アレクサンダープラッツ駅からSバーンに乗り、西隣となる1つ目のハッケッシャー・マルクト駅で下車し、鉄道の高架沿い(南側)を西に向けて歩いている。高架下に続く綺麗な煉瓦アーチの間には、パブが並んでいるが、この時間はまだ営業していない。これから、昨日に引き続き「ムゼーウムス島」(博物館島)に向う。
川辺の公園から、シュプレー川に沿って南に進み、前方のフリードリヒ橋を渡った先が博物館島になる。そのシュプレー川対岸の南側には美しいドームを持つ「ベルリン大聖堂」が見える。
橋を渡るとボーデン通りになり、右側には、通りと並行してポルチコ(アーケード)が続いている。その奥(北側)左右に、昨日訪れた新博物館(Neues Museum)と、旧ナショナル・ギャラリー(Alte Nationalgalerie)がある。今日は、これから、新博物館の先隣りにある「ペルガモン博物館」を訪れることにしている。ペルガモン博物館は古代(ギリシャ・ローマ)博物館、中近東博物館、イスラム博物館に分かれており、中でも「ゼウスの大祭壇」が見どころの一つだが、残念ながら修復中で見学できない。本来、西側が正面入口だがこちらも工事中のため、南口から入館する。
館内に入り、細い通路を歩いて入館手続きを済ますと、突然広い空間となり、目の前に、「イシュタル門」が現れる。博物館内とは思えないほど巨大な建造物である。イシュタルとは、古代メソポタミア神話において広く尊崇された女神を意味している。門の表面は、青い釉薬タイルで覆われており、天候神アダドの随獣である牡牛とムシュフシュの浅浮き彫りが描かれている。門の両脇にはそれぞれ塔を有している。
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ちなみに、こちらがムシュフシュ。。シュメール語で「恐ろしい蛇」を意味する。毒蛇の頭とライオンの上半身、鷲の下半身、蠍の尾を持つ空想上の姿であらわされている。敵や邪悪な霊の進入を城門で防ぐ守護獣の役割を果たした。
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イシュタル門は、紀元前575年メソポタミア地方の古代オリエント最大の都市で、新バビロニア王国ネブカドネザル2世王の時代に造られた。王はハムラビ時代(紀元前18世紀)から続くバビロニアに大改築工事を施し、広大な城壁や数々の大神殿を建てるなど新バビロニア王国の黄金時代をもたらしている。館内に飾られたイシュタル門の側面には、南宮殿の玉座の間を飾っていた鮮やかな釉薬タイルの壁が展示されている。
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当時の新バビロニア王国の首都バビロンはユーフラテス川の左岸にあり、巨大な城壁(高さ90メートル、厚さ24メートル、数十キロメートル)にかこまれた、数百万の人口を数える巨大都市だった。メインゲートを入ると、大理石のピンクの床が敷きつめられた道幅24メートルの大通り(行列道路)があり、その大通りの先に「イシュタル門」があった。イシュタル門を抜けると、王宮(古代世界の七不思議といわれるバビロンの空中庭園)があり、その王宮のテラスからマルドゥク神殿に築かれたジグラット(バベルの塔)を仰ぎ見ることが出来たと言われている。
ガラスケースの中のイシュタル門の模型では、更に背後に巨大な塔が聳えている。門手前の大通りには、所々袋小路があり、敵兵が殺到してきた場合は、その袋小路で立ち往生をさせて、周囲の城壁から矢を放ち殲滅することを想定していた。
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イシュタル門を離れて館内通路を歩くと、両側にも青い釉薬タイルで飾られた壁が続いている。当時の大通り(行列道路)をイメージしている。
大通りの両側の壁には、ライオンのレリーフが飾られ、上下には16弁八重表菊紋が規則正しく配置されている。
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さて、こちらの展示コーナーにある古い浮彫煉瓦装飾は、新バビロニア王国時代から約800年以上遡る、紀元前15世紀末~紀元前14世紀初頭につくられたもの。バビロニア最古の都市ウルクに、カラインダシュ王(カッシート王朝)によって建てられた「イナンナ女神宮殿」の入口壁面である。向かって右側は女神、左が男神で共に手には雨をもたらす水瓶を持った像が表現されている。
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バビロニアの北側に隣接していた国が、アッシリア王国である。アッシリア王国は、紀元前18世紀頃から前7世紀にわたって、現在のイラク北部に栄えた古代オリエント最初の帝国。アッシュールやニネヴェを首都としていたが、アッシュールナツィルパル2世(在位:紀元前883年~紀元前859年)時に、新都カルフ(ニムルド)を建設した。この都市の遺跡から彼にまつわる数多くの遺物が出土している。
こちらは「ライオン狩り」と名付けられた壁画。アッシリアでは、ライオン狩りが、古来より君主の特権的な行為として認められていた。このレリーフが製作された紀元前7世紀のアッシュールナツィルパル宮殿では、広間や通路の壁画に、壮大な絵巻物のように繰り広げられ、王が獲物を仕留める様々な場面が描かれた。しかし、獲物として描かれているライオンに屈辱的な描写のものは一つもないといわれている。これはライオンが闘う王の象徴であると考えられているからだという。このレリーフでも、ライオンは、矢で射抜かれているにも係わらず、大きく口を開け相手を威嚇しているようにも見える。
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門の守護神ラマッス像。胴体は雄牛或いはライオンで、羽根は鷲、頭部は人間である。こちらも、ニムルドから出土したもの。アッシュールナツィルパル2世が大規模な宮殿と神殿を造っていたことがうかがえる。
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壁面には、当時のニムルドの宮殿を飾っていたレリーフが多く展示されている。
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神々に表敬するエサルハドンの石碑。エサルハドン(在位:紀元前681年~紀元前669年)は新アッシリア王国時代王の一人である。石碑の上部には、神獣の上に立つ4人の神やシンボルが表現されている。王は右手に祭具を握る崇拝ポーズをとり、左手には王笏と征服した敵をつないだ縄を持っている。縄に繋がれた男は、王に比べ極端に小さく表現されている。
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さて、イシュタル門を抜けると裏側には、これも巨大な「ミレトスの市場門」が復元展示されている。この市場門は 紀元前120年頃、ローマ皇帝ハドリアヌス時代のもので、高さ約10メートル、幅約30メートルある。ミレトスは、エーゲ海をはさんだギリシア本土の対岸、現在のトルコ、アナトリア半島の西海岸メンデレス川の河口付近にあったギリシア人の植民都市である。
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こちらにも模型が置かれている。一番奥が、ミレトスの市場門、手前の港は獅子港である。大きな都市だったことがわかる。
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ミレトスの市場門の向かいにも、巨大なバルコニーがあり、内部にも遺構の数々が展示されている。
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バルコニーと市場門の間の床にはモザイク画が展示されている。
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次にイスラム博物館に向かう。こちらはシリアのアレッポのキリスト教地区に17世紀に作られた商家の居間にあった木製壁面装飾で、「アレッポの部屋」と名付けられている。部屋の高さは2.5メートル、長さ35メートルあり、三方の壁面には、聖書の場面(イサクの犠牲、サロメの踊り、聖母子 、最後の晩餐など)に加え、中東の古典的悲恋物語「ライラとマジュヌーン」などが描かれている。
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目の前にまたまた巨大な遺跡があらわれた。こちらは、「ムシャッター(冬宮)宮殿のファサード」。ウマイヤ朝(661~750年)時代にヨルダンのアンマン近郊に建造されたもので、この展示室では、宮殿の正面部の壁画が復元展示されている。そして、この宮殿の一部がドイツに来ることになった経緯や発掘作業の様子を映した写真も併せて展示されている。
この宮殿は、1903年にドイツにより発掘された。発掘当時、遺跡近辺では鉄道敷設が進んでおり破壊の危機に晒されていたが、4年の歳月をかけてベルリンに運んだという。その後、第二次世界大戦のベルリン空襲で大きな損傷を受けたが、細かく砕けた部分をジグゾーパズルのように組み立てる修復作業を8年かけて行われ往時の姿を取り戻した。
宮殿は、石灰岩で出来ており、全面が緻密な浮彫で覆われている。正面の塔には、アカンサスの葉からなるジグザグ三角形内に、装飾面から突出した6弁型のロゼッタが彫られている。そしてその下には動物模様も見える。なんとも豪華な宮殿だが、実際のところウマイヤ朝時代には完成せず、ウマイヤ朝の滅亡とともに建設は中断され放棄されたという。
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様々なタイルが展示されている。特にラスター彩タイルの発明は革命的であった。酸化銀や酸化銅を含む特殊な顔料が用いられ、強還元焔の窯で焼成された。光があたると、七色に輝く金属光沢を発する。12世紀から13世紀イスラム帝国の黄金時代と言われたアッバス朝時代に、星形や様々な動物文様が描かれたタイルが多く製作され、モスクの壁面などに用いられた。
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こちらは「ベイヘキム モスクのミフラーブ、13世紀、コンヤ(トルコ)」。コンヤは、ルーム・セルジューク朝の首都であり、カイクバード1世(在位:1219年~1237年)の頃、最も繁栄した。ミフラーブとは、カアバの方向(キブラ)を示す礼拝堂内部の壁に設置された窪み状の設備をいう。イズニック・チニと言われる最高級のタイルでつくられており、玉座節と呼ばれるコーランの中でも最も功徳のある節として尊重されている第2章、雌牛章255節がカリグラフィー文字を用いて描かれている。
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「マイダン・モスクのミフラーブ、1226年、カシャーン」。このミフラーブは、ラスター彩の陶器でできている。
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「象牙の角笛(オリファント)と象牙の箱、11世紀~12世紀」。象牙は、サハラ砂漠を越えて陸路でもたらされていたため、地政学上、入手しやすい場所にあった、後ウマイヤ朝やファーティマ朝では、象牙細工が大いに発達した。
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この後「ボーデ博物館」(Bode-Museum)の見学も予定していることから、見学3時間を過ぎた午後1時に退館した。入館した南口から外に出ると、ペルガモン博物館への入館を待つ列が右側の「旧ナショナル・ギャラリー」に沿って伸びている。館内では感じなかったが、日曜日でもあり、入場調整をしているのかも知れない。
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次の目的地となる「ボーデ博物館」は、ペルガモン博物館の北隣に位置しているが、この日はペルガモン博物館の正面口が工事中で、動線がややこしい。一旦、手前にある「新博物館」南側から、西隣のシュプレー運河をアイゼルネ橋で渡り、回り込む様に右折して、運河沿いを北西方面に向かう。すぐ右側の列柱のある建物と、先に見える列柱の建物が「ペルガモン博物館」の「コ」の字の両翼で、橋を渡った先が、本来の正面口となる。
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そのペルガモン博物館への橋を通り過ぎ、横断するSバーンの高架陸橋をくぐると、右側に「ボーデ博物館」の外壁が現れる。美術館は「ムゼーウムス島」(博物館島)のある中洲の北端から南側に向け、島に沿うように三角形の敷地に建ち、入口はモンビュー橋を渡った北端の大きなドーム側にある。
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ボーデ博物館は、1904年に、ドイツ建築家エルンスト フォン イーネ(1848~1917)による設計で建てられた。ドイツ皇帝フリードリヒ3世(1831~1888、在位:1888~1888年)に因んでカイザー フリードリヒ博物館と名付けられたが、後年、ドイツの美術史家ヴィルヘルム フォン ボーデ(1845~1929)の名に変更された。主なコレクションとして東方教会、中世イタリアゴシック彫刻、初期ルネサンス彫刻、後期ドイツゴシック作品、18世紀プロイセン バロック彫刻などがある。
入口を入ったドームの下には、フリードリヒ3世とイギリス王女ヴィクトリアとの長子で、最期のドイツ皇帝ヴィルヘルム2世(在位:1888~1918、1859~1941)の騎馬像が飾られている。左右に回り階段があり、上った先のカフェでは多くの人が利用している。
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騎馬像の後ろの扉口から入場し、左右の窓を通して光が差し込む明るい廊下を過ぎると、3廊式のキリスト教会堂と見紛う大きな中央展示室が現れる。なお、手前には、両翼の展示室へ向かう扉口がある。
中央展示室には、クリスマスツリーが飾られ、左右にそれぞれ対となる5つのアーチが並び、内側に作品が展示されている。左側のアーチ内には、フィレンツェ出身の彫刻家ルカ・デッラ・ロッビア(1400~1481)による、琺瑯細工の祭壇画「聖フランシスとコスマスと聖母子」と、「聖母子」の丸皿レリーフが掲げられている。
クリスマスツリーの先にある扉口を出ると、最南端の小さなドームのあるフロアで2階への階段がある。階段手前の左右にある扉口の右側を入ると、大理石の彫像が飾られた展示室となる。中央には、18~19世紀のイタリア新古典主義の代顔的彫刻家アントニオ・カノーヴァの傑作で、ボーデ博物館を代表する作品「踊り子(1809年~1812年)」が展示されている。
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カノーヴァは、肌の滑らかさや、繊細さの中に優雅さや気品さも漂う女性像を多く制作したことで知られる。踊り子は、両手にフィンガーシンバルを付け、ステップを踏みながら優雅に踊る姿を捉えている。
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次に、隣の南西角となる展示室から、運河沿いの展示室を進み、中央展示室の手前の右翼の展示室にやってきた。中央には、ドナテッロの制作した「タンバリンを持つプット(1429年)、シエナ」の小さなブロンズ像が展示されている。プットとは、翼の生えた裸の幼児(男児)のことをいい、中世美術に頻繁に登場し、ラッパやハープ等の楽器を持った姿としても表現された。
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正面から翼が見えないので回り込んでみる。お尻が意外なほど引き締まっており、幼児より少年に見える。ドナテッロは、同時期に傑作「ダヴィデ像」を制作し、それまでとかけ離れた少年裸体像を表現した。その像には同性愛が表現されており、彼の性的嗜好を反映しているという研究者がいるが、このプットにもそのダヴィデ像に通じる表現を感じるのは考えすぎだろうか。
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展示室の西側壁面にもドナテッロの傑作「パッツィの聖母(1420年)、大理石」が展示されている。ドナテッロが得意とした浅浮彫(スティアッチャート)技法で制作されている。聖母子は互いに向かい合い、聖母は我が子をしっかりと抱きしめ顔を押し当てている。フィレンツェのパッツィ宮殿に飾られていたといわれる。
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2点のドナテッロ作品の間には、デジデリオ・ダ・セッティニャーノの「マリエッタ・ストロッツィの肖像(Marietta Strozzi)(1460年)」が展示されている。モデルのマリエッタは、メディチ家とライバル関係にあったストロッツィ家の一員だったと考えられている。像は、顔をやや左上にあげ、凛とした美しさを感じる。近くから見ると、唇がわずかに開いており、今にも何かしゃべり出しそうな様子でもある。
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像を後ろからも見てみる。首筋から肩にかけてのカーブは、大理石にもかかわらず、やわらかさやぬくもりまで感じてしまうほど。誠に素晴らしい胸像である。デジデリオは、15世紀のフィレンツェを代表する彫刻家で、完璧なまでの技術や独創性で作品を生み出し、ミケランジェロやダ・ヴィンチにも大きく影響を与えたと言われる。
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再び西翼の展示室に戻り、北隣の展示室に入ると、ルネサンス期イタリアの彫刻家ルカ・デッラ・ロッビアの作品が展示されている。ルカは、大理石像やブロンズ像も制作したが、何と言っても戸外でも耐久性に優れた像として釉薬を塗ったテラコッタ(セラミック)を開発し多くの作品を残した。このルカ以降、ロッビア家はセラミック芸術家の名門となり、甥のアンドレアや、その子ジョヴァンニを輩出した。
暖炉風のオブジェの上の作品はルカの「聖母子と二天使(1450年)、フィレンツェ」が展示されている。
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北側の突き当りの展示室には、ダ・ヴィンチの師匠アンドレア・デル・ヴェロッキオの「眠る青年(1475年)テラコッタ」が展示されている。筋肉や足・指先のごつごつとした写実的な表現が凄い。この像は、ギリシアの英雄エンデュミオーンともいわれる。月の女神セレーネーは彼を一目見て恋に落ちたが、自分と違い老いていく存在に耐えきれず、魔法で彼を永遠の眠りにつかせた。以降、毎夜彼女は眠るエンデュミオーンのそばに寄り添っているという。
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次に、中央展示室に戻り、東翼の北側突き当りの展示室にやってきた。ラヴェンナの「アプス(祭壇)モザイク、545年」が展示されている。ラヴェンナは、アドリア海に面したイタリア・ラヴェンナ県の県都で、5世紀から8世紀にかけて、東ゴート王国や西ローマ帝国の首都として繁栄した。現在は、ラヴェンナの初期キリスト教建築群として、ユネスコの世界遺産に登録されている。それにしてもモザイク画で覆われたアプスが、博物館に展示されていることに驚いた。
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こちらの木彫りのパネルは、祭壇や墓碑の彫刻を数多く手がけた中世ドイツの彫刻家ティルマン・リーメンシュナイダーの「マグダラのマリアの前に姿を現した復活のキリスト(1490年~1492年)」である。マグダラのマリアが復活したキリストにすがろうとすると、父である神のもとへ上る前であるため、触れないように、とキリストから言われる場面。5枚を張り合わせた菩提樹に浮き彫りされているが立体感が凄い。
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こちらもリーメンシュナイダーの「聖アンナと3人の夫(1505年)」である。アンナの夫はヨアキムとされているが、中世後期の西ヨーロッパではアンナは、夫はヨアキム以外にクロパ、ソロモンと3度に渡り結婚し、それぞれの夫との間に1人ずつ娘(いずれもマリア)をもうけたという伝説が広まったという。
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時刻は午後3時になり、ボーデ博物館を後にした。すぐ南側の博物館島を横断して走るSバーンに沿って西に10分ほど歩きフリードリッヒ通りを横断すると、フリードリッヒシュトラッセ駅になる。駅の北口に面した青色の建物は、ドイツ・ベルリンが東西に分断されていた時代に、税関・検問所があった場所である。
当時、フリードリッヒシュトラッセ駅は、東ベルリンに位置しており、西側市民が東側の家族や親戚等を訪ねる際は、この駅から入国した。そして訪問が終わり逆に東側から出国する際はこの検問所を通る必要があった。検問所の前では、家族との別れを惜しむ姿が頻繁に見られたため、この建物は「涙のパレス」と呼ばれた。なお、東側の市民が西側へ出国することはほぼ不可能であったが、年金生活者、病人などは希望すれば例外的に出国できたという。
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駅と反対側になる建物の北側が入口で、「Grenz erfahrungen(国境体験)」と表示があり、室内には当時の検問所の様子や資料などが展示されている。フリーなので入ってみる。
この扉を入ると東ドイツ人民警察により、パスポートとビザ検査が行われる。東側で購入したものがあれば書類に書き、荷物を厳しくチェックされ、持参金を没収されたという。
こちらのパネルは入出国の流れを示している。西側の市民が列車で駅に着いて東側に入国するまでの経路が赤い矢印で示され、そして、東側から出国する経路は白い矢印で、この検問所(涙のパレス)を通っているのがわかる。それにしても迷路のように複雑である。壁が崩壊したのが1989年11月9日だったことから、遠い昔ではない。壁が造られた1961年8月13日から30年近く、市民は自由な行き来が出来なかったのである。
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次にチェックポイント・チャーリーに向かう。フリードリッヒ通りにあるので、このまま南への1本道である。歩くつもりでウンター・デン・リンデン通りの交差点まで来たが、日の入りが近づいて薄暗くなってきたので、横断してU6に乗ることにする。通り向こうに見えるのはアンぺルマンショップ。多くの観光客でにぎわっていた。
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市内での移動には、7日間の公共交通チケットを購入しており、苦も無く乗り降りできる。SバーンやUバーンともに改札口はなく、バスの乗降についてもチケット提示は必要なかった。しかし、不正乗車と見なされると、かなり高額の罰金を払わなければならないが、チェックを受けることはなかった。
U6に乗り2つ目を下車して今度はフリードリッヒ通りを北に歩く。すぐに交差するコッホ通りがあり、その交差点の先にクリスマス・ツリーが見える。
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このクリスマス・ツリーが飾られている場所が「チェックポイント・チャーリー」である。ドイツ・ベルリンが東西に分断されていた時代に、東西境界線上に置かれていたドイツ人以外の外国人専用の国境検問所であった。バラック風の建物は当時の検問所を再現したものである。なお本物はベルリン市南西のツェーレンドルフにある連合博物館に展示されている。再現された検問所の前方にはソ連軍兵士の写真が掲げられており、ここより北側は、旧ソ連地区(東ベルリン)であることを示している。
再現された検問所には、アメリカ兵の姿を模した青年が観光客からの写真撮影ににこやかに答えている。カメラを向けると中国人かと聞かれたが、日本人だと答えると、頭を下げて謝られた。
旧ソ連地区(東ベルリン)側から旧アメリカ地区(西ベルリン)を見る。上部にはアメリカ兵の写真が掲げられている。左後方には、1963年6月に作られた壁博物館(Museum Haus am Checkpoint Charlie)が見える。戦時中、ナチスに対して抵抗運動を続け、戦後もソ連統治下やその後の東ドイツの政治にも抵抗を続けた、歴史家ライナー・ヒルデブランドによる博物館である。
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北東側には、ブラックボックス(Checkpoint Charlie.BlackBox)と名付けられたフリーの展示広場があり、冷戦当時の写真や資料などが展示されている。
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こちらは1965年3月5日付けのチェックポイント・チャーリーの様子。道路上には強行突破できないようにクルマ止めらしきブロックが複数並べられているのが見える。
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すっかり日が暮れた。次にポツダム広場に向けて歩く。広場そばに到着してソニーセンター方面を見ると華やかなイルミネーションで一杯である。上部(富士山)のイルミネーションは、大音響に合わせて色が変化している。何やらイベントが行われているようである。
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近づくと、残念ながらイベントは終了したようで、妖精姿のお姉さんが見物客に何か配っている。並んでもらうと、この場を再現した妖精姿のお姉さんが映るクリスマス フォトカードだった。
ポツダム広場の東西に伸びるライプツィガー通りと並行して、北側にフォス通りがある。街灯が少なく寂しい道だが、そのフォス通りを東に歩きすぐ左手の細い道を北側に曲がると右手にマンションらしき建物が見え手前に駐車場がある。その前に、戦時中この場所に「総統地下壕」があったことを示す案内板が立っている。
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総統地下壕は、戦況の悪化を受けて、1943年に防御機能を強化した施設として建造された。総統大本営としての役割を果たしており、ドイツ軍中枢に関わる人物がこの場所で勤務していたが、敗戦濃厚になり、ソ連軍によってベルリン市が完全に包囲されると、この地下濠でヒトラーと妻エヴァが青酸カリと拳銃を使用し自殺した。そして後を追うようにゲッベルス、マクダ夫人など数人の幹部が自決したとされる。
2004年には、ヒトラーの個人秘書を務めたトラウドゥル・ユンゲによる回顧録などを元に、映画「ヒトラー~最期の12日間~」(独、墺、伊による合作)が制作されている。ヒトラー最期の日々を描いた作品で、地下壕という密室内で、人間が徐々に狂っていく姿が、ドキュメンタリーのように淡々と描かれている。衝撃的で息苦しくなる映画であった。
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戦後、総統地下壕は、旧ソ連や旧東ドイツ政府によって取り壊そうと試みられたが、あまりにも強固だったため完全に撤去することはできず、1990年代の大規模宅地開発の際にも掘り起こされたが、やはり埋め戻されてしまったという。現在もここに地下壕は存在するのである。ネオナチの聖地になる懸念から長年場所は非公開だったが、2006年にこの案内板が設置された。ガイドブック等では紹介されていないが、インターネットの影響もあり最近は多くの人が訪れるようである。
少し先(北)に歩いて振り返ってみる。正面から左(東)に伸びる建物はフォス通り沿いに立っており、100メートルほどでヴィルヘルム通りにぶつかる。このフォス通り一帯に総統官邸がありヴィルヘルム通りにかけては中央官庁建ち並んでいた。ここは、まさにナチス政権中枢部であった。
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北に向かうと、左手にはユダヤ人犠牲者のためのホロコースト記念碑がある。1万9073平米の敷地にコンクリート製の石碑が2,711基並んでいる。地下にはホロコーストに関する情報センターがあり、イスラエルの記念館ヤド・ヴァシェムが提供したホロコースト犠牲者の氏名や資料などが展示されている。多くの人が集まっているが、近づいてみると、情報センター入場のための行列であった。
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ホロコースト記念碑の更に北にはブランデンブルク門があり、ウンター・デン・リンデン通りが東に向け伸びている。ブランデンブルク門の下は幕で覆われて通れなくなっている。年越しのカウントダウン・イベントの準備のようである。
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夕食は、初日に行ったジャンダルメン広場の西側にあるレストラン「アウガスティーナ・アム・ジャンダルメンマルクト」に行くことにしている。予約確認書を見せると、ここではなく近くの系列店だと言われる。ジャンダルメン広場の東側にある「ブラッセリー・アム・ジャンダルメンマルクト」であった。入ってみると、こちらの店の方が客層や雰囲気など高級店の印象があった。
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ビール(ビットブルガー)とメイン料理を注文する。こちらは「ゼートイフィレ」と言う、あんこう料理で、身がふわふわでやや頼りない食感。しかし、付け合せのきのこ、野菜、厚切りのポテトチップス、ハーブの効いた優しいスープとの相性は良く非常に食べやすい。
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こちらは「ガチョウのロースト」で、やや小ぶりだが、皮の焼き加減とぶつ切り骨のまわりのしっかりとした肉の旨みが際立っている。付け合せ野菜も美味しく、ワインとの相性も抜群である。
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Bit Pils 0.5L 4.90,Ganse Braten 24.90,Seeteufelfilet 28.50,Bardolino 0.2L 7.40,La joya Syrah 0.2L 8.90 --77.00
翌朝、ベルリン空港にバスで行き、午前12時45分発のルフトハンザドイツ航空に乗り、フランクフルトでトランスファーして日本に帰国した。
(2014.12.28)
川辺の公園から、シュプレー川に沿って南に進み、前方のフリードリヒ橋を渡った先が博物館島になる。そのシュプレー川対岸の南側には美しいドームを持つ「ベルリン大聖堂」が見える。
橋を渡るとボーデン通りになり、右側には、通りと並行してポルチコ(アーケード)が続いている。その奥(北側)左右に、昨日訪れた新博物館(Neues Museum)と、旧ナショナル・ギャラリー(Alte Nationalgalerie)がある。今日は、これから、新博物館の先隣りにある「ペルガモン博物館」を訪れることにしている。ペルガモン博物館は古代(ギリシャ・ローマ)博物館、中近東博物館、イスラム博物館に分かれており、中でも「ゼウスの大祭壇」が見どころの一つだが、残念ながら修復中で見学できない。本来、西側が正面入口だがこちらも工事中のため、南口から入館する。
館内に入り、細い通路を歩いて入館手続きを済ますと、突然広い空間となり、目の前に、「イシュタル門」が現れる。博物館内とは思えないほど巨大な建造物である。イシュタルとは、古代メソポタミア神話において広く尊崇された女神を意味している。門の表面は、青い釉薬タイルで覆われており、天候神アダドの随獣である牡牛とムシュフシュの浅浮き彫りが描かれている。門の両脇にはそれぞれ塔を有している。
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イシュタル門は、紀元前575年メソポタミア地方の古代オリエント最大の都市で、新バビロニア王国ネブカドネザル2世王の時代に造られた。王はハムラビ時代(紀元前18世紀)から続くバビロニアに大改築工事を施し、広大な城壁や数々の大神殿を建てるなど新バビロニア王国の黄金時代をもたらしている。館内に飾られたイシュタル門の側面には、南宮殿の玉座の間を飾っていた鮮やかな釉薬タイルの壁が展示されている。
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当時の新バビロニア王国の首都バビロンはユーフラテス川の左岸にあり、巨大な城壁(高さ90メートル、厚さ24メートル、数十キロメートル)にかこまれた、数百万の人口を数える巨大都市だった。メインゲートを入ると、大理石のピンクの床が敷きつめられた道幅24メートルの大通り(行列道路)があり、その大通りの先に「イシュタル門」があった。イシュタル門を抜けると、王宮(古代世界の七不思議といわれるバビロンの空中庭園)があり、その王宮のテラスからマルドゥク神殿に築かれたジグラット(バベルの塔)を仰ぎ見ることが出来たと言われている。
ガラスケースの中のイシュタル門の模型では、更に背後に巨大な塔が聳えている。門手前の大通りには、所々袋小路があり、敵兵が殺到してきた場合は、その袋小路で立ち往生をさせて、周囲の城壁から矢を放ち殲滅することを想定していた。
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イシュタル門を離れて館内通路を歩くと、両側にも青い釉薬タイルで飾られた壁が続いている。当時の大通り(行列道路)をイメージしている。
大通りの両側の壁には、ライオンのレリーフが飾られ、上下には16弁八重表菊紋が規則正しく配置されている。
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さて、こちらの展示コーナーにある古い浮彫煉瓦装飾は、新バビロニア王国時代から約800年以上遡る、紀元前15世紀末~紀元前14世紀初頭につくられたもの。バビロニア最古の都市ウルクに、カラインダシュ王(カッシート王朝)によって建てられた「イナンナ女神宮殿」の入口壁面である。向かって右側は女神、左が男神で共に手には雨をもたらす水瓶を持った像が表現されている。
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バビロニアの北側に隣接していた国が、アッシリア王国である。アッシリア王国は、紀元前18世紀頃から前7世紀にわたって、現在のイラク北部に栄えた古代オリエント最初の帝国。アッシュールやニネヴェを首都としていたが、アッシュールナツィルパル2世(在位:紀元前883年~紀元前859年)時に、新都カルフ(ニムルド)を建設した。この都市の遺跡から彼にまつわる数多くの遺物が出土している。
こちらは「ライオン狩り」と名付けられた壁画。アッシリアでは、ライオン狩りが、古来より君主の特権的な行為として認められていた。このレリーフが製作された紀元前7世紀のアッシュールナツィルパル宮殿では、広間や通路の壁画に、壮大な絵巻物のように繰り広げられ、王が獲物を仕留める様々な場面が描かれた。しかし、獲物として描かれているライオンに屈辱的な描写のものは一つもないといわれている。これはライオンが闘う王の象徴であると考えられているからだという。このレリーフでも、ライオンは、矢で射抜かれているにも係わらず、大きく口を開け相手を威嚇しているようにも見える。
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門の守護神ラマッス像。胴体は雄牛或いはライオンで、羽根は鷲、頭部は人間である。こちらも、ニムルドから出土したもの。アッシュールナツィルパル2世が大規模な宮殿と神殿を造っていたことがうかがえる。
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壁面には、当時のニムルドの宮殿を飾っていたレリーフが多く展示されている。
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神々に表敬するエサルハドンの石碑。エサルハドン(在位:紀元前681年~紀元前669年)は新アッシリア王国時代王の一人である。石碑の上部には、神獣の上に立つ4人の神やシンボルが表現されている。王は右手に祭具を握る崇拝ポーズをとり、左手には王笏と征服した敵をつないだ縄を持っている。縄に繋がれた男は、王に比べ極端に小さく表現されている。
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さて、イシュタル門を抜けると裏側には、これも巨大な「ミレトスの市場門」が復元展示されている。この市場門は 紀元前120年頃、ローマ皇帝ハドリアヌス時代のもので、高さ約10メートル、幅約30メートルある。ミレトスは、エーゲ海をはさんだギリシア本土の対岸、現在のトルコ、アナトリア半島の西海岸メンデレス川の河口付近にあったギリシア人の植民都市である。
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こちらにも模型が置かれている。一番奥が、ミレトスの市場門、手前の港は獅子港である。大きな都市だったことがわかる。
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ミレトスの市場門の向かいにも、巨大なバルコニーがあり、内部にも遺構の数々が展示されている。
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バルコニーと市場門の間の床にはモザイク画が展示されている。
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次にイスラム博物館に向かう。こちらはシリアのアレッポのキリスト教地区に17世紀に作られた商家の居間にあった木製壁面装飾で、「アレッポの部屋」と名付けられている。部屋の高さは2.5メートル、長さ35メートルあり、三方の壁面には、聖書の場面(イサクの犠牲、サロメの踊り、聖母子 、最後の晩餐など)に加え、中東の古典的悲恋物語「ライラとマジュヌーン」などが描かれている。
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目の前にまたまた巨大な遺跡があらわれた。こちらは、「ムシャッター(冬宮)宮殿のファサード」。ウマイヤ朝(661~750年)時代にヨルダンのアンマン近郊に建造されたもので、この展示室では、宮殿の正面部の壁画が復元展示されている。そして、この宮殿の一部がドイツに来ることになった経緯や発掘作業の様子を映した写真も併せて展示されている。
この宮殿は、1903年にドイツにより発掘された。発掘当時、遺跡近辺では鉄道敷設が進んでおり破壊の危機に晒されていたが、4年の歳月をかけてベルリンに運んだという。その後、第二次世界大戦のベルリン空襲で大きな損傷を受けたが、細かく砕けた部分をジグゾーパズルのように組み立てる修復作業を8年かけて行われ往時の姿を取り戻した。
宮殿は、石灰岩で出来ており、全面が緻密な浮彫で覆われている。正面の塔には、アカンサスの葉からなるジグザグ三角形内に、装飾面から突出した6弁型のロゼッタが彫られている。そしてその下には動物模様も見える。なんとも豪華な宮殿だが、実際のところウマイヤ朝時代には完成せず、ウマイヤ朝の滅亡とともに建設は中断され放棄されたという。
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様々なタイルが展示されている。特にラスター彩タイルの発明は革命的であった。酸化銀や酸化銅を含む特殊な顔料が用いられ、強還元焔の窯で焼成された。光があたると、七色に輝く金属光沢を発する。12世紀から13世紀イスラム帝国の黄金時代と言われたアッバス朝時代に、星形や様々な動物文様が描かれたタイルが多く製作され、モスクの壁面などに用いられた。
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こちらは「ベイヘキム モスクのミフラーブ、13世紀、コンヤ(トルコ)」。コンヤは、ルーム・セルジューク朝の首都であり、カイクバード1世(在位:1219年~1237年)の頃、最も繁栄した。ミフラーブとは、カアバの方向(キブラ)を示す礼拝堂内部の壁に設置された窪み状の設備をいう。イズニック・チニと言われる最高級のタイルでつくられており、玉座節と呼ばれるコーランの中でも最も功徳のある節として尊重されている第2章、雌牛章255節がカリグラフィー文字を用いて描かれている。
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「マイダン・モスクのミフラーブ、1226年、カシャーン」。このミフラーブは、ラスター彩の陶器でできている。
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「象牙の角笛(オリファント)と象牙の箱、11世紀~12世紀」。象牙は、サハラ砂漠を越えて陸路でもたらされていたため、地政学上、入手しやすい場所にあった、後ウマイヤ朝やファーティマ朝では、象牙細工が大いに発達した。
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この後「ボーデ博物館」(Bode-Museum)の見学も予定していることから、見学3時間を過ぎた午後1時に退館した。入館した南口から外に出ると、ペルガモン博物館への入館を待つ列が右側の「旧ナショナル・ギャラリー」に沿って伸びている。館内では感じなかったが、日曜日でもあり、入場調整をしているのかも知れない。
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次の目的地となる「ボーデ博物館」は、ペルガモン博物館の北隣に位置しているが、この日はペルガモン博物館の正面口が工事中で、動線がややこしい。一旦、手前にある「新博物館」南側から、西隣のシュプレー運河をアイゼルネ橋で渡り、回り込む様に右折して、運河沿いを北西方面に向かう。すぐ右側の列柱のある建物と、先に見える列柱の建物が「ペルガモン博物館」の「コ」の字の両翼で、橋を渡った先が、本来の正面口となる。
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そのペルガモン博物館への橋を通り過ぎ、横断するSバーンの高架陸橋をくぐると、右側に「ボーデ博物館」の外壁が現れる。美術館は「ムゼーウムス島」(博物館島)のある中洲の北端から南側に向け、島に沿うように三角形の敷地に建ち、入口はモンビュー橋を渡った北端の大きなドーム側にある。
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ボーデ博物館は、1904年に、ドイツ建築家エルンスト フォン イーネ(1848~1917)による設計で建てられた。ドイツ皇帝フリードリヒ3世(1831~1888、在位:1888~1888年)に因んでカイザー フリードリヒ博物館と名付けられたが、後年、ドイツの美術史家ヴィルヘルム フォン ボーデ(1845~1929)の名に変更された。主なコレクションとして東方教会、中世イタリアゴシック彫刻、初期ルネサンス彫刻、後期ドイツゴシック作品、18世紀プロイセン バロック彫刻などがある。
入口を入ったドームの下には、フリードリヒ3世とイギリス王女ヴィクトリアとの長子で、最期のドイツ皇帝ヴィルヘルム2世(在位:1888~1918、1859~1941)の騎馬像が飾られている。左右に回り階段があり、上った先のカフェでは多くの人が利用している。
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騎馬像の後ろの扉口から入場し、左右の窓を通して光が差し込む明るい廊下を過ぎると、3廊式のキリスト教会堂と見紛う大きな中央展示室が現れる。なお、手前には、両翼の展示室へ向かう扉口がある。
中央展示室には、クリスマスツリーが飾られ、左右にそれぞれ対となる5つのアーチが並び、内側に作品が展示されている。左側のアーチ内には、フィレンツェ出身の彫刻家ルカ・デッラ・ロッビア(1400~1481)による、琺瑯細工の祭壇画「聖フランシスとコスマスと聖母子」と、「聖母子」の丸皿レリーフが掲げられている。
クリスマスツリーの先にある扉口を出ると、最南端の小さなドームのあるフロアで2階への階段がある。階段手前の左右にある扉口の右側を入ると、大理石の彫像が飾られた展示室となる。中央には、18~19世紀のイタリア新古典主義の代顔的彫刻家アントニオ・カノーヴァの傑作で、ボーデ博物館を代表する作品「踊り子(1809年~1812年)」が展示されている。
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カノーヴァは、肌の滑らかさや、繊細さの中に優雅さや気品さも漂う女性像を多く制作したことで知られる。踊り子は、両手にフィンガーシンバルを付け、ステップを踏みながら優雅に踊る姿を捉えている。
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次に、隣の南西角となる展示室から、運河沿いの展示室を進み、中央展示室の手前の右翼の展示室にやってきた。中央には、ドナテッロの制作した「タンバリンを持つプット(1429年)、シエナ」の小さなブロンズ像が展示されている。プットとは、翼の生えた裸の幼児(男児)のことをいい、中世美術に頻繁に登場し、ラッパやハープ等の楽器を持った姿としても表現された。
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正面から翼が見えないので回り込んでみる。お尻が意外なほど引き締まっており、幼児より少年に見える。ドナテッロは、同時期に傑作「ダヴィデ像」を制作し、それまでとかけ離れた少年裸体像を表現した。その像には同性愛が表現されており、彼の性的嗜好を反映しているという研究者がいるが、このプットにもそのダヴィデ像に通じる表現を感じるのは考えすぎだろうか。
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展示室の西側壁面にもドナテッロの傑作「パッツィの聖母(1420年)、大理石」が展示されている。ドナテッロが得意とした浅浮彫(スティアッチャート)技法で制作されている。聖母子は互いに向かい合い、聖母は我が子をしっかりと抱きしめ顔を押し当てている。フィレンツェのパッツィ宮殿に飾られていたといわれる。
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2点のドナテッロ作品の間には、デジデリオ・ダ・セッティニャーノの「マリエッタ・ストロッツィの肖像(Marietta Strozzi)(1460年)」が展示されている。モデルのマリエッタは、メディチ家とライバル関係にあったストロッツィ家の一員だったと考えられている。像は、顔をやや左上にあげ、凛とした美しさを感じる。近くから見ると、唇がわずかに開いており、今にも何かしゃべり出しそうな様子でもある。
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像を後ろからも見てみる。首筋から肩にかけてのカーブは、大理石にもかかわらず、やわらかさやぬくもりまで感じてしまうほど。誠に素晴らしい胸像である。デジデリオは、15世紀のフィレンツェを代表する彫刻家で、完璧なまでの技術や独創性で作品を生み出し、ミケランジェロやダ・ヴィンチにも大きく影響を与えたと言われる。
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再び西翼の展示室に戻り、北隣の展示室に入ると、ルネサンス期イタリアの彫刻家ルカ・デッラ・ロッビアの作品が展示されている。ルカは、大理石像やブロンズ像も制作したが、何と言っても戸外でも耐久性に優れた像として釉薬を塗ったテラコッタ(セラミック)を開発し多くの作品を残した。このルカ以降、ロッビア家はセラミック芸術家の名門となり、甥のアンドレアや、その子ジョヴァンニを輩出した。
暖炉風のオブジェの上の作品はルカの「聖母子と二天使(1450年)、フィレンツェ」が展示されている。
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北側の突き当りの展示室には、ダ・ヴィンチの師匠アンドレア・デル・ヴェロッキオの「眠る青年(1475年)テラコッタ」が展示されている。筋肉や足・指先のごつごつとした写実的な表現が凄い。この像は、ギリシアの英雄エンデュミオーンともいわれる。月の女神セレーネーは彼を一目見て恋に落ちたが、自分と違い老いていく存在に耐えきれず、魔法で彼を永遠の眠りにつかせた。以降、毎夜彼女は眠るエンデュミオーンのそばに寄り添っているという。
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次に、中央展示室に戻り、東翼の北側突き当りの展示室にやってきた。ラヴェンナの「アプス(祭壇)モザイク、545年」が展示されている。ラヴェンナは、アドリア海に面したイタリア・ラヴェンナ県の県都で、5世紀から8世紀にかけて、東ゴート王国や西ローマ帝国の首都として繁栄した。現在は、ラヴェンナの初期キリスト教建築群として、ユネスコの世界遺産に登録されている。それにしてもモザイク画で覆われたアプスが、博物館に展示されていることに驚いた。
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こちらの木彫りのパネルは、祭壇や墓碑の彫刻を数多く手がけた中世ドイツの彫刻家ティルマン・リーメンシュナイダーの「マグダラのマリアの前に姿を現した復活のキリスト(1490年~1492年)」である。マグダラのマリアが復活したキリストにすがろうとすると、父である神のもとへ上る前であるため、触れないように、とキリストから言われる場面。5枚を張り合わせた菩提樹に浮き彫りされているが立体感が凄い。
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こちらもリーメンシュナイダーの「聖アンナと3人の夫(1505年)」である。アンナの夫はヨアキムとされているが、中世後期の西ヨーロッパではアンナは、夫はヨアキム以外にクロパ、ソロモンと3度に渡り結婚し、それぞれの夫との間に1人ずつ娘(いずれもマリア)をもうけたという伝説が広まったという。
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時刻は午後3時になり、ボーデ博物館を後にした。すぐ南側の博物館島を横断して走るSバーンに沿って西に10分ほど歩きフリードリッヒ通りを横断すると、フリードリッヒシュトラッセ駅になる。駅の北口に面した青色の建物は、ドイツ・ベルリンが東西に分断されていた時代に、税関・検問所があった場所である。
当時、フリードリッヒシュトラッセ駅は、東ベルリンに位置しており、西側市民が東側の家族や親戚等を訪ねる際は、この駅から入国した。そして訪問が終わり逆に東側から出国する際はこの検問所を通る必要があった。検問所の前では、家族との別れを惜しむ姿が頻繁に見られたため、この建物は「涙のパレス」と呼ばれた。なお、東側の市民が西側へ出国することはほぼ不可能であったが、年金生活者、病人などは希望すれば例外的に出国できたという。
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駅と反対側になる建物の北側が入口で、「Grenz erfahrungen(国境体験)」と表示があり、室内には当時の検問所の様子や資料などが展示されている。フリーなので入ってみる。
この扉を入ると東ドイツ人民警察により、パスポートとビザ検査が行われる。東側で購入したものがあれば書類に書き、荷物を厳しくチェックされ、持参金を没収されたという。
こちらのパネルは入出国の流れを示している。西側の市民が列車で駅に着いて東側に入国するまでの経路が赤い矢印で示され、そして、東側から出国する経路は白い矢印で、この検問所(涙のパレス)を通っているのがわかる。それにしても迷路のように複雑である。壁が崩壊したのが1989年11月9日だったことから、遠い昔ではない。壁が造られた1961年8月13日から30年近く、市民は自由な行き来が出来なかったのである。
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次にチェックポイント・チャーリーに向かう。フリードリッヒ通りにあるので、このまま南への1本道である。歩くつもりでウンター・デン・リンデン通りの交差点まで来たが、日の入りが近づいて薄暗くなってきたので、横断してU6に乗ることにする。通り向こうに見えるのはアンぺルマンショップ。多くの観光客でにぎわっていた。
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市内での移動には、7日間の公共交通チケットを購入しており、苦も無く乗り降りできる。SバーンやUバーンともに改札口はなく、バスの乗降についてもチケット提示は必要なかった。しかし、不正乗車と見なされると、かなり高額の罰金を払わなければならないが、チェックを受けることはなかった。
U6に乗り2つ目を下車して今度はフリードリッヒ通りを北に歩く。すぐに交差するコッホ通りがあり、その交差点の先にクリスマス・ツリーが見える。
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このクリスマス・ツリーが飾られている場所が「チェックポイント・チャーリー」である。ドイツ・ベルリンが東西に分断されていた時代に、東西境界線上に置かれていたドイツ人以外の外国人専用の国境検問所であった。バラック風の建物は当時の検問所を再現したものである。なお本物はベルリン市南西のツェーレンドルフにある連合博物館に展示されている。再現された検問所の前方にはソ連軍兵士の写真が掲げられており、ここより北側は、旧ソ連地区(東ベルリン)であることを示している。
再現された検問所には、アメリカ兵の姿を模した青年が観光客からの写真撮影ににこやかに答えている。カメラを向けると中国人かと聞かれたが、日本人だと答えると、頭を下げて謝られた。
旧ソ連地区(東ベルリン)側から旧アメリカ地区(西ベルリン)を見る。上部にはアメリカ兵の写真が掲げられている。左後方には、1963年6月に作られた壁博物館(Museum Haus am Checkpoint Charlie)が見える。戦時中、ナチスに対して抵抗運動を続け、戦後もソ連統治下やその後の東ドイツの政治にも抵抗を続けた、歴史家ライナー・ヒルデブランドによる博物館である。
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北東側には、ブラックボックス(Checkpoint Charlie.BlackBox)と名付けられたフリーの展示広場があり、冷戦当時の写真や資料などが展示されている。
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こちらは1965年3月5日付けのチェックポイント・チャーリーの様子。道路上には強行突破できないようにクルマ止めらしきブロックが複数並べられているのが見える。
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すっかり日が暮れた。次にポツダム広場に向けて歩く。広場そばに到着してソニーセンター方面を見ると華やかなイルミネーションで一杯である。上部(富士山)のイルミネーションは、大音響に合わせて色が変化している。何やらイベントが行われているようである。
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近づくと、残念ながらイベントは終了したようで、妖精姿のお姉さんが見物客に何か配っている。並んでもらうと、この場を再現した妖精姿のお姉さんが映るクリスマス フォトカードだった。
ポツダム広場の東西に伸びるライプツィガー通りと並行して、北側にフォス通りがある。街灯が少なく寂しい道だが、そのフォス通りを東に歩きすぐ左手の細い道を北側に曲がると右手にマンションらしき建物が見え手前に駐車場がある。その前に、戦時中この場所に「総統地下壕」があったことを示す案内板が立っている。
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総統地下壕は、戦況の悪化を受けて、1943年に防御機能を強化した施設として建造された。総統大本営としての役割を果たしており、ドイツ軍中枢に関わる人物がこの場所で勤務していたが、敗戦濃厚になり、ソ連軍によってベルリン市が完全に包囲されると、この地下濠でヒトラーと妻エヴァが青酸カリと拳銃を使用し自殺した。そして後を追うようにゲッベルス、マクダ夫人など数人の幹部が自決したとされる。
2004年には、ヒトラーの個人秘書を務めたトラウドゥル・ユンゲによる回顧録などを元に、映画「ヒトラー~最期の12日間~」(独、墺、伊による合作)が制作されている。ヒトラー最期の日々を描いた作品で、地下壕という密室内で、人間が徐々に狂っていく姿が、ドキュメンタリーのように淡々と描かれている。衝撃的で息苦しくなる映画であった。
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戦後、総統地下壕は、旧ソ連や旧東ドイツ政府によって取り壊そうと試みられたが、あまりにも強固だったため完全に撤去することはできず、1990年代の大規模宅地開発の際にも掘り起こされたが、やはり埋め戻されてしまったという。現在もここに地下壕は存在するのである。ネオナチの聖地になる懸念から長年場所は非公開だったが、2006年にこの案内板が設置された。ガイドブック等では紹介されていないが、インターネットの影響もあり最近は多くの人が訪れるようである。
少し先(北)に歩いて振り返ってみる。正面から左(東)に伸びる建物はフォス通り沿いに立っており、100メートルほどでヴィルヘルム通りにぶつかる。このフォス通り一帯に総統官邸がありヴィルヘルム通りにかけては中央官庁建ち並んでいた。ここは、まさにナチス政権中枢部であった。
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北に向かうと、左手にはユダヤ人犠牲者のためのホロコースト記念碑がある。1万9073平米の敷地にコンクリート製の石碑が2,711基並んでいる。地下にはホロコーストに関する情報センターがあり、イスラエルの記念館ヤド・ヴァシェムが提供したホロコースト犠牲者の氏名や資料などが展示されている。多くの人が集まっているが、近づいてみると、情報センター入場のための行列であった。
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ホロコースト記念碑の更に北にはブランデンブルク門があり、ウンター・デン・リンデン通りが東に向け伸びている。ブランデンブルク門の下は幕で覆われて通れなくなっている。年越しのカウントダウン・イベントの準備のようである。
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夕食は、初日に行ったジャンダルメン広場の西側にあるレストラン「アウガスティーナ・アム・ジャンダルメンマルクト」に行くことにしている。予約確認書を見せると、ここではなく近くの系列店だと言われる。ジャンダルメン広場の東側にある「ブラッセリー・アム・ジャンダルメンマルクト」であった。入ってみると、こちらの店の方が客層や雰囲気など高級店の印象があった。
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ビール(ビットブルガー)とメイン料理を注文する。こちらは「ゼートイフィレ」と言う、あんこう料理で、身がふわふわでやや頼りない食感。しかし、付け合せのきのこ、野菜、厚切りのポテトチップス、ハーブの効いた優しいスープとの相性は良く非常に食べやすい。
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こちらは「ガチョウのロースト」で、やや小ぶりだが、皮の焼き加減とぶつ切り骨のまわりのしっかりとした肉の旨みが際立っている。付け合せ野菜も美味しく、ワインとの相性も抜群である。
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Bit Pils 0.5L 4.90,Ganse Braten 24.90,Seeteufelfilet 28.50,Bardolino 0.2L 7.40,La joya Syrah 0.2L 8.90 --77.00
翌朝、ベルリン空港にバスで行き、午前12時45分発のルフトハンザドイツ航空に乗り、フランクフルトでトランスファーして日本に帰国した。
(2014.12.28)