カズさんの旅たび

 ~歴史、文化、芸術、美食紀行。。

シチリア(その7)

2013-05-01 | イタリア(シチリア)
今日は、東西を貫くヴィットーリオ・エマヌエーレ通りの南側で、海岸沿いの「カルサ地区(Kalsa)」にやってきた。古い街並みと細い路地がいくつも交差するパレルモの旧市街だが、もともと、イスラム時代に宅地として開発され、スペイン統治時代には貴族の館が数多く建てられた、かつての高級住宅街である。そんな路地の一つ、メルロ通り沿いに豪華な浮彫の紋章が飾られた門があり、敷地内に「ミルト美術館」がある。
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美術館は、ノルマン起源のイタリア貴族フィランジェーリ家の邸宅「ミルト宮殿(Palazzo Mirto)」だったが、1982年、最後の子孫が一般公開することを条件として県に寄贈されている。館内には、ポンパドールの美しいサロンや、中国風サロンなどがあり、豪華な家具や調度品など多くのコレクションが展示されている。

カルサ地区は、9世紀、パレルモを征服したイスラム教徒が、港に長方形の城壁「アル・カルサ」を建設して行政府を置いたことに因んでいる。ちなみに、それまでパレルモを支配していたフェニキア人は、パレルモの西から東に流れていた2本の川の間の小高い丘に城壁を築いていたが、イスラム教徒はそちらを改築し「アル・カスル」と名付けている。現在のノルマン王宮西側から、クアットロ・カンティがある交差点あたりになる。

次に、ミルト美術館から南に100メートルほど進み、東西に伸びるアッローロ通り沿いにある「サンタ・マリア・デリ・アンジェリ教会」(Chiesa di Santa Maria degli Angeli)に向かう。
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教会内に入ると、グレーと白を基調とした洗練な造りで、吊り下げられたシャンデリアの光が反射して美しく輝いている。16世紀建築で、内部は主に17世紀に改築された、ラテン十字形プランで、身廊の側面には20の礼拝堂がある。後陣には、熾天使(セラフィム)、智天使(ケルビム)が施された漆喰装飾に、1509年、バルトロメオ・ベレッタロとジュリアーノ・マンチーノが制作した栄光の聖母とアッシジのフランチェスコの大理石像が、漆喰に埋め込まれる形で飾られている。
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主祭壇には、多色の大理石に金箔と浮彫で飾られた聖餐台と、周囲に金の彫像や浮彫が施され、コリント式の大理石柱で支えられたダークブルーのドーム(頂部に十字架がある)を持つ豪華な寺院型の祭壇飾りがある。しかし、訪れた午前11時には、多くの参拝者がミサで訪れており、祭壇を近くで見学することはできなかった。

身廊の天井は木製の格子型で、それぞれの中央に金の八芒星が装飾されている。ナルテックスには、2本の黄金装飾柱が支えるオルガンを備えた聖歌隊席がある。こちらは1615年にパレルモの上院議員からの委託を受け、ラファエレ・ラ・ヴァッレが制作したもので、その後、1772年にジャコモ・アンドロニコにより修復され、フランシスコ会の紋章が追加されている。
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教会の東隣にある建物は、15世紀に貴族アバテッリスの家の邸宅として建てられた「アバテッリス宮殿」(Palazzo Abatellis)だったが、その後、修道院や教会の施設などを経て、現在は「シチリア州立美術館」になっている。こちらの美術館には、有名なアントネッロ・メッシーナの「受胎告知」が所蔵・展示されている。この日は、予約客だけのために開館していたのか、一緒に入った団体の30分ほどの見学が終わるとともに退館させられた。こちらは、通り先から振り返った様子である。
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画像出典:ウィキメディア・コモンズ (Wikimedia Commons)

アバテッリス宮殿(現:シチリア州立美術)の東隣には、「サンタ・マリア・デッラ・ピエタ教会」(Chiesa di Santa Maria della Pieta)の北身廊が続き、先の交差点に、コリント式の柱を備えたバロック様式の豪華なファサードがある。教会は、もともとアバテッリス宮殿の一部だったが、その後、ドミニコ会の女子修道会となり、1678年に、建築家ジャコモ・アマート(1643~1732)により工事が始まり1723年に完成している。
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教会内は、バロック様式特有の豪華さと重厚感漂う作りで、柔らかい自然光の影響もあり優雅さも感じられる。後陣は、建築家ニコロ・パルマが1757年に建設したもので、凱旋門には、黄金の巻物を持った数人の天使からなる漆喰の彫刻で飾れている。ヴォールト天井には、イタリアの画家ガスパーレ・セレナリオ(Gaspare Serenari、1707~1759)による後期バロック時代のフレスコ画があり、4人の預言者、信仰の勝利、聖霊が描かれている。
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後陣の壁面には、中央に、雲の上に横たわる智天使と天使に囲まれた神秘的な子羊が、左右には、智天使が王冠と大きな松明を捧げる浮彫が施されている。側面には、1690年にピエトロ・アクイラが制作した2枚の大きな八角形のキャンバス画(左に放蕩息子の帰還、右にアブラハムの祝福)が飾られている。主祭壇は、18世紀末から19世紀前半にさかのぼる新古典主義様式が採用されている。
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凱旋門の柱の下部には左側にキリスト像が、右側には聖母子像が飾られている。近年のものと思われるが、何とも安らぎを与えてくれる作品となっている。
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こちらは、ナルテックス側で、トスカーナ柱に支えられたヴォールト天井の上には、階上廊(トリビューン)がある。教会は単身廊で、南北壁面には、それぞれ3つの浅い礼拝堂があり、それら礼拝堂の間には、バロック様式の金箔を貼った木製の4つの聖歌隊席が備え付けられている。
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右側(北壁)に見える第2ベイは「サン ドメニコ礼拝堂」で、祭壇画は1787年にヴィンチェンツォ・マンノが描いたもの。聖ドミニコがドミニコ修道会の新しい習慣を修道女に与える内容となっている。そして、その左側の第1ベイは「ドミニコ会の聖人と祝福者の礼拝堂」で、画家フランチェスコ・マンノ(Francesco Manno、1752~1831)が描いたもの。祭壇画の左端で十字架を持つ人物が、近郊カッカモ出身のドミニコ会の説教者で聖人のジョヴァンニ・リッチョ(1426~1511)になる。

反対側となる南壁の第3ベイには「聖十字架の礼拝堂」になる。19世紀前半に新古典主義で作られた祭壇で、聖なる殉教者の遺物を含む28の八角形の正方形があり、花輪の金の浮彫で囲まれている。中央には18世紀のべっ甲で覆われた木製の十字架が置かれている。
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そして右隣の聖歌隊席は、ファサードを設計した、ジャコモ・アマートによるもので、下部には、中央にライオン、左右にテラモーンが支える浮彫彫刻が施されている。更に右隣の第2ベイには「ロザリオの聖母礼拝堂」がある。フランチェスコ・マンノの作品で、聖ドミニコ、聖トマス・アクィナス、教皇ピウス5世、リマのローザ、アレクサンドリアのカタリナ、マルゲリータ・ディ・サヴォイアが描かれている。

再びアッローロ通りをサンタ・マリア・デリ・アンジェリ教会まで戻り、扉口から北に伸びる路地(アプリーレ通り)を100メートル行くとマリーナ広場(Piazza Marina)(西側は、ガリバルディ庭園)となり、右側に城壁を思わせる「キアラモンテ宮殿」(Palazzo Chiaramonte-Steri)が建っている。通りに面したファサードにある大きなアーチ門は、固く閉ざされており、入口は、すぐ先のアーチ門からとなる。そのアーチ門を入ると東西に奥行のある広場となり、右手前の階段上が、キアラモンテ宮殿の入口となる(宮殿は正方形で、中央に中庭がある)。
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キアラモンテ宮殿は、1307年に、シチリアの貴族キアラモンテ家の邸宅として建てられたが、1468年にはシチリア総督の邸宅となり、シチリアの異端審問所の本拠地となっている。異端審問所とは、当時シチリアを支配していたアラゴン王フェルナンド2世(1452~1516)(シチリア国王 在位:1468~1516)が、スペイン国内に倣って設置したもので、1782年まで続いている。その後は、司法庁や王立税関事務所を経て、現在はパレルモ大学の所有となっている。

キアラモンテ宮殿の東隣で、広場の南側には、小さな鉄格子の窓がいくつか並ぶ、旧:ステリ刑務所がある。ステリ刑務所は、異端審問所の付属施設で、ほぼ3世紀にわたって運営された。ここでは、異端審問官が尋問し、収容、拷問、処刑が行われていた。処刑された中には、ユダヤ人やユダヤ人の疑いのある人々、修道士や修道女、革新者、政敵、貧しい人々などが挙げられる。
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ステリ刑務所は、1970年代に修復作業が行われ、その際、漆喰の下から、数多くの落書きが発見されたことから、当時、囚人たちが、苦しみに耐え忍んで、書き綴った証言記録として保存・公開されている。
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次に、サンタ・マリア・デリ・アンジェリ教会のファサード前まで戻り、南に150メートルほど下った、サンタ テレサ アッラ カルサ教会の先を右折して、東西に伸びるスパジモ通りを進む。人通りが少なく、壁面の漆喰の剥がれた古い建物や、道路脇には石も転がっており、夜は避けたい雰囲気である。

左側の古く趣のある建物の中央にアーチ扉があり、壁面にプレートが掲げられている。次にこちらの「サンタ・マリア・デッロ・スパジモ教会」(Santa Maria dello Spasimo)を見学する。
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扉口を入った建物の先には、陽光が差し込む中庭が広がり、その中庭を横断して南回廊のアーチを抜けると、天井のない3廊式の教会堂に到着する。中央身廊には天井がなく、後陣方向を眺めると、大きなアーチがあり、その先の中央交差部まで空洞になっている。側廊の床を突き破って伸びる枯れ木が廃墟感を増している。
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教会は、1509年ベネディクト派オリヴェート修道会により建てられたが、スペイン統治時代の1536年にパレルモ防衛を目的に、周りに砦が建設され、教会としての機能を失うこととなる。その後は、倉庫や病院として活用されたが、現在では、コンサートやイベントなどで利用されており、またライトアップのための照明が等間隔に床に配置されている。

教会の南にある広場は、修復中で、いたるところで掘り返されている。ナルテックス西隣の小さな建物の下は、アーチ橋となっており、通り抜けのための道が続いている。
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広場から望む教会堂は、南翼廊の壁の大半が崩れて、内側の交差部のアーチが見え、北翼廊の壁まで見える。横に並ぶ鉄格子の窓は、側廊の窓で天井は残っている。しかし、内陣のアーチから階段状に側壁が下がり中央身廊の天井が大きく失われているのが分かる。
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広場の南側から敷地外を眺めると、周りの建物は低い位置にある。教会堂の南側には砦らしき跡や、東側には稜堡の様に突き出た遺構も残っており、この辺りが、カルサ地区の南側の境界に位置していたことが頷ける。

スパジモ通りを西に200メートルほど行くと、右側に鉄柵で仕切られた庭園があり、その東奥に尖塔アーチの扉彫刻が並ぶ「バシリカ・ラ・マジョーネ」(Chiesa e Chiostro della Magione)のファサードがある。入口は、西側にあるバロック様式の小さな門をくぐり、庭園にある参道を歩いた先になる。こちらは、ノルマン時代の1191年に創設されたパレルモで最も古い教会の一つである。
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主祭壇は「聖十字架礼拝堂」で、周囲には、15世紀に制作されたメダリオンのフレスコ画があったが、ほぼ失われている。混合大理石の祭壇には、17世紀の十字架像が飾られ、上部には、漆喰の装飾縁を隔てて、放射状の光輪を背景に智天使を配した聖霊の浮彫パネルが飾られている。

バジリカの北側には、隣接して中庭を持つ回廊があり、美しく並ぶ尖塔アーチを双頭の柱が支えている。回廊の壁面には、ルネッサンス様式のフレスコ画がうっすらと残されている。
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時刻は午後4時を過ぎ、日が陰ってきた。今日は、スタート地点のミルト美術館からメルロ通りを西に160メートル行った突き当りの広場に建つ「アッシジのサン フランチェスコ聖堂」(Chiesa di San Fracesco d’Assisi)を見学して終えることにする。聖堂は1277年に建設され、その後幾度かの改修を経て、1823年、地震被害を受けた後、新古典様式(ネオクラシック)で修復されている。しかし、第二次世界大戦での空爆により大きく被害を受けたことから、建設当時のゴシック様式に戻されて現在に至っている。
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教会内部は3廊式で、中央身廊には美しい木製の船底天井があり、内陣の凱旋門アーチからは、近代制作の「十字架像」が吊り下げられている。後陣には、木製の聖歌隊席と、パイプオルガンがあり、祭壇は磔刑像が飾られた黄金祭壇となっている。そして、身廊を支えるアーチの柱の周りには、パレルモ出身の彫刻家ジャコモ・セルポッタが1723年に制作した8体の寓意像が飾られ、側廊には16の礼拝堂がある。
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教会はアッシジのフランチェスコによって始められたフランシスコ会の修道院が始まりで、その後は、何度も改築されている。しかし、無所有と清貧を主張したフランシスコ会の精神は生かされており、華美な装飾は抑えられ、落ち着いた雰囲気は継承されている。左後陣には、「聖フランチェスコの礼拝堂」がある。最初の礼拝堂は1475年に建設されたが、現在のものは17世紀に改修されたもので、混合大理石や象嵌細工のねじれた2本の柱で装飾されている。

そして、右後陣には「無原罪の聖マリア礼拝堂」がある。聖フランチェスコの礼拝堂と同じく、ねじれた2本の柱で装飾されている。1772年にヴィート・ダンナ(Vito D'Anna)により制作されたもので、ティンパヌム上部にはイグナツィオ・マラビッティによる天使像の装飾が施されている。
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祭壇の左右には、18世紀初頭のジャン・バティスタ・ラグーザ(Giovanni Battista Ragusa)制作の彫像が飾られている。パレルモの守護聖人として、向かって左側が、オリヴィア、ニンファ、ロザリア、アガタ、右側がフィリポ、パレルモのマミリアーノ、アガト、セルジオになる。

午後8時半に、昨夜に引き続き、旧市街にある「リストランテ・ガジーニ(Gagini)」に食事にやってきた。アンティパストは、エビの刺身を頼んだ。
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プリモ・ピアットは、ラビオリを頼んだ。最後にドルチェをいただき、エスプレッソで食事を終えた。通常とは異なる年末メニューだったが、新鮮さと洗練された味わいは、今夜も素晴らしく、納得できる美味しさだった。
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翌日、ポリテアマ劇場(Teatro Politeama Garibaldi)の真向い(南)にあるホテル・ガリバルディ(Hotel Garibaldi)で朝を迎える。ルッジェーロ・セッティモ広場からホテルの写真を撮っていると、パレルモ観光バスが停車しているのが見える。このバスは、2種類の市内観光コースがあり、ここホテル・ガリバルディ前を起点としている。
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最初に、ホテルそばから、108番バスでノルマン王宮の西側、インディペンデンツ広場(Piazza Indipendenza)まで行き、そこからバスを乗り換え、再びモンレアーレ大聖堂に行く。一昨日は、夕方からの見学であったため、今日は午前中訪問のリベンジである。バスは40分程で到着し、聖堂内を2時間ほど、モザイク壁画を中心に見学して、帰りはタクシーに乗りノルマン王宮に戻った。

ノルマン王宮は、パレルモの旧市街の中では最も高台に位置している。ノルマン王宮は、1130年に初代のシチリア王(ノルマン朝)となったルッジェーロ2世(1095~1154)が、王国誕生を記念して、アラブの城塞「アル・カスル」を改築して建築したもの。建設当時は、住居、塔、謁見室、礼拝堂は別々の建物であったが、16世紀後半スペイン統治時代には、現在の一つの建物になっている。1947年からは、シチリア州議会として用いられている。
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館内に入り、最初にノルマン王宮内部の「ヘラクレスの間」から見学する。この部屋は、1947年以来シチリア州議会場として使われている。壁面や天井には、1799年、ブルボン王フェルナンド3世の依頼を受けて、画家ジュゼッペ・ベラスコ(1750~1827)により「ヘラクレスの十二の功業」が描かれている(こちらは天井の様子)
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こちらは、16世紀後半に造られ、スペイン総督の名前にちなんで「マクエダの中庭」と呼ばれる回廊で、周りを3階建てでエレガントで繊細な円柱のアーチが続いている。左側2階の壁面には、アラゴン王フェルナンド2世(1452~1516)治世に制作されたモザイク画がある。ダビデとアブサロムの物語が主題で、このモザイク画の下の扉がパラティーナ礼拝堂への入口となる。
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パラティーナ礼拝堂は、1132年にルッジェーロ2世の命により、1080年頃に建設された古い礼拝堂(現在の地下室)の上に建てられた。聖ペトロに捧げられ、8年を要して1143年に完成したが、身廊のモザイク画は部分的にしか完成しなかった。礼拝堂は、3廊式、3つの後陣を持つプランで、モンレアーレ大聖堂と比較するとかなり規模は小さいが、これはノルマン王家のプライベートチャペルだったためともされる。
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内陣中央部のルネットには、左側にガブリエルが受胎を告知する場面、右側にマリアがガブリエルからのお告げを受ける場面がある。後陣のアプスには、右手で祝福を示し、左手には福音書を持つパントクラトールが、その下には、玉座に就く聖母、左側に使徒ペテロとマグダラのマリア、右側に洗礼者ヨハネと使徒ヤコブがモザイク画で表現されている。

ドームには、ミカエル、ガブリエルを始め8人の大天使に囲まれたキリスト・パントクラトルがモザイク画で表現されている。その下には、イザヤ、エレミヤ、エゼキエル、ヨナ、ダニエル、モーセ、エリヤ、エリシャの8人の預言者(上半身姿)が、キリストの到来を示す巻物を持っている。モザイク画は、他にも、身廊アーチ、カウンターファザード上部、側廊のマリオン窓ラインに施されている。
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内陣階段の手前の右側廊(後陣に向かって右側)には、異なる浮彫が施された4本のコリント式の柱で支えられた大理石の説教壇がある。その説教壇の周囲は、幾何学文様のモザイク(象嵌細工)の装飾で飾られている。同様のモザイクは、礼拝堂内の床や左右の側壁、階段、カウンターファサードに置かれた王座などの大理石に施されており、これをコズマーティ様式(イスラムとビザンチンの融合した様式)と呼んでいる。
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説教壇のそばには、身廊アーチを支える柱と、隣に高さ4メートルほどの大理石で作られた復活祭用の蝋燭立てが並んでいる。こちらは、鍾乳石か蝋が垂れている様な複雑な浮彫装飾でモカラベ様式と呼ばれている。
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蝋燭立の頂上部には4体の人物が彫られている。アカンサスの葉先に立ち、身体をやや左に向けた不安定な姿勢で蝋受け皿を支える細かさは凄い。
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身廊の天井は、ムカルナス様式と呼ばれ、イスラム建築で使われる持ち送り構造の装飾の一種で、多くは、煉瓦や石だが、こちらは木製で制作されている。現存する最古の木製ムカルナスとされ、ルッジェーロ2世の息子で、第2代国王グリエルモ1世が、身廊のモザイク完成後にファーティマ朝の職人に命じて制作させたと言われている。
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画像出典:ウィキメディア・コモンズ (Wikimedia Commons)

いくつかの対称軸を持つ木製の部品が、何層にも蜂の巣状に組み合わさり幾何学的な層を形成している。中央部には、2つの正方形を重ね合わせて造られた八芒星が10づつ2列で配列されている。

次に、王宮前から、104番のバスに乗り、ポルタ・ヌォーバ(ヌォーバ門)を越え、ヴィットーリオ・エマヌエーレ通りを1キロメートルほどパレルモ港方面に進みマクエダ通りを右折したバス停で下車する。正面(東側)にあるベッリーニ広場を進んでいくと右側に三つの赤いクーポラが印象的なノルマン様式の「聖カタルド教会」(Chiesa di San Cataldo)がある。グリエルモ2世の宰相マイオーネ・ディ・バーリにより、1160年に建てられた。その後、18世紀後半から約100年間、郵便局として使用されていた。
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聖カタルド教会の左側(東)に隣接するのが「マルトラーナ教会」(Chiesa della Martorana)になる。1143年、ルッジェーロ2世の宰相で海軍提督のジョルジォ・ダンティオキアによりビザンティン建築の教会として建てられたことから「海軍提督の聖マリア教会」(Santa Maria del l' Ammiraglio)」と呼ばれた。

ジョルジォは、アンティオキア生まれ、アラビア語とギリシャ語に堪能で航海術にも優れていたことからルッジェーロ2世に宰相として抜擢され活躍した人物。亀の様に聖母に跪いて教会を献納する人物がジョルジォ。この地からは港を見渡すことができ、まさに海軍提督の教会にふさわしい場所だったのだろう。

しかし15世紀には、ベネディクト派修道院の所有になり、修道士の名前にちなんで「マルトラーナ教会」と呼ばれるようになった。その後も改築と増築が繰り返され現在のアラブ・ノルマン様式、カタロニア・ゴシック様式、バロック様式の3様式が混合する姿となっている。内部には12世紀のビザンチン様式の金地モザイクが残っており、中でも有名なものに、キリストに戴冠されるルッジェーロ2世がある。
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マクエダ通りの右側(東側)には、プレトリオ広場があり、中央に円形の「プレトリア噴水」(Fontana Pretoria)がある(クアットロ・カンティのすぐ南側に位置)。1554年にスペイン貴族のフィレンツェ別荘のために、彫刻家フランチェスコ・カミリアーニにより制作されたが、その後、パレルモ市が買い取り、1581年に息子カミッロ・カミリアーニにより、こちらに設置された。神々の像は、ほとんどが裸のため、敬虔なキリスト教徒からは「恥の広場」とも呼ばれた。
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プレトリオ広場の東側には、16世紀後半に建てられたサンタ・カテリーナ教会(Chiesa di S. Caterina)のドームが、この時間、夕陽に照らされて美しく輝いていた。

午後4時を過ぎ、最後に、ヴィットーリオ・エマヌエーレ通りを、再びノルマン王宮方面(西)に歩いて戻り、通り右手にある「パレルモ大聖堂」(Cattedrale di Palermo)にやってきた。1184年、第3代国王グリエルモ2世治世に、パレルモ大司教グァルティエロ・オッファミリオによりイスラム教徒のモスクを改築しシチリア・ノルマン様式で建てられたが、その後、度重なる改築工事によりゴシック、カタロニア、バロック、ネオクラッシック様々な様式が織り交ぜられている。
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1781年から1801年にかけての改築が最も大規模なもので、建築家フェルディナンド・フーガによりバシリカ様式からラテン十字形に変更されドームも加えられた。手前の広場に建つ彫像はパレルモ守護聖人の聖ロザリアの像である。

南入口となる切妻屋根のポルチコは、1426年にアラゴン王アルフォンソ5世(1396~1458)の戴冠式を記念して建設されたもの。
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西側にあるファサードには、左右に鐘楼がある。そして、通りの向かい側には、大司教宮殿と修道院(現:司教区博物館)の大きな鐘楼があり、2本の尖塔アーチが通りを横断して支えあっている。
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南入口となる切妻屋根のポルチコのティンパヌムには、幾何学的な螺旋と花の装飾を背景に、中央に「父なる神」と左右に「受胎告知」の場面が浮彫で表されている。
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ポルチコ内部の入口アーチ部分にも繊細で幾何学的な浮彫装飾が施され、入口頂部に13世紀制作の聖母子のモザイク画が飾られている。建造当初、聖堂内は、黄金のモザイクで輝いていたが、改築毎に徐々に取り払われ、現在はこちらの聖母子のみが残っている。そして、左右側面の壁には18世紀のブルボン、サヴォイア王朝の戴冠式の記念碑などが飾られている。

大聖堂の内部はシンプルな新古典様式となっている。北側の6番目のベイには、18世紀の無原罪の御宿りの銀製の模像が収められた「無原罪懐胎の礼拝堂」がある。そして、中でも注目は、翼廊の南側にある「聖ロザリアの礼拝堂」で、1631年から1637年の間に造られたシチリアのバロック様式の最高峰と言われる銀製の聖遺物が納められており、毎年聖ロザリア祭の7月14日の夜に大聖堂から運び出され、宗教行列が行われている。

聖堂入口を入ったすぐ右側廊にある「皇帝と王の霊廟」と名付けられた礼拝堂には、パレルモを統治してきた歴代ノルマン王家の大きな棺が安置されている。正面左手にある赤い大理石の棺が、神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世(シチリア王フェデリーコ1世)(1194~1250)の墓になる。他にも彼の最初の妻コスタンツァ2世、父ハインリヒ6世、母コスタンツァ、祖父ルッジェーロ2世などの石棺が安置されている。
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フリードリヒ2世は、ローマ教皇インノケンティウス3世を後見人としてパレルモで育ち、成人してシチリア王、1212年にドイツ王、1220年に神聖ローマ皇帝となったが、本拠地となるドイツには9年間滞在しただけで、ほとんどをパレルモ王宮で過ごしている。晩年は、教皇派と皇帝派の対立を背景にイタリア都市との戦いに明け暮れ、1250年イタリア・プーリアの地で病死している。スイスの歴史家ブルクハルトは、キリスト教的世界観にとらわれず、合理的な政策で政権運営を続けた彼を「最初の近代的人間」と評価している。

宝物殿には、フリードリヒ2世の最初の妻コスタンツァ2世の宝石をちりばめられた見事な王冠が保管されている。納骨堂(Cripta)は宝物殿の中から入ることが出来る。階段を下に降りると、円柱列に支えられた二廊式の広い納骨堂があり、ローマ時代の石棺やアントネッロ・ガジーニ(1478~1536年)の浮き彫りが施された棺を見ることができる。
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午後5時半に聖堂を出ると、辺りは暗くなっていた。
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ホテルに戻って来ると、ポリテアマ劇場のあるルッジェーロ・セッティモ広場の特設舞台では、カウントダウン・ライブが行われており、多くの人で賑わっていた。
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(2012.12.30~31)
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シチリア(その6)

2013-05-01 | イタリア(シチリア)
モンレアーレ(Monreale)(王の山)にある「モンレアーレ大聖堂」にやってきた。モンレアーレは、パレルモ市内から南西方向に約4キロメートル離れたパレルモ県の都市で、標高765メートルのカプート山(Monte Caputo)から続く丘陵地(310メートル)に位置している。こちらは、その大聖堂のファサードに面した「グリエルモ2世広場」(Piazza Guglielmo II)で、この時間、華やかに飾り付けられた馬車が停まっていた。
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モンレアーレまでは、パレルモからSS186号線(モンレアーレハイウェイ186(パレルモとパルティニーコを結ぶ高速道路))で、すぐ到着できるが、今朝は、南海岸沿いのメンフィを発ちセリヌンテで観光したことから、パレルモと逆になる西側のパルティニーコ(Partinico)からSS186号線に乗ることになった。そのパルティニーコからは、東に20キロメートルほどの距離だが、途中2か所あるトンネルのうち1か所が通行止めだったことから、麓の村に大きく迂回して到着は午後3時半となった。

モンレアーレ大聖堂は、1174年、シチリア王国(ノルマン朝)第3代国王グリエルモ2世(在位:1166~1189)(1153頃~1189)の命により聖母マリアに捧げる教会として建設が開始され、1182年に完成している。ファサードのロッジアと左右の鐘楼は、18世紀に加えられたものだが、左の鐘楼は未完成のままとなっている。
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その、ロッジア内の内側中央には、1186年制作のブロンズの扉がある。ロマネスクの名匠ボナンノ・ピサーノによるもので、42の聖書の場面が浮彫で表現されている。向かって、左から右へ、そして下から上へと順次図像は進んで行く。下から6段目までが旧約聖書、7段目からは新約聖書のエピソードとなっている。
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こちらはブロンズの扉の下部を拡大したもので、最下段(ライオン、グリフォン、グリフォン、ライオン)、2段目(アダムの創造、イブの創造、エデンの園のアダムとイブ、原罪)、3段目(罪の宣告、女性から男性への服従、イブの妊娠、カインとアベル)、4段目(兄弟殺し、ノアの箱舟、ノアがブドウを栽培する、アブラハムと3人の天使)と図像が続いている。
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5段目(イサクの犠牲、アブラハムとイサクとヤコブ、二人の預言者、二人の預言者)、6段目(二人の預言者、二人の預言者、二人の預言者、二人の預言者)、7段目(受胎告知、エリザベト訪問、降誕、東方の三博士)、8段目(幼児虐殺、エジプトへの飛行、神殿奉献、洗礼)と続く。
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9段目(キリストの誘惑、ラザロの復活、エルサレムの入場、キリストの変容)、10段目(最後の晩餐、ユダの接吻、磔、キリスト降架)、11段目(復活、私に触れるな、エマオの晩餐、昇天)、最上段には、左扉に栄光の聖母マリアが、右扉に栄光のキリストが表現されている。
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ファサードに向かって左側(北側廊)にあるロッジア内の扉口から聖堂内に入ることができる(手前はエマヌエーレ広場)。しかし、日の入りが近づいていることから、明るいうちに見どころの一つ、かつてベネディクト派の修道院が併設していた「回廊付き中庭」を見学することにした。聖堂の南側にあることから、入口はファサードに向かって右側となる。
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その、回廊付き中庭は、直径47メートルの正方形プランで、800年以上を経過しているものの、修復が何度か行われており保存状態はかなり良い。2本1組の白大理石の柱が幾何学模様が施された尖頭アーチを支えている。柱には未装飾のもの、アラベスクが刻まれたもの、モザイクの象嵌細工が施されたものなど計228本から構成されている。柱頭は主に、旧約聖書と新約聖書の聖書の場面で飾られている。

回廊の南西角には、水盤を取り囲むように造られた正方形の小回廊がある。中央には噴水があり、修道士が手を清めるために使用したと考えられている。
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画像出典:ウィキメディア・コモンズ (Wikimedia Commons)

小回廊を形成する2本1組の円柱には、山路文様に黒と金のテッセラで六芒星が型どられた象嵌細工で、光があたるとキラキラ輝いて見え、古さを感じない。そして、柱頭には人物や鳥の浮彫が施されている。中庭に張り出す角の円柱は4本1組で構成されており、全ての柱全体に繊細な浮彫が施されている。
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それぞれ、アラベスクと共に、ライオン、野獣、人間、動物、魚、カエル、トカゲなど、さまざまなモチーフの浮彫が隅々まで施されている。
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この小回廊の脇から、仰ぎ見ると、北側にファサードの右鐘楼が見える。そして、遠景はカプート山になる。
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2本1組の円柱は、未装飾のものと、装飾されたものが、概ね交互に並んでいる。こちらは、象嵌細工が施されたもので、横方向に山路文様が彫られ、金のテッセラが輝いている。八芒星で型どられ、周りに青、赤、黒のタイルがはめ込まれている。特に青(ターコイズブルー )はイスラム様式のタイルの影響を受けている。
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回廊の角に建つ円柱は、小回廊の角と同じく4本1組の円柱で構成されている。どの柱もやはり、アラベスク、人間や動物のモチーフが細かく施されている。
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次に、柱頭をみていく。西側に、こちらの回廊を代表する柱頭がある。グリエルモ2世が、天使に導かれ、大聖堂を聖母子に捧げる姿が表現されている。
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グリエルモ2世は、内紛が絶えなかった時代に、父で前王のグリエルモ1世(在位:1151~1166)が他界したことから、わずか12歳で母后マルゲリータ・ディ・ナヴァッラを摂政として、シチリア王国の第3代国王として即位している。彼は、数か国語に通じ、教養豊かな才能を持ち、かつ温厚で寛容・敬虔な君主であった。

グリエルモ2世が、既にパレルモ大聖堂があったにもかかわらず、モンレアーレに同規模の教会を建設したのは、政局が比較的安定し文化面に力を入れることができ始めたシチリア国内の事情と、王に匹敵するほどの権力を有していたパレルモ大司教グァルティエロ・オッファミリオに対抗するためと言われている。工事は秘密裡に進められたが、完成後は、パレルモ近郊の多くの教会が管轄下に移行している。

こちらの柱頭は、旧約聖書から、ソロモン王とシバの女王になる。シバの女王はシバ王国の支配者で、ソロモンの知恵を噂で伝え聞き、自身の抱える悩みを解決するためにエルサレムのソロモン王を訪問した。その来訪には大勢の随員を伴い、大量の金や宝石、乳香などの香料、白檀などを寄贈したとされる。
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同じく旧約聖書から、サムソンの物語になる。サムソンは、古代イスラエルの士師の1人で、怪力の持ち主として有名。ある時、サムソンはデリラという女性を愛するが、ペリシテ人は、デリラを利用してサムソンの力を失わせ、目をえぐり出して見世物にした。しかしサムソンは神に祈って力を取り戻し、繋がれていた二本の柱を倒して建物を倒壊し、多くのペリシテ人を道連れにして死んでしまう。
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新約聖書から、こちらは聖母マリアのエリザベト訪問になる。大天使ガブリエルから、従姉妹のエリザベトも、男の子を身ごもっていることを聞いたマリアは、ユダの町に行き、ザカリアの家のエリザベトを訪問する。 抱き合う二人が、マリアとエリザベトである。
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新約聖書からは、東方三博士の礼拝や、ヨセフの夢などの柱頭もある。

こちらは、「キリストの奇跡」を表わしてエピソードの一つで、マルコによる福音書では、シナゴーグ会堂長ヤイロの娘は病気で死んでしまったが、ヤイロ宅を訪れたキリストの「なぜ、泣き騒ぐのか。子供は死んだのではない。眠っているのだ。さあ起きなさい。」との言葉により甦った。
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こちらは「キリストの復活」を表わしている。向かって右端に兵士が眠っているが、既に、キリストは復活して立ち去っている。椅子に腰かけた天使がキリストが復活したことを、左側のマグダラのマリア一行に示唆する様子が表されている。マタイによる福音書では、地震が起き、天の使いが降りて、キリストの墓の入口を塞いでいた大きな石を転がすと、その天使を見た番兵たちは恐ろしさのあまり、死人のようになったとある。
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こちらの柱頭には、膝に手をあて周りを睨みつけるかのような人物が表現されている。背後の装飾は花びらだろうか、細かく彫刻されている。
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他にも、山羊を捕まえる男たち、水を飲む二羽の鳥と裸の男フクロウと人面鳥を抱きかかえる人々狩りと兵士たちトリトンと人間など、寓意像などの柱頭も多く見られる。

聖堂内へは側廊(北側)の扉から入る。聖堂は、ラテン十字プランだが、身廊は幅広で、左右に狭い側廊を持つバジリカタイプである。内陣は身廊より2段上にあり、左右側面には、ネオゴシック様式の木製の聖歌隊席が2列並び、背後にオルガンを備えている。そして、その聖歌隊席の後方が、わずかに突き出た翼廊になる。後陣は正教会建築を思わせる構造で、左右に側廊を持ち、東端にそれぞれアプスを備えている(三つ葉型アプス)。
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後陣を支えるアーチの下には、主祭壇に向かって左側に王座、右側に司教座がある。そして、その先の主祭壇は、豪華な銀細工が施されており、1771年ローマの銀細工師ルイジ・ヴァラディエがバロック様式で制作したもの。装飾は聖母の生涯を主題とし、上には十字架を中心に6人の聖人が飾られている。

13メートル×7メートルの後陣アプスには、金色を背景に、パントクラトル・キリストの胸像「万能のキリスト」が描かれている。赤と金のストール(王族の色)に、青いマント(神性の色)で包まれたキリストは、壮大さと厳格さを示すように、右手で祝福の仕草をし、左手に「わたしは世の光である。わたしに従う者は、暗闇の中を歩まず、いのちの光を得る」との一節が書かれた福音書を持っている。
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キリスト像の下の段には、金色を背景に、左から右へ、ヨハネ、フィリポ、バルトロマイ、ルカ、ヤコブ、ペテロ、大天使ミカエル、玉座に座る聖母子、大天使ガブリエル、パウロ、アンデレ、福音記者マルコ、トマス、シモン、マタイと続く。
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さらにその下の段には、左から右へ、マルティヌス、アガサ、聖アントニオ修道院長、ブラシウス、最初の殉教者ステファノ、アレクサンドリアのペテロ、クレメント、シルベストロ、カンタベリーのトマス、ローマのラウレンティウス、ポワティエのヒラリウス、ヌルシアのベネディクトゥス、マグダラのマリア、ミラのニコラオスと続いている。
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アーチの天井の頂部には、受難の道具と聖霊の鳩を配した、キリストが最後の審判の日に座る王座があり、周囲には、6枚の翼を持つ智天使と熾天使、そして2枚の翼を持つ大天使が描かれている。
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こちらは、後陣アーチの真下から見上げた様子で、右側のアーチの先が後陣の側廊で、左側のアーチの先が北翼廊となる。北翼廊には、「カルバリーへの登山」、「磔刑」、「十字架からの降下」、「キリストの復活」、「トマスの不信」、「昇天」、「聖霊の降臨」などの「キリストの受難」を主題としたモザイク画が展開されている(南翼廊はキリストの降臨を主題としている)。
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ちなみに、木造天井は、1811年の大火災後に、修復されたもので、現在は、アラブ風の幾何学模様や多色装飾が施された美しい姿を見ることができる。

そして、その後陣アーチの北側下部(王座の上)には、見どころの一つ「キリストによって加冠され祝福を受けるグリエルモ2世」のモザイク画がある。
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対して、南側の下部(司教座の上)には、「聖母に聖堂を捧げるグリエルモ2世」のモザイク画がある。君主のグリエルモ2世は、ダルマティック(儀式の際に身に着ける正式な外衣)姿で、大聖堂の模型を持って聖母の前に跪いており、対する聖母は、青と茶色のローブを身にまとい、宝石で覆われた玉座に堂々と座って、この特別な贈り物に手を添えている。上空には、2人の天使と、全能神の手がこの様子を祝福している。
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画像出典:ウィキメディア・コモンズ (Wikimedia Commons)

グリエルモ2世は、シチリア王国がノルマン朝において、多文化が交流する国際都市として最も繁栄したことを、前例のない規模の華麗な装飾で示そうと、地元の多くの労働者を東ローマ帝国(ビザンチン)で訓練を受けさせ、モザイク制作に当たらせた。聖堂内には、6300平方メートルもの黄金のモザイク装飾が壁面を覆っており、現存する教会の中で、世界一といわれている。

まもなく午後4時半になり、日の入りが近づいてきているので、モザイク画の見学は後ほどにして、取り急ぎ、屋上テラス(Terrazza)からの眺望を楽しもうと、右側身廊にある扉口から向かった。

狭い階段を登って、身廊の上のすれ違いできそうにないほどの細い通路を歩いていくと、まもなく目の前が広がりテラスが現れる。こちらは、南側を眺めた様子で、回廊を支える円柱が整然と並んだ姿は凛とした美しさがある。
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中庭は、古くは薬用植物が栽培された菜園だったと伝わるが、痕跡はない。現在は、希少性のあるソテツを中心に、それぞれ象徴的な木、南西に黙示録からナツメヤシ(正義)、南東にエデンの園を象徴してイチジク(平和と繁栄)、北東にソロモンの歌からザクロ(大地の豊穣)、北西にゲッセマネの寓話からオリーブ(平和と希望)が植えられている。

視線を少し右方向に移すと、回廊の西南角に小回廊が見える。向かい側に見えるヤシの木は、大聖堂のファサードが建つ「グリエルモ2世広場」南面にある「郵便局入口」をくぐり抜けた中庭公園に植えられている。ちなみに、中庭公園を超えて進んだ展望庭園からは、パレルモ市内を一望することができる。
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次に、東の後陣方向に向かい、階段を上って行く。階段を上り詰めた尖塔からはパレルモの街並みと地中海が見渡せる。左手にはカプート山の裾野が見える。
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東南を眺めるとこちらにも山が見える。パレルモ市内は、左右を山に囲まれる扇状地に広がっているのがわかる。
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さて、再び聖堂内に戻り、身廊に施されたモザイク画を中心に見学する。こちらのナルテックスは、黄金の美しいモザイク画で装飾されている。上段のマリオン窓の左右には「イブの創造」と「アダムとイブの出会い」があり、中段の左右には「ロトと二人の天使」、「聖カッシウス」、「ソドムの滅亡」と2段にわたり旧約聖書が主題となっている。そして、下段のポータル(ルネット)の「聖母子」を挟んで、左から右に、「パンと魚の増殖」、「カストロとカストレンセの殉教」、「カストレンセの奇跡」と新約聖書が主題となっている。
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ナルテックスの上段(マリオン窓)と中段は、南身廊アーチの左端(上)の創世記「天地の創造」をスタートとする。左から右へと続き、右端(上)の「地上の楽園のアダム」の後に、ナルテックスの「イブの創造」、「アダムとイブの出会い」に至る。
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次に、北身廊アーチの左端(上)の「蛇に誘惑されるイブ」から、「地上の楽園からの追放」、「アベルの殺害」と続き、右端(上)の「ノアは箱舟を造るよう命じられる」に至る。そして、南身廊アーチの左端(下)の「箱舟の建設」から、右端(下)の「アブラハムのおもてなし」へと続き、ナルテックス中段の「ロトと二人の天使」、「聖カッシウス」、「ソドムの滅亡」に至る。

更に、北身廊アーチの左端(下)に移り、「主はアブラハムにイサクをいけにえるように命じられる」から、「イサクの犠牲」、「リベカの旅」、「イサクとエサウ」などと続き、右端(下)の「ヤコブと天使の戦い」で終わる。以上の様に、身廊アーチのモザイクは、上下2段に分けられ、身廊を2周することで、旧約聖書の物語を体感できる構成となっている。
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ナルテックスの下段の新約聖書を主題としたモザイク画については、南北の壁面に展開している。まず南壁の左端に「憑依者の癒し」があり、「ハンセン病患者の癒し」、「関節炎の治癒」などと続いている。
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「関節炎の治癒」の次に「波から救われた聖ペテロ」、「やもめの息子の復活」と続き、「出血の治癒」となる。ラテン語で、「血が流れた女性がイエス・キリストの衣服に触れ、自ら癒される」と書かれている。
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南壁の右端は、「聖ペテロの義母の癒し」で、ナルテックスの下段、ルネットの「聖母子」を挟んだ「パンと魚の増殖」、「カストロとカストレンセの殉教」、「カストレンセの奇跡」に至る。

更に、北身廊アーチを隔てたナルテックス右壁には「腰の曲がった女性の癒し」があり、北壁の左端には、上部に、ラテン語で「キリストは安息日にファリサイ派の指導者たちの家の水腫を癒す」と書かれた「水腫の治癒」のモザイク画がある。
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北壁の左端の「水腫の治癒」から、右方向に、「10人のらい病人の癒し」、「2人の盲人の癒し」、「キリストは神殿から冒涜者を追い出す」、「キリストと姦淫の女」、「麻痺者の癒し」、「足の不自由な人や盲目の人を癒す」、「マグダラのマリアがキリストの足に油を注ぐ」と続いている。
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こちらが「足の不自由な人や盲目の人を癒す」と「マグダラのマリアがキリストの足に油を注ぐ」の場面になる。以上の様に、側廊となる南北の壁面には、新約聖書からの「キリストの奇跡」が主題となっており、併せて、南壁にはペテロ伝が引用され、北壁にはパオロ伝が引用された構成となっている。
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左後陣に隣接し、北側の壁に「十字架の礼拝堂」の入口がある。こちらの礼拝堂は、イベリア半島にインスピレーションを受け、豪華なシチリア・バロック様式として1686年に制作された。聖書におけるキリストの犠牲のエピソードを中心に、天使、動物、怪物など寓意的なモチーフを、ねじれた柱、混合大理石や木材などの象嵌細工を駆使して表現されている。中央には、ジェシーの木を背景に磔刑像の木製浮彫祭壇が納められている。
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礼拝堂の周囲には、大理石職人の名匠ジョヴァン・バティスタ・フェレーラとバルダッサーレ・パンピロニアによって1688年頃に完成された預言者の像が飾られている。左側がエレミアで、右側がエゼキエルになる。他に、ダニエル、イザヤの彫像がある。
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シチリア王国(ノルマン朝)第3代国王グリエルモ2世はイギリス国王のヘンリー2世の王女ジョーン(1165~1199)と結婚したが、1189年、世継ぎに恵まれないまま、36歳で病死し、こちらのモンレアーレ大聖堂に埋葬された。

南翼廊(パイプオルガンの裏側)には、前王グリエルモ1世(ノルマン朝初代国王ルッジェーロ2世の息子)と、グリエルモ2世のお墓がある。内陣に向かって左側が、グリエルモ1世の斑岩大理石の石棺で、右隣が、グリエルモ2世の大理石の石棺になる。石棺は、1500年にルネッサンス様式で制作されたもので、それまでのお墓は、主祭壇の足元にあった。石棺の表面には、ラテン語で王の業績が記録されている。グリエルモ2世の死により、シチリアにおけるノルマン王朝の支配は終焉を迎えることになる。
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時刻は午後5時になり大聖堂を後にし、パレルモ市内に向かった。今回は、見学時間が短かった上、夕方だったため、室内光が当たっていない箇所は暗くて見辛かったのが、少し残念だった。それでも、輝く黄金のモザイク装飾の美しさ、荘厳さには大変圧倒された。

今夜の宿泊ホテル(Hotel Garibaldi)は、パレルモ新市街を南北に延びるリベルタ大通り南側にある「ポリテアマ劇場」(Teatro Politeama Garibaldi)の南隣になる(正面に向かって右隣)。今夜の夕食場所は、ホテルから、南東方向に約1.5キロメートルほど先の旧市街の旧港近くになるが、予約時間まで、時間があることから歩いていくことにする。
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ポリテアマ劇場は、1874年に新古典主義建築で完成した劇場で、西側のルッジェーロ・セッティモ広場に面している。正面に凱旋門の玄関を持ち、門の上には躍動感のあるクアドリガ(四頭立て二輪馬車)が飾られている。彫刻家マリオ・ルテッリ(1859~1941)がブロンズ像で制作したもので、この時間は、ライトアップにより神々しい姿を見せてくれる。

リベルタ大通りは、ルッジェーロ・セッティモ広場から、ルッジェーロ通りになる。高級ブティックやブランド店が並ぶその通りを南に500メートルほど歩いて行く。
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カヴール通りとの交差点の右先に「パレルモ・マッシモ劇場」が見えてくる。ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世(1820~1878)(サルデーニャ王国の最後の国王で、後のイタリア王国の初代国王)に捧げられた歌劇場(オペラハウス)でベル・エポック時代を象徴する建物となっている。建設は1874年に始まり、8年間中断を経て1897年完成している。オペラハウスとしてはイタリアでは最大であり、ヨーロッパではパリのガルニエ宮(オペラ座)、ウィーン国立歌劇場に次いで3番目に大きい。今月は、バレエ公演「くるみ割り人形」が開演されており、こちらは、そのフィナーレの様子である。
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マッシモ劇場は、フランシス・フォード・コッポラ監督作品「ゴッドファーザーPART III」(1990年)で、マフィアのボスとして絶大な権力を握ったマイケル(アル・パチーノ)の晩年、息子がオペラ歌手デビューするシーンで使われた。そして、息子アンソニーの晴れ舞台を見終え、正面の階段でマイケルを狙った弾がそれて娘メアリー(ソフィア・コッポラ)に当たり、マイケルが泣き叫ぶシーンは、あまりにも有名である。

マッシモ劇場のファサードを過ぎると、お店が立ち並ぶショッピングストリートになり、すぐ先の五差路から斜めに延びる道を南東方向に歩いて行く。摩耗した石畳が続く狭い路地を300メートルほど進むと、目の前が開け、南北に延びるローマ通り向かい側に、サン・ドメニコ教会(San Domenico)のバロック様式のファサード(1726年再建)が現れる。
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更に、サン・ドメニコ教会の南側から、東南方面への古いアパートメントがひしめき合うように立ち並ぶ細い通りを進むと、視界が開け、小さな噴水のあるガラフェッロ広場(Piazza Garaffello)になる。この先からラ・カーラ港(パレルモの旧港)に通じるカッサリ通りとなり、通り左側に、目的のリストランテ「ガジーニ」(Gagini)がある。


こちらのリストランテは、もともと、彫刻家アントネッロ・ガジーニ(Antonello Gagini, 1478~1536)のスタジオを改装した建物で、イタリア系ブラジル人シェフのマウリシオ・ジッロ氏が、全てシチリア産の食材を使い、個性的な料理(クリエイティブ地中海料理)を振る舞うことで知られている。高級店だが、カジュアルな雰囲気で人気が高い。
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アンティパストはホタテ料理。かなり焼き目をつけた表面にキャビアがトッピングされている。ホタテのカリカリ感と肉厚で新鮮な柔らかい部位とのコントラストが素晴らしい一品。
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飲み物は、白ワインのグリッロ(Grillo)である。グリッロは、シチリアの代表的な品種で、柑橘系の爽やかな香りが、魚介料理に良く合う。
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プリモ・ピアットは、イカとベーコンのスパゲッティになる。
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セコンド・ピアットの魚は、本日の魚料理で、マグロとかメカジキ系の赤身の魚だった。
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セコンド・ピアットの肉は、鴨のローストで、泡ソース、付け合せのナスになる。
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店内は、多くの客でにぎわっていた。旧港の市場までは、東に100メートルほどであることから、魚介類は新鮮で、その日に水揚げされたものが使用されている。料理は、肉も野菜も含め、創作的な発想のレシピもあり、従来のシチリア料理のイメージを超えた洗練さを兼ね備えており大変美味しかった。今日は、長距離移動もあり、午後9時からの遅い夕食となったが、ドルチェと、エスプレッソをいただくころは、午後11時に近かった。


時間も遅いので、狭い通りを避け、すぐ南側のエマヌエーレ大通りから帰ることにした。大通りを西に歩き、ローマ通りとの交差点を横断して、しばらくすると、北側のパレルモ・マッシモ劇場前から続くマクエダ通りとの交差点になる。あとは、こちらの交差点を右折して、ひたすら直進(北)すればホテルに到着する。

ところで、こちらの交差点は、「クアットロ・カンティ」(Quattro Canti)と呼ばれ、4つの凹状のバロック様式で飾られたファサードが向かい合って建つパレルモの名所の一つでもある。こちらは、マクエダ通りの南側を眺めた様子で、通り先の左側(東南)にはプレトリオ広場(プレトリアの噴水)がある。そして、右側には、サン・ジェゼッペ・ディ・テアティーニ教会の身廊が続いており、交差点右側(南西)のクアットロ・カンティのファサードの右隣が、教会のファサードになる。
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クアットロ・カンティのファサードは全て4階建てで、1階には噴水(古代の都市を流れる川を模している)があり、2階には四季の寓意像(バッカス、ヴィーナス、アイオロス、ケレース)(東南、西北、南西、北東の順、以下同じ)が、3階にはシチリア島のスペイン人支配者像と紋章(フィリップ4世、フェリペ2世、カール5世、フェリペ3世)が、4階にはパレルモの女性守護聖人像(ニンファ、オリヴィア、クリスティーナ、アガタ)が飾られている。
(2012.12.29)
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シチリア(その5)

2013-05-01 | イタリア(シチリア)
ここは、シチリア島南西部、アグリジェントの考古学地区(Area Archeologica di Agrigento)の「神殿の谷(Valle dei Templi)」である。現在午後3時半を過ぎたところ。ここ神殿の谷は、前方(北側)に見えるアグリジェント市街地の眼下に広がっており、中央には南北にSP4号線が走り、左右に考古学地区への入口がある。まず最初に右側から入り東に向けて一本道を歩く。なお、北側の高台に見える市街地は、中世以降に発達した街だが、西側地区には、古代のアクロポリスがあったという。
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神殿の谷は、東に流れるサン・ヴィラージョ川(San Villaggio)(古代:アクラガス川)と西に流れるサン・レオーネ川(San leone)に挟まれており、東のアクラガス川の名称が、古代都市アクラガスの由来となっている。現在、このあたりは、アーモンドやオリーブの樹が生える田園地帯で、毎年2月には、アーモンドの花が咲き観光客で賑わう。なだらかな一本道を上っていくと、正面に「コンコルディア神殿」が現れる。
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コンコルディア神殿は、紀元前450~440年に建てられたドーリア式神殿で、シチリアでは最大(42×19.7メートル)規模を誇る。名称については、近くで16世紀に発見された古代ラテン語の碑文に関連して、女神コンコルディアに捧げられた神殿と仮定されたが、実際のところ、誰に捧げられた神殿かは不明である。
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アテネのアクロポリスにあるパルテノン神殿と並んで、世界で最も保存状態の良いドーリア式神殿とされ、こちらの神殿の谷の中においても最も保存状態が良い。神殿は地面と同じ黄土色の砂岩質凝灰岩からできているが、建設当時には白い漆喰で塗られ、装飾部分は極彩色に塗られていたという。

側面から神殿を見ると神殿内の神室側面がアーチ状になっているのが見える。これは、6世紀にアグリジェントの司教グレゴリウスによってキリスト教のバシリカに転用(聖ペテロと聖パウロに奉献)された際の名残りである。1748年に教会は廃止され、1787年に元の神殿の姿に戻されている。
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入口からここまでの間にも、いくつかの遺跡が見受けられたが、日の入りが近いため、まずはメインの神殿を優先し見学することとし、それ以外の遺跡は戻り時に見学することとする。このあたりには、整然と巨大な岩のブロックが並んでいる。
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アグリジェントは、紀元前581年、クレタ島とロードス島の植民によりゲラ(現:ジェーラ)の副都市アクラガスとして建設された。

歴史上、アクラガスが、注目されるのは、紀元前480年に勃発した「ヒメラの戦い」である。領土拡大を目指したアクラガスの僭主テロンは、シチリア北岸にあったヒメラ(現在のパレルモと現在のチェファルの間にあった。)を支配したため、ヒメラがカルタゴのハミルカルに救援を要請した。これに対し、僭主テロンは、シュラクサイの僭主ゲロンに救援を要請し、両軍は、ヒメラの地で激突する。結果、アクラガスとシュラクサイの同盟軍が、カルタゴ軍を破ったことから、アクラガスは、繁栄し絶頂期を迎えることになる。

右手前方の高台に神殿が見えてきた。
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ジュノーネ・ラチニア(ヘラ)神殿 (Tempio di Giunone Lacinia hera)である。ヘラは、ギリシア神話に登場する最高位の女神で、ローマ神話においてはユーノー(ジュノー)と同一視された。ラチニアとは、崖の上にそびえる姿が、カラブリア州最東端のコロンナ岬(古代:ラキニオン岬)を連想させたことから名付けられた。
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180度回り込んで、東側からヘラ神殿を見てみる。ヘラ神殿は、紀元前450年頃に建てられたが、紀元前406年の火災の痕跡が発見されている。その後、ローマ時代に復元されている。高さ6.44メートルの34本の柱の内、現在は25本がほぼ完全な形で残っているが、18世紀後半、北側のいくつかの柱は再建されている。基壇部分に白い漆喰の跡が残っている。
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ヘラ神殿は、高台にあるため、見晴が良い。歩いて来た方角を眺めてみる。左手には、先ほど通ってきたコンコルディア神殿が見え、右手には、アグリジェント市街地が見える。中央に見える高架橋は、東はシラクーザからシチリアの南海岸沿いを通り西のトラパニまで続く大動脈の幹線国道SS115線である。さて、だいぶ日が陰ってきたようなので、急ぎ戻ることにする。
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コンコルディア神殿まで戻ってきた。先ほど素通りしたが、近くに巨大な青銅のイカロス像が置かれている。ポーランドの彫刻家イーゴリ・ミトラジ(1944~)の作品で、2011年以来、こちらに展示されている。
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午後4時半を過ぎたので、そろそろ日の入りを迎える。夕陽がコンコルディア神殿に照らされ、赤く染まって美しい。
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引き続き、素通りしてきた遺跡群を見学して、入口まで戻ることにする。コンコルディア神殿を過ぎると右側(北側)の下り斜面に、3世紀~4世紀ローマ時代の、初期キリスト教徒の共同墓地(ネクロポリス)が広がっている。この辺りは、紀元前2世紀にあったジャンベルトー二墓地(Giambertoni)の流れをくんでいる。この墓地からは、質素なものから豪華な石棺にいたるなどの遺物が発掘されている。
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こちらには、神殿建設のために重い石材を運んだ当時の轍の跡が残っている。深い轍に当時の神殿建設の苦労が偲ばれる。
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入口の手前から左側への小道を進むと、左手の高台に8本の柱が並んでいる。
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エルコレ(ヘラクレス)神殿(Tempio di Ercole)で、紀元前520年頃に建造されたアグリジェント最古のドーリア式神殿である。柱には、建設当時の白い漆喰が残っている。
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ヘラクレス神殿の先には、連絡橋があり、道路(SP4号線)を下に見ながら神殿の谷の西側エリアに向かう。すぐ北側には、辺りには瓦礫の山と化した「ゼウス・オリンピコ神殿」(Tempio di Zeus Olimpio)(別名:ジュピター=ゼウス神殿)の遺跡が広がっている。午後5時を過ぎたためすっかり薄暗くなった。
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ゼウス・オリンピコ神殿は、紀元前480年、ヒメラ戦争に勝利したアクラガスの僭主テロンにより、戦勝記念として、ゼウス神に捧げて建設が始まった。当時のギリシャ建築における最大級の神殿となる予定だったが、紀元前406年、ヒメラの戦いで弱体化していたはずのカルタゴが、ハミルカルの長男ハンニバル・マーゴを先頭に再びシチリアに進撃してきたことで、建設中だったゼウス・オリンピコ神殿は、完成の姿を見せる前に、粉々に破壊されてしまったという。

瓦礫の中に、7メートルを超える巨人像が横たわっている。神殿を飾っていた人像柱テラモーネ(Telamone)である。ちなみに、この像はコピーでオリジナルは、近くの考古学博物館に保管されている。
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更に、200メートルほど、西にある神殿が「ディオスクロイ(カストール・ポルックス)神殿」(Tempio di Dioscuri)で、紀元前5世紀末に建造された周柱式ドーリア式神殿である。この辺りは豊穣を司る地下神の母娘を祀った神域だったという。やはり瓦礫の山になっているが、1832年に一部だけ復元され現在の姿となった。
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急ぎ足であったが、なんとか神殿の谷の見学はできた。少し安堵していると神殿がライトアップされた。先ほどとはまた違った神々しさを感じ素晴らしい。背後にはアグリジェント市街地の夜景が見える。
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さて、次に、SP4号線を1キロメートル北上した左側にある「アグリジェント考古学博物館」に向かった。14世紀に建てられたこの「サン・ニコラ教会」の扉口の左側から、教会に沿って周りこみ敷地を通り過ぎた奥に博物館の入口がある。閉館時間は午後7時半なので、まだ約1時間以上は見学が可能である。このサン・ニコラ教会の側面(西隣)には、古代の円形状の集会所跡が残っているが、日が暮れてしまい、あまり良く見えなかった。


考古学博物館には、アクラガス時代やそれ以前の時代からの出土品も多く展示されている。こちらは、1905年にアグリジェントの港から出土した、紀元前15~14世紀のミケーネ文明時代の壺で、何とも気が遠くなるほどの昔の作品である。
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アグリジェントの神殿を飾っていた様々なライオンの頭の形をした雨樋が展示されている。
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多くのアッティカ陶器のコレクションが並んでいる。
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ゴルゴーンのアンテフィクサ(紀元前6世紀)。アンテフィクサとは、屋根を覆うタイルの終端にある垂直なブロックのことである。一般的な建築物ではテラコッタの人物像などがよく使われていたため、このゴルゴーンのテラコッタは、個人宅の突出した切妻(出っ張り)部分の端に一定間隔並んで、屋根を飾っていたものかもしれない。


ベスの壺。ベスとは、古代エジプト神話に登場する舞踊と戦闘の神。本来は羊と羊飼いの守護神とされていた。それにしてもこのベスはユーモラスであり、小人ドワーフの特徴も見える。


こちらは、初期キリスト教徒の共同墓地(ネクロポリス)から出土した紀元2世紀の子供の石棺で、発掘時の何百もの破片だったものを修復している。石棺には3辺に子供の誕生から死までの人生を描いた浮彫がなされているが、正面には子供がベッドに寝かされ、周りに悲しむ家族の姿が見える。
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この博物館のメインは、この巨大なゼウス・オリンピコ神殿を飾っていた人像柱テラモーネのオリジナルである。人像柱テラモーネは、壁の上部に見上げるように展示されており、座って見学ができる。多くの座席が並べられており、イベント会場のようである。
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顔は、風化して岩の塊と化しているが、じっと見ていると、何とも親近感を覚えてしまう。
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会場の左手には、テラモーネの頭部が3体展示されている。左からアジア、アフリカ、ヨーロッパをあらわしていると言われる。


会場の右手には、神殿模型があり、柱とテラモーネが交互に配置され、上部のまぐさ石を支えていたことがわかる。


神殿の想像図がある。この図を見ると、神殿入口から神像までの中央部分は吹き抜けになっている。ゼウス・オリンピコ神殿の平面積はシラクーザにあったアテナ神殿(現:シラクーザ大聖堂)の4倍もあったとされており、いかに巨大な神殿を建設しようとしていたかがわかる。


時刻は、午後7時になり、お腹も減ってきた。今夜はアグリジェントから、北西に80キロメートル離れたシチリア島西南部メンフィの郊外にあるイル・ヴィニェート・リゾート(Il Vigneto Resort)に泊まるため、食事はそのホテルで食べることにしている。まだ閉館時間まで30分はあるが、急ぎホテルに向かうことにした。博物館を出て、サン・ニコラ教会前からは、ライトアップされたコンコルディア神殿が見える。
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メンフィまでは、海岸沿いを走る国道SS115号線で向かった。最寄りの出口から、メンフィ入口となるラウンドアバウトに、道路標識に加え、リストランテ、ホテル、マーケット、ワイナリーなどのそれぞれ個別の案内表示(イル・ヴィニェート・リゾートもあった)があり、その案内表示に従って、メンフィの西環状道路を通り、街灯もない暗闇の中、蛇行する田舎道を南方面に走行した。

イル・ヴィニェート・リゾートへの到着は午後8時半に近かった。こちらは、周囲に構造物もない、田園風景の中の長方形の敷地内に建つ2階建てのコテージ風の宿泊棟で、他に、リストランテやレセプションルームがある平屋の管理棟、プールなど付属施設があるリゾートヴィラである。最寄りの国道からはかなり離れていたことから、この時間帯に無事に到着できたのが不思議だった。
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食事は、午後9時頃となった。最初に前菜、タコの冷菜(Antipasto Freddo)と温菜(Antioasto Caldo)を頼むと、タコのマリネとタコの唐揚げだったが、新鮮で大変美味しかった。
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プリモピアットとして、パスタ(ファルファッレ)を頼んだ。


飲み物は、白ワインとして、地元メンフィ産マンドラロッサ(Mandra Rossa urra di mare)ソーヴィニオン・ブランを頼んだ。ヴィラの名称のイル・ヴィニェート・リゾートはワイン畑を表わし、この辺りは、ぶどう栽培が盛んなワインの産地である。


セコンドピアットとして、エビを頼んだ。


こちらは、魚のグリルで、共に、手のかかる料理法ではないが美味しかった。メンフィは港町でもあることから、新鮮な素材を、素材本来の味わいで楽しめたのは良かったかもしれない。


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翌朝、テラスに出て外の景色を眺める。地図によると南に2キロメートル弱で地中海なので、正面の小高い丘を超えたあたりが海辺なのだろう。
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短い滞在時間だったが、朝食を食べチェックアウトして、まずは、直線距離で9キロメートル西のセリヌンテ(Selinunte)に向かう。そして、その後は、100キロメートル北部にあるモンレアーレに向かい、見学した後、パレルモで宿泊となるタイトなスケジュールを予定している。
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セリヌンテは、西を流れるセリヌス川(現在のモディオーネ川)と東を流れるコットーネ川(現在は溝が残るのみ)に挟まれた2キロメートルほどの幅の丘の上に築かれた古代ギリシャの植民都市で、現在は、当時のアクロポリスや神殿の遺跡が残る遺跡公園となっている。

セリヌンテは、シュラクサイ(シラクーザ)北方にあったメガラ・ヒュブレアが紀元前628年に建設した副都市だったが、その後のヒュブレアからの移住者や人口増加に加え、カルタゴとの交易により、紀元前6世紀初頭にはギリシャ系都市国家として大きく繁栄した。しかし、北に40キロメートルにある先住民の国家セジェスタ(古代の神殿や劇場などの遺跡が残っている。)との小競り合いが続き、紀元前409年には、セジェスタとカルタゴとの同盟軍による来襲を受け(第2次ヒメラ戦争)、徹底的に街を破壊され、カルタゴの勢力下に置かれてしまう。

紀元前264年から、ローマとカルタゴは、地中海の覇権をめぐりポエニ戦争(紀元前264年~紀元前146年)で戦った結果、勝利したローマがシチリアを始め、地中海世界を支配することになる。シチリアから撤退したカルタゴは、セリヌンテを徹底的に破壊してしまい、ローマの属州時代以降、再建されることはなかった。

セリヌンテは、約40ヘクタールの敷地の中に主に5つの地区があるが、この「東の丘と神殿」地区と、1キロほど西に離れた「アクロポリスと神殿および城壁」地区とがメインの地区となる。最初に東の丘に建つ神殿群から見学する。駐車場前には、なだらかな丘を横長にくりぬきガラス張りされた近代的な案内所があり、ゲートを抜けて遺跡公園に入場し、北に200メートルほど舗装道路を歩いて行くと、前方に「E神殿」が見えてくる。セリヌンテの神殿の詳細は不明な点も多く便宜上アルファベットで呼ばれている。
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こちらのE神殿は、ヘラを祀る神殿との説もある。いくつかある神殿の中でも、比較的新しく、紀元前460年~紀元前450年頃に建設されている。現在の姿は、1950年代に修復されたもので、敷地が25.33×67.82 メートル、高さ10.19メートルの円柱が、6×15本で配置されている。
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神殿内も良く残っており、ギリシャ神殿のプランを理解しやすい。まず、東側の踏みづらの狭い10段の階段を上ると2列目の柱を持つポルチコに達し、プロナオス(前室)になる。そして、広い、なだらかな階段となり、ナオス(本殿)前に到着する。先の高い位置にアディトン(内陣)があり、背後にオピストドモス(後室)がある。
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E神殿の北隣には瓦解したF神殿があり、その北隣には同じく瓦解したG神殿がある。こちらは、北側からG神殿を眺めた様子。ゼウスを祀る神殿ともいわれ、ギリシア世界の中でも最大級の神殿の一つされている。敷地が113.34メートル×54.05メートル、高さは30メートルあった。柱の直径3メートル以上もある。紀元前530年から建設が始まり、紀元前409年時点でも建設途中であった。
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瓦解した神殿内に入ることは特段禁止されていない。踏み分けて、崩れ落ちた柱の巨石が折り重なっている上を歩いてみるが、石はびくともしない。
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再び、E神殿に戻り、基壇の上の南側の円柱からは、青く輝く地中海を望むことができる。そして、右側のやや遠くに見える神殿群が「アクロポリスと神殿および城壁」地区となる。
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少し距離があるが、「アクロポリスと神殿および城壁」地区に歩いてやってきた。アクロポリスらしく、この辺りは小高い丘になっている。巨大な石が重なり合っており、その先に「C神殿」の円柱が東西に向けて並んでいる。
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こちらは、南東側にある「B神殿」越しに北側の「C神殿」を眺めた様子。C神殿はこの地区では最も古く、紀元前550年に建設されたものである。1925年~27年にかけて、北側の17本の円柱のうち14本が、エンタブラチュアの一部と共に再建されている。24×63.7メートルの敷地に6×17の円柱配列(高さ8.62メートル)を持っている。神殿内へは、東の階段を8段上ると2列目の柱を持つポルチコに達し、プロナオスに繋がる。
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こちらの「アクロポリスと神殿および城壁」地区には、A、B、C、D、Oの神殿があるが、再建された「C神殿」以外は、瓦解したままとなっている。C神殿から「東の丘と神殿」地区を眺めてみると、再建された「E神殿」が、2000年の時を超え雄々しく聳え立っている。ちなみに、右側に見える街並みは、19世紀初頭から漁師を中心に発展してきた港町マリネッラ・ディ・セリヌンテである。
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(2012.12.28~29)
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シチリア(その4)

2013-05-01 | イタリア(シチリア)
こちらは、標高500メートルの高地、ラグーザ(Ragusa)スペリオーレ地区のコルソ・イタリア(イタリア通り)(西から東に向けて下り坂)になる。右先のクリーム色の建物が、昨夜の宿泊ホテル「アンティカ バディア ルレ」(Antica Badia Relais)で、イオニア式円柱で囲まれた門を入った中庭に入口がある。
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ホテル前のコルソ・イタリアを少し下った向かい側に「サン・ジョヴァンニ・バッティスタ大聖堂」がある。ファサードの左側には、約50メートルの高さの鐘楼が立つ(右側は未完)など、シチリア島で最大の教会の一つで、1718年、建築家ジュゼッペ・レキュペロとジョヴァンニ・アルシディアコノの設計により、バロック様式で工事が始まっている(1778年奉献)。大聖堂は、ラグーサ・スペリオーレの守護聖人、聖ジョバンニに捧げられている。
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ファサードにあるポーチの上には、聖母マリア(無原罪の御宿り)像と、左右には洗礼者ヨハネと福音記者ヨハネの像があるが、現在は修復中で確認できない。この時間(9時50分)、ちょうど陽光がファサードにあたり輝いている。ファサード手前には、大きなサン・ジョバンニ広場があり、傾斜を平面にするため、中央を階段で結んだ2段テラス構造となっている。

こちらは、大聖堂の交差部付近を北側のコルソ・イタリア沿いの小庭園から眺めた様子で、中央には、1783年に建てられたドームが確認できる。ドームは20世紀に入り施された銅板で覆われている。
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コルソ・イタリアを400メートルほど東に下り、左折して100メートルほど更に下ると、昨夜訪れた見晴らしの良い展望台に到着する。前方には、イブラ地区(旧市街)の建物が折り重なる姿まで、はっきりと確認できる。高台に建つ三階建ての赤い屋根の建物「ヴィラ・カステル・ヴェッキオ」が頂上となり、その先は見えないが、街は東側のなだらかな斜面沿いに続いていく。ヴィラの北隣に見えるドームは、サン・ジョルジョ大聖堂である。
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イブラ地区の手前にはファサードと3つの身廊を持つ「プルガトーリオ教会」が望める。その教会手前の通りが、スペリオーレ地区とイブラ地区との境目になる。ちなみに、左側のスペリオーレ地区斜面沿いに見える青いドームは「サンタ・マリア・デッレ・スカレ教会」になる。
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このイブラ地区は、イタリアで1999年から放送されている人気テレビシリーズ「モンタルバーノ ~シチリアの人情刑事~」のロケ地の一つとして知られている。主に、タイトルバックでの空撮影像、サン・ジョルジョ大聖堂前のドゥオーモ広場、プルガトーリオ教会前(長距離バスの停留所として)などが登場する。ドラマでは、架空の街ヴィガータの警察署が舞台となるが、アグリジェント県、ラグーザ県を中心としたシチリア島南東部で広く撮影が行われている。

昨夜同様に階段を降りポンティ谷にある橋を渡ると「プルガトーリオ教会」の前に到着する。プルガトーリオ教会のファサードは、コリント式の柱頭により3つのパートに分かれている。それぞれ扉口があるが、中央のみが実際の門となり、その門上部には、植物文様の浮彫が施され、パーガトリー(煉獄)を表わした彫刻が飾られている。この時間、昨夜と異なり、ファサード前の階段には誰もいなかった。
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教会に向かって、左に2つ目の通りを進むと、左側に豪華なバロック様式の建物が建っている。「コゼンティーニ邸」(Palazzo Cosentini)で、ラッファエーレ・コゼンティーニ男爵とその息子のジュセッペ・コゼンティーニ男爵により1779年に建てられた。ラグーサ・バロック様式の貴族の邸宅を代表する建物で、バルコニー下のユニークでグロテスクなバロック彫刻が見どころである。
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こちらは、コゼンティーニ邸を通りから見上げた様子で、3階部分の3か所のバルコニーの下に、それぞれ彫刻が施されているのが確認できる。
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こちらは、建物に向かって左端の彫刻で、それぞれ楽器を持ち演奏している様子が躍動的に表現されている。下部にある大きな顔は、それぞれの演奏者の内面を反映しているとされる。
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さて、次に「モディカ(Modica)」に向かうべく、両市街の間のポンティ谷から道路を南に下って行く。向かって左が新市街のスペリオーレ地区で、右側がイブラ地区である。横から見ると、谷間の深さがよくわかる。
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こちらは、イブラ地区の頂上付近で、ヴィラ(カステル・ヴェッキオ)や、その右側のやや奥に「サン・ジョルジョ大聖堂」のファサードとドームが見える。
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ラグーサまでの往路は南西方向からだったが、これからは一旦、東に向かい、SS115号線を経由した後、SS194号線で南下する。30分ほどで、大きなラウンドアバウトを過ぎ、渓谷に架かる陸橋を横断すると、まもなくモディカに到着する。

モディカは、ラグーザ県にあり、周辺地域を含む人口約5万4000人の基礎自治体(コムーネ)である。ラグーザ、ヴィットーリアに次ぐ県内では第3位のコムーネ人口を有している。1693年の壊滅的な地震の後に再建された歴史的地区は、後期バロック建築の最も重要な例の一つとされている。2002年には、ヴァル・ディ・ノートのいくつかの町とともに、ユネスコの世界遺産に登録されている。また、スペイン支配時代から伝わる伝統的な製法で作られる素朴な味わいのモディカ・チョコレートが人気である。

こちらはモディカにある「サン・ジョバンニ・エヴァンジェリスタ教会」(S Giovanni Evangelista)になる。最初の寺院は1542年、1693年の地震で深刻な被害を受けている。18世紀に入りバロック様式で再建されるものの、1848年のさらなる地震により損傷を受けたため、1893年にサルヴァトーレ・リッツァの設計によりファサードをさらに改修し1901年に現在の姿となっている。教会は街の歴史的中心部の高台エリアとなるモディカ・アルタ(Modica Alta)にあり、尖塔の頂部の十字架の場所は、標高449メートルと、モディカの最高地点を表している。
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教会に向かって細い路地を左に200メートル進むと、展望台がありモディカの街並みを一望できる。こちらは南の方向になる。モディカは、19世紀まで急流で削り取られた二つの峡谷にまたがって町が広がっていたが、20世紀初頭まであった川は「ウンベルト1世通り」(Corso Umberto I)となり、街の主要道路となっている。高台がモディカ・アルタで、低い町がモディカ・バッサ(Modica Bassa)と呼ばれている。中腹には、大きなドームとファサードが聳える「サン・ジョルジョ大聖堂」があり、そのファサードから下り階段が、モディカ・バッサに向けて続いている。
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これまでは、丘の上に広がる街並みを見ながら、麓から上っていくケースが多かったため、突然眼下に街並みが広がる景色は圧巻だった。こちらの眺めは、前述のドラマ「モンタルバーノ ~シチリアの人情刑事~」で、ラグーサ同様にタイトルバックでの空撮影像として登場する。

その「サン・ジョルジョ大聖堂」前にやってきた。ファサード前から延びる階段の途中には、車通行可能のコルソ・サン・ジョルジョが横断している。こちらは、その更に下にある踊り場から見上げた様子で、この下からは、左右階段となり再び直線階段となって、ウンベルト1世通りまで計250段の階段が続いている。
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サン・ジョルジョ大聖堂は、12世紀初、ノルマンのルッジェーロ1世により建てられたが、1542年、1613年、1693年とモディカを襲った度重なる地震で被害を受けて1738年に再建された。バロック様式のファサードは、ロザリオ・ガリアルディ(1690~1762)の設計による。再建プロジェクトの終了後も、いくつかの鐘と時計の設置や、尖塔に鉄の十字架が取り付けるなどの改修が行われたが、1842年に完了し、今では全高62メートルの堂々たる塔を持つファサードとなっている。
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教会の内部は、ラテン十字の形をしたバシリカプランで、コリント式の柱頭が乗った22本の柱が支える5つの身廊に分かれている。主祭壇には、マニエリスムの画家ベルナルディーノ・ニグロ(1538~1590)による「多翼祭壇画」(10枚の絵画で構成)があり、聖家族、キリストの生涯、聖マルティヌス、聖ジョルジョ(ゲオルギオス)と竜が描かれている。中央交差部には高さ36メートルのドームがある。
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時刻は昼の12時となり、モディカを後にし、再びシラクサ(シラクーザ)に戻るべく出発した。高速E45号線を経由して、午後2時前、ネアポリス考古学公園にある「パオロ オルシ考古学博物館(Museo Archeologico Rgionale Paolo Orsi)」に到着した。「ネアポリス考古学公園」からは、600メートルほど東に位置しており、緑豊かな面積9,000平方メートルの大きな庭園内に建つ近代的な博物館である。
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もともと博物館は、1878年にオルティージャ島のドゥオーモ広場にオープンしたが、展示品・出土品が年々増えたため、1988年に現在の場所に移転している。シチリアの考古学研究に大きな貢献をしたパオロ・オルシの名前に因んでいる。ギリシャ時代の陶器や彫刻、神殿のレリーフなど時期や場所ごとに4つのブロックに分けられ展示しており、展示品数は18,000件を誇っている。

今日は年末のためか、来館者が非常に少なく、ゆっくり見学できそうである。こちらは、シラクーザ県レンティーニから出土した紀元前6世紀の大理石クーロス(青年)像である。
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こちらのテラコッタは「翼のあるゴルゴーン」で、オルティージャ島にあった神殿の屋根を飾っていたもの。ゴルゴーンは、ギリシャ神話に登場する醜い女の怪物で、魔除けに用いられた。こちらの作品では、邪眼を強調するため、正面を向いた姿で表されている。
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コレー像(若い女性の彫像)が並んでいる。古代ギリシャでは、奉納像や墓像として数多く作られた。
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こちらのコレー像は、紀元前6世紀「玉座の女神デメテル・ケレス」(テラコッタ)で、カターニア県グランミケーレから出土したもの。女性の表情からアルカイック期のものとわかる。
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こちらは、考古学博物館を代表する「恥じらいのヴィーナス」(Venus Pudica)で、シラクーザ考古学者ヴェーネ・ランドリーナの名前にちなんで「ランドリーナのヴィーナス」とも呼ばれている。フランスの自然主義の小説家、劇作家で詩人のモーパッサン(1850~1893)が、夢中になり賞讃した大理石の彫像で、紀元2世紀のローマンコピーである。
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エトナ山の麓、カターニア県アドラーノ(Adrano-Mendolito)で出土した、高さ19.5センチメートルのブロンズ像「アスリート」(紀元前460年頃)で、彫刻家ピタゴーラ(Pitagora)の手によるもの。
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こちらは、ギリシャ神話に登場する名医「アスクレピオス」の頭部像である。アスクレピオスが持っていた、ヘビが巻きついた杖は「アスクレピオスの杖」と呼ばれ、医の象徴として世界保健機関(WHO)、米国医師会(AMA)等のマークにも使われている。作品は、紀元前5世紀前半アテネで活躍した彫刻家アテナ・プロマコスのローマンコピー(Augustan copy)である。
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黒像式のアンフォラ(右)とレキュトス(左)。アンフォラはワインやその他の必需品を運搬・保存するためのもので、レキュトスはオリーブ油の貯蔵に使われた。黒像式とは、人物像などをシルエットで描き線刻で詳細な描写をするという技法で紀元前7世紀に発明された。
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こちらは、赤像式アンフォラである。赤像式は、紀元前6世紀末から造られ始めた。黒像式のような線刻ではなく描線で詳細を直接描くことで表現の幅が広がった。
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1時間半ほど見学した後、今夜の宿のチェックインのため、オルティージャ島に戻ってきた。今夜は、ユダヤ人地区、ジュデッカ通り沿いにある、「B&Bラ・ヴィア・デラ・ジュデッカ」(La Via Della Giudecca)に泊まることにしている。周辺は、細い路地が入り組んだエリアだが、宿は、サン フィリッポ アポストロ教会前の小さな広場に面して建っており一息つける。部屋も清潔で、台所、テーブル、広いバスタブもあり居心地が良い。
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午後4時を過ぎ、宿からは西に300メートルほど、人がすれ違うのが辛いほどの狭い通りを抜けて「シラクサ(シラクーザ)大聖堂」が建つドゥオーモ広場にやってきた。

この時間、夕日が大聖堂のファサードに反射して美しく照らされている。大聖堂は、もともと紀元前480年頃に建設されたアテナ神殿で、当時の神殿入口は、今と逆の神像に朝日が差し込む様に東側にあった。ちなみに、アテナ神殿建設の経緯は、シチリア中央部にあったゲラの僭主となったシュラクサイの僭主ゲロンが、ヒメラの戦い(紀元前480年、カルタゴ軍の来襲を撃破した)で勝利し、賠償金を得たことによる。
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アテナ神殿は7世紀のビザンチン時代に、初期キリスト教のバシリカに改築されるが、9世紀にはアラブ人によりモスクに変えられている。しかし1093年、初代シチリア王ルッジェーロ2世の父親でシチリア伯のルッジェーロ1世(1031~1101)により、再び教会に戻されている。その後は、1542年、1693年の地震で大きな被害を被るが、1728年に建築家アンドレア・パルマの設計で新たに工事が始まり、20年間の工事中断期間をへて1753年に現在の大聖堂として完成している。
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大聖堂のファサードは、下部に、コリント式の6本の柱があり、うち中央の4本の柱は、ポータルを囲み、精巧なティンパヌムを支えている。上層部にも、4本のコリント式の柱があり、中央の小さな2本のコリント柱を持つ壁龕内には聖マリア(無原罪のお宿り)の像が飾られている。他にも、下部から伸びる左右のコリント式の柱の頂部にシラクサのマルシアーノと、シラクサのルチア(283~304)(シラクサの守護聖女)の像があり、広場からの階段左右には聖ペテロと聖パウロの像がある。これらの彫像は、パレルモの彫刻家イグナツィオ・マラビッティ(Ignazio Marabitti、1719~1797)が手掛けたものである。

聖堂内の身廊はノルマン時代のままで、天井は、1518年に木製の梁で覆われたもの。内陣は、バロック様式で両側に木製の聖歌隊席(18世紀後半)があり、天井は木造で、金箔で装飾された小さな八角形の格間天井で構成されている。
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後陣は、ファサードの彫像制作の建築家イグナツィオ・マラビッティが1746年に完成させたもので、装飾、浅浮き彫り、多色の漆喰でバロック様式の漆喰を支える精巧な金色の漆喰を備えた4本のコリント式の柱により形成されている。中央には「マリアのキリスト降誕」(17世紀)の絵画があり、ペディメントには、マリオ・アルベルテッラが描いた「王なるキリスト」(1927年)の絵画が飾られている。

身廊と側廊を隔てるアーチ柱は、他の教会や大聖堂とは異なり、無骨な柱となっているが、ノルマン時代に使用されていたアテナ神殿の壁を削ったものをそのまま使用している。床は、1444年に遡るもので、全体に精巧な幾何学的図形が表現されている。
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側廊側の壁には、アテナ神殿のドーリス式の円柱が、そのまま埋めこまれている。かつてこの場所にバロック様式の祭壇があったが、20世紀初頭の修復工事で取り除かれ、現在は3体の像が飾られている。奥から手前にかけて、アレクサンドリアのカタリナ(制作者不明、15世紀作)、聖母子(ドメニコ・ガジーニ(1430~1492)作)、シラクサのルチア(アントネッロ・ガジーニ(1478~1536)、1527年作)になる。
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ドゥオーモ広場から、直線距離で300メートルほど南にある「ベッローモ(ベッラモ)宮殿博物館(Palazzo Bellomo)」にやってきた。13世紀に造られたカタロニア様式の残る美しい宮殿である。
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中庭には、様々な陶磁器や紋章オブジェなどが展示されている。なかでも、階段を下りた向かい側の北側壁面には、ひと際大きなスペインのカルロス2世(1661~1700)の王室の紋章が展示されている。こちらは、オルティージャ島へのアクセスを規制する目的で、1673年に建設された軍用門(ポルタ・リニー)(~1893)の上部に飾られていたもの。ポルタ・リニーは1893年に取り壊された。

こちらは聖母子像。15世紀初頭、シラクーザの聖ルチア教会の祭壇画。


神の子羊と受胎告知(13世紀~14世紀、シラクーザ聖フランシス教会)。


ヤシの左右に向かい合うライオン(モザイクの断片、12世紀)。


この博物館を代表する作品が、このアントネッロ・ダ・メッシーナの受胎告知である。残念ながら写真不可につき、取りあえず、ウィキメディア・コモンズ (Wikimedia Commons)の画像を乗せさせていただく。
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午後6時になり、すっかり暗くなった。次にドゥオーモ広場から200メートルほど北にある、アルキメデス広場(Piazza Archimede)にやってきた。このあたりが、だいたい、オルティージャ島の真ん中に位置している。この広場はややいびつな正方形で、中央に円形の「アルテミスの噴水」(Fontana di Artemide)(Fontana di Diana)がある。
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噴水は南向きで、中央に、弓と犬を持つ狩猟の女神アルテミス(ダイアナ)の姿があり、足元に、ギリシャのアルフェウス川の神アルフェウス(Alpheus)と、ニュムペーであるアレトゥーサ(Arethusa)がいる。周囲には、海豚や海馬に乗るトリトンが4体飾られている。カターニアを中心に活躍した彫刻家ジュリオ・モスケッティが1907年に建設した記念碑的な噴水だが、暗くて良く見えない。

ちなみに、観光客が車で、オルティージャ島を走行するには、本土からオルティージャ島の中央部に向け南下し、こちらのアルキメデス広場から、東海岸に抜ける一方通行の横断道路と、本土からオルティージャ島に入り、西海岸から南に向かい、マニアーチェ城塞の手前から、迂回して、東海岸を上る一方通行の環状道路との2本がメインの通りとなる。

これから、ジュデッカ通り沿い(ホテルから50メートルほど北)にある、オペラ・デイ・プーピ(L'Opera dei Pupi)で、シチリア伝統の人形劇を鑑賞する。プーピは、19世紀初頭にシチリアの大衆芸能として生まれた人形劇で、2001年にユネスコ無形文化遺産に登録されている。
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座席数は30名ほどで、舞台も横幅は3メートルほどの小ささである。30分前で3名ほどが座っていた。上演時間前には、ほぼ満席になったが、立見客で溢れかえるといった感じではなかった。
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上演時間は50分ほど。今夜の演目は中世シチリア王国の騎士物語のようだ。ストーリーは操り人形師(プパーロ)が即興で進めていくらしい。人形のサイズは40センチメートルほどで、頭部と右手に付けられた棒で操っている。例えば、乱闘シーンは非常に激しい動きで、人形の動きはなかなか手の込んだものであった。
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さて、鑑賞後、2日ぶりに、カヴール通り沿いのトラットリア、シチリア・イン・ターヴォラ(Sicilia in Tavola)に来た。予約していないし、午後7時半を過ぎており断られるかと思ったが、無事食事にありつけた。今日は赤ワインとして、シラーのバッリョ・ディ・ピアネットを注文する。


前菜は、ビュッフェテーブルに並ぶいくつかの郷土料理から、少しずつ皿に載せていく。ビュッフェスタイルで前菜の盛り合わせを頂く。


イカ墨のスパゲッティなどを頼んだ。


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翌朝、これから「マニアーチェ城塞(Castello Maniace)」の見学をすることにしている。オルティージャ島の西海岸沿いの通りを南に向かうと、突き当りにマニアーチェ城塞の入口がある。チケットを購入し、ゲートを入ると、周囲に管理棟や、屋外バールなどがある矩形の広場となり、その広場を横断して、胸壁塔のあるアーチ門に繋がる横断橋を渡る。
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アーチ門をくぐると、周囲を城壁に囲まれた、ややいびつな敷地の広場に到着する。そして、その広場の先に、左右に側防塔を持つ横長の城塞がある。

城塞は、1038年に街を包囲して占領したビザンチン帝国のギリシャ将軍ジョルジョ・マニアーチェ(ゲオルギオス・マニアケス)(~1043)により築かれたものだが、現在の要塞は、1232年~1240年に、神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世(シチリア王フェデリーコ1世)(1194~1250)により拡大改築されたものがベースとなっている。

城塞は、時の支配者や権力者により、改築、強化などが繰り返されている。また、刑務所として使用されたことや、名称が変更されたこともあり、近年では、陸軍兵舎として使用されるなどの変遷を経て現在に至っている。

側防塔を持つ横長の城塞の中央にある大きなアーチ門を入ると中庭で、更に先の門を入ると、尖頭アーチやヴォールトの天井で構成された空間に到着する。ノルマン建築の影響を受けた構造で、設計は皇帝フリードリヒ2世の宮廷建築家リッカルド・ダ・レンティーニによるもの。
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城塞内には、ギリシャ時代のブロンズの雄羊が2頭(コピー)展示されている。もともと紀元前3世紀に2頭制作され、シラクサの「アガトクレス宮殿」を飾っていたとされる。その後、神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世(シチリア王フェデリーコ1世)(1194~1250)が、マニアーチェ城塞を再建した際、移設して、要塞の入口を飾るために設置した経緯を踏まえて、コピーが置かれている。現在、オリジナルは、パレルモにある「王立考古学博物館」に所蔵されている。
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ところで、フリードリヒ2世(シチリア王フェデリーコ1世)は、フリードリヒ1世(赤髭王)の孫で、父のハインリヒとシチリア王女(ノルマン朝)コスタンツァとの間にシチリア島で生まれている。幼時に父が死んだためローマ教皇インノケンティウス3世を後見人としてパレルモで育つ。当時のパレルモの国際的な環境もあり、開明的な文化人として成長した彼は、宗教観を超えた合理的な政策を推し進めていく。1220年には、シュタウフェン朝として神聖ローマ皇帝に即位し、ドイツ王を兼ねながらシチリアを拠点にしてイタリア統一をめざすものの、北イタリアの都市同盟とローマ教皇と激しく対立、道半ばにして崩御している。

城塞を出ると、要塞化された半島先端部となる。中央は吹き抜けで、周囲はアーケードで取り囲まれ狭間窓を持つ稜堡となっている。その稜堡の屋上には、大人の身長ほどの高さの防御壁で取り囲まれている。所々に、防御壁の強化のため凹角堡が設けられている。
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こちらは、稜堡の屋上の先端部から振り返った様子で、要塞の左側の側防塔には灯台がある。また、右下の海水面近くに設けられた狭間窓も確認できる。
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さて、そろそろお世話になったシラクーザともお別れである。マニアーチェ城塞を後にし、海岸沿いの歩道をドゥオーモ広場に向け歩く。振り返ると城塞にあった灯台がわずかに見える。最後にドゥオーモ広場の聖ルチア教会で、カラヴァッジョ(1571~1610)の「聖ルチアの埋葬」を見て、オルティージャ島を離れることにした。
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こちらが、ドゥオーモ広場の聖ルチア教会の祭壇に飾られた「聖ルチアの埋葬」で、カラヴァッジョが、1608年にシラクサ滞在中に描いたとされている。もともとは、シラクサ中心部(本土)にあるサンタ・ルチア・アル・セポルクロ教会の祭壇に飾られていたが、修復後は、オルディージャ島にあるベッローモ宮州立美術館に展示されていた。
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教会の祭壇には聖ルチア(シラクサのルチア)の像が飾られていた。 ルチアは、304年、ディオクレティアヌス帝時代にシラクーザで殉教し、シラクサの守護聖人になっている。こちらの銀製像は、16世紀のピエトロ・リッツォ制作によるもので、喉元に剣が突き刺さった姿を表現している。通常、シラクサ(シラクーザ)大聖堂に祀られているが、毎年12月13日の聖ルチア祭では行列を組んで本土にあるサンタ・ルチア教会まで運ばれ、1週間展示された後、大聖堂に戻されるが、この日はこちらに飾られていた。
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オルティージャ島から本土方面に向かう橋の手前、パンカリ広場に広がるアポロン神殿に寄る。ここは、紀元前6世紀初に建てられた島内最古のドーリス式神殿で、近年太陽神アポロンへの献辞が発見された。遺跡は、多くが原型を留めないほど瓦解しており、巨石が散乱している。このあたりは、本土の新市街に近く、遺跡を取り囲むように周りに新しい建物が立っている。時の流れを肌で感じる風景である。。
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(2012.12.27~28)
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シチリア(その3)

2013-05-01 | イタリア(シチリア)
シラクサ(シラクーザ)の街は、新市街の本土と旧市街のオルティージャ島との2つに別れている。昨夜の宿泊ホテルは、「グランド ホテル デ エトランジェ」(Des Etrangers Hotel & SPA)で、オルティージャ島の西海岸沿いの通りに面している。ホテルの後方となる東側にはドゥオーモ広場に面した「聖ルチア教会」がある。


ホテル前の通りの先(西側)には、海を見渡せる展望テラスがあり、その南隣の下にある大きな半円形の水場が、シラクサの観光名所の一つ「アレトゥーザの泉(Fonte Aretusa)」になる。こちらの泉はすぐ隣が海にも関わらず、古代から淡水が湧き出ているとのこと。伝説によると、ギリシャの川の神(アルフェイオス)に言い寄られた森の妖精(アレトゥーサ)が地底を逃げ、この場所にたどり着き、アルテミス女神により泉に変身させてもらったという。中ほどにあるパピルスのまわりには、赤い鯉が泳いでいる。


アレトゥーザの泉から、南側を眺めると「マニアーチェ城塞」を望むことができる。オルティージャ島の最南端にある城塞跡で、400メートルほど先に位置している。しかし今日はシラクサを離れるため、再び戻った明後日にオルティージャ島の観光を予定している。
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シラクサ(シラクーザ)は、古代、ギリシア語でシュラクサイと呼ばれ、ギリシャ人の僭主ディオニュシオス1世(紀元前432頃~紀元前367)の支配を受けていた。この時代、シチリア島内の多くの都市は、西地中海の覇者となりつつあったカルタゴ(アフリカ大陸の北岸(現:チュニジア)を中心に地中海貿易で栄えたフェニキア人による国家)の支配下にあったことから、ディオニュシオスは、カルタゴ勢をシチリア島から一掃しようと全力を傾け、シュラクサイにはオルティージャ島と本土を全長27キロメートルにも及ぶ巨大な城壁で要塞化していた。

こちらのオルティージャ島には、神殿、王宮、兵舎などの行政の中心が置かれ、本土側にはオルティージャ島に接するアクラディーナ(Akradina)、その北方にテュケー(Tyche)、北西部のネアポリス(Neapolis)と3地区に市民の大半が暮らしていた。

そのオルティージャ島から北西部に2キロメートルほどの距離となるネアポリスにやってきた。この地は、石灰岩の大地で、現在は「ネアポリス考古学公園」となっている。チケットを購入して、大通りから左折して細い遊歩道を100メートルほど南に進むと「円形闘技場」跡に到着する。紀元3世紀後半に建設され、シチリアでは最も大きい闘技場だったが、現在では、遺跡の上部のほとんどは破壊され、下部の岩から掘り抜かれた部分のみが残っている。
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1839年にイタリアの建築家、考古学者のセラディファルコ公爵(1783~1863)により発掘され、長さ140メートル、幅119メートルと推定されている。円形闘技場は、アクラディーナ地区からネアポリスに到達する道路軸にあった。こちらは、競技場の北側から南東方向を眺めた様子で、この先がオルティージャ島の方角となる。ちなみに中央の正方形の穴は、舞台の奈落の仕掛け跡である。

大通りに戻り、西方向に歩くと、すぐ左側の手すり越しに「ヒエロン2世の祭壇跡」が望める。当時、こちらの祭壇での儀式は、解放者ゼウス(ゼウス・エレウテリオス)に敬意を表して行われた。また、最大450頭以上の牛を生贄にすることができる巨大な規模を誇っていたとされる。現在では、長さ(南北)198メートル、幅(東西)22.8メートルのテメナイトの岩だけが残っているが、これは、地下にあった土台の跡で、上部の構造物は16世紀にほぼ完全に取り除かれて市内の要塞の建設に再利用されている。


ヒエロン2世とは紀元前3世紀におけるシュラクサイの僭主で、共和政ローマとカルタゴとの間で行われた第一次ポエニ戦争時には、ローマ側に付いてカルタゴと戦い勝利して王に擁立された。彼は卓越した農業・商業政策でシュラクサイに繁栄をもたらしている。

ヒエロン2世の祭壇跡を望む大通りの向かい側の北側に遺跡公園への入口がある。こちらではチケットチェックがある。公園内には、多くのレモンの木が茂り、遊歩道が続いている。200メートルほど北に進むと、西側に、周囲を削り取られ棒状に残った石の塊や、壁の様に残る石の巨大な切面が望める。こちらの公園は、神殿や住居を建てるための石切場跡「ラトミア・デル・パラディーゾ」(楽園の採石場)と呼ばれている。


石切場跡の石の切面は高さが20メートルほどあり、北から西南にかけて、切壁が途中でL状に屈折して200メートルほど続いている。その屈折する場所に、裂け目の様な洞窟入口があり、内部は35メートルの奥行がある。洞窟の上には「ギリシャ劇場」があり、これを破壊しないように、歪曲して採石された。また、この洞窟は、僭主デイオニュシオス1世治世には牢獄として使われた。


洞窟内に入り、声を発すると反響して音が増幅される。当時ここを訪れた画家のカラヴァッジョは猜疑心の強いディオニュシオスにちなんで「ディオニュシオスの耳」と名付けた。


再び、遺跡公園入口まで戻り、今度は、左方向の通路を歩いて「ギリシャ劇場」に向かう。なだらかな坂道を上っていくと、劇場の北東側の観客席後方に到着する。こちらの場所が、ちょうど「ディオニュシオスの耳」のすぐ上に位置している。ギリシャ劇場は、紀元前5世紀に岩盤をくり抜いて建設されたが、南向きの直径130メートルの大規模なもので、当時は61段、約15000人もの観客を収容できた。劇場は、重要な娯楽の場であり、政治においても重要な場所だった。現在も、毎年5月から6月にかけて古代ギリシャ悲劇等が上演されている。
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観覧席の後部となる背後の小高い丘はギリシャ人たちのお墓で、ここから、石切場のディオニュシオスの耳とが繋がっており、牢獄の様子を盗み聞きすることができた。また、いくつもの小さな洞窟があり、特にアーチ状の「ニンファエウムの洞窟」(La Grotta del Ninfeo)は見どころの一つである。


こちらが、「ニンファエウムの洞窟」で、アーチ状の天井下には、長方形の浴槽があり水が注ぎ込んでいる。発掘時には、入口に神殿があり、ミューズに捧げられた彫像(紀元前2世紀)が発見された。近隣の「パオロ オルシ考古学博物館(Museo Archeologico Rgionale Paolo Orsi)」に所蔵されている。


こちらは、シュラクサイ出身で最も有名な人物の一人、古代ギリシャの天才科学者アルキメデス(前287?~前212)が製作した兵器の一つ「投石器」である。アルキメデスは、カルタゴとローマとの第二次ポエニ戦争(前219~前201)の際、シュラクサイがカルタゴ側についたことから、ローマによるシュラクサイ包囲戦に対抗するため多くの軍事兵器を考案した。
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シュラクサイは、アルキメデスの兵器などにより、ローマ軍を大いに苦しめ3年間持ちこたえたが、紀元前212年に陥落した。落城の際、ローマの将軍はアルキメデスを殺さぬよう厳命していたが、アルキメデスは彼と知らなかったローマ兵によって殺された。75才だった。

次にノートに向かう。ノートはシラクーザ県にある基礎自治体(コムーネ)で、シラクサから南西に31キロメートルのイブレイ山脈の台地に属する丘陵地帯にある。シラクサからは高速E45号線で行けるためアクセスが良く、最寄りのインターチェンジを出ると、前方の高台にノートの町並みが見えてくる。
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ノートの街は、1693年の大地震でほぼ完全に瓦解したため、それまでの古い街ノート・アンティカを完全に放棄し、南約10キロメートルの丘の上に新たにバロック様式の美しい建築物を建てた。現在、「ヴァル・ディ・ノートの後期バロック様式の町々」として、世界遺産に登録されている。ヴァル・ディ・ノートとは、アラブ時代、ノート、マザーラ、デモーネと3つのヴァル(行政区分)で統治されていた当時の名残である。

街の東側にあるラウンドアバウトから、西に緩やかな並木道の直線道(ヴィットーリオ・エマヌエーレ通り)を200メートルほど上ると、レアーレ門(Porta Reale)に到着する。この先は、ノートの中心部へと続く歩行者エリアとなる。
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200メートルほど進んだ右側に、噴水のある小さな広場に上り階段があり、その先に「アッシジの聖フランチェスコ教会」のファサードがある。1704年から1745年にかけて、ヴァル・ディ・ノートの再建の主要な建築家の2人、ヴィンチェンツォ・シナトラ(1707~1765)とロザリオ・ガリアルディ(1690~1762)の設計により建てられた。
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路地を挟んで向かい側が「サンティシモ・サルヴァトーレ教会」で、奥に隣接して「ベネディクト会修道院(現:神学校)」と続く。教会、修道院ともに1700年代前半にヴィンチェンツォ・シナトラによって設計されたが、彼は完成前に亡くなっている。

引き続き、ヴィットーリオ・エマヌエーレ通りを西に歩くと、すぐ左側の通り沿いに「サンタ・キアーラ教会」(Chiesa di Santa Chiara)のファサードがあり、左右の柱の上はそれぞれ鐘楼となっている。そして、その鐘楼の屋上が展望台になっている。

そのサンタ・キアーラ教会の鐘楼の上の展望台には、教会内から上ることができる。内部は12本の円柱で支えられた楕円形のプランで、1758年にロザリオ・ガリアルディにより完成している。展望台からは、向かい側のサンティシモ・サルヴァトーレ教会や、東隣りに建つ「アッシジの聖フランチェスコ教会」、街への入口となる「レアーレ門」などが見渡せる。
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西方向には、ヴィットーリオ・エマヌエーレ通りが続き、バロック様式の壮観な街並みが広がっている。左側のロッジアが取り巻く建物は「ドゥチェツィオ宮殿」(Palazzo Ducezio)(現:ノートの市庁舎)で、17 世紀のフランスの宮殿からインスピレーションを得て、建築家ヴィンチェンツォ・シナトラによって 1746年に設計されたが、完成したのは 1830年で、2階はトラーパニ出身の建築家フランチェスコ・ラ・グラッサ(1876~1952)により20世紀前半に建てられた。
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ドゥチェツィオ宮殿の向かい側の広々とした前階段の先には「ノート大聖堂」が聳えている。18世紀初頭に建設が開始され、1776年に完成している。バロックの3大巨匠、ロザリオ・ガリアルディ、パオロ・ラビシ、ヴィンチェンツォ・シナトラが参加して完成させた、ノートでは最も重要なカトリックの礼拝所で、ミラのニコラオス(聖ニコロ)に捧げられている。内部はラテン十字のレイアウトで、3つの身廊に分かれ、中央の身廊は側面の身廊より大きいのが特徴となっている。中央のドームは1996年の身廊の崩壊により損傷したため、修理が行われ2007年に完成している。
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ファサードは、柔らかな石灰岩を使用し、19世紀初頭に改装されたもの。左右の鐘楼は、ノルマン時代から続くシチリア建築の伝統を受け継いでいる。上部に並ぶ4体の彫像は伝道者を表しており、1796年に彫刻家ジュゼッペ・オルランドによって制作された。細いコリント式の柱に挟まれた中央ポーチにはブロンズ製の扉があり、こちらは、1982年ジュゼッペ・ピローネにより制作されたもので、守護聖人聖コラードの生涯が表現されている。この日は、聖堂内部の祭壇画や天井画に覆いがかけられ修復が行われていた。
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大聖堂は、アラン・ドロン主演の映画「ビッグ・ガン」(伊仏1973年)のラストシーンの舞台となった。引退を決意した組織の殺し屋トニー(アラン・ドロン)は、裏切り者として組織に命を狙われ、身代わりとして彼の妻子が爆殺されてしまう。復讐の鬼となったトニーは、次々と組織幹部を血祭にあげていくが、そんな中、和解を提案してきた組織幹部の娘の結婚式に招待されて大聖堂にやってくる。トニーが結婚式を終え大聖堂の階段を下りていると、突如車で現れた友人の裏切りにより撃たれてしまう。寡黙な一匹狼の殺し屋を演じるアラン・ドロンの哀愁漂う姿が印象的な作品だった。

ノート大聖堂の向かいにある「ドゥチェツィオ宮殿(現:庁舎)」は、高さ2メートルほどの基壇上に建っている。ファサードは半円状に突出した形状を持ち、入口へは曲線の階段を上っていく。1階部分は、正面と左右側面までをイオニア式柱で支えられた20のアーチがロッジアを形成している。
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2階は、後年に追加されたもので、長方形の窓に、モダンスタイルな窓上飾りと左右に装飾柱(ピラスター)を配した外観とし、屋上には装飾欄干を備えている。2階部分の装飾欄干はバルコニーとしての役割もある。

1階には、大きな鏡が置かれた楕円形のホールがあり、天井には、画家アントニオ・マッツァが新古典主義で描いた「シチリアの指導者ドゥチェツィオによるノートの建国」のフレスコ画がある。ドゥチェツィオ(紀元前488~紀元前440)は、ギリシャ語で”ドゥークと呼ばれる人”を意味するが、本名はわからない。彼はノート出身で、紀元前460年、民の王に選出され、ギリシャ人入植者に対する最後の先住民の抵抗の象徴ともみなされている。
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ドゥチェツィオ宮殿から西に100メートル行った左側には「テアトロ・コムナーレ・ヴィットーリオ・エマヌエーレ劇場」(Teatro Comunale Vittorio Emanuele)がある。街の再建に伴い、市民からの要望もあり資金が集められ1863年に建設が始まった。ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世(1869~1947)(サヴォイア朝第3代イタリア国王(在位:1900~1946))に捧げられ、1870年に開館した。2階建てでファサードにはハープ、ヴァイオリン、トランペット、花をモチーフにしたコリント式柱頭が施されている。
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小劇場だが、桟敷席が設けられている。座席数は308席で4列ボックス席と88席の桟敷席がある。劇場内の座席や幕は、高級感を演出する深い赤で覆われ、美しいロココ調の装飾が見られる。開館初演は、ドニゼッティの「ランメルモールのルチア」が大成功を収めている。
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劇場は、未完成のまま落成したため、直ぐに玄関ホール前部と装飾が欠落し、機械も状態が悪く、更にメンテナンス作業も行われす危険な状態にあった。1921年から工事が始まり、内装のほとんどを作り直している。天井には古代ギリシャの竪琴(ライアー)を奏でる女性が描かれているが、こちらも1933年に追加されたもの。その後1990年から再修復が行われ、1997年に再オープンしている。
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劇場の向かいには「サン・ドメニコ教会」(Chiesa di San Domenico)が建っている。サンティッシマ・アンヌンツィアータ(最も聖なるお告げの意味)に捧げられ、バロック時代の最も完璧な業績として評価されている。1703年から1727年にかけ、建築家ロザリオ・ガリアルディによってドミニコ会の神父の修道院教会として建てられた。ファサードは下部がドーリア式、上部がイオニア式のオーダーで、中央部は通りに向け突き出た構造となっている。
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来た道を少し戻り、ノート大聖堂の手前を左折すると、緩やかな上り坂のコラード・ニコラーチ通りになる。この通りは、毎年5月の聖体祭の際にインフィオラータ(花祭り)が行われている。すぐ先左手の建物が、通りの名前になった「ニコラーチ・ヴィッラドラータ館」(Palazzo Nicolaci di Villadorata)になる。
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このニコラーチ・ヴィッラドラータ館は、18世紀バロック様式の巨匠パオロ・ラビシの設計である。バルコニー下はユニークで、かつグロテスクなバロック様式の彫刻で有名である。2本の大きなイオニア式柱に挟まれ、バルコニーが乗った大きなポータルと、ライオン、子供、ケンタウロス、翼のある馬、キメラ、人魚の姿をした、互いに異なる彫刻が施されたコーベルで支えられた6つの小さなバルコニー(両側に3つ)で特徴である。
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元々、ニコラーチ・ヴィッラドラータ館は18世紀隆盛を極めていたノートのジャコモ・ニコラーチ男爵の邸宅で、90の部屋がある。現在1階は市立図書館「プリンチペ・ディ・ヴィッラドータ」になっている。こちらは、翼のある馬で、前足を犬のように突き出したポーズがかわいい。
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こちらは人魚の彫刻である。横から見ると背筋を鍛えているようなユニークなポーズをしている。
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ニコラーチ通りの奥にはバロック様式の「モンテ・ベルジネ教会」が建っている。2つの鐘楼に挟まれた凹面のファサードがあり、ニコラーチ通りに奥行きを感じさせてくれる。モンテ・ヴェルジーヌ修道会のベネディクト会修道女のために建てられた。聖ヒエロニムスに捧げられている。教会の建設はヴィンチェンツォ・シナトラが設計し、1762年に完了している。
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近くにあったバールでカフェ休憩をして、ノートを後にした。次にラグーザ県の県都ラグーサに向かうことにしている。時刻はまもなく午後4時半で、日暮れが近づいてきている。夕陽に照らされ黄金に輝いたノートの街並みが美しく見える。ラグーサまでは60キロメートルほどの道のりだが、最寄りのインターチェンジは高速E45号線のため、ノートから行きやすい。
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ラグーサ(Ragusa)も、1693年の巨大な地震で大きな被害を受け、5,000人もの住民が犠牲となったが、その後、西側の標高500メートルの丘の上に新市街(スペリオーレ地区)が、東側の標高400メートルに旧市街(イブラ地区)が、それぞれ渓谷を挟んで、瓢箪状にバロック様式の街並みが再建されている。

ラグーサまでは、最寄りのインターチェンジから5キロメートルほどの近距離だったが、日が暮れたことで道がわからなくなった。そのため、地元らしき人に途中まで先導してもらい、何とか無事にラグーサ新市街(スペリオーレ地区)にある宿泊ホテルに到着することができた。そして、チェックイン後は、荷物を部屋に置き、下り坂の通りを歩いて、見晴らしの良い展望台までやってきた。
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夕食は前方の明かりが灯る旧市街(イブラ地区)にあるリストランテを予約している。展望台からは、折り返し石階段を下り、スピンカーブの続く車道の陸橋下をくぐりながら更に下りて行く。途中、ライトアップされた聖母マリア像が祀られた石の祠を過ぎると、狭いなだらかな通りになる

最後の下り階段の手前から、多数の道路が交わる交差路(ポンティ峡谷の橋)の先に「プルガトーリオ教会」(Chiesa del Purgatorio)を望むことができる(名称は”煉獄”を意味する)。教会自体は1658年創建で、1693年の大地震に耐え抜いたが、1740年に3つの身廊を持つバジリカで再建され、ファザードは1757年に完成している。こちらの教会から東側の高台の街並みが、ラグーサの旧市街(イブラ地区)となる。
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まもなく午後8時になるが、まだ教会は開いていたので、ファザード前の階段を上って入ることにした。身廊は、太いコリント式の柱頭を持つ10本の石柱で分けられ、後陣は身廊の2段上にあり4本のコリント式の柱で縁取られている。多色大理石で制作された浮彫の主祭壇には、大きな「煉獄の魂(1800年)」の祭壇画が飾られている。パレルモの画家、建築家のフランチェスコ・マンノ(Francesco Manno、1754~1831)によるもので、画面には、死するキリスト、聖母マリア、聖ジョルジョ(ゲオルギウス) 、使徒たち、預言者、その他の聖人たちが描かれている。
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翼廊の後陣には、それぞれ礼拝堂がある。向かって右側となる南翼廊には、聖バルバラを描いた聖餐式礼拝堂があり、対する北翼廊には「聖十字架礼拝堂」がある。荒野が描かれた絵画を背景に、木製浮彫の磔刑像(1769年作)が飾られ、左右に、ねじれた柱を備えた、大変豪華な祭壇額に納められている。更に、ねじれた柱は、左右側面にも設置され、それぞれ内側に、悲しみの聖母(左)、福音記者ヨハネ(右)の浮彫像が祭壇の磔刑像を見守っている。

リストランテへは、まず、プルガトーリオ教会に向かって左側に延びる上りの道路を歩いていく。次に、右側の階段を上り、幅の狭い、いかにも旧市街といった石畳の上り坂を進んで行く。しばらく進むと、前方に青い光でライトアップされた「サン・ジョルジョ大聖堂」のドームが見えてくる。
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ドームを右上に見ながら、大聖堂の北翼廊、身廊沿いを通り過ぎると、視界が広がり、ドゥオーモ広場に到着する。振り向くと階段の上に「サン・ジョルジョ大聖堂」(Duomo di San Giorgio)のファサードが聳えている。こちらは、イブラ地区の守護聖人、聖ジョルジョ(ゲオルギオス)に捧げられた教会で、もともとはゴシック様式で建てられていたが、1693年の地震倒壊を受け、1738年にノート出身のバロック建築家ロザリオ・ガリアルディにより工事が始まり、1775年に完成している。
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ファサードは、鐘楼が組み込まれ、尖塔が球根状などの特徴を持っている。左右上下にある渦巻き状の文様浮彫の先端には、聖ペテロ(左上)と聖パウロ(右上)、聖ジョルジョ(左下)と聖ヤコブ(右下)の彫像が飾られている。凹凸をつけた3層の優美なファサードのデザインは地震に倒れにくいとの判断があったとも言われている。そして、前面の鉄製のフェンスは1890年に取り付けられたもの。

ファサードの前のドゥオーモ広場の先は、ヤシの木が並ぶ広い歩道と、なだらかな下りの直線道の参道が貫いている。歩道沿いには、ホテル、カフェ、ショップなどがある。年末で遅い時間でもあり人通りは少ないが、狭い石畳の通りの旧市街のイメージとは違い、お洒落で開放的な目抜き通りと言った印象がある。
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では、リストランテに向かう。一旦来た道を戻り、サン・ジョルジョ大聖堂の北翼廊を過ぎた右側に、今夜の目的地「リストランテ・ドゥオーモ」 (Ristorante Duomo)がある。こちらは、シェフのチッチョ・スルターノ氏が提供するミシュラン2つ星店になる。入口は、木の開き扉と、隣に小さな灯りに照らされた店名パネルと一枚ものの本日のメニューがあるだけで、場所が少し分かり辛い。

この日はヌーベルキュイジーヌ(nouvelle cuisine)とフランス語で書かれた「テイスティング・コース」10皿を頂くことにした。ワインはペアリングでお願いする。こちらは、リコッタチーズ、キャビア、エビなどを使った、アミューズグール(amuse-gueule)になる。
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アペリティフ(aperitif)として、エンリコ・ガッティ フランチャコルタ ブリュット(Enrico Gatti Franciacorta Brut)から始まる。

アントレ・フロワド(Entrées froides)。
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アントレ・ショード(Entrées chaudes)。
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2番目のワインは、白のシャルドネで、グルフィ ヴァルカンツィリア2011(Gulfi Sicilia Valcanzjria)になる。

オードブル(hors d'oeuvre)として、 イワシとアンチョビのスパゲッティである。こちらはお勧め料理の一つ。
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フレイバー風スープ。
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次はPoisson(ポワソン)で、ナスをクリーム状にし、魚卵に見立て、その上にヒメダイ(赤ボラ)を乗せたもの。こちらもお勧め料理の一つ。
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3番目も白ワインで、アヴィデ リフレッシ・ディ・ソーレ インソリア2008(Riflessi di sole Insolia Vittoria D.O.C.)になる。

少し驚いたが再びスパゲッティが提供された。
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お口直しのトリュフ・アイスクリームになる。ここまでは、サイズが小さいので、軽くいただける。ワインと料理が見事にあっており、ここち良い。
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メインのViande(ヴィアンド)の一皿目は、鴨肉で、様々なソースと合わせていただく。
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4番目のワインは赤ワインで、パオロ・カーリ氏のマネーネ・チェラスオーロ・ディ・ヴィットーリア(MANENE Cerasuolo di Vittoria DOCG)(Paolo Cali)になる。ワインが少なくなると継ぎ足してくれる。

メインのViande(ヴィアンド)の二皿目は子羊になる。このころになると、プレートの量は少ないとはいえ、お腹が一杯になってきた。
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グラニテ(granité)は、洋梨のソルベ。
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ワインの最後は、ディジェスティフ(digestif)(デザートワイン)で、カポファーロ マルヴァジア(Malvasia Capofaro )になる。

デセール(dessert)は、シチリア名物のカンノーロで終了となった。
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シチリアの郷土料理を再構築した新しい料理ということで、品質の良い素材(特に魚介類)とシェフの巧みな料理テクニックが見事に調和しており、全ての料理が重く感じず美味しく頂けた。シェフ始めスタッフもフレンドリーで、大変居心地も良かった。

帰りは、満腹感と一日の疲れも合わさって、とても歩けず、タクシーに乗った。歩いてきた距離とは異なり、一方通行が多いことや、谷越えのヘヤピンカーブなどを走行したことから、かなりの距離を感じたが、無事ホテルに到着し一日を終えた。
(2012.12.26)
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