ヘリタンス カンダラマで朝を迎える。今日は、ポロンナルワの遺跡地区に向かうことにしている。11日にゴールをスタートし、聖地キャンディ、ダンブッラの黄金寺院、古都シーギリヤと巡って来たが、残るは、古都ポロンナルワと聖地アヌラーダプラである。ちなみに、南のキャンディ、北のアヌラーダプラ、東のポロンナルワの3都市を結んだ三角形の内側は歴史的な遺跡群が残る地域として「文化三角地帯」と言われている。
窓の外は、一面木々に覆われており、森の中にいるようだ。ヘリタンス カンダラマは、スリランカを代表する建築家ジェフリー バワ氏設計のホテルである。
ホテルのレストランに行く。朝のレストラン会場は、周囲の大きな窓から降り注ぐ木漏れ日が清々しく、心地よい雰囲気である。また、広いテラスには、調理人が配置された屋台なども設置され、大変豪華なブッフェとなっている。
まずは腹ごしらえ。
湖畔側の窓際のテーブル席に陣取っていると、窓の外の木々には、次々と猿(ハイイロオナガザル)が現れる。。
そのカンダラマ湖(貯水湖)は、この時期は湖面が低く、緑の平原が広がっている。遠くには朝靄に霞むシーギリヤ ロックと、その北側のピドゥランガラ ロックを同時に望める。
朝食を終え、ガイドの車でホテルを出発し、1時間半ほどでポロンナルワ遺跡に到着した。時間は午前10時を過ぎたところ。古都ポロンナルワは、宮殿や寺院などといった様々な遺跡によって構成されており、最初に中心部から2キロメートルほど南のポトグル ヴィハーラ寺院近くにある石立像の見学から始める。
パラークラマ サムドラ貯水湖の東湖畔で、南北に延びる通り沿いにある駐車スペースから車を下り、北東方面に100メートルほど歩いて行くと、なだらかな坂の上に、トタン屋根で覆われ、大きな岩から彫り出された立像がポツン。。と立っている。彫像の高さは約4メートル、腰布をまとい、上半身は裸で、立派な髭を蓄え、両手で書物(貝葉の経典)を広げている。ポロンナルワを発展させたシンハラ王朝パラークラマ バーフ1世(在位:1153~1186)と言われている。
もともと、シンハラ王朝の都はアヌラーダプラにあったが、インド亜大陸からの侵略に絶えず悩まされていたことから、11世紀初頭のヴィジャヤバーフ王の治世に、東南およそ80キロメートル離れたこのポロンナルワの地に遷都している。王は、灌漑設備を回復させ、国の再建に努め、貿易を推奨し、また、仏歯を納める寺院を建立し、仏歯祭を実施、ミャンマー王からの援助をもとに高僧を招いて仏教の普及に力を注いだ。
しかし、その後、後継者争いが起こり、国土の平和が乱れるが、1153年、パラークラマ バーフ1世により、再び平和がもたらされる。王は都の発展に努めたことから、交易と農業が栄え、ポロンナルワを中心にシンハラ王朝は黄金時代を迎えることとなる。また仏教界でも、マハー ヴィハーラ(大寺派)、アバヤギリ ヴィハーラ(無畏山寺派)、ジェータヴァナ ヴィハーラ(祇多林寺派)の三派による対立を、王は仏教界の改革を推し進め、1165年には、マハー ヴィハーラ(大寺派)に統一している。
パラークラマ サムドラ貯水湖(水路で接続された5つの貯水湖(2400ヘクタール)で構成)を最初に建設したのもパラークラマ バーフ1世で、現在も周辺の人々の生活を支えており、スリランカでは歴史上冠たる王として尊敬されている。その貯水湖の東湖畔を通り、次に、ポロンナルワの遺跡地区の中央部に向かう。
最も大きい貯水湖(カラハガラ タンク)の北側に隣接する2番目に大きい貯水湖(ベンディウェワ)の東湖畔に、ニッサンカ マーラ1世(在位:1187~1196)の宮殿跡が残されている。ニッサンカ マーラ1世は、南インドのカリンガ王朝出身でパラークラマ バーフ1世の次に王位を継いだが、南インドからの度重なる侵略などから、王の死後、ポロンナルワは衰退の一歩を辿ることになる。
湖畔沿いの通りの、やや内側にある駐車場から石畳の道を歩き、” アイランドパーク " の案内板から公園内に入ると、最初に現れる遺跡が「王の沐浴所(ロイヤルバス)」で、ニッサンカ マーラ1世の入浴場所と言われている。水は、左側(西側)すぐ先の貯水湖からトンネルを経由して注ぎこまれ、北側に、浴槽への階段と着替え場所などが残されている。沐浴所は、右側にかけて長い楕円状となり、長軸は25メートルほどの広さがある。
王の沐浴所から左に回り込んだ北隣が、ニッサンカ マーラ1世の「宮殿跡」だが、横長の敷地に煉瓦積みの基礎部分だけが残っている。その北隣には、南北に長い長方形の敷地を持つ2層のひな壇に多くの石柱が並ぶ、ニッサンカ マーラ1世の「評議会室」がある。このエリアは、やや西側に突き出たコブのような半島で、評議会室の北側から西側にかけて湖畔に面している。その湖畔側に壇上への階段がある。
2層のひな壇は、煉瓦の積み重ねで形成されているが、所々、象の姿が刻まれたレリーフがはめ込まれている。
階段を上がると、石柱が並んでおり南奥に大きな石造の獅子像がある。王が座る王座の支えであったと考えられており、獅子のお腹の下にはニッサンカ マーラ1世の碑文が残されている。石柱は、粘土瓦で覆われた屋根を支えていたと言われている。
次に、東隣のパラークラマ バーフ1世の宮殿跡に向かう。王の沐浴所から駐車場に戻ったすぐ先に博物館がある。こちらで遺跡への入場料金を支払うとDVD付のチケット(外国人料金)が渡された。館内には、ポロンナルワからの出土品や遺跡の復元模型などが展示されているが、写真撮影は禁止だった。。博物館を見学後、東側から歩いて大道りを横断した先が「パラークラマ バーフ1世の宮殿跡」への入口になる。こちらは、入口を入り100メートルほど東に歩いた場所で、北西方向に大きな煉瓦造りの宮殿址が望める。
40メートル四方の広大な二層の基壇が、宮殿の敷地となり東側に壇上に上る階段がある。階段を上ってすぐの門の遺構を過ぎると、前庭が広がり、その先の高層の煉瓦壁が宮殿の外観となる。階段からの直線通路は壁の間を通り西に続いている。
宮殿は、当時7階建てのピラミッド状の建物だったという。今は3階部分までの煉瓦造りの壁までしか残っていない。木製の床を支える柱がはめ込まれた跡が残っている。3階までは煉瓦と木を使い、4階より上は木造の宮殿だったと言われている。
東隣には、1055年に建設されたヴィジャヤバーフ王の宮殿址があるが、煉瓦の基礎が残るだけで、遺跡の中央を貫く様に、東西に砂道(見学通路)が続いている。その宮殿址東端の北隣に、3段ひな壇に石柱が並ぶ「閣議場跡」がある。
閣議場の基礎部分には象などのレリーフがある。南北に長い長方形で、北側に獅子像が配された階段があり上ることができる。
階段を上ってみる。壇上には、多くの角柱が残されている。柱の下部には、童子の様なドワーフの浮彫が梁を支える浮彫があり、その上には、草花のモチーフなどが刻まれている。中央やや上部から50センチメートルほどにかけて角面が削り込まれ、内側には、木材が差し込まれていたと思われる穴が開いている。頂部は正方形を背景に、花や壺などの家紋を思わせる浮彫が施されている。
ヴィジャヤバーフ王の宮殿址の南東側は、斜面になり6メートルほど低い場所に、王族が使用するために作られた沐浴場がある。直径12メートルほどの矩形で、周囲は3層で形成されている。宮殿址のエリアからは階段で直接浴槽まで到着できる。
水の注ぎ口は鰐の口の形をしており、南側を流れる、湖から引き込まれた運河からの水がトンネルを通じて流れ込む様に設計されている。
パラークラマ バーフ1世の宮殿跡の北側から車に乗り、遺跡内の道を600メートルほど北に行くと、駐車場があり、左側にやや急な階段がある。上り終えた先は、所々に柱と基壇が残る入場門(Gate House)で、その先から視界が開け「クワドラングル(四辺形)遺跡公園」(11の遺跡)が広がっている。
入場門からは、東西にメイン通り(砂道)が延びており、すぐ左側には、クワドラングルで最も目を引く円形の建物「ワタダーゲ(Vatadage)」がある。こちらは、周囲を歩き南西側から眺めた様子である。ワタダーゲは、1メートルほどの高さの円形基壇上に更に2層あり、その上に柱が一定間隔で並ぶ欄楯(らんじゅん)が取り囲み、内側に6メートルほどの高さの煉瓦塀が築かれている。
シンハラ王朝パラークラマ バーフ1世が、仏陀の歯を祀るために建てた説や、ニッサンカ マーラ1世が、仏陀が使用していた応量器を納めるために建てた説などがある。いずれにせよスリランカでは、最も保存状態の良い仏教遺跡である。
メイン通り側の北入口から数段の階段を上りまっすぐ進むと、円形基壇のプラットフォームに到着する。周囲は、広いスペースで、内側の壇まで4メートルほど幅がある。
内側壇の一層目には柱と獅子が、二層目には柱とドワーフがコーニスを支える姿の浮彫が連続して施されている。その上の欄楯は花文様の浮彫となっている。
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プラットフォームの北面からは、上部の仏陀像に向けて階段が続いているが、東西南面にも、同様の階段が設置されている。
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それぞれ階段の手前には、ムーンストーン(サンダカダパハナ)と呼ばれる半円状の浮彫がある。これはスリランカ建築の特徴の一つで、寺院など神聖な場所の階段下に設置されるが、信者が入場前に身を清める意味が込められている。こちらには、外周から縁取りを挟みながら、唐草文様、アヒル、真中が象、馬、草花文様と浮彫が施されている。
階段の左右には、ガードストーン(守護神像)が設置されている。聖域への悪魔の侵入を防ぐ目的のもので、7つ頭蛇が頭上を覆い、足元には2人の小人(ガナ)を配し、吉祥壺を捧げた姿であらわされている。
数多くの童子の様なドワーフの浮彫が施された階段の間(蹴上げ)を見ながら、最上部に上ると、中央には、煉瓦を積み重ねた饅頭形の覆鉢(仏塔)があり、東西南北の4体の仏陀坐像(1体は破損)が取り囲んでいる。仏像は高さ1.5メートルで、0.86メートルの高さの台座に座っている。半跏趺坐に禅定印、衣は薄手で偏袒右肩で、どの坐像も、何度も修復された痕がみられる。
周囲の煉瓦壁は76センチメートルの厚さがあり、内側には壁画で飾られていた。仏陀坐像との間は繞道で、右繞しストゥーパ(仏塔)を礼拝することができる。足元に残る柱の基礎は、当時、覆屋が存在していた名残である。
ワタダーゲへの入口と対となるメイン通りの北隣には「ハタダーゲ(六十聖堂)」(Hatadage)(60日間で建てられた意味)の入口門がある。周囲は、幅27メートル×奥行き37メートルの外壁で囲まれ、2階建て構造だった。12世紀、ニッサンカ マーラ1世により建てられた仏歯寺跡で、仏歯は2階に安置されていたと考えられている。門を入ると、王をたたえる碑文が残されている。
門を入ると前庭で、先に見えるムーンストーンのある階段から本殿となり、本堂中央に花崗岩から彫り出された3体の仏像(中央が2.7メートル、左右が2.3メートル)が安置されている。本堂は上部が木造で瓦葺きの屋根があった。
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ハタダーゲの先隣り(西)にあるのが「アタダーゲ(八聖堂)」(Atadage)(8日間で建てられた意味)で、11 世紀ヴィジャヤバーフ王により建てられた唯一現存する建物とされる。仏歯寺を守ることを命じた碑文があり、ポロンナルワ最初の仏歯寺跡ともされている。こちらは、ムーンストーンを始め、アヌラーダプラで使用した部材を移設して、急ぎ建設されたと言われている。
敷地内には54本の柱が残されており、長年の雨風にさらされ、表面部分に白華が浮き出るなどしているが、細かい装飾は残されている。特に入口を入った左側の石柱が素晴らしい。小人が柱の最下部で吉祥の壺を両手で持ち上げ、その壺から蓮華が出ており、その蓮華が円形にとぐろを巻き、円形内にも人物が彫りこまれている。仏歯は、 2 階に安置されていたと考えられており、今も階段の一部が残っている。奥の部屋には仏陀像が3体あったが、現在は中央の1体のみが残っている。
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アタダーゲと対となるメイン通りの南側(ワタダーゲの先隣り(西))には、わずかな基礎の遺構に、小仏像(弥勒菩薩とも言われる)が建っている。大寺派以外の二派は大乗仏教や密教を取り入れていたため、その当時の遺物かもしれない。そして、その先右側に「菩提樹跡」と、奥にドームが印象的な「トゥーパーラーマ」(Thuparama)が望める。
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小仏像が立つ遺構の右隣(西側)にはニッサンカ マーラ1世により建てられた「ラター マンダパヤ」(Nissanka Latha Mandapaya)がある。高台の石の上の中央に破損した小さな仏塔があり、周囲を曲線的な形をした高さ2.54メートルの8本の柱が並んでいる。これは風に揺れる蓮の茎をかたどったものとされ、この場所で王が僧の唱える読経を聞いていたと言われる。東側に門があり、周囲は石の手すりで囲まれている。
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小仏像が立つ遺構と、西隣のラター マンダパヤとの間を歩いて「トゥーパーラーマ」に向かう。すぐ右側にある遺構が「菩提樹跡」になる。
そのすぐ先が「トゥーパーラーマ」になる。煉瓦と漆喰で作られた仏堂で、ポロンナルワで最も保存状態の良い建物の一つと言われている。
この建物の特徴は円天井とアーチである。かっては正面に煉瓦製の仏像があり、上の小窓から陽光が入り、仏像の目に入れた宝石が光る仕組みになっていた。しかし宝石は略奪され、仏像も破壊されたという。
現在は7世紀の仏像が数体残っているだけである。石灰石に炭酸マグネシウムが多く含まれているドロマイトという岩で彫られており、光が当たるとキラキラ光る。
まもなく午前12時半になる。クワドラングル遺跡は、最後に、メイン通りの入場門(Gate House)手前まで戻った北側にある「ガルポタ」(石の本)を見学する。ヤシの葉の本の形をした石碑で、重さ25トン、長さ9メートル、幅1.5メートル、厚さ44~46センチメートルの大きさがある。ニッサンカ マーラ1世の命で、100キロメートル離れたミヒンタレーから巨石が運ばれ、文字が刻まれた。王への称賛や、近隣諸国との関係など当時の社会情勢が記録されている。
すぐ北東側となるクワドラングル遺跡の敷地の端に、7階建てのピラミッド状の「サトゥマハル プラサーダ」がある。タイから来た建築士により建てられたもの。ところどころ穴が開いており、守衛用の塔だったとも言われるが、その用途はよくわかっていない。
クワドラングル遺跡を出て、1.5キロメートルほど北上すると、左手に見えてくるのが「ランコトゥ ヴィハーラ(Rankoth Vehera)」である。12世紀、ニッサンカ マーラ1世により建てられたもので、正方形の基壇の直径は170メートル、高さ33メートルあり、ポロンナルワでは最大の大きさ(スリランカ国内では5番目)を誇っている。ランコトゥは、金の尖塔を意味し、当時は尖塔の部分が金で覆われていた。
次に、本日のメインとも言える「ガル ヴィハーラ寺院」に向かう。ランコトゥ ヴィハーラから、更に700メートルほど北に向かい、突き当りを左折した先の駐車場から歩いて行く。ポロンナルワ遺跡の北にあることから「北の僧院」とも呼ばれている。
駐車場から、歩行者専用通路を200メートルほど歩くと、左前方に、鉄骨スレート屋根で覆われた石造群が見えてくる。横広の一塊の花崗岩から切り出された石像が、手前から、坐像、窟院、立像、涅槃像の順番に並んでいる。スリランカ仏教小史には、ヴィッジャーダラ(呪術師)窟、ニシンナパティマー(座像)窟、ニパンナパティマー(臥像)窟と、3つの窟院を造営したとの記述がある。
こちらは右端の涅槃像で、約14メートルの大きさがある。流線型のなだらかな姿態で、まさに今涅槃に入ろうとしている姿をしている。頭の下の枕の模様は太陽のシンボルである。
左右の足が前後にずれているのは、涅槃像特有の姿と言われている。
台座はなく、やや薄手の岩の上に横たわっている。もともと専用の屋根があったらしく背後に穴が数か所あいている。鉄骨スレート屋根は、石像の損傷・風化を防止する目的と思われるが、やや粗末な印象で景観を損ねている。
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涅槃像に向かって左手には高さ6.9メートルの巨大な立像が切り出されている。仏陀像か仏弟子のアーナンダ像のいずれか見解が異なり論争が続いている。
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仏陀説は、目元と胸の上で腕を組む姿が、仏陀の深い情けが伝わってくるためと言い、アーナンダ説は、仏陀が涅槃に入り、悲しみに暮れている姿とのこと。しかし、胸の前で両手を交差する姿は珍しい。ダンブッラの石窟で、やや近い印の姿の立像を見たが、あまり例がないかもしれない。いずれにせよ、岩塊にある自然の縞模様が変化に富み、微妙な趣をもたらせており、まさに傑作といえる大変素晴らしい像である。
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次に窟院があり、金網の中に厳重に管理されている等身大の仏陀坐像が見える。両脇には梵天像とヴィシュヌ像が彫られている。台座、光背、天蓋、両脇侍全てが、岩をくり抜いて制作されている。仏陀の表情、全体的なバランス、どれをとっても圧巻である。
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入口すぐ脇の壁面には、僅かに壁画が残っている。上部には白ひげを蓄えたバラモン僧と、下部には宝冠を付けた天人とが描かれている。こちらも見事な作品である。
左端には、高さ4.6メートルの瞑想する仏陀坐像がある。後背の浮彫は浅彫りで怪魚マカラが肩から膝にかけて外向きに表現されているが、坐像にはよくマッチしている。瞑想にふける表情には、洗練さと気高さが同時に伺える。衣褶は二重線で表現されている。台座にも獅子など細かい浮彫が施されている。
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ガル ヴィハーラ寺院の駐車場から、通りの南側には「キリ ヴィハーラ」(キリはミルクの意味)で、漆喰は近年のものだが、700年間ジャングルに覆われていたにも関わらず、剥離することなく、ほとんど当時のまま残っていたとのこと。パラークラマ バーフ1世のサバドラ女王が建てたものと言われている。駐車場から、車に乗り、更に北にある遺跡を目指す。。
ガル ヴィハーラから1キロメートルほど北に位置する「蓮の形をした水槽跡」に到着した。直径8メートルで8段のステップがある。当時は僧の沐浴場だったといわれる。
そしてポロンナルワ遺跡の最北端にあるのが「ティワンカ ピリマゲ寺院」(北院)になる。ティワンカとは体を3つの折り曲げる(三段屈)ポーズを意味している。
この寺院に置かれている仏像は腰と首とが3方向対象に曲がったポーズをしている。残念ながら、頭が失われてしまっている。
この寺院の見どころは内部の美しい壁画にある。ニッサンカ マーラ1世の死後、インド亜大陸による支配を受けたことから、時の王ヴィジャヤバーフ3世はダンバデニヤに遷都し、その後も遷都を繰り返す。ポロンナルワの地を再び復興したのは、1287年に王座についたパラークラマ バーフ3世で、この壁画はその時代に描かれたもの。仏陀の前世の修行(ジャータカ物語(本生話))や仏教の教えなどが壁画として描かれた。
こちらは、三十三天(とう利天)の様子を表したもので、宝冠を身に着けた優美な天人たちが多く描かれている場面である。仏陀が、母マーヤー夫人に法を説くために向かったのが三十三天とされる。
頭上で手をあわせたポーズが何とも印象に残る画である。
尖った宝冠を頂く姿はアプサラスをイメージさせる。保存状態は悪く、かなり劣化しているが、すぐ目の前で、日の光が届く中で見ることができたのは良かった。
以上で、ポロンナルワ遺跡見学は終了である。現在午後2時を過ぎたところ。概ねメインの箇所は見学できお腹も減ったことから昼食を食べにガイドにレストランに連れて行ってもらう。食事をした後はホテル(ヘリタンス カンダラマ)へ帰ることにしている。
ホテルに到着後、日没前にホテルのプールでひと泳ぎしたが、日がかげって寒くなったので、少し泳いで引き上げた。それにしてもプールの水面と遠くカンダラマ湖(人工湖)が重なる景色は雄大さと開放感を感じ何ともいえず気持ちが良かった。
日の入りの時間になった。周囲には人工物も人の姿もなく、カンダラマ湖の先に夕日が沈む雄大な景色を見つめ続けた。まさに、絶景!美しい。。
午後8時にレストランで夕食を食べに向かった。昨日同様にブッフェ形式だが、メニュー内容は多少異なっていた。今夜もついつい取りすぎてお腹が一杯になる。ジェフリーバウワー設計のこのホテルは、広々としたオープンスペースが多用され、どの場所にいても、解放感があり、心地よく贅沢な気分にさせてくれる。
(2012.9.15)
窓の外は、一面木々に覆われており、森の中にいるようだ。ヘリタンス カンダラマは、スリランカを代表する建築家ジェフリー バワ氏設計のホテルである。
ホテルのレストランに行く。朝のレストラン会場は、周囲の大きな窓から降り注ぐ木漏れ日が清々しく、心地よい雰囲気である。また、広いテラスには、調理人が配置された屋台なども設置され、大変豪華なブッフェとなっている。
まずは腹ごしらえ。
湖畔側の窓際のテーブル席に陣取っていると、窓の外の木々には、次々と猿(ハイイロオナガザル)が現れる。。
そのカンダラマ湖(貯水湖)は、この時期は湖面が低く、緑の平原が広がっている。遠くには朝靄に霞むシーギリヤ ロックと、その北側のピドゥランガラ ロックを同時に望める。
朝食を終え、ガイドの車でホテルを出発し、1時間半ほどでポロンナルワ遺跡に到着した。時間は午前10時を過ぎたところ。古都ポロンナルワは、宮殿や寺院などといった様々な遺跡によって構成されており、最初に中心部から2キロメートルほど南のポトグル ヴィハーラ寺院近くにある石立像の見学から始める。
パラークラマ サムドラ貯水湖の東湖畔で、南北に延びる通り沿いにある駐車スペースから車を下り、北東方面に100メートルほど歩いて行くと、なだらかな坂の上に、トタン屋根で覆われ、大きな岩から彫り出された立像がポツン。。と立っている。彫像の高さは約4メートル、腰布をまとい、上半身は裸で、立派な髭を蓄え、両手で書物(貝葉の経典)を広げている。ポロンナルワを発展させたシンハラ王朝パラークラマ バーフ1世(在位:1153~1186)と言われている。
もともと、シンハラ王朝の都はアヌラーダプラにあったが、インド亜大陸からの侵略に絶えず悩まされていたことから、11世紀初頭のヴィジャヤバーフ王の治世に、東南およそ80キロメートル離れたこのポロンナルワの地に遷都している。王は、灌漑設備を回復させ、国の再建に努め、貿易を推奨し、また、仏歯を納める寺院を建立し、仏歯祭を実施、ミャンマー王からの援助をもとに高僧を招いて仏教の普及に力を注いだ。
しかし、その後、後継者争いが起こり、国土の平和が乱れるが、1153年、パラークラマ バーフ1世により、再び平和がもたらされる。王は都の発展に努めたことから、交易と農業が栄え、ポロンナルワを中心にシンハラ王朝は黄金時代を迎えることとなる。また仏教界でも、マハー ヴィハーラ(大寺派)、アバヤギリ ヴィハーラ(無畏山寺派)、ジェータヴァナ ヴィハーラ(祇多林寺派)の三派による対立を、王は仏教界の改革を推し進め、1165年には、マハー ヴィハーラ(大寺派)に統一している。
パラークラマ サムドラ貯水湖(水路で接続された5つの貯水湖(2400ヘクタール)で構成)を最初に建設したのもパラークラマ バーフ1世で、現在も周辺の人々の生活を支えており、スリランカでは歴史上冠たる王として尊敬されている。その貯水湖の東湖畔を通り、次に、ポロンナルワの遺跡地区の中央部に向かう。
最も大きい貯水湖(カラハガラ タンク)の北側に隣接する2番目に大きい貯水湖(ベンディウェワ)の東湖畔に、ニッサンカ マーラ1世(在位:1187~1196)の宮殿跡が残されている。ニッサンカ マーラ1世は、南インドのカリンガ王朝出身でパラークラマ バーフ1世の次に王位を継いだが、南インドからの度重なる侵略などから、王の死後、ポロンナルワは衰退の一歩を辿ることになる。
湖畔沿いの通りの、やや内側にある駐車場から石畳の道を歩き、” アイランドパーク " の案内板から公園内に入ると、最初に現れる遺跡が「王の沐浴所(ロイヤルバス)」で、ニッサンカ マーラ1世の入浴場所と言われている。水は、左側(西側)すぐ先の貯水湖からトンネルを経由して注ぎこまれ、北側に、浴槽への階段と着替え場所などが残されている。沐浴所は、右側にかけて長い楕円状となり、長軸は25メートルほどの広さがある。
王の沐浴所から左に回り込んだ北隣が、ニッサンカ マーラ1世の「宮殿跡」だが、横長の敷地に煉瓦積みの基礎部分だけが残っている。その北隣には、南北に長い長方形の敷地を持つ2層のひな壇に多くの石柱が並ぶ、ニッサンカ マーラ1世の「評議会室」がある。このエリアは、やや西側に突き出たコブのような半島で、評議会室の北側から西側にかけて湖畔に面している。その湖畔側に壇上への階段がある。
2層のひな壇は、煉瓦の積み重ねで形成されているが、所々、象の姿が刻まれたレリーフがはめ込まれている。
階段を上がると、石柱が並んでおり南奥に大きな石造の獅子像がある。王が座る王座の支えであったと考えられており、獅子のお腹の下にはニッサンカ マーラ1世の碑文が残されている。石柱は、粘土瓦で覆われた屋根を支えていたと言われている。
次に、東隣のパラークラマ バーフ1世の宮殿跡に向かう。王の沐浴所から駐車場に戻ったすぐ先に博物館がある。こちらで遺跡への入場料金を支払うとDVD付のチケット(外国人料金)が渡された。館内には、ポロンナルワからの出土品や遺跡の復元模型などが展示されているが、写真撮影は禁止だった。。博物館を見学後、東側から歩いて大道りを横断した先が「パラークラマ バーフ1世の宮殿跡」への入口になる。こちらは、入口を入り100メートルほど東に歩いた場所で、北西方向に大きな煉瓦造りの宮殿址が望める。
40メートル四方の広大な二層の基壇が、宮殿の敷地となり東側に壇上に上る階段がある。階段を上ってすぐの門の遺構を過ぎると、前庭が広がり、その先の高層の煉瓦壁が宮殿の外観となる。階段からの直線通路は壁の間を通り西に続いている。
宮殿は、当時7階建てのピラミッド状の建物だったという。今は3階部分までの煉瓦造りの壁までしか残っていない。木製の床を支える柱がはめ込まれた跡が残っている。3階までは煉瓦と木を使い、4階より上は木造の宮殿だったと言われている。
東隣には、1055年に建設されたヴィジャヤバーフ王の宮殿址があるが、煉瓦の基礎が残るだけで、遺跡の中央を貫く様に、東西に砂道(見学通路)が続いている。その宮殿址東端の北隣に、3段ひな壇に石柱が並ぶ「閣議場跡」がある。
閣議場の基礎部分には象などのレリーフがある。南北に長い長方形で、北側に獅子像が配された階段があり上ることができる。
階段を上ってみる。壇上には、多くの角柱が残されている。柱の下部には、童子の様なドワーフの浮彫が梁を支える浮彫があり、その上には、草花のモチーフなどが刻まれている。中央やや上部から50センチメートルほどにかけて角面が削り込まれ、内側には、木材が差し込まれていたと思われる穴が開いている。頂部は正方形を背景に、花や壺などの家紋を思わせる浮彫が施されている。
ヴィジャヤバーフ王の宮殿址の南東側は、斜面になり6メートルほど低い場所に、王族が使用するために作られた沐浴場がある。直径12メートルほどの矩形で、周囲は3層で形成されている。宮殿址のエリアからは階段で直接浴槽まで到着できる。
水の注ぎ口は鰐の口の形をしており、南側を流れる、湖から引き込まれた運河からの水がトンネルを通じて流れ込む様に設計されている。
パラークラマ バーフ1世の宮殿跡の北側から車に乗り、遺跡内の道を600メートルほど北に行くと、駐車場があり、左側にやや急な階段がある。上り終えた先は、所々に柱と基壇が残る入場門(Gate House)で、その先から視界が開け「クワドラングル(四辺形)遺跡公園」(11の遺跡)が広がっている。
入場門からは、東西にメイン通り(砂道)が延びており、すぐ左側には、クワドラングルで最も目を引く円形の建物「ワタダーゲ(Vatadage)」がある。こちらは、周囲を歩き南西側から眺めた様子である。ワタダーゲは、1メートルほどの高さの円形基壇上に更に2層あり、その上に柱が一定間隔で並ぶ欄楯(らんじゅん)が取り囲み、内側に6メートルほどの高さの煉瓦塀が築かれている。
シンハラ王朝パラークラマ バーフ1世が、仏陀の歯を祀るために建てた説や、ニッサンカ マーラ1世が、仏陀が使用していた応量器を納めるために建てた説などがある。いずれにせよスリランカでは、最も保存状態の良い仏教遺跡である。
メイン通り側の北入口から数段の階段を上りまっすぐ進むと、円形基壇のプラットフォームに到着する。周囲は、広いスペースで、内側の壇まで4メートルほど幅がある。
内側壇の一層目には柱と獅子が、二層目には柱とドワーフがコーニスを支える姿の浮彫が連続して施されている。その上の欄楯は花文様の浮彫となっている。
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プラットフォームの北面からは、上部の仏陀像に向けて階段が続いているが、東西南面にも、同様の階段が設置されている。
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それぞれ階段の手前には、ムーンストーン(サンダカダパハナ)と呼ばれる半円状の浮彫がある。これはスリランカ建築の特徴の一つで、寺院など神聖な場所の階段下に設置されるが、信者が入場前に身を清める意味が込められている。こちらには、外周から縁取りを挟みながら、唐草文様、アヒル、真中が象、馬、草花文様と浮彫が施されている。
階段の左右には、ガードストーン(守護神像)が設置されている。聖域への悪魔の侵入を防ぐ目的のもので、7つ頭蛇が頭上を覆い、足元には2人の小人(ガナ)を配し、吉祥壺を捧げた姿であらわされている。
数多くの童子の様なドワーフの浮彫が施された階段の間(蹴上げ)を見ながら、最上部に上ると、中央には、煉瓦を積み重ねた饅頭形の覆鉢(仏塔)があり、東西南北の4体の仏陀坐像(1体は破損)が取り囲んでいる。仏像は高さ1.5メートルで、0.86メートルの高さの台座に座っている。半跏趺坐に禅定印、衣は薄手で偏袒右肩で、どの坐像も、何度も修復された痕がみられる。
周囲の煉瓦壁は76センチメートルの厚さがあり、内側には壁画で飾られていた。仏陀坐像との間は繞道で、右繞しストゥーパ(仏塔)を礼拝することができる。足元に残る柱の基礎は、当時、覆屋が存在していた名残である。
ワタダーゲへの入口と対となるメイン通りの北隣には「ハタダーゲ(六十聖堂)」(Hatadage)(60日間で建てられた意味)の入口門がある。周囲は、幅27メートル×奥行き37メートルの外壁で囲まれ、2階建て構造だった。12世紀、ニッサンカ マーラ1世により建てられた仏歯寺跡で、仏歯は2階に安置されていたと考えられている。門を入ると、王をたたえる碑文が残されている。
門を入ると前庭で、先に見えるムーンストーンのある階段から本殿となり、本堂中央に花崗岩から彫り出された3体の仏像(中央が2.7メートル、左右が2.3メートル)が安置されている。本堂は上部が木造で瓦葺きの屋根があった。
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ハタダーゲの先隣り(西)にあるのが「アタダーゲ(八聖堂)」(Atadage)(8日間で建てられた意味)で、11 世紀ヴィジャヤバーフ王により建てられた唯一現存する建物とされる。仏歯寺を守ることを命じた碑文があり、ポロンナルワ最初の仏歯寺跡ともされている。こちらは、ムーンストーンを始め、アヌラーダプラで使用した部材を移設して、急ぎ建設されたと言われている。
敷地内には54本の柱が残されており、長年の雨風にさらされ、表面部分に白華が浮き出るなどしているが、細かい装飾は残されている。特に入口を入った左側の石柱が素晴らしい。小人が柱の最下部で吉祥の壺を両手で持ち上げ、その壺から蓮華が出ており、その蓮華が円形にとぐろを巻き、円形内にも人物が彫りこまれている。仏歯は、 2 階に安置されていたと考えられており、今も階段の一部が残っている。奥の部屋には仏陀像が3体あったが、現在は中央の1体のみが残っている。
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アタダーゲと対となるメイン通りの南側(ワタダーゲの先隣り(西))には、わずかな基礎の遺構に、小仏像(弥勒菩薩とも言われる)が建っている。大寺派以外の二派は大乗仏教や密教を取り入れていたため、その当時の遺物かもしれない。そして、その先右側に「菩提樹跡」と、奥にドームが印象的な「トゥーパーラーマ」(Thuparama)が望める。
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小仏像が立つ遺構の右隣(西側)にはニッサンカ マーラ1世により建てられた「ラター マンダパヤ」(Nissanka Latha Mandapaya)がある。高台の石の上の中央に破損した小さな仏塔があり、周囲を曲線的な形をした高さ2.54メートルの8本の柱が並んでいる。これは風に揺れる蓮の茎をかたどったものとされ、この場所で王が僧の唱える読経を聞いていたと言われる。東側に門があり、周囲は石の手すりで囲まれている。
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小仏像が立つ遺構と、西隣のラター マンダパヤとの間を歩いて「トゥーパーラーマ」に向かう。すぐ右側にある遺構が「菩提樹跡」になる。
そのすぐ先が「トゥーパーラーマ」になる。煉瓦と漆喰で作られた仏堂で、ポロンナルワで最も保存状態の良い建物の一つと言われている。
この建物の特徴は円天井とアーチである。かっては正面に煉瓦製の仏像があり、上の小窓から陽光が入り、仏像の目に入れた宝石が光る仕組みになっていた。しかし宝石は略奪され、仏像も破壊されたという。
現在は7世紀の仏像が数体残っているだけである。石灰石に炭酸マグネシウムが多く含まれているドロマイトという岩で彫られており、光が当たるとキラキラ光る。
まもなく午前12時半になる。クワドラングル遺跡は、最後に、メイン通りの入場門(Gate House)手前まで戻った北側にある「ガルポタ」(石の本)を見学する。ヤシの葉の本の形をした石碑で、重さ25トン、長さ9メートル、幅1.5メートル、厚さ44~46センチメートルの大きさがある。ニッサンカ マーラ1世の命で、100キロメートル離れたミヒンタレーから巨石が運ばれ、文字が刻まれた。王への称賛や、近隣諸国との関係など当時の社会情勢が記録されている。
すぐ北東側となるクワドラングル遺跡の敷地の端に、7階建てのピラミッド状の「サトゥマハル プラサーダ」がある。タイから来た建築士により建てられたもの。ところどころ穴が開いており、守衛用の塔だったとも言われるが、その用途はよくわかっていない。
クワドラングル遺跡を出て、1.5キロメートルほど北上すると、左手に見えてくるのが「ランコトゥ ヴィハーラ(Rankoth Vehera)」である。12世紀、ニッサンカ マーラ1世により建てられたもので、正方形の基壇の直径は170メートル、高さ33メートルあり、ポロンナルワでは最大の大きさ(スリランカ国内では5番目)を誇っている。ランコトゥは、金の尖塔を意味し、当時は尖塔の部分が金で覆われていた。
次に、本日のメインとも言える「ガル ヴィハーラ寺院」に向かう。ランコトゥ ヴィハーラから、更に700メートルほど北に向かい、突き当りを左折した先の駐車場から歩いて行く。ポロンナルワ遺跡の北にあることから「北の僧院」とも呼ばれている。
駐車場から、歩行者専用通路を200メートルほど歩くと、左前方に、鉄骨スレート屋根で覆われた石造群が見えてくる。横広の一塊の花崗岩から切り出された石像が、手前から、坐像、窟院、立像、涅槃像の順番に並んでいる。スリランカ仏教小史には、ヴィッジャーダラ(呪術師)窟、ニシンナパティマー(座像)窟、ニパンナパティマー(臥像)窟と、3つの窟院を造営したとの記述がある。
こちらは右端の涅槃像で、約14メートルの大きさがある。流線型のなだらかな姿態で、まさに今涅槃に入ろうとしている姿をしている。頭の下の枕の模様は太陽のシンボルである。
左右の足が前後にずれているのは、涅槃像特有の姿と言われている。
台座はなく、やや薄手の岩の上に横たわっている。もともと専用の屋根があったらしく背後に穴が数か所あいている。鉄骨スレート屋根は、石像の損傷・風化を防止する目的と思われるが、やや粗末な印象で景観を損ねている。
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涅槃像に向かって左手には高さ6.9メートルの巨大な立像が切り出されている。仏陀像か仏弟子のアーナンダ像のいずれか見解が異なり論争が続いている。
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仏陀説は、目元と胸の上で腕を組む姿が、仏陀の深い情けが伝わってくるためと言い、アーナンダ説は、仏陀が涅槃に入り、悲しみに暮れている姿とのこと。しかし、胸の前で両手を交差する姿は珍しい。ダンブッラの石窟で、やや近い印の姿の立像を見たが、あまり例がないかもしれない。いずれにせよ、岩塊にある自然の縞模様が変化に富み、微妙な趣をもたらせており、まさに傑作といえる大変素晴らしい像である。
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次に窟院があり、金網の中に厳重に管理されている等身大の仏陀坐像が見える。両脇には梵天像とヴィシュヌ像が彫られている。台座、光背、天蓋、両脇侍全てが、岩をくり抜いて制作されている。仏陀の表情、全体的なバランス、どれをとっても圧巻である。
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入口すぐ脇の壁面には、僅かに壁画が残っている。上部には白ひげを蓄えたバラモン僧と、下部には宝冠を付けた天人とが描かれている。こちらも見事な作品である。
左端には、高さ4.6メートルの瞑想する仏陀坐像がある。後背の浮彫は浅彫りで怪魚マカラが肩から膝にかけて外向きに表現されているが、坐像にはよくマッチしている。瞑想にふける表情には、洗練さと気高さが同時に伺える。衣褶は二重線で表現されている。台座にも獅子など細かい浮彫が施されている。
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ガル ヴィハーラ寺院の駐車場から、通りの南側には「キリ ヴィハーラ」(キリはミルクの意味)で、漆喰は近年のものだが、700年間ジャングルに覆われていたにも関わらず、剥離することなく、ほとんど当時のまま残っていたとのこと。パラークラマ バーフ1世のサバドラ女王が建てたものと言われている。駐車場から、車に乗り、更に北にある遺跡を目指す。。
ガル ヴィハーラから1キロメートルほど北に位置する「蓮の形をした水槽跡」に到着した。直径8メートルで8段のステップがある。当時は僧の沐浴場だったといわれる。
そしてポロンナルワ遺跡の最北端にあるのが「ティワンカ ピリマゲ寺院」(北院)になる。ティワンカとは体を3つの折り曲げる(三段屈)ポーズを意味している。
この寺院に置かれている仏像は腰と首とが3方向対象に曲がったポーズをしている。残念ながら、頭が失われてしまっている。
この寺院の見どころは内部の美しい壁画にある。ニッサンカ マーラ1世の死後、インド亜大陸による支配を受けたことから、時の王ヴィジャヤバーフ3世はダンバデニヤに遷都し、その後も遷都を繰り返す。ポロンナルワの地を再び復興したのは、1287年に王座についたパラークラマ バーフ3世で、この壁画はその時代に描かれたもの。仏陀の前世の修行(ジャータカ物語(本生話))や仏教の教えなどが壁画として描かれた。
こちらは、三十三天(とう利天)の様子を表したもので、宝冠を身に着けた優美な天人たちが多く描かれている場面である。仏陀が、母マーヤー夫人に法を説くために向かったのが三十三天とされる。
頭上で手をあわせたポーズが何とも印象に残る画である。
尖った宝冠を頂く姿はアプサラスをイメージさせる。保存状態は悪く、かなり劣化しているが、すぐ目の前で、日の光が届く中で見ることができたのは良かった。
以上で、ポロンナルワ遺跡見学は終了である。現在午後2時を過ぎたところ。概ねメインの箇所は見学できお腹も減ったことから昼食を食べにガイドにレストランに連れて行ってもらう。食事をした後はホテル(ヘリタンス カンダラマ)へ帰ることにしている。
ホテルに到着後、日没前にホテルのプールでひと泳ぎしたが、日がかげって寒くなったので、少し泳いで引き上げた。それにしてもプールの水面と遠くカンダラマ湖(人工湖)が重なる景色は雄大さと開放感を感じ何ともいえず気持ちが良かった。
日の入りの時間になった。周囲には人工物も人の姿もなく、カンダラマ湖の先に夕日が沈む雄大な景色を見つめ続けた。まさに、絶景!美しい。。
午後8時にレストランで夕食を食べに向かった。昨日同様にブッフェ形式だが、メニュー内容は多少異なっていた。今夜もついつい取りすぎてお腹が一杯になる。ジェフリーバウワー設計のこのホテルは、広々としたオープンスペースが多用され、どの場所にいても、解放感があり、心地よく贅沢な気分にさせてくれる。
(2012.9.15)