カズさんの旅たび

 ~歴史、文化、芸術、美食紀行。。

イタリア・ヴェネツィア(その2)

2013-04-30 | イタリア(ヴェネツィア)
昨日同様サンタ・ルチーア駅を降り、向かい側の乗船口「フェッローヴィア・スカルツィ停留所」から、 サン・マルコ広場方面行きのヴァポレット(水上バス)赤82番(急行便)に乗船し、後部座席から後ろを振り返りながら、通り過ぎる「カナル・グランデ(大運河)」の風景を眺めている。こちらは「リアルト橋」を過ぎ、西に向けまっすぐの流れとなったところ。
クリックで別ウインドウ開く

西側に延びるカナル・グランデは、カ・フォスカリ(ヴェネツィア大学)付近で大きく左(南方向)に曲がり、更に「アカデミア橋」(カナル・グランデに架かる4つの橋のうち、唯一の木製橋)をくぐった先で東に向きを変える。左側ドルソドゥーロ区側には、コンタリーニ・ポリニャック宮が、右側サン・マルコ区側には、旗がたなびくパラッツォ・カヴァッリ・フランケッティ館、白い六層のパラッツォ・バルバロ館などが建ち並んでいる。
クリックで別ウインドウ開く

そのすぐ先の「サルーテ聖堂」と「プンタ・デッラ・ドガーナ現代美術館」(上部には、アトラス像が支える黄金の球体上で旗を振る女神の姿がある。)でカナル・グランデは終わり、南のジュデッカ島からの流れの「ジュデッカ運河」になる。
クリックで別ウインドウ開く

ヴァポレットは、大きく左側に舵を切り、ジュデッカ運河(サン・マルコ運河)北岸の「サン・マルコ・ジャルディネッティ停留所」に到着する。
クリックで別ウインドウ開く

お土産屋が連なるジュデッカ運河沿いの通りには「王の庭園」がある。もともと穀物倉庫が建っていたが、ナポレオン支配時代に取り壊わされ公園にしたことから名付けられた。旧行政館の建物後方には「ヴェネツィアの鐘楼」が聳えている。


そのすぐ右側に、ヴェネツィア共和国の元首邸兼政庁「ドゥカーレ宮殿」が建っている。初期のヴェネツィア共和国時代の810年に元首(ドージェ)の居城として建てられ、その後、住宅、行政府、立法府、司法府、刑務所など国の中枢機関となった。その後何度か再建され、15世紀後半には、現在の姿となったと言われている。その後も改修が繰り返され、1923年からは博物館となっている。建物の内側には大きな中庭があり、その中庭北側は、サン・マルコ大聖堂の南袖廊にあたる。
クリックで別ウインドウ開く

ドゥカーレ宮殿の西側は小広場になっており、その入口左右にはそれぞれの頂部に、「守護聖人テオドロス」と「聖マルコを象徴する有翼の獅子像」が飾られた二本の石柱が建っている。中世にはこの柱の間に死刑執行台を設置したため、ヴェネツィアっ子は柱の間を通り抜けないという。その小広場の奥にはサン・マルコ大聖堂の姿が見える。

ドゥカーレ宮殿の西側アーケードに沿ってサン・マルコ大聖堂方向に向かう。ドゥカーレ宮殿の一階部分は、ゴシック風の尖塔アーチがアーケードを形成しており、二階部分は欄干があるロッジアで、三葉アーチと四つ葉模様に円形装飾で飾られるなどイスラム建築の影響も受けた細やかな装飾が施されている。中央付近のやや強調された柱の上、二階ロッジアの柱上部には、正義、公正を象徴するトンド(円形の浮き彫り)が飾られている。そのロッジア左側にある赤い2本の柱は儀式の際に利用された。
クリックで別ウインドウ開く

これら14世紀と15世紀の精緻なヴェネツィア彫刻群は、1876年に大規模な修復計画が開始された際に美術館などに保存され、現在はコピーに置き換えられている。とは言え、アーチを構成する円柱の柱頭彫刻は、どれもデザインが異なった上、細かく装飾されている。こちらのアカンサスの葉もかなり手が込んでいる。
クリックで別ウインドウ開く

ドゥカーレ宮殿のアーケードに沿って小広場を北側に進むと、左側にヴェネツィアの鐘楼が、正面にサン・マルコ大聖堂の南側面が見えてくる。
クリックで別ウインドウ開く

ドゥカーレ宮殿の北西角にある柱頭彫刻の上には、ソロモンの裁きが飾られている。そして、右側に回り込むと、後期ゴシック建築の装飾で飾られた「ポルタ・デラ・カルタ(布告門)」がある。宮殿への儀式用の入口で1438年から1443年にかけて建てられた。中央には聖マルコを象徴する獅子像(1797年に破壊され1885年に置き換えられた)の前にひざまずく元首フランチェスコ・フォスカリ(在任:1423~1457)の彫刻があり、両側にはキリスト教の四つの古典的な美徳(節制、慎重、勇気、正義)を表した彫刻群で飾られている。15世紀ヴェネツィア彫刻の傑作とされている。
クリックで別ウインドウ開く

すぐ左側のサン・マルコ大聖堂の外壁角には、赤斑岩で作られた四体の像が飾られている。こちらは、帝政ローマ後期の皇帝ディオクレティアヌス(在位:284~305)が西暦293年に始めたテトラルキア(ローマ末期の東西正副皇帝の共同統治)制度を象徴する像である。もともとコンスタンティノープル総主教庁の装飾の一部であったが、第四次十字軍(1202~1204)により戦利品(略奪品)としてヴェネツィアに移された。二人ずつ抱き合う像は別々に制作されたもので、一部白い個所(像の白い足と台座)のオリジナルは今もイスタンブールに保存されている。
クリックで別ウインドウ開く

サン・マルコ大聖堂の南壁沿い(テトラルキア像のすぐ左側)にある黒い大理石の角柱(両脇にある)はコンスタンティノープルのアギオス・ポリエウクトス聖堂(現存しない)からの戦利品「ピラストリ・アクリタニ」(柱材)である。次に、街のシンボル「ヴェネツィアの鐘楼」の右側を通って「サン・マルコ広場」に向かう。
クリックで別ウインドウ開く

ヴェネツィアの鐘楼は、ヴェネツィア本島では、最も高い建造物で98.6メートルの高さがある。上部のアーチ型の鐘室には5つの鐘があり、その上のレンガ造りの壁には獅子と女性の浮彫と頂上には大天使ガブリエルの像が飾られている。

「サン・マルコ広場」から、サン・マルコ大聖堂全体を眺めてみる。長さ76.5メートル、幅62.60メートルで、中央のドームの高さは43メートルある。西側ファサードは、多色の大理石の柱で囲まれ、二層五連のアーチ構造で中央アーチ下のブロンズ製のドアが入口になる。
クリックで別ウインドウ開く

ところで、最初の大聖堂は、ヴェネツィア商人によりアレクサンドリアから運ばれた聖マルコの遺体を収容するために828年にドゥカーレ宮殿の場所に建てられたが、現在の大聖堂の基礎となったのは、元首ドメニコ・コンタリーニ(在任:1043~1071)在任時に建設が始まったもので、1090年頃完成したもの。そして、元首エンリコ・ダンドロ(在任:1192~1205)在任の1204年には、コンスタンティノープルを陥落した第四次十字軍が運んできた大量の戦利品で豪華に飾り付けられ、その後も改築、拡張が行われている。

向かって右側の二つのアーチは奥行きのある筒型ヴォールトで、左右両側を二層の列柱群が取り囲み支えている。扉口上部のティンパヌムには、右端が「アレクサンドリアから運ばれる聖マルコの遺体」で、手前のティンパヌムが「聖マルコ遺体のヴェネツイア到着」と聖マルコの物語がモザイク画で表現されている。
クリックで別ウインドウ開く

中央のアーチは、扉口の左右3本の側柱が支えるアーキヴォールトと、外側に3本の側柱が支えるアーキヴォールトが二層に組み合わさった豪華なアーチ門で、ティンパヌムには鮮やかなモザイク「栄光のキリストと最後の審判」(19世紀)が施されている。アーチの上のテラスには、コンスタンチノープルの競技場からの戦利品で、ヘレニズム時代の四頭の青銅像が飾られている(オリジナルは聖堂内部に展示)。
クリックで別ウインドウ開く

そして、次の4番目のティンパヌム「元首、市民による聖マルコ遺体の歓迎」までの3か所の聖マルコの物語は17~18世紀制作のモザイク画だが、最後の5番目のやや湾曲したティンパヌムに施された「大聖堂へ運ばれる聖マルコのお棺」のモザイク画は、13世紀に作られたオリジナルである。画面には、金を背景にしたサン・マルコ大聖堂の前に、豪華に着飾った多くの人々が集まり、聖マルコの納棺の儀式を執り行おうとする様子が表現されている。
クリックで別ウインドウ開く

その13世紀のモザイク画のあるティンパヌムは、左右の円柱や精緻な浮彫が施された尖塔アーチが支えている。その尖塔アーチ内の小ティンパヌムにも、マタイ、ヨハネ、ルカ及びマルコの福音記者の彫像や5つの異なる浮彫窓が施されている。

それでは、聖堂内の見学に向かうことにする。聖堂内は扉口を入ると、最初に南北に沿って前玄関(ナルテックス)があり、天井に美しいモザイク画が施されている。こちらのモザイク画が、サン・マルコ大聖堂最大の見所の一つとされているが、後で見学することとして、まずは身廊内から階段を上ってナルテックスの2階の中央フロアに向かう。

階段から見える一番手前のドームには「聖霊降臨(ペンテコステ)」が表現されている。キリストがドーム中央で鳩の姿(精霊)となり、その精霊の光を放射してキリスト教の教えが十七使徒へと受け継がれていく象徴的なモザイク画である。サン・マルコ大聖堂のモザイク画はムラーノ島で製造された上質なテッセラ(小さな角片)を使用し、11世紀末から19世紀にかけて制作されたもので、こちらの聖霊降臨は初期の12世紀頃の制作とされる貴重な作品である。
クリックで別ウインドウ開く

円形ドーム下部のペンデンティブ(穹隅)には、美しい天使のモザイク画が施されている。天使はこちらに視線を向け、手を胸におき、やや前かがみの姿勢で歓迎している様にみえる。
クリックで別ウインドウ開く

ナルテックスの2階中央フロアには、ファサード側に大きな半円形の明り取りの窓がある。そして、天井はモザイク画で覆われた分厚いトンネルヴォールトで「最後の審判」や「ヨハネの黙示録」(19世紀制作)(こちらは大天使ミカエルと竜の戦い)などのモザイク画が施されている。

聖堂は、ビザンティン建築のクロス・ドーム形式を基本とし、十字の各5か所に独立したドームを乗せている。中央フロアからは金のモザイク画で覆われた身廊全体が見渡せるが、この辺りは19世紀に制作されたものが多い。一番奥の後陣アプスには、宇宙の支配者「偉大な全能者ハリストス」が見える。あちらは16世紀に制作されたもの。
クリックで別ウインドウ開く

その「偉大な全能者ハリストス」の手前ドームのペンデンティブには、聖マルコを象徴する「有翼の獅子像」のモザイク画がある。遠くてわかりにくいが、獅子像は、目を見開き、左右に翼を広げ左手に草花を持ち、右腕を前に差し出す上半身が表現されている。
クリックで別ウインドウ開く

ファサード側の大きな半円形の明り取りの窓から、四頭の青銅像が飾られたテラスに出られ、サン・マルコ広場を眺めることができる。右側(北側)には、「サン・マルコ広場の時計塔」が見える。中央には、十二宮の浮彫で飾られた天文時計があり、屋上には、ムーア人のブロンズ像が正午に鐘を鳴らしていることから「ムーア人の時計塔」とも呼ばれている。時計塔は、1499年元首アゴスティーノ・バルバリーゴ(在任:1486~1501)の時代に建てられた。その後19世紀には、ヴェネツィアの標準時となり、現在も、修理が繰り返され、時を刻み続けている。


そして正面がサン・マルコ広場で、多くの観光客が集まっている。広場は、南北82メートル×東西157メートルの広さがあり、周りを取り囲む長いアーケードが続く建物は、16世紀初頭に建てられた旧行政館で、国の高官である財務官の住居や事務所として使用された。現在は、1階にショップやレストランが並び、2階にはオフィスがある(こちらは広場から見た様子)。正面西側から南側は、現在はコッレール博物館となっている。
クリックで別ウインドウ開く

左側(南)がジュデッカ運河の方向になる。広場には左が有翼の獅子像、右が守護聖人テオドロス像と二体の石柱が飾られている。ジュデッカ運河の対岸には、右側に「ジュデッカ島」が、左隣に「サンジョルジョ・マッジョーレ島」やサン・ジョルジョ・マッジョーレ聖堂のファサードが望める。
クリックで別ウインドウ開く

テラスの南西側からサン・マルコ大聖堂のファサード中央部を見上げると、尖塔の先に聖マルコの彫像が飾られているのが見える。

再び大聖堂内に戻り、左(北側)に向かうとサン・マルコ博物館になり、最初にオリジナルの四頭の青銅像が展示されている。その先には、19世紀の改築の際に発掘された古いモザイク画が間近で鑑賞できる。
クリックで別ウインドウ開く

モザイク画のテッセラ(小さな角片)は、小指の先ほどに小さい。漆喰の上にテッセラを水平にせず、やや斜めに埋め込まれている。このことにより光が四方に反射する効果を生むそうである。
クリックで別ウインドウ開く

博物館の通路からは、聖堂北側の上部のモザイク壁画を鑑賞することができる。北袖廊の上部には、聖母マリアの生涯がモザイク画で描かれている。12世紀制作のもので、手前には受胎告知の場面があり、左上壁に妊娠中の叔母エリザベトを訪問するマリアと、ナザレに戻ったマリアの懐妊を知るヨセフが表現され、隣の壁には、夢の中で天使に説得されるヨセフ、住民登録のためにベツレヘムへ向かうマリアとヨセフと続いている。ちなみに後半は南袖廊になり、そちらのモザイクは16世紀に制作されたもの。
クリックで別ウインドウ開く

北翼廊には、キリストが行った様々な奇跡の場面が表現されている。こちらは16世紀と17世紀に制作されたもの。


すぐそばの天井ヴォールトに施されたキリストの奇跡の場面は、タッチが古い。こちらも12世紀から13世紀頃のものか、美しいモザイク画である。
クリックで別ウインドウ開く

次に主祭壇に向かった。こちらの主祭壇の裏側にあるのが、黄金の装飾衝立「バラ・ドーロ」で、サン・マルコ大聖堂の見所の一つである。


バラ・ドーロは、縦2.1メートル×幅3.5メートルの大きさで、中央に「偉大な全能者ハリストス」、左右にヴェネツィア共和国元首の肖像、下部に聖マルコの物語が、エマーユ(エナメル七宝)で描かれ、黄金をベースに、真珠、エメラルド、サファイア、ルビーなどをちりばめ制作されている。古典金細工においては最大の大きさで、上部パネルを折りたためたが、現在は回転のみが可能で祭壇の正面側に向けることができる。

元首ピエトロ・オルセオロ1世(在位:976~978)が、コンスタンチノープルの名工に発注し、4人の元首によって長年、手が加えられ、現在の姿になったのは1345年と言われている。ちなみに、大天使ミカエルが描かれた最上部は第四次十字軍の戦利品と言われている。
クリックで別ウインドウ開く

最後に、ナルテックス(前玄関)のモザイク画を鑑賞する。ところで、当初のモザイクのほとんどが1106年の火災で失われたことから、その後に制作された中で、現在最も貴重なモザイクの一つとされるのが、13世紀初頭に追加されたナルテックスの天井画である。6世紀の図像を参考とし、適度に抽象化されつつも巧みな説話表現をしているなど大変評価が高い。そのナルテックスの南側天井には、天地創造を主題としたモザイク画が施されている(ファサード側の二層五連アーチの南から二番目のアーチの内側に位置している)。
クリックで別ウインドウ開く

物語は、小円蓋を同心円状に内側から外側にかけて、左回りに三区分の計26の場面が、ラテン語とともにモザイク画で表現されている。聖書にある「神は6日間働いて天地万物を創造し、7日目に安息をされた」とある日数は天使の人数と出来事で表現されており、5日目の魚と鳥や、6日目の動物などが、ペアで表現されているのも微笑ましい。外側には、眠っているアダムの肋骨を取ってイブを作り、禁断の木の実を食べるアダムとイブの「原罪」の場面などが表現されている。

その横にはノアの洪水の場面が描かれている。こちらは、ノアが造った方舟に、様々な動物を一組ずつ乗せる場面。


そして、洪水により溺れる人々、方舟から飛ばした鳩がオリーブの枝を持って帰ってきた場面などが表現されている。
クリックで別ウインドウ開く

こちらには、「バベルの塔」の建築の様子が表現されている。左側には、塔を建設する人々の様子で、右側は、神が降臨して、言葉を乱したため、人々が全地に散らばる様子が表現されている。
クリックで別ウインドウ開く

旧約聖書の創世記、大洪水、ノアの箱舟、バベルの塔の話と続いた後の隣の小円蓋には、「アブラハムの物語」が4つの場面から表現されている(ファサード側の二層五連アーチの南から四番目のアーチの内側に位置している。)。ラテン語の記述の合間に見える四つの星空は、神を示し、現れる手によって表現されている。
クリックで別ウインドウ開く

北西角の小円蓋から東側に向けて計4つの小円蓋が続き、最初の3つには「夢占い師ヤコブの物語」が、最後に「モーゼの物語」へと続くが、混雑した上に暗くて諦めた。。当然ながら、サン・マルコ大聖堂は、ヴェネツィアの中でも特に人気の高い観光地スポットであるため、やたら混雑している。モザイク画をじっくり鑑賞するなら数日間は要する。。そんな印象だった。。ちなみに左側の出口はティンパヌムに「大聖堂へ運ばれる聖マルコの棺」のモザイクがある5番目のアーチにあたる。


サン・マルコ大聖堂を出て、次に「サン・ザッカリア停留所」からヴァポレット赤82番に乗り(1つ目)ジュデッカ運河(サン・マルコ運河)南側にある「サンジョルジョ・マッジョーレ島」のサン・ジョルジョ・マッジョーレ聖堂に向かう。

この島は、ジュデッカ島の東側に隣接しており、直径1キロメートルにも満たない小さな島だが、サン・マルコ広場から近いことから、島からはサン・マルコ運河を隔ててドゥカーレ宮殿や鐘楼を眺めることができる。サン・ジョルジョ・マッジョーレ聖堂は、ベネディクト会の教会で現在の建物はパドヴァ生まれの建築家アンドレーア・パッラーディオにより設計され1566年から1610年にかけて建設された。
クリックで別ウインドウ開く

ちなみにアンドレーア・パッラーディオは、ジュデッカ島にある「レデントーレ教会」も設計している。レデントーレ教会は、1576年にペストが終息したことへの記念及び神への感謝を込めて建てられた。

サン・ジョルジョ・マッジョーレ聖堂内は無料で拝観することができる。古典的様式で16世紀に建てられた聖堂内部は、白で統一され明るい雰囲気である。こちらにはティントレット晩年期の傑作で、聖堂内陣のために描かれた「最後の晩餐」(画像出典:ウィキメディア・コモンズ(Wikimedia Commons)があることで有名。他にも、セバスティアーノ・リッチの「玉座の聖母子と聖人たち(1708年)」や、ヤコポ・ダ・パッサーノ(1510~1592)の「キリスト降誕」などがある。神々しく光り輝くキリストは、見つめる聖母や周りを明るく照らしている。
クリックで別ウインドウ開く

奥には鐘楼塔に上るエレベーターがある(3ユーロ)。その鐘楼塔の鐘室が展望台となっており、四方に胸までの高さの壁と、それぞれ二本の円柱で囲まれている。柱の間には転落防止用としてワイヤーロープが這わされている

最初に、先ほどまでいたドゥカーレ宮殿とサン・マルコ大聖堂付近をズームアップして眺める。ドゥカーレ宮殿は、これだけ離れた場所からも、細やかなイスラム装飾や連続するゴシック・アーチの外観が大変美しく見える。奥にはサン・マルコ大聖堂のドーム屋根も見える。
クリックで別ウインドウ開く

カメラを引いてみると、サン・マルコ広場のあるヴェネツィア本島の街並みと重なる様に、海の向こうの本土の街並みや、遠くの「モンテ・グラッパ」などの山並みも見える。左側に視線を移していくとカナル・グランデの出入口や、プンタ・デッラ・ドガーナ美術館とサルーテ聖堂が見える。
クリックで別ウインドウ開く

プンタ・デッラ・ドガーナ美術館の南側からは、ジュデッカ運河が流れ込み、対岸にはヴェネツィア本島に添うように浮かぶジュデッカ島が見える。ジュデッカ島には、ユダヤ人居住区があったことから、13世紀頃ユダヤ人居住区に因んで名付けられた。ヴェネツィアのユダヤ人は比較的裕福で栄えたことから、ヴェネツィアの財政に大きく貢献したという。
クリックで別ウインドウ開く

今度は、東側を眺めてみる。再びサン・マルコ広場のドゥカーレ宮殿から「パリャ橋」を渡ったプラッツォ・デレ・プリジオーニ(宮殿の監獄)の先隣りの赤い建物は5つ星の高級ホテル「ホテル・ダニエリ」である。かつてヴェネツィア共和国が繁栄した14世紀に貴族ダンドロ家の屋敷として建設された建物で、19世紀に改装され現在のホテルとなった。
クリックで別ウインドウ開く

右側に視線を移していくと、海岸沿いにはイタリア王国の初代国王を称えるブロンズの記念碑があり、その先の「ピエタ橋」を渡り、サンタマリアデッラピエタ教会のファサードの後方のドームが「サン・ザッカリア教会」で、次の「セポルクロ橋」の手前が、昨夜の夕食場所「ホテル・メトロポール」である。右側のひと際高い鐘楼(約70メートル)は、ヤコポ・サンソヴィーノによって1554 年にヴェネツィア・ルネサンス様式で建てられた「サン・フランチェスコ・デッラ・ヴィーニャ教会」である。
クリックで別ウインドウ開く

更に右に視線を移すと、奥に内海のある「アルセナーレ」(造船所施設)がある。もともと、1104年にヴェネツィア共和国により設置された国立造船所で、オスマン帝国との戦争状態に入った15世紀頃は、2万人もの労働者が勤務して1日1隻のガレー船を建造していたとされる。現在は、海洋史博物館や海洋軍事研究所などがある。
クリックで別ウインドウ開く

右側は、本島の東端にある緑の森「ジャルディーニ」(カステッロ公園)で、ピンクのビエンナーレ看板が見える。こちらでは、1895年から二年に一度、奇数年の6月から11月頃まで「ヴェネツィア・ビエンナーレ」(現代美術の国際美術展覧会)が開催されている。反対側には、ラ・チェルトーザ島や潟が隣接している。
クリックで別ウインドウ開く

ジュデッカ運河は、本島の最東端から左側に回り込む様に流れている。そして、遠方に広がるのはヴェネツィアの潟に浮かぶ「リド島」。長さは約12キロメートルの細長い島で、正面に見えるドームの右側に本島とのフェリーの乗船口がある。1971年公開のルキノ・ヴィスコンティ監督による映画「ベニスに死す」の舞台でもあり、毎年9月にヴェネツィア国際映画祭が開催されている。右側の小さな島の建物は、「サン・セルヴォロ島」の旧精神病院(マニコミオ)で、現在、博物館になっており、隣接してヴェネチア国際大学が設置されている。
クリックで別ウインドウ開く

次に「アカデミア美術館」に向かう。ヴァポレット赤82番に乗り、ドルソドゥーロ区のジュデッカ運河沿いにあるサンタ・マリア・デル・ ロザリオ教会(ジェズアーティ教会)そばの「ザッテレ停留所」で下船する。すぐそばの お店でジェラートを買って食べながら支流の「サン・トロヴァソ運河」沿いを北に歩くと、17世紀から続く「ボートヤード」がある。こちらはゴンドラの製造と修理のための造船所で、現在も手作業で製造されている。


そのすぐ北隣には「サン・トロヴァーソ教会」が建っている。ヴェネツィアの設立初期に建てられた歴史ある教区教会で、現在の建物は1591年に(1657年に奉献)再建されたもの。二重ファサードで、運河側と反対の西側にもある。


そして、北東方面に100メートルほど行くと「アカデミア美術館」に到着する。美術館のすぐ北側が「カナル・グランデ(大運河)」で木製の「アカデミア橋」が架かっている。こちらは、橋から西側を眺めた様子で、カナル・グランデが北側から大きく東側にカーブする所になる。橋の下のスチール屋根はヴァポレットのアカデミア停留所である。
クリックで別ウインドウ開く

振り返った東側は「カナル・グランデ」の出入口になり、ドルソドゥーロ区のプンタ・デッラ・ドガーナ美術館手前に建つサルーテ聖堂が望める。この時間、午後4時を過ぎ、西日がドームを照らし始めた。
クリックで別ウインドウ開く

それでは「アカデミア美術館」に向かう。美術館は、18世紀に創設された「ヴェネツィア美術アカデミー」を経て、1817年から現在の美術館に至っている。その館内には、ヴェネツィア派のジョヴァンニ・ベリーニを始め、盛期ルネサンスのティツィアーノ、ジョルジョーネ、ティントレット、パオロ・ヴェロネーゼなど巨匠の代表作を含め14世紀から18世紀までのヴェネツィア派絵画が中心に展示されている。

こちらは、ジョヴァンニ・ベリーニ(1430~1516)の「聖会話」(1490頃)で、聖母子を中心に左右にマグダラのマリア、聖カタリナが描かれている。暗い背景に浮かぶ登場人物の姿には神秘性が漂っており、ダ・ヴィンチから受け継いだスフマート(ぼかし技法)が大きな効果を上げている。
クリックで別ウインドウ開く

他にも、ジョヴァンニ・ベリーニの作品では、「聖母子像」(1485~1490)や「聖母子(双樹の聖母)」(1487頃)などが展示されている。双樹の聖母では、聖母が座る王座の背もたれの左右に描かれた、上部に向かって生い茂る細い木が、どことなく不安感を漂わせており、将来を暗示している様である。
クリックで別ウインドウ開く

そして、同じく、ジョヴァンニ・ベリーニの作品では、悲しむ聖母マリアがキリストを抱きかかえる「マルティネンゴ・ピエタ」(1505)が展示されている。傑作「サン・ザッカリア祭壇画」(玉座の聖母と諸聖人)とほぼ同時期に描かれたもので、聖母マリアの紫青の二色マントやキリストの腰巻と繋がってみえる白のスカーフなど色使いが印象的な作品。閉ざされた園を示唆する様に二人を緑が鮮やかな芝生が取り囲み、背景には、ヴェネツィアの建築物を配置している。作品名は、マルティネンゴ家の所有だったことに因んで名付けられた。

ジョヴァンニ・ベリーニの義兄弟にあたるパドヴァ派の画家アンドレア・マンテーニャ(1431~1506)の「聖ジョルジョ」(ゲオルギオス)(1460)が展示されている。ジョルジョは馬に乗って戦う姿と異なり、既に竜を倒し、折れた矢を片手に立っている。竜は足元に倒れ、口の中に折れた矢が刺さっている。ジョルジョと竜は大理石の枠から一部はみ出るなど、マンテーニャお得意のイリュージョニズム(だまし絵)技法で描かれている。

初期ヴェネツィア派を代表する画家ヴィットーレ・カルパッチョ(1465頃~1525)の9枚の絵画よる連作「聖ウルスラ物語」(1490頃)が展示室一杯に飾られていた。こちらは大使の到着(部分)聖人の夢巡礼者と教皇との会談や、ケルンへの巡礼者の到着である。聖ウルスラ(?~383頃)とは、ブリタニアの地方のキリスト教徒王の娘で、1万1000人の乙女を引き連れてローマに巡礼した帰路、ケルンでフン族の襲撃により殉教したとされている。

こちらは、ティツィアーノ(1490頃~1576)の最後の作品「ピエタ」(1576)で、サンタ・マリア・グロリオーザ・デイ・フラーリ聖堂をティツィアーノ自身の墓所と決め、埋葬の返礼として制作を始めたものだが、途中で亡くなったことから弟子のパルマ・ジョヴァーネが完成させたもの。右側でひざまずく聖ヒエロニムスはティツィアーノの自画像と言われている。
クリックで別ウインドウ開く

そして、ルネサンス期の巨匠ジョルジョーネの傑作「テンペスタ(嵐)」(1506~1508頃)が展示されている。乳児に母乳を与える女性が描かれているが、女性は、乳児を膝に乗せす地面に座らせて半裸身があらわにしている。小川の対岸には、長い槍を持つジプシー風の男性がどこか遠くを眺める様に立ち、遠くには暗雲が立ち込めている。この絵画は、エデンの園、エジプトへの逃避、パストラルなど様々な解釈があるが、解明されていない。
クリックで別ウインドウ開く

同じくジョルジョーネの作品とされる「老女(ラ・ヴェッキア)」(1506頃)。壁の向こうから、年配の女性が「時の経過とともに」と書かれた巻紙を持ち、激しい苦しみ表情と仕草で鑑賞者に訴えかけようとしている。老いによる人生の儚さを象徴する寓意的な作品。
クリックで別ウインドウ開く

そして、ティントレット(1518~1594)の「聖マルコの奇跡」(1548)。敬虔なキリスト教徒である奴隷が、主人の許可を得ないまま、聖マルコの遺蹟の巡礼をしたことから、死刑を宣告されて殺されようとするところに、天から聖マルコが現れ、奴隷を救ったという場面である。
クリックで別ウインドウ開く

同じく、ティントレットの「ヴェネツィアに運ばれた聖マルコの遺体」(1562~1566)。近くの被写体は濃く描かれ、背景に行くほどの白く描かれてる印象的な遠近法が有名な作品。 赤と黒の不吉な雲が重い雰囲気を醸し出している。ラクダの横にあるひげを生やした男はティントレット自身と言われている。
クリックで別ウインドウ開く
ティントレットの作品は、他にも多数展示されており、こちらの「アダムとイヴ」(1550頃)では、対角線的に二人を配置した高度な遠近法が用いられている。

パオロ・ヴェロネーゼ(1528~1588)の代表作「レヴィ家の饗宴」(1573)が展示室一面に飾られている。16世紀の絵画作品で最も大きな絵画の一つで、555センチメートル×1310センチメートルある。「最後の晩餐」として、ドミニコ会の修道院であるサンティ・ジョヴァンニ・エ・パオロ聖堂の後壁を飾るために描かれたが、画面には、馬鹿親父、酔ったドイツ人、小人、下品で下劣な表現などが見られることから、ローマカトリックの異端審問による調査が行われ、結果的にキリストが宴会に招待されたエピソードを題材として「レヴィ家の饗宴」とタイトルが変更になったという曰く付きの作品。
クリックで別ウインドウ開く

ちなみに、こちらが、中央付近の拡大画面である。キリストの左右にペテロとヨハネが座り、ユダは赤い衣姿でこちら側に振り向いている。
クリックで別ウインドウ開く

同じく、パオロ・ヴェロネーゼの「アレッサンドリアの聖カテリーナの神秘の結婚」(1575頃)。聖女カテリーナが幼児キリストから結婚指輪を受け取るという幻想の場面。
クリックで別ウインドウ開く

こちらは、イタリアルネサンス期の画家ピエロ・デラ・フランチェスカ(1412~1492)の「ヒエロニムスと寄付者」(1451)。作品には聖ヒエロニムスと、隣に傅ずき礼拝する寄進者の姿が描かれている。読書を邪魔されて不機嫌な様子にも見える聖ヒエロニムスの表情が印象的な作品で、背景は、ピエロ・デラ・フランチェスカの故郷トスカーナ州のアレッツォ近郊の山間の町サン・セポルクロの街並みと言われている。
クリックで別ウインドウ開く

2時間ほど鑑賞した後の午後8時過ぎ、サンタ・ルチーア駅方面に向け、ヴァポレット1番に乗船し、リアルト橋を過ぎたカンナレージョ区側の「カ・ドーロ停留所」で下船する。海岸沿いからは狭い路地を抜け東西に延びる広い商店街を東に130メートルほど行った左側の小さな3階建ての建物一階に今夜のレストラン「トラットリア・ダ・ジャンニ(Trattoria Da Gianni)」がある。店内は、煉瓦壁に天井梁やテーブルなどブラウン系の木材で統一された内装にクリスマスの飾り付けがなされ温かい雰囲気である。


最初に魚介の前菜(14ユーロ)を注文し、魚介のパスタ(12ユーロ)と、


焼き海老(ポレンタ付き)(17ユーロ)など甲殻系と貝系の料理を重点に注文したが、少し肉が食べたくなり、エスカロップとワインソース(ポレンタ付き)(12ユーロ)を併せて注文した。最後にドルチェとカフェで終えた。飲み物としてワイン(一杯5ユーロほど)、水等を頼み、総額102ユーロであった。


時刻は午後10時を過ぎたところ。お店を出ると商店街の人通りは少なくなり、昨夜同様に薄暗く寂しい雰囲気になっていた。


翌朝は、ヴェネツィア・テッセラ空港から、パリ・シャルルドゴール空港を経由して帰国することとしている。心配だった高潮(アックア・アルタ)の影響もなく、連日、天候にも恵まれる最高のヴェネツィア観光となった。
(2011.12.27)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

イタリア・ヴェネツィア(その1)

2013-04-30 | イタリア(ヴェネツィア)
ヴェネツィア本島にあるサンタ・ルチーア駅前の「フェッローヴィア・スカルツィ停留所」からヴァポレット(水上バス)1番(各停)に乗船し「カナル・グランデ(大運河)」をサン・マルコ方面へ向け出港したところ。

後部座席から振り返りながらカナル・グランデの通り過ぎる美しい風景を眺めていると、北側に繋がる支流「カンナレージョ運河」との合流点に、聖女サンタ・ルチアが祀られた白く美しいドーム「サン・ジェレミア教会」が建っている。そして運河沿いには、14世紀のボヘミア司祭で、ゴンドラの守護聖人ネポムクの聖ヨハネ像が運河の安全航行を見守る様に立っているのが見える。
クリックで別ウインドウ開く

ヴェネツィア本島は「西側に頭を向けた魚のような形」をしており、市街の真ん中を二部する様に「カナル・グランデ(大運河)」が北西から南東方面へ「Z字」に湾曲しながら流れている(その距離約3キロメートル)。ヴェネツィア本島では、1171年に制定されたセスティエーレ(六区制)を今も継承しており、大運河の北側を北西からカンナレージョ区、リアルト橋からサン・マルコ大聖堂や元首官邸裏の運河までをサン・マルコ区、東の造船所や港が集まるカステッロ区とし、大運河の南側を、経済活動の中心であるリアルト橋一帯のサン・ポーロ区、その北西側をサンタ・クローチェ区、南側のジュデッカ島を含んだドルソドゥーロ区とに分けている。

ヴァポレットに乗船してからのカナル・グランデはやや北側に向かい緩やかに右にカーブしていたが、その後は東方面にまっすぐ続いている。左側の街並みは北側のカンナレージョ区側にあたる。


ところで、ヴェネツィアまでは、今朝、パリ・シャルルドゴール空港を午前10時25分に出発し、ヴェネツィア・テッセラ空港に午後12時5分に着いた後、ヴェネツィア・メストレ駅前にある、今夜の宿泊ホテル(ベスト ウエスタン ホテル トリトーネ)にチェックインして、列車に乗りヴェネツィア本島の入口となる「サンタ・ルチーア駅」(乗車時間15分弱)までやってきた。ちなみに、本島内での移動のための公共交通機関はヴァポレットやゴンドラなどの水上交通になることから、ヴァポレットの72時間券(33ユーロ)を購入した(ヴァポレット乗船券は、他に、1回券6.5ユーロ、24時間券18ユーロ、48時間券28ユーロがある)。時間は切符に刻印された日時からスタートする。

しばらくまっすぐだったカナル・グランデは今度は、突然大きく右側に屈折し、すぐ目の前に現れた「リアルト橋」の下をくぐって行く。カナル・グランデに架かる4つの橋の一つで「白い巨象」とも呼ばれている 。時刻は午後4時を過ぎ辺りは薄暗くなってきていたが、橋をくぐった側は、西日がスポットライトの様に当たり、巨象がほのかに赤味を帯びた瞬間であった。
クリックで別ウインドウ開く

リアルト橋の先からカナル・グランデは、再びまっすぐになり今度は西に向かっている。リアルト橋を背景に緩やかに進むゴンドラなど旅情感あふれる風景が続く。到着したばかりで、これほど美しい光景に出会えるとは感激もひとしおである。
クリックで別ウインドウ開く

しばらくまっすぐ続くカナル・グランデは再び大きく左(南側)にカーブしていく。カーブした外側(ドルソドゥーロ区)には、ヴェネツィア大学を擁する「カ・フォスカリ」と、その先隣りに「パラッツォ・ジュスティニアン」が並んで建っている。パラッツォ・ジュスティニアンは、ドイツの作曲家リヒャルト・ワーグナーや、復古ブルボン朝フランスの王女ルイーズ・ダルトワの邸宅でもあった。


そして更にその先隣りの豪華なバロック様式の建物は「カ・レッツォーニコ宮殿」で、現在は18世紀頃の作品をメインとした美術館として公開されている。


カナル・グランデは緩やかに左にカーブして東側に流れを変える。南側の狭い指状の土地の上に建つのが「サルーテ聖堂(サンタ・マリア・デッラ・サルーテ)」で、1629年夏からイタリア全土を覆ったペストの終息を願い、聖母マリアに捧げる教会として建てられた。


聖堂は、巨大な八角形の建物の上部に市を象徴する大きなドームを配置した王冠型の聖体容器を思わせる形状をしている。ファサードには、大きな扉口のアーチを中心に、左右に二本ずつ円柱が立ち、福音書記者(マルコ 、ルカ、マタイ、ヨハネ)の彫像が納められている。

その先隣りの岬の突端にあるのが「プンタ・デッラ・ドガーナ」(旧:税関岬)で、塩の倉庫があり税を徴するための税関施設であったが、現在はフランスのピノー財団フランソワ・ピノー氏が安藤忠雄氏の協力を得て改装した「プンタ・デッラ・ドガーナ現代美術館」になっている。


プンタ・デッラ・ドガーナを過ぎると南側が一気に開け「ジュデッカ運河」となる。南側には、ジュデッカ島や隣接するサンジョルジョ・マッジョーレ島が姿を現す。海に浮かぶように建つ教会は「サン・ジョルジョ・マッジョーレ聖堂」で、歴史は古く8世紀後半に建設が始まったが、13世紀の地震で倒壊し、その後再建された。現在の建物は1610年のもので、鐘楼は1791年に完成している。


ヴァポレットは、プンタ・デッラ・ドガーナの対岸(北側)のサン・マルコ広場前の「サン・マルコ・ジャルディネッティ停留所」に向かっている。正面からヴェネツィアのシンボルとされる巨大な「ヴェネツィアの鐘楼」が迫ってくる。
クリックで別ウインドウ開く

しかし、これから「サン・ザッカリア教会」に向かうので、下船はせず、次の「サン・ザッカリア停留所」まで向かう。サン・マルコ広場からは、東に300メートルほど先になる。サン・マルコ広場の東側には、ヴェネツィア共和国の元首邸兼政庁「ドゥカーレ宮殿」の南外観全体が一望できる。一層目はゴシックアーチ、二層目は細い柱と四葉模様の円形装飾を持つアーチで、三層目はピンクと白の大理石による菱形文様が施された大きな壁面に大窓とバルコニーが取り付けられるなど、豪華で大変美しい建物である。中央の大窓は、1404年にダレ・マゼーニュ兄弟により制作されたもの。
クリックで別ウインドウ開く

右隣の運河には「パリャ橋」が架かり、隣に「プラッツォ・デレ・プリジオーニ」(宮殿の監獄)の建物がある。ヴェネツィアの犯罪者を収容するため、16世紀の終わりに建てられた。運河の奥の上部には「ため息橋」が架かり、ドゥカーレ宮殿2階にあった取調室と監獄とは渡り廊下で直接繋がっている。名前の由来は、監獄に向かう囚人がため息をついたことから付けられたが、日没時にこの橋の下でゴンドラに乗って恋人同士がキスをすると永遠の愛が約束されるのだという。1979年のアメリカ映画「リトル・ロマンス」もそんなラストシーンだった。

さて次の「サン・ザッカリア停留所」で下車する。
クリックで別ウインドウ開く

時刻は、午後4時半を過ぎたところだが、この時期は日の入りが早い。。水平線の薄明により、サンタ・マリア・デッラ・サルーテ聖堂や、南側のジュデッカ島の姿が鮮やかに見える。
クリックで別ウインドウ開く

目的の「サン・ザッカリア教会」は、海岸沿いから北に通りを5分ほど進んだ西側にある。ベネディクト派の教会で、洗礼者ヨハネの父ザカリアに捧げられ16世紀初頭に建設された。後期ゴシックとルネサンス様式が調和した白亜の堂々とした造りの西側ファサードから教会内に入ると、北側廊の中ほどにある第2祭壇の中央に、ジョヴァンニ・ベッリーニ(1430頃~ 1516)の傑作「サン・ザッカリア祭壇画」(玉座の聖母と諸聖人)(1505)が飾られている。
クリックで別ウインドウ開く

作品は、王座に座る聖母子を中心に、足元にヴァイオリンを弾く天使、左右対称に4人の聖人が優美で繊細なタッチで描かれている。聖母子に向かって左右にアレクサンドリアのカタリナ、シラクサのルチアが寄り添い、両端には、遠近感と奥行きが感じられる様に、左右それぞれ柱の前に、使徒ペトロ、聖ヒエロニムスを配している(拡大画像)。また左右に風景のある開口部を描くことにより明るさを効果的に演出している。教会内はかなり暗いが、賽銭箱にコインを入れると、祭壇画を照らす明かりがつくのが良かった。

サン・ザッカリア祭壇画と向かい合う様に南側廊の祭壇にはザカリアと伝わるお棺が収められ、その左隣(主祭壇側)には、ヴェローナとヴェネツィアで活躍したアントニオ・バレストラ(Antonio Balestra、1666~1740)の「羊飼いの礼拝」が飾られている。こちらも美しい作品だがライトは設置されていなかった。。
クリックで別ウインドウ開く

主祭壇の右奥には、サンタラシオ礼拝堂があり、アプスにはフィレンツェのアンドレア・デル・カスターニョ(Andrea del Castagno、1421~1457)が、フランチェスコ・ダ・ファエンツァ(Francesco da Faenza)と共同で描いた「キリストと諸聖人」(1442~1444)のフレスコ画がある。父なる神、4人の伝道者、聖人が描かれている。中央の黄金祭壇は、アントニオ・ヴィヴァリーニ(Antonio Vivarini、1440~1480)と義理の兄弟であるジョヴァンニ・ダレマーニャ(Giovanni d'Alemagna、1411~1450)による共作で15世紀に制作されたもの。
クリックで別ウインドウ開く

そしてサン・ザッカリア教会でのもう一つの見所は、ルネサンス期のヴェネツィア派を代表する画家ティントレット(1518~1594)の「洗礼者ヨハネの誕生」(1563)である。
クリックで別ウインドウ開く

今夜の夕食は、歩いて4分ほどの距離なのだが、少し時間が早いので、一旦、逆方向のサン・マルコ広場まで散策してみる。


午後6時を過ぎたので、夕食場所の「ホテル・メトロポール」にやってきた。辺りは外灯が少なく薄暗い雰囲気で人通りも少ない。今日はクリスマスで、多くの人は既に帰宅していることもあるのだろう。ホテルの前には、満潮後の高潮(アックア・アルタ)で街が浸水した際でも、濡れないようにギャングウェイ・システム(鉄の支柱と木製の厚板で作られた陸橋歩道のネットワーク)が設置されている。


ところで、ヴェネツィアでは、高潮が80センチメートルを超えると、サン・マルコ広場付近は浸水し始めるとされていることから、近隣のこの辺りも同じであろう。実は、過去2年連続でクリスマス前後は、80センチメートル超えの最高水位の冠水を記録しており、更に昨年12月に80センチメートルを超えなかったのは11日間しかなかったことからも、今回は、ずぶ濡れも覚悟でいたが、結果は浸水はなく大変ラッキーであった。。 

目的のレストランは、ホテル・メトロポール内にある「メインダイニングMET」(一つ星)である。しかし、ディナータイムには1時間も早かったことから、待ってくれと言われ、しばらく、レストランとホテルのロビーの間にあるソファーで待つことにした。この時間、他に人もいなく、ソファーの座り心地も良く、暖かいこともあり少し眠ってしまった。
クリックで別ウインドウ開く

午後7時を過ぎてしばらく経ったころ、スタッフから声をかけられ入店した。今夜はクリスマス・メニュー(デグスタズィオーネ・メニュー)(ワイン付き150ユーロ)があり、そちらをお願いした。最初に、アミューズとパンが提供される。一品目は、フォアグラのテリーヌに甘えびを乗せ、青りんごとバジルソースを添えたもの。


最初のワインは、アルザス・ワイン(白ワイン)の「マルセル ダイス」 。品種のゲヴュルツトラミネールは、エキゾチックなフルーツのアロマで、花やスパイスの香りがある。
クリックで別ウインドウ開く

二品目は、シチリア海老と鴨の詰め物を入れたトルテリーニと、パッサテッリ、マッシュルームにミントフレーバーを添えたもの。


次のワインは、スロベニア国境沿いのイタリア・オスラヴィア産の高級白ワイン「グラヴネル(Gravner)」。
クリックで別ウインドウ開く

メイン料理は、リコリス・ハーブとマグロの上にリコッタチーズを挟んだカノーロと梨のスライスを乗せ、更に、モンターズィオ(セミハードタイプのチーズ)とピスタチオ・アイスクリームを添えたもの。。


赤ワインは、こちらもかなり高級なフランス・ブルゴーニュ産で「ヴォルネイ・サントノ」(1978年)ルモワスネ・ペール・エ・フィス 。飲み頃になった古酒を蔵出し状態で提供することで知られるルモワスネのワインで、甘草や燻香の野性的な香りが特徴のワインである。
クリックで別ウインドウ開く

次のメイン料理は、大豆を乗せたホロホロチョウの胸肉とカモミールパウダー・マリネに、レモン風味のアルモニア・ソースをかけ、チコリとタジャスカ種オリーブを添えたもの。


栗のグラタン風クリームに、ヘーゼルナッツアイスクリームと白いアルバ・トリュフを添えたもの。


デザートを頂いた。


最後にミニャルディーズで終了した。ワインは、結構グレードも高く、ワインと料理とのマリアージュを楽しむ点では大変良かった。ちなみに料理だけの注文も可能だった(110ユーロ)が、ワインを頼まないならお勧めしない。料理もスムーズに出てきたが、終わってみると、時刻は既に午後10時になっていた。


店内は暗く、写真がうまく撮れなかったのは残念である(ワインはもう一種あったかも知れない。。)。。その後、ヴァポレットに乗りホテルに戻った。

**********************************

翌朝、ホテルで朝食を食べて、再び、列車でヴェネツィア本島にやってきた。今日は、これからヴァポレット61番に乗り「ムラーノ島」に向かう。「カナル・グランデ」からは、白く美しいドーム「サン・ジェレミア教会」先の「カンナレージョ運河」を左折し、すぐ先に架かるグーリエ橋を通過する。


カンナレージョ運河は北西方面に進むため、この時間、ヴァポレットの後部座席から後ろ向きに運河を撮影すると逆光になる。。


カンナレージョ区を抜けヴェネチア本島から北東部に向かう。遠ざかるヴェネチア本島の街並みの中に見える塔は「マドンナ・デッロルト教会」である。教会にはティントレットの作品が数多く展示されており、本人もこの教会に埋葬されている。
クリックで別ウインドウ開く

乗船から30分弱で「ムラーノ島」にやってきた。ムラーノ島は、ヴェネチア本島の北東に位置し、 ヴェネタ潟ではヴェネチア、サンテラズモに並び3番目に大きな島である。大小の運河で七つの島に分かれ、橋により繋がっている。ムラーノ島は、ヴェネツィアン・グラスの生産で世界中に知られているが、もともと1291年より国の政策でヴェネツィアのガラス工房がこの島に集められたことがきっかけで18世紀に至るまで西洋を代表する一大ガラス生産地となった。

ムラーノ島の最南端の「ムラーノ・コロンナ停留所」で下船して南北に延びる「リオ・デイ・ヴェトライ運河」を北に向け歩いて行く。


500メートルほどで「サン・ステファノ広場」にある時計塔が見える場所までやってきた。時計塔の足元にある青い彗星のオブジェはムラーノ・グラスで造られている。こちらの広場周辺がムラーノ島の中心地になる。
クリックで別ウインドウ開く

この運河沿いの通路の際に「サン・ピエトロ・マルティーレ教会」があり、左への路地の右側に入口がある。教会は1348年にドミニコ会修道院とともに建てられ、1511年に再建され現在に至っている。扉口を入った右側廊にある礼拝堂のすぐ先の壁面には、ジョヴァンニ・ベッリーニ(1430頃~1516)の手による「バルバリーゴ祭壇画」(玉座の聖母子と聖人)(1488)が飾られている。


バルバリーゴ祭壇画(画像出典:ウィキメディア・コモンズ(Wikimedia Commons) )は、幼子を抱え王座に座る聖母マリアの下にヴェネチア共和国元首アゴスティーノ・バルバリーゴ(在任:1486~1501)が跪いて、ヴァイオリンを弾く天使と左右に聖マルコと聖アウグスティヌスが見守っている。背景には白いアルプスの山並みが続いている。

アゴスティーノ・バルバリーゴが元首の時代は、15年以上続いたメフメト2世(1432~1481)率いるオスマン帝国との戦争も1479年に集結(ジョヴァンニ・ベッリーニの兄で画家のジェンティーレ・ベッリーニ(1429~1507)は、メフメト2世の肖像画を描くために派遣されている。 )し、バヤズィト2世(在位:1481~1512)治世では友好関係が続いていたが、1499年に再び戦争状態になりヴェネツィア領のレパントを失った。翌年、イスラム勢力の進出を重く見たヨーロッパではヴェネツィア、ハンガリー、スペイン、フランス、教皇庁による軍事同盟が結成されるなど、再び危機感が高まった頃である。

「リオ・デイ・ヴェトライ運河」は、すぐ先で東西に延びる大きな「ムラーノ運河」に合流する。対岸とは、緑色の鉄橋「ロンゴ橋」で繋がっている。そのロンゴ橋を渡り、ムラーノ運河沿いを東側に進んで振り返ると「サン・ピエトロ・マルティーレ教会」の鐘楼(1498~1502年築)と手前のサン・ステファノ広場の時計塔が望める。
クリックで別ウインドウ開く

そのままムラーノ運河沿いを東に歩き、すぐ先のムラーノ運河から北に分かれる運河に沿って進むと、左側に「ムラーノ・ガラス美術館」があり、更に少し先の左側の広場には、手前に大きな鐘楼を持つロマネスク様式の「サンティ・マリア・エ・ドナート教会」が現れる。鐘楼は、長方体にアーチの意匠が三層に渡り続き、三層目に時計が設置されている(壊れている)。最上部には、三連アーチ窓の鐘室がある。


教会は7世紀半ばに設立されたと伝わるが、現在の建物は1140年頃に再建されたもの。後陣は運河沿いの東側を向いており、ファサードは鐘楼とバジリカの間を進んだ西側にある。後陣は、一層目が列柱が続くポルチコと、二層目が円形アーチと欄干のあるロッジアから構成されている。
クリックで別ウインドウ開く

円柱や欄干を始め白い個所は大理石から造られている。特に、煉瓦を三角形に切り込み連続して飾られた文様や、煉瓦の赤と大理石の白とのコントラストが美しい。
クリックで別ウインドウ開く

アプスには、金色を背景に、聖母マリアが全身を濃い青のマフォリオンで覆い、両手を胸の前で開けて立っている。これは祈りのしるしを表している。12世紀前半のムラーノモザイクで制作されている。
クリックで別ウインドウ開く

次に、一旦「サン・ステファノ広場」に戻り、ムラーノ島東海岸沿いにある「ムラーノ・ファーロ停留所」からヴァポレット12番に乗船(約30分毎に運行。乗船時間は約30分)して「ブラーノ島」にやってきた。四つの小島で構成され、それぞれの島は橋で行き来できるようになっている。住宅街は各棟ごとに鮮やかな色で塗り分けられている。もともと、漁師が霧深い冬でも自宅に戻れるように自分の家を目立つ色で塗ったことが始まりとされる。現在では、外壁の色の変更は規制があり、隣と同じ色になってはいけないとのこと。


ブラーノ島の中心部には、たくさんのショップが集まっている。多くのお店では、この時期ならではのクリスマス商品や、カーテン、日傘、洋服、ハンカチなどレース木地でつくった商品などが売られていた。ブラーノ島では、15~16世紀からレース編みの産業が盛んで現在もレース商品が特産品となっている。レストランやカフェも多く、時刻は午後1時前になったこともありお腹が減ったが、この後の行程もあり諦めることにした。


次に「ブラーノ島」から「トルチェッロ島」へはヴァポレット9番(乗船時間5分、約30分毎に運行。)で向かった。トルチェッロ島は、南西にブラーノ運河、北と東はローザ湿原とチェントレーガ湿原に接している。停留所は、ブラーノ運河の西岸にあり、そこから島の東西に流れる細い運河沿いの歩道を東に向けて歩いて行く。左右には緑が広がる長閑な風景が続いており、小川沿いの田舎を歩いている雰囲気になる。


何とも寂れた印象の島だが、もともと、トルチェッロ島は、ヴェネツィア発祥の地と言われ、5世紀から6世紀にかけて数万の人々が住んでおり、11世紀に最盛期を迎えたという。その後、マラリアなどが発生したことから、ほとんどの建物を取り壊し建設資材として、本島に移って行った。現在はわずか10ほどの世帯が居住しているだけと言う。

途中に2~3軒のレストランがあり、その先に「悪魔の橋」と呼ばれる橋が運河に架かっている。手すりもなく、煉瓦と石を組み合わせた独特の形状をした階段状の橋である。


更に進むと、運河は直角に左に曲がるが、橋を渡ってそのまままっすぐ道が続いている。通路沿いには、ベンチなども置かれ公園を思わせる様な砂利道を更に進むと、広場になり、正面に2階建ての建物が建っている。前にはマリア像?が建つ円柱のオブジェがあり、左側の煉瓦造りの壁面には、紋章石板や聖人のレリーフなどが飾られ、周りに円柱、柱頭彫刻などが無造作に置かれている。この一帯は「トルチェッロ州立博物館」の屋外展示エリアになるとのこと。


左側にはこちらもトルチェロ州立博物館の施設で、14世紀の古い評議会の建物である。建物は、長方形の2階建てで南側に2階への外部階段と小さな塔がある。上部の鐘は当時のもの。広場を見下ろす西側には、ゴシック様式の2連の三葉アーチの窓がある。


対する様に右側にはビザンティン様式で建てられた「サンタフォスカ教会」が建っている。9世紀頃建てられ、現在の建物は11世紀頃に改築されたもので、正面は、エレガントな柱頭彫刻が施された5本の円柱がポルティコを形成している。ギリシア十字型の教会堂で、中央に大きなスクィンチ式の円形ドームが占めている。ドームは木で覆われ、壁面は煉瓦がむき出しのままで装飾はない。主祭壇には細長いアーチ窓の下に磔刑像が祀られている。もともと、殉教者記念堂で、ラヴェンナの聖女フォスカの聖遺物が祀られている。
クリックで別ウインドウ開く

サンタフォスカ教会に向かって右側(広場の手前)には、木とトタンで造られたスナック菓子を売る小さなお店があったので、昼抜きでお腹が減ったこともあり買って食べた。。

そして、広場の右奥には「サンタ・マリア・アッスンタ大聖堂」が建っている。7世紀の創建で、9世紀から12世紀頃にかけて増改築が繰り返された。主祭壇の金色のアプスの中央には12から13世紀制作の幼子を抱き濃い青のマフォリオン姿で立つ聖母のモザイクがある。ムラーノ島の「サンティ・マリア・エ・ドナート教会」の聖母マリア像と良く似ているが、こちらは、両足の足の輪郭が分かる衣襞で表現されている。他にも「最後の審判」のモザイクがある。

※入場料は5ユーロ。教会内は撮影不可。聖母マリアと最後の審判のモザイクのリンク先画像は、共に、画像出典:ウィキメディア・コモンズ(Wikimedia Commons)。

トルチェッロ島からヴァポレット9番に乗船し、ムラーノ島からヴァポレット12番に乗り換えヴェネツィア本島のカンナレージョ区の北東沿い「フォンダメンタ・ヌォーヴェ停留所」に到着した(ムラーノ島からは乗船時間30分)。下船したすぐ路地裏にはバール・ジェラテリア・ピッツェリアと、向かい側(東側)に「イエズス会教会」のファサードがある(こちらは上部を見上げたところ)。これから、カンナレージョ区を歩いて「カナル・グランデ」に架かる「リアルト橋」方面に向かう。

イエズス会教会前の通りを南に少し行った先の橋の上から西側、ゴッツィ運河を眺めてみる。小型ボートが何艇も停泊しているが、住宅に住む個人の持ち物なのだろうか。辺りはひっそりとした雰囲気である。


次に反対側(東側)を眺めると、14世紀から15世紀の後期ゴシックからルネッサンスへの移行期に建てられた「パラッツォ・セリマン・コンタリーニ」が運河沿いに建っている。頂部に三つ葉を飾った尖塔アーチや角のねじれ柱の外観が特徴で、もともとは、コンタリーニ家の所有だったが、その後ゴッツィ家を経て、18世紀にはセリマン家所有の邸宅となった。


ちなみにセリマン家は、1725年にオスマン帝国からの迫害を逃れてきた裕福なペルシャ人で、オスマン帝国と戦争状態にあったヴェネツィア共和国に対して72000ドゥカート(1ドゥカートは現在の価値で10~20万円ほど)もの大金を支援しヴェネツィア貴族になったと記録されている。

通りを更に南に歩いて行くと、レストランやホテルなどが建ち並び人通りが徐々に多くなってきた。「リアルト橋」が近づくとショップも立ち並び、多くの買い物客や観光客で混雑し始め、こちらの「サン・ジョバンニ・クリソストモ教会」前の通りは隙間がないほど大混雑していた。


「リアルト橋」に到着した。橋は歩行者専用で、中央は左右にアーケードがある商店街になっている。橋の両側からは、運河を眺めながら歩くことができる。花瓶型の手摺が付いた欄干が特徴。橋の頂部からは商店街の通りや橋の両側通路へ横断できる。


リアルト橋の右側の階段を上って行くと、西側のサン・ポーロ区側にカメルレンギ宮殿が望める。カナル・グランデの海岸線に沿った五角形の間取りの3階建てで、15世紀後半に建造、16世紀初頭に現在の姿に拡張された。金融治安判事邸で当時の判事の名前に因んで付けられた。一時期、1階は未返済者の刑務所として使用された。現在は、イタリアの会計監査院と監査院長の地域本部がある。


ところで、「ゴンドラ」は何世紀にもわたり、ヴェネツィアでの重要な交通手段であったが、現在も、運河間の渡し船として活躍している。ゴンドラは、長さ11.5メートル、幅1.4メートルでゴンドリエーレが立つ左舷はバランスが取れるように右舷より25センチほど長くなっている。縦に湾曲して水面との接触を最小にとどめた構造をしていることから、一つのオールだけで多くの推進力を得ることができる。船体が黒色なのは、ヴェネツィア共和国時代に費用削減法が実施され義務付けられたのが理由で、今も慣習として続いている。


リアルト橋の頂部から反対側に横断して西側を眺めると、美しい夕焼けが望める。
クリックで別ウインドウ開く

紅く染まるウロコ雲を背景にゴンドリエーレが歌うカンツォーネとともにゴンドラが進むカナル・グランデの景色は、何とも旅情をかき立てられる。
クリックで別ウインドウ開く

夕食は、「リアルト橋」を渡りそのまま250メートルほど直進し、左折したすぐ先の「カンティーナ ド・スパーデ(Cantina Do Spade )」で頂いた。ヴェネツィア居酒屋(バーカロ)の雰囲気がありつつ、親切な温かみがあるサービスで知られるレストラン(オステリア)とのこと。最初に、口当たりの良い白ワイン「ピノグリージョ」とタコのマリネサラダを注文する。


次に、お店のお勧め、ヴェネツィア名物のつまみを注文する。オイル、トマト、生クリームと3種類に味付けされたバッカラ・マンテカート( 干しダラを水で戻してから煮てペースト状にしたもの)がポレンタ(トウモロコシの粉を湯や出し汁で練り上げたもの)を囲んでいる。こちらをつまみながらピノグリージョを飲むのがヴェネツィア風とのこと。


「アンコウのタリアテッレ」は手打ちの麺で、しっかりとしたアルデンテ。ソースとの相性も良く上品な味わいだが、結構ボリュームがある。美味しかったが、海老、蟹、貝なども注文すれば印象が更に良かったかも(58.5ユーロ )。。


その後、午後8時45分発のヴァポレット1番に乗り込みフェッローヴィア・スカルツィ停留所まで戻り、サンタ・ルチーア駅から列車に乗り無事ホテルへ戻った。

(2011.12.25~26)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする