カズさんの旅たび

 ~歴史、文化、芸術、美食紀行。。

インドへの旅(その15)カピラヴァストゥ(ネパール)

2013-03-24 | インド(仏跡)(その2)
昨夜は、国境から3キロメートルほど北にあるバイラワ・バス・パーク近くのホテルに泊まった。夕食の際、ドライバーのヴィージェイから、明日は、ティラウラコットにある「カピラヴァストゥ(カピラ城)」を見学した後、インドに戻り、ピプラーワーに向かう。その後、一路シュラーヴァスティーに向かうと提案があった。


耳を疑った。まず、ティラウラコットまでは、ルンビニーを経由して西へ50キロメートルあるため、往復で100キロメートルになる。

次に、ピプラーワーへは、ティラウラコットからルンビニーへ戻る途中の道路を南下すれば、10キロメートルほどの距離だが、国境を越えたインド側に位置するため、直接は行けない。つまり、バイラワに戻り、インドへの再入国手続きをとった後、スノウリから行くことになる。スノウリからピプラーワーまでの国境沿いを西に向かう道路はないので、大きく南に迂回した後北上して向かうことになり100キロメートル(悪路を通ると最短で60キロメートル)ほどの距離になる。

最後に、ピプラーワーからシュラーヴァスティーまでは約150キロメートルの道程であり、合計すると300キロメートル以上の距離を走行することとなる。日本の感覚なら余裕だが、インドでは道の間違いに加え、悪路や通行止めなど何が起こるかわからない。予想以上に時間がかかると思った方がよい。見学時間が短くなるのは困るが、ヴィージェイは、それは大丈夫だという。しかし、本人はピプラーワーに行ったことはないらしいし、地図を持たずに、どこからその自信は出てくるのであろう。。

いずれにしても、シュラーヴァスティー近くまで行かないと宿がなく、深夜に到着しても、翌朝一で見学に行くことができるなら、やむを得ない選択かもしれないと思い了承した。

ということで、翌朝、7時過ぎにホテルを出て屋台で温かいチャイを頂く。ネパールまで来ると朝はかなり冷え込み寒い。


ティラウラコットに向け出発した。ティラウラコットにある遺跡は、仏陀がシャーキヤ族(釈迦族)のシッダールタ王子として29歳まで過ごしたカピラヴァストゥ(カピラ城)の候補地とされる場所である。候補地とされる理由は、次に訪問予定のピプラーワー(インドに属す)もカピラヴァストゥの遺跡と言われていることから、長年論争が起きており、現時点では、どちらの地が、カピラヴァストゥなのか学術的な裏付けのある最終結論が出ていない。

昨夜のネパール走行用のナンバープレートがフロントガラスにあることを確認して、一路、ティラウラコットに向かう。数分しかたっていないが、早くも「ウエルカム、ルンビニー」のゲートが現れた。妙に早い。。


直線道路が続くので走行しやすいが、ちょっとスピードを出しすぎではないか。。


ティラウラコットへの中継地となるタウリハラのゲートが見えてきた。時間は8時15分で、出発から30分ほどしか立っていない。こんなに順調に移動できるならと欲が出て、もう1か所近くの遺跡を見に行くことにした。


ティラウラコットへは、タウリハラのロータリーから北に行くが、逆に南に行ったすぐのクダン遺跡に向かう。ロータリーの中心には、黄金色の仏陀の坐像がある。


すぐに右側に「クダン遺跡」が見えてきた。仏陀が活躍していた時代、ここは「ニグローダ樹園」と呼ばれており、悟りを開いた仏陀が故郷に戻って来た際に、カピラヴァストゥに戻る前に、仲間の僧侶と滞在した場所と言われている。


通り沿いから門を入ると、公園の様な空間が広がり、前方に煉瓦を積み上げた古びた大きな仏塔らしき遺構が見える。上部には、タルチョー(祈祷旗)らしき旗がはためいている。


その遺構に向かって歩いて行くと、左手にお椀上の小ぶりな丘があり、その頂部に塔が建っている。


おとぎ話に出てくる様な素朴な形をしているのが印象的である。近代の建物だと思われるが、塔の上には地上から伸びた木が絡み付いて枝を広げている。


側面に入口があり塔の中を覗き込むと、シヴァ神の象徴としてのリンガが祀られており、横には、シヴァ神が乗るナンディ(牡牛)像が、そしてガネーシャ像が祀られている。


最初に正面に見えた大きな仏塔らしき遺構には階段が設置され上ることができるようだ。


仏塔の下部側面には、細かい装飾が施されている箇所がある。


鉄柵の階段につかまり上って行くと公園の遊具で遊んでいる感覚に陥りそうだ。仏塔の頂部には、正方形に模られたくぼみの中心にリンガが祀られている。


すぐ北側には、もう1つの仏塔と思われる遺構がある。公園内には他にも遺構が眠っているのか、ゆるやかに起伏する場所があり、散策を続けたいが、時間にゆとりはないので、あきらめて車に戻った。


目的地のティラウラコットには15分ほどで到着した。前6~前5世紀頃、インドには大小さまざまな国がひしめいていたが、この地を治めていたのが、シャーキヤ族(釈迦族)であった。シャーキヤ族は自尊心が非常に強い民族だったが、一部族・小国であったことから、西隣のコーサラ国(インド十六大国の一つ)の支配下にあった。

そのシャーキヤ族のカピラヴァストゥ(カピラ城)があったとされる候補の一つがこの遺跡群と言われ、周りをフェンスで囲まれた東西400メートル、南北550メートルの広さがあり西側が遺跡への入口となっている。立て看板によると見所は「西門、中央遺跡、東門、2つの仏塔」の4か所となっている。それでは入場してみよう。
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最初になだらかなあぜ道を上って行く。


坂に上って右手を見ると、城壁の跡と思われる煉瓦が南側に連なっており、前方にタルチョーが見える。


近づくと、構造物の基壇らしい遺構が見え始めた。


そばには立て看板があり、カピラ城の西門と表示されている。西門は城壁に隣接して長方形状に煉瓦が積まれていることから大きな建造物だったようだ。


横から眺めてみると約6メートル幅の複雑な形をしているのが分かる。おそらく城門は防御や物見のための役割を果たす要塞で、二重(或いは三重)の門で構成されていたと思われる。中央部分は通行しやすいように低めに煉瓦が積まれているが、城の一番手前には煉瓦はない。発掘された際には、基礎はもちろん、銅銭や多くの金属片なども見つかったという。


西門の跡の周りには草木が覆い茂り見るべきものはないようだ。再びあぜ道を歩いて行く。遺跡内は坂が続くことから、カピラ城は、台地の上に聳えていたことが分かる。


しばらくすると、目の前一面に遺跡が広がっている。案内板には「古代の連なった遺跡」と書かれているだけで詳しい表示はないが、あちらこちらに正方形や長方形に煉瓦が複雑に積まれていることから、柱や壁で仕切られた部屋がいくつも並ぶ巨大な建造物だったのだろう。おそらく城の中枢部(主殿)にあたる遺構と思われる。


当時、カピラヴァストゥを治めていたのは、シャーキヤ族の王、シュドーダナ王(浄飯王)であり、その妃マーヤー夫人との間に生れたのがシッダールタ王子(後の仏陀)だった。王子は、この城で、一族の期待を一身に集め、専用宮殿や贅沢な衣服・世話係・家庭教師などを与えられ、教養と体力を身につけ、多感でしかも聡明な青年として育って行く。


引き続きあぜ道を東方向に向かう。


しばらくすると遺構が現れた。こちらは東門があった付近で、カピラ城内のやや北西側から東門方向を眺めている。左側から続く二重の煉瓦の壁が右側で途切れる辺りが東門の場所にあたる。


近づいてカピラ城内の西南側から東門出入口を眺めてみる。東門の周りの煉瓦は、西門と異なり、時代の経過とともに地面が隆起したり陥没をしたのか、煉瓦自体があちらこちらで波打って崩れている。


仏伝によると、シッダールタは、ある日、カピラ城の東西南北にある四つのそれぞれの門の外で、老人、病人、死者、修行者に出会い、その苦しむ姿を目のあたりにして、人生に対する儚さを知り、生の真実を追求しようと志し出家を思い立つ(四門出遊)。そして、29歳となった、ある深夜、愛馬カンタカにまたがり、カンタカの世話をするチャンダカに綱をひかせ、この東門から旅立ったという。

逆に東門の外の通路側からカピラ城の方向を振り返って見る。シッダールタが生活していたころは、様々な建造物が所狭しと立ち並んでいたと思われるが、現在は草木が覆い茂るのみである。


東門から北側には、城壁が歩道の様に続いていることから歩いてみる。


シャーキヤ族は、仏陀の晩年に、コーサラ国のヴィドゥーダバ王(毘瑠璃王、或いはルリ王)により、攻め滅ぼされた。その原因の一つとして、王は、シャーキヤ族の大臣が召使に生ませた娘を母親として生まれたと、シャーキヤ族が嘲笑するのを聞いて、父、母、シャーキヤ族を恨み続けたことが挙げられる。

ヴィドゥーダバ王が、シャーキヤ族を滅ぼすべくカピラヴァストゥに進撃してきた際、仏陀は、これを止めようと、一本の枯れ木の下で坐して待っていた。王が仏陀に「他に青青と茂った木があるのに、なぜ枯木の下に座っているか」と問うと、仏陀は「王よ、親族の陰は涼しいものである。」と静かに答えたという(他人の中に独りで居るよりも、どんなによいことか、の意 )。

王は仏陀の答えを聞いて攻撃を中断するものの、その後、再び攻撃を開始し、再び仏陀と会い攻撃を中断する。やり取りは3度繰り返される(仏の顔も3度)が、仏陀は、その宿縁を止めることは難しいと悟り、4度目の攻撃でシャーキヤ族は滅ぼされた。。

シャーキヤ族の滅亡後は、カピラ城は再建されず、5世紀初頭にこの地を訪れた中国東晋時代の僧、法顕(337~422)によると城址はすでに荒地になり、民家が数10戸があったのみと記録されている。

遺跡の様子や東方面に広がる大地は、法顕が眺めた景色と大きく変わっていないかもしれない。


北側に延びる城壁はしばらくすると左に曲がり、西に向かっていく。広い池のそばを過ぎたその先で、周りを藪で覆われ城壁は途切れている。


しばらく藪をかき分け歩くと、ヒンドゥ教の祠が現れた。祠の左右には大小さまざまの象の彫像が並んでいる。


祠を裏から見ると、木の根と一体化しており、そう遠くない将来には祠は崩壊するだろうと思った。すぐ先で、再び、城壁が現れ、しばらくすると、西側入口に戻った。


次に、城跡から200メートルほど北にあるツイン・ストゥ―パに車で向かった。ストゥ―パの近くには、粗末な藁ぶき屋根の家が並んでいる。シャーキヤ族の末裔なのかもしれない。。


左手にレンガ積みの大小ストゥーパが2つ並んでいる。シッダールタ王子の両親であるシュドーダナ王(浄飯王)とマーヤー夫人の火葬場跡に造られたストゥーパといわれている。


ストゥーパの上は、円状にレンガがきれいに並べられ中心部分がやや盛り上がっている。


最後に、カピラヴァストゥ遺跡の西側入口から500メートルほど西にある博物館へ向かう。午前10時の開館まで5分ほど待っていると、中から係員が現れ扉を開けてくれた。入場料はいらないらしい。


通路の先には、赤い煉瓦造りの展示室が現れた。喜んで館内に入ったが電気が付いておらず、辺りは暗い。


目が慣れてくると、展示ケースは傾き、ガラスは埃だらけ、床のカーペットはめくれあがりまるで廃墟のようである。展示物は、カピラヴァストゥ遺跡から発掘されたものだろうが、なんだか良くわからない。


外に出て周りを見渡すと、足元に無造作に仏龕彫刻が置かれている。


通路の両脇には小屋が並んでおり、突き当たりには大きめの小屋が見える。


通路の両脇にある小屋を覘くと、鉄格子の奥には、蔓の紋様が刻まれた石の部材が一つだけ見える。


通路の突き当たりまで行ってみた。東屋の様な建屋の下には円台があり、その上に、柱頭や梁、破風などの装飾部材だと思われる遺物が、無造作に並んでいる。円台に載らない遺物は、地面や柱に傾けて置かれている。もう少し、展示の仕方を工夫すれば良いと思った。10分ほど見学して帰り際に係員に挨拶すると、何やら照れくさそうな表情をしていた。

(2012.11.25)
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インドへの旅(その14)ルンビニー(ネパール)

2013-03-24 | インド(仏跡)(その2)
時刻は午前9時40分、これから八大聖地の1つで、仏陀の生誕地ルンビニー(ネパール)へ向かう。クシナーガルからルンビニーへに向かうためには、まず50キロメートル西にあるゴーラクプルを起点に、95キロメートル北上したスノウリまで行き、そこで国境を越える。さらに5キロメートル北上したバイラワから西に20キロメートルほど行ったところが、ルンビニーである。インドは日本と同じ左側通行だが、相変わらずルールを無視してバイクが逆走して来る。
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しばらく走行すると急に中央分離帯がなくなり細い田舎道になった。道路の舗装も剥げ落ち、粉塵や土埃が酷くなり乗り心地が悪い。しばらくすると前方からラクダの大群がやってきたので驚いた。
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クシナーガルを出発して1時間が経過すると、左側に防壁のある空軍基地が現れた。
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午前11時にゴーラクプル市内に到着した。ゴーラクプルは、ウッタル・プラデーシュ州の都市で、ゴーラクプル県の県都である。人通りも多くなり、さすがに賑やかだ。西に向かって来た27号線から、24号線に乗り換え北に向かう。
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午後12時、お腹が減ってきたので、バナナ、リンゴ、ミカン、ミネラルウォーターを買う(計80ルビー)。お腹を壊さないためには、果物は皮付きを買い、良く洗ってから剥いて食べることが鉄則である。
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午後1時半、トイレ休憩。。
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その後、ガソリンスタンドで燃料を30リッター(料金は1,500ルビー)補給する。
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午後2時、通りが混雑し始め、左右に店舗が並びだした頃、ようやく国境沿いの町スノウリに到着した。
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インド人がネパールに出国する際は出国手続きの必要がないので、ドライバーのヴィージェイは先にネパール側に行って待っているという。右側の古びた建物がイミグレーションオフィスだが、周りの店と佇まいが同じなので少しわかりづらい。
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インド観光ビザの有効期間は半年間だが、一度インドから出国すると2か月間再入国ができない面倒な決まりがある。この問題をクリアするためには、予め、Eチケットのコピーと、英文の旅行日程を事前にビザ申請センターに提出し、再入国可の数次ビザを取得する必要がある。そのため国内で事前に手続きを取ってきた。

カウンター受付に管理官が3名いて、更にその奥に座る数人の管理官が見える。出国カードをもらって立ったまま記入しパスポートと一緒に渡すと、管理官がチェックし、数人分を束にして後ろの管理官に渡す。10分ほど待つと名前を呼ばれ刻印が押されたパスポートが無事返された。心配していたがあっさり手続きが終わり感謝しつつネパール方面に歩いて向かう。
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前方にネパールの国境ゲートが見えてきた。
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国境ゲートを越えると、すぐに右手にネパール側のイミグレーションオフィスがある。綺麗な建物で、中に入ると、他に待っている旅行者はいなかった。
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出国同様にあっという間に手続きが終わりしばらく歩くと、右手の駐車場で、ヴィージェイが白ひげにトーピーを被っているネパール人と話し込んでいた。両替をしたいと言うと、そのネパール人はチャイを差出し自分が両替をすると言う。若干怪しいと思ったが、1000ルビーを差し出すと、男は懐からネパール札束を取り出し1600ネパールルビーをくれた。

ヴィージェイには、緑色スチール板に手書きで白い文字が書かれたもの(デワナガリー文字が書かれたナンバープレート)を手渡されている。インドの車でネパールに入国する際は国境でネパールナンバーを取得する必要がある。取得後はフロントガラス前に置いておけばOKとのこと。その後、近くのホテルでチェックインをして、ルンビニーに向かった。
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しばらく走ると、突然ヴィージェイの顔色が変わった。前方に、拳銃を下げた警官らしき人物が数人見える。。どうやら検問のようだ。窓を開けると、警官は、車内を覗き込んで「どこから来たのか、どこへ行くのか、鞄には何が入っている、開けろ!」とやたらしつこい。そのうち問題ないと判断したのか「行ってよい」と許可が出た。ほっとして再び車を進めるが、時間は午後3時を過ぎていた。30分ほど走ると左側に公園が見えてきた。
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到着したようだ。駐車場に車を停めて、急ぎルンビニー園に向かう。ルンビニー園は、後に仏陀となるゴータマ・シッダールタの生誕の地として世界中に知られており、1997年にはユネスコの世界遺産として登録されている。前方には円形の池があり、その中心に立つ塔上には右手を上げる幼きシッダールタ王子の彫像が飾られている。
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塔の下は、ちいさなオブジェが7つあるが、シッダールタ王子の足跡を表したもの。マーヤー夫人の右脇から生まれたシッダールタは、直後に七歩歩いて右手で天を指し、左手で地をさして「天上天下唯我独尊」と言った伝説に基づいている。
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池の東側に見えるオレンジが鮮やかな近代的な建物はミュージアムである。
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南側には煉瓦が敷き詰められた歩道が見渡す限り伸びており、中央には人工の水路が続いている。ルンビニー園までは2キロメートルほど先になるが、既に聖地公園の聖域に入っている。もともと仏陀の生誕地の周囲を聖地公園として整備する計画が立案され、1978年に日本の建築家丹下健三氏がマスタープランを作成して整備が進められた。しかし工事着工後20年以上経過したにも関わらずまだ完成していない。

既に、日の入りも近いせいか誰も歩いていない。急ぎ足で歩いて行くと遠くかららボートが波しぶきを上げながら現れた。送迎用のボートなのだろうか、周りの景色とそぐわないので、多少違和感を覚えた。
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歩道の左右(東西)には、木々が覆い茂っており、その向こうに寺院が見える。各国の寺院は東西に林立している。宿泊できる寺院も多いが、ホテルやゲストハウスなどのもこの聖域周囲にある。
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ようやくルンビニー聖園が近づいてきた。ルンビニー聖園は周りを池に囲まれた直径500メートルほどの円状の公園になっている。
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午後4時10分、ルンビニー聖園への入口に到着した。
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入口を入ると奥に白いマーヤー夫人堂(マーヤー・デーヴィー寺院)が見える。現在のお堂は、それまであった古い夫人堂が解体された後、2000年に新たに建設されたものである。
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右手にアショーカ王柱が見える。これは紀元前3世紀にマウリア王朝のアショーカ王がこの地を巡礼した際に建立した石柱である。
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表面には、インドの古語ブラフミー文字が見える。石柱には「神々に愛されたピダヤシ王(アショーカ王)は、即位灌頂して20年の後、自らここに来て参拝した。ここで、シャーキヤ族(釈迦族)の聖者仏陀が生まれたからである。。。仏陀がここに生まれたのを記念して、馬の石像を造り石柱を立てさせ、ルンビニー村は税金を減ぜられ、8分の1だけを払うものとされる。」と書かれている。この石柱からは馬の柱頭石像は失われているが、1977年に馬の首の破片も発見された。
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マーヤー夫人堂の南にはプスカリニ池があり、ここが、マーヤ夫人が沐浴し仏陀が産湯をつかった池と言われている。
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池のさらに南には、巨大な菩提樹が聳えておりタルチョーがはためいている。
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菩提樹の周りの石座では僧侶が経を唱えている。
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マーヤー夫人堂の周りには、紀元前3世紀から4世紀の僧院跡が広がっている。
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マーヤー夫人堂内にも多くの遺構が残されている。遺跡内には見学用の回廊が張り巡らされている。特に、見学コースの中心付近は警備員が配置され警備が厳重である。覗き込むと光が当たった白い小さな石が見える。この標石(マーカーストーン)の場所が仏陀が誕生した場所であるという。
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その後、外から再びマーヤー夫人堂を眺める。来訪者も少なく夕日に照らされる聖地を眺めていると、無事ここまで来られたことに喜びと安堵感が広がった。
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しばらく聖園内を散策していると日の入りの時間となった。ゆっくり滞在できないのが残念ではあるが、駐車場までの距離を考えるとそろそろ出発しなければならない。土産店を通り元来た道を歩く。
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水路が現れた。「永遠の平和の火」と名付けられたモニュメントがあり、この先さらに駐車場まで2キロメートル歩く。
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車で再びバイラワに戻った。時間は午後6時半である。そのまま食事に行く。
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長い一日だった。今日は長距離走行の上、無事国境を越えて、ルンビニー園の見学もできた。充実感に浸りながらビールを飲む。
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(2012.11.24)
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