指を差し入れる場面である。使徒たちは2人の情景を見ているが、特に右側の9人の使徒をキリスト側に向けた斜め平行線上に配置することにより、鑑賞者が2人の情景に視点が行く様に誘導している。
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そして、最後の1枚、こちらのパネルも修道院代表作の一つ「エマオの巡礼」である。復活したキリストがエルサレム近郊のエマオの町で、二人の弟子の前に姿を現す。そして弟子たちは、彼をキリストだと気づかず、エルサレムでの噂の出来事を語り始めるといった場面である。キリストは、左手で衣の袂を抑え、前に出す右足の甲をやや中央に向け今にも振り返ろうとしている瞬間の躍動感溢れる見事な構図である。キリストが肩に掛けている袋には小さな帆立貝が付いているが、これはサンチャゴ巡礼を表しているのだろう。
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最後に北側回廊に向かう。浮彫パネルや柱頭彫刻は見事であるが、回廊の足元に広がる玉石の幾何学模様のモザイクも見事である。
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こちらの石棺には、聖ドミンゴの姿を刻んだ横臥像が安置されている。足元には、当時、ローマ教皇の象徴でもあった3頭の獅子が石棺を支えている。
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足元には、トカゲの様な怪物にそれぞれ聖職者が座り、手を合わせて聖ドミンゴを祝福している。1073年、亡くなった修道士ドミンゴはこの場所に葬られた。その後、1076年には国王と高位聖職者により改葬式が挙行され遺骨は修道院内に移された。修道士ドミンゴは聖人となった。
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その後、併設されたサン セバスティアン修道院教会の祭壇を見学する。教会は18世紀に崩落し、新たに19世紀に再建されている。祭壇には、キリストの磔刑像が祀られているが、アプスを含め周りには特に装飾もなくいたって簡素な造りである。この場所では、修道院の修道士たちによるグレゴリオ聖歌を聞く音楽会が開催的に開催されている。この日は時間帯が合わず鑑賞はできなかった。
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こちらには1705 年に設立された薬局がある。修道院では様々な薬用植物の研究が行われ、薬草から治療薬を精製していた。棚の中には薬を作るために使った人体について記した書物や器具等が飾られている。
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こちらの棚には、様々な形の薬壺が並んでいるが、これらは「陶器の町」で知られるタラベラ デ ラ イナ(カスティーリャ ラ マンチャ州トレド県)の陶器で作られたもの。フェリペ2世(在位:1556年~1598年)が城壁を覆うタイルとしてここタラベラ産のセラミックを用いたことから、その名が国際的に知られるようになった。
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サント ドミンゴ デ シロスでは、1時間ほど滞在した後、出発した。修道院まで来たルートとは逆の西方向に行き、最初のラウンドアバウトから南西方面(BU-910)に向かう。時刻はそろそろ午後1時になろうとしている。サント ドミンゴ デ シロス修道院から南西へ45キロメートルほど行った「アランダ デ ドゥエロ」(Aranda de Duero)で、昼食をとることにした。
アランダ デ ドゥエロは、東西に流れるドウロ川(全長897キロメートル)と、さらに北東側から注ぎ込む2つの支流の間にあり、サント ドミンゴ デ シロスからのBU-910は、その内側となる街の環状道路に到着する。アランダ デ ドゥエロは、カスティーリャ イ レオン州内にある世界的な高級ワイン産地の一つ、リベラ デル ドゥエロ(DO)の中心地で、ドウロ川沿いには270を超えるワイナリーが存在している。
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環状道路の中心には、街のシンボル「サンタ マリア教会」があり、その近くにあるバルに入った。
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昼時には遅い時間帯だったので店内は空いていた。タパスをいただく。
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こちらが、15世紀に建設された「サンタ マリア教会」の南翼廊のファサードで、シモン デ コロニアの息子フランシスコ デ コロニアにより、1515年頃、イサベル ゴシック様式で建てられた。隅々まで、絢爛豪華で繊細な浮彫装飾が施され、芸術性の高さに圧倒させられる。
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弧帯(アーキヴォルト)の上部には、ゴルゴタの丘(キリスト受難)を中心に、左右に十字架を背負うキリストと、復活を表すメダリオンが配されている。更にその上には、アランダの紋章盾や、鷲と獅子に支えられたスペイン王家の紋章などの浮彫が施されている。
アーキヴォルトは、尖塔アーチで、聖人やアカンサス模様の浮彫が続き、内側には懸華の透かし彫り縁取りが施されている。そしてティンパヌム(タンパン)には、キリストの誕生(左)と賢者によるキリスト崇拝(右)の浮彫が、その上には羊飼いへのお告げ(左)と東方三博士のパレード(右)の場面が表現されている。アーチ天井は星空で、礼拝する子供の天使の浮彫が飾られている。
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アランダ デ ドゥエロでは、1時間ほど滞在し、その後、市内を南北に横断する高速道路(A-1)(イルンからブルゴスを経由してマドリッドまで結ぶ)に乗り、130キロメートル南のマドリッド バラハス国際空港に向かった。
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そして、午後6時25分発でパリに向かい、午後10時5分発の日本航空838便で日本に帰国した。
(2008.9.28)