今日は、東西を貫くヴィットーリオ・エマヌエーレ通りの南側で、海岸沿いの「カルサ地区(Kalsa)」にやってきた。古い街並みと細い路地がいくつも交差するパレルモの旧市街だが、もともと、イスラム時代に宅地として開発され、スペイン統治時代には貴族の館が数多く建てられた、かつての高級住宅街である。そんな路地の一つ、メルロ通り沿いに豪華な浮彫の紋章が飾られた門があり、敷地内に「ミルト美術館」がある。
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美術館は、ノルマン起源のイタリア貴族フィランジェーリ家の邸宅「ミルト宮殿(Palazzo Mirto)」だったが、1982年、最後の子孫が一般公開することを条件として県に寄贈されている。館内には、ポンパドールの美しいサロンや、中国風サロンなどがあり、豪華な家具や調度品など多くのコレクションが展示されている。
カルサ地区は、9世紀、パレルモを征服したイスラム教徒が、港に長方形の城壁「アル・カルサ」を建設して行政府を置いたことに因んでいる。ちなみに、それまでパレルモを支配していたフェニキア人は、パレルモの西から東に流れていた2本の川の間の小高い丘に城壁を築いていたが、イスラム教徒はそちらを改築し「アル・カスル」と名付けている。現在のノルマン王宮西側から、クアットロ・カンティがある交差点あたりになる。
次に、ミルト美術館から南に100メートルほど進み、東西に伸びるアッローロ通り沿いにある「サンタ・マリア・デリ・アンジェリ教会」(Chiesa di Santa Maria degli Angeli)に向かう。
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教会内に入ると、グレーと白を基調とした洗練な造りで、吊り下げられたシャンデリアの光が反射して美しく輝いている。16世紀建築で、内部は主に17世紀に改築された、ラテン十字形プランで、身廊の側面には20の礼拝堂がある。後陣には、熾天使(セラフィム)、智天使(ケルビム)が施された漆喰装飾に、1509年、バルトロメオ・ベレッタロとジュリアーノ・マンチーノが制作した栄光の聖母とアッシジのフランチェスコの大理石像が、漆喰に埋め込まれる形で飾られている。
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主祭壇には、多色の大理石に金箔と浮彫で飾られた聖餐台と、周囲に金の彫像や浮彫が施され、コリント式の大理石柱で支えられたダークブルーのドーム(頂部に十字架がある)を持つ豪華な寺院型の祭壇飾りがある。しかし、訪れた午前11時には、多くの参拝者がミサで訪れており、祭壇を近くで見学することはできなかった。
身廊の天井は木製の格子型で、それぞれの中央に金の八芒星が装飾されている。ナルテックスには、2本の黄金装飾柱が支えるオルガンを備えた聖歌隊席がある。こちらは1615年にパレルモの上院議員からの委託を受け、ラファエレ・ラ・ヴァッレが制作したもので、その後、1772年にジャコモ・アンドロニコにより修復され、フランシスコ会の紋章が追加されている。
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教会の東隣にある建物は、15世紀に貴族アバテッリスの家の邸宅として建てられた「アバテッリス宮殿」(Palazzo Abatellis)だったが、その後、修道院や教会の施設などを経て、現在は「シチリア州立美術館」になっている。こちらの美術館には、有名なアントネッロ・メッシーナの「受胎告知」が所蔵・展示されている。この日は、予約客だけのために開館していたのか、一緒に入った団体の30分ほどの見学が終わるとともに退館させられた。こちらは、通り先から振り返った様子である。
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画像出典:ウィキメディア・コモンズ (Wikimedia Commons)
アバテッリス宮殿(現:シチリア州立美術)の東隣には、「サンタ・マリア・デッラ・ピエタ教会」(Chiesa di Santa Maria della Pieta)の北身廊が続き、先の交差点に、コリント式の柱を備えたバロック様式の豪華なファサードがある。教会は、もともとアバテッリス宮殿の一部だったが、その後、ドミニコ会の女子修道会となり、1678年に、建築家ジャコモ・アマート(1643~1732)により工事が始まり1723年に完成している。
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教会内は、バロック様式特有の豪華さと重厚感漂う作りで、柔らかい自然光の影響もあり優雅さも感じられる。後陣は、建築家ニコロ・パルマが1757年に建設したもので、凱旋門には、黄金の巻物を持った数人の天使からなる漆喰の彫刻で飾れている。ヴォールト天井には、イタリアの画家ガスパーレ・セレナリオ(Gaspare Serenari、1707~1759)による後期バロック時代のフレスコ画があり、4人の預言者、信仰の勝利、聖霊が描かれている。
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後陣の壁面には、中央に、雲の上に横たわる智天使と天使に囲まれた神秘的な子羊が、左右には、智天使が王冠と大きな松明を捧げる浮彫が施されている。側面には、1690年にピエトロ・アクイラが制作した2枚の大きな八角形のキャンバス画(左に放蕩息子の帰還、右にアブラハムの祝福)が飾られている。主祭壇は、18世紀末から19世紀前半にさかのぼる新古典主義様式が採用されている。
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凱旋門の柱の下部には左側にキリスト像が、右側には聖母子像が飾られている。近年のものと思われるが、何とも安らぎを与えてくれる作品となっている。
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こちらは、ナルテックス側で、トスカーナ柱に支えられたヴォールト天井の上には、階上廊(トリビューン)がある。教会は単身廊で、南北壁面には、それぞれ3つの浅い礼拝堂があり、それら礼拝堂の間には、バロック様式の金箔を貼った木製の4つの聖歌隊席が備え付けられている。
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右側(北壁)に見える第2ベイは「サン ドメニコ礼拝堂」で、祭壇画は1787年にヴィンチェンツォ・マンノが描いたもの。聖ドミニコがドミニコ修道会の新しい習慣を修道女に与える内容となっている。そして、その左側の第1ベイは「ドミニコ会の聖人と祝福者の礼拝堂」で、画家フランチェスコ・マンノ(Francesco Manno、1752~1831)が描いたもの。祭壇画の左端で十字架を持つ人物が、近郊カッカモ出身のドミニコ会の説教者で聖人のジョヴァンニ・リッチョ(1426~1511)になる。
反対側となる南壁の第3ベイには「聖十字架の礼拝堂」になる。19世紀前半に新古典主義で作られた祭壇で、聖なる殉教者の遺物を含む28の八角形の正方形があり、花輪の金の浮彫で囲まれている。中央には18世紀のべっ甲で覆われた木製の十字架が置かれている。
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そして右隣の聖歌隊席は、ファサードを設計した、ジャコモ・アマートによるもので、下部には、中央にライオン、左右にテラモーンが支える浮彫彫刻が施されている。更に右隣の第2ベイには「ロザリオの聖母礼拝堂」がある。フランチェスコ・マンノの作品で、聖ドミニコ、聖トマス・アクィナス、教皇ピウス5世、リマのローザ、アレクサンドリアのカタリナ、マルゲリータ・ディ・サヴォイアが描かれている。
再びアッローロ通りをサンタ・マリア・デリ・アンジェリ教会まで戻り、扉口から北に伸びる路地(アプリーレ通り)を100メートル行くとマリーナ広場(Piazza Marina)(西側は、ガリバルディ庭園)となり、右側に城壁を思わせる「キアラモンテ宮殿」(Palazzo Chiaramonte-Steri)が建っている。通りに面したファサードにある大きなアーチ門は、固く閉ざされており、入口は、すぐ先のアーチ門からとなる。そのアーチ門を入ると東西に奥行のある広場となり、右手前の階段上が、キアラモンテ宮殿の入口となる(宮殿は正方形で、中央に中庭がある)。
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キアラモンテ宮殿は、1307年に、シチリアの貴族キアラモンテ家の邸宅として建てられたが、1468年にはシチリア総督の邸宅となり、シチリアの異端審問所の本拠地となっている。異端審問所とは、当時シチリアを支配していたアラゴン王フェルナンド2世(1452~1516)(シチリア国王 在位:1468~1516)が、スペイン国内に倣って設置したもので、1782年まで続いている。その後は、司法庁や王立税関事務所を経て、現在はパレルモ大学の所有となっている。
キアラモンテ宮殿の東隣で、広場の南側には、小さな鉄格子の窓がいくつか並ぶ、旧:ステリ刑務所がある。ステリ刑務所は、異端審問所の付属施設で、ほぼ3世紀にわたって運営された。ここでは、異端審問官が尋問し、収容、拷問、処刑が行われていた。処刑された中には、ユダヤ人やユダヤ人の疑いのある人々、修道士や修道女、革新者、政敵、貧しい人々などが挙げられる。
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ステリ刑務所は、1970年代に修復作業が行われ、その際、漆喰の下から、数多くの落書きが発見されたことから、当時、囚人たちが、苦しみに耐え忍んで、書き綴った証言記録として保存・公開されている。
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次に、サンタ・マリア・デリ・アンジェリ教会のファサード前まで戻り、南に150メートルほど下った、サンタ テレサ アッラ カルサ教会の先を右折して、東西に伸びるスパジモ通りを進む。人通りが少なく、壁面の漆喰の剥がれた古い建物や、道路脇には石も転がっており、夜は避けたい雰囲気である。
左側の古く趣のある建物の中央にアーチ扉があり、壁面にプレートが掲げられている。次にこちらの「サンタ・マリア・デッロ・スパジモ教会」(Santa Maria dello Spasimo)を見学する。
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扉口を入った建物の先には、陽光が差し込む中庭が広がり、その中庭を横断して南回廊のアーチを抜けると、天井のない3廊式の教会堂に到着する。中央身廊には天井がなく、後陣方向を眺めると、大きなアーチがあり、その先の中央交差部まで空洞になっている。側廊の床を突き破って伸びる枯れ木が廃墟感を増している。
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教会は、1509年ベネディクト派オリヴェート修道会により建てられたが、スペイン統治時代の1536年にパレルモ防衛を目的に、周りに砦が建設され、教会としての機能を失うこととなる。その後は、倉庫や病院として活用されたが、現在では、コンサートやイベントなどで利用されており、またライトアップのための照明が等間隔に床に配置されている。
教会の南にある広場は、修復中で、いたるところで掘り返されている。ナルテックス西隣の小さな建物の下は、アーチ橋となっており、通り抜けのための道が続いている。
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広場から望む教会堂は、南翼廊の壁の大半が崩れて、内側の交差部のアーチが見え、北翼廊の壁まで見える。横に並ぶ鉄格子の窓は、側廊の窓で天井は残っている。しかし、内陣のアーチから階段状に側壁が下がり中央身廊の天井が大きく失われているのが分かる。
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広場の南側から敷地外を眺めると、周りの建物は低い位置にある。教会堂の南側には砦らしき跡や、東側には稜堡の様に突き出た遺構も残っており、この辺りが、カルサ地区の南側の境界に位置していたことが頷ける。
スパジモ通りを西に200メートルほど行くと、右側に鉄柵で仕切られた庭園があり、その東奥に尖塔アーチの扉彫刻が並ぶ「バシリカ・ラ・マジョーネ」(Chiesa e Chiostro della Magione)のファサードがある。入口は、西側にあるバロック様式の小さな門をくぐり、庭園にある参道を歩いた先になる。こちらは、ノルマン時代の1191年に創設されたパレルモで最も古い教会の一つである。
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主祭壇は「聖十字架礼拝堂」で、周囲には、15世紀に制作されたメダリオンのフレスコ画があったが、ほぼ失われている。混合大理石の祭壇には、17世紀の十字架像が飾られ、上部には、漆喰の装飾縁を隔てて、放射状の光輪を背景に智天使を配した聖霊の浮彫パネルが飾られている。
バジリカの北側には、隣接して中庭を持つ回廊があり、美しく並ぶ尖塔アーチを双頭の柱が支えている。回廊の壁面には、ルネッサンス様式のフレスコ画がうっすらと残されている。
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時刻は午後4時を過ぎ、日が陰ってきた。今日は、スタート地点のミルト美術館からメルロ通りを西に160メートル行った突き当りの広場に建つ「アッシジのサン フランチェスコ聖堂」(Chiesa di San Fracesco d’Assisi)を見学して終えることにする。聖堂は1277年に建設され、その後幾度かの改修を経て、1823年、地震被害を受けた後、新古典様式(ネオクラシック)で修復されている。しかし、第二次世界大戦での空爆により大きく被害を受けたことから、建設当時のゴシック様式に戻されて現在に至っている。
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教会内部は3廊式で、中央身廊には美しい木製の船底天井があり、内陣の凱旋門アーチからは、近代制作の「十字架像」が吊り下げられている。後陣には、木製の聖歌隊席と、パイプオルガンがあり、祭壇は磔刑像が飾られた黄金祭壇となっている。そして、身廊を支えるアーチの柱の周りには、パレルモ出身の彫刻家ジャコモ・セルポッタが1723年に制作した8体の寓意像が飾られ、側廊には16の礼拝堂がある。
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教会はアッシジのフランチェスコによって始められたフランシスコ会の修道院が始まりで、その後は、何度も改築されている。しかし、無所有と清貧を主張したフランシスコ会の精神は生かされており、華美な装飾は抑えられ、落ち着いた雰囲気は継承されている。左後陣には、「聖フランチェスコの礼拝堂」がある。最初の礼拝堂は1475年に建設されたが、現在のものは17世紀に改修されたもので、混合大理石や象嵌細工のねじれた2本の柱で装飾されている。
そして、右後陣には「無原罪の聖マリア礼拝堂」がある。聖フランチェスコの礼拝堂と同じく、ねじれた2本の柱で装飾されている。1772年にヴィート・ダンナ(Vito D'Anna)により制作されたもので、ティンパヌム上部にはイグナツィオ・マラビッティによる天使像の装飾が施されている。
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祭壇の左右には、18世紀初頭のジャン・バティスタ・ラグーザ(Giovanni Battista Ragusa)制作の彫像が飾られている。パレルモの守護聖人として、向かって左側が、オリヴィア、ニンファ、ロザリア、アガタ、右側がフィリポ、パレルモのマミリアーノ、アガト、セルジオになる。
午後8時半に、昨夜に引き続き、旧市街にある「リストランテ・ガジーニ(Gagini)」に食事にやってきた。アンティパストは、エビの刺身を頼んだ。
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プリモ・ピアットは、ラビオリを頼んだ。最後にドルチェをいただき、エスプレッソで食事を終えた。通常とは異なる年末メニューだったが、新鮮さと洗練された味わいは、今夜も素晴らしく、納得できる美味しさだった。
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翌日、ポリテアマ劇場(Teatro Politeama Garibaldi)の真向い(南)にあるホテル・ガリバルディ(Hotel Garibaldi)で朝を迎える。ルッジェーロ・セッティモ広場からホテルの写真を撮っていると、パレルモ観光バスが停車しているのが見える。このバスは、2種類の市内観光コースがあり、ここホテル・ガリバルディ前を起点としている。
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最初に、ホテルそばから、108番バスでノルマン王宮の西側、インディペンデンツ広場(Piazza Indipendenza)まで行き、そこからバスを乗り換え、再びモンレアーレ大聖堂に行く。一昨日は、夕方からの見学であったため、今日は午前中訪問のリベンジである。バスは40分程で到着し、聖堂内を2時間ほど、モザイク壁画を中心に見学して、帰りはタクシーに乗りノルマン王宮に戻った。
ノルマン王宮は、パレルモの旧市街の中では最も高台に位置している。ノルマン王宮は、1130年に初代のシチリア王(ノルマン朝)となったルッジェーロ2世(1095~1154)が、王国誕生を記念して、アラブの城塞「アル・カスル」を改築して建築したもの。建設当時は、住居、塔、謁見室、礼拝堂は別々の建物であったが、16世紀後半スペイン統治時代には、現在の一つの建物になっている。1947年からは、シチリア州議会として用いられている。
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館内に入り、最初にノルマン王宮内部の「ヘラクレスの間」から見学する。この部屋は、1947年以来シチリア州議会場として使われている。壁面や天井には、1799年、ブルボン王フェルナンド3世の依頼を受けて、画家ジュゼッペ・ベラスコ(1750~1827)により「ヘラクレスの十二の功業」が描かれている(こちらは天井の様子)。
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こちらは、16世紀後半に造られ、スペイン総督の名前にちなんで「マクエダの中庭」と呼ばれる回廊で、周りを3階建てでエレガントで繊細な円柱のアーチが続いている。左側2階の壁面には、アラゴン王フェルナンド2世(1452~1516)治世に制作されたモザイク画がある。ダビデとアブサロムの物語が主題で、このモザイク画の下の扉がパラティーナ礼拝堂への入口となる。
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パラティーナ礼拝堂は、1132年にルッジェーロ2世の命により、1080年頃に建設された古い礼拝堂(現在の地下室)の上に建てられた。聖ペトロに捧げられ、8年を要して1143年に完成したが、身廊のモザイク画は部分的にしか完成しなかった。礼拝堂は、3廊式、3つの後陣を持つプランで、モンレアーレ大聖堂と比較するとかなり規模は小さいが、これはノルマン王家のプライベートチャペルだったためともされる。
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内陣中央部のルネットには、左側にガブリエルが受胎を告知する場面、右側にマリアがガブリエルからのお告げを受ける場面がある。後陣のアプスには、右手で祝福を示し、左手には福音書を持つパントクラトールが、その下には、玉座に就く聖母、左側に使徒ペテロとマグダラのマリア、右側に洗礼者ヨハネと使徒ヤコブがモザイク画で表現されている。
ドームには、ミカエル、ガブリエルを始め8人の大天使に囲まれたキリスト・パントクラトルがモザイク画で表現されている。その下には、イザヤ、エレミヤ、エゼキエル、ヨナ、ダニエル、モーセ、エリヤ、エリシャの8人の預言者(上半身姿)が、キリストの到来を示す巻物を持っている。モザイク画は、他にも、身廊アーチ、カウンターファザード上部、側廊のマリオン窓ラインに施されている。
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内陣階段の手前の右側廊(後陣に向かって右側)には、異なる浮彫が施された4本のコリント式の柱で支えられた大理石の説教壇がある。その説教壇の周囲は、幾何学文様のモザイク(象嵌細工)の装飾で飾られている。同様のモザイクは、礼拝堂内の床や左右の側壁、階段、カウンターファサードに置かれた王座などの大理石に施されており、これをコズマーティ様式(イスラムとビザンチンの融合した様式)と呼んでいる。
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説教壇のそばには、身廊アーチを支える柱と、隣に高さ4メートルほどの大理石で作られた復活祭用の蝋燭立てが並んでいる。こちらは、鍾乳石か蝋が垂れている様な複雑な浮彫装飾でモカラベ様式と呼ばれている。
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蝋燭立の頂上部には4体の人物が彫られている。アカンサスの葉先に立ち、身体をやや左に向けた不安定な姿勢で蝋受け皿を支える細かさは凄い。
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身廊の天井は、ムカルナス様式と呼ばれ、イスラム建築で使われる持ち送り構造の装飾の一種で、多くは、煉瓦や石だが、こちらは木製で制作されている。現存する最古の木製ムカルナスとされ、ルッジェーロ2世の息子で、第2代国王グリエルモ1世が、身廊のモザイク完成後にファーティマ朝の職人に命じて制作させたと言われている。
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画像出典:ウィキメディア・コモンズ (Wikimedia Commons)
いくつかの対称軸を持つ木製の部品が、何層にも蜂の巣状に組み合わさり幾何学的な層を形成している。中央部には、2つの正方形を重ね合わせて造られた八芒星が10づつ2列で配列されている。
次に、王宮前から、104番のバスに乗り、ポルタ・ヌォーバ(ヌォーバ門)を越え、ヴィットーリオ・エマヌエーレ通りを1キロメートルほどパレルモ港方面に進みマクエダ通りを右折したバス停で下車する。正面(東側)にあるベッリーニ広場を進んでいくと右側に三つの赤いクーポラが印象的なノルマン様式の「聖カタルド教会」(Chiesa di San Cataldo)がある。グリエルモ2世の宰相マイオーネ・ディ・バーリにより、1160年に建てられた。その後、18世紀後半から約100年間、郵便局として使用されていた。
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聖カタルド教会の左側(東)に隣接するのが「マルトラーナ教会」(Chiesa della Martorana)になる。1143年、ルッジェーロ2世の宰相で海軍提督のジョルジォ・ダンティオキアによりビザンティン建築の教会として建てられたことから「海軍提督の聖マリア教会」(Santa Maria del l' Ammiraglio)」と呼ばれた。
ジョルジォは、アンティオキア生まれ、アラビア語とギリシャ語に堪能で航海術にも優れていたことからルッジェーロ2世に宰相として抜擢され活躍した人物。亀の様に聖母に跪いて教会を献納する人物がジョルジォ。この地からは港を見渡すことができ、まさに海軍提督の教会にふさわしい場所だったのだろう。
しかし15世紀には、ベネディクト派修道院の所有になり、修道士の名前にちなんで「マルトラーナ教会」と呼ばれるようになった。その後も改築と増築が繰り返され現在のアラブ・ノルマン様式、カタロニア・ゴシック様式、バロック様式の3様式が混合する姿となっている。内部には12世紀のビザンチン様式の金地モザイクが残っており、中でも有名なものに、キリストに戴冠されるルッジェーロ2世がある。
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マクエダ通りの右側(東側)には、プレトリオ広場があり、中央に円形の「プレトリア噴水」(Fontana Pretoria)がある(クアットロ・カンティのすぐ南側に位置)。1554年にスペイン貴族のフィレンツェ別荘のために、彫刻家フランチェスコ・カミリアーニにより制作されたが、その後、パレルモ市が買い取り、1581年に息子カミッロ・カミリアーニにより、こちらに設置された。神々の像は、ほとんどが裸のため、敬虔なキリスト教徒からは「恥の広場」とも呼ばれた。
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プレトリオ広場の東側には、16世紀後半に建てられたサンタ・カテリーナ教会(Chiesa di S. Caterina)のドームが、この時間、夕陽に照らされて美しく輝いていた。
午後4時を過ぎ、最後に、ヴィットーリオ・エマヌエーレ通りを、再びノルマン王宮方面(西)に歩いて戻り、通り右手にある「パレルモ大聖堂」(Cattedrale di Palermo)にやってきた。1184年、第3代国王グリエルモ2世治世に、パレルモ大司教グァルティエロ・オッファミリオによりイスラム教徒のモスクを改築しシチリア・ノルマン様式で建てられたが、その後、度重なる改築工事によりゴシック、カタロニア、バロック、ネオクラッシック様々な様式が織り交ぜられている。
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1781年から1801年にかけての改築が最も大規模なもので、建築家フェルディナンド・フーガによりバシリカ様式からラテン十字形に変更されドームも加えられた。手前の広場に建つ彫像はパレルモ守護聖人の聖ロザリアの像である。
南入口となる切妻屋根のポルチコは、1426年にアラゴン王アルフォンソ5世(1396~1458)の戴冠式を記念して建設されたもの。
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西側にあるファサードには、左右に鐘楼がある。そして、通りの向かい側には、大司教宮殿と修道院(現:司教区博物館)の大きな鐘楼があり、2本の尖塔アーチが通りを横断して支えあっている。
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南入口となる切妻屋根のポルチコのティンパヌムには、幾何学的な螺旋と花の装飾を背景に、中央に「父なる神」と左右に「受胎告知」の場面が浮彫で表されている。
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ポルチコ内部の入口アーチ部分にも繊細で幾何学的な浮彫装飾が施され、入口頂部に13世紀制作の聖母子のモザイク画が飾られている。建造当初、聖堂内は、黄金のモザイクで輝いていたが、改築毎に徐々に取り払われ、現在はこちらの聖母子のみが残っている。そして、左右側面の壁には18世紀のブルボン、サヴォイア王朝の戴冠式の記念碑などが飾られている。
大聖堂の内部はシンプルな新古典様式となっている。北側の6番目のベイには、18世紀の無原罪の御宿りの銀製の模像が収められた「無原罪懐胎の礼拝堂」がある。そして、中でも注目は、翼廊の南側にある「聖ロザリアの礼拝堂」で、1631年から1637年の間に造られたシチリアのバロック様式の最高峰と言われる銀製の聖遺物が納められており、毎年聖ロザリア祭の7月14日の夜に大聖堂から運び出され、宗教行列が行われている。
聖堂入口を入ったすぐ右側廊にある「皇帝と王の霊廟」と名付けられた礼拝堂には、パレルモを統治してきた歴代ノルマン王家の大きな棺が安置されている。正面左手にある赤い大理石の棺が、神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世(シチリア王フェデリーコ1世)(1194~1250)の墓になる。他にも彼の最初の妻コスタンツァ2世、父ハインリヒ6世、母コスタンツァ、祖父ルッジェーロ2世などの石棺が安置されている。
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フリードリヒ2世は、ローマ教皇インノケンティウス3世を後見人としてパレルモで育ち、成人してシチリア王、1212年にドイツ王、1220年に神聖ローマ皇帝となったが、本拠地となるドイツには9年間滞在しただけで、ほとんどをパレルモ王宮で過ごしている。晩年は、教皇派と皇帝派の対立を背景にイタリア都市との戦いに明け暮れ、1250年イタリア・プーリアの地で病死している。スイスの歴史家ブルクハルトは、キリスト教的世界観にとらわれず、合理的な政策で政権運営を続けた彼を「最初の近代的人間」と評価している。
宝物殿には、フリードリヒ2世の最初の妻コスタンツァ2世の宝石をちりばめられた見事な王冠が保管されている。納骨堂(Cripta)は宝物殿の中から入ることが出来る。階段を下に降りると、円柱列に支えられた二廊式の広い納骨堂があり、ローマ時代の石棺やアントネッロ・ガジーニ(1478~1536年)の浮き彫りが施された棺を見ることができる。
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午後5時半に聖堂を出ると、辺りは暗くなっていた。
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ホテルに戻って来ると、ポリテアマ劇場のあるルッジェーロ・セッティモ広場の特設舞台では、カウントダウン・ライブが行われており、多くの人で賑わっていた。
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(2012.12.30~31)
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美術館は、ノルマン起源のイタリア貴族フィランジェーリ家の邸宅「ミルト宮殿(Palazzo Mirto)」だったが、1982年、最後の子孫が一般公開することを条件として県に寄贈されている。館内には、ポンパドールの美しいサロンや、中国風サロンなどがあり、豪華な家具や調度品など多くのコレクションが展示されている。
カルサ地区は、9世紀、パレルモを征服したイスラム教徒が、港に長方形の城壁「アル・カルサ」を建設して行政府を置いたことに因んでいる。ちなみに、それまでパレルモを支配していたフェニキア人は、パレルモの西から東に流れていた2本の川の間の小高い丘に城壁を築いていたが、イスラム教徒はそちらを改築し「アル・カスル」と名付けている。現在のノルマン王宮西側から、クアットロ・カンティがある交差点あたりになる。
次に、ミルト美術館から南に100メートルほど進み、東西に伸びるアッローロ通り沿いにある「サンタ・マリア・デリ・アンジェリ教会」(Chiesa di Santa Maria degli Angeli)に向かう。
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教会内に入ると、グレーと白を基調とした洗練な造りで、吊り下げられたシャンデリアの光が反射して美しく輝いている。16世紀建築で、内部は主に17世紀に改築された、ラテン十字形プランで、身廊の側面には20の礼拝堂がある。後陣には、熾天使(セラフィム)、智天使(ケルビム)が施された漆喰装飾に、1509年、バルトロメオ・ベレッタロとジュリアーノ・マンチーノが制作した栄光の聖母とアッシジのフランチェスコの大理石像が、漆喰に埋め込まれる形で飾られている。
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主祭壇には、多色の大理石に金箔と浮彫で飾られた聖餐台と、周囲に金の彫像や浮彫が施され、コリント式の大理石柱で支えられたダークブルーのドーム(頂部に十字架がある)を持つ豪華な寺院型の祭壇飾りがある。しかし、訪れた午前11時には、多くの参拝者がミサで訪れており、祭壇を近くで見学することはできなかった。
身廊の天井は木製の格子型で、それぞれの中央に金の八芒星が装飾されている。ナルテックスには、2本の黄金装飾柱が支えるオルガンを備えた聖歌隊席がある。こちらは1615年にパレルモの上院議員からの委託を受け、ラファエレ・ラ・ヴァッレが制作したもので、その後、1772年にジャコモ・アンドロニコにより修復され、フランシスコ会の紋章が追加されている。
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教会の東隣にある建物は、15世紀に貴族アバテッリスの家の邸宅として建てられた「アバテッリス宮殿」(Palazzo Abatellis)だったが、その後、修道院や教会の施設などを経て、現在は「シチリア州立美術館」になっている。こちらの美術館には、有名なアントネッロ・メッシーナの「受胎告知」が所蔵・展示されている。この日は、予約客だけのために開館していたのか、一緒に入った団体の30分ほどの見学が終わるとともに退館させられた。こちらは、通り先から振り返った様子である。
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画像出典:ウィキメディア・コモンズ (Wikimedia Commons)
アバテッリス宮殿(現:シチリア州立美術)の東隣には、「サンタ・マリア・デッラ・ピエタ教会」(Chiesa di Santa Maria della Pieta)の北身廊が続き、先の交差点に、コリント式の柱を備えたバロック様式の豪華なファサードがある。教会は、もともとアバテッリス宮殿の一部だったが、その後、ドミニコ会の女子修道会となり、1678年に、建築家ジャコモ・アマート(1643~1732)により工事が始まり1723年に完成している。
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教会内は、バロック様式特有の豪華さと重厚感漂う作りで、柔らかい自然光の影響もあり優雅さも感じられる。後陣は、建築家ニコロ・パルマが1757年に建設したもので、凱旋門には、黄金の巻物を持った数人の天使からなる漆喰の彫刻で飾れている。ヴォールト天井には、イタリアの画家ガスパーレ・セレナリオ(Gaspare Serenari、1707~1759)による後期バロック時代のフレスコ画があり、4人の預言者、信仰の勝利、聖霊が描かれている。
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後陣の壁面には、中央に、雲の上に横たわる智天使と天使に囲まれた神秘的な子羊が、左右には、智天使が王冠と大きな松明を捧げる浮彫が施されている。側面には、1690年にピエトロ・アクイラが制作した2枚の大きな八角形のキャンバス画(左に放蕩息子の帰還、右にアブラハムの祝福)が飾られている。主祭壇は、18世紀末から19世紀前半にさかのぼる新古典主義様式が採用されている。
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凱旋門の柱の下部には左側にキリスト像が、右側には聖母子像が飾られている。近年のものと思われるが、何とも安らぎを与えてくれる作品となっている。
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こちらは、ナルテックス側で、トスカーナ柱に支えられたヴォールト天井の上には、階上廊(トリビューン)がある。教会は単身廊で、南北壁面には、それぞれ3つの浅い礼拝堂があり、それら礼拝堂の間には、バロック様式の金箔を貼った木製の4つの聖歌隊席が備え付けられている。
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右側(北壁)に見える第2ベイは「サン ドメニコ礼拝堂」で、祭壇画は1787年にヴィンチェンツォ・マンノが描いたもの。聖ドミニコがドミニコ修道会の新しい習慣を修道女に与える内容となっている。そして、その左側の第1ベイは「ドミニコ会の聖人と祝福者の礼拝堂」で、画家フランチェスコ・マンノ(Francesco Manno、1752~1831)が描いたもの。祭壇画の左端で十字架を持つ人物が、近郊カッカモ出身のドミニコ会の説教者で聖人のジョヴァンニ・リッチョ(1426~1511)になる。
反対側となる南壁の第3ベイには「聖十字架の礼拝堂」になる。19世紀前半に新古典主義で作られた祭壇で、聖なる殉教者の遺物を含む28の八角形の正方形があり、花輪の金の浮彫で囲まれている。中央には18世紀のべっ甲で覆われた木製の十字架が置かれている。
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そして右隣の聖歌隊席は、ファサードを設計した、ジャコモ・アマートによるもので、下部には、中央にライオン、左右にテラモーンが支える浮彫彫刻が施されている。更に右隣の第2ベイには「ロザリオの聖母礼拝堂」がある。フランチェスコ・マンノの作品で、聖ドミニコ、聖トマス・アクィナス、教皇ピウス5世、リマのローザ、アレクサンドリアのカタリナ、マルゲリータ・ディ・サヴォイアが描かれている。
再びアッローロ通りをサンタ・マリア・デリ・アンジェリ教会まで戻り、扉口から北に伸びる路地(アプリーレ通り)を100メートル行くとマリーナ広場(Piazza Marina)(西側は、ガリバルディ庭園)となり、右側に城壁を思わせる「キアラモンテ宮殿」(Palazzo Chiaramonte-Steri)が建っている。通りに面したファサードにある大きなアーチ門は、固く閉ざされており、入口は、すぐ先のアーチ門からとなる。そのアーチ門を入ると東西に奥行のある広場となり、右手前の階段上が、キアラモンテ宮殿の入口となる(宮殿は正方形で、中央に中庭がある)。
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キアラモンテ宮殿は、1307年に、シチリアの貴族キアラモンテ家の邸宅として建てられたが、1468年にはシチリア総督の邸宅となり、シチリアの異端審問所の本拠地となっている。異端審問所とは、当時シチリアを支配していたアラゴン王フェルナンド2世(1452~1516)(シチリア国王 在位:1468~1516)が、スペイン国内に倣って設置したもので、1782年まで続いている。その後は、司法庁や王立税関事務所を経て、現在はパレルモ大学の所有となっている。
キアラモンテ宮殿の東隣で、広場の南側には、小さな鉄格子の窓がいくつか並ぶ、旧:ステリ刑務所がある。ステリ刑務所は、異端審問所の付属施設で、ほぼ3世紀にわたって運営された。ここでは、異端審問官が尋問し、収容、拷問、処刑が行われていた。処刑された中には、ユダヤ人やユダヤ人の疑いのある人々、修道士や修道女、革新者、政敵、貧しい人々などが挙げられる。
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ステリ刑務所は、1970年代に修復作業が行われ、その際、漆喰の下から、数多くの落書きが発見されたことから、当時、囚人たちが、苦しみに耐え忍んで、書き綴った証言記録として保存・公開されている。
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次に、サンタ・マリア・デリ・アンジェリ教会のファサード前まで戻り、南に150メートルほど下った、サンタ テレサ アッラ カルサ教会の先を右折して、東西に伸びるスパジモ通りを進む。人通りが少なく、壁面の漆喰の剥がれた古い建物や、道路脇には石も転がっており、夜は避けたい雰囲気である。
左側の古く趣のある建物の中央にアーチ扉があり、壁面にプレートが掲げられている。次にこちらの「サンタ・マリア・デッロ・スパジモ教会」(Santa Maria dello Spasimo)を見学する。
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扉口を入った建物の先には、陽光が差し込む中庭が広がり、その中庭を横断して南回廊のアーチを抜けると、天井のない3廊式の教会堂に到着する。中央身廊には天井がなく、後陣方向を眺めると、大きなアーチがあり、その先の中央交差部まで空洞になっている。側廊の床を突き破って伸びる枯れ木が廃墟感を増している。
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教会は、1509年ベネディクト派オリヴェート修道会により建てられたが、スペイン統治時代の1536年にパレルモ防衛を目的に、周りに砦が建設され、教会としての機能を失うこととなる。その後は、倉庫や病院として活用されたが、現在では、コンサートやイベントなどで利用されており、またライトアップのための照明が等間隔に床に配置されている。
教会の南にある広場は、修復中で、いたるところで掘り返されている。ナルテックス西隣の小さな建物の下は、アーチ橋となっており、通り抜けのための道が続いている。
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広場から望む教会堂は、南翼廊の壁の大半が崩れて、内側の交差部のアーチが見え、北翼廊の壁まで見える。横に並ぶ鉄格子の窓は、側廊の窓で天井は残っている。しかし、内陣のアーチから階段状に側壁が下がり中央身廊の天井が大きく失われているのが分かる。
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広場の南側から敷地外を眺めると、周りの建物は低い位置にある。教会堂の南側には砦らしき跡や、東側には稜堡の様に突き出た遺構も残っており、この辺りが、カルサ地区の南側の境界に位置していたことが頷ける。
スパジモ通りを西に200メートルほど行くと、右側に鉄柵で仕切られた庭園があり、その東奥に尖塔アーチの扉彫刻が並ぶ「バシリカ・ラ・マジョーネ」(Chiesa e Chiostro della Magione)のファサードがある。入口は、西側にあるバロック様式の小さな門をくぐり、庭園にある参道を歩いた先になる。こちらは、ノルマン時代の1191年に創設されたパレルモで最も古い教会の一つである。
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主祭壇は「聖十字架礼拝堂」で、周囲には、15世紀に制作されたメダリオンのフレスコ画があったが、ほぼ失われている。混合大理石の祭壇には、17世紀の十字架像が飾られ、上部には、漆喰の装飾縁を隔てて、放射状の光輪を背景に智天使を配した聖霊の浮彫パネルが飾られている。
バジリカの北側には、隣接して中庭を持つ回廊があり、美しく並ぶ尖塔アーチを双頭の柱が支えている。回廊の壁面には、ルネッサンス様式のフレスコ画がうっすらと残されている。
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時刻は午後4時を過ぎ、日が陰ってきた。今日は、スタート地点のミルト美術館からメルロ通りを西に160メートル行った突き当りの広場に建つ「アッシジのサン フランチェスコ聖堂」(Chiesa di San Fracesco d’Assisi)を見学して終えることにする。聖堂は1277年に建設され、その後幾度かの改修を経て、1823年、地震被害を受けた後、新古典様式(ネオクラシック)で修復されている。しかし、第二次世界大戦での空爆により大きく被害を受けたことから、建設当時のゴシック様式に戻されて現在に至っている。
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教会内部は3廊式で、中央身廊には美しい木製の船底天井があり、内陣の凱旋門アーチからは、近代制作の「十字架像」が吊り下げられている。後陣には、木製の聖歌隊席と、パイプオルガンがあり、祭壇は磔刑像が飾られた黄金祭壇となっている。そして、身廊を支えるアーチの柱の周りには、パレルモ出身の彫刻家ジャコモ・セルポッタが1723年に制作した8体の寓意像が飾られ、側廊には16の礼拝堂がある。
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教会はアッシジのフランチェスコによって始められたフランシスコ会の修道院が始まりで、その後は、何度も改築されている。しかし、無所有と清貧を主張したフランシスコ会の精神は生かされており、華美な装飾は抑えられ、落ち着いた雰囲気は継承されている。左後陣には、「聖フランチェスコの礼拝堂」がある。最初の礼拝堂は1475年に建設されたが、現在のものは17世紀に改修されたもので、混合大理石や象嵌細工のねじれた2本の柱で装飾されている。
そして、右後陣には「無原罪の聖マリア礼拝堂」がある。聖フランチェスコの礼拝堂と同じく、ねじれた2本の柱で装飾されている。1772年にヴィート・ダンナ(Vito D'Anna)により制作されたもので、ティンパヌム上部にはイグナツィオ・マラビッティによる天使像の装飾が施されている。
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祭壇の左右には、18世紀初頭のジャン・バティスタ・ラグーザ(Giovanni Battista Ragusa)制作の彫像が飾られている。パレルモの守護聖人として、向かって左側が、オリヴィア、ニンファ、ロザリア、アガタ、右側がフィリポ、パレルモのマミリアーノ、アガト、セルジオになる。
午後8時半に、昨夜に引き続き、旧市街にある「リストランテ・ガジーニ(Gagini)」に食事にやってきた。アンティパストは、エビの刺身を頼んだ。
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プリモ・ピアットは、ラビオリを頼んだ。最後にドルチェをいただき、エスプレッソで食事を終えた。通常とは異なる年末メニューだったが、新鮮さと洗練された味わいは、今夜も素晴らしく、納得できる美味しさだった。
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翌日、ポリテアマ劇場(Teatro Politeama Garibaldi)の真向い(南)にあるホテル・ガリバルディ(Hotel Garibaldi)で朝を迎える。ルッジェーロ・セッティモ広場からホテルの写真を撮っていると、パレルモ観光バスが停車しているのが見える。このバスは、2種類の市内観光コースがあり、ここホテル・ガリバルディ前を起点としている。
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最初に、ホテルそばから、108番バスでノルマン王宮の西側、インディペンデンツ広場(Piazza Indipendenza)まで行き、そこからバスを乗り換え、再びモンレアーレ大聖堂に行く。一昨日は、夕方からの見学であったため、今日は午前中訪問のリベンジである。バスは40分程で到着し、聖堂内を2時間ほど、モザイク壁画を中心に見学して、帰りはタクシーに乗りノルマン王宮に戻った。
ノルマン王宮は、パレルモの旧市街の中では最も高台に位置している。ノルマン王宮は、1130年に初代のシチリア王(ノルマン朝)となったルッジェーロ2世(1095~1154)が、王国誕生を記念して、アラブの城塞「アル・カスル」を改築して建築したもの。建設当時は、住居、塔、謁見室、礼拝堂は別々の建物であったが、16世紀後半スペイン統治時代には、現在の一つの建物になっている。1947年からは、シチリア州議会として用いられている。
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館内に入り、最初にノルマン王宮内部の「ヘラクレスの間」から見学する。この部屋は、1947年以来シチリア州議会場として使われている。壁面や天井には、1799年、ブルボン王フェルナンド3世の依頼を受けて、画家ジュゼッペ・ベラスコ(1750~1827)により「ヘラクレスの十二の功業」が描かれている(こちらは天井の様子)。
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こちらは、16世紀後半に造られ、スペイン総督の名前にちなんで「マクエダの中庭」と呼ばれる回廊で、周りを3階建てでエレガントで繊細な円柱のアーチが続いている。左側2階の壁面には、アラゴン王フェルナンド2世(1452~1516)治世に制作されたモザイク画がある。ダビデとアブサロムの物語が主題で、このモザイク画の下の扉がパラティーナ礼拝堂への入口となる。
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パラティーナ礼拝堂は、1132年にルッジェーロ2世の命により、1080年頃に建設された古い礼拝堂(現在の地下室)の上に建てられた。聖ペトロに捧げられ、8年を要して1143年に完成したが、身廊のモザイク画は部分的にしか完成しなかった。礼拝堂は、3廊式、3つの後陣を持つプランで、モンレアーレ大聖堂と比較するとかなり規模は小さいが、これはノルマン王家のプライベートチャペルだったためともされる。
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内陣中央部のルネットには、左側にガブリエルが受胎を告知する場面、右側にマリアがガブリエルからのお告げを受ける場面がある。後陣のアプスには、右手で祝福を示し、左手には福音書を持つパントクラトールが、その下には、玉座に就く聖母、左側に使徒ペテロとマグダラのマリア、右側に洗礼者ヨハネと使徒ヤコブがモザイク画で表現されている。
ドームには、ミカエル、ガブリエルを始め8人の大天使に囲まれたキリスト・パントクラトルがモザイク画で表現されている。その下には、イザヤ、エレミヤ、エゼキエル、ヨナ、ダニエル、モーセ、エリヤ、エリシャの8人の預言者(上半身姿)が、キリストの到来を示す巻物を持っている。モザイク画は、他にも、身廊アーチ、カウンターファザード上部、側廊のマリオン窓ラインに施されている。
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内陣階段の手前の右側廊(後陣に向かって右側)には、異なる浮彫が施された4本のコリント式の柱で支えられた大理石の説教壇がある。その説教壇の周囲は、幾何学文様のモザイク(象嵌細工)の装飾で飾られている。同様のモザイクは、礼拝堂内の床や左右の側壁、階段、カウンターファサードに置かれた王座などの大理石に施されており、これをコズマーティ様式(イスラムとビザンチンの融合した様式)と呼んでいる。
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説教壇のそばには、身廊アーチを支える柱と、隣に高さ4メートルほどの大理石で作られた復活祭用の蝋燭立てが並んでいる。こちらは、鍾乳石か蝋が垂れている様な複雑な浮彫装飾でモカラベ様式と呼ばれている。
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蝋燭立の頂上部には4体の人物が彫られている。アカンサスの葉先に立ち、身体をやや左に向けた不安定な姿勢で蝋受け皿を支える細かさは凄い。
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身廊の天井は、ムカルナス様式と呼ばれ、イスラム建築で使われる持ち送り構造の装飾の一種で、多くは、煉瓦や石だが、こちらは木製で制作されている。現存する最古の木製ムカルナスとされ、ルッジェーロ2世の息子で、第2代国王グリエルモ1世が、身廊のモザイク完成後にファーティマ朝の職人に命じて制作させたと言われている。
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画像出典:ウィキメディア・コモンズ (Wikimedia Commons)
いくつかの対称軸を持つ木製の部品が、何層にも蜂の巣状に組み合わさり幾何学的な層を形成している。中央部には、2つの正方形を重ね合わせて造られた八芒星が10づつ2列で配列されている。
次に、王宮前から、104番のバスに乗り、ポルタ・ヌォーバ(ヌォーバ門)を越え、ヴィットーリオ・エマヌエーレ通りを1キロメートルほどパレルモ港方面に進みマクエダ通りを右折したバス停で下車する。正面(東側)にあるベッリーニ広場を進んでいくと右側に三つの赤いクーポラが印象的なノルマン様式の「聖カタルド教会」(Chiesa di San Cataldo)がある。グリエルモ2世の宰相マイオーネ・ディ・バーリにより、1160年に建てられた。その後、18世紀後半から約100年間、郵便局として使用されていた。
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聖カタルド教会の左側(東)に隣接するのが「マルトラーナ教会」(Chiesa della Martorana)になる。1143年、ルッジェーロ2世の宰相で海軍提督のジョルジォ・ダンティオキアによりビザンティン建築の教会として建てられたことから「海軍提督の聖マリア教会」(Santa Maria del l' Ammiraglio)」と呼ばれた。
ジョルジォは、アンティオキア生まれ、アラビア語とギリシャ語に堪能で航海術にも優れていたことからルッジェーロ2世に宰相として抜擢され活躍した人物。亀の様に聖母に跪いて教会を献納する人物がジョルジォ。この地からは港を見渡すことができ、まさに海軍提督の教会にふさわしい場所だったのだろう。
しかし15世紀には、ベネディクト派修道院の所有になり、修道士の名前にちなんで「マルトラーナ教会」と呼ばれるようになった。その後も改築と増築が繰り返され現在のアラブ・ノルマン様式、カタロニア・ゴシック様式、バロック様式の3様式が混合する姿となっている。内部には12世紀のビザンチン様式の金地モザイクが残っており、中でも有名なものに、キリストに戴冠されるルッジェーロ2世がある。
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マクエダ通りの右側(東側)には、プレトリオ広場があり、中央に円形の「プレトリア噴水」(Fontana Pretoria)がある(クアットロ・カンティのすぐ南側に位置)。1554年にスペイン貴族のフィレンツェ別荘のために、彫刻家フランチェスコ・カミリアーニにより制作されたが、その後、パレルモ市が買い取り、1581年に息子カミッロ・カミリアーニにより、こちらに設置された。神々の像は、ほとんどが裸のため、敬虔なキリスト教徒からは「恥の広場」とも呼ばれた。
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プレトリオ広場の東側には、16世紀後半に建てられたサンタ・カテリーナ教会(Chiesa di S. Caterina)のドームが、この時間、夕陽に照らされて美しく輝いていた。
午後4時を過ぎ、最後に、ヴィットーリオ・エマヌエーレ通りを、再びノルマン王宮方面(西)に歩いて戻り、通り右手にある「パレルモ大聖堂」(Cattedrale di Palermo)にやってきた。1184年、第3代国王グリエルモ2世治世に、パレルモ大司教グァルティエロ・オッファミリオによりイスラム教徒のモスクを改築しシチリア・ノルマン様式で建てられたが、その後、度重なる改築工事によりゴシック、カタロニア、バロック、ネオクラッシック様々な様式が織り交ぜられている。
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1781年から1801年にかけての改築が最も大規模なもので、建築家フェルディナンド・フーガによりバシリカ様式からラテン十字形に変更されドームも加えられた。手前の広場に建つ彫像はパレルモ守護聖人の聖ロザリアの像である。
南入口となる切妻屋根のポルチコは、1426年にアラゴン王アルフォンソ5世(1396~1458)の戴冠式を記念して建設されたもの。
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西側にあるファサードには、左右に鐘楼がある。そして、通りの向かい側には、大司教宮殿と修道院(現:司教区博物館)の大きな鐘楼があり、2本の尖塔アーチが通りを横断して支えあっている。
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南入口となる切妻屋根のポルチコのティンパヌムには、幾何学的な螺旋と花の装飾を背景に、中央に「父なる神」と左右に「受胎告知」の場面が浮彫で表されている。
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ポルチコ内部の入口アーチ部分にも繊細で幾何学的な浮彫装飾が施され、入口頂部に13世紀制作の聖母子のモザイク画が飾られている。建造当初、聖堂内は、黄金のモザイクで輝いていたが、改築毎に徐々に取り払われ、現在はこちらの聖母子のみが残っている。そして、左右側面の壁には18世紀のブルボン、サヴォイア王朝の戴冠式の記念碑などが飾られている。
大聖堂の内部はシンプルな新古典様式となっている。北側の6番目のベイには、18世紀の無原罪の御宿りの銀製の模像が収められた「無原罪懐胎の礼拝堂」がある。そして、中でも注目は、翼廊の南側にある「聖ロザリアの礼拝堂」で、1631年から1637年の間に造られたシチリアのバロック様式の最高峰と言われる銀製の聖遺物が納められており、毎年聖ロザリア祭の7月14日の夜に大聖堂から運び出され、宗教行列が行われている。
聖堂入口を入ったすぐ右側廊にある「皇帝と王の霊廟」と名付けられた礼拝堂には、パレルモを統治してきた歴代ノルマン王家の大きな棺が安置されている。正面左手にある赤い大理石の棺が、神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世(シチリア王フェデリーコ1世)(1194~1250)の墓になる。他にも彼の最初の妻コスタンツァ2世、父ハインリヒ6世、母コスタンツァ、祖父ルッジェーロ2世などの石棺が安置されている。
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フリードリヒ2世は、ローマ教皇インノケンティウス3世を後見人としてパレルモで育ち、成人してシチリア王、1212年にドイツ王、1220年に神聖ローマ皇帝となったが、本拠地となるドイツには9年間滞在しただけで、ほとんどをパレルモ王宮で過ごしている。晩年は、教皇派と皇帝派の対立を背景にイタリア都市との戦いに明け暮れ、1250年イタリア・プーリアの地で病死している。スイスの歴史家ブルクハルトは、キリスト教的世界観にとらわれず、合理的な政策で政権運営を続けた彼を「最初の近代的人間」と評価している。
宝物殿には、フリードリヒ2世の最初の妻コスタンツァ2世の宝石をちりばめられた見事な王冠が保管されている。納骨堂(Cripta)は宝物殿の中から入ることが出来る。階段を下に降りると、円柱列に支えられた二廊式の広い納骨堂があり、ローマ時代の石棺やアントネッロ・ガジーニ(1478~1536年)の浮き彫りが施された棺を見ることができる。
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午後5時半に聖堂を出ると、辺りは暗くなっていた。
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ホテルに戻って来ると、ポリテアマ劇場のあるルッジェーロ・セッティモ広場の特設舞台では、カウントダウン・ライブが行われており、多くの人で賑わっていた。
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(2012.12.30~31)