カズさんの旅たび

 ~歴史、文化、芸術、美食紀行。。

スペイン・サント ドミンゴ デ シロス

2013-03-01 | スペイン(バスク)
スペイン滞在の最終日となった。バスク州ギプスコア県ラサルテ オリア(Lasarte-Oria)にあるホテル「タサルテル」(Txartel)を、午前6時過ぎに出発し、マドリッド バラハス国際空港まで、一路、約400キロメートルを南下する。

途中、約270キロメートル先の「サント ドミンゴ デ シロス修道院」(Santo domingo de Silos)に寄ることとし、ブルゴスからマドリード方面に南下する高速道路(A-1)途中から、南東方面の高速道路(N-234)に乗り換える。50キロメートル先から、西に一般道(BU-910)を12キロメートル行くと到着する。午前10時半過ぎだった。
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こちらは北側の「マヨール広場」から、西南方向の修道院を眺めた様子。鐘楼の右下が後陣になり、手前にロメロス デ カーニャス通りが走っている。そして、その通り沿いに面した後陣の左側の建物は「観光案内所」で、屋上壁に「Casa Consistorial」(役所)と書かれている。

修道院の場所には、もともと、サン セバスティアンに捧げられた修道院があったが、10世紀の末にイスラム教徒(コルトバ宰相アル マンスール)による度重なる襲撃を受け荒廃してしまう。現在の修道院は、1041年、カスティーリャ王フェルナンド1世(在位:1037~1065)が、ラ リオハのサン ミジャン デ ラ コゴージャの修道士ドミンゴ(聖ドミニコ)を修道院院長に任命したことによる。ドミンゴは、クリュニーの改革にも触発され、修道院の再建に努力を惜しまなかったため、多くの巡礼者が訪れるようになった。しかしドミンゴの死後は、財政難となり再び荒廃してしまう。
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18世紀にはロマネスク様式の修道院は取り壊され、スペインの大建築家ベンチュラ ロドリゲス(1717~1785)により、現在のギリシャ十字形に改築されている。1835年にはスペイン国内でメンディサバル法(永代所有財産解放令)が出され、再び荒廃するが、19世紀末にフランスからベネディクト派の修道士達が訪れ、ベネディクト派修道院として再興され今日に至っている。現在、30人ほどの修道士がキリストの精神に倣って祈りと労働のうちに共同生活(修道生活)をしている。

ちょうど、団体客が列をなして修道院に入って行ったので、その列について一緒に入った。鉄格子の向こうに見える暗い礼拝堂は、団体客の見学と同時に格子扉が開錠され、灯がつけられたことで、黄金の聖ドミンゴ祭壇の鮮やかな輝きが広がった。祭壇中央には聖遺物容器らしい金銀で装飾された聖杯が台座の上安置され、下部には、青系を基調としたマンドーラに覆われた栄光のキリストの装飾が施されている。
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礼拝堂は八角形で、祭壇の左右それぞれ3面に絵画が計12枚、天井ドームの側面にも計2枚が掲げられている。聖ドミンゴの生涯などが表されている。
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ところで、サント ドミンゴ デ シロス修道院を有名にしたものにグレゴリオ聖歌がある。1993年、30人ほどの修道士たちの祈りの歌を録音した「CANTO GREGORIANO」がスペインでヒットし、その後、ヒット チャートのトップに躍り出て、翌1994年1月までに癒しの音楽として25万枚を超える驚異的な売上げを記録、世界中で大ヒットした。

グレゴリオ聖歌の名称は、ローマ教皇教皇グレゴリウス1世(在位:590年~604年)の名に由来しており、伝承では彼自身も多くの聖歌を作曲したとされている。神聖ローマ皇帝カール大帝(シャルルマーニュ(在位:742年~814年))は、積極的に帝国内にグレゴリオ聖歌を広めて、聖権力および世俗権力の強化を図ったという。その後もグレゴリオ聖歌はルネサンス音楽、西洋音楽に大きな影響を与えることとなる。
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サント ドミンゴ デ シロス修道院のロマネスク様式の回廊は、彫刻や装飾など細部にまで匠の技巧(シロスの名匠)が凝らされ、スペインでも屈指の美しい回廊として知られている。回廊は2階建てで、時代的には1階部分が古く、11世紀~12世紀初頭に造られた64もの対をなす柱頭彫刻があるが、特筆すべきなのが、回廊四隅の内側に2点づつ表現される計8点の浮彫パネルである。最初に、入口そばの北東隅のパネルから見ていく。
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こちらは「キリストの埋葬と復活」と名付けられたパネルで、棺を境に上が埋葬で、下が復活を表している。中央水平方向に横たわるキリストの左右には対になるかのようにホセ デ アリマテアとニコデモが頭を垂れ、棺の蓋を天使が斜めに支える不思議な構図になっている。棺の蓋の右上、三角空間には3人の聖女が香油を持ち悲しみに耽りながら神々しく立っている。棺の下部には、眠る番兵達を逆三角形に構成し表現されている。キリストの埋葬と復活の数日間の出来事を1枚のパネルに見事に表現した傑作である。
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次に「キリストの十字架降下」を見てみよう。ホセ デ アリマテアとニコデモと対照的に、キリストの右手を包み込みいたわっている聖母マリアの悲哀の表情が何とも印象的である。大地には、岩の塊の様なものが並んでいるが、これにより揺らぎを演出し、世の中の動揺を表現しているとされる。
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回廊の中心には、手入れの行き届いた緑の中庭があり、西側回廊の近くには、この修道院のシンボル、イトスギの木が見える。
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それでは回廊を時計回りに歩き、南東隅のパネルを見てみよう。「キリストの昇天」と、
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「精霊降臨(ペンテコステ)」を現した浮彫パネルである。2枚とも使徒と聖母を2段に配置している構図は比較的良く似ているが、それぞれのパネルの上部に、波打つ雲を上下に配置することでキリストの昇天(上)と降臨(下)を対比的に表しているところが見事である。
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イトスギのある南西側から回廊入口のある北東方面を眺める。この位置から鐘楼が良く見える。
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回廊の南西隅には、天使ガブリエルが処女マリアの前に現れ受胎を告げる「受胎告知」のパネルがある。さらに、このパネルでは、マリアが天使から冠を授けられていることから「聖母の戴冠」も同時に表現されている。構図的に、聖母はパネル内で大きくスペースを取っており、ロマネスクには見られない写実性が表現(ゴシック様式)されている。明らかに他のパネルとは作者も制作年代も異なることがわかる。
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隣りには「エッサイの木」のやや損傷が激しいパネルがあるが、こちらもゴシック的であり、作者は「受胎告知」と同じであろう。
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西側回廊を支える円柱の中心には、こちらも修道院を代表する「ねじれ円柱」がある。まるでゴムでできているかの様に4本の円柱がねじれている。
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柱頭部分は損傷が激しいが、最後の晩餐の場面を現している。
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ほかの柱頭彫刻も見てみよう。
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こちらのグリフォン風の動物は、茎が絡み合って足と首が押さえつけられている。
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こちらは上半身が女性で下半身が翼を持つ鳥、ハルピュイアである。
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こちらも顔は女性で体は空想動物が表現されている。口から蛇が出ているが、女性の口から男性を誘惑する言葉が吐かれると言う意味らしい。修道士に対し、肉欲への溺れを戒めするための比喩的表現なのだろう。
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こちらの鳥の羽毛は驚くほど細かく刻まれている。
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最後に、北西隅のパネルを鑑賞する。こちらが、この修道院を代表する作品の「聖トマスの不信」。構図の中心点は、左側で右腕を上げて受難の傷を見せるキリストに対し、左端のトマスが傷に指を差し入れる場面である。使徒たちは2人の情景を見ているが、特に右側の9人の使徒をキリスト側に向けた斜め平行線上に配置することにより、鑑賞者が2人の情景に視点が行く様に誘導している。
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そして、最後の1枚、こちらのパネルも修道院代表作の一つ「エマオの巡礼」である。復活したキリストがエルサレム近郊のエマオの町で、二人の弟子の前に姿を現す。そして弟子たちは、彼をキリストだと気づかず、エルサレムでの噂の出来事を語り始めるといった場面である。キリストは、左手で衣の袂を抑え、前に出す右足の甲をやや中央に向け今にも振り返ろうとしている瞬間の躍動感溢れる見事な構図である。キリストが肩に掛けている袋には小さな帆立貝が付いているが、これはサンチャゴ巡礼を表しているのだろう。
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回廊の天井を見ると、後世の作だが、松材で作られたモサラベ様式の見事な彩色文様で覆われている。
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最後に北側回廊に向かう。浮彫パネルや柱頭彫刻は見事であるが、回廊の足元に広がる玉石の幾何学模様のモザイクも見事である。
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こちらの石棺には、聖ドミンゴの姿を刻んだ横臥像が安置されている。足元には、当時、ローマ教皇の象徴でもあった3頭の獅子が石棺を支えている。
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足元には、トカゲの様な怪物にそれぞれ聖職者が座り、手を合わせて聖ドミンゴを祝福している。1073年、亡くなった修道士ドミンゴはこの場所に葬られた。その後、1076年には国王と高位聖職者により改葬式が挙行され遺骨は修道院内に移された。修道士ドミンゴは聖人となった。
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その後、併設されたサン セバスティアン修道院教会の祭壇を見学する。教会は18世紀に崩落し、新たに19世紀に再建されている。祭壇には、キリストの磔刑像が祀られているが、アプスを含め周りには特に装飾もなくいたって簡素な造りである。この場所では、修道院の修道士たちによるグレゴリオ聖歌を聞く音楽会が開催的に開催されている。この日は時間帯が合わず鑑賞はできなかった。
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こちらには1705 年に設立された薬局がある。修道院では様々な薬用植物の研究が行われ、薬草から治療薬を精製していた。棚の中には薬を作るために使った人体について記した書物や器具等が飾られている。
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こちらの棚には、様々な形の薬壺が並んでいるが、これらは「陶器の町」で知られるタラベラ デ ラ イナ(カスティーリャ ラ マンチャ州トレド県)の陶器で作られたもの。フェリペ2世(在位:1556年~1598年)が城壁を覆うタイルとしてここタラベラ産のセラミックを用いたことから、その名が国際的に知られるようになった。
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観光案内所と修道院との間の交差点から、北に伸びるラス コンデサス通りに入ると、美術館の標識があったので行ってみる。この通りの建物は古いものが多い。こちらの住宅は、壁が剝げ落ち部材がむき出しで、2階の出窓を二重の梁と方杖で支えている様子が見える。
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美術館があったが残念ながら閉まっていた。
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戻ろうと、再び、同じ通りを引き返すと、途中からサント ドミンゴ デ シロス修道院の鐘楼が望める。
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サント ドミンゴ デ シロスでは、1時間ほど滞在した後、出発した。修道院まで来たルートとは逆の西方向に行き、最初のラウンドアバウトから南西方面(BU-910)に向かう。時刻はそろそろ午後1時になろうとしている。サント ドミンゴ デ シロス修道院から南西へ45キロメートルほど行った「アランダ デ ドゥエロ」(Aranda de Duero)で、昼食をとることにした。

アランダ デ ドゥエロは、東西に流れるドウロ川(全長897キロメートル)と、さらに北東側から注ぎ込む2つの支流の間にあり、サント ドミンゴ デ シロスからのBU-910は、その内側となる街の環状道路に到着する。アランダ デ ドゥエロは、カスティーリャ イ レオン州内にある世界的な高級ワイン産地の一つ、リベラ デル ドゥエロ(DO)の中心地で、ドウロ川沿いには270を超えるワイナリーが存在している。
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環状道路の中心には、街のシンボル「サンタ マリア教会」があり、その近くにあるバルに入った。
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昼時には遅い時間帯だったので店内は空いていた。タパスをいただく。
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バルでの食事も、これで終わりである。
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こちらが、15世紀に建設された「サンタ マリア教会」の南翼廊のファサードで、シモン デ コロニアの息子フランシスコ デ コロニアにより、1515年頃、イサベル ゴシック様式で建てられた。隅々まで、絢爛豪華で繊細な浮彫装飾が施され、芸術性の高さに圧倒させられる。
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弧帯(アーキヴォルト)の上部には、ゴルゴタの丘(キリスト受難)を中心に、左右に十字架を背負うキリストと、復活を表すメダリオンが配されている。更にその上には、アランダの紋章盾や、鷲と獅子に支えられたスペイン王家の紋章などの浮彫が施されている。

アーキヴォルトは、尖塔アーチで、聖人やアカンサス模様の浮彫が続き、内側には懸華の透かし彫り縁取りが施されている。そしてティンパヌム(タンパン)には、キリストの誕生(左)と賢者によるキリスト崇拝(右)の浮彫が、その上には羊飼いへのお告げ(左)と東方三博士のパレード(右)の場面が表現されている。アーチ天井は星空で、礼拝する子供の天使の浮彫が飾られている。
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ファサード前の路地を南に50メートルほど進むと「マヨール広場」がある。広場では、ワイン祭りがあったらしく、多くの人が集まっていた。しかし残念ながら、この時間イベントは既に終了していた。
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アランダ デ ドゥエロでは、1時間ほど滞在し、その後、市内を南北に横断する高速道路(A-1)(イルンからブルゴスを経由してマドリッドまで結ぶ)に乗り、130キロメートル南のマドリッド バラハス国際空港に向かった。
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そして、午後6時25分発でパリに向かい、午後10時5分発の日本航空838便で日本に帰国した。
(2008.9.28)
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バスク(その3)

2013-03-01 | スペイン(バスク)
ビアリッツから、高速道に乗り北西に30キロメートル、途中、サンジャンドリュズを過ぎ、国境を越えスペイン側の国境沿いの街「オンダリビア」(Hondarribia)にやってきた。街は、スペイン・バスク州ギプスコア県に属しており、チングディ湾河口部のビダソア川の左岸(西側)にある。因みに、右岸はフランスのアンダイエになる。これからミシュラン星付きの老舗「レストラン アラメダ」(Alameda)で夕食をいただくことにしている。


レストラン アラメダは、オンダビリアの最南端に位置している。市内南地区にある旧市街からは、階段を下りた東西に延びる通り沿いにあり、レストラン南側にはビダソア川に注ぎ込む支流サンタ エングラツィア川が流れている。こちらは通り沿いの入口になる。


到着が午後9時と遅くなってしまったが、既に店内は満席になっていた。


メニューを見ると、セットメニューが3種類「Gartzinea(40ユーロ)、Hondarribia(58ユーロ)、Degustacion(80ユーロ)」があり、一番リーズナブルの「Gartzinea」を注文した。最初にアミューズからコースが始まった。
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パエリアやリゾットに使用されるスペイン産ブレンド米「ボンバ米(BOMBA Rice)」にシピロン(イカ)をあしらった一品。イカの風味がスープに溶け込んだ香ばしさが絶品。
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魚料理は、ヘイク(Hake)と言うタラ目メルルーサ。魚が新鮮なのはもちろん、ふっくらとした焼き上げが素晴らしく大変美味しい。
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肉料理は、ラム ショルダー(仔羊骨無し肩肉)ブロック。肉の触感とソースとの相性も絶妙な一品。
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ワインは、ボデガス ロダ(Bodegas Roda)をいただいた。リオハ アルタの中心アロ村(Haro)のトップワイナリーで、樽の香りは抑え目で、口当たりはなめらかでシルキーこなれたタンニンが好印象なワイン。
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デザートには、ピピン種のリンゴタルトにアイスを添えたもの。
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コーヒーとプチフールをいただき終了した。新鮮な素材にソースを絡み合わせ、洗練されたバスク料理と言ったコースだった。今回リーズナブルなセットを頼んだが、量的にもちょうで、さすがに星付きと言った感想で満足できた。
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こちらは、ビダソア川のフランス側を約8キロメートル上流に向かったビリアトゥ(Biriatou)のホテル(Les Jardins De Bakea Hotel)である。ビダソア川沿いの通りの1本丘側(北側)のエリ アルド通り沿い建つホテルで2泊し3日目の朝を迎えたところ。ホテルの白い壁は朝日を浴び輝いている。ここビリアトゥは、フランス南西部のピレネー アトランティック県にある村で、バスク地方ではラブールにあたる。東側にあるホルドコガイナ山(標高486メートル)の麓に近く、ハイキングコースのルートにもなっている。
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こちらは、ホテル前の駐車場から南側を眺めた様子。すぐ先にビダソア川が東西に流れ、対岸(左岸)からスペインとなる。眺望がすばらしく、空の青さと緑が眩しく気待ちのいい朝である。ちなみに、この眺望はホテルのテラス席から一望することができる。これから昨夜に続き、スペイン・オンダビリアに向かうことにしている。
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昨夜のレストラン アラメダの東側から、旧市街の北側に回り込むと、サン クリストバル(San Kristobal Plaza)と名付けられたラウンドアバウトがあり放射状に6本の道が伸びている。その南西へ向かう通り沿いにマーケット(solbes)があり、店頭にフルーツが山積みに置かれている。
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マーケット沿いの通りと、ここまで来た通りとの間(南方面)に、Parador(パラドール)方面を示す標識があり、それに沿って坂道を上っていく。すぐに、右側に高さ4メートルほどのオベリスクが建ち「1879年3月30日付けの領海画定合意」と記載されている。詳しい解説がないが、ビダソア川とチングディ湾に面するオンダリビアとフランス領アンダイエとの船舶の航行に関する協定のことと思われる。
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そのオベリスクの先を右折すると、急な勾配の石畳の上り坂が続いて、その奥にアーチ門が見える。両側には、漆喰の壁に木製の梁や鎧戸などのバスク地方特有の建物が並んでいる。ところで「オンダリビア」は河口沿いの街だが、西側にハイスキベル山(標高547メートル)があることから、坂のある街となっている。
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アーチの上にも小さなバルコニがあり、住宅となっているようだ。
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アーチを抜けると、一辺30メートル四方の「ギプスコア広場」で、広場奥に、中世風ながら白いエディキュラを備えた可愛らしいホテル パラセテが望める。
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そのギプスコア広場から振り返ると、白い漆喰壁に木枠組みされた、それぞれ外観が異なるバスク風の建物が連結して建っている。くぐった門の隣の建物の2階は煉瓦壁でベランダには色どり鮮やかな花が飾られ、柱の上には紋章の浮彫が施されている。1階部分はアーケードで、ドーリア式の円柱が支えている。
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先の筋を右折し坂を上り、その先の交差点を左折して坂道を上ると、左側に「アルマ広場」が現れ、広場に面して前方(東側)に城壁のような「パラドール デ オンダリビア」が現れる。
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こちらのパラドールは、もともとナバーラ王の称号をはじめて使用したサンチョ アバルカ(在位:1004~1035)が築いた城だったが、16世紀、神聖ローマ皇帝カルロス5世により、対フランス戦のための重要地として改築されたもの。その後フェリペ4世(在位:1605~1665)治世時に、フランス軍からの2ヶ月にわたる攻撃に耐えたと言われ、現在も外壁には砲弾の痕が残っている。

アルマ広場の中心から、南側(右側から来た)を眺めると、通り沿いには緑、青、赤とカラフルな窓枠が並ぶバスクの建物が建っている。
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アルマ広場からパラドールに向かって左側(北側)にはビダソア川が流れ、その先がチングディ湾となる。
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アルマ広場には、1638年と書かれた中世の鳥瞰図(右下の川に面した城壁側が北)がある。城壁内に見えるひと際大きい広場が、このアルマ広場である。図では北城壁下が入り江になっているが、現在は、東側の陸地部分がそのまま東城壁と並行して北側に続いていることから、旧市街は、ビダソア川から100メートルほど内陸部に位置している。ラウンドアバウト「サン クリストバル」は、北城壁の側防塔のやや北側に位置している。
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南城壁側はサンタ エングラツィア川で、現在は、10メートル幅の水路で、空港の手前で北向きに方向を変えビダソア川に注ぎ込んでいる。レストラン アラメダは、南城壁中央付近から下った川縁あたりになる。

パラドールに沿って右奥には教会の尖塔が見える。下り坂の細い道が伸びている。
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左側が聖堂の壁面になっており、先に扉口があるようだ。
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坂を下って行くと、聖堂の向かい側には、靴屋があり、カジュアルなサンダルや靴が並んでいる。高級感のある革や縫製が大変良く、いかにも熟練の靴職人による手作業を感じさせる品々である。ちなみに、こちらが、バスクベレー帽が似合いそうな靴職人のおじさん。
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その靴屋の向かい側には、1474年から建設が始まり1549年に完成したゴシック様式のサンタ マリア教会の扉口がある。ミサの時間なのか幸いにも扉が開いている。
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主祭壇は、黄金で塗られた祭壇衝立が飾られており中央には聖母子像が祀られている。
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こちらの柱には、十字架を中心に愛らしい天使像の彫刻が両脇に施されている。
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礼拝堂横の天井はゴシック建築特徴のリブ ヴォールトで覆われている。
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リブには、細かい彫刻が施され、中央には聖母子像が表現されている。頂上部だけ見ると仏教の法輪の形と良く似ている。
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こちらの聖人像の身体部分は父と子(キリスト)と聖霊(聖神)が一体であるとする教えを図像化した「三位一体の盾」を現している。顔をよく見ると左右中央に3つの顔が現されている。細部まで細かい彫刻が施されており、作者の労力に感服させられる。
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さて、旧市街を後にし、再びサン クリストバル広場(San Kristobal Plaza)に戻り、マーケット(solbes)で買物をして、右隣の北側に伸びるサンペドロ通りを歩いて行くと、レストランやバルが並んだマリーナ地区に至る。こちらの丁字路に沿いにあるバル「アンバタ(Enbata)」は、込み合って入れなかった。


通りのすぐ先左側には、オンダリビアを代表する人気のバル店「グラン ソル(Gran Sol)」がある。


店内は混雑していたが、何とか、カウンター席に座ることができた。
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左端の一品は、名物のミガス(migas)。ミガスとは、パンを細かくちぎって炒めたもの。それに半熟卵に鶏のスープとイカ墨をかけている。
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タパスと言うより、本格的なフォアグラ料理。
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次から次にお客が来るが、店内には座りきれず帰って行く。
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さて、満足して、バルを出て、大通りを東方面に越えて行くと、


ビダソア川沿いのウォーターフロントに出る。このあたりが河口付近で、先方の北東側に入り込む岬の手前が、チングディ湾となっている。ちなみに岬はハイスキベル山を中心とした稜線として15キロメートルほど南西方向に海岸山脈となり続いている。
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南北に続くウォーターフロント沿いに砂浜が広がる場所があり、下りることができたので、川辺までやってきた。この日は波が高く、多くの船が運行している。東側となる対岸に見える街並みは、フランス領のアンダイエである。
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さて、ところ変わって、ここはスペイン・バスク自治州ギプスコア県の県都「サン セバスティアン」のビスケー湾に面した「ラ スリオラ海岸」。フランスとの国境からの距離は約20キロメートルである。東の岬となる岩山は「ウリア山」(標高243メートル)の最西端で、海岸線に沿って東方面に尾根が伸びていく。この海岸は、やや波が高いためサーフィンやボディボードを行う海水浴客に人気があるという。時刻は午後8時、そろそろ日の入りである。
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ラ スリオラ海岸の西側には「ウルメア川」(バスク山脈の麓、ゴイスエタからナバーラ州、バスク州ギプスコア県内を流れる)の河口に位置し、その背後に「モンテ ウルグル」(Monte Urgull)(標高123メートル)と呼ばれる小山がある。17世紀、ナバーラ王サンチョの命によって「モタ城」が建造され、その後も、近年まで軍事上、重要な防御地点となった。現在では、その役割も終え、大部分が緑に覆われ、山頂には1950年に12メートルの高さのキリストの像が設置されている。
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そして、このモンテ ウルグルの更に向かい側(西側)にも砂浜のビーチが大きく広がる「ラ オンダレータ海岸」があり、サン セバスティアンは、大小2つの湾(ラ オンダレータ海岸とラ スリオラ海岸)が連続して「ラ コンチャ湾」となり大西洋のビスケー湾となる。

サン セバスティアンは、ウルメア川に沿って街が広がっている。こちらは、そのウルメア川に架かる3本の橋の一つ「クルサール橋」(スリオラ橋)で、1921年にビクトル アラナによってデザインされたアール デコ様式の街路灯が美しい橋である。
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ウルメア川対岸の宮殿を思わせる建物は、ホテル マリア クリスティーナ(Hotel Maria Cristina)で、15世紀の建物を復元し1912年のオープンした壮大な5つ星ホテルである。
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クルサール橋の手前左手には、「クルサール国際会議場・公会堂」がある。設計はスペイン人建築家のホセ ラファエル モネオで、1999年開館した。1,839席のクルサール公会堂、多目的ホール、展示場などを有する複合施設で、毎年9月に開催される「サン セバスティアン国際映画祭」の開場で知られている。目指す「レストラン ニ ネウ」(Ni Neu)は、この2階にある。
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スペイン(フランス含め)滞在の最後のディナーは、ここミシュラン店で味わう。メニューには、セットメニューが2種類あったが、「The Tradition and the taste」(48.5ユーロ)のコースに、ワインペアリング(28ユーロ)を付けて頼むこととした。
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ガスパチョと、素揚げされたシシトウらしき一品。。
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ポタージュ(スープ)。
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パテだが、まだ前菜のようだ。
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サンセバスチャン名物ピルピルソース(オリーブオイルとにんにくと鱈で作る)に入った蟹。
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セットなので、ポーションが小さいのは分かるが、どこからがメインなのかよくわからない。
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64度で料理された子牛のほほ肉ローストペッパーとポテトクリームを添えた一品。
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どうやらデセールらしい。
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続けて、もう一品でてきた。先ほどのリンゴ味のケーキはアヴァンデセールだったのか。
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メインのポーションが小さくアラカルトで頼んだ方が良かったのかもしれない。もちろん美味しかっただけに少し残念な印象となってしまった。
(2008.9.26~27)
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バスク(その2)

2013-03-01 | スペイン(バスク)
サン ジャン ピエ ド ポールから北西方面の港町サン ジャン ド リュズ(Saint-Jean-de-Luz)へ向かって街道(D918号線)を走行していたが、出発後、約30キロメートル地点となる「イチャスー」(バスク語で「エニシダ(マメ科の属の一つ)の地」を意味)(Itxassou)に立ち寄り、昼食を食べることにした。イチャスーは、ピレネー アトランティック県のコミューンで、バスク地方の概念ではラブール地方にあたる。


イチャスーの中心地は、D918号線から西に800メートルの位置にあるが、村の南側となる教会(Église Saint-Fructueux)案内に従ってやってきた。南に向かっていた通りから鋭角に右折して北側に向かうと右側に、ホテル&レストラン(Logis Hotel du Chene)の表示があったので、こちらで、昼食を頂くことにした。こちらは西隣の駐車場から眺めたホテルの様子で、教会は、すぐ左側(北隣)にある。


レストラン入口には、「ロジ ド フランス連盟」(Logis de France)を示す " かまどマーク " が掲げられている。庶民的な美味しいレストランを併設した低廉な宿を基準に審査しており、評価店舗はフランス全土に4,000軒以上となっている。その下に、小さなかまどマークが2つ付いているが、これは " まぁまぁおすすめで快適" を表わしている。かまどマークは1つから3つまでで評価される。。

この時間、午後1時半になっていたこともあり先客は3組ほどで空いていた。陽光が入り店内は穏やかで明るい雰囲気がある。
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セットメニューは16ユーロ、25ユーロ、32ユーロの3種あり、16ユーロのセットメニューを選んで、ワイン(ヴァン ド ペイ、コート カタラーヌ)を頼む。最初にサラダが提供され、


次にバスク風スープ、


メインはブラック チェリーソースのかかった鶏肉だった。ここイチャスーの地は、ブラック チェリーの産地として知られている。ちなみにメインは、選べることができる。こちらは、バスク風サーモン ステーキ(ライス付き)。味は、概ね評価通りといったところ。ボリュームもあり、コスパが高いといった印象だった。
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イチャスーからD918号線を離れ、西に向かい、アイノア(Ainhoa)を経由してサール(Sare)に抜けたところ。この後、北西方面に向かいアスカン(Ascain)を通ってD918号線に復帰する予定となっている。そのサールとアスカンの間で、通りの左側にある「ラ リューヌ登山鉄道」(プチトラン ド ラ リューヌ)サンイグナス峠(コル ド サン ティニャス)の鉄道駅に寄ってみる。

タイミング良く、ラ ルーヌ山から戻ってきた列車に遭遇した。車体は哀愁漂うベル エポック時代のもので、ホームは多くの人で混雑している。こちらは、サンジャンドリュズからは南東約10キロメートルに位置する始発駅「プチトラン ド ラ リューヌ」で、北西側の「ラ ルーヌ山」(ラルン)頂上(スペイン国境すぐのフランス側にあり、バスク湾を一望するバスクの聖なる山)まで4.2キロメートル間を35分かけて運行している(1924年に開通)。なお、サン ジャン ド リュズからこの場所まではバスの利用になるとのこと。
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その後、30分ほどで、ビスケー湾に面した港町サン ジャン ド リュズ(Saint-Jean-de-Luz)に到着した。フランス南西部アキテーヌ地域圏のピレネー アトランティック県に属するコミューンで、歴史的にはフランス領バスクのラプルディ地方に属している。こちらは、市内中心部にある「ルイ14 世広場」で、広場中央には1メートルほどの高さの八角形のイベントステージがあり、周囲には夏の暑さを緩和するかの様に多くの木が植えられている。
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広場の南側には、横長に連結された建物が広場の南面を占めて建っている。建物に向かって右端は役場で、中央にはレストラン、そして左端には、観光客が集まる「ルイ14 世の館」(Maison Louis XIV)の入口がある。フランス絶対王政全盛期の国王で知られる太陽王ルイ14 世(在位:1643~1715)が、1660年、スペイン王フェリペ4世の娘マリー テレーズ(1638~1683)との結婚式を控えて滞在した館とのこと。両者が結婚に至った経緯は、ルイ14 世の父ルイ13世(宰相はリシュリュー)治世時に始まったドイツ内の新旧両派の宗教対立による三十年戦争(1618年~48年)に遡る。


三十年戦争はスペイン・オーストリア(ハプスブルク家)とフランス(ブルボン家)という対立軸に発展し西ヨーロッパの新教国、旧教国が介入した大規模な国際紛争に拡大したのだが、1648年、神聖ローマ皇帝、ドイツの諸侯、フランス、スウェーデン、スペイン、オランダなどにより、講和が成立(ウェストファリア条約)する。しかし、フランスとスペインの2国間はその後も戦争を継続し、1659年のピレネー条約の締結でようやく講和へとたどり着くが、2人の結婚はこの条約で取り決められたのである。

ルイ14 世広場の西側は、通りを挟んで、ビスケー湾へ注ぐニヴェル川(スペイン北部のナバラ州北東端部から流れている)の船溜まりとなっている。埠頭の様に西に延びる北西側に連なる建物の先が河口で、南からの流れは北側の湾に注ぎ込んでいる。その一番手前に建つ、白とピンク色の煉瓦に2層の5つのアーチ窓、左右の2つの塔を持つイタリアンスタイルの建物が「マリー テレーズの館」(1640年頃建築)(La Maison de l'infante)である。
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結婚後、マリー テレーズは、政治や文学に興味を持たず、義母アンヌや使用人と過ごし宮廷に出ることは殆どなかった。穏やかで信仰深い生活を送ったマリーは3男3女の子供を儲けるが、長男ルイ(グラン ドーファン、ルイ15世の祖父)以外は夭逝し、マリーも1683年に44歳で亡くなった。寵姫や愛人にうつつを抜かしていたルイ14世ではあるが、王妃の死の際には涙を流して別れを惜しんだという。

次に、ルイ14世広場の北東側から北に延びるレピュブリック通りを歩いてみる。通りには、レストラン、バスク リネン、バスク地方のお土産物、スイーツなど数多くのお店が立ち並んでいる。
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100メートルほどで、階段のある防潮堤に到着する。防潮堤は河口方向の西側から続いているが、すぐ東側まで続いており、その上は通路になっている。防潮堤の上からレピュブリック通りを振り返ると建物の2階から見下ろす感覚になる。通り沿いの建物は、白壁にバスク風の赤い木組みが施されている。
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防潮堤の上を東側に進むと、先に合流する通りとの高低差はなくなっている。海岸線は円状に北側に向かい、砂浜が広がっている。オフシーズンのこの時期は人は少ないが、夏場は多くの海水客で賑わうのだろう。
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再びルイ14 世広場に戻って、こんどは東側に伸びるガンベッタ通りを進むと、すぐにサン ジャン バティスト教会(L'Eglise Saint Jean-Baptiste)が現れる。17世紀に建てられ、ルイ14世とマリー テレーズが結婚式を挙げた教会である。


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翌朝、サン ジャン ド リュズからA63号(高速道路)を20キロメートル北東に行ったバイヨンヌ(Bayonne)(フランス南西部アキテーヌ地域圏、ピレネー アトランティック県の郡庁所在地)にやってきた。フランス領バスクの概念では、ラブール地方の首都にあたる。バイヨンヌは、バスク語で「川」を意味し、アドゥール川とニーヴ川によって、大バイヨンヌと小バイヨンヌ、サンテスプリの3つの区域に分けられている。

アドゥール川左岸のサンテスプリ側からは、「サンテスプリ橋」対岸の大バイヨンヌ方面の街並みを一望できる。大バイヨンヌの丘に建つ双塔の教会が「サント マリー大聖堂」で、その丘の手前(東側)にニーヴ川が流れ、サンテスプリ橋の袂からアドゥール川に注ぎ込む。
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バイヨンヌには、古くからバスク人の祖先と考えられるヴァスコン人が住んでいた。大西洋岸ビスケー湾にもほど近く、ヒスパニア北部とガリア南西部を結ぶ交通の要所でもあることから、紀元前3世紀には、ローマ軍の防衛拠点が置かれていた。840年、現在のデンマークからヴァイキングが到達し、その後も、9世紀から10世紀にかけてヴァイキングの侵攻を度々受けている。当時は、フランク王国が分裂し弱体化していたこともあり、フランス各都市も襲われ、ジブラルタル海峡を回って地中海側からローヌ川流域やイタリア半島まで侵攻されている。

最初にサンテスプリ橋を渡り、大(グラン)バイヨンヌ地区にあるゴシック様式の「サント マリー大聖堂」(ノートルダム ド バイヨンヌ)から見学することにする。85メートルもの高さのランドマーク的役割を持つ2つの尖塔が印象的である。
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大聖堂は、13世紀から14世紀にかけて建設されたが、この時代、バイヨンヌはイングランド王国に属していた。もともとは、10世紀後半までアキテーヌ領だったが、相続人であるアキテーヌ伯の娘アリエノールが結婚した相手が、アンジュー伯アンリ(1154年にイングランド王ヘンリ2世になる。)だったことから、以後300年に渡りイングランドの支配下に置かれることになる。
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主催壇には、ネオ ゴシック様式の至聖所が安置され、上部にキリストの受難具を持つ4人の天使を配置し、頂部にパリのゴシック建築「サント シャペル」(聖なる礼拝堂)のミニチュアが飾られている。その上には、ゴシック建築特有の鳥籠のような軽やかな空間が形成されており、窓には鮮やかなステンドグラスが並んでいる。
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主祭壇の裏側には周歩廊があり、礼拝堂が並んでいる。ここ大聖堂には、ヴァイキング侵攻時代に殉教したノルマンディー地方カランタン出身の聖レオン(守護聖人)が祀られている。
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礼拝堂にも美しいステンドグラスが並んでいる。
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外に出て大聖堂の後陣側を見上げてみる。シュヴェ側から見ても多くのステンドグラスが配置されていることがわかる。上部には聖人像が並んでいる。更にその上には、ゴシック建築特有のフライング バットレス(飛び梁)が優雅に広がっているのが見える。
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広場から東に伸びる路地には商店が連なっており、多くの買い物客や観光客で賑わっている。ここは、バスク リネンのショップのようだ。
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店内には、帽子、エプロン、バック、 テーブルウエアやインテリア小物などカラフルなバスク リネンが並んでいた。
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100メートルほど歩くとニーヴ川に架かるマレンゴ橋(Pont Marengo)が現れる。一旦、袂から右折して、川沿いを南に向かう地、右側に視界が広がり、モルザン カロー デ アール広場となる。この日は、特設の市場が開かれ、多くの人が訪れていた。広場に面した南側には、地元で人気のフレンチレストランである。
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再び川沿いを北に戻り、ニーヴ川に架かるマレンゴ橋を渡ることにする。橋は東への一方通行で細い車道だが、歩道は車道より広い幅で両側にある。
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マレンゴ橋上から150メートルほど北側は「マユー橋」(Pont Mayou)で、そのすぐ先でアドゥール川に注ぎ込む。マユー橋のすぐ右側に「サンテスプリ橋」が架かっている。
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ニーヴ川の右岸(東側)から先のアドゥール川との間がプチ バイヨンヌ地区になる。河川沿いには、テラス席が数多く並んでいるのが見える。
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テラス席の右隣で、橋を渡ったマレンゴ通り沿いには「バスク美術館」があり、バスクの文化や歴史に関する展示がされている。
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マレンゴ橋を渡り終え、袂から河川沿い沿いを右折すると、こちら側にもレストランがあり、テラス席からニーヴ川対岸のグラン バイヨンヌ地区を眺めてみる。大聖堂の巨大な尖塔が見える
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マレンゴ通りを東に進むと、正面に「サンタンドレ教会(聖アンデレ教会)」(l'Eglise St-Andre)が見えてくる。サンタンドレ教会は、概ねニーヴ川とアドゥール川との中間に位置している。
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サンタンドレ教会は、19世紀半ばにゴシック様式で建てられた。ポール ヴェール広場に面して建っている。モンテクリスト城の設計で知られるフランスの建築家イポリット・デュラン(1801~1882)により1869年に建てられた。ラテン十字形の教会で、13世紀のゴシック様式の教会の影響を受けている。正面に2つの塔と、ポータル上の印象的なバラ窓がある。しかし、1895年、湿地帯だったことから一部オルガンギャラリーで崩壊が発生し、重すぎる尖塔も取り壊され、1903年に現在の2つの鐘楼に置き換えられている。
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サンタンドレ教会の周辺は、拝廊側にリス通りが南北に延び、南身廊側には、斜めに、ラヴィニャン通りが横断している。こちらは、ラヴィニャン通り南側の、ヌフ城へ向かう坂道から、駐車場越しに聖堂を眺めた様子である。
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タンパンには、キリスト像を中心に上下左右に表福音書記者が、三種類の動物と一人の人間の姿(伝統的キリスト教美術における象徴表現)で表現されている。扉口中央の像は聖アンデレ(St-Andre)だろうか。。聖アンデレはペトロの兄弟で、十二使徒の一人として崇敬されていたが、ギリシア アカイア地方でX字型の十字架(アンデレの十字架)で処刑され、殉教したとされている。
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教会に入る。主祭壇は極めてシンプルな造りである。
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そして、ポール ヴェール広場の南側で、アルセナル広場の東側から坂を上った丘の上に建つのが、13世紀、イングランド時代に建てられた「ヌフ城(Chateau Neuf)」である。
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バイヨンヌがイングランド王国となって約200年が過ぎた1339年、フランスの王位継承をめぐり、イングランドとフランスとの百年戦争が始まっている。当初はイングランドが戦いを優位に進めていたが、1453年、カスティヨンの戦い(ボルドーを巡る争奪)において、フランス軍からの圧倒的な兵力と、猛烈な大砲や小火器の攻撃によりイングランド(ヘンリー6世治世)は大敗して百年戦争は終結する。そして、ボルドー、バイヨンヌを含めたアキテーヌ地方は、フランス王シャルル7世(在位:1422~1461)の支配下に置かれ、その際に改築したヌフ城が現在の姿であるとされている。

サンタンドレ教会からマレンゴ通りを50メートルほど西に戻った場所にある「レストラン ミウラ」でお昼を頂くことにする。ミウラと言う名称から最初、日本人が経営していると思ったが、ミュラと発音するバスク地方の名字とのこと。
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店内にはバイヨンヌの地図(右側が北方面)が掛けられている。右に流れるアドゥール川にニーヴ川が注ぎ込んでいる。上部の大バイヨンヌ地区のサント マリー大聖堂から、マレンゴ橋(右から2番目の橋)を渡ってプチ バイヨンヌ地区のサンタンドレ教会までのルートが確認できる。
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昼のコースメニューとして、前菜、メイン、デザートの「デ マルシェ」(21ユーロ)と、メインが2品となる「デ ラブール」(32ユール)があり、デ マルシェを注文する。前菜は、エビのすり身などを春巻き皮に巻いてカラリと揚げたクリスピーで、シェリー酒とシードルの爽やかな酸っぱいヴィネグレットソースに付けて頂く。シールドをソースに使用するのがバスク風の名物とのこと。
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ムール貝のバスク風。バスク料理の特徴として魚介類の煮込んだ出汁スープにある。前菜には思えないほどのボリューム感がある。
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バスク地方を代表する魚料理で、タラのバスク風。切り身は、皿からはみ出るほどの大きさがある。ソースは、魚のうま味が染み込んだやや甘いシチューで、付け合わせにピキージョや野菜を混ぜ込んだライスが筒状に添えられている。
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鴨の切り身を蜂蜜系の甘いソースに付けこんだ一品で、ズッキーニのスライスを乗せたカブ入りマッシュポテト(マッシュポテト)を付け合わせに頂く。
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イチジクのデザート。
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かなり洗練された料理で、濃い目のソースにも関わらず、しつこくなく味わい深い。なんともコスパが高く、贔屓にしたいと感じるレストランだった。
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次に、バイヨンヌから西に8キロほど離れたビスケー湾に面する港町「ビアリッツ」(Biarritz)にやってきた。ビアリッツは、フランス南西部アキテーヌ地域圏、ピレネー アトランティック県の基礎自治体で、フランス領バスクではラブール地方に属している。

北東から北西へ延びる真っすぐの海岸線から、嘴の様に西側に500メートルほど張り出す岬があり、その岬から内側に街が広がっている。最初に、その岬の高台にある「サント ウジェニー広場」にやってきた。広場の中心には、ドーム屋根の東屋があり、西側に「サント ウジェニー教会」が建っている。広場の北隣は、東西に延びるマレシャル ルクレール通りで、その先は20メートルほどの海食崖で、崖下は公園と船着き場となっている。
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灰色石のネオゴシック様式のサント ウジェニー教会は、1898年から1903年にかけて建設されたが、鐘楼は1927年から、鐘は1931年に設置されるなど比較的新しい教会である。
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教会内は、ステンドグラスからの陽光が差し込み眩いばかりに輝いている。教会名のウジェニー(ユージニアまたはエウゲニア)は、183年頃にローマまたはアレクサンドリアで生まれ257年にローマで殉教した聖女のことで、ナポレオン3世(在位:1852~1870)の妻ウジェニー ド モンティジョ皇后( 1826~1920)の守護聖人に因んでいる。
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身廊中央には、海辺の教会を示すかのように船の模型が吊るされ、ステンドグラスには、十字架を備えた愛らしい小羊が表現されている。
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教会から、内側の「エドワード7世通り」(Avenue Edouard VII)に入り、海岸線のアンペラトリス(女帝)通り(Avenue de l'Imperatrice)を北東方面に1キロメートルほど行くと、豪華な「オテル デュ パレ」(Hôtel Du Palais)がある。ホテルは" E "の形で、こちらは南翼にあたり、西側が砂浜が続く海水浴場になる。1854年、ウジェニー ド モンティジョ皇后により建てられた別荘で、後にイギリス王家の定宿となり、各国からも王族貴族が集うなど、ビアリッツのリゾート化にも貢献した歴史的なホテルである。
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再び、アンペラトリス(女帝)通りからサント ウジェニー教会の手前まで戻り、エドワード7世通りの歩道沿いから、ビスケー湾の方面を見渡してみる。左側にパブ、レストラン(テラス席)、右側にアールデコ様式の「カジノ バリエール」など、リゾートムード一杯の眺望が広っている。砂浜海岸は、この場所から2キロメートルほど北東方面まで続いており、夏には海水浴客や観光客が多く訪れ大変賑わう。
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次に、サント ウジェニー教会から岬の突端側に向かう。このエリアを「ポール ヴュー」地区と言い、もともとは漁師の家屋が建つ場所だったが、現在は、多くのホテルが建ち並んでいる。ポール ヴュー広場から東側を眺めると、ホテルやレストランが通り沿いに建ち並んでいるのが確認できる。左側の高台に建つ宮殿を思わせる建物はVilla le Goelandである。
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振り返った西側はビスケー湾を望める展望テラスで、左右階段を下りていくと幅80メートルほどの小さな入り江で、市民の憩いの場「ポール ヴュー ビーチ」になっている。
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こちらのビーチの両側は岩で囲まれており、右側の岩の前方には、自然の岩塊「処女の岩(rocher de la Vierge)」があり、頂部に白い聖母像が立っているはずだが、この位置からは見ることができない。。
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ところで、ビアリッツは、エリック ロメール監督によるフランス映画「緑の光線」(1986年)の舞台になっている。パリで働くデルフィーヌは、独りぼっちのヴァカンスを何とか実りあるものにしようと、8月1日、海水浴客で賑わうビアリッツに一人やってくるが、人付き合いが苦手な性格から、誰とも意気投合できない。ビアリッツの駅で、知り合った青年と話すうちに、太陽が沈む瞬間に放つ緑の光線を見たものは幸福を得られると老婦人が「処女の岩」で話していたのを思い出し、一緒に、処女の岩に引き返し、緑の光線が放たれるのを待つといったストーリー。デルフィーヌの繊細さや情緒不安定な様子がうまく表現されていた。

こちらは、角度を変えて処女の岩のある岬を眺めた様子。岸からは、海上橋が処女の岩まで架けられ、トンネルの先が岩の展望台となっている。頂部の白い聖母像は、かつて遭難した船乗りを聖母マリアが助けたという伝説に基づき建てられ、今も航行する船乗りたちに崇められている。
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画像出典:ウィキメディア・コモンズ (Wikimedia Commons)
(2008.9.25~26)
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バスク(その1)

2013-03-01 | スペイン(バスク)
イラチェから更に東に20キロメートル先の「プエンテ ラ レイナ」(Puente la Reina)に到着した。サンティアゴ デ コンポステーラの巡礼路で、ピレネー山脈のロンセスバーリェス峠を越えて来る「フランス人の道」と、ソンポル峠を越えて来る「アラゴンの道」とが合流する地点でもあり、中世以来、宿場町として大いに栄えている。アルガ川の右岸(西側)からは、ローマ橋(歩行者専用)の対岸に広がるプエンテ ラ レイナの街並みが望める。
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プエンテ ラ レイナは、ナバラ州の基礎自治体であり、そのナバラ州は、スペイン(4領域)とフランス(3領域)にまたがるバスク地方の一部でもある。プエンテ ラ レイナは ” 王妃の橋 ” の意味で、11世紀、カスティーリャ王サンチョ3世の妃ムニアが巡礼者のために私財をかけて建設したと伝えられており、これが由来となっている。

橋の途中から身を乗り出して、プエンテ ラ レイナ側のローマ橋の袂の様子を撮影したが、少し分かり辛い写真となってしまった。ローマ橋の袂には直方体の石造りに尖塔アーチがある門が設置されている。
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こちらは、橋を渡り終え、橋の袂の門の横から渡った橋を眺めた様子。橋は、中央を頂点として両側が傾斜した形をしている。プエンテ ラ レイナのアルベルゲ(巡礼宿)で一夜を過ごした巡礼者は、このローマ橋を渡り、640キロメートルに及ぶサンティアゴ デ コンポステーラへの巡礼の旅を、イラチェ、エステーリャ、ログローニョ、ブルゴスへと、続けて行くことになる。。
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ローマ橋からプエンテ ラ レイナの東西に延びる通りは「マヨール通り」と名付けられている。東方向に歩いていく。ローマ橋から150メートルほど歩いた左側に美しい鐘楼が目を引く「サンチャゴ教会」が見えてくる。原始的なロマネスク様式の痕跡を残しつつ16世紀後期のゴシック様式で建てられた。
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マヨール通り沿いに聳える鐘楼は、もともと角柱体だった塔に、八角形の鐘室(周囲にアーチ窓、コリント式ピラー、オルクス、湾曲と三角形のペディメントを交互に配置している)とドームを置き、頂部に小さなドームを連結した古典主義を備えた後期バロック様式である。1778年、スペインの建築家ベンチュラ ロドリゲス(1717~1785)が設計し、サントス アンヘル デ オチャンダテギ(1749~1803)により建設された。ログローニョにあるサンタ マリア デ ラ レドンダ準司教座聖堂の塔に着想を得ている。
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その鐘楼の手前奥が教会の正面玄関口で、通り沿いに設けられた鉄格子の扉を入ってから向かう。こちらの扉口は12世紀ロマネスク後期のものである。上部の五重の弧帯(アーキヴォルト)には、翼のある獅子、交差した魚、ドラゴンと戦う騎士、悪魔、格闘場面、騎乗の戦士などが施され、ポーチ上部内側の小葉の間には、キリストを中心に8人天使が配されている。繊細な彫刻ばかりだが、大半は劣化しており、判別し難くなっている。
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教会内は、多角形のアプスを備えたラテン十字形プランとなっている。後陣には天井に届く豪華な3面式の黄金装飾の主祭壇があり、脇壇として左右袖廊に小祭壇が安置されている。壁面は灰色の切石で、天井は16世紀のスペイン後期ゴシック様式の様々なデザインの円錐星形ヴォールトになっている。拝廊側の階上廊にはオルガンが設置されている
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マヨール通りを更に東に300メートルほど進むと、
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キリスト磔刑教会に到着した。教会は11世紀の建造で、通りを挟んで左側にサンチャゴ教会の鐘楼に似た鐘楼が聳え、右側に教会の回廊の外壁があり、通り沿いに設置されたアーチ門の内側にそれぞれの扉口がある。
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鐘楼は拝廊に建ち、入口は拝廊の南側にある。教会内は石積み壁面で、天井は、バレル・ヴォールトの身廊と、北隣の尖りバレル・ヴォールトの2身廊で構成されている。手前の後陣には小さなアーチ窓の下に木彫りに彩色された聖母子像が安置され、北隣の後陣には、14世紀にドイツの巡礼者からもたらされたY字形の珍しい磔刑像が祀られている。祭壇はアプスも含め煉瓦面がむき出しで質素な作りで、磔刑像の背景の円形壁面には、漆喰と青い彩色の跡だけが残り、質素さの中に磔刑像の美しさが際立っている。
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ここ、キリスト磔刑教会がある辺りがプエンテ ラ レイナの東端になる。時刻はまもなく午後2時、次の地ナバラ州の州都パンプローナに向かうため、Uターンし、マヨール通りを再びアルガ川まで戻る。こちらの建物の壁には大きな紋章の浮彫が飾られている。
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ナバラ州の州都パンプローナ(Pamplona)に到着した。パンプローナは、サンティアゴ デ コンポステーラの巡礼路の拠点の一つで、プエンテ ラ レイナの一つ手前(東側)に位置している。パンプローナは、古代よりローマ属州や西ゴート王国の管理下に置かれ、フランク王国と後ウマイヤ朝の2つの国家間で翻弄され続けた、そのパンプローナが注目されるのは、824年、バスク人の首領アリスタが、ナバラ王国を創建し首都としてからである。そしてナバラ王国サンチョ3世(在位:1000~1035)治世では、イベリア半島キリスト教圏の大部分を支配するまで繁栄するが、王の死後、ナバラ、カスティーリャ、アラゴンとに国を分割され、一部領地を拡大するものの、カスティーリャ王フェルナンド2世により併合されている。

パンプローナの旧市街は市内北東部アルガ川沿い、城壁に囲まれた丘の上にある。川沿いには今もカスティーリャ併合後の16世紀後半から18世紀にかけて建てられた城壁や星型要塞などが残り、19世紀以降も要塞都市はスペインが巻き込まれた幾多の戦争で重要な役割を担ってきている。お昼は旧市街の繁華街メルカデレス通り沿いのバル(El Mentidero)でタパスを頂くことにする。
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タパス(Tapa)とは惣菜の意味だが、元々は虫よけに「タパール(Tapar)(小さなお皿)」をビールに被せたことからこの名がつけられた。このバルはタパスの種類が多くいくつも注文してしまう。
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トルティージャ エスパニョーラ(スペイン風オムレツ)は外せない。
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現在午後3時を過ぎ、この時間多くの施設や店舗はシエスタで休みらしい。次の予定もあるので、軽く旧市街を散策して次に向かうこととする。
まず、メルカデレス通りを西に向けて歩くと、前方に13 世紀のゴシック様式「サン サトゥルニーノ教会」(Iglesia de San Saturnino)の塔が見えてくる。ここから見える塔は南塔で右側にも形が異なる北塔がある。高さ55メートルあり、16世紀以降、時計塔の役割を果たし、長い間パンプローナの基準時間とされてきた。
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すぐにコンシストリア広場となり、右奥(北西側)に18世紀バロック様式の美しい「市庁舎」(Ayuntamiento de Pamplona)が建っている。この広場は、毎年7月6日から14日まで開催される「サン フェルミン祭」(パンプローナの守護聖人である聖フェルミン(272年~303年)を称える祭礼)のメイン会場として知られている。
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祭り当日は、斬首刑となったフェルミンの受難を忘れないように、白い服と首に赤いスカーフを巻いた数千人もの参加者が広場や通りを埋め尽くす。そして市庁舎バルコニーからの首長の開始宣言の後、チュピナソ(ロケット花火)が打ち上げられ祭りがスタートする。群衆からは「パンプローナ」「ビバ、サン フェルミン」等と歓呼の声が上がり、シャンパンや水の掛け合い、生卵や小麦粉が投げ合われるなど乱痴気騒ぎが繰り広げられる。

サン フェルミン祭は、スペイン3大祭りの一つに数えられ、毎年約100万人の観光客が集まる。祭の期間中は、聖フェルミン像の行進やワルツパレードなど様々な行事が催されるが、中でもエンシエロ(牛追い)が重要な祝祭儀礼である。何百人もの人々が闘牛6頭の前を走り、その後を雄牛6頭が続く。旧市街のコース825メートルをゴールのパンプローナ記念闘牛場向けて駆け抜ける。
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市庁舎に向かって左側の「サント ドミンゴ通り」を北西に200メートルほど進むと、通りはY字になり、右側には、すぐ先に東西を流れるアルガ川を見渡せる展望台がある。左側は、勾配の強い坂道で、突き当り高台の「ナバラ博物館」ファサード前に到着する。博物館は、もともとは16世紀に病院として建てられ1932年まで使用されたが、1952年に改築が行われ現在の博物館に至っている。向かって右隣は、17世紀の祭壇画を模したファサードが特徴の礼拝堂だったが、現在は博物館の講堂として使用されている。
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収蔵品として、ローマ時代の重要な遺跡、パンプローナの旧大聖堂のロマネスク様式の彫刻群、フランシスコ デ ゴヤが描いたサン アドリアン侯爵の肖像画などがある。

再びコンシストリア広場まで戻り、南側から東方面に延びるメルカデレス通りを向かう。先ほど食事したバルを通り過ぎた先の三叉路から北東方面に進むと、狭い上り坂のクリア通りになる。
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コンシストリア広場から100メートルほどで旧市街の東端に建つ「サンタ マリア デ パンプローナ大聖堂」(パンプローナ大聖堂)(Catedral de Santa Maria la Real de Pamplona)の北塔が見えてくる。大聖堂はもともとローマ カトリックの教会があり、12世紀にロマネスク様式で再建されたが、突然の崩壊により、14世紀から16世紀にかけてゴシック様式で改築された。ガルシア6世(在位:1134~1150)以降の歴代ナバラ王が安置されている。
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塔の建つ西側ファサードは、1783年、スペインの建築家ベンチュラ ロドリゲス(1717~1785)が設計し、サントス アンヘル デ オチャンダテギ(1749~1803)により新古典主義様式で建設された。ポーチは柱廊玄関で、コリント式の柱が支えるエンタブラチュア上のペディメントには、カビルド(大聖堂の章)の盾の浮彫が施されている。塔には、北塔に3つ、南塔に8つのブロンズの鐘がある。中でも歴史的価値があるのは、南塔にある " ラ ガブリエラ " で、1519年に鋳造されたもの。直径 1.67メートル、高さ1.35メートル、重さ2,700キロ以上ある。
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クリア通りを下りメルカデレス通りまで戻り、途中の三叉路からエスタフェタ通りを南に300メートル行くと、エンシエロ(牛追い)の終着地「パンプローナ記念闘牛場」の西側に出る。1922年建設されたスペインにおける格付け第一級の闘牛場で、1966年に増築工事が行われ、現在収容人数は19,720人となっている。
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ここはパンプローナから北東に50キロメートル近く離れたピレネー山脈の標高900メートルに位置する「ロンセスバーリェス」で、サンティアゴ デ コンポステーラへの巡礼路が通る峠の村である。フランスとの国境は、直線距離でわずか4キロメートル先になる。
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フランスからの巡礼路はピレネー山脈の峠で2つの道に分かれている。一つは、サン ジャン ピエ ド ポー - イバニェタ峠 - ロンセスバーリェス - パンプローナ- プエンテ ラレイナで、もう一つ(トゥールーズの道)は、オロロン サント マリー(オロロン) - ソンポルト峠 - ハカ - サングエサ - プエンテ ラレイナである。

通り沿いには小さな「サンチャゴ教会」が建っている。外見はロマネスク様式だが、内部は、扉は開いていないのでわからない。
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サンチャゴ教会の右隣には、12世紀に造られた長方形の「聖霊礼拝堂(Silo de Carlomagno)」がある。鮮やかな白壁にはアーチ型の窓が続いており、村人の墓として使用されている。
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サンチャゴ教会の左隣には、小さな芝生広場があり、青銅のレリーフが掛けられた大きな岩が飾られている。ロンセスバーリェスは、11世紀のフランス最古の叙事詩「ローランの歌」に登場するシャルルマーニュの筆頭騎士ローラン最後の地として知られている。

叙事詩では、イベリア半島をキリスト教徒の手に取り戻すべくサラセン人王マルシアと戦っていたシャルルマーニュ率いるフランス軍が、サラセン側からの停戦申し入れを受け入れ、フランク王国へ帰路につくが、サラセン軍により騙し討ちを受ける。殿軍を務めた聖騎士ローランは、聖剣デュランダルを振りかざし力の限り戦うが、力尽き、最後に聖剣が敵の手に渡らないように折ろうと岩に振り下ろすと、岩の方が切断されたと伝わっている。この岩がその時のものとされている。
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叙事詩「ローランの歌」のベースは、778年にピレネー山脈中のロンセスバーリェスで起こったフランク王国軍と山岳民族バスク軍の戦い(ロンスヴォーの戦い)である。バスク軍が、フランス・スペイン国境にあるロンセスバーリェス峠(イバニェタ峠)(標高1057メートル)でイベリア半島遠征の帰途にあったカール大帝(シャルルマーニュ)(在位:768~814)軍を襲撃し、殿軍にいたブルターニュ辺境伯ローランが戦死し、カール大帝としては唯一の敗北となっている。

芝生広場の奥には、巡礼事務所や巡礼に関する展示等がある博物館があり、その裏側には、回廊や鐘楼を備えた聖マリア教会が建っている。近くにはホテルやレストランなどもあり、小さな村にも関わらず、多くの人が訪れ賑わっていた。ここから巡礼の旅を始める人も多いらしい。
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1.5キロメートル先に小さな教会があり、右折すると、丘に向かう細い道が続いている。道の途中から歩いて丘を登ると2メートルほどのいびつな楕円状の石碑(ROLDAN 778 1967 と刻まれている)が建っている。こちらがロンセスバーリェス峠であり、ブルターニュ辺境伯ローランが戦死が戦死した戦場跡である。
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峠を越えると国境の町、フランスのピレネー アトランティック県、サン ジャン ピエ ド ポー(St.jean pied de port)に到着する。今夜は街の中心シャルルドゴール広場にある観光案内所の向かい側に建つ、ホテル併設の星付きレストラン「レ ピレネー」(Les Pyrenees)で夕食をいただく。
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まずは、華やかなアミューズブーシュからスタートする。
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次に前菜のサーモンで、キャビアのホイップクリームチーズが付け合わせとなっている。ちなみに前菜は選択できる。もう一つの前菜はこちら。クリックで別ウインドウ開く

メインは本日の魚を頼んだ。アクセントのイカ、アサリ、ムール貝などの魚介はピレネー山中とは思えない新鮮さがある。しかし実際のところ、サン ジャン ピエ ド ポーの中心部の標高は200メートルほどで、ビスケー湾まで、北東に50キロメートルの距離で幹線道路も延びているので鮮度は頷ける。サラダはエスプーマ(泡状のソース)がかかっている。メインは選択でき、もう一品の魚もエスプーマの中に浸かっている。
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アヴァンデセールを頂いた後、デセールをいただく。デセールも選択できる。
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流石に星付きということもあり、見た目も、味付けも洗練された料理に大変満足することができた。

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サン ジャン ピエ ド ポーから、南に3キロメートル行ったサン ミッシェルのホテル(Xoko Goxoa)で朝を迎える。ホテルは、D301号線沿いの南西側にあり、部屋からは街道に沿って流れるニーヴ川を望める。昨夜は寝ていてかなり寒かったが、今朝は朝靄で覆われていた。
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1階のレストランで朝食を頂いた後、ホテルを出発する。こちらは、南側からホテルを眺めた様子で、右側のD301号線を北に向かうとサン ジャン ピエ ド ポーに到着する。
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サン ジャン ピエ ド ポーは、中世の頃ナバラ王国の都市であり、バスク地方の概念では、バス ナバールの中心地でもある。バスク地方は、フランスの3地方(バス ナバール、ラブール、スール)とスペイン・バスク(アラバ、ギプスコア、ビスカジャ、ナバラ)の4県を合わせて一つの国(バスク)とされる。

サン ジャン ピエ ド ポー中心にあるラウンドアバウトから、北東方面のD933号線に入り、途中ニーヴ川を越えたすぐ先のシャルル ド ゴール広場の観光案内所前から振り返った様子である。広場の左側には、道路に並行する様にして高さ10メートルほどの城壁が続いている。昨夜のレストランは右側のD933号線の向かい側にある。時刻は午前9時半だが、まだ朝靄がかかっている。
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これから、観光案内所の南側に建つレストラン「ルレ デ ラ ニーヴ」(Le Relais de la Nive)左側にある城壁門を入った先の「エスパニーニュ通り」を散策することにしているが、少し遠回りだが、右側のD933号線側からニーヴ川を横断した先のラウンドアバウトから回り込むことにする。

ラウンドアバウトから左折してウアール通りを進むと、南北に延びるエスパニーニュ通りへの丁字路になる。左折してエスパニーニュ通りを北に向かって歩くと、両側に多くのショップが並んでいるもののほとんどが開店していない。ちなみにこの通りが、サンティアゴ デ コンポステーラへの巡礼路となる。
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すぐに、ニーヴ川に架かるノートルダム橋(サントマリー橋)となり、ノートルダム門前に到着する。ちなみに現在のサントマリー橋は1634年に復元されたもの。橋から左側には、レストラン「ルレ デ ラ ニーヴ」が見える
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ノートルダム門を見上げるとマリア像が飾られた時計塔になっている。
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ノートルダム門を抜けるとすぐ右側に「ノートルダム教会」の扉が現れる。時計塔は、教会の鐘楼である。教会の向かい側は丁字路で、50メートルほど先の城門をくぐると観光案内所の広場に面したレストラン「ルレ デ ラ ニーヴ」前になる。
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ノートルダム教会内は狭いが、座席が3階席まであり多くの人が座れる工夫がされている。拝廊側2階にはパイプオルガンもあった。
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祭壇は簡素だが、ステンドグラスが美しい。
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ノートルダム門から「シタデル通り」となり、右に緩やかにカーブしていく。通り沿いにはバスク リネン(厚手のバスク織り布)、土産屋、巡礼グッズを売る店、カフェなどのお店が並んでいる。
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少しすると、一層勾配が強い斜面になっていく。両側には白い壁に赤い窓枠のバスク風の古い建物が立ち並んでいる。
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お婆さんの立看板のある「ファブリーク マカロン」(La fabrique de macarons)を過ぎると、
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古びた煉瓦造りの美術館があり入ってみる。
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巡礼者が身に着けていたものだろうか。他にも巡礼に関する品が展示されていた。
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美術館を過ぎると、前方に15世紀に建設された「サン ジャック門」が見えてきた。是より先はポルト サン ジャック通りとなり、ノートルダム門から上ってきたシタデル通りは右側の坂道となり、16~17世紀に建設された要塞址へと続いている。先にサン ジャック門をくぐってみる。
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サン ジャック門は、フランスのトゥールの道、トゥールの道、ル ピュイの道とそれぞれの街からスタートした3本の巡礼の道が交わった後、最初にくぐる門で、サン ジャン ピエ ド ポーへの入口門でもある。中世より宿場町として、サンティアゴ デ コンポステーラを目指す多くの巡礼者を迎えてきた。右側には「フランスのサンティアゴ デ コンポステーラの巡礼路」として世界遺産に登録(1998年)されたプレートが掲示されている。こちらは、門をくぐった東側からの様子である。
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ブルゴス - サント ドミンゴ デ ラ カルサーダ - ログローニョ - エステーリャ(未訪問) - プエンテ ラ レイナ - パンプローナ - ロンセスバーリェス - イバニェタ峠 - サン ジャン ピエ ド ポー と、巡礼路の拠点を逆方向に旅してきたがここで終了となる。

再び、サン ジャック門をくぐると、すぐ左側の石壁には水飲み場がある。これまでの旅の疲れをいやしてくれるだろう。
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右側の建物の扉にはホタテの意匠を現すマーク(アルベルゲ)が貼られている。巡礼路はこの後、ロンセスバーリェスの峠越えになるため、多くの巡礼者が足を止める宿場町となった。今も多くの宿泊施設がある。
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それでは、シタデル通りに復帰して、要塞へと続く坂道を上り、サン ジャック門の手前から右に鋭角に曲がり更に上っていく。右側に砦の石垣が現れると左に鋭角に曲がる。そして坂道は前方の濠に架かる橋に続き、王の門(Porte du Roy)をくぐると要塞の稜堡内に到着する。
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王の門をくぐると、胸壁で囲まれた三角形の稜堡で、先端角の北西方面が見晴台になっている。対する南東側には濠があり、橋で向かい側の石垣先にあるシタデル中学校に続いている。

見晴台から北西方面を眺めてみる。手前右下にD933号線に並行する城壁が続いている。城壁の左側が観光案内所の場所だが、木々で覆われて見えない。左前方の教会は、隣村「ウアール シーズ」(Uhart-Cize)のノートルダム ドゥ ラソンプシオン教会(聖母被昇天教会)で、中央の広い芝生との間の木々に沿ってニーヴ川が、右側の山の麓に向かって流れている。そして、中央右よりの山を巻き込む様に後方に向かって蛇行し流れていく。これからそのニーヴ川に沿って走るD918号線を通り、遠景の稜線の先となるビスケー湾方面に向かう。
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しばらく景色を堪能した後、観光案内所の南側に建つレストラン「ルレ デ ラ ニーヴ」まで戻り、D933号線沿いの橋からニーヴ川を眺めると、先ほど歩いたエスパニーニュ通り沿いのノートルダム橋(サントマリー橋)が見える。この時間、左側のルレ デ ラ ニーヴは多くの客でにぎわっている。
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(2008.9.24~25)
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スペイン・ラ リオハ

2013-03-01 | スペイン(バスク)
ラ リオハ州(La Rioja)の「サント ドミンゴ デ ラ カルサーダ」(Santo Domingo de la Calzada)にやってきた。この地は、サンティアゴ デ コンポステーラの巡礼路の途上にあり、ブルゴスからは70キロメートル東側に位置している。そして、更に50キロメートル東側は、ラ リオハ州の県都ログローニョで、こちらを見学後に向かうことにしている。


サント ドミンゴ デ ラ カルサーダとは「道路(カルサーダ)を造る聖ドミンゴ」の意味を表している。聖ドミンゴは、1019年に羊飼いの息子として生まれている。彼は、この地に流れるオハ川に橋を架け、森を切り開き、敷石を敷き巡礼者のために30キロメートルもの道を一人で造り上げ、巡礼者のために施療院を建てたと言われている。

東西に伸びる「マヨール通り」を東へ向かうと「サント ドミンゴ デ ラ カルサーダ聖堂」と鐘楼前に到着する。右側の建物が聖ドミンゴにより造られた救護院で、現在はパラドール(国営ホテル)になっている。
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建物を右に回り込むと広場があり、その広場に面して「パラドール」の入口がある。


パラドールとは、スペイン、プエルトリコなどスペイン語圏にある、美術的価値のある古城、宮殿、修道院などを改装した比較的高級なホテル チェーンを指している。

マヨール広場からの聖堂は、工事中だった。1106年にドン ペドロ ナザール司教によって奉献され、参事会教会となった1158年頃に現在の教会の姿となり、1232年に大聖堂となっている。広場の正面は南翼廊のポータルになる。マヨール通りはポータル前を通って東方向に延びている。マヨール通りの南沿いに鐘楼が単体として建っている。
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鐘楼は1767年から1769年にかけバロック様式で建てられた。現在の鐘楼は、三代目の塔で、初代はロマネスク様式で建てられ、1450年に火事で焼失し、二代目はゴシック様式で建てられたが崩壊の危機に瀕し解体されている。鐘楼に上ろうと意気込んだが、シエスタで午後4時までは休みだった。

この日の大聖堂は工事中だったことから、ウィキメディアの画像を貼り付けた。2連アーチのあるポーチ上のリンテルに建つ3聖人像の内、中央が聖ドミンゴである。入口となる南翼廊の左側が幅広いのは、室内に無原罪の礼拝堂があることによる。
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画像出典:ウィキメディア・コモンズ (Wikimedia Commons)

鐘塔のそばには「顔出し看板」が置かれている。鶏を抱えているが、これは、無実により死刑になった息子を残して巡礼を達成した父が再びこの地に戻った際、その息子が蘇えるきっかけとなったと言う聖ドミンゴの「鶏の奇跡」を表わしている。この地では、鶏が幸運のシンボルとなっている。


鐘楼の右隣で、サント ドミンゴ デ ラ カルサーダ聖堂と広場を挟んで向かい合う様に、小さな教会「ビルヘン デ ラ プラサ教会」(Ermita de la Virgen de la Plaza)が建っている。聖ドミンゴが作った古くて質素な礼拝堂の上に15世紀に建てられ、シトー修道会の僧院として使用された。聖母マリアに捧げられ、1710年に改装され現在の姿となっている。
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鐘楼が開館するまで、時間をつぶそうと教会右側にある路地を南に向かう。
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50メートルほど先の左側に営業しているベーカリーショップ(El Buen Gusto)があった。
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小腹が空いたので、店内で、巡礼者のシンボル帆立貝をあしらったパイ生地のコンフィチュールを食べながらコーヒーを飲んだ。


食後、再び広場に戻ると、開館していたので階段を上り鐘室まで上った。最上部の尖塔を支える8本のアーチの間に、1メートルほどの高さの鐘がそれぞれ、計8基取り付けられており、その周囲の欄干を取り付けた狭い通路から360度の眺望を楽しむことができる。
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鐘楼は、高さ70メートル、底辺9メートルで、ラ リオハでは最も高い塔である。ところで、聖堂の本体から分離され独立した塔は、スペインでも数少ない例の一つとのこと、単体設計の理由は、砂質の土壌で、教会と直結する場所に堅固な基礎を作ることができなかったためと言われている。

こちらは東側の眺めで、これから向かうログローニョ方面になる。街並みはすぐ先で途切れ、平原が続いている。ピレネー山脈までは150キロメートル以上あるので、この場所からは山並みを確認することはできないようだ。
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こちらは西側で、ブルゴス方面の南西側にイベリコ山系の山並みが見える。イベリコ山系とはイベリア半島北東部の山系で、南東側から北西側のブルゴス手前まで連なっている。
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マヨール通り沿いにホタテ貝の東への矢印案内があったので、向かってみる。ホタテ貝は、サンティアゴ デ コンポステーラの巡礼路を歩く巡礼者のシンボルを示すもの。聖ヤコブ(サンティアゴ)が持つ杖にホタテ貝が付いていたことや、聖ヤコブの生家が漁師でホタテ貝を家紋としていたなどを由来としている。


ホタテ貝を掲げている建物は、巡礼者に一夜の宿を提供してくれる「アルベルゲ」(巡礼宿)であることを示している。こちらは、 巡礼者のための無料宿泊所「聖ドミンゴ信徒協会」(Casa de la Cofradia del Santo)」で、先には観光案内所もある。


時刻はまもなく午後6時になるのでログローニョに向け出発した。途中、サント ドミンゴ デ ラ カルサーダから北東に25キロメートルほど行ったエブロ川沿いのブリオネス(Briones)村の外れに、リオハ ワインのディナスティア ヴィヴァンコ (Dinastia Vivanco)のワイナリーとワイン博物館がある。スペインワインで高級ワインの代名詞といえばリオハ ワイン。こちらのワイナリーは2004年完成の近代的な施設だがワインは伝統的な製法で作られており近年人気が高いという。
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ホテルは、街の中心部から北側のエブロ川沿いの「ホテルF&G ログローニョ」にチェックインをした。その後、歩いて旧市街を散策し、午後10時過ぎ、ホテル近くのリストランテ(Tapelia)で遅めの食事を頂く。


店内は、時間が遅いこともあるのか、大変空いていた。
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少し不安があったが、サラダ、クロケータ(コロッケ)、魚介のパエリアを頼んだが、パエリアは、旨味が良く出ており大変美味しかった。


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朝8時、ホテルF&G ログローニョ(Logrono)の部屋から外を眺める。ホテルは、五差路のラウンドアバウトの角地にあり、北向きの道路がピエドラ橋となる。ホテルは、エブロ川沿いから離れているが、部屋から向かい側の建物を見ない様にすると、なかなかの眺望だった。
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半円形アーチが並ぶ石造りのピエドラ橋は、19世紀に建造されたものでログローニョの観光名所の一つである。初代の橋は11世紀に建設され4連アーチに3つの防御タワーがあった。エブロ川は、カンタブリア州フォンティブレを水源とし、カタルーニャ州のエブロ デルタで地中海に注いでおり、全長は930キロメートル、イベリア半島ではタホ川に次いで2番目に長い川である。

最初に、街のランドマーク、「サンタ マリア デ ラ レドンダ準司教座聖堂」(Concatedral de Santa Maria de la Redonda)に歩いて向かう。ホテルからは南西方向に直線距離で500メートルの距離にあり、東西に伸びるポルタレス通り(Portales)沿いにある。この通りは、旧市街中心の華やかなメインストリートで、サンティアゴ デ コンポステーラの巡礼路でもある(ログローニョ~サンティアゴ デ コンポステーラ間は、約600キロメートル)。通りを歩くと、すぐに前方右側に巨大な尖塔が見えてきた。
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前身の教会は12世紀に建てられたが、その後何度か改装が行なわれた。外観はバロック様式をもつ15世紀末のゴシック建築である。ポルタレス通り沿いにある聖堂側面に、入口があり、その上部には、聖母像が飾られている。
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聖堂内の主祭壇は17世紀のもので、中央に聖母子像が、上部には磔刑像が祀られてる。
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聖堂内を見学後、ポルタレス通りを西に歩き、すぐ右手のメルカド広場から振り返ると、


バロック様式のツイン タワーが空高く聳えている。この聖堂の2つの塔は18世紀に建造された。1610年には、この聖堂前の広場で、6人の魔女達が火炙りにされたと言う記録が残っている。
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ここログローニョでは、ラ リオハ州の守護聖人であるサン マテオ(聖マタイ)の日(9月21日)の前後がブドウの収穫期にあたることから、毎年、収穫を祝う祭りが1週間、盛大に催されている。祭りは、旧市街のポルタレス通りを中心に民族舞踊、パレード、各種コンサート、花火大会など様々なイベントが行われる。サン マテオ祭の初日には、豊かな恵みに感謝をして、男性が裸足。。で行う「ブドウ踏み(El pisado de la uva)」が行われ、その最初の果汁を守護神バルバネラ女神(Virgen de Valvanera)にささげる行事が行われる。
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画像出典:ウィキメディア・コモンズ (Wikimedia Commons)

聖堂前のメルカド広場では、リオハ ワインのフリーサービス(試飲)があり、多くの人が群がっていた。世界第3位のワイン生産量を誇るスペインだが、中でも特に上質のワインを提供するリオハ ワインは世界的にも評価が高い。
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こちらでは大ガマでパエリアを作って提供してくれるようだ。
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パエリアが炊き上がりスタッフが合図をかけると、おもむろに観光客が群がってくる。いただいてみたが、昨夜リストランテで食べたパエリアがあまりに美味しかっただけに、申し訳ないが、評価がやや下がる。


しばらくすると軽快な音楽が聞こえ、4メートルほどの背丈のあるヒガンテス(巨人)人形のパレードが始まった。
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バスクの民族衣装に身を包んだ独特な表情をしたおじさんヒガンテスが回転しながら現れたのには、多少引いた。。
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ヒガンテスの周りには、カベスドス(大頭の小人)(こちらも多少引き気味になる。)が自由に歩きまわり愛想を振りまいている。


子供向けに、かなりグロいデザインのアトラクション(滑り台)なども設置されているが、子供たちには抵抗がないようだ。


ホテルまで戻り、こんどはピエドラ橋の手前をエブロ川に沿って東方面に歩き、闘牛場に向かう。
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500メートル歩いた所に「ラ リベーラ闘牛場(Plaza de Toros de La Ribera)」がある。この闘牛場は開閉式のドームもあり2001年オープンの新しい施設とのこと。
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それでは闘牛ショーの一連の流れを見ていく。最初に羽根を付けた主催者がサン マテオ祭を祝って挨拶し、その後、闘牛士を先頭に、本日の出演者が入場し、観客の声援を受けながら行進する。その後ショーがスタートする。3人の闘牛士が2回づつ、計6頭の牛を相手にする。まず、見習い闘牛士の「スバルテルノ」がピンクの布(カポーテ)を持って登場する。
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次に、ロデオスタイルの「ピカドール」が馬上から長槍を投げて牛に刺す。この槍で刺されると血が大量に出るので残酷な印象を感じる。。
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その次に、「バンデリジェーロス(銛打ち)」が2人登場して、短い槍を計6本、牛の背中に刺す。
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最後に、拍手喝采を受け、真打「マタドール」が赤い布(ムレータ)を携えてさっそうと登場する。マタドールは技を駆使し突撃して来る牛の角を紙一重でかわすと、観客は一斉に「オレ」の掛け声を上げる。そして剣を急所に刺してとどめを刺すと、観客は総立ちになり白いハンカチを振ってマタドールの技に拍手喝采する。
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マタドールは観客の拍手喝采に手を上げ答え闘牛ショーは終了する。
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隣に座っていた常連客っぽいお兄さんは、「ボタ デ ヴィーノ(Botas de Vino)」を勧めてくれた。山羊の皮袋の水筒に入ったワインで、飲む際は、出来るだけ顔から離して口に流し込むのが流儀とのこと。下手な手つきに見かねてか、何度もご教示してくれた。その後は、旧市街のバルを梯子してタパスをつまみにリオハ ワインを満喫し、一日を終えた。
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こちらは、ピエドラ橋を渡ったエブロ川左岸から、南側の旧市街を眺めた様子で、橋の袂に建つ4階建てが、2泊した「ホテルF&G ログローニョ」になる。その右隣に見える塔は、12世紀にまで遡るログローニョで最も歴史ある「サン バルトロメ教会」で、右端の尖塔は1130年にカスティーリャ王アルフォンソ7世が自らの宮殿として建てた「サンタ マリア デ パラシオ教会」(Iglesia Santa Maria del Palacio)になる。今朝のエブロ川は穏やかに流れており、見ていて癒される。
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これで、ログローニョとはお別れになる。エブロ川の左岸に沿って延びる国道を西方面に進むと、まもなくブドウ畑の広がる田園地帯が現れる。
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リオハ ワインの産地はラ リオハ州、バスク州アラバ県、ナバーラ州の3つの行政地区にまたがっており、ブドウ栽培地としては、リオハ アルタ、リオハ アラベサ、リオハ バハの3地区に分かれている。
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ここは、リオハ アラベサ地区の「エル シエゴ村(Eltziego)」にあるリオハ最古のワイナリーとされる「マルケス デ リスカル」になる。酸味がしっかりした、エレガントな味わいが特徴のワインで、中でもスペイン王室御用達の長期熟成を得た赤ワインが有名とのこと。敷地内には1858年創業のワイン醸造所と、グッゲンハイム美術館(ビルバオ)を設計したアメリカ人建築家フランク ゲイリーによる銀色に輝き波打つ屋根が印象的なホテルがある。ミシュラン星付きのレストラン、スパ、ホールなどの施設も完備されており、多くの有名人も訪れる。
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次に、ログローニョから東に40キロメートル行った、サンティアゴ デ コンポステーラ巡礼路沿いの「イラチェ村(irache)」に寄った。巡礼路が通る村には、巡礼者に一杯のワインを提供する「ワインの泉」がある。ここは「イラーチェ酒造」(bodegas irache)による奉仕事業で、工場の壁面を利用し、巡礼者に無料でワインと水を提供している。
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ワインの泉は、サンティアゴ通りと名付けられた通り沿いの開錠された鉄柵の奥にあり、誰でも気軽に入ることができる。壁面には、帆立貝のデザインがあしらわれた蛇口が2つある。向かって左がワインで、右がアクア(水)と表示されている。コップは置かれていないため、コップは持参する必要がある。


味はヌーヴォーを思わせる出来立てワインで、やや酸味が前面にでている印象だった。有難く頂戴したが、利用する人が多かったことから、この善意の奉仕がいつまで続けられるのだろうかと少し心配になった。。イラチェだけでなく、巡礼路が通る町や村には巡礼事務所や、食事等も提供される無料の宿泊所があるが、実際のところ、地元の多くの人々の奉仕で成り立っているのが実情と言われている。
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(2008.9.22~24)
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