カズさんの旅たび

 ~歴史、文化、芸術、美食紀行。。

中国・上海

2013-02-23 | 中国
「蘇州駅」から午後3時21分発の電車に乗り、午後4時6分に上海駅に到着し、ホテル「上海美麗園全套房酒店公寓(Central View Suites)」(静安区陕西北路)にチェックインした後、黄浦江沿いを散策する。

こちらは対岸の上海市中心部の黄浦区「外灘(バンド)」を眺めた様子で、新古典主義建築の幅広の建物にドームを配した「旧香港上海銀行ビル」(上海浦東発展銀行)や、右隣の8階建てに時計塔が聳える「江海関」(上海海関)などのビルが美しくライトアップされている。
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外灘(バンド)の夜景は、3年ぶりとなる。上海へは、3年前の11月18日から3泊4日で訪れている。。

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その3年前の11月18日(金)は、昼に上海に到着し、外灘にある「和平飯店」(フェアモント・ホテルズ・アンド・リゾーツ)にチェックインした後に「阿一鮑魚」(あいちほうぎょ)に向かった。その日は、フカヒレと鮑をメインとした298~1880元(当時レート:1元13.4578円)までの7種のコースから、388元のコースフカヒレの姿煮、ブロッコリー炒め、炒飯、スープ、鮑の姿煮)を注文した。ちなみにメインの鮑の姿煮は、佛跳牆(ぶっちょうしょう)との選択だったが、鮑の姿煮にした。


大変お得なコースであり、料理も美味しかったが、別メニューの北海道産の干蚫の値段を見て大変驚いたものである。

食後は、黄浦区豫園街道に位置する「豫園」のライトアップに浸り、北京ダックで有名なレストラン「全聚徳」で遅めの夕食を頂くなど贅沢三昧の上海初日を終えた。


2日目は、人民広場の南側に位置する「上海博物館」を訪れ、中国古代青銅館(「牛形犠尊」BC6世紀)や、中国古代彫刻館で、「菩薩石像」唐時代(618~907)、「釈迦牟尼仏坐像」北斉時代(550~557年)などを見学し、途中退館し、フォーシーズンズホテル上海で、広東料理「四季軒」の点心ランチを頂いた。
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そして3日目は「豫園」を再び訪れ、夜は、上海商城劇院で、上海雑技団を鑑賞した。
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鑑賞後の夕食は、成隆行蟹王府(九江路店)で、上海蟹を頂き、最終日には、南京西路にある「避風糖(展覧館店)」で、飲茶を頂き、帰国している。
(2005.11.18~21)

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その3年ぶりの上海での夕食は「138蟹宴館」で、上海蟹のコースを頂くことにしている。こちらは、最高級ブランドの陽澄湖産の上海蟹(大閘蟹)をコースで頂けることから期待に胸を躍らせやってきた。屋号の138とは、コースメニューの値段のことで、138蟹宴館(138元)と蟹シェフ看板料理(300元)がある。


300元コースは、前菜の盛り合わせ、蟹爪肉の蒸し物アスパラと蟹足肉の炒め物蟹身と蟹みそ炒め、春雨と蟹白子添え、蟹油の野菜炒め、蟹とフカヒレスープ、上海蟹、蟹みそ焼きそば、蟹ワンタン、特性生生姜の梨和え、季節のフルーツと言った豪華な内容。ちなみに、138元コースとの大きな違いは「蟹みそ豆腐」か「蟹とフカヒレスープ」かの違いと「蟹油の野菜炒め」が有るか無いかだった。


上海蟹(大閘蟹)は、何度も食べているが、蟹づくしのコースは初めてだった。蟹のやや淡泊で上品な旨味が、他の様々な素材とも喧嘩せず調和され、どれも大変美味しかった。

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さて、昨夜は、蘇州駅から上海市内に戻り「138蟹宴館」で上海蟹のコースを堪能したが、今朝は、胃もたれもなく爽やかな目覚めとなった。そして、午前8時過ぎに、ホテルのブッフェ形式の朝食を頂き、部屋に戻りカーテンを開け外を眺めたところ。日差しは差し込んでいるものの空はガスっている。
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チェックアウト後、上海軌道(地下鉄)で移動し「静安寺」に到着した。寺院は近代的な超高層ビルの谷間にあり、アンバランスな印象を与える。3世紀の三国時代に由来する古刹で、何度か寺名が変わり、北宋の1008年から現在の「静安寺」となった。河口付近にあったが、洪水を避け、南宋時代の1216年に現在の場所に移転ている。


19世紀後半からは周囲の都市化が進み、20世紀に入ると繁栄する上海西地区の中心地となった。文化革命時は、徹底的な破壊に遭い廃墟となるが、1980年代に再建されて以降、密教真言の道場となっている。こちらは、大雄宝殿に安置される降魔の印を結ぶ釈迦牟尼仏坐像で、前立として、マントを羽織った黄金の三尊像が奉られている。


お昼はフカヒレで有名な「翁家魚翅」で食事した。上海の中心的な繁華街の一つ「淮海路」(わいかいろ)沿いにある。昼のコースは、4種類(A360元、B280元、C250元、D238元)があるが、A~Cは4人からのコースのため、Dの選択となった。料理は、上海料理、四川料理、広東料理のコラボで、最初に、蟹粉迷你魚翅(上海蟹みそ入りふかひれスープ)焼味三宝(東坡肉など3種)泡椒傳嘴蛙面豉醤蒸魚云(ハクレン)湯津白、白飯、甜品、水果であった。泡椒傳嘴蛙とは、カエルの肉で、汗だくになるほどの辛さがあったが、癖になる旨味と食感があり紹興酒との相性も抜群で、忘れられない味となった。


食後、上海虹橋国際空港に向かい、午後3時45分発、羽田空港行きJAL610便で帰国した。
(2008.11.24~25)

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そして、1年が過ぎた11月下旬の土曜日、JAL791便(羽田空港 午前9時45分発、上海浦東国際空港 午前12時20分着)で、3度目の上海にやってきた。

上海浦東国際空港から、上海トランスラピッド(リニアモーターカー)で、龍陽路駅に向かい、上海軌道(地下鉄)に乗り換える。人民広場駅で下車し、東に延びる上海最大の繁華街、南京路沿いを東に向け歩いているところ。ちなみにこちらの南京路の終点が外灘(バンド)になる。
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コロニアル建築群の建物を左側に見ながら、新世界商城と書かれた建物を通り過ぎた南京路沿いの右側にあるのが、今夜の宿泊ホテル「ロイヤル・メリディアン(世茂皇家艾美酒店)」になる。


ホテルにチェックインした後、ホテルのプールで一汗かいて、人民広場などを散策した後、上海蟹を食べに出かけた。今夜のレストランは「凌瀧閣」で、ホテルから約10キロメートル西の「古北地区」と呼ばれる日本人も多く住むエリアにある。


全個室のレストランで、落ち着いて食事をすることができる。この日は、上海蟹にフカヒレが付加されるコース(288元)を注文した。最初の前菜の盛り合わせは4品ある。中央の胡瓜の皮を丸めた(酸辣黄瓜皮)は、酸味と硬めの食感が素晴らしい。赤い長方形は、蟹ミソが入った豚肉のにこごりでビールとの愛称が良い。他に、青菜を筍で包んだ品と、剥き川海老が添えられている。


次に、蟹肉入りフカヒレの上海風醤油煮込み。トッピングとして酢とパクチーが添えられており、お好みで加える。ちなみに、もう一つコースでは、筍入り海鮮と燕の巣となる。

そして、蟹味噌と剥き川エビの炒めと料理が続く。濃厚な蟹味噌とぷりぷりした海老とのハーモニーが大変素晴らしい一品である。


次は、蟹味噌入り蟹肉の揚げ物で、蟹爪が姿を表しているが、中身は蟹味噌とあっさりとした身の部分が合わさり、噛み締めた際に沸き立つ芳醇さが楽しめる一品。


そして、メインの上海蟹の姿蒸しとなる。茹で上がりが提供される。上海蟹は、小細工せずに、茹で上がりをショウガ醤油と一緒に頂くのが王道である。


こちらはオスで、黄色い白子と味噌部分が美味しい。1年ぶりの旬の上海蟹に満足した。ちなみに、オスの旬の時期は11月下旬で、メスの旬は9~10月とされている。


こちらのお店では、スタッフが丁寧に蟹の身を取り出して並べてくれる。ここまでのサービスは、他のお店ではなかった。コース後半は、蟹味噌タンタン麺に、旬の野菜の炒め物、蟹味噌小籠包鯉の形をしたマンゴープリンで終了した。上海蟹は、海の蟹とは異なり、やや蛋白な味であり、蟹づくしのコースで頂いても飽きが来ないのがよい。


食後、午後8時過ぎに、「怡徳保健会所 古北店(Yide Massage)」でマッサージをしてもらい一日を終えた。

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朝食後、上海軌道(地下鉄)に乗り陝西南路駅で下車、「復興公園」の観光に向かった。復興公園は、人民広場から約2キロメートルほど南にあり、高級料理店やブティックが並ぶ上海の中心的な繁華街の一つ「淮海路」(わいかいろ)の南側に位置している。
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この「淮海路」を中心とする一帯は、上海フランス租界(1849年から1946年まで)だったエリアで、復興公園は、1909年に建設された。中央には、フランスの様式を取り入れた大きな花壇があり、落ち着いた雰囲気の噴水と池、遊歩道、ガーデンがある。


日中は、お年寄りたちが集まり踊る姿なども見られるが、レストランバーや欧米系の観光客に人気のクラブ、カラオケ店などもあることから深夜まで賑わっている。

復興公園散策後は、淮海路の裏手の新楽路沿いのマッサージ店「ドラゴンフライ」でマッサージをしてもらう。リゾートを思わせるオリエンタルな内装が特徴の人気の高級マッサージ店である。

午後7時から坂東玉三郎主演の昆劇を鑑賞することにしており、少し早い午後5時過ぎに「圓苑酒家 静安店」で夕食を頂くことにした。レストランは、旧フランス租界エリアにあり、1930年代の上海の伝統的な家庭料理を現代風にアレンジして提供する上海料理店として評判が高い。お勧めは、豚肉を醤油と砂糖でじっくり煮込んだ「紅焼肉(ホンシャオロウ)」で、上海では圓苑酒家が最も美味しいと言われている。


濃い目の醤油にやや甘めの味付けが特徴で、豚の角煮は、形が崩れていないのに、口に含むとトロトロで驚くほど柔らかい。ゼラチン部分のやや弾力のある触感など絶品な一品。また付け合わせの煮玉子が、豚のうま味が染み込みこちらも大変美味しい。

こちらは、渡り蟹(青蟹)の紹興酒漬けで、紹興酒に、数日間、生きたまま漬け込んだ一品。。魯迅も好んで食べた逸品で、紹興酒の旨みが凝縮された濃厚な味噌は絶品で、ビールに大変あう。以前、成隆行蟹王府(九江路店)でも頼んだが、その際はもっと小さいサイズだった。


味噌部分を頂くのだが、サイズが大きいので、手足の身にも挑戦したが生のため、身が筋張っている。。殻が硬く、ぬめぬめしており、取り出すのは難しいので、少しで諦めた。他に、上げ春巻き、モチ米入りナツメなどを頼んだ。

食後、坂東玉三郎主演の昆劇「牡丹亭」の公演が行われる「蘭心大戯院」にやってきた。劇場は、茂名南路と長楽路の角にあり、愛美劇団を母体(1866年設立)に、1931年に現在の地に建てられた歴史ある建物。茶色のタイルに白タイルの縁取りと、2階の装飾的な欄干のある3つの半円形アーチ窓が特徴で、上海市の優秀歴史建築にも指定されている。劇場の向かい側には、花園飯店(オークラ ガーデンホテル上海)がある。


劇場を入ったロビーの坂東玉三郎専用カウンターには、多くの祝スタンド花が飾られていた。ちなみに、壁面に描かれた絵画は、ヤッシャ・ハイフェッツで、彼は、ロシア領(現リトアニア領ヴィリニュス)生まれで、後にアメリカ国籍を取得した、20世紀を代表するヴァイオリニストである。

さて、坂東玉三郎は、若いころから、京劇の名優・梅葆玖氏とも交流があったが、2007年から、京劇より古い昆劇での演技を目指し、昆劇院の名誉院長の張継青さんらに師事し、芸を磨き女形として「牡丹亭」を演じる夢を実現したという。牡丹亭は、明代の劇作家、湯顕祖が1598年に著した昆劇の代表作で、全55幕ある長編。玉三郎は主人公「杜麗娘」を演じている。今回の公演は、これまでの京都、北京、蘇州などでの公演を経て、昆劇の本場、上海での初公演の舞台となる。


ストーリーは次の通り。南安太守、杜宝の一人娘、杜麗娘が、花園でうたた寝したところ、夢の中で麗しい若者・柳夢梅が表れて恋に落ち牡丹亭の傍らでちぎりを交わす。夢煩いで衰弱した杜麗娘は、自分の姿絵を残し、花園の梅の木の下に埋めてくれと言い残して亡くなる。

一方、柳夢梅は、科挙試験受験のため、都の臨安(杭州)に向かう途中に、病にかかり、梅花庵(杜麗娘の供養庵)で養生する。柳春卿は、そこで、見つけた杜麗娘の美しい姿絵に魅せられ、その後毎晩姿を現す様になった杜麗娘を愛するようになる。杜麗娘は柳夢梅に、自分はこの世の者ではないことを打ち明け、再生の手助けを頼み、甦った杜麗娘と柳夢梅は結ばれる。

玉三郎の優雅で流れるような踊りと、オペラを思わせる様な美しいデユエットが素晴らしい。

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翌日、午前中は、「菁菁(じんじん)保健会所」でマッサージをしてもらう。静安寺から南西に1.5キロメートル離れた華山路と長楽路が交差する場所のビルの3階にある。入口には2周年祭と書かれた案内板が置かれているとおり、まだ店内は新しく清潔な感じ。個室に分かれているので、気遣いなくマッサージを受けられる。


料金も、足マッサージと全身マッサージが2時間で100元ほどと大変リーズナブル。足は、施術後、漢方薬を含んだ蒸気を足に当てる温浴療法が行われ、足が大変軽くなる。着替えもお茶のサービスもあった。

その後、昼食はレストラン「避風糖(錦江店)」で頂いた。長楽路を東に2キロメートルほど行った通り沿いで、上海軌道(地下鉄)「陜西南路駅」の近くにある。香港料理チェーンで、日本のファミレスの店舗と良く似た雰囲気である。以前、上海商城劇院近くの、避風糖(展覧館店)を訪れたが、ここ数年で店舗数が大幅に増えたらしい。


単品の値段が大変お得で、点心を中心に数品を注文した。どの料理も、チェーン店とは思えないほど美味しく、十分満足することができた。


その後、外灘(バンド)などを散策し、夕食は、昨年も訪れた淮海路沿いにある「翁家魚翅」にやってきた。


今夜は、魚翅スープや、鮑料理を頼んだ。付け合わせの鶏足がグロテスクだが、旨味が染み込んだ皮とコラーゲンが大変美味しい。
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そして、昨年食べて気に入った辛味タレの蛙肉を味わい、最後に今回2回目となる上海蟹の姿蒸しを頂いて終えた。単品での注文だと、昼のコースより分量も多く、より深く味わえた。


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翌朝、午前6時の朝食後、人民広場駅から上海軌道(地下鉄)に乗り(龍陽駅経由)、上海トランスラピッド(リニアモーターカー)で、上海浦東国際空港に到着、その後、午前8時50分発のJAL796便で帰国した。3泊4日の短い滞在だったが、マッサージで疲れも癒され、恒例となった上海蟹を今年も味わうことができて良かった。
(2009.11.21~24)
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中国・蘇州

2013-02-22 | 中国
今朝、羽田国際空港からJAL8877便(午前9時25分発)に乗り、午前11時50分、上海虹橋国際空港に到着、その後、上海市の北西約50キロメートルに位置する崑山市まで高速バス(約1時間)に乗り、更にタクシーを20分乗り継いで「陽澄湖」までやってきた。陽澄湖は面積119.04平方キロメートル(琵琶湖の約1/5)の淡水湖で、上海蟹の産地として知られ、周辺には数多くの蟹市場(問屋や蟹専門レストラン)が軒を連ねている。


タクシーで到着したエリアは、西側(左)が陽澄湖で、東側(右)が水上公園のある鰻鯉湖に挟まれた南北に延びる「巴解路」で、通りの両側には、数十件の蟹専門店が続いている。特に目当てのお店もないことから、店構えや勘を頼りにとある店に入った。最初にビールや紹興酒を注文し、豆腐と鶏の中華スープを食べながら待っていると、30~40分ほどで茹で上がった上海蟹が運ばれてきた。

日本では、上海蟹の名で有名だが、中国では「大閘蟹」(中国モクズガニ)と呼ばれている。秋(9月から11月)が旬で、中でも陽澄湖産は、水質の良い天然湖で、平均水深は2メートルの砂地で活動しやすく身も詰まり旨味も増していることから、最高ブランドと言われている。一方、傷がつきやすく、淡水蟹であることから鮮度が落ちやすいので、収穫と同時に紐で十字に縛られ、速やかに出荷される。


お店では丸ごと蒸された上海蟹を、醤油、黒酢、砂糖、生姜を混ぜたタレに付けて頂く。新鮮で上質な上海蟹は、このシンプルな食べ方が一番、蟹の旨味が感じられ美味しいとのこと。最初に蟹の手足をハサミで切り、内側のお腹の三角の褌はがした後、甲羅をはがす。次に、褌があった場所の両側に白いビラビラは食べられないので、取り除くと準備完了となる。蟹ミソは濃厚で、大変美味しく紹興酒とも良く合う。身の部分も風味があり、タレなしでも旨味を十分感じることができる。手足の身も柔らかく余すことなく頂いた。


その後、蘇州中心部(旧市街)に移動し、ホテルでチェックインを済ました後、「中新大道西」沿いにある人気マッサージ店「ドラゴンフライ」(悠庭保健会所)で、90分間のマッサージを受けた。案内された施術部屋は、木目柄の柔らかい壁紙クロスで、木製家具、木彫りの置物、観葉植物が置かれ、ヴィンテージ調スタンドライトの薄暗いあかりで照らされていた。。


身も心も癒され、心地よさから熟睡してしまった。ホテルに戻った頃、小腹が空いたので、最寄りの老舗米麺チェーン店「老媽米线」米麵を食べて一日を終えた。午後10時前の閉店間際にも関わらず丁寧に対応してくれた。

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翌朝、部屋のカーテンを開けると雨が降っている。天気予報によると今日は終日雨とのこと。。こちらは、蘇州の旧市街中心地にあるホテル「蘇州玄妙索菲特大酒店(Sofitel Suzhou)」で、東西に延びる大通り(千将東路)沿いにあり、道路中央には水路が中央分離帯の役割を担っている。ちなみに蘇州中心部にある繁華街「観前街」までは、徒歩で10分ほどの距離である。


蘇州は、北京と杭州を結ぶ「京杭大運河」を始めとして、江蘇省の東南部、長江の南側にある「太湖」東岸にあり、蘇州の縦横に水路が走ることから「東洋のヴェニス」や「水の都」と呼ばれている。古くは周王朝の後半期の春秋時代に存在した君国の一つ、呉(句呉)の都が置かれたが、現在の環濠「外城河」が取り囲む長方形(南北にやや長い14平方キロメートル)の旧市街は、呉の最盛期を生み出した春秋五覇の一人、第6代王の闔閭(在位:前514~前496)が、紀元前514年、大臣の伍子胥の提言で築いた都城「蘇州古城」(闔閭大城)が原型になっている。

その後、蘇州古城は取り壊されたが、時代を経て、碁盤の都市構造に道路と水路が走る街となった。宋時代には、無数の水路網が形成されたが、清時代以降、破壊や区画整理などで水路は減少している。「蘇州」の名は隋時代からで、五代十国時代の呉越国の都、北宋の神宗時代には平江府(首都に准じる都市)へ昇格を経て、明時代に「蘇州府」の名として定着し現在に至っている。

朝食は、ホテルから西に歩いて10分ほどの「同得興」で水晶担面を頂いた。こちらは、地元民に愛され、朝から混雑する蘇州を代表する麺専門店。水晶担面とは真っ直ぐな細麺で、スープは「醤油味の紅湯」と「塩味の白湯」の2種類がある。


この日は「白湯」を注文した。細麺の上に青梗菜と豚肉が乗っており、追加で、小皿にアヒルの肉が付いてくる一品。あっさりした上にコクもあり、朝から美味しく頂けた。


食後は、ホテルから北に2キロメートルほど「東北街歩行街」沿いにある「蘇州博物館」に向かった。蘇州古典園林の一つでもある「拙政園」の南西エリアに建っている。元々は太平天国の指導者の一人、李秀成(1823~1864)の旧居だったが、1960年に旧博物館を経て、1986年に蘇州市設立2500年を記念し「蘇州博物館」として開館した。
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更に2006年には、フランス・ルーブル美術館のガラスピラミッドの建築で知られる建築界の巨匠「貝聿銘(イオミンペイ)」(蘇州生まれの中国系アメリカ人)により完成したシャープで幾何学的な近代的デザインの新館も見所となっている。博物館では、文化的遺物、古代の絵画や書道、古代の工芸品など約30,000点が、また、70,000を超える書物と文書、20,000を超える石碑文を所有している。

40分ほど鑑賞した後、次に、蘇州博物館から西に200メートルほど先の「蘇州工芸美術博物館」に向かった。こちらでは、中国三大刺繍の一つ「蘇州刺繍」を展示、紹介している。蘇州では、2500年前の呉の時代から刺繍が盛んで、繊細で高度な技術は、今でも世界の最高峰として評価されている。多くの色糸と髪の毛の1/3程度の細い糸を使い、手で刺繍するのが特徴。職人が、制作する白い猫の刺繍は、毛並みの濃淡まで表現されており、絵画と見紛うほどである。
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「臨頓路」を南下して東西に延びる大通り「干将東路」沿いで、東外城河近くの「顧亭酒家」に昼食に向かった。入口は、大きな立て看板から南への路地を入ったすぐ右側の白いくぐり門で、左右には白壁が続き、透かし彫りの花窓があしらわれている。その門を入ると緑と石のオブジェが置かれた小さな庭園があり、周りに清時代の軒反りが強調された瓦屋根の古風な建物が取り囲み、その一角にレストラン会場がある。


こちらは、広東料理の高級店として知られるが、昼はリーズナブルな広東式飲茶メニューがあり、多くの来店客で賑わっている。お腹が減っていたので、焼売や餃子の他、お粥や、焼きそば、大根餅なども注文した。


食後は、南北に流れる細い水路沿いの「平江路」を北に400メートル歩いた「中張家巷」沿いにある「蘇州崑曲博物館」に向かった。平江路は北を東北街、南を干将東路に挟まれた平江河沿いに南北に延びる1.6キロメートルの道で、白い壁とグレーの瓦を用いた、唐宋以来の古い町並みが残る歴史街区「平江路歴史街区」である。

崑曲とは、元末期から明の初めにかけて、江蘇省昆山で生まれ、蘇州一帯で演じられてきた舞台演劇で歌われた戯曲の一形式で、明の万暦帝以降、長江以南や銭塘江以北に広まり、「百戲之祖、百戲之師」と言われるほどの伝統劇になった。「蘇州崑曲博物館」は、清の光緒帝治世(1875~1908)に建てられたもので、館内には「崑曲」に関する品々が展示がなされている。


館内には、中庭があり、中央には、清時代の急激な軒反りの曲線を持つ屋根が特徴の古い舞台が残され、周囲の建物の壁面には、幾何学文様の繊細に細工された木彫り板で覆われている。ここは商人が集まる全晋会館だった。
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こちらの大きな箪笥を思わせる調度品には、ワイヤーで吊るされた電飾が、縁取りと浮彫で施された表面の絵画を照らしている。「堂名担」と名付けられた運搬可能な舞台装置で、依頼があった富豪などの家で、崑曲芸人が、中に入り崑曲を披露したとのこと。


館内には、40人ほどが鑑賞できる舞台があり、毎週日曜日に崑劇が上演される。開演時間の少し早めに、会場内に並べられた木製椅子に座って待っていると、見る見るうちに満席となり、開演したころは、立ち見が出るほどの賑わいとなった。舞台上の後方の長押には、中国語の電光字幕が表示されている。舞台に向かって右袖には、オーケストラピットがある。この日の開演は概ね1時間ほどで、3作品が演じられた。


演目が分からなかったが「扈家庄」で、手前の女剣士は、扈三娘ではないだろうか。。女剣士は、豪華な着物を羽織り、腰には剣を差し、頭には、貴金属・宝石細工が施された扇を広げた様な豪華絢爛な冠を被っている。更に、蝶のような長い触角ワイヤーが付いており、立ち回るごとに大きく波打つが、重さを感じさせない、ぶれない立ち回りが素晴らしかった。
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こちらは「玉簪記」の一節と思われるが、どうだろうか。。青年が一目ぼれした娘を追いかけるコミカルな小品で、青年の顔の一部にのみ白粉を塗った顔芸と軽快な踊りや、娘の優雅な舞い、そして二人の掛け合いなどが面白い。


崑曲の代表作品と言えば、坂東玉三郎が蘇州弁で演じて話題となった「牡丹亭」が有名で、「浣紗記」、「長生殿」、「桃花扇」、「虎嚢弾」などがある。清代の中期以降は、北京を中心に発展した「京劇」が大衆演劇の中心となるが、「崑劇」の豪華な衣装と繊細で優美な立ち回りや、節回しは、守り継がれた伝統と高い芸術性が感じられ大変貴重な体験だった。

ちなみに、蘇州崑曲博物館に向かって左隣には、蘇州評弾博物館がある。蘇州評弾とは、歴史物の講談である「評話」と歌を中心とした「弾詞」の総称で、400年の歴史を持ち、民間芸能の生きた化石とも言われている。

時刻は午後4時を過ぎ、蘇州崑曲博物館を出ると、辺りは薄暗く物静かな雰囲気になっていた。相変わらず雨は降り続いているが、「平江路」から水路付近を散策していると、水路沿いに建つ建物の軒下の提灯に、明かりがともされ始めた。


次に、環濠「外城河」の西北西から北西方向に延びる繁華街「山塘街」に夕食を食べに向かった。山塘街は唐代中期の漢詩人・白居易(772~846)が蘇州長官として赴任した際に、環濠「外城河」と「虎丘」を結ぶ水路の町として造られ、全長が7里(約3.6キロメートル)あることから「七里山塘」とも呼ばれる歴史文化街区である。水路沿いには、石畳の道が続き、両脇に古い蘇州らしい白壁の建物が連なっている。数多く飾られる赤い提灯も名物でノスタルジックな景観を演出している。


夕食は「松鶴楼」(ソンホーロウ)で頂く。1757年に創業、中国の老舗店舗を指す称号「老字号」を最初に受けた店として知られ、清の乾隆帝もお気に入りの名店と言われている。


こちらは、上海蟹入り豆腐のうま煮「蟹粉豆腐」で、濃厚な蟹粉スープが絶妙な一品。


そして、蘇州料理で有名な「獅子頭」と名付けられた鶏肉団子。澄んだ様な香りとさっぱりとした旨味が絶妙な一品。


「松鶴楼」を代表する一品がこちらの「松鼠桂魚」。「桂魚」と呼ばれる淡水魚で、リスの尻尾のように見えることから名付けられた。強火で丸揚げされていることから、表面はサクッと、身自体は柔らかく食感も絶妙で、甘酢あんかけとも大変良く合う一品。実際に目の前にすると、怪獣の様なインパクトのある姿に、しばらく箸を付けられなかった。。他にチンゲン菜の炒め物や揚げ春巻きなどを頼んだがどれも美味しく満足だった。


食後は、山塘街を少し散策した。環濠「外城河」の西袂には、鮮やかな色彩でライトアップされた塔「唐少傅白公祠」が建っている。山塘街を築いた白居易を記念して、清嘉慶年間に建てられた塔だが、太平天国年間に破壊され、2006年に白居易記念館として再建された。


「唐少傅白公祠」の正面(東側)のテラス先は船溜まりになっており、南北の環濠「外城河」、東西の水路、北西側の「山塘河」が交わる水域となっている。外城河北側に架かるアーチが美しい大石橋の輪郭のライトアップは、水面の反射で輝きが増幅され幻想的な世界を醸し出している。


旧市街側に向け続く東西の水路は、並行して大通り「西中市」が延びており、すぐ先の蘇州古城の水門八門の一つ「閶門」が楼閣と共に、ライトアップされている。これらの建造物は、春秋時代の呉(句呉)の都城「蘇州古城」の城壁址で、水門と陸城門(中央の大きなアーチ門と左右の小アーチ門)で形成されている。 


食後は、山塘街から「閶門」とは逆方向の西へ、水路沿いの「枫桥路」を3キロメートルほど進んだ、寒山拾得の故事で名高い「寒山寺」近くにある「プラナスパ(Prana Spa)」でマッサージを受ける。こちらは、タイ式のマッサージ店で、店内にはアロマグッズや、小物の置物が置かれ、まったりとした東南アジア音楽が流れている。全身マッサージの90分のコースの大半は心地よく寝てしまう。。


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蘇州3日目。昨日降り続いた雨はようやく止み、今日は晴れ時々曇りとの予報である。最初に、中国四大名園の一つで、蘇州古典園林の一つでもある「拙政園」の見学に向かった。こちらは、小説「紅楼夢」の舞台で登場する中国庭園「大観園」のモデルと言われている。もともと唐の詩人の陸亀蒙(~881)の邸宅だったが、元代に寺院となり、明時代に官職を追放された王献臣が、1509年に庭園として造営し現在に至っている。

拙政園という名は西晋の潘岳による「閑居賦」の一節「拙者之為政」(愚かな者が政治を司る)からとった説がある。園内は東園、中園、西園の三つから構成され、敷地の半分以上は大小の蓮池で占められている。太平天国の時代(1851~1864)、蘇州を拠点にした五軍主将の一人の李秀成(1823~1864)が、忠王になった後、忠王府を拙政園に置いている。


南南東にある長方形の門を入り、更に内側にある白壁の丸門をくぐると「東園」になる。最初に「林香館」があり西側にかけて大きな池が広がっている。見学通路は、池の周りから北西方面の中園に続いている。


「中園」には「遠香堂」が建ち、周囲に中国庭園の必須である、池、島、建物は館、亭、軒、楼などが配置されている。池に架かる橋を渡り、一つ目の島の「待霜亭」を過ぎ、二つ目の島まで来ると、山頂に「雪香雲尉亭」が建っており、南対岸の「遠香堂」を見下ろすことができる。「遠香堂」は拙政園を造った王献臣のお気に入りで、ガラス張りの建物となっている。室内には豪華な木彫のテーブルや椅子などの調度品が展示されている。


次の橋の間に「荷風四面亭」がある。その前から南側の対岸には「香洲」と名付けられた建造物がある。軒反りが強調された東風の建物を先頭に、切妻屋根の平屋と大きな白壁の建物が直結しており、遊宴のときに乗る「画舫」(屋形船)をイメージしているとのこと。
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「荷風四面亭」から反対側の北側に視線を移すと、対岸に「見山楼」と名付けられた寄棟造の2階建ての建物が建っている。特に2階の幾何学模様で縁どられた小さな水平連続窓が、2段にわたり並ぶ姿には、引き付けられる美しさがある。忠王の李秀成が執務した建物である。
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「見山楼」の2階西側からは「柳隠路曲」と呼ばれるなだらかに下る回廊が設置されている。回廊には透かし彫りされた「花窓」が連続してあり、庭園を眺めながら、歩くことができる。


こちらは、外から「柳隠路曲」を見た様子で、上り下りしながら続いている。見慣れない珍しい回廊だが、更に途中でいくつにも枝分かれして迷路の様に続いて行く。「拙政園」では計1時間ほど見学した。


水路沿いの平江路を南に向けて歩いていると、漕ぎ手とゴミ収集担当の二人が乗る清掃船が水路を掃除しながら移動している姿があった。昔は、ヒシの実やレンコンを売る商人が、船に乗り販売する風景が蘇州名物だったらしいが、手漕ぎ船自体は昔から変わっていないのではないかと思った。


途中から、リキシャ(力車)に乗り、平江路を南に向けて進み、蘇州古城の西南角に位置する景勝エリア「盤門景区」に向かう。


「盤門景区」は、東西が長辺の長方形の4万平方メートル(東京ドーム1個弱)の敷地があり、東側が入口になっている。正面からは景区のランドマークとなる「瑞光塔」が聳えている。


入口を入ると、右側に、白牛の石像が飾られている。手前の石板には、宋淳熙13年(1186年)法林禅師が瑞光寺を再建する際、市民と一緒に、白牛が昼夜を問わず工事に協力したという。しかし、完成と同時に死んでしまったので、蘇州市は白牛の奉献精神を広く世に知らしめる為に「助設白牛」の石像を建てた、と書かれている。前のめりになっている姿が何ともいじらしい。。


盤門景区の中央東側に建つ「瑞光塔」は、12世紀前期(960~1126)に再建されたもので、八角7層、54メートルの高さがある。塔から眩いばかりの光が見えたことから名づけられた。この場所には、三国志時代の247年に、呉の建国者・孫権によって創建された普済禅寺(後に瑞光寺と改称)があり、13層の塔が聳えていた。清代の戦火で消失して、瑞光寺は廃寺となり、塔だけが残った。


以後破壊と再建が繰り返されたが、現存する塔の内、塔身は北宋時代のもので、木造部分は各時代に修復されたもの。やや落ち着いた朱塗りの柱や赤褐色の壁面と黒い屋根瓦とのコントラストが大変美しい。

塔の西側には「四瑞楼」が建ち楼閣の欄干越しに池が広がり、対岸に「麗景楼」が望める。階段のなる基壇の上に建つ重厚で優雅な構えの三階建ての建物で、2階には欄干が取り囲む廊下がある。
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次に、見学通路を歩み、池の対岸西側にある「麗景楼」に向かった。階段を上り基壇上から振り返ると、手前の階段下から欄干のある石橋が広い八角形の前庭に続いている。その先の広い池の対岸には、向かって左右に、鼓楼と鐘楼とを回廊で繋がる「四瑞楼」が建ち、背景に「瑞光塔」が聳える壮観な風景が広がっている。
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敷地の西南角には、南北に延びる城壁が僅かに残っている。こちらが、紀元前514年、呉の第6代王の闔閭が、大臣の伍子胥の進言により作った水門八門の一つ「盤門」である。城壁上には宋代に建てられ、1351(元の至正11)年に壊され、明時代に修復された城郭「古盤門城楼」が築かれている。盤門の東側には、ロの字で囲まれた防御の要「甕城」を形成しており、侵入した敵を閉じ込める仕掛けとなっている。
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古盤門城楼内は展示室で、高浮彫の木製椅子、槍などの武器の数々が飾られている。古盤門城楼から城壁をやや南側に進み、真下を覗き込むと、水路が水門を通っているのが確認できる。城壁上には、鎖を巻き取ったり戻したりして水門を開閉するウインチが設置されている。


城壁の下の水路は、すぐ先の欄干手すりの橋から、蘇州古城の環濠「外城河」に合流している。「外城河」は、東西に流れて(右先から北方面に流れを変える)おり、南北に架かる大きな橋は「呉門橋」で、清の同治11年(1872年)に建造されたもの。橋の高さは14メートルあり、現存する蘇州の石橋の中では最も高く、橋の下には船が通れるように大きな半円形アーチで反り上げた太鼓橋となっている。もともとは、宋時代の1084年に創建された「新橋」が前身である。盤門景区内の、瑞光塔、盤門、及び呉門橋は盤門三景と呼ばれ、有数の景勝地とされている。

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城壁を下りて、盤門の西側には伍子胥を記念する「伍相祠」があり、庁堂、廊亭と花園等から成っている。この日は、東院で「唐伯虎点秋香」の公演が催されている。
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その「伍相祠」側から「古盤門城楼」下の「盤門」のアーチ門を甕城方面へくぐってみると、盤門内部は、小さな石材が無数に積み重なり二重のアーチを構成している。また「盤門」の右側、南隣りにある水門を覗き込むと、やはり、こちらも二重のアーチになっており、この水路の先で環濠「外城河」に架かる「呉門橋」に至る。
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昼食は、蘇州シェラトンホテル「天宝閣」で飲茶ランチを頂いた。ガラス張りの天井からは、外光が入り、明るい雰囲気である。レストランの中央には、枇杷(ビワ)に似た実がなる木のオブジェが置かれ、周囲の壁には、明、清時代風の陶器花瓶が飾られている。


「水晶」の名が付けられた名物の「海老蒸し餃子」、蟹焼売、四川タンタン麺、マンゴー・プディングなどを注文した。料理は美味しく、既に午後1時を大きく過ぎたせいか、来店客が少ない静かな中での昼食となったことが、更に良かった。


以上で蘇州の滞在は終了である。これから、旧市街の北側、外城河のすぐ外側にある「蘇州駅」から午後3時21分発の電車に乗り「上海市」に向かう。切符は蘇州到着日に予約していたので、特段問題はなかったが、電車は概ね満席に思えた。

(2008.11.22~24)
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中国・北京(その2)

2013-02-20 | 中国
「正陽門」(前門)は、天安門広場の南に位置する北京の城門で、元の大都城の南面中央にあった門を、1420(明の永楽18)年に、南に移動して建造された旧:麗正門で、高さ42メートルと当時城内で最も高い建造物だった。南面にやや小さい城門「箭楼」があり、甕城と呼ばれる半円形の区画(東西108メートル、南北85メートル)で取り囲まれていたが、現在は東西に延びる大通り(前門大街)で分断されている。


昨夜は、北京に午後10時半過ぎに到着後、華潤飯店(China Resources Hotel)に宿泊し、今朝、最寄り駅の四恵東駅から地下鉄1号線に乗り、北京中心部にやってきた。これから「正陽門」そばのバスターミナルから「八達嶺」(はったつれい)へのバスツアーに参加することにしている。

チケット購入後、観光バスは、10分後の午前9時過ぎに出発した。バスは日本と同様の貸切観光バスで、約8割ほどの乗車率だった。最初に向かったのは、北京中心部から北に40キロメートルほど離れた天寿山南麓にある明王朝の第14代皇帝の万歴帝(在位:1573~1620)の陵墓「定陵」(面積1195平方メートル)で、約1時間で到着した。


ところで、明王朝の陵墓は、第3代皇帝の永楽帝(在任:1402~1424)が自らの陵墓「長陵」の建造(1409年築)に着手し始め、約200年後の王朝滅亡の1644年まで、歴代皇帝の陵墓が造られ続けた。天寿山エリアには、総面積約40平方キロメートルにわたり、13人の皇帝陵墓「明の十三陵」が存在している(初代、2代、7代、17代皇帝を除く)。現在では、永楽帝の陵墓「長陵」、万歴帝の陵墓「定陵」、第13代皇帝の隆慶帝の陵墓「昭陵」の3陵墓が一般に公開されており、その内「定陵」のみが1956年から1958年にかけて発掘され内部も公開されている。

バス降車後、広場の先の「棱門」をくぐると、見学者用の案内板があり、「稜恩門」「稜恩殿」と2つの豪華な御門が記載されているが、現在は、階段付きの礎石のみとなっている。


2つ目「稜恩殿」の階段には、皇帝の権威を示す、龍と鳳凰が浮彫された、御路にある御路石「御路石雕」(ぎょろせきちょう)が飾られ、礎石の上からは、櫺星門(れいせいもん)と微かに明楼を望むことができる。


櫺星門をくぐった先に、大きな横長の石「前卓」が設置され、中央に豪華に彫刻された石香炉が、左右に燭台一対、花瓶一対の石五供(五具足)が荘厳されている。その先には、城壁上に「定陵の正殿」となる「明楼」が聳えている。ちなみに屋根下の組木は石材の浮彫で造られているとのこと。
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前卓の先に見える「明楼」前庭から、左側にある階段で城壁上まで上って行く。「宝城」と書かれた場所から円状に回り込む様に通路をしばらく進むと、地下宮殿に向かう階段がある。

地下宮殿は、深さ27メートル、地下9階、前中後左右(前殿、中殿、左配殿、右配殿、后殿)の5つの石築殿堂を連結して作られている。前殿側が正面となるが、発掘後の見学通路は、階段を降りた先の「左配殿」に通じている。左配殿は、床から壁面、天井に至るまで大理石が使われたトンネル状の高いアーチ(7~9メートル)で覆われた横長の広い空間で、中央片側に大きな台座が残り、廃墟といった様相である。

左配殿の中央にある大理石の扉をくぐると並行して「中殿」の中央個所に至る。中殿も左配殿と同様のトンネル状の高いアーチがある横長の空間となっている。こちらには、龍の飾りの付いた皇帝の王座や鳳凰の飾りが付いた皇后の玉座などが並んでいる。
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そして奥のアーチ扉の先が、皇帝と2人の皇后の3つの木棺が納められた「后室」となり、宝冠や多くの副葬品などが発見された場所である。

「中殿」の手前は「前殿」となり、「前殿」の更に手前に、地下宮殿正面口の大きな壁「金剛墻」があり、内部が掘り返されない様に「自来石」(石のつっかい棒)や、煉瓦の層を積み重ねるなど厳重に塞がれていた。現在では金剛墻のアーチ扉内に埋められた煉瓦が方形状に取り外され通ることができる。


外に出ると、なだらかな上り坂で、明楼の後面に通じている。階段を上った明楼のアーチ中央には、石で造られた直方体の心柱が祀られ、上部に偉大な明を表す「大明」と、下部には「神宗顕皇帝の陵」の文字が刻印されている。


「棱門」手前の広場東側に面して建つ「十三陵博物館」には、地下宮殿から発掘された約2千点もの副葬品が所蔵、展示されている。万暦帝の治世は、周辺の諸民族の反乱や豊臣秀吉の朝鮮侵略に対する出兵など対外的な問題に加え、国内では反税、奴隷解放、反権力闘争などの社会問題が表面化し、明の衰退が表面化してきた時期でもある。しかし、民衆の困難をよそに、莫大な大金を投じて皇帝陵墓が造営されたことで、現在では、万暦帝は人民を収奪した専制君主として評価されている。


次に、再びバスに乗り20分ほどで、昼食会場に到着した。お土産屋もあり建物には「御鹿殿の扁額」が掲げられている。ちなみに、八達嶺ツアーでは、見学個所の多少異なる3種類のツアーが設定されていたが、どのツアーにもこちらの御鹿殿は入っていた。


昼食会場は、10名ほどの円形テーブルが、体育館ほどの広さにぎっしり設置されているが、多くのツアーバス到着しており、ほとんど満席状態。相席当然で、見知らぬ人通しが向かい合い、一斉に箸を突きあう姿は、予想していたとはいえ、多少厳しいものがあった。。唖然とする欧米系の参加者の姿も見られた。。


御鹿殿での滞在時間は70分で、食後、再びバスに乗車し出発した。30分ほど乗車した後、ツアー目的地「八達嶺」(はったつれい)の南駐車場に到着した。南駐車場のそばには「八達嶺熊楽園」がある。


園内には、地面を掘り下げて囲った、水場、階段や遊具等がある広い飼育場があり、その中に5頭ほどの黒熊が動いていた。餌を購入して与えることができ、数人が利用していた。その熊楽園の先にある遊園地のジェットコースターの様な乗り物に乗っていよいよ八達嶺長城に向かう(八達嶺長城チケット)。


ジェットコースターの長城側乗降口は、長城内に一定間隔毎に設けられた望楼の「北四楼」の斜面沿いにある。八達嶺長城は全長約3.7キロメートルあり、長城入口からは、南北(南一楼側と北一楼側)にルートが分かれているが、今回は、ジェットコースターで北側ルートに到着したことから、北五楼方面を中心に見学することにする。


ちなみに南北の長城の高部エリア(南四楼と北八楼)には、北駐車場からそれぞれ直接アクセスできるロープウェイが設置されている。また、日本のガイドブックでは、南側が急勾配な斜面であることから「男坂」と呼び、比較的傾斜が緩やな北側を「女坂」と呼んで紹介している。

「八達嶺長城」は、北方の異民族の侵攻を防ぐために、紀元前214年に秦の始皇帝によって建設された「万里の長城」(総延長6,259.6キロメートル)の一部である。歴代の王朝により、修築と移転が繰り返されるが、現存する大部分は、明王朝の第3代皇帝の永楽帝と、第5代皇帝の宣徳帝(在位:1425~1435)時代に建設されたもの。部材は、土壁(版築)や日干しレンガだった当初とは異なり煉瓦壁が中心となっている。
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長城は、山の地形をそのまま利用して造られていることから、山の尾根を上り下りしている感覚になる。両脇には低い壁が作られ、転落防止用の柵の役割と、一定間隔で壁に切り込みが入り銃眼の役割を果たしている。


内側から長城への登り口は各所に設けられ、非常時には、兵士がすぐ長城内に上ることができた。そして、200メートルから300メートル毎に戦闘時の拠点となる望楼が設けられ、八達嶺長城での最高地点となる北八楼(海抜1015メートル)にも、速やかに駆けつけることができた。
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こちらは「北五楼」付近から、南東方向を眺めた様子で、「北八楼」から長城は南側に方角を変えて延びている。龍の体の様に尾根を這う様に繋がる姿は大変雄大な景色である。
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長城からの眺めが素晴らしく、持参したシャンパンを片手に、ゆっくりしすぎたのか、気が付くと、バスの集合時間が迫っており慌てて下山した。多少集合時間に遅れたが、問題ないだろうと高を括っていたら、既にバスは南駐車場を出発した後だった。しかたがないので、路線バスに乗り、北京市内に戻った。。夕食は、昨年食べて美味しかった朝陽区慈雲寺にある「鷺鷺酒家」(Lulu Restaurant)向かった。


レストランは、北京料理、上海料理、四川料理、広東料理、点心と幅広い料理があり人気がある。また、広いスペースがあり落ち着いて食事ができる。この日は、蟹肉、蟹みその豆腐煮込み、青椒肉絲、春巻き、北京ダック炒飯などを注文したが、どれも大変美味しく頂けた。


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翌朝、天津名物の包子店「狗不理包子」に朝食に出かけた。「王府井駅」(地下鉄1号線)から北へ徒歩5分ほど歩いた所、王府井繁華街から東路地に入った北京ダックで有名な全聚徳の向かい側にある、1858年創業、150年以上の歴史を持つ老舗店で、清朝末期の西太后も絶賛したと言われている。


店構えは、赤を基調とし、格子天井に金灯籠がぶら下がり、金の龍の浮彫など派手な装飾が施されている。注文は、カウンター越しに、上部の看板を見ながら注文するシステム。日本語は通じない。


包子は9つが1単位で、スープがサービスで付いてくる。包子の皮は薄めでサイズが小さいので食べやすいが、お腹は一杯になる。味は正直言って普通。。この時間は混雑していなかったが、席も狭くテーブルもあまり綺麗ではない。庶民向けの地元の食堂といった雰囲気である。


これから、「頤和園(いわえん)」(北京市海淀区)の見学に向かう。「王府井駅」から地下鉄1号線で3駅目、「西単駅」から地下鉄4号線に乗り換え、北京市の西北約10キロメートル離れた「北宮門駅」で下車する。

頤和園は、清の第6代皇帝の乾隆帝(在任:1735~1796)が、母の崇慶皇太后(孝聖憲皇后)の還暦を祝って「夏の離宮」(Summer Palace)として整備した約290万平方メートル(東京ドーム約62個分)の広大な敷地を持つ中国庭園で、園内の大部分を占める「昆明湖」と、高さ60メートルの「万寿山」を背景に建ち並ぶ豪華な建造群が特徴で、ユネスコの世界遺産(1998年)に登録されている(頤和園チケット)。


頤和園の「北宮門」から入園する(他に、西宮門、東宮門、新建宮門がある)と、最初に「蘇州街」が広がっている。こちらは、江南地方の蘇州の美しい風景に深く魅了された乾隆帝が、頤和園内に滞在する皇族たちの買い物の場所として蘇州の風景を再現し整備したもの。
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東西約300メートル、雑貨屋、質屋、薬屋、骨董品屋、茶楼等60以上の商店が軒を連ね、蘇州の華やかさを演出している。街には、川に架かる橋、人一人しか通れない細く屈折した道や、川沿いのスリリングな道など、皇帝や妃たちが遊びながら街歩きできる工夫がされている。それでは、蘇州街の散策を終えて、次に、正面に架かる大きな石橋「長橋」を左側に向けて渡ることにする。
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「長橋」を渡り、左右を松に囲まれた「松堂」の階段を上ると、正面に、チベットに建立された最初の仏教僧院サムイェー寺(桑耶寺)を模した「四大部洲」が現れる。四大部洲とは、中央に世界の中心にそびえるスメール山(須弥山)を現した本堂を置き、その四隅の東西南北にお堂や仏塔を配し四大大陸に見立てる様式のことで、仏典に説かれる立体曼荼羅をイメージしている。
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その「四大部洲」の伽藍に建つ3つの塔の右後方に見える四角形の建物は「智慧海」と呼ばれている。

「四大部洲」の広い石畳の前庭から、側面の階段を上って、伽藍の後方に出ると、右隣(西側)の「智慧海」に到着する。仏説無量寿経の「如来の智慧海は、深広にして涯底なし」(如来の智慧は海のように深く広く、かぎりがない。)から名付けられた建物は、木造建築と異なり、煉瓦と石材から造られ、外壁には、千体仏の浮彫タイルが施されている。こちらの「智慧海」の建物が「万寿山」の山頂になる。


その「智慧海」から「万寿山」南斜面の中腹に、頤和園のシンボル「仏香閣」が建っているが、通路は一旦東側に迂回し、大きく西側に回り込み階段を下りて行く。階段沿い左側には「昆明湖」が望め、手前に、皇帝と皇后が読経し祈祷する2階建ての寺院兼経蔵「転輪蔵」が建っている。そして、その先隣り(西側)が「仏香閣」で、高さ20メートルの大きな台座の上に、周囲を回廊で囲まれた矩形の敷地内に建っている。


「仏香閣」は、高さ約40メートル、欄干付回廊が三層と四重の屋根と庇を持つ、八角形の重量感ある楼閣である。瑠璃色の瓦には軒反りがあり、庇下には色彩豊かな装飾が施されるなど、豪華絢爛な造りとなっている。清の第6代皇帝の乾隆帝が母の健康と長寿を祈願し、杭州の六和塔を模して建築したと言われている。
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しかし、現在の「仏香閣」を始め頤和園の建造物の大半は、乾隆帝の時代から約100年後の1860年に、アロー戦争(第二次アヘン戦争)(1856~1860)で、イギリス・フランス連合軍に焼き払われ廃墟となってしまう。頤和園を再建したのは、第9代皇帝の咸豊帝(在:1850~1861)の妃、西太后(慈禧太后)(1835~1908年)である。西太后は、咸豊帝の第2夫人で「東太后」(慈安皇太后)と対になる名称である。咸豊帝の死後1861年から亡くなる1908年までの約50年に亘り、皇太后として清朝末期の宮廷、紫禁城の主として隠然たる権勢を誇ったのである。

一層目の南側が「仏香閣」への入口となり、その上には「雲外天香」(礼拝の香が天外まで流れて行く意)の扁額が、二層目には「気象昭回」、三層目には「式延風教」が飾られている。


楼閣内には、8本の朱色の円柱が天井を支えており、中央には、明代の第14代皇帝の万暦帝(在位:1572~1620)時代の1574年に鋳造された高さ5メートルの「千手千眼観世音菩薩銅像」が祀られている。像の後ろには、仏陀像や天女が舞う仏教世界が描かれ、上部には、美しく彩られた格子天井が華やかに楼閣内を荘厳している。


「仏香閣」の南側にある回廊門からは「昆明湖」を俯瞰することができる。真下には、清朝時代の壮大な伽藍が、湖畔際に建つ鳥居門「雲輝玉宇」まで続いている。そして、その先に広がる昆明湖には、多くのボートや遊覧船で遊覧する様子が見える。昆明湖の中央には、不老不死の仙人が住むと伝えられる東方の三神山(蓬萊、方丈、瀛州)の「蓬莱」を模して造られた「南湖島」があり、湖の袂と石橋で繋がっている。
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ところで、中国庭園とは、古くから、池・石・木・橋・亭と五つの要素を組み合わせて仙土、桃源郷を具現化させることにある。このことからも頤和園はその5つの要素を取り入れた、中国庭園史上最大規模を有する名園とされている。

さて、壁沿いに左右の瑠璃色の瓦の欄干が施された折り返し階段を下りて行くと、真下に広がる「徳輝殿」に至り、更に、絢爛豪華な装飾が施された折り返しの回廊階段を降りて行くと「排雲殿」の後庭に連結されている。
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「排雲殿」は、清の第6代皇帝の乾隆帝が建てた「大報恩寿寺」を、清の光緒12年(1886年)西太后の誕生日を祝うため、清国海軍の経費を流用して立て直した、頤和園の正殿で、とりわけ贅を尽くした建築物である。「排雲殿」の正面入口の両側には東・西配殿が並び、左右側面には「芳輝殿」「紫香殿」が設けられ、中央に中庭が形成されている。
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排雲殿正面入口には大勢の人が集まっている。西太后は、頤和園で執務をとる際は、この排雲殿を使用しており、室内には、椅子や、調度品が並べられている。
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排雲殿の手前向かい側には、前門となる二宮門があり、更にその前にも排雲門があり、二つの門の間の東西両側には、玉華殿、雲錦殿があり、回廊が渡されている。そして、中央には、池が造られ、石組りの「金水橋」など庭園添景物が飾られている。

昆明湖畔の鳥居型の門「雲輝玉宇」の手前まで下り、振り返ると、北に向かって、石橋、排雲門、二宮門、排雲殿、徳輝殿、仏香閣の代表的な建築群が、中軸線上に続いている。ちなみに、排雲殿の左右は、木に覆われて見えないが、東隣に介寿堂と東西殿が、西隣に清華軒と東西殿が建ち並んでいる。
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ところで、重要建築物が南北一直線上に並ぶ考え方は、中国の礼治思想にある、天子は中心にあり、北を背にして南を向く、に基づいたもので、都と同じく建造物を配する中軸線を採用している。

昆明湖の北岸、万寿山の南の麓を西側に沿って長い長い回廊道「長廊」が延びている。全長728メートルあり、上部の梁には、花鳥画、風景画、歴史画など「蘇州式彩色画」が八千幅にわたり描かれている。こちらも1860年、第二次アヘン戦争で焼失したが、西太后により再建された。
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清王朝は、少数民族の女真(満州人)であったが、漢民族の明朝の制度や統治機構は基本的に残し、巧みに大多数の漢民族を支配した。第6代皇帝の乾隆帝は、領土を最大に拡張し、四庫全書の編纂など文化事業にも力を入れ、安定した統治を実現したことにより、清朝の最盛期を創出した。「長廊」には、三国志演義、封神演義、西遊記、説岳全伝など中国の古来からの漢民族の歴史や文化などが、美しい色彩で多数描かれており、清朝の統治の巧みさが、この回廊にも表れている。

「長廊」を西に300メートルほど歩いた北隣に「聴鸝館飯荘」がある。乾隆帝時代に建設され、1892(清の光緒18)年に再建された食堂で、乾隆帝や西太后の娯楽や宴会用のための施設だった。現在は、正統派宮廷料理を提供するレストランとして公開していることから、早速頂くことにした。


コース料理は、意外にリーズナブルな値段で、味も値段並みといったところだが、レストラン周囲の建築物が素晴らしい。切妻屋根の木造建築が回廊で結ばれ中庭を形成し、その中庭に宮廷演劇を行う2階建ての豪華な舞台楼がある。1階の舞台には真紅のカーペットが敷かれ、組木天井には「長廊」同様に絵画や草花の幾何学文様の装飾が施されている。タイミング的に来訪者がいなかったこともあり、舞台に座り、周囲の景色を堪能することができた。
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「聴鸝館飯荘」のすぐ西隣、万寿山西麓の昆明湖畔には、全長約36メートル、2階建ての石造りの船「清晏舫(せいあんほう)」(石舫)が飾られている。大半は、大理石だが、船楼部分には木材や浮彫煉瓦が使用され、乗船部には連続アーチやステンドグラスなどが採用された精巧華麗な西洋式楼閣船である。西太后のお気に入りの場所で、しばしば豪華な宴会を催されたと言われている。


清晏舫は、天下泰平を意味する、禅語「海晏河清」(かいあんかせい)(黄河の水は清く澄み海は穏やかである)から名付けられた。清王朝の栄華は揺るがず、沈まない船の願いを込めて建設されたが、栄華を極めても必ず終わりが来ることを、後世への教訓として伝えている様である。。

昆明湖に浮かぶ3島のうちの一つ「南湖島」に渡し舟で渡る。島には龍王を祀る「龍王廟」と銘木「香樹」が植えられている。


昆明湖からは、仏香閣を中心とした中央建造群が見渡せる。南西側からは、万寿山頂上に建つ智慧海や、中腹に建つ仏香閣が巨大な基壇により前にせり出している様子も確認することができる。左側の建物群が「聴鸝館飯荘」がある場所で、湖畔沿いに続く「長廊」で繋がっている。
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ところで、清の第6代皇帝の乾隆帝と西太后が整備した頤和園は、もともとは明王朝第10代皇帝の弘治帝(在位:1487~ 1505)時代に、甕山(現:万寿山)を背景に円静寺(後に廃寺)を建立したのが始まりで、第11代皇帝の正徳帝(在位:1505~1521)時代には、湖畔に行宮「好山園」を建設し、舟遊びのため行幸をしている。当時の湖や甕山は現在と比較すると大分規模の小さいものだったと言われている。

南湖島の「龍王廟」から、周囲の景観を堪能した後、「十七孔橋」を渡って頤和園の中心部に戻ることにする。十七孔橋は、杭州の西湖十景・断橋残雪(白堤)を模したものとされ、湖畔に建つ「廓如亭」側と、南湖島との150メートル間を、湖面に虹がかかる様な華麗な姿で繋いでいる。欄干には544匹の獅子像が刻まれている。


「十七孔橋」を渡り終え、廓如亭から湖畔沿い北側に向かう。振り返ると、八角形の亭、柳の木、湖に架かる橋とが揃い、まるで水墨画を思わせる様な風景が広がっている。


すぐ先には、湖を見守る様に「銅牛」が飾られている。夏王朝の創始者・禹が鉄牛によって水害を鎮めた故事に由来して1755年に鋳造された。背中に篆刻書体が刻まれている。更に、湖畔沿いを北に700メートル歩き城門型建築「文昌閣」のアーチ門をくぐり、知春亭の東側にある「文昌院」に向かう。文昌院には、陶磁器、玉器、金銀器、陶磁器、漆器など、歴代の皇室の財宝や珍品、約1000件を所蔵する博物館である。


館内では、清代の彫刻作品を中心にさらさらっと見学した。こちらは、チベット仏像の名品で、宝石がちりばめられた金銀のホワイトターラ。漢訳では、多羅菩薩(白度母)のことで、密教経典に登場する。日本では、曼陀羅の諸菩薩として描かれることが多い。


青玉(翡翠)に、英雄豪傑などが活躍する様を「龍の雲を得る如し」で浮彫表現したブラシ クリーナーで、清の第6代皇帝の乾隆帝時代の作品。玉(ぎょく)の浮彫と言えば、台北市の国立故宮博物院に収められた翠玉白菜や、玉髄の彫刻肉形石など清朝皇帝がこよなく愛する名品が多い。


「竹根彫群仙」と名付けられた清時代の名品。山林に集う仙人が超絶技法で竹の根から彫り出されている。中国では、明、清時代に入ると、潮洲木彫や東陽木彫などの木彫が盛んになり、様々な流派が登場した。従来からの木造建築、仏教彫刻などに加え、花鳥、故事、歴史、神話伝承などの題材も多彩になり、家具、屏風、置物などにも広がって行った。竹根彫の大家として知られる金陵派、嘉定派などが登場したのも明、清時代である。


次に向かう「仁寿殿」は、文昌院の北側にある「仁寿門」の奥(北側)に位置している。ちなみに仁寿門の東側は、頤和園の東宮門(入園正門口)になる。仁寿門をくぐると、前庭には大きな銅製麒麟(1937年に円明園から移設)が飾られている。仁寿殿は論語の「仁者の長寿を祈願する」を由来とし、西太后を褒め称える意味も含まれている。乾隆帝の時代には勤政殿と呼ばれたが、1886年光緒年間に再建された際に、現在の名称に変更された。西太后や清の第11代皇帝の光緒帝(在位:1875~1908)が大臣の謁見を行うなど頤和園内での政務を務める場所だった。
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「仁寿殿」の西側で昆明湖の畔にある「玉瀾堂」は清の第6代皇帝の乾隆帝の書斎で、後の光緒帝の寝宮となった。その光緒帝は、西太后の甥子で、若くして西太后から政権を委譲されるが、その後も傀儡政治が続く。意に反した光緒帝は、立憲君主制による近代化革命を目指して、変法派と共に光緒24年(1898年)に改革を宣言(戊戌の変法)するが、西太后は先手を打って変法派を弾圧してしまう。玉瀾堂は、光緒帝の幽閉場所となり、全ての通路を煉瓦で塞ぎ遮断されたと言われている。


玉瀾堂の北東側には3階建ての戯楼「徳和園」があり、1階には、舞台と楽器が並んでいる。「紫禁城(故宮)」にある「暢音閣」を模して建てられたもので、1895年、芝居好きの西太后のために造られ、京劇などが演じられた。

昆明湖の畔に佇む「楽寿堂」は、西太后が60歳を過ぎてからの日常の住まいとしたお堂である。堂内には、玉座、御卓、掌扇、屏風などが並んでいる。お堂の前には、銅製の鹿、鶴、大瓶が飾られているが、これは、3つの中国語の発音が天下泰平を願う「六合太平」に似ており、縁起を担いで設置されている。前庭中央には巨大な霊芝の形をした岩「青芝岫」が、楽寿堂の照壁(目隠しの独立塀)として設置されている。


「水木自親」名付けられた桟橋からは、玉瀾堂の西隣に建つ切妻屋根の「夕佳楼」が望める。湖の畔にある夕佳楼からは、美しい夕焼けが見られる。以上で頤和園の見学は終了である。滞在時間は聴鸝館で食事をしたこともあるが、合計5時間半に及んだ。清王朝のスケールの大きさに感服させられた。
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今夜の夕食は、王府井にある、北京ダックの名店「ダードン(北京大董烤鸭店)」(Beijing DaDong Roast Duck Restaurant)で頂くことにしている。


料理は、丸皿の中華食器だけでなく、四方皿や長角皿なども使われ、盛り付けもフレンチのコース料理の様に洗練されている。


中華くらげを花の形にした「飾り切り」など、華やかで手が込んでいる。他にも、ほたてとカシューナッツ炒め、タケノコの炒め物、牡蛎のから揚げなどを注文した。


こちらの北京ダックは脂っこくなくパリッとして大変美味しい。付け合せの薬味なども種類が多く、包みもクレープ以外にバンズなども用意されている。量が多かったので、残りはテイクアウトにしてもらった。


翌朝は、早朝にホテルを出発して、北京国際空港で朝食を食べて、 午前9時半発便に乗り込んだ。
(2008.6.15~16)
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中国・北京(その1)

2013-02-20 | 中国
香山(こうざん)公園は、北京市内から約20キロ離れた北西部の西山山脈にある、およそ16万平方メートル規模の森林公園で、1186年から造園が始まり、約800年に及ぶ歴史を持つ皇室庭園の遺構である。元、明、清王朝の全ての王朝において離宮が造園された。今朝、宿泊ホテル「京倫飯店(Jinglun Hotel)」の最寄り駅、永安里から地下鉄で西直門まで行き、バスに乗り換えて香山公園(東二門)に到着した。


昨日は、午前9時半の成田国際空港発JL683便で、午後12時半に北京国際空港に到着、その後、華都飯店の「福満楼」で飲茶を食べて、夜は「紅劇場」で京劇を鑑賞して一日を終えた。

香山公園は、歴代の皇帝及び皇族の遊山場所で、当時様々な楼閣や亭などが建てられ「静宜園」と呼ばれていた。しかし、咸豊10年(1860年)、アロー戦争(第二次アヘン戦争)(1856~1860)で、イギリス・フランス連合軍に焼き払われ破壊され、当時の建造物は残っていないが、その後再建され、現在では、北京の十大公園の一つ(1956年)として一般公開されている。


入園すると、最初に前庭があり、左右に龍の浮彫装飾の白壁を備えた「牌楼」が建っている。牌楼は、朱色の門柱に、貫部分には皇帝を象徴する龍や雲文の装飾が施され斗拱がある。その先の主庭には、細い水路が築かれ、欄干のある石橋が架かり、正面(西側)の大きな瓦屋根を持つ「勤政殿」に続いている。左右にも勤政殿とよく似たやや小ぶりの建物が取り囲み主庭園を構成している。


朱色に金の縁取りのある勤政殿と紅葉とのコラボレーションは華やかで美しい景観を見せてくれる。殿内には朱色の円柱が立ち並び、中央奥に、青い石香炉に囲まれた金の王座が置かれている。その背後には、朱色に金の龍が描かれた衝立と扁額が掛けられ、天井には、金の龍が描かれた彩色豊かな格子絵天井が広がっている。


園内の通路は、勤政殿に向かって左側(南)から昭廟、静翠湖、瓔珞岩、香山寺遺址などがある西南エリアに向かうが、この日は、あまり天候も良くないので、徒歩による散策は止めて、北東エリアにあるケーブルカー(リフト)に乗って紅葉を愛でることにした。

北側に向かう通路を進むと、二つの円形の湖が隣接し、中央に橋が架けられている場所に到着した。二つの湖の形状から「眼鏡湖」と名付けられている。手前左側の湖には、小端積された石で造られた人口洞(水帝洞)があり、内部には、人口滝が造られている。


アーチ橋の欄干には石の獅子像が飾られている。右側の湖には噴水が上がっており、対岸には2階建ての東屋が建っている。1階には壁はなく列柱だけで簡素な造りだが屋根は豪華な瓦屋根になっている。


眼鏡湖を過ぎるとケーブルカー(リフト)の乗り場があり、すぐ近くに香山公園の北門がある。リフトはスキー場に設置される2人乗りの形式で、東西全長1400メートル、標高431メートル付近まで運行している。リフトに乗車し中間地点まで進むと、真下に登山道が見え、その後はリフトと並行して上って行く。登山者と同じ景色を上空から眺めることができ、乗車した価値は高いと思った。リフトからは紅葉風景を眺めることができ良かったが、曇って霞がかかっており見ごたえは今ひとつ。。


香山の楓は清の第6代皇帝の乾隆帝(1736~1795)時代に植えられ、現在では99000株の規模にまで増えているとのこと。香山の最高峰(標高557メートル)には「香炉峰」(鬼見愁)があり、香山公園全体が見渡せるが、今日は行っても眺望は望めない。再びリフトに乗り下りることにした。


下山したケーブルカー(リフト)の乗り場のすぐそばには、明、清時代の名刹「碧雲寺」がある(別料金)。もともと、元朝の至順2(1331)年に創建された歴史ある寺院で、建国の元老だった耶律楚材の子孫、阿勒弥(阿里吉)の敷地を碧雲庵としたものが始まりとされている。

碧雲寺の面積は約4000平方メートルに及ぶとされ、入口から西方面に6層の院落が階段状に続き、山門殿、弥勒殿(天王殿)、大雄宝殿、孫中山記念堂、菩薩殿、羅漢堂、金剛宝座塔などの堂宇により構成されている。中国革命の父と言われる孫文(孫中山)が北京で亡くなった後、一時的にこの地に安置された。2001年に国務院により全国重点文物保護単位に指定されている。

入口から階段を上り、阿吽像が飾られた山門殿を過ぎると堂宇が建ち並ぶエリアに到着する。こちらは「大雄宝殿」で、内部には説法する仏陀坐像が本尊として祀られ、両側に仏陀の十大弟子の阿難陀と大迦葉、更に左右に文殊菩薩と弥勒菩薩が中央を向いている。また殿内には十八羅漢が並んでいる。


弥勒殿には弥勒菩薩像が祀られ、清の第6代皇帝の乾隆帝が揮毫したとされる「静演三車」の文字がある。菩薩殿には大勢至菩薩、文殊菩薩、観音菩薩、普賢菩薩、地蔵菩薩が安置されている。


堂宇の裏側から続く参道を更に進むと、石の塔門が現れる。中央の大きな門に隣接して左右にやや低い門の3つの門が繋がり、更に左右に、屋根付きの獅子像の大型レリーフ(横向きで顔を正面に向けた浮彫)壁から構成されている。塔門はインドと中国の合作を思わせる。
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中央の二本の梁の間には「西方極楽世界阿弥陀仏安養道場」と書かれ、左右の柱の柱頭には守護像としてインドのアショーカ王柱の柱頭彫刻に見られる冠盤や獅子像が飾られている。梁には中国らしい、龍や鶴などの浮彫が施され、上部にはそれぞれ楼閣屋根が乗っており、瓦屋根や組み物など部材は全て石で制作されている。

塔門をくぐると、西側の山に向かって階段が続いている。途中に大きな楼閣門が聳えており、更に階段は続いていく。ここまでも結構な距離があったが、最後のひと踏ん張りである。
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直線階段の終点から、左右対称の折り返し階段を上り終えると、孫中山の衣冠を納めた大きなアーチがある石の祠があり、すぐ背後に「金剛宝座塔」が聳えている。高さ34メートルの十三層の密檐(みつえん)式(楼閣式を簡略化した多層塔)大塔と、同型で、やや小ぶりの4本の小塔が大塔を取り囲み、それぞれの塔の頂部には傘蓋が飾られている。インドのブッダ・ガヤーのマハーボディー寺院にある大塔の様式を基本にし、瓦のデザインを加え中国風に変形させたものと言った印象。他にも小型のラマ塔が2本立っている。


13と言う数字は、西洋では忌み数となるが、中国では「十三」と「実生」(実る意)の発音が似ており吉数とされる。また、仏教では仏陀を守護する十三仏があり吉数として捉えられている。

塔の下部には、雲文や唐草文様の浮彫が施された繰形基壇の上に、立方体の台座があり、仏陀像や菩薩像、高僧の浮彫レリーフがやや見上げる位置に配されている。仏像彫刻は細部に亘るまで繊細な浮彫が施されており大変見ごたえがある。それぞれの塔は隣接して建てられ、通路は狭いので、少し圧迫感がある。


以上で、香山公園の見学を終え、昼食は近くの「那家小館」香山店で頂いた。北京市内に展開するチェーン店で、店名は、"那さんの小さなお店"を意味している。


油で揚げた芋を飴でからめた抜絲(バースー)を、ビールのつまみにと思い最初に注文したが、甘すぎて最後まで残った。。エビの揚げ物は甘い味付けに唐辛子の辛味が絶妙で美味しい。柔らかく皮まで食べられる。


素焼き壷に入った黄色いスープは、当店の名物料理「皇壇子」で、サメ、鳥、鹿、筍などの具材を半日煮込んで作られたもの。コラーゲンや栄養が豊富で、体質強化やカルシウム補給、美容効果などがあるという。濃厚に見えるが思ったより薄味。薬味を入れ好みの味に整え、途中からご飯を入れる。エビが美味しかったので、他にも、エビと肉の炒め物やチャーハンなどを注文した。


その後、地下鉄2号線の宣武門駅すぐの、今夜の宿泊ホテル「越秀大飯店(Yuexiu Hotel)」に移動し、夜は、北京の繁華街(王府井)のapmデパート5階にある「東来順飯荘」に向かった。こちらは、回族や他のムスリムが口にする羊肉を「涮羊肉」(羊肉のしゃぶしゃぶ)として提供する清真料理店で、1903年創業「中華老字号」の称号を持つ老舗店である。店頭には、100周年記念として鮮やかに装飾した伝統鍋のオブジェが飾られている。


テーブル席には、アルミ製の鍋が置かれている。底に燃料が置かれ、中央は煙突になっているので、周囲のドーナツ鍋のスープに肉をしゃぶしゃぶして、タレにつけていただく。

肉は、薄切りされた羊肉で、くせも少なく柔らかく美味しい。野菜は、白菜、レタス、ほうれん草などの葉物や、南瓜、じゃが芋、大根などの根菜、豆腐がついている。タレは、胡麻ダレで、薬味として、ネギ、香菜、茸、ピーナッツなどが付くので、うまく調整すると飽きることなく頂ける。他にポン酢タレがあると良いかも。。

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翌朝、昨夜降り続いた雨は止んでいるが、道路はまだ濡れている。朝食は北京市内で屈指の人気店「金鼎轩」で食べることにし、地下鉄に乗って向かった。雍和宮駅で下車し5分ほど歩いた大通り沿いにある。「金鼎轩」は24時間飲茶が食べられる大型店で、楼閣の様に建っている。


店内は、広い会場で、テーブル席が数多く並んでいる。既に多くの来店客が食事をしていた。注文は、写真付きのメニューを見ながら、番号を注文票に記載し係員に渡すだけなので、ほぼ会話する必要はなかった。海老餃子、流沙奶皇包、チマキ、お粥などを注文して頂いた。リーズナブルな値段の割にどれも大変美味しい。


食後は、再び地下鉄に乗り天安門東駅で下車して「天安門広場」にやってきた。総面積40万平方メートル、南の正陽門までの距離は880メートルと、世界で最も広い広場の一つとされる。

正面の2階建ての楼閣が「天安門」で、高さ33.7メートル、下部は城門で通路が5つある。中央には毛沢東の肖像が掲げられている。はためく国旗は、儀仗兵によるもので、毎日、日の出時間と日の入り時間に掲揚と降旗の儀式が執り行われる。今朝は、濃い霧がかかり、かすんではっきり見えないが、幻想的な眺めである。


明、清時代の天安門は、皇城の正門(第一門)で、皇帝の即位や皇后の冊立など重大な国事の詔は、この楼上より発せられた。1949年には、楼上で毛沢東が中華人民共和国の建国宣言を行い、国章にもその姿が描かれるなど、中華人民共和国の象徴の一つとされている。天安門へは、天安門広場を東西に流れる「金水河」に架かる5つの橋「金水橋」の一つを渡って向かうことになる。

天安門をくぐると、前方に城門があり天安門と同規模の2階建て(二層)の楼閣「端門」がある。楼閣には「故宮博物院」と書かれ、その端門をくぐり更に直進すると、次に「午門」が現れる。子午の方向(南)にあることから名付けられた。午門は、両翼を持つコの字型で、左右2基の二層楼閣を配しており、中央は広場となっている。この広場は、百叩きの刑などの刑罰が行われた場所でもあった。


午門は、明王朝第3代皇帝の永楽帝(在任:1402~1424)が1406年に建築したもので、高さ8メートル、下部に皇帝専用の大門と左右に皇族用と文官用の小門がある。こちらの午門がかつての北京城「紫禁城(故宮)」への入口で、現在は、故宮博物院への入口となっている。故宮博物院は1925年に開設したもので、南北961メートル、東西753メートル、敷地は72万平方メートル(東京ドーム約15個分)、高さ10メートルの城壁に囲まれ、その外に幅52メートルの環濠がめぐらされるなど広大な敷地を有している。


「午門」の先には、再び川が流れ天安門広場と同じく5つの橋が架かっている。「内金水橋」で、中央の橋は皇帝専用、左右の橋は王侯貴族や文武官たちが渡った。皇帝専用の橋の欄干装飾は龍があしらわれた円柱形で、他は擬宝珠になっている。こちらは、橋を渡り午門を振り返った様子。


内金水橋を渡り広場中央を100メートル歩くと、かつて明王朝の文武官が皇帝の朝拝を受けた「太和門」があり、その門をくぐると、ようやく、前方に「紫禁城(故宮)」の政治の中心「外朝の三大殿」(後大三殿)の正殿「太和殿」が現れる。高さ8メートルの3層の白大理石の基壇の上に、35メートルの高さの楼閣が建つ中国木造建築最大の建築物とされている。この太和殿で歴代皇帝の即位式や様々な重要な式典が行われ、広場では多くの官吏たちがずらりと並び臣下の礼をとった。この日は、改修工事が行われ、周囲には無数の足場が組まれており、立ち入ることはできなかった。
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3層の白大理石の基壇は北側に続き、「太和殿」の北隣には、外朝の三大殿の二つ目「中和殿」が建っている。その中和殿には、西側に設置された階段を上って行く。基壇の縁には「千龍吐水」と呼ばれる龍が水を吐く姿の石彫刻が並んでいる。

中和殿は、縦横24メートルの正方形で、屋根の中央に金メッキの宝珠がある。明時代に太和殿で行われる大典の前に皇帝が休息する場所となっていた。皇帝が太和殿に赴くときは、まず中和殿で小休憩し、内閣・礼部や侍衛・執事の朝礼を受けた。天壇、地壇や社稷壇での祭礼の際、祝詞や儀式の農具の閲見を行う場所でもあった。
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更に北隣には、明時代に建てられた外朝の三大殿の三つ目「保和殿」が建っている。その保和殿は1420年に建設されたが、翌年に雷で焼失し再建された。明時代には皇后と皇太子を冊立する儀式を太和殿で開催する際、皇帝が礼服に着替えた場所と言われている。
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清時代の保和殿では、皇帝が、大晦日と旧暦正月15日の夜に宴会を催した。また、清の乾隆54(1789)年から清王朝末期には殿試(科挙の催行試験)の会場にもなった。中央の玉座の上に飾られた扁額の「皇建有極」の文字は乾隆帝の揮毫によるもので、皇帝にも限界は有るという意味を表している。


保和殿の北階段には、基壇の上部から広場にかけて、一枚岩の彫刻「大石彫」(雲龍石彫)が飾られている。清の乾隆26(1761)年に製作されたもので、長さ16.57メートル、幅3.07メートル、厚さ1.7メートル、重さは200トンと「紫禁城(故宮)」で最大の石彫である。房山の洞窟から切り出された石で、運搬には、一里毎に井戸を堀り、水を撒いて道を凍らせて、船形の家屋に乗せて運んだという。彫刻の周囲には蓮の花紋が、下部には海や川が、中央には雲と9匹の龍が彫られるなど芸術的価値の高い精緻な浮彫である(写真は広場から保和殿方向に見上げた様子)。


「保和殿」の北側には「乾清門」(かんせいもん)があり、ここまでの公式な政治や行事が行われる「外朝の三大殿」と異なり、この先からは、皇帝の私的な居宮や、日常の政務が執り行われた「内廷」となり、乾清宮、交泰殿、坤寧宮の「内廷の後三宮」が中軸線上に続いていく。ちなみに乾清門の屋根越しに見える「乾清宮」は明王朝、清王朝皇帝の寝宮として使用された。
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ここからは、右折して「内廷の外東路区」(寧寿宮区)に向かう。東側にある「景運門」をくぐり、先の赤壁の「鐘表館」と書かれた扉を入り、すぐ北側の「奉先門」(アーチ門)をくぐると「奉先殿」に到着する。「外東路区」手前の「内東路区」にあたり、もともと季節折々に祭事が執り行われた場所だったが、現在は「鐘表館」(時計博物館)(別料金)になっている。

その「奉先殿」に入ると、中央に立ち並ぶ円柱の間に2つの大型の工芸時計が飾られている。向かって左側には3階建ての塔型の時計「硬木雕花楼式自鳴鐘」で、乾隆帝の時代に製作されたもの。ぜんまい仕掛けで、1回巻くと3日間動いたと言う。


そして右側には、木製の高浮彫で2層の屋根に3つの扉口に上下に欄間と欄干を備えた大きな厨子型の時計「銅壺滴漏」で、1799年製作の工芸時計。中央に階段状に置かれた3つの水槽から流れ落ちる水で時を知る漏刻(水時計)である。


2つの大型時計以外はガラスケース内に展示され、奉先殿の北隣の建物にも展示室がある。大半は、清時代に収集されたもので、王冠、象戦車などの置物、塔や楼閣等の建造物型、金銀宝石にからくり人形が付いたもの、花瓶型などユニークで独創性のある各国の珍しいコレクションが数多く展示されている。

次に「鐘表館」を出て赤い壁に沿って更に東側に進むと「珍宝館」と書かれた3つの扉口のある「錫慶門」(別料金)がある。ここから「内廷の外東路区」(寧寿宮区)となる。乾隆帝が譲位後住むために建造したエリアで、入場して東に進むと、右側に瑠璃瓦の「九龍壁」(九龍屏風)が見えてくる。

清の乾隆37(1772)年に制作された陶磁器製の瑠璃装飾レリーフで、高さ3.5メートル、幅29.4メートルの大きさに9匹の龍が表現されている。もともとは、王宮や庭園の門の前に目隠し用の塀として建てられたもので、現在、中国では同様のレリーフとして、北京北海公園、山西省大同があり、併せて「中国三大九龍壁」と言われる。
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向かって左から3番目の白い龍の胴体にあたる瓦には木彫刻がはめ込まれている。当時、職人が不注意から壊してしまったが、替えがきかず、処刑を恐れて木片で取り繕ったとされている。

9の数は陰陽思想では陽数として、吉祥、幸福の象徴と考えられている。龍の色は、黄、青、白の瑠璃瓦で構成され、いずれの龍も顔を向ける方向や仕草は異なり個性的な姿で表現されている。


「九龍壁」の向かい側(北側)の皇極門をくぐると広場になり、正面の階段上に「寧寿門」がある。門前には黄金に塗られた2頭の狛犬(獅子)置かれている。


寧寿門をくぐると、中央には龍の円柱飾りの付いた石の欄干橋が前方の「皇極殿」に直結している。その皇極殿は、1689年、清康煕の時代に、寧寿宮として建築され、皇帝に先立たれた妃たちの住まいだった。乾隆帝の時代に「皇極殿」に改称された。皇極殿と寧寿門の東西側にも建物が取り囲み回廊を形成しており、敷地全体を「皇極殿珍宝館」として、歴代中国皇帝の宝物を展示する博物館となっている。ちなみに、寧寿門と皇極殿の様式は、内廷中央の乾清門と乾清宮を模して造られているとのこと。


「皇極殿珍宝館」には、芙蓉石双耳三足炉、紅珊瑚獅子、翠白葉式花、考靖皇太后王氏(明の万歴帝貴妃)の金龍鳳冠金鏧花如意、黄金の仏塔型舎利容器などが展示されている。技術的に優れた作品が多いが、芸術的価値と言うより、儀式で用いられた用具、法具など歴史的価値や珍品奇物的なものが多い印象である。

皇極殿の北側には「楽寿堂」、「頤和軒」、「倦勤斎」などの楼閣、建物が建ち並び、こちらにも、装飾玉石の置物、螺鈿細工の置物、調度品、豪華な玉座などが展示されている。建築物も豊かな室内装飾、瑠璃装飾瓦、庭園なども見ごたえがあり、「寧寿宮区」全体が博物館となっている。

皇極殿の北東側には「暢音閣」と呼ばれる3重屋根に3層の舞台を持つ大きな楼閣が建っており、春節や万寿節などに観劇が行われた。2階以上の舞台は見えないが、1階の舞台は背景には、中二階のセットがあり階段で繋がっている。皇帝は、向かい側に建つ「閲是楼」の専用座席に座って観覧した。当時の観劇風景が描かれた様子が展示されている。
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「寧寿宮区」の出口「貞順門」のそばには、清の光緒帝の側妃の一人「珍妃」が、西太后の命により投げ込まれ殺された井戸「珍妃井」がある。しかし、井戸のサイズが小さすぎるのが不思議。。浅田次郎の小説でも知られ、日本でも有名な観光スポット。この時間も多くの見学客が集まっていた。

4時間ほど見学した後、北京城「紫禁城(故宮)」(故宮博物院)の北門「神武門」から退出する。左右には環濠が続いており、正面の道路向かいには、その環濠建設の際の残土で造られた「景山公園」がある。山頂に建つ「万春亭」からの「紫禁城(故宮)」の展望は素晴らしいとのこと。


次に、景山公園の北西部にある「什刹海」(シーチャーハイ)(前海と后海という二つの湖がある風景地区)に向かった。「荷花市場」と書かれた牌楼が建つ前海の西湖畔には、伝統的家屋を改装したバーや茶館、レストランが建ち並ぶ通りがある。昼食は歩道に設置されたテラス席で台湾料理を頂いた(レストラン名は忘れた)。


飲み物は、大蔵秘(Tibetandry)青稞干紅酒と言う雲南省チベット自治州で作られたアルコール度数9度の軽い口当たりの赤ワインを頼み、ピータン豆腐や腸詰、団子スープ、鯽魚(唐辛子を塗して素揚げされたフナ)などを注文した。ピータン豆腐は刺激臭も少なく香り豊かで、絹こしの豆腐との相性が良く、美味しかった。

その後、永安里駅を下車、建国門外にある老舗マッサージ店「漢方洲」にやってきた。漢方を使った足湯と、的確なツボ押しで知られる。


胃腸の調子を整えた後、午後8時過ぎ、大望路駅近くにある「鷺鷺酒家 慈云寺店」(東方店)に向かった。名物のフカヒレスープや、蟹みその豆腐煮込みなどを注文する。


名物の上海蟹の姿蒸を注文し頂いた。上海蟹の旬は9月から11月とのことで、ちょうど食べ頃であり大変美味しい。


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北京滞在4日目、ようやく快晴になった。最終日の今日は、東城区に位置する史跡「天壇」の見学に向かう。天安門広場から、南に約2キロメートル離れた広さ270万平方メートルの「天壇公園」内にある(天安門の中軸線上からは、やや東にズレている。)天壇は、北側の内城(京城)である北京城(紫禁城)に対して、南側の外城であった。

「天壇」は、明、清王朝にかけて、皇帝が天に対して祭祀(祭天)を行った宗教祭壇である。明の永楽18(1420)年、永楽帝が建立したとされ、建設当時は「天地壇」と呼ばれていたが、明の嘉靖13(1534)年に、現在の「天壇」と呼ばれるようになった。1998年よりユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録されている。


入場門となる南門をくぐり、北に向け延びる真っ直ぐの見学ルートを進むと、最初に「圜丘壇」が現れる。こちらは、皇帝が天を祭るための儀式を執り行う場所で、毎年冬至に豊作を祈る儀式を行い、雨が少ない年は雨乞いが行われた。石造りの三層の円壇のみで当初から建物は建っていない。周囲の欄干や階段の数が陰陽思想で言う陽数の9や、その倍数から構成されている。各壇の直径を合計すると45丈で、9の倍数の意味に加えて、九五之尊という9の陽数と5の天子を表す数となっている。


建造は、明の嘉靖9(1530)年で、当初は壇面と欄干が琉璃瓦で造られていたが、清の乾隆14(1749)年に拡張した際に現在の漢白玉石、艾葉(がいよう)青石になった。皇帝が天への報告をする際の効果を考え、円壇中心部で声を出すと反響して聞こえる仕掛けとなっている。二重にめぐらした背の低い周壁は、内側が円形、外側が方形となっている。

「皇穹宇」は「圜丘壇」の北側にあり、圜丘壇で祭事が行なわれる際の檀上に置かれる天の神や、歴代の皇帝の位牌を安置する場所であった。建築された明の嘉靖9(1530)年当時は「泰神殿」と名付けられたが、同年の1538年に現在の名称となった。明時代の「重檜円形宝彩造り」から、清の乾隆17(1752)年に金銅製の宝珠・藍色瓦葺きの「円形宝形造り」に改築された。


「皇穹宇」の北側から、更に北側に延びる直線路を400メートルほど進むと、壁に囲まれた「祈年門」が現れ、敷地内には天壇で最も有名な「祈年殿」が建っている。皇帝が正月に五穀豊穣を祈りを捧げた場所で、高さ38メートル、直径32メートルと現存する中国最大の祭壇で中国建築史上重要な建造物とされている。


明の永楽18(1420)年に「天地壇」の名称で建造され、その後「大享殿」となり、清の乾隆年間に現在の「祈年門」となった。内部には四季を表す4本の円柱と、その外側に12か月と十二時辰を表わす円柱との計28本の濃朱色の円柱が屋根を支えている。室内へは立ち入ることができないが、入口から眺めると、天井の束や梁は外観の装飾に負けず劣らず精緻に装飾されている。特に4本の円柱は朱色の下地に全体を眩いばかりの金の草花文様で覆われている。


頂部の金の宝珠に、屋根は藍色瓦葺きの「三層の円形屋根」になっている。明時代は、上から青、黄、緑の三色(天、地、万物を表す)の瓦屋根だったが、1751年に青(藍)色で統一された。1889年に落雷で焼失し、1896年に再建されている。

三層の基壇に築かれた左右の階段の間には、広場から上に「両竜山海」「両鳳山海」「瑞雲山の海」と、三層の石板「丹壁石雕」が飾られている。


2006年に修復が終了した「祈年門」の鮮やかな色彩装飾は、今日の明るい陽射しに映えている。外観を彩る部材には、青、黄、緑の三色を基調し、その三色を交互に配し、濃淡を加えるなど、色彩遠近法を思わせる技法が使用されている。
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更に部材を拡大してみると、梁には八弁の金の縁取りに金の龍が描かれた豪華なレリーフがあり、周囲に赤、黄、青、紫の雲文があしらわれている。軒下には、青地に龍と鳳凰が躍動する飾り装飾があり、組み物には金と白の輪郭縁取りが使用されるなど、大変精密な装飾が余すことなく施されている。
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その後、ホテルに戻り、チェックアウト後、宣武門駅から地下鉄で東四十条に向かい「ダードン(北京大董烤鴨店)」東四十条店で北京ダックを頂いた。午後3時半のJL782便で北京市を後にし帰国の途につく(午後7時50分に成田国際空港着)。 
(2007.10.27~28)
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中国・大連

2013-02-19 | 中国
成田国際空港を発ち、午後3時20分に大連周水子国際空港(大連空港)(大連市甘井子区)に到着した。大連市は、遼東半島の南端、中国東北地区を代表する港湾工業都市である。空港からは、リムジンバス(5元)に乗り、大連市中山区にある「勝利広場」(大連駅南側)で降り、宿泊ホテル「ラマダホテル」でチェックインをした。その後、路面電車(有軌電車)203路に乗り、長江路の民主広場(大連火車站→勝利橋→民生街→民主広場)北側にある「東海明珠美食城」にやってきた。


こちらは、中華海鮮のお店で、店内には多くの生簀が設置されており、魚を始め、蟹、海老、貝など様々な種類の魚介類を取り扱っている。他にも、調理済みの刺身などもあり、スタッフと一緒に歩きながら、食べたい食材を選んで、料理方法を直接伝える形式である。

日本語は通じないので、意思疎通に多少時間がかかったが、いくつか注文してテーブル席で待っていると、次々と料理が運ばれてくる。ピータンと海老は、魚のそぼろと醤油ベースのタレが絡んで、大変美味しい。ムール貝は、蒸し焼きにしたもの。


帆立に春雨やナッツなどを添え、殻ごと焼いたもの。


他に、トムヤムクン風にしたエビのスープに、殻付エビの塩蒸し、ナマコのスープなどである。ヘルシーな調理方法が多くなったため、もう少し頼んでもよかったかもしれない。店内には多くのテーブル席があるが、大半は埋まっていた。新鮮な魚介類がリーズブルな値段でいただけるので、地元の常連客も含め大変人気があるようだ。


食後は、タクシーで、南東方向に2~3キロメートルほど離れた、中山区七星街にある、マッサージ店「曽石足道」に向かった。大きな足裏の看板に「足つぼマッサージの名店」と書かれているが、肩、腰など含めた全身マッサージ(90分1300円程度)もあるので、そちらをしてもらい初日を終えた。

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ラマダホテルの北西側には、中国鉄路総公司(CR)の「大連駅(大連火車站)」がある。もともと、やや東側にロシア租借地時代の東清鉄道の旧駅舎(ダーリニー駅、1903年築)があり、日本租借地時代が始まった1905年以降は満鉄(正式名称:南満州鉄道株式会社)の大連駅として引き継がれていたが、1937年、新たに、現在の場所に満鉄工事科の太田宗太郎の設計により建てられた。東京の上野駅をモデルにしていると言われている。2階の出発改札口を抜け1階のホームに降りて乗車し、降車客は地下通路を通って1階出口から出てくる仕組みとなっている。
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駅前は巨大な矩形の広場で駐車場となっており、その南側には、大動脈の長江路が西に向けて延びている。正面の「大連宏孚集団ビル」手前(東側)から左方向(南側)にかけて「青泥窪街」が延びているが「青泥窪」とは唐代以降の大連の旧名称(漢代まで三山浦)で、漁民が家を建てるため上質な青い泥を掘り起こして窪地になったことに因んでいる。
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青泥窪街の南側には、東西に延びる大連市の目抜き通り「中山通り」が交差し、横断した更に南側に、広い歩行者通りの繁華街「青泥窪橋」があり、マイカルなどの大型百貨店やショッピングモールが林立している。

真下の広場が「勝利広場」で、地下には、巨大な商店街があり、中央付近はイベント広場がある吹き抜け構造の地下3層に分かれ、ショッピングセンターや飲食店街が展開している。店舗としては、ファストフード、韓国料理、ネイルサロン、カバン店、時計店、携帯電話ショップ、ビリヤード場、ボーリング場などがあり、地下連絡通路から周辺の天津街入口、大連商場、秋林公司、中山路などと直結している。
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現在の大連市は7市轄区に分かれ、半島西側先端部(渤海側)が「旅順口区」で、東側に「甘井子区」がある。その「甘井子区」の南側に位置し、黄海側に面して、市街地の3区「沙河口区、西崗区、中山区」が西から東に並んでいる。更に「甘井子区」の東側には「金州区」と「普蘭店区」が続いている。

ちなみに「旅順口区」は、大連市中心から西南に45キロメートルに位置し、昔より国防上の要所になっており、日露戦争の旅順攻囲戦では、ロシア帝国の旅順要塞を、日本軍が攻略し陥落させた舞台となった。現在も、日本軍の建築による白玉山頂上の白塔や、黄金山望台砲台、二〇三高地、東鶏冠山北堡塁などの遺跡が残っているが、今回は時間がないので、またの機会に。。

朝食は「ラマダホテル」の2階にあるブッフェレストランで頂いた。飲茶ブッフェは、種類が多く麺類や、お粥があるのも嬉しい。

食後は、上海バンド(上海外灘)と並び、日本租借地時代の20世紀前半に建築された近代建築群が集まる「中山広場」(大連市中山区)方面へ向かうこととする。タクシーに乗り、東へ1.3キロメートルほど行った中山広場を過ぎた魯迅路南側に建つ「満鉄旧址」(南満州鉄道本社址)から見学することにした。


もともと、ロシア帝国(1721~1917)が商業学校として建築中だった建物を改修して、1908年より「南満州鉄道本社」としたもの。現在では「瀋陽鉄路局の大連事務所」として使用されている。その内の一部が「満鉄旧址陳列館」として公開され、当時の満鉄グッズや写真資料などが展示され、旧総裁の執務室が復元公開されている。初代満鉄総裁の後藤新平(1857~1929(昭和4))や、第2代総裁の中村是公(1867~1927)など歴代16人の満鉄総裁の写真も飾られている。
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建物は、左右に翼棟を持つ2階建て構造に加え半地下がある。左右階段を上った中央に1階入口があり、左右に続く窓は、縦仕切りの格子窓で上部中央に要石の様な装飾がはめ込まれている。2階には、ペディメントとエンタブラチュアを支える古典様式の円柱が飾られ、柱頭彫刻と半円アーチの上部に唐草文様の浮き彫りが施されている。
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満鉄(正式名称:南満州鉄道株式会社)は、日露戦争終結後の1905(明治38)年にロシア帝国から大日本帝国に譲渡された東清鉄道の一部(長春~旅順間)を経営するために設立した半官半民の国策会社で、日本の満州経営の中核となった。満鉄は鉄道経営にとどまらず、満洲の農産物を支配し、炭鉱開発、製鉄業、港湾、電力供給、牧畜、ホテル業、航空など多様な事業を行なった。

中でも、第14代満鉄総裁に就任した外交官で政治家の松岡洋右(1880~1946、総裁任期:1935~1939)は、満鉄理事、副総裁時代に、満州に大学を創設する構想をいだき、満鉄大連図書館に漢籍を中心に40万冊近くの蔵書を集め「知の殿堂」を目指した。魯迅路の向かい側(北側)には、その松岡が目指した「大連図書館日本文献資料館」(旧満鉄大連図書館)がある。


松岡は、その後、第2次近衛内閣の外相となり、1940年に日独伊三国同盟、1941年日ソ中立条約を締結する。戦後はA級戦犯に指名され判決前に病死している。

次に、魯迅路を西方向に少し戻ると「中山広場」に到着する。直径213メートルのサークル状で、周囲に10本の通りが交差する巨大なロータリーとなっている。こちらに、主に20世紀前半に建設された近代建築群が保存されており、現存する10棟のうち7棟が日本人建築家による設計である。


もともと、1898年に遼東半島の一部を25年の期限で清朝から租借したロシア帝国(ロシア租借地時代)が、シベリア鉄道の太平洋側の玄関口として「青泥窪」に商業都市「ダーリニー」の建設を計画し、パリに倣い放射状街路を持つ「ニコライェフスカヤ広場」を整備したのが始まりである。その後、周囲に都市機能を備えた建造物を建設し始めた矢先の1905年から「日本租借地時代」(租借期限は1997年まで延長)となった。

租借地は「関東州」で、当初は軍政が布かれていたが、1906年からは民政に移管され、関東都督府が設置された。関東州とは、本来は「万里の長城」の最東端、山海関より東を指し、現在の東北三省にあたるが、当時は遼東半島の南部(大連、旅順を含む)が関東州と呼ばれた。

ダーリニーは「大連」と改称され、ニコライェフスカヤ広場は「大広場」に改称されるが、ロシア租借地時代の都市計画は、陸軍軍人、政治家の児玉源太郎(1852~1906)の方針により基本的に引き継がれ、周囲に行政の中心地として近代建築の数々が建設され発展していった。戦後1945年以降は、大広場は「中山広場」と改称され、周囲の建物には公的機関や銀行が入居したが、大きく手を加えられることなく維持され、現在は大連の代表的景観として保護されている。

それでは、東の魯迅路と南南東の解放路の間に建つ「中国工商銀行大連市分行」(旧大連市役所)から時計回りに見ていく。設計は、関東都督府土木課の課長の松室重光で、京都府技師時代に社寺建築の保存修復の業績経験を活かし、唐破風の玄関や、京都祇園祭の山車をイメージする塔など日本の意匠が取り入れられている。1917年に竣工し、戦後の1947~1950年は大連市人民政府庁舎(市役所相当)として使用され、その後は市政府各部局の分庁舎となった。


南南東の解放街と南の延安路との間に建つのは「ホテル大連賓館」(客室86室)で、もともとは満鉄(正式名称:南満州鉄道株式会社)が経営していた高級ホテルブランド「大連ヤマトホテル」だった。建物正面は花崗岩のイオニア式列柱のルネサンス様式で、着工から5年を経た1914年に竣工した。客室数は115室で、蒸気暖房やエレベーターも設置されていた。設計者については諸説あるが、満鉄の技師の太田毅とする説が有力視されている。満鉄は、他にも満鉄線沿線の主要都市を中心にヤマトホテル(満鉄ホテルチェーン)を展開していた。


その延安路と南南西の玉光街の間に建つのは2000年に建てられた「大連金融大廈」だが、この場所には1914年に竣工した「イギリスの在大連領事館」があった。設計はイギリス工務局の上海事務所技師長補佐だったH.アシェッドで、当時は、大広場に面した唯一の在外公館だった。1952年以降は大連市六一幼稚園が使用したが、1995年に取り壊され現在の大連金融大廈となった。なお、裏側にイギリス領事館時代の付属教会が残されている。


玉光街を挟んで、右隣に建つのは「遼寧省対外貿易経済合作庁」で、1908年に竣工し1922年には関東都督府民政部の下で大連を管轄した行政機関「旧 大連民政署(大連警察署)」の庁舎だった。ゴシック様式で時計塔を持つスタイルは、ヨーロッパの市庁舎を参考に建てられた。戦後は大広場警察局と中国海軍後勤部が使用していた。


設計者は「中国工商銀行大連市分行」(旧大連市役所)を設計した関東都督府土木課の松室重光の前任にあたる前田松韻で、日露戦争下の1904年に軍倉庫の建設に携わり、1905年2月に大連軍政署の嘱託技師となった。大連の民間建築に一定の規模と耐火構造を求めた建築規則の草案作成にも参画するなど、大連の都市建設に大きな影響を残した。「遼寧省対外貿易経済合作庁」の隣には大通りの中山路が西に向け延びている。
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前方に見える丸いモニュメントは、1950年代に中国とソビエト連邦の友好を記念して名付けられた円形広場「友好広場」(旧:西広場)の中心に設置されており、幸運をもたらすとして1996年に造られた。夜には美しくライトアップされる。そして、中山路を挟んで、コリント様式の柱が並ぶ「中国工商銀行」(旧日本朝鮮銀行大連支店)(1922年竣工)が建っている。

北西の民康街と北北西の上海路の間には「大連市郵政局」(旧関東逓信局)(1925年竣工)が建ち、北北西の上海路と北側の民生街との間には3連の華麗なバロックドームを持つタイル貼りの「中国銀行遼寧省分行」(旧横浜正金銀行大連支店)が建っている。基本設計は日本で妻木頼黄が行い、弟子にあたる南満州鉄道技師の太田毅が妻木の図面を元に実質設計を行い1909年に竣工したもので、1945年からは極東銀行(ソビエト連邦)が使用していた。


正面入口の左右には、立派な獅子像が広場中央を見据えて座っている。


中山広場に面した近代建築としては、他に、獅子像が護る「中国銀行遼寧省分行」に向かって右側の民生街を挟んだ先隣の中信実業銀行(旧中国銀行)(1909年竣工)と、更に右隣に、交通銀行(中共大連市委旧址、旧東洋拓殖大連支店)(1936年竣工)が残されている。

3連のバロックドームを持つ「中国銀行遼寧省分行」に向かって右隣の民生街を北に400メートルほど進むと、東西に延びる長江路との交差点となり、左向かい側に日本人観光客に人気の「ホテルニッコー大連」(大連日航飯店)がある。ホテル前には路面電車(有軌電車)の停留所(民生街)があり、ちょうど、目の前を電車が通過して行った。車両は、日本租借地時代に製造された3000系で、新型車両が多く導入されている中、今も何台か走行している。


長江路は、路面電車(有軌電車)の203路のルートで、大連火車站を始発とし、次が、停留所(勝利橋)で、その次がこちらの「ホテルニッコー大連」前の停留所(民生街)となる。3000系は、民生街との交差点を過ぎ、東に向かう。前方に見える時計塔の先が次の停留所(民主広場)で、その先から、大きく右に曲がり、世紀街を経由して、魯迅路を東に向かっている。
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(203路:大連火車站→勝利橋→民生街→民主広場→世紀街→三八広場→二七広場→寺儿溝→春海街→華楽広場→海昌欣城→東海公園)

路面電車(有軌電車)は、1909年に満鉄の運輸部電気作業所が全長2.45キロメートルの試験線の運行を開始したのが始まりである。その後、満鉄の子会社「大連都市交通」の管轄となり、1945年までに11路線が開通した。1946年には、大連市交通公司が発足し、1970年代には大部分が撤去され、2007年7月現在、201路、202路、203路の3路が運行されているが、同年12月には、203路が201路と繋がり、今後は、201路、202路の2路線で運行される。

さて、これから「ホテルニッコー大連」(大連日航飯店)の向かい側(南側)にある「泰殿養生会館」でマッサージを受ける。新しくオープンしたタイ式のマッサージ店で、内装もタイのエスニック風で、とても雰囲気がよい。足裏コース50元、保健指圧80元、アロマオイル100元などがあり、基本60分だが、120分から最高150分までのコースがある。


午後3時、遅めの昼食「大地春餅店」にやってきた。長江路を西に4キロメートルほど行った「大連中山公園」近くで、路面電車(有軌電車)では、203路に乗り、大連火車站で201路に乗り換えて、五一広場で下車する(201路:大連火車站→東関街→市場街→北京街→大同街→五一広場)。「春餅」は伝統的な東北地方の料理で、もともとは春節のお祝いの料理と言われている。大連での人気料理の一つで、大連を代表するお店である。


春餅は、北京ダックを食べる際に包むものとほぼ同じもので、小麦粉を練った薄いクレープ状のものを「せいろ」で蒸され、白髪ネギとソース2種と共に提供される。せいろには、数枚が折り重なった状態で提供される。大地薫肉や青椒肉絲などの具材を皮に乗せ、もやしのピリ辛ナムルや、葱と辣醤、甜麺醤を入れて春巻きの様に包んで食べる。


魚の甘辛煮付けを頼んだが、こちらは、包むより、そのまま頂いたほうが美味しい。。


ホテルに戻り、休憩して「勝利広場」の地下商店街などを散策し、夜は、中山広場から解放街を南に700メートルほど下った中山区七七街にある、日本料理「銀平」にタクシーでやってきた。東西に延びる七七街の北隣には並行して南山路が通っており、このエリア一帯は「南山麓」と呼ばれ、1920年代には大連で日本人が住む一番の高級住宅街と言われた。現在も日本人街として当時の建築物が残されている。

さて日本料理「銀平」は、和歌山に本店がある朝獲れの魚をこだわりの器でもてなす本格的な魚料理店で、海外店の大連店も大変評判が良い。この日はお座敷風の個室に案内された。


店内では、カワハギの刺身、赤貝とわけぎの酢味噌和え、カサゴの刺身などを注文した。刺身は大変新鮮で日本の高級魚匠で食するのと全く変わらない。日本酒を飲みながら美味しく頂いた。


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翌朝、ホテルのブッフェで朝食を食べ、これから「金石灘観光リゾート区」の観光に向かう。金石灘は市街地から北側の甘井子区の北東側に隣接する金州区の黄海を望むリゾート地である。金州区は、東を黄海(大連湾など)、西を渤海(金州湾および普蘭店湾)に面しており、大連市の東部地区のベッドタウンとして近年開発が進められている。大連火車站からは、距離にして、約50キロメートルほど、快速軌道で、乗車時間は約50分を予定している。駅は自動改札で、事前にICカードを購入して乗車する(金石灘駅まで8元)。


大連火車站を午前9時に出発し、途中、大連経済技術開発区を過ぎ、東西に延びる大通り(金石路)を北側に見ながら高架橋の上を走行すると、まもなく、終着駅の金石灘駅に到着した(快速軌道:大連火車站→香炉礁→金家街→泉水→后塩→大連湾→金馬路→開発区→保税区→高城山→双D港→小缶湾 →黄海大道→金石灘)。

駅前からは15~20分間隔で、観光周回バスが出ており、東に3キロメートルほど行くと大連金石灘景勝地内の「金石園」に到着する。東西からの道路が南でV字に交差する内側の南端には芝生が広がり鹿が放牧されている。芝生の先には「金石園」と書かれた大岩が設置され、後方に「国家級地質公園」の横断幕が掲げられた石積みの入口門がある。


大岩に書かれた「金石園」の題字は、中国の起業家で全国人民代表大会(NPC)の副議長(1993~2003)を努めた王光英(1919~)によるもの。

入場料はなく自由に出入りできる。入口門を入った北側には、東西20メートルほどの池が広がり、縁には「金石園」と書かれた王光英の筆による大岩があり、観光客の撮影スポットとなっている。その後方には、奇岩が折り重なる様に広がっている。約24000平方メートルほどの正三角形の敷地面積がある。奇岩は、約6億年前の新原生代のエディアカラン紀頃に形成された石英が主な成分とされている。


こちらの奇岩群は、1996年に工事業者により発見されたもので、当初の施工計画自体は中止となり、発掘調査の末、一般に公開されることとなった。


近づくと、褶曲(しゅうきょく)や断層などの地質構造が岩石の上にはっきりと見ることができる。2メートル余りの高さの岩の間を行き来すると、まるで迷宮に足を踏み入れたような感覚に襲われる。


金石園の入口から、400メートルほど大通りを南に下ると「海之恋婚礼広場」がある。広場中央には、愛をテーマとした石のオブジェが設置されており、西側には、結婚式のための教会もある。この辺りは、黄金海岸と呼ばれ、金石灘観光リゾート区には、金石灘海水浴場、化石館、蝋人形館などのアトラクション、国際会議センター、ゴルフ場、狩猟クラブなどの施設が展開している。


他に、目当ての場所もなかったので、さらさらっと周囲を散策して金石灘駅に戻ってきた。最後に、電車からも見えた駅舎の北西側にある「中華武術館」に行ってみた。

6.42万平方メートルの敷地の奥に、ひな壇が築かれ、建築面積1.1万平方メートルの巨大な中華古風建築で建てられている。北京の「故宮」を見本としており、周囲に石の欄干を張り巡し、手前には2頭の狛犬(獅子)が置かれている。2001年9月に完成したもので、夏の観光シーズンには、武術ショーが行われている。


敷地の南側には、三間四柱式の豪華に装飾された「牌坊」が建っている。皇帝を象徴する龍の装飾などもあしらわれており、こちらにも故宮を参考にデザインされているのが分かる。


その後、快速軌道で、大連火車站に戻り、路面電車(有軌電車)203路に乗り換え、昨日訪れた民生街にある「泰殿養生会館」で再びマッサージをして過ごす。。

マッサージ終了後は、沙河口区の南端の星海湾沿いにある「星海広場」に向かうことにする。大連火車站からは、路面電車(有軌電車)201路に乗り、長江路を西に向け、興工街まで行く(201路:大連火車站→東関街→市場街→北京街→大同街→五一広場→振工街→興工街)。そして興工街で、更に202路に乗り換え、西安路を南に向け星海広場に向かった(202路:興工街→錦輝商城→解放広場→功成街→和平広場→会展中心→星海広場)。

星海広場は、100万平方メートルの広さを持つアジア最大級の都市広場で、南北縦長の楕円形の形をしている。星海湾を埋め立て、大連市100年を記念して1997年に建設された。広場の中心部には、星型文様がデザインされ、噴水池が設けられている。そして、シンボル塔「漢白玉華表」を中心に周囲に「石柱灯」が20メートルおきに配置されている。こちらは、西側を眺めた様子で、広場の後方には、高層マンションの建設が続いている。
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この星海湾エリアは、満鉄技術者・木戸忠太郎(1871~1959、木戸孝允の養子)が、星が落ちてきた伝説を踏まえ星ヶ浦と命名したことに因んでいる。満鉄により長期滞在型リゾートとして開発され、1909(明治42)年には、星ヶ浦ヤマトホテル(現:星海公園)が開業し、周辺には庭園、テニスコート、ゴルフ場などが整備された。星ヶ浦海水浴場では貸ボートやヨットでマリンスポーツを楽しむこともできた。

さて、星海広場では、夏の一大イベントとして、毎年7月の下旬から8月上旬までの約2週間(今年は7月26日~8月6日)「大連国際ビール祭り」(China International Beer Festival)が開催され多くの来場者で賑わっている。1999年に北京市で国家レベルのビール祭りとして創設された後、2002年から大連市に会場を移して毎年開催されている。


中国を代表する各ビール会社が、特設テントや様々な広告を掲げており、瓶ビール型のアドバルーン広告は、地元のビール醸造会社「大雪啤酒」(大連大雪ビール)で、巨大な門をあしらい、左右にジョッキの電飾看板を飾るのは、北京市のビール醸造会社「燕京啤酒」(燕京ビール)である。なお、会場東側の背後に見える高層ビルは「リゾートマンション星海国宝」で、遠景に大連市街の南方に広がる「白雲山風景区」の丘陵地帯が望める。
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今年の国際ビール祭りへの参加ビール会社は、大雪啤酒、燕京啤酒を始め、英博啤酒、雪花啤酒(雪花ビール)、百威啤酒、哈尔滨啤酒(ハルビンビール)、朝日啤酒、珠江啤酒(珠江ビール)、徳威(徳国)啤酒、青岛啤酒(青島ビール)、金青岛啤酒などである。特設テント内にはステージを設け歌やダンスのパフォーマンスが繰り広げられている。参加者は、設置されたテーブル席で、ビールを飲みながら、ステージと一体となり、夜遅くまで大いに盛り上がるのがビール祭りのスタイルらしい。


料理は、小籠包などの蒸し物、揚げ物、炒めもの、焼き物が中心で、中にはサソリや昆虫系の揚げ物なども売られていた。賑やかな雰囲気をしばらく堪能した後、引き上げて「川王府酒店」(中華四川)で夕食を食べホテルに帰った。翌朝は、午前8時40分、大連周水子国際空港(大連空港)発(CZ629)で大連を後にし、午後12時25分に成田国際空港に無事到着した。
(2007.7.27~29)
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