カズさんの旅たび

 ~歴史、文化、芸術、美食紀行。。

インド・マトゥーラ

2013-03-30 | インド(アーグラ、ニューデリー)
アーグラにあるホテル・ゴパールで朝を迎える。レストランで軽い朝食を食べて屋上に上がり周りを見渡してみると、工事中の建物などが多く、あまり眺めは良くない。しかし、遠方に見えるタージ・マハルは、先日の見学時の印象と合わさり一層美しく見える。


これからマトゥーラに向かうことにしている。マトゥーラは、アーグラから50キロメートルほど北(デリーからは145キロメートルほど南)にあるウッタル・プラデーシュ州の都市で、タージ・マハルのそばを流れるヤムナー川の上流に面している。ここは、紀元前後から2世紀頃にかけて、仏像彫刻が始まった地(インド北西部のガンダーラ地方と同時期に)として知られており、市内にあるマトゥーラ博物館にはクシャーン朝(1世紀~3世紀)からグプタ朝(4世紀~6世紀)時代の仏像を中心に多くの彫像が展示されている。


しかし、インドでのマトゥーラの知名度は仏教彫刻と言うよりヒンドゥ教やジャイナ教の聖地として知られている。ジャイナ教では7人目の祖師スパルスバーナルハの生誕の地として知られ、ヒンドゥ教ではヴィシュヌ神の化身クリシュナの生誕地クリシュナ・ジャナムブーミや、ヤムナー川沿いの寺院など7大聖地の一つとして知られ多くの信者が訪れる。

アーグラを出発して45分ほど過ぎたころ、19号線左側に白い巨大なヒンドゥ教ババ・ジャイ・グルデフ寺院(Baba Jaigurudev Mandir)が見えてきた。この先の交差点を右折するとマトゥーラ中心部に到着する。


運転手(Mr.マノース)は、最初にマトゥーラ市内北部に位置するクリシュナ・ジャナムブーミに案内するという。混雑する市内中心部への交差点を通りすぎ、更に19号線を3キロメートルほど北上して右折した。


しばらく進むと鉄道の踏切が現れた。クリシュナ・ジャナムブーミへは、車を乗り入れることができない為、ここから徒歩になる。線路を横断しながら右側を眺めると遠方にブトシュワー駅(マトゥーラジャンクション駅の次駅)のホームが見える。


目の前に牛が歩いている。インドではどこでも見る光景だが、中々見慣れない。。


通りを進むと、右側に、巨大な貯水池(Potara Kund)が見えてきた。ガート(池や川岸に設置された階段状の親水施設)があることから沐浴や葬礼の場なのだろう。しかし、この時間は少年が魚釣りをしているだけだった。


そろそろ目的地は近いようで、辺りは賑やかな通りになった。


通りの左側に番人の像が立つゲートが見えた。ここが、ヴィシュヌ神の化身クリシュナの生誕地クリシュナ・ジャナムブーミらしい。正門ゲートの上には、叙事詩マハーバーラタで知られる、クリシュナとアルジュナの対話を主題とした二輪戦車(Ratha)像が飾られている。


正門ゲートに向かって右側にセキュリティチェックがある。貴重品以外、カメラも持参禁止で預けさせられた。その後、正面ゲートから入場し坂を上って行く。


坂を上り詰めた先には、クリシュナの生誕地を記念して建てられたバグワット・バワン寺院(セキュリティチェックの更に右側にある3階建ての建物の後方)がある。敷地内はかなり広い。寺院本堂奥には、クリシュナ像が祀られ、広い外陣も設けられており、多くの参拝者で賑わっていた。敷地内にも、クリシュナやヒンドゥ教に関する書物や絵本、画像、彫像などが売られていた。寺院は高台にあり、市内が眺望できるのが良かった。


午前中の参拝はお昼の12時で一旦終了するらしい。40分ほど見学して終了時間の12時に再び正門を出て通りに戻ってきた。この時間、辺りは多くの人で賑わっていた。


通り沿いにも多くのお店が軒を連ねており、やはりヒンドゥ教に関する品々が並んでいる。


その後、午後12時40分に目的地のマトゥーラ博物館に到着したが、休館だった。。運転手(Mr.マノース)が街の人に聞いたところ何やらヒンドゥ教関連の行事が理由で突然休館になったらしい。事前に、運転手の旅行会社に今日は開館しているか確認した際は大丈夫と言っていたため多少の不信感を抱いた。。
合点いかないが、仕方がないので諦めてアーグラに戻ることにした。途中のレストラン昼食(カレー)を食べ、午後3時半頃ホテルに戻った。
************************************

翌朝、午前中の列車に乗って直接ニュー・デリーに戻る予定だったが、マトゥーラ博物館にはどうしても行きたかったので、急遽、運転手を通じて旅行会社に、マトゥーラまでの乗車券と、マトゥーラから乗車して夜にニュー・デリーに戻る乗車券とに変更するように依頼した。昨日の負い目があったのか、すんなり対応してくれた。そして、午前10時28分アーグラ駅発の電車に乗りマトゥーラに向かった。マトゥーラ・ジャンクション駅には、20分遅れの午前11時40分に到着した。


駅からマトゥーラ博物館までは2キロメートルほどだが、今日は荷物も持っての移動のためオートリキシャ(料金:30ルビー)で向かうことにした。


博物館には10分ほどで到着した。多少不安もあったが、入口が開いており安堵した。今日は開館している。入場料45ルビーを払い、入口で荷物を預けてセキュリティチェックを受ける。他には来館者はいないようだ。マトゥーラ博物館は1874年にSir F.S.グロウス(Growse)により建てられた歴史ある政府系の博物館である。


入場してすぐ左側には博物館を代表する「カニシカ王立像(1世紀クシャーン朝、マトゥーラ(マート)出土)」が展示されている。カニシカ王は、1世紀から3世紀頃、中央アジアから北インドにかけて勢力を拡大したイラン系の王朝クシャーン朝の第4代君主カニシカ1世(在位:144年頃~171年頃)のことで、クシャーン朝では最も有名な王として知られ仏教を厚く保護した。
クリックで別ウインドウ開く

像は頭部と両腕とを欠いているが、185センチメートルある巨像だ。右手は剣の上端に乗せ、左手で長剣の柄を握っている。ペルシア風マントをまとい、長靴(足首と踵を結ぶベルト付)を履いた大きい足で大地をしっかりと踏み締める姿には力強さを感じる。正面の衣の裾に沿ってMaharaja rajatiraja devaputro Kanisko(大王、王の王、天子、カニシコ)との銘文がある。カニシカ王立像は、20世紀初頭、マトゥーラ北方のバラモン寺院跡で発見された。
クリックで別ウインドウ開く

こちらには「王座に座るヴィマ・カドフィセス像(1世紀クシャーン朝、マトゥーラ(マート)出土)」が展示されている。像はクシャーン朝第3君主ヴィマ・カドフィセス(在位:90年頃~144年頃)のことで、カニシカ1世の父親で知られている。作品は、頭部を欠き、胸にあてた右手に武器を持つ痕が残されている。足にはカニシカ王立像と同様の大きな長靴を履いており、王座の左右には獅子像が表されている。
クリックで別ウインドウ開く

近くには、同時期制作の見事な獅子像(舌を出している)が展示されている。

「サカ王子のトルソー(1世紀クシャーン朝、マトゥーラ(マート)出土)」。サカとは、BC1世紀の西北インドに興ったスキタイ系のサカ人による諸王朝で、中でもクシャトラパ王国は北西インドからマトゥーラまでを統治した。クシャーン朝の前時代に活躍した。
クリックで別ウインドウ開く

展示室内には空調設備はなく、所々に天井扇や壁取付扇など、最近の日本では見かけなくなった設備がある。こちらは、入館した最初の展示室の奥から入口左側にあるカニシカ王立像方向を眺めた様子である。
クリックで別ウインドウ開く

さて、次にシュンガ朝時代の作品をみてみよう。ところで、シュンガ王朝(BC180年頃~BC68年頃)とは、仏教を保護したアショーカ王(在位:BC268年頃~BC232年頃)で知られるマウリヤ朝(BC317年頃~BC180年頃)の最後の王に仕えたプシャミトラ・シュンガ(在位:BC180年頃~BC144年頃)が、マウリヤ朝を滅ぼし自ら王位に付き創設した王朝である。この時代はインド最初期の仏教美術が栄えた時代とされる。

こちらは「欄楯の女性頭部(BC2世紀、シュンガ朝)」で、このメダリオンには髪を団子状に束ねた女性の頭部を中心に細かい浮彫が施されていることに驚かされる。欄楯とはストゥーパなど周囲の神聖な場所を俗界の地と区別するために設けられた玉垣のことである。
クリックで別ウインドウ開く
シュンガ朝時代の欄楯彫刻では、他にも美しいメダリオンや、仏陀の前世物語(ジャータカ)を題材にした欄楯などが展示されている。

こちらにも、同様の髪型をした女性の胸像(BC1世紀後半、シュンガ朝)が彫られた作品が展示されている。やや歯をかみしめた様な表情で、右手に払子(?)を持っている。
クリックで別ウインドウ開く

こちらは「菩提樹と法輪(BC1世紀、シュンガ朝、マトゥーラ(バラトプル)出土)」。やはり欄楯に彫刻されたもの。仏陀はこの時代までは、菩提樹や法輪など仏の象徴として表現されたため、仏像としてはまだ登場していない。
クリックで別ウインドウ開く

それでは、次にクシャーン朝時代に制作された仏教作品を見ていこう。こちらは「偉大な終焉(great demise)の象徴(1世紀クシャーン朝、マトゥーラ(ヴリンダーヴァン)出土)」と名付けられた作品で、仏陀の涅槃を仏塔(ストゥーパ)で表している。
クリックで別ウインドウ開く

そして、こちらが「菩薩立像(1世紀クシャーン朝、マトゥーラ(マホーリー)出土」とあるが、初期の仏陀像とされている。マトゥーラ仏の特徴である黄班文がある赤色砂岩で造られており、少しわかりにくいが、右肩を露出する偏袒右肩で薄い衣をまとっている。右腕は欠いているが、左手は腰の位置でたくし上げた衣を掴んでいる。近くに同時期(やや後)制作と思われる立像が展示されているが、右手はこの立像と同じく施無畏印(相手に恐れなくてよいと励ます)を結んでいたのかもしれない。
クリックで別ウインドウ開く

足の間の台座には、蓮華の蕾(束?)の様なものが表現されており非常に興味深かった。同様の表現が見られる同時期の立像にもあったので、この時代の様式の一つなのだろう。

像は仰ぎ見るほどに大きい為に頂部は確認できないが、頭に肉髻や額の白毫はないようだ。これほどの巨像が今まで残っていることに驚きを感じる。
クリックで別ウインドウ開く

こちらは「二龍王(ナーガ)による灌水(2世紀マトゥーラ(カンカーリ・ティーラー)出土)」。釈迦族のシュドーダナ王(浄飯王)とマーヤー(摩耶)夫人との間に生まれたシッダールタ王子は、伝説では、生まれてすぐに7歩を歩き、右手で天を、左手で地を指し「天上天下唯我独尊」と唱えたとされるが、この像の右腕は欠けている。そして体格は、幼児と言うより、他のマトゥーラ仏の立像に似ている。
クリックで別ウインドウ開く

そして、こちらは偏袒右肩で結跏趺坐する「仏陀像(1世紀クシャーン朝、マトゥーラ(バイパス)出土)」。両腕は欠いているが、丸顔で唇が厚く柔らかい表情は、先ほどの立像と良く似ている。そして頭部には肉髻がある。大きい光輪は良く残っており、半円形状の弧を連ねた連弧紋様がとりまいている。
クリックで別ウインドウ開く
近くには、頭部を欠いているが、同じ1世紀制作の偏袒右肩で結跏趺坐をする仏陀像や、同時期制作と思われるやや肉感的なマトゥーラ仏が展示されている

こちらは「仏陀坐像(2世紀前半、マトゥーラ(カトラー)出土)」で、初期マトゥーラ仏像を代表する傑作である。この作品を見ることを楽しみにしていたが、高さは70センチメートルほどで思ったより小さかった。偏袒右肩で薄い衣をまとい、右手は施無畏印を結び、左手は左肘を強く張り膝の上に置き、獅子が3頭(中央の獅子は正面を向き、左右の獅子は横向)配された台座の上に結跏趺坐している。台座には「菩薩」と銘文が刻まれているが、悟りを開いた仏陀の姿である。
クリックで別ウインドウ開く

顔は、丸顔で見開いた眼、下唇はやや厚く微笑みの表情をしており、頭には巻貝型の肉髻を付けている。手のひらと足の裏には千輻輪相(三宝標と法輪)が刻まれている。払子を持って立つ脇侍は、仏陀の後ろから覗き込むような姿をしており微笑ましい。上部左右には二体の飛天が舞っており、仏陀の光輪はやや小さめだが連弧紋様で、後ろに菩提樹が見える。
クリックで別ウインドウ開く

こちらは「涅槃(2世紀、クシャーン朝、マトゥーラ出土)」。仏陀の入滅を表現したレリーフである。沙羅双樹の樹のそばの欄干のある建物のベッドの上で右手を枕に横たわっている。同時期のマトゥーラ仏では珍しい螺髪姿で、光輪には半円状の連弧文がある。周りには悲しむ弟子たちの姿があるが、特に、仏陀の背後の3人の悲しむ姿(中央に両手を挙げる人物、左右に右手で頭を抑える人物、長髪を前面に垂らして顔を覆う女性らしき人物)は印象的である。
クリックで別ウインドウ開く

「ストゥーパ(3世紀)」。ストゥーパの下部には、仏陀の四大事(誕生、成道、初転法輪、涅槃)が浮き彫りにされている。
クリックで別ウインドウ開く

「仏陀立像(2世紀、クシャーン朝、マトゥーラ出土)」。薄手の衣を通肩に着けており、ややなで肩である。仏陀は施無畏印を結び、左手は肩の位置で衣を掴んでいる。手のひらには輪宝の紋様はない。丸みを帯びた微笑みの表情はマトゥーラ仏の特徴を持ち、額には白毫があり、頭部には巻貝型の肉髻を付けている。光輪は完全な形で残っており、やはり半円形状の弧を連ねた連弧紋様がとりまいている。
クリックで別ウインドウ開く

こちらは「仏陀頭部(クシャーン朝、マトゥーラ(チャーバラ・マウンド)出土)」。制作年は書かれていないが、クシャーン朝時代の丸みを帯び、やや微笑んだ表情のマトゥーラ仏である。額には白毫があり、頭部にはカパルダと呼ばれる巻貝型の肉髻を付けている。眺めていると穏やかな気持ちにさせてくれる仏像だ。
クリックで別ウインドウ開く

「仏陀頭部」の後方には、2メートルを超える「ヤクシャ立像(BC1世紀後半、シュンガ朝、パールカム(マトゥーラ)出土)」が立っている。シュンガ朝時代の巨像を今も鑑賞できるのは驚きだ。
クリックで別ウインドウ開く

更に、後方には、テラコッタの展示室があり、シュンガ朝(BC2世紀~1世紀)クシャーン朝(1世紀~3世紀)グプタ朝(4世紀~6世紀)時代のテラコッタ作品なども展示されている。


それでは、次にグプタ朝時代の仏像を見てみよう。ところでグプタ朝(320年~550年頃)とは、マウリヤ王朝(BC317年頃~BC180年頃)の後継として、分裂時代を経た約500年後にインド北部を統一した王朝(マウリヤ王朝の初代王と同じ名前のチャンドラグプタ(1世)と言い、首都も同じパータリプトラ(パトナー))で4世紀に最盛期を迎えた。このころマトゥーラを含むインド中北部では、ガンダーラ美術が入り始めたが、グプタ朝仏教美術を確立しインド文化の黄金時代を迎えた。

こちらの壁面中央には、一際大きな立像がピンク色で縁取りされて展示されている。


像は「仏陀立像(5世紀、グプタ朝、マトゥーラ(ジャマールプル・ マウンド)出土)」と表示され、均整のとれた体躯で、身体に密着した衣を通肩に着けている。衣内の腰紐の盛り上がりや、足の付け根から膝のくるぶしなど驚くほど写実的に表現されている。右手は欠けているが、左手は軽く衣を掴んでいるものの、手のひらが開きこちら側に見せていることから与願印にも似ている。
クリックで別ウインドウ開く
向かって左側には、やや小さめの「仏陀立像(434年、グプタ朝、マトゥーラ(ガバインド・ナガー)出土)が展示されているが、右手は施無畏印を結び、縵網相(一人でも多くの人を救うという水かきのような膜)が表現されているのでおそらく同じであったのだろう。

頭部は、日本人には馴染み深い螺髪姿で、顔は柔らかい表情だが崇高さと気品さを感じさせる。光背には、菩提樹の葉や法輪、花弁などの様々な紋様が複雑に表現され、全体として、仏像の一つの到達点すら感じさせる見事な像である。。なお、日本に仏像と共に仏像文化が伝えられたのは6世紀半ば頃とされていることから、この像はその約100年ほど前に造られたということになる。
クリックで別ウインドウ開く
足の間には、特に装飾物はなく、台座の両端に合掌する人物が表現されている。

5世紀の仏陀頭部。鼻筋の通ったやや面長な顔をしているおり、クシャーン朝時代のマトゥーラ仏とはだいぶ表情が異なっている。
クリックで別ウインドウ開く

仏像以外の作品をみてみよう。
こちらは「パールシュバナータの頭部像(2世紀)」。ジャイナ教の祖師マハーヴィーラに先だつ23番目の祖師パールシュバナータの頭部像である。頭部には螺髪より単純化された渦巻き状の髪が表現され、小顔で眼光が鋭い。ナーガ(蛇神)が上部にあるが、仏陀が悟りを開く時に蛇王ムチャリンダが盾となり雨や風から守ったとされていることから、やはり守護神として表現されているのだろう。ナーガ(蛇神)は、もともとはインド神話に起源があり頭が7つある姿で表現されることが多いとされる。
クリックで別ウインドウ開く

「富と財宝の神クベーラ(2世紀、マトゥーラ(マホリ)出土)」は、インドの重要な神様。仏教に取り入れられ毘沙門天となった。
クリックで別ウインドウ開く

こちらの展示室には、多くの欄楯柱が並んでいる。


ヤクシニー(夜叉)と思ったが、それぞれ、違った作品名が付いている。こちらは「ワインポットとブドウの房を持つ女性像(2世紀)」と名付けられ、豊満な裸体で表現されている。
クリックで別ウインドウ開く

他にも、「菩提樹の下で刀剣を持つ女性(1世紀)」「ゴブレット(足付きワイン用グラス)を持つ女性(2世紀)」「手鏡を持ち座編み椅子に座る女性(2世紀)」シャーラバンジカ(樹下美人)像(2世紀)などの作品が展示されていた。多くの作品には菩提樹や葡萄などの樹木が登場するが、古代インドでは、女性が樹木に触れることで花が咲き、実を付けるとの信仰があったようだ。

6世紀以降の作品では、ヒンドゥ教に関する彫像が多く展示されており、どれも細かく彫り込まれており見ごたえがある。「ブラフマー神、ヴィシュヌ神、シヴァ神、スーリヤ神像(9世紀)」「瞑想する4武装のヴィシュヌ神」「ヴィシュヌ神の猪神への化現(9~10世紀)」「シヴァ神の化身ヴィーバドラとガネーシャに囲まれた7毋神(12世紀)」などが展示されていた。

博物館の中央には噴水のある中庭があり、所々に彫刻が置かれている。


回廊はアーケードになっており多くの彫像が展示されていた。


見学者が少なかったため、ほとんど貸しきり状態で過ごせた。日本で言うところの国宝クラスの作品が多く展示されているが、係員はたまにしか姿を表さず、展示品の表示は手書きの上、無造作に配置されている印象だった。とは言え間近で作品をゆっくり鑑賞できたことは大満足だった。結果午後2時過ぎまで滞在した。列車の時間までは、まだだいぶあるので、ヤムナー川沿いのヴィシュラム・ガートや寺院に行ってみることとし、重い荷物を持って歩いて向かうと、すぐに人通りが多くなった。


しばらくすると前方に時計台の石造りの門ホーリー・ゲートが現れた。


ゲートを過ぎると、日用品を売る商店や土産物屋なども増え、商店街の様な雰囲気になった。


ヤムナー川が見えてきた。このあたりが、ヴィシュラム・ガートになるのだろう。ガートで辺りを眺めていると、少年が近づきボートに乗ってほしいと営業攻撃をかけてくる。辺りを見渡しても、他に乗船している観光客も見当たらず、あまり気が乗らなかったので断り続けるが、ディスカウントといってやたらしつこく勧めてくる。結局50ルビーで10分だけ乗ることにした。


ガートは、賑やかな印象があるのだが、この日のヴィシュラム・ガート付近は何故かやたら静かで人が少ない。


乗船して10分が過ぎたが、何度言っても戻ろうとしないので、強めに要求したら戻り始めた。


ボートを下りた場所には、ピンク色が鮮やかなクリシュナ寺院が建っている。すると、何処からかボートの少年の仲間なのか青年が2人現れ、 クリシュナ寺院を案内し始め、チップを要求してきたが、毅然とした態度で案内を断るといなくなった。


ガートの近くでは、手押し車で焼き芋を売っており、その香ばしい香りに誘われ1つ購入する(20ルピー)。少し食べ始めたところで、突然猿に飛びかかれ焼き芋を取られた。焼き芋はよいが怪我をしなくて良かった。


午後4時半になったので、サイクルリキシャ(30ルビー)に乗って、マトゥーラジャンクション駅に向かう。途中で500ml缶ビール(90ルビー)とゆで卵2個(10ルビー)を買う。


駅でチキン(22ルピー)、オレンジ2個(20ルピー)と水(12ルピー)を買い、ビールを飲みながら、デリー行き列車(午後7時29分発の12137 Punjab mail)を待つが予定通りには来ない。


薄暗いホームで列車の到着を待っていた時、子供のころ、夜の薄暗い国鉄駅で寂しさと不安な気持ちを感じながら中々来ない列車を待っていたことをふと思い出した。。
列車は、午後8時を過ぎたころに到着した。マトゥーラジャンクション駅は、アーグラ駅と違い、多くの乗客の乗り降りがなく、車内灯は消灯されたままだったので、連結の灯りを頼りに、予約していた寝台ベッドを探して横になった。


車内は暖かかったため少し寝たようだ。ニューデリーには、午後10時20分に無事到着した。


まずは今夜の宿泊ホテルを探さねばならない。もともと昼過ぎにニューデリーに戻り、明るいうちにホテルを探すつもりだったが、マトゥーラ博物館に寄ったため到着が遅くなってしまった。急ぎ目星を付けていたホテル・クワリティ(Hotel Kwality)に向かい宿泊の交渉を始めた。場所はパハールガンジから北側の大道り(ディッシュ・バンド・グプタ・ロード)を越えた所にある。


無事泊まることが決まり、部屋で一息つき荷物を片付けた後、夕食を食べに出かけた。時刻は午後11時になっていた。少し遠いが、この時間ではパハールガンジ(メインバザール)近辺しか開いていないだろうと思い、歩いて15分ほどの場所にある「レストラン・グリーン・チリ」に向かった。店内には2人の客だけだった。食事が可能か聞いたところOKだったので、ビール(150ルピー)、野菜丼(150ルピー)、タンドリーチキン(180ルピー)を頂いた

無事にニューデリーに戻ることができたためか、今夜のビールと食事は格別に美味に感じられた。
(2012.12.6~7)

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« インド・サンカーシャ | トップ | インド・ニューデリー(その1) »

コメントを投稿