カズさんの旅たび

 ~歴史、文化、芸術、美食紀行。。

インドへの旅(その18)バナーラスへの帰還

2013-03-28 | インド(仏跡)(その2)
午前11時半、祇園精舎の見学を終えて遺跡公園を後にした。


朝、祇園精舎の入口前の「マヘート通り」には多くの車やバスが停車していたが、この時間は閑散としている。巡礼ツアー等は昼食に向かっているのだろう。


祇園精舎の入口の向かい側には、スリランカ寺院が建っている。扉口から内部をうかがうと守護神像(ガードストーン)が立っているのが見える。


「マヘート通り」の東側にはスリランカ寺院が建つだけで、周りは一面に田畑が広がっている。


次に、祇園精舎の鐘を見に行くことにする。「マヘート通り」南に下り、突き当たり丁字路を左折して「バーライチ・バルランプル通り」に入り、バルランプル方面へ進む。南側に煉瓦色のミャンマー寺院を過ぎて、


丁字路から500メートルほど行った南側の木々に覆われた参道を進むと、鐘楼が見えてくる。


こちらが、1981(昭和56)年に、日本の「日本国祇園精舎の鐘の会」が寄贈した鐘と鐘楼である。もともと、祇園精舎に鐘は無かったが、祇園精舎の鐘の場所を尋ねる日本人が多かったことから設置された。多くの日本人が鐘を求めたのは、平家物語の冒頭部分「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり、沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらわす、」が、心にすりこまれているからだろう。ちなみに、京都にある岩澤の梵鐘(株)による鋳造とのこと。


鐘楼のある敷地は、正方形の公園になっており、十字の参道が敷かれその中心部に鐘楼が建っている。敷地の西端まで行ってみると、ジャイナ教寺院や先ほど通り過ぎたミャンマー寺院が望める。


「バーライチ・バルランプル通り」までもどり、東隣を見ると韓国の寺院がある。ちなみに、現在、「サヘート・マヘート」に自国の寺院を設置しているのは、タイ、韓国、スリランカ、ミャンマー、チベット、中国の6か国である。


次に「バーライチ・バルランプル通り」を更に1キロメートルほどバルランプル方面へ進むと右手に看板が見えてくる。


ここは、オーラジャハール遺跡と言い、仏教徒にとって重要な聖地となっている。仏陀が開いた仏教の教えは、階級制度を否定する新しい思想を持っていたことから、バラモン教、ジャイナ教、アージーヴィカ教などから繰り返し教義に関する論争を仕掛けられてきた。

仏陀は、その都度、それら異教を論破し、教えを説いて仏教へと改宗させてきたが、この、オーラジャハールの地では、仏陀が、一瞬のうちに千体仏を出現させる「千仏化現」や、身体の上部と足元から交互に炎と水が噴き出す「双神変」などの奇跡を異教徒に見せて仏教に改宗させた場所として知られている。奇跡の場面は古来より仏教美術の題材として取り入れられ多くの作品を残している。

オーラジャハールの遺跡は、高さ30メートルほどの仏塔である。遺跡へは、専用の鉄扉から入場する。入場料は無料であった。


敷地内に入ると、仏塔へは、正面から延びる砂利道を歩いて上る。


ところで、「バーライチ・バルランプル通り」沿い、ややバルランプル側からオーラジャハールを眺めると、現在では、草木が覆い茂る小高い丘にしか見えないため、気を付けていないと、通り過ぎてしまう。


さて、仏塔の頂部に続く砂利道は、訪れる人も少ないのか整備されておらず、気を付けないと滑りそうだ。


仏塔の頂部には、煉瓦が綺麗に積み上げられた寺院が建っており、砂利道は寺院の西側に繋がっている。


寺院は正面を真北に向いた一辺が20メートルほどの正方形の敷地をしているが、間取りが複雑である。正面側に行ったが入口が分からず、回り込んで東側の一段低い煉瓦を乗り越えて中に入った。


北側はテラスになっており、まっすぐ進むと西側に南北に延びる通路がある。
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左側の構造物はひな壇造りで下部に浮彫状に煉瓦が積まれており、頂部には半円形の大きな空洞がある。空洞は寺院の概ね中心部にあたる。寺院には屋根はあったのか、また何層かに分かれていたのか等は良く分からない。斜めに隣接する構造物も頂部にいびつな段差がついているなど不思議な形状をしている。
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南突き当たりがやや広い空間になっており、最も重要な場所であろう台座(祠堂)が置かれている。この台座前で合掌する。ところで、寺院への出入り口は南東角からだったようで、左側から外に出られる通路があった。
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仏陀は、或る時、三十三天(とう利天)にいる母マーヤー夫人に法を説くために旅立ち、サーンカーシャの地に降り立った(三道宝階降下伝説)が、このオーラジャハールがとう利天へ昇天した場所とされている。

寺院からは、周りを眺望することができる。南側を眺めると沼地が広がっており、近辺には構造物は見当たらない。


こちらは北西方面になり、左下に寺院に隣接して、小部屋に仕切られた遺構がある。ちなみに南側にも同様の遺構が隣接している。遠景に続く雑木林が左側が祇園精舎のある「サヘート」地区で、右側が舎衛城のある「マヘート」地区になる。祇園精舎の入口までは、直線距離で1.5キロメートルほどになる。
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視線を右側の「バーライチ・バルランプル通り」沿いに移してみる。寺院の中央前方に小さな正方形の遺構が隣接している。寺院は真北を向いており、直線距離で1.5キロメートル先が舎衛城の南門にあたる。もしかすると、舎衛城からオーラジャハール寺院への参道が通じていたのかもしれない。現在通り沿いには民家が数件並んでいるだけである。
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物音が聞こえたので、斜面を見ると、数匹の猿が山頂に向けて駆け上がってくる。怖くなり、逃げるように下山した。


下山して民家を見に行ってみる。「バーライチ・バルランプル通り」から北に延びる路地の方角から子供の声が聞こえたのでそちらに行ってみると学校があった。上水道は整備されていないようで、井戸水で手を洗っている。中央の煉瓦造りの建物の外にトタンの庇をかけ、傾いた机で勉強する子供の姿を見ていると寂しくなってくる。
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隣接する校舎もトタン屋根で、壁がないため、子供たちが勉強している姿が見える。左側には親御さんか教師が、木の陰に椅子を並べて座っている。戦後、校舎等を焼失し屋外で授業を行った青空教室のようだ。校舎は簡素なつくりで雨季になると耐えられないのではないかと少し心配になった。
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東側のあぜ道からオーラジャハール仏塔を眺めてみたが、やはり小山にしか見えない。。


通りには、時折馬車が現れる。何とも長閑な風景である。


これで、シュラーヴァスティーの見学は終わりである。時刻はお昼12時になった。あとは、バナーラスに向けて約300キロメートルの道のりを帰るだけである。


出発して20分ほどでバルランプル駅の踏み切りを越えた。左側の駅方向を見ると、不通なのか線路上に赤い旗が立っている。


バルランプル市内を抜け、しばらく走ると快適な直線道路になった。


前方からトラクターが現れたが、驚く程多くの人が乗っている。バス替わりにトラクターを使っているのだろうか。。


お祭りが行われているのか、多くの人が飾り物を持って歩いている。昨夜の通行止めを思い出し不安になったが、特に通行止めなどはなく通り過ぎた。


田園地帯から一転して周りは森林になった。かなり大きい森のようで6キロメートルほど走行する。


午後3時半。前方にガーグラ-川が現れた。ガーグラ-川は、ネパールのヒマラヤ山脈を横切って流れ、インドに入った後はビハール州の州都パトナの西側でガンジス川に合流している。


対岸に見える街は、アヨーディヤーでインドの古都である。「難攻不落の都城」を意味し、コーサラ国の初期の首都であった。7キロメートル西にはウッタル・プラデーシュ州の中心都市ファイザーバードの街がある。叙事詩「ラーマーヤナ」の主人公ラーマ王子の故郷として知られている。

また、アヨーディヤーは、古くは「サーケータ」という名で知られている。サーケータの近郊には、アンジャナ林があり、仏陀は、この地に滞在しサーケータに托鉢に出かけていたという。なお、アンジャナ林は、ジャータカ物語「シカ王ナンディヤ」の舞台でもある。もしかして、先ほど通過した、森はアンジャナ林だったのではないか。。


ガーグラ-川沿いには、ガートが続いている。この地は、ヒンドゥ教ではインドの七聖地の筆頭とされている。
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ガートでは、多くの人が沐浴している。階段中程に沐浴者グループ毎に長方形の木製の台が並んでいるが、荷台として使用しているのだろうか。また、階段上部には、布や藁を編んだむしろをかけた木製の建物が並んでいるが、お店なのだろうか。。珍しい光景で非常に興味深い。
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ところで、目的地のバナーラスは、アヨーディヤーから200キロメートルほど南東に位置している。午後4時半を過ぎ、下校時間になったのか、女子高生が乗る自転車の列が続いている。


標識が現れたので、確認するとバナーラスまで、162キロメートルと書かれている。


午後5時半を過ぎ、あたりは暗くなってきた。


踏み切りが現れた。しかし、あと何キロなのだろう。助手席に乗っているだけだが、だいぶ疲れてきた。。


バナーラスには午後9時に到着した。以前2度行ったレストランで遅めの夕食を取る。


都会?のカレーはうまい。


予定していた仏跡見学のスケジュールはすべて終わった。慌しくもあったが、体調を崩さず概ね訪問予定の場所へは行くことが出来たので大変満足した。

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翌水曜日の夜、ガンジス川沿いのダシャーシュワメード・ガートでフェスティバルが催された。


寺院の上に観光客向けの席が用意してくれたのでそこから見学した。祭りは最高潮に達し花火が打ち上げられる。バナーラスとは、これでお別れである。ドライバーのヴィージェイを初め、お世話になった皆さんに感謝!感謝!である。

(2012.11.26)
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インドへの旅(その17)シュラーヴァスティー

2013-03-27 | インド(仏跡)(その2)
午後2時半にピプラーワーを出発、今回の目的地の最後となる八大聖地の一つシュラーヴァスティー(舎衛城)に向かう。ピプラーワーからは40キロメートルほど南下し右折して西に約120キロメートル行ったところ。出発から10分ほどで、またヒンドゥ教の祭りに出くわした。クラクションを鳴らしながら、人波を書き分けて進む。


道路沿いには出店もあり、お供え用のお菓子が並んでいる。


30分ほどで、右折して西に向かう。しばらくすると道路標識が現れた。シュラーヴァスティーまで124キロメートルと表示があり、観光バスも走っていることから予定のルートを走っているようだ。ちなみにラクナウ298キロメートルの表示は、ビハール州の隣のウッタルプラデーシュ州の州都のことで、人口280万人の大都市である。


しばらくすると、周りが木々に覆われた田舎道になった。


また、お祭りのようだ。前方から、纏(まとい)のような旗や山車などの道具を手にした集団は行進して来る。度々、速度を落とし、のろのろ運転が続く。


時刻は午後4時半を過ぎ、日が暮れてきた。しばらく標識も現れないことから間違った道路を走行しているのではと不安になった。


建物もない田舎道を進んで行くと、夕日が左側から差し込み眩しい時間が続く。しかし、そもそも西に向かっているはずなのに夕日が左側に見え続けるのはおかしい。道を間違っているのではないか。。すると、久しぶりに道路標識が見えてきた。標識には、トゥルシプルまで10キロメートルと書かれており、やはり間違っている。トゥルシプルはバルランプルの手前にあるウトラウラから北に30キロメートル行った場所である。


ヴィージェイは、地元民に尋ねるなどして修正して運転を続けたが、午後5時を過ぎたころ前の車のスピードが遅くなった。追い抜こうとしたが、渋滞しており、その後、停車して全く動かなくなった。車を下りて様子を見に行くと、100メートルほど先で警官が市内の祭りのため道路封鎖をしている。今日は何やらヒンドゥー教の際日にでもあたっているのだろうか。それにしても、100メートル先が先頭なのは封鎖され時間が経過していないということだ。


1時間たったが、車はまったく動かない。午後8時近くになった。前後の車の様子を見に行くと、観光バスも渋滞の列にいた。時折、後ろから反対車線を暴走して来る車があるが、事情が分かるとじりじりと後退して行く。お腹が減ったので手持ちの果物やお菓子を食べながら、残っていたわずかのウイスキーを飲む。すると、外に出ていたヴィージェイが戻ってきて午後8時半に通行止めは解除するらしいと言った。時間になると、けたたましく周りからエンジン音が聞こえる。ようやく動き出すのか、少し進んだ。


反対車線に車が徐々に現れ始め、こちらも少しづつ進み封鎖ゲートが目の前に現れ始めた。時間は午後9時である。しかし、また動かなくなった。


午後10時を過ぎ、ようやく動いた。しかし警官は、町に向かう直線道路ではなく、左折するよう誘導している。迂回道路なのか大きく右に曲がりながらしばらく走ると街灯が増え始めた。お祭りが終わった影響か、あちらこちらにゴミが散乱している。どうやらこの町がシュラーヴァスティーの起点となるバルランプルのようだ。ホテルを探し始め3階建ての建物の前で車を停めた。荷物を持って外に出るが、看板には英語の案内はない。


3階に上ると通路側にドアが並んでいる。顎鬚が長く伸びた老人が現れて居室のドアを開ける。居室内は、薄明かりでも汚いのが分かる。以前もそうだったが、こういうホテルは水周りが特に酷い。後ろを振りむきヴィージェイを見ると、この時間で他にホテルはないと言う。結局この部屋に決め、チェックインをして、車に乗り食事に出かける。ワインショップを探すが、営業時間は終わっていた。
午後11時を過ぎているので、急がないと屋台も閉まりそうだ。。


慌てて目の前の屋台に入る。食事が出来るか聞くとマトン・カレーならあるという。やたら肉が硬いが、味はまあまあである。チャパティは美味しくなく食べることができなかった。大変疲れた一日であった。。


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バルランプルのホテルで朝を迎える。部屋を出ると3階は半屋上になっており、その屋上先にある洗面場で顔を洗う。


強烈な異臭が鼻を突くので、ホテルの外を眺めると、昨夜の祭りで出たゴミを燃やしているのか、あちらこちらで煙が立ち上っている。ビニール系が燃える強烈な臭いは、ダイオキシンが大量に発生しているのだろうが、日本では考えられない。。。


午前8時半にチェックアウトして、屋台でチャイを頂く。通りは、車の往来が激しく砂埃が舞い上がる上に、ゴミの燃える臭いで頭が痛くなる。


急いで車に乗り込み、シュラーヴァスティーに向かう。最初にバルランプル駅を右側に見ながら踏み切りを越える。


踏切の先からは、北西に向けて延びる直線道路「バーライチ・バルランプル通り」を16キロメートルほど進む。ところで、シュラーヴァスティーは、かつてこの地を治めた伝説の王シュラヴァスタに因んで名付けられた。その後、紀元前6世紀から5世紀には十六大国の一つ「コーサラ国」の首都として栄え、最盛期には90万人もの人口を抱えていたと言われている。ちなみに、シュラーヴァスティーは漢訳で「舎衛城」と呼ばれている。


コーサラ国は、南北の2つの国(南のコーサラ国、北のシュラーヴァスティー国)から成り立っていた。現在は「祇園精舎」の遺跡がある南側を「サヘート」とし、舎衛城のあった北側を「マヘート」として、2つの遺跡群をまとめて「サヘート・マヘート」の呼称を使っている。

これから、北側の舎衛城のあったマヘート地区を見学することとする。「バーライチ・バルランプル通り」沿いに各国の仏教寺院が立ち並び始めた先の路地を右折し「マヘート通り」に入ると、すぐ左側が、祇園精舎の遺跡のあるサヘート地区で、そのまま通りを1キロメートルほど北上すると、前方に山羊が横断しているのが見えた。


その山羊が横断していた場所が、マヘート地区の入口になる。そして「マヘート通り」沿い左右の小高い砂山の盛り上がりが、舎衛城の東西に延びていた城壁の址である。


右側の城壁址に上ってみると、道路のために城壁が切断されていることが分かる。コーサラ国については、詳しい記録は乏しいが、仏陀の熱心な信者だったプラセーナジット王(波斯匿王)の治世が最も繁栄していたらしい。しかし、次のヴィドゥーダバ王(ルリ、或いは毘瑠璃王)になり遠くないころに近郊の十六大国の一つ「マガダ国」に滅ぼされたという。


城壁址から、城内に入った右側の立て看板を見ると、舎衛城は北東側に面して内側に湾曲した半円形の、ふっくらした茄の様な形をしている。直径は2キロメートルで周囲は5.2キロメートルあり、城壁には各方面への4か所の城門が築かれていた。ただし、現在までに舎衛城内で発掘された遺構は、すぐ先の通り沿い右側に建つジャイナ教寺院(ショブナート寺院)を含めた3か所である。
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ショブナート寺院(Shobhnath shrine)の遺構へは「マヘート通り」から遺跡に沿って反対側に回り込んだ東側の階段から入場する。この寺院は、ジャイナ教の救済者・祖師24人のティールタンカラ(最後が開祖マハーヴィーラ)内、3番目のシャンバヴァ(サンババナタ)の生誕地とされている。


遺構は綺麗に修復され、自由に上り下りできるが、中央部後方の主殿(祠堂)には本尊がなく、上部が崩落したのか角材でドーム屋根が支えられている。


主殿(祠堂)に向かって左側を眺めると、通りを挟んで左右に草の盛り上がった舎衛城の城壁址が続いているのが見える。
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次に、再び「マヘート通り」に戻り、舎衛城の中心方向に進むと、2か所の遺構が、通りの左側と通りが大きくカーブした先の右側に見えてきた。


最初に通り右側の建造物から見学する。通りからはやや奥に建っている。ちょうど逆光で眩しいので、反対側まで歩いて行ってみる。
この遺構は、スダッタ長者(須達多、或いは給孤独、アナタピンディカ)の屋敷址に建てられたストゥーパ(仏塔)で「カッチ・クティー」と呼ばれている。


スダッタ長者とは、プラセーナジット王(波斯匿王)の時代、身寄りのない者を憐れんで食事等を給する活動をしていた富豪の長者のことで、そのスダッタはラージャグリハ(王舎城)に商用で訪問していた際、仏陀の説法を聞いて、いたく感動し説法のための精舎を寄進しようと思い立ち土地を探し始めた。そして見つかった土地が、サヘート地区にあった王の息子ジェータ(祇陀、或いは祇多)太子の所有する森林であった。

ジェータ太子は、その土地の譲渡を望むスダッタに対して、金貨を敷き詰めた場所を譲ってやろうと言うと、スダッタは家財を投げ打ち、本当に金貨を敷き詰め始めたため、太子は驚いてそのまま土地を譲渡し自らも精舎建設を援助したという。この精舎が、祇園精舎(正式名は祇樹給孤独園精舎という)という訳である。


そのスダッタ長者の屋敷址に建てられた仏塔は巨大な空母を思わせる形をしており、中央に上り下りできる階段がある。ちょうど僧侶が立っているので、仏塔の大きさもわかりやすい。階段を上り僧侶に一揖して頂部まで行く。


カッチ・クティーの頂部から北東側を望むと川が見える。仏陀の時代は、この場所にウエストラプティ川が流れていたため、舎衛城の北東側は自然の要害となっていた。現在は、時代の流れとともに3キロメートルほど北に移動しており、西から東に向けて蛇行して流れている(ネパール中西部地域からインドのウッタル・プラデーシュ州を流れ、ガンジス川に合流する支流で、仏伝ではアチラヴァティー川と呼ばれていた。)。しかし、雨季に増水し氾濫すると、この場所に水が流れ込み、本流から切り離され池となる。


観光客(巡礼者)が階段を上ってきたので、次に、通りの向こうに見える遺跡に行ってみる。


もう一つの遺構は「マヘート通り」に面して建っている。こちらはアングリマーラの仏塔で「パッキ・クティー」と呼ばれている。アングリマーラとは、本名をアヒンサと言い、人々を殺しては、指を取って首飾りとしていた。その後仏陀に会ってその行いを後悔し、仏陀に帰依する。その場所に建てられたストゥーパであるといわれる。


「パッキ・クティー」も階段があり上ることができる。頂部から周りを眺めると「パッキ・クティー」の敷地を示すブロック塀が取り囲み、遠景に雑木林が広がっている。左側から延びる「マヘート通り」は、1.3キロメートルほど先で祇園精舎の遺跡のあるサヘート地区に到達する。


次に、視線を右方向に写し、西側を眺めると、やはり敷地を示すブロック塀の向こうは、雑木林が広がっている、あぜ道が続く200メートルほど前方に、ひと際大きな樹に囲まれた遺跡らしき構造物と人々が集まっている。特に立て看板などもなく、観光客や巡礼者も訪れる場所ではないようだ。地元民の祈りの場なのか、発掘途中の遺構なのかわからない。

玄奘三蔵によると、プラセーナジット王(波斯匿王)の宮殿址があり、その東側に王が仏陀に敬意を表し建立した「法の殿堂」の址があったことを記録している。「パッキ・クティー」が「法の殿堂」であるとの研究者の説もあることから、その説に従うと、王の宮殿址なのかもしれない。それにしても、この場所に、栄華を誇った王国が存在したとは思えない風景である。
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「パッキ・クティー」の基壇は長方形の建物だったことを示しているが、その後、時代とともに檀上に積み上げられ現在の仏塔の様な建造物となった。ストゥーパの中心部に空洞があるのは、大雨時の予防措置として排水溝が設けられたためである。


「パッキ・クティー」の頂部に立ち、通り向こうの「カッチ・クティー」を眺めてみる。左側から「カッチ・クティー」の背後に、やや起伏のある緑が続いているが、ウエストラプティ川側に設置された城壁の址なのだろうか。。


これから行く祇園精舎の遺跡のあるサヘート地区もそうだが、「サヘート・マヘート」の両遺跡は19世紀半、イギリス人の考古学者アレクサンダー・カニンガムによって発見された。その後、1986年に日本からも関西大学が現地政府と協力し、日印学術調査隊という形で発掘に参加している。2000年以降にも大々的な調査が行われているが、今後も重要な遺構が発掘されるのかもしれない。

「パッキ・クティー」から降りる。中央の空洞は遺構の外まで解放されて通路の様になっている。


ウエストラプティ川の方向に行ってみると、池の様に所々水がたまっている。周りには構造物などは見当たらない。


城内方面に振り返ると、城壁址なのか緑の起伏が見られるが特に見るべきものはないようだ。


次に、「祇園精舎」の見学に向かうため、「マヘート通り」を戻ってジャイナ教寺院(ショブナート寺院)を過ぎ、舎衛城の城壁から城外に出ると、右側に巨大なストゥーパが見え始めた。


「祇園精舎」の北側の道を右折し直進すると、鉄柵があり行き止まりになる。こちらはタイ寺院の入口で敷地内には、巨大な黄金の仏陀像が鎮座している


再び、もとの「マヘート通り」に戻ると、すぐ先に車やバスが停車している。右側に続く赤い塀の内側が、「祇園精舎」の遺跡のあるサヘート地区になる。


バスが停車していた所に遺跡への出入り口があり、窓口でチケット(100ルピー)を購入して入場する。


入口から少し南側の鉄柵付近には多くの猿が集まっている。周りにビニール袋が散乱しているので、観光客が投げ捨てたゴミをあさっているのかもしれない。


入場すると、芝生で覆われた遺跡公園になっておりプロムナードは北に延びている。すぐ左側に現れる遺構「草庵(寺院11)」には、基壇を椅子に僧侶が瞑想している。


その草庵へ向かうには、一旦遺構を通り過ぎた先でプロムナードを左折する。突き当たりには「大僧院(寺院&修道院19)」の遺構があり、手前左側に「草庵(寺院11)」への通路が延びている。その草庵に向かうと入口北側には前殿があり、その奥に回廊のある主殿を挟んで、左右同じ造りのやや複雑な形状をした小部屋(僧室)がある。東南側の基壇から僧室越しに「大僧院」側を眺めて見ると、僧室の回廊側の壁面には、仏龕の様な穴が開いている。


西隣にも「草庵(寺院12)」があるが、こちらはシンプルな形状で、入口を入るとすぐに回廊のある主殿があり、左右に長方形の小部屋(僧室)がある。

西側プロムナードの突き当たりには一辺30メートルほどの矩形の「大僧院(寺院&修道院19)」址がある。入口から入った奥に、一段高い主殿らしき空間がある。その主殿から東側の出入り口側を眺めると、手前に前殿らしき区画があり、その先が広い中庭で、中央やや南東位置に仏塔址がある。中庭周囲には20数室程度に仕切られた小部屋(僧室)がある。
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再び、メイン・プロムナードに戻り、すぐ先の三叉路を北西方面に50メートルほど行った左側(南)には、仏塔(ストゥーパ)が8塔建ち並んでおり、頂部を花弁で荘厳されている。


メイン・プロムナードを更に進むと、すぐ左側に広い階段の先に舞台の様な踏面(ふみづら)がある遺構がある。こちらは仏教の儀式で重要な役割を果たす「戒壇(仏塔5)」であり、出家者はこの場で「授戒」を受けることで僧籍を得ていた。


ちなみに日本では、鑑真(688~763)が東大寺に「戒壇」を築いた後、筑紫の大宰府(観世音寺)、栃木県の下野市(下野薬師寺)に築かれ(天下の三戒壇)、その後、最澄(766~822)により延暦寺に大乗戒壇が築かれている。

「戒壇」の北側にも、仏塔が点在している。直径5メートルはありそうな大きな「仏塔18」は、1世紀、クシャーナ朝時代の僧侶の名前が刻まれた舎利容器が見つかった。
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メイン・プロムナードを更に進むと、遺跡公園の中央付近に「菩提樹」が聳えているのが見える。この菩提樹は、釈迦の十大弟子の一人(多聞第一)阿難(アーナンダ)が仏陀の許可を得て、祇園精舎で修行する弟子たちの支えとして「ブッダ・ガヤーの菩提樹」から移植したものと言われている。


菩提樹は10メートルを大きく越える高さがあり、数本の木柱により支えられている。木には数匹の猿がぶら下がっている。周りは、金柵で囲まれており、所狭しとタルチョーが結ばれている。ドネーションを払うと金柵内に入り、根元前まで近づくことができる。


菩提樹の根元の東側には、正方形状で1.5メートルほどの高さの仏塔が2つ並んでおり、仏塔内部には舎利容器の保管場所があったようだ。更に東側には金細工師の工房があった。
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菩提樹を過ぎると、メイン・プロムナードは更に北に延びており「祇園精舎」の中心部に到着する。


左右の遺構はメイン・プロムナードをまたいで続いている。右側の男性は、煉瓦の隙間の煉瓦を交換するのか、かぎ針の様な道具で、接着部分の取り除く作業をしている。左側には、小さな円形仏塔がある。
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円形仏塔の先隣りには、正方形の基壇「寺院(寺院3)」の址がある。階段を上ると中央に正方形の台があり周りに回廊がある。奥には、主殿らしき小部屋が隣接している。


正方形の寺院の右隣には南隣の仏塔より一回り大きな仏塔址がある。メイン・プロムナードを少し進み、振り返るように「寺院(寺院3)」を眺めると、長方形の敷地が続いていることから、南北に長い大きな寺院だったのだろう。
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その先にも小さな遺構が点在し、その先の一段高い遺構は、仏陀が滞在した「香堂(ガンダクティー)(寺院2)」址で、その先の「大寺院」址へと続く。
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メイン・プロムナードをまたいで東側には「説法堂」址があり、多くの巡礼の参拝者が訪れている。
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「香堂(ガンダクティー)(寺院2)」址は、25メートル×35メートルほどの長方形の敷地の中に建っている。正面入口は、やや全面に張り出し、左右には献灯台が置かれている。


入口から階段を上った二段目には、六面体の煉瓦ブロックの上に金箔の小さな仏塔台がある。仏塔台の左右はテラスになっており「香堂(ガンダクティー)」を周回できる。先ほどまで、多くの巡礼者が参拝に訪れていたため、多くの僧侶たちも集まっていた。僧侶たちはテラスで参拝者から受け取ったお布施を配分していた。


その後、僧侶たちは、菩提樹の方向に移動して誰もいなくなったので、仏塔台の前で合掌し「香堂(ガンダクティー)」の周りを右繞してみる。


その後、この最も重要な場所とされている香堂へ、靴を脱いで上がってみた。頂部は、正方形の空間になっており、その先の最も上座に一人が座れるほどの正方形の空間がある。


メイン・プロムナードの東側の木々の下から「香堂(ガンダクティー)」を眺めてみる。木々が覆い茂った中に小さな遺構が点在している。井戸の址なども見られる。この辺りは、仏陀が良く散策していた場所と伝えられている。
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すぐ北側には、「説法堂」のある遺構がある。複雑な区画になった遺跡だが、南北に長い長方形と東側に正方形の敷地が隣接している。長方形の敷地中央には矩形の説法台がある。説法台の南側には、聴衆のためのスペースがある。長方形の「説法堂」の北東角から説法台を眺めると、対角線上に「香堂(ガンダクティー)」の様子も見渡せる。
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「説法台」は幾層にも積み上げられたひな壇の上にあり、周囲には金箔が張り巡らされ、頂部には花弁で飾られている。仏陀はこの台の上に坐し、弟子たちを前に説法を行ったとされる。説法は、太陽の照り付ける日中は避け、涼しくなる夕方から行われた。説法は、深夜に及び、時には早朝まで続くこともあったと言う。ちなみに「阿弥陀経」などの経典はここで説かれたとされる。


北側の一番奥の「大僧院」址へは、メイン・プロムナードを歩き、建物に突き当たると、右側に回り込んだ東側にある階段を上って行く。大僧院は、一辺40~50メートルの正方形状の基壇で、入口には玄関があり、低い階段を上ると、回廊があり40ほどの小部屋(僧室)が取り囲んでいる。更に上の段には、芝生の回廊が2段続き、その上が正方形の頂部になり中央部に心柱の址のような大きな穴が開いている。


ちなみに、法顕が祇園精舎を訪れた5世紀には、精舎は既に寂れていたが、七層の精舎が建っていたとの記録があるが、この「大僧院」だったのだろうか。。250年後に訪れた玄奘三蔵の時代には、建物は朽ちて遺構のみだったという。

この大僧院を含め多くの僧院・寺院・草庵のある「祇園精舎」には、多くの僧侶が集まり修行に明け暮れたが、それは雨季に限られていた。インドの季節は、乾季(概ね11月~3月)、暑季(概ね4~5月)、雨季(概ね6~10月)と3つに分かれており、雨季以外には、僧侶は個々に遊行しながら修行することが基本であった。雨季にのみ特定の僧院等に滞在して集団で修行を行った理由として、大雨が続き水害が多発する一方、数多くの小動物が活動する時期でもあり無用な殺生を防ぐための措置だったとされる。この雨季における集団修行を「安居」と言う。
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仏陀の成道後から入滅までに行われた「安居」は計45回に上るが、その内の19回が、この「祇園精舎」で行われ、6回は舎衛城東側にあった「鹿子母講堂」(長者ミガーラの夫人ヴィサーカーが建立)で行われた。当時900人に近い僧侶が、それぞれの経蔵毎に分かれて修行していたと言われている。

大僧院から離れプロムナードを西に進むと、仏塔の址があり、その更に西側に沐浴場の址がある。仏塔を過ぎ、沐浴場の際まで下りて反対側まで歩き、遺跡公園方面を眺めてみたがこの時間、他にこの場所まで足を延ばす人はいなかった。水は緑色に濁っており、蛙の楽園となっていた


沐浴場の南側には、一面マンゴーの木が茂っており、仏陀の時代と変わらないであろう風景が続いている。散策していて気持ちがいい。遺跡公園には1時間半ほどいただろうか、時計を見ると午前11時半になっていた。

(2012.11.25~26)
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インドへの旅(その16)ピプラーワー

2013-03-25 | インド(仏跡)(その2)
ティラウラコットの見学が終わった。次はインドに戻り、ピプラーワーに向かう。バイワラのロータリーが見えてきた。時間は、11時10分であった。ロータリー中央の塔の上に仏陀像が見える。


ホテルをチェックアウトし、屋台でヌードルを食べる。日本の焼きそばに若干香辛料を強めにした味付けである。


ネパール側のイミグレーションオフィスで、出国手続きをする。受付の女性は「え、もうインドに戻るの?」と驚いていた。無事手続きが終わり、歩いて国境を越える。ゲートをくぐるとインドである。


インドのイミグレーションオフィスで入国の手続きをする。こちらでもあっと言う間であった。その後ヴイージェイを探すが、よくわからない。


すると、少年が近づいてきて、袖を引っ張る。国境を背に南へ歩いていく。200メートルほど歩くと車が見えた。時間は12時20分、ピプラーワーに向け出発である。一本道を南西方面に向う。


どこかで右折しなければならない。右折が早ければ早いほど国境が近いので、国境沿いのピプラーワーへは近道になる。15分ほど走ると右折道路が見えた。右折して西に向かう。


しばらくすると、大勢の人が集まっている。ヒンドゥー教のお祭りのようだ。速度を落とす。それにしてもやたら人が多い。特に子供が多い。


地元民に道を聞きながら進む。道路はあちらこちらに穴が開いている。穴を避けながら進む。すぐに路肩にはみ出し、砂埃が舞う。とても窓を開けていられない。


しばらくすると北に向かう広い道路に出た。ゲートがあり中央に仏陀の坐像が見える。どうやらピプラーワーの遺跡は近そうだ。


しばらく走ると、標識が見えてきた。ガンワリアの遺跡である。ガンワリアは、ピプラーワーの遺跡から南へ1キロのところにある僧院跡である。標識に従い左折する。


時計を見ると13時50分であった。良いペースである。さすがヴィージェイ。すぐに、遺跡が見えてきた。ここには、一辺が直径30メートルと直径40メートルほどの正方形の大小2つの僧院があり、周りにも遺跡がある。


まず手前の小さい僧院に上ってみる。中央には、周りを一定間隔で区切られた正方形の遺跡が見える。円状の遺跡も見える。周りには、小部屋が並んでいる。


西側にある大きい僧院に向かってみる。入口方面を振り返るが、周りには我々以外に誰もいない。


大きい僧院は、中心部分が中庭になっている。通路を挟んで周りには小部屋が並んでいる。僧坊であろう。


一通り見学した後、車に戻る。小さい僧院の横には、犬が寝ていた。


さて、いよいよピプラーワーの遺跡に向かう。北に向けて車を走らせるとすぐに標識が見えてきた、カピラヴァストゥ0キロメートル、その下にルンビニー33キロメートルとある。外国人が、この先の国境を越えることができるなら、ルンビニーへは近い。


ピプラーワーの遺跡に到着。カピラヴァストゥと表示がある。入口に車を停めて遺跡内に入る。


左手に案内板がある。ここで1898年に発見された舎利容器の写真が載っている。


このピプラーワーで発見された舎利容器は、現在、デリー博物館に展示されている。舎利容器には、「サーキャ族のブッダ・釈尊の遺骨」と記されていたために、この地がカピラヴァストゥ(カピラ城)であるとインド政府は主張し、ネパール政府との間で100年に渡る論争が続いている。しかし舎利容器は、他から持ち込まれた可能性もあるので決定的な証拠とは認められていない。また、城としての要素を備えた建造物は出土していない。一方、ネパール領タウリハワ郊外のティラウラコットからは、城としての要素を備えた建造物の遺構が出土しているが、カピラヴァストゥであることを裏付けるものは発見されていない。案内板の横に案内図がある。


最初にストゥーパに向かう。


1メートルほどの高さの基壇があり、その上にストゥーパがあるのが分かる。


左手にある遺跡から、南方向を眺める。


そばに、小さなストゥーパがある。


ストゥーパから100メートルほど西に行き、そこから、ストゥーパ方面を眺める。


ストゥーパ方面に戻る。一面に芝生が植えられている。よく清掃が行き届いている。


入口そばの遺跡に上がってみる。たしかに、ピプラーワーは僧院跡であると思った。城壁などの遺構は見当たらない。遺跡は保護のためか周りをフェンスで囲まれ公園になっている。カピラヴァストゥがネパール領のティラウラコットか、インド領のピプラーワーのどちらであるかの論争よりも、直線距離で20キロメートルも離れていない双方の遺跡間を、自由に行き来できるようにしてほしいと思った。時間は、14時半である。さあ、シューラヴァスティーに向けて出発である。今回の最後のツアーである。

(2012.11.25)
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インドへの旅(その15)カピラヴァストゥ(ネパール)

2013-03-24 | インド(仏跡)(その2)
昨夜は、国境から3キロメートルほど北にあるバイラワ・バス・パーク近くのホテルに泊まった。夕食の際、ドライバーのヴィージェイから、明日は、ティラウラコットにある「カピラヴァストゥ(カピラ城)」を見学した後、インドに戻り、ピプラーワーに向かう。その後、一路シュラーヴァスティーに向かうと提案があった。


耳を疑った。まず、ティラウラコットまでは、ルンビニーを経由して西へ50キロメートルあるため、往復で100キロメートルになる。

次に、ピプラーワーへは、ティラウラコットからルンビニーへ戻る途中の道路を南下すれば、10キロメートルほどの距離だが、国境を越えたインド側に位置するため、直接は行けない。つまり、バイラワに戻り、インドへの再入国手続きをとった後、スノウリから行くことになる。スノウリからピプラーワーまでの国境沿いを西に向かう道路はないので、大きく南に迂回した後北上して向かうことになり100キロメートル(悪路を通ると最短で60キロメートル)ほどの距離になる。

最後に、ピプラーワーからシュラーヴァスティーまでは約150キロメートルの道程であり、合計すると300キロメートル以上の距離を走行することとなる。日本の感覚なら余裕だが、インドでは道の間違いに加え、悪路や通行止めなど何が起こるかわからない。予想以上に時間がかかると思った方がよい。見学時間が短くなるのは困るが、ヴィージェイは、それは大丈夫だという。しかし、本人はピプラーワーに行ったことはないらしいし、地図を持たずに、どこからその自信は出てくるのであろう。。

いずれにしても、シュラーヴァスティー近くまで行かないと宿がなく、深夜に到着しても、翌朝一で見学に行くことができるなら、やむを得ない選択かもしれないと思い了承した。

ということで、翌朝、7時過ぎにホテルを出て屋台で温かいチャイを頂く。ネパールまで来ると朝はかなり冷え込み寒い。


ティラウラコットに向け出発した。ティラウラコットにある遺跡は、仏陀がシャーキヤ族(釈迦族)のシッダールタ王子として29歳まで過ごしたカピラヴァストゥ(カピラ城)の候補地とされる場所である。候補地とされる理由は、次に訪問予定のピプラーワー(インドに属す)もカピラヴァストゥの遺跡と言われていることから、長年論争が起きており、現時点では、どちらの地が、カピラヴァストゥなのか学術的な裏付けのある最終結論が出ていない。

昨夜のネパール走行用のナンバープレートがフロントガラスにあることを確認して、一路、ティラウラコットに向かう。数分しかたっていないが、早くも「ウエルカム、ルンビニー」のゲートが現れた。妙に早い。。


直線道路が続くので走行しやすいが、ちょっとスピードを出しすぎではないか。。


ティラウラコットへの中継地となるタウリハラのゲートが見えてきた。時間は8時15分で、出発から30分ほどしか立っていない。こんなに順調に移動できるならと欲が出て、もう1か所近くの遺跡を見に行くことにした。


ティラウラコットへは、タウリハラのロータリーから北に行くが、逆に南に行ったすぐのクダン遺跡に向かう。ロータリーの中心には、黄金色の仏陀の坐像がある。


すぐに右側に「クダン遺跡」が見えてきた。仏陀が活躍していた時代、ここは「ニグローダ樹園」と呼ばれており、悟りを開いた仏陀が故郷に戻って来た際に、カピラヴァストゥに戻る前に、仲間の僧侶と滞在した場所と言われている。


通り沿いから門を入ると、公園の様な空間が広がり、前方に煉瓦を積み上げた古びた大きな仏塔らしき遺構が見える。上部には、タルチョー(祈祷旗)らしき旗がはためいている。


その遺構に向かって歩いて行くと、左手にお椀上の小ぶりな丘があり、その頂部に塔が建っている。


おとぎ話に出てくる様な素朴な形をしているのが印象的である。近代の建物だと思われるが、塔の上には地上から伸びた木が絡み付いて枝を広げている。


側面に入口があり塔の中を覗き込むと、シヴァ神の象徴としてのリンガが祀られており、横には、シヴァ神が乗るナンディ(牡牛)像が、そしてガネーシャ像が祀られている。


最初に正面に見えた大きな仏塔らしき遺構には階段が設置され上ることができるようだ。


仏塔の下部側面には、細かい装飾が施されている箇所がある。


鉄柵の階段につかまり上って行くと公園の遊具で遊んでいる感覚に陥りそうだ。仏塔の頂部には、正方形に模られたくぼみの中心にリンガが祀られている。


すぐ北側には、もう1つの仏塔と思われる遺構がある。公園内には他にも遺構が眠っているのか、ゆるやかに起伏する場所があり、散策を続けたいが、時間にゆとりはないので、あきらめて車に戻った。


目的地のティラウラコットには15分ほどで到着した。前6~前5世紀頃、インドには大小さまざまな国がひしめいていたが、この地を治めていたのが、シャーキヤ族(釈迦族)であった。シャーキヤ族は自尊心が非常に強い民族だったが、一部族・小国であったことから、西隣のコーサラ国(インド十六大国の一つ)の支配下にあった。

そのシャーキヤ族のカピラヴァストゥ(カピラ城)があったとされる候補の一つがこの遺跡群と言われ、周りをフェンスで囲まれた東西400メートル、南北550メートルの広さがあり西側が遺跡への入口となっている。立て看板によると見所は「西門、中央遺跡、東門、2つの仏塔」の4か所となっている。それでは入場してみよう。
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最初になだらかなあぜ道を上って行く。


坂に上って右手を見ると、城壁の跡と思われる煉瓦が南側に連なっており、前方にタルチョーが見える。


近づくと、構造物の基壇らしい遺構が見え始めた。


そばには立て看板があり、カピラ城の西門と表示されている。西門は城壁に隣接して長方形状に煉瓦が積まれていることから大きな建造物だったようだ。


横から眺めてみると約6メートル幅の複雑な形をしているのが分かる。おそらく城門は防御や物見のための役割を果たす要塞で、二重(或いは三重)の門で構成されていたと思われる。中央部分は通行しやすいように低めに煉瓦が積まれているが、城の一番手前には煉瓦はない。発掘された際には、基礎はもちろん、銅銭や多くの金属片なども見つかったという。


西門の跡の周りには草木が覆い茂り見るべきものはないようだ。再びあぜ道を歩いて行く。遺跡内は坂が続くことから、カピラ城は、台地の上に聳えていたことが分かる。


しばらくすると、目の前一面に遺跡が広がっている。案内板には「古代の連なった遺跡」と書かれているだけで詳しい表示はないが、あちらこちらに正方形や長方形に煉瓦が複雑に積まれていることから、柱や壁で仕切られた部屋がいくつも並ぶ巨大な建造物だったのだろう。おそらく城の中枢部(主殿)にあたる遺構と思われる。


当時、カピラヴァストゥを治めていたのは、シャーキヤ族の王、シュドーダナ王(浄飯王)であり、その妃マーヤー夫人との間に生れたのがシッダールタ王子(後の仏陀)だった。王子は、この城で、一族の期待を一身に集め、専用宮殿や贅沢な衣服・世話係・家庭教師などを与えられ、教養と体力を身につけ、多感でしかも聡明な青年として育って行く。


引き続きあぜ道を東方向に向かう。


しばらくすると遺構が現れた。こちらは東門があった付近で、カピラ城内のやや北西側から東門方向を眺めている。左側から続く二重の煉瓦の壁が右側で途切れる辺りが東門の場所にあたる。


近づいてカピラ城内の西南側から東門出入口を眺めてみる。東門の周りの煉瓦は、西門と異なり、時代の経過とともに地面が隆起したり陥没をしたのか、煉瓦自体があちらこちらで波打って崩れている。


仏伝によると、シッダールタは、ある日、カピラ城の東西南北にある四つのそれぞれの門の外で、老人、病人、死者、修行者に出会い、その苦しむ姿を目のあたりにして、人生に対する儚さを知り、生の真実を追求しようと志し出家を思い立つ(四門出遊)。そして、29歳となった、ある深夜、愛馬カンタカにまたがり、カンタカの世話をするチャンダカに綱をひかせ、この東門から旅立ったという。

逆に東門の外の通路側からカピラ城の方向を振り返って見る。シッダールタが生活していたころは、様々な建造物が所狭しと立ち並んでいたと思われるが、現在は草木が覆い茂るのみである。


東門から北側には、城壁が歩道の様に続いていることから歩いてみる。


シャーキヤ族は、仏陀の晩年に、コーサラ国のヴィドゥーダバ王(毘瑠璃王、或いはルリ王)により、攻め滅ぼされた。その原因の一つとして、王は、シャーキヤ族の大臣が召使に生ませた娘を母親として生まれたと、シャーキヤ族が嘲笑するのを聞いて、父、母、シャーキヤ族を恨み続けたことが挙げられる。

ヴィドゥーダバ王が、シャーキヤ族を滅ぼすべくカピラヴァストゥに進撃してきた際、仏陀は、これを止めようと、一本の枯れ木の下で坐して待っていた。王が仏陀に「他に青青と茂った木があるのに、なぜ枯木の下に座っているか」と問うと、仏陀は「王よ、親族の陰は涼しいものである。」と静かに答えたという(他人の中に独りで居るよりも、どんなによいことか、の意 )。

王は仏陀の答えを聞いて攻撃を中断するものの、その後、再び攻撃を開始し、再び仏陀と会い攻撃を中断する。やり取りは3度繰り返される(仏の顔も3度)が、仏陀は、その宿縁を止めることは難しいと悟り、4度目の攻撃でシャーキヤ族は滅ぼされた。。

シャーキヤ族の滅亡後は、カピラ城は再建されず、5世紀初頭にこの地を訪れた中国東晋時代の僧、法顕(337~422)によると城址はすでに荒地になり、民家が数10戸があったのみと記録されている。

遺跡の様子や東方面に広がる大地は、法顕が眺めた景色と大きく変わっていないかもしれない。


北側に延びる城壁はしばらくすると左に曲がり、西に向かっていく。広い池のそばを過ぎたその先で、周りを藪で覆われ城壁は途切れている。


しばらく藪をかき分け歩くと、ヒンドゥ教の祠が現れた。祠の左右には大小さまざまの象の彫像が並んでいる。


祠を裏から見ると、木の根と一体化しており、そう遠くない将来には祠は崩壊するだろうと思った。すぐ先で、再び、城壁が現れ、しばらくすると、西側入口に戻った。


次に、城跡から200メートルほど北にあるツイン・ストゥ―パに車で向かった。ストゥ―パの近くには、粗末な藁ぶき屋根の家が並んでいる。シャーキヤ族の末裔なのかもしれない。。


左手にレンガ積みの大小ストゥーパが2つ並んでいる。シッダールタ王子の両親であるシュドーダナ王(浄飯王)とマーヤー夫人の火葬場跡に造られたストゥーパといわれている。


ストゥーパの上は、円状にレンガがきれいに並べられ中心部分がやや盛り上がっている。


最後に、カピラヴァストゥ遺跡の西側入口から500メートルほど西にある博物館へ向かう。午前10時の開館まで5分ほど待っていると、中から係員が現れ扉を開けてくれた。入場料はいらないらしい。


通路の先には、赤い煉瓦造りの展示室が現れた。喜んで館内に入ったが電気が付いておらず、辺りは暗い。


目が慣れてくると、展示ケースは傾き、ガラスは埃だらけ、床のカーペットはめくれあがりまるで廃墟のようである。展示物は、カピラヴァストゥ遺跡から発掘されたものだろうが、なんだか良くわからない。


外に出て周りを見渡すと、足元に無造作に仏龕彫刻が置かれている。


通路の両脇には小屋が並んでおり、突き当たりには大きめの小屋が見える。


通路の両脇にある小屋を覘くと、鉄格子の奥には、蔓の紋様が刻まれた石の部材が一つだけ見える。


通路の突き当たりまで行ってみた。東屋の様な建屋の下には円台があり、その上に、柱頭や梁、破風などの装飾部材だと思われる遺物が、無造作に並んでいる。円台に載らない遺物は、地面や柱に傾けて置かれている。もう少し、展示の仕方を工夫すれば良いと思った。10分ほど見学して帰り際に係員に挨拶すると、何やら照れくさそうな表情をしていた。

(2012.11.25)
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インドへの旅(その14)ルンビニー(ネパール)

2013-03-24 | インド(仏跡)(その2)
時刻は午前9時40分、これから八大聖地の1つで、仏陀の生誕地ルンビニー(ネパール)へ向かう。クシナーガルからルンビニーへに向かうためには、まず50キロメートル西にあるゴーラクプルを起点に、95キロメートル北上したスノウリまで行き、そこで国境を越える。さらに5キロメートル北上したバイラワから西に20キロメートルほど行ったところが、ルンビニーである。インドは日本と同じ左側通行だが、相変わらずルールを無視してバイクが逆走して来る。
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しばらく走行すると急に中央分離帯がなくなり細い田舎道になった。道路の舗装も剥げ落ち、粉塵や土埃が酷くなり乗り心地が悪い。しばらくすると前方からラクダの大群がやってきたので驚いた。
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クシナーガルを出発して1時間が経過すると、左側に防壁のある空軍基地が現れた。
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午前11時にゴーラクプル市内に到着した。ゴーラクプルは、ウッタル・プラデーシュ州の都市で、ゴーラクプル県の県都である。人通りも多くなり、さすがに賑やかだ。西に向かって来た27号線から、24号線に乗り換え北に向かう。
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午後12時、お腹が減ってきたので、バナナ、リンゴ、ミカン、ミネラルウォーターを買う(計80ルビー)。お腹を壊さないためには、果物は皮付きを買い、良く洗ってから剥いて食べることが鉄則である。
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午後1時半、トイレ休憩。。
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その後、ガソリンスタンドで燃料を30リッター(料金は1,500ルビー)補給する。
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午後2時、通りが混雑し始め、左右に店舗が並びだした頃、ようやく国境沿いの町スノウリに到着した。
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インド人がネパールに出国する際は出国手続きの必要がないので、ドライバーのヴィージェイは先にネパール側に行って待っているという。右側の古びた建物がイミグレーションオフィスだが、周りの店と佇まいが同じなので少しわかりづらい。
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インド観光ビザの有効期間は半年間だが、一度インドから出国すると2か月間再入国ができない面倒な決まりがある。この問題をクリアするためには、予め、Eチケットのコピーと、英文の旅行日程を事前にビザ申請センターに提出し、再入国可の数次ビザを取得する必要がある。そのため国内で事前に手続きを取ってきた。

カウンター受付に管理官が3名いて、更にその奥に座る数人の管理官が見える。出国カードをもらって立ったまま記入しパスポートと一緒に渡すと、管理官がチェックし、数人分を束にして後ろの管理官に渡す。10分ほど待つと名前を呼ばれ刻印が押されたパスポートが無事返された。心配していたがあっさり手続きが終わり感謝しつつネパール方面に歩いて向かう。
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前方にネパールの国境ゲートが見えてきた。
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国境ゲートを越えると、すぐに右手にネパール側のイミグレーションオフィスがある。綺麗な建物で、中に入ると、他に待っている旅行者はいなかった。
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出国同様にあっという間に手続きが終わりしばらく歩くと、右手の駐車場で、ヴィージェイが白ひげにトーピーを被っているネパール人と話し込んでいた。両替をしたいと言うと、そのネパール人はチャイを差出し自分が両替をすると言う。若干怪しいと思ったが、1000ルビーを差し出すと、男は懐からネパール札束を取り出し1600ネパールルビーをくれた。

ヴィージェイには、緑色スチール板に手書きで白い文字が書かれたもの(デワナガリー文字が書かれたナンバープレート)を手渡されている。インドの車でネパールに入国する際は国境でネパールナンバーを取得する必要がある。取得後はフロントガラス前に置いておけばOKとのこと。その後、近くのホテルでチェックインをして、ルンビニーに向かった。
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しばらく走ると、突然ヴィージェイの顔色が変わった。前方に、拳銃を下げた警官らしき人物が数人見える。。どうやら検問のようだ。窓を開けると、警官は、車内を覗き込んで「どこから来たのか、どこへ行くのか、鞄には何が入っている、開けろ!」とやたらしつこい。そのうち問題ないと判断したのか「行ってよい」と許可が出た。ほっとして再び車を進めるが、時間は午後3時を過ぎていた。30分ほど走ると左側に公園が見えてきた。
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到着したようだ。駐車場に車を停めて、急ぎルンビニー園に向かう。ルンビニー園は、後に仏陀となるゴータマ・シッダールタの生誕の地として世界中に知られており、1997年にはユネスコの世界遺産として登録されている。前方には円形の池があり、その中心に立つ塔上には右手を上げる幼きシッダールタ王子の彫像が飾られている。
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塔の下は、ちいさなオブジェが7つあるが、シッダールタ王子の足跡を表したもの。マーヤー夫人の右脇から生まれたシッダールタは、直後に七歩歩いて右手で天を指し、左手で地をさして「天上天下唯我独尊」と言った伝説に基づいている。
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池の東側に見えるオレンジが鮮やかな近代的な建物はミュージアムである。
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南側には煉瓦が敷き詰められた歩道が見渡す限り伸びており、中央には人工の水路が続いている。ルンビニー園までは2キロメートルほど先になるが、既に聖地公園の聖域に入っている。もともと仏陀の生誕地の周囲を聖地公園として整備する計画が立案され、1978年に日本の建築家丹下健三氏がマスタープランを作成して整備が進められた。しかし工事着工後20年以上経過したにも関わらずまだ完成していない。

既に、日の入りも近いせいか誰も歩いていない。急ぎ足で歩いて行くと遠くかららボートが波しぶきを上げながら現れた。送迎用のボートなのだろうか、周りの景色とそぐわないので、多少違和感を覚えた。
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歩道の左右(東西)には、木々が覆い茂っており、その向こうに寺院が見える。各国の寺院は東西に林立している。宿泊できる寺院も多いが、ホテルやゲストハウスなどのもこの聖域周囲にある。
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ようやくルンビニー聖園が近づいてきた。ルンビニー聖園は周りを池に囲まれた直径500メートルほどの円状の公園になっている。
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午後4時10分、ルンビニー聖園への入口に到着した。
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入口を入ると奥に白いマーヤー夫人堂(マーヤー・デーヴィー寺院)が見える。現在のお堂は、それまであった古い夫人堂が解体された後、2000年に新たに建設されたものである。
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右手にアショーカ王柱が見える。これは紀元前3世紀にマウリア王朝のアショーカ王がこの地を巡礼した際に建立した石柱である。
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表面には、インドの古語ブラフミー文字が見える。石柱には「神々に愛されたピダヤシ王(アショーカ王)は、即位灌頂して20年の後、自らここに来て参拝した。ここで、シャーキヤ族(釈迦族)の聖者仏陀が生まれたからである。。。仏陀がここに生まれたのを記念して、馬の石像を造り石柱を立てさせ、ルンビニー村は税金を減ぜられ、8分の1だけを払うものとされる。」と書かれている。この石柱からは馬の柱頭石像は失われているが、1977年に馬の首の破片も発見された。
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マーヤー夫人堂の南にはプスカリニ池があり、ここが、マーヤ夫人が沐浴し仏陀が産湯をつかった池と言われている。
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池のさらに南には、巨大な菩提樹が聳えておりタルチョーがはためいている。
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菩提樹の周りの石座では僧侶が経を唱えている。
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マーヤー夫人堂の周りには、紀元前3世紀から4世紀の僧院跡が広がっている。
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マーヤー夫人堂内にも多くの遺構が残されている。遺跡内には見学用の回廊が張り巡らされている。特に、見学コースの中心付近は警備員が配置され警備が厳重である。覗き込むと光が当たった白い小さな石が見える。この標石(マーカーストーン)の場所が仏陀が誕生した場所であるという。
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その後、外から再びマーヤー夫人堂を眺める。来訪者も少なく夕日に照らされる聖地を眺めていると、無事ここまで来られたことに喜びと安堵感が広がった。
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しばらく聖園内を散策していると日の入りの時間となった。ゆっくり滞在できないのが残念ではあるが、駐車場までの距離を考えるとそろそろ出発しなければならない。土産店を通り元来た道を歩く。
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水路が現れた。「永遠の平和の火」と名付けられたモニュメントがあり、この先さらに駐車場まで2キロメートル歩く。
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車で再びバイラワに戻った。時間は午後6時半である。そのまま食事に行く。
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長い一日だった。今日は長距離走行の上、無事国境を越えて、ルンビニー園の見学もできた。充実感に浸りながらビールを飲む。
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(2012.11.24)
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