昨夜は、国境から3キロメートルほど北にあるバイラワ・バス・パーク近くのホテルに泊まった。夕食の際、ドライバーのヴィージェイから、明日は、ティラウラコットにある「カピラヴァストゥ(カピラ城)」を見学した後、インドに戻り、ピプラーワーに向かう。その後、一路シュラーヴァスティーに向かうと提案があった。
耳を疑った。まず、ティラウラコットまでは、ルンビニーを経由して西へ50キロメートルあるため、往復で100キロメートルになる。
次に、ピプラーワーへは、ティラウラコットからルンビニーへ戻る途中の道路を南下すれば、10キロメートルほどの距離だが、国境を越えたインド側に位置するため、直接は行けない。つまり、バイラワに戻り、インドへの再入国手続きをとった後、スノウリから行くことになる。スノウリからピプラーワーまでの国境沿いを西に向かう道路はないので、大きく南に迂回した後北上して向かうことになり100キロメートル(悪路を通ると最短で60キロメートル)ほどの距離になる。
最後に、ピプラーワーからシュラーヴァスティーまでは約150キロメートルの道程であり、合計すると300キロメートル以上の距離を走行することとなる。日本の感覚なら余裕だが、インドでは道の間違いに加え、悪路や通行止めなど何が起こるかわからない。予想以上に時間がかかると思った方がよい。見学時間が短くなるのは困るが、ヴィージェイは、それは大丈夫だという。しかし、本人はピプラーワーに行ったことはないらしいし、地図を持たずに、どこからその自信は出てくるのであろう。。
いずれにしても、シュラーヴァスティー近くまで行かないと宿がなく、深夜に到着しても、翌朝一で見学に行くことができるなら、やむを得ない選択かもしれないと思い了承した。
ということで、翌朝、7時過ぎにホテルを出て屋台で温かいチャイを頂く。ネパールまで来ると朝はかなり冷え込み寒い。
ティラウラコットに向け出発した。ティラウラコットにある遺跡は、仏陀がシャーキヤ族(釈迦族)のシッダールタ王子として29歳まで過ごしたカピラヴァストゥ(カピラ城)の候補地とされる場所である。候補地とされる理由は、次に訪問予定のピプラーワー(インドに属す)もカピラヴァストゥの遺跡と言われていることから、長年論争が起きており、現時点では、どちらの地が、カピラヴァストゥなのか学術的な裏付けのある最終結論が出ていない。
昨夜のネパール走行用のナンバープレートがフロントガラスにあることを確認して、一路、ティラウラコットに向かう。数分しかたっていないが、早くも「ウエルカム、ルンビニー」のゲートが現れた。妙に早い。。
直線道路が続くので走行しやすいが、ちょっとスピードを出しすぎではないか。。
ティラウラコットへの中継地となるタウリハラのゲートが見えてきた。時間は8時15分で、出発から30分ほどしか立っていない。こんなに順調に移動できるならと欲が出て、もう1か所近くの遺跡を見に行くことにした。
ティラウラコットへは、タウリハラのロータリーから北に行くが、逆に南に行ったすぐのクダン遺跡に向かう。ロータリーの中心には、黄金色の仏陀の坐像がある。
すぐに右側に「クダン遺跡」が見えてきた。仏陀が活躍していた時代、ここは「ニグローダ樹園」と呼ばれており、悟りを開いた仏陀が故郷に戻って来た際に、カピラヴァストゥに戻る前に、仲間の僧侶と滞在した場所と言われている。
通り沿いから門を入ると、公園の様な空間が広がり、前方に煉瓦を積み上げた古びた大きな仏塔らしき遺構が見える。上部には、タルチョー(祈祷旗)らしき旗がはためいている。
その遺構に向かって歩いて行くと、左手にお椀上の小ぶりな丘があり、その頂部に塔が建っている。
おとぎ話に出てくる様な素朴な形をしているのが印象的である。近代の建物だと思われるが、塔の上には地上から伸びた木が絡み付いて枝を広げている。
側面に入口があり塔の中を覗き込むと、シヴァ神の象徴としてのリンガが祀られており、横には、シヴァ神が乗るナンディ(牡牛)像が、そしてガネーシャ像が祀られている。
最初に正面に見えた大きな仏塔らしき遺構には階段が設置され上ることができるようだ。
仏塔の下部側面には、細かい装飾が施されている箇所がある。
鉄柵の階段につかまり上って行くと公園の遊具で遊んでいる感覚に陥りそうだ。仏塔の頂部には、正方形に模られたくぼみの中心にリンガが祀られている。
すぐ北側には、もう1つの仏塔と思われる遺構がある。公園内には他にも遺構が眠っているのか、ゆるやかに起伏する場所があり、散策を続けたいが、時間にゆとりはないので、あきらめて車に戻った。
目的地のティラウラコットには15分ほどで到着した。前6~前5世紀頃、インドには大小さまざまな国がひしめいていたが、この地を治めていたのが、シャーキヤ族(釈迦族)であった。シャーキヤ族は自尊心が非常に強い民族だったが、一部族・小国であったことから、西隣のコーサラ国(インド十六大国の一つ)の支配下にあった。
そのシャーキヤ族のカピラヴァストゥ(カピラ城)があったとされる候補の一つがこの遺跡群と言われ、周りをフェンスで囲まれた東西400メートル、南北550メートルの広さがあり西側が遺跡への入口となっている。立て看板によると見所は「西門、中央遺跡、東門、2つの仏塔」の4か所となっている。それでは入場してみよう。
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最初になだらかなあぜ道を上って行く。
坂に上って右手を見ると、城壁の跡と思われる煉瓦が南側に連なっており、前方にタルチョーが見える。
近づくと、構造物の基壇らしい遺構が見え始めた。
そばには立て看板があり、カピラ城の西門と表示されている。西門は城壁に隣接して長方形状に煉瓦が積まれていることから大きな建造物だったようだ。
横から眺めてみると約6メートル幅の複雑な形をしているのが分かる。おそらく城門は防御や物見のための役割を果たす要塞で、二重(或いは三重)の門で構成されていたと思われる。中央部分は通行しやすいように低めに煉瓦が積まれているが、城の一番手前には煉瓦はない。発掘された際には、基礎はもちろん、銅銭や多くの金属片なども見つかったという。
西門の跡の周りには草木が覆い茂り見るべきものはないようだ。再びあぜ道を歩いて行く。遺跡内は坂が続くことから、カピラ城は、台地の上に聳えていたことが分かる。
しばらくすると、目の前一面に遺跡が広がっている。案内板には「古代の連なった遺跡」と書かれているだけで詳しい表示はないが、あちらこちらに正方形や長方形に煉瓦が複雑に積まれていることから、柱や壁で仕切られた部屋がいくつも並ぶ巨大な建造物だったのだろう。おそらく城の中枢部(主殿)にあたる遺構と思われる。
当時、カピラヴァストゥを治めていたのは、シャーキヤ族の王、シュドーダナ王(浄飯王)であり、その妃マーヤー夫人との間に生れたのがシッダールタ王子(後の仏陀)だった。王子は、この城で、一族の期待を一身に集め、専用宮殿や贅沢な衣服・世話係・家庭教師などを与えられ、教養と体力を身につけ、多感でしかも聡明な青年として育って行く。
引き続きあぜ道を東方向に向かう。
しばらくすると遺構が現れた。こちらは東門があった付近で、カピラ城内のやや北西側から東門方向を眺めている。左側から続く二重の煉瓦の壁が右側で途切れる辺りが東門の場所にあたる。
近づいてカピラ城内の西南側から東門出入口を眺めてみる。東門の周りの煉瓦は、西門と異なり、時代の経過とともに地面が隆起したり陥没をしたのか、煉瓦自体があちらこちらで波打って崩れている。
仏伝によると、シッダールタは、ある日、カピラ城の東西南北にある四つのそれぞれの門の外で、老人、病人、死者、修行者に出会い、その苦しむ姿を目のあたりにして、人生に対する儚さを知り、生の真実を追求しようと志し出家を思い立つ(四門出遊)。そして、29歳となった、ある深夜、愛馬カンタカにまたがり、カンタカの世話をするチャンダカに綱をひかせ、この東門から旅立ったという。
逆に東門の外の通路側からカピラ城の方向を振り返って見る。シッダールタが生活していたころは、様々な建造物が所狭しと立ち並んでいたと思われるが、現在は草木が覆い茂るのみである。
東門から北側には、城壁が歩道の様に続いていることから歩いてみる。
シャーキヤ族は、仏陀の晩年に、コーサラ国のヴィドゥーダバ王(毘瑠璃王、或いはルリ王)により、攻め滅ぼされた。その原因の一つとして、王は、シャーキヤ族の大臣が召使に生ませた娘を母親として生まれたと、シャーキヤ族が嘲笑するのを聞いて、父、母、シャーキヤ族を恨み続けたことが挙げられる。
ヴィドゥーダバ王が、シャーキヤ族を滅ぼすべくカピラヴァストゥに進撃してきた際、仏陀は、これを止めようと、一本の枯れ木の下で坐して待っていた。王が仏陀に「他に青青と茂った木があるのに、なぜ枯木の下に座っているか」と問うと、仏陀は「王よ、親族の陰は涼しいものである。」と静かに答えたという(他人の中に独りで居るよりも、どんなによいことか、の意 )。
王は仏陀の答えを聞いて攻撃を中断するものの、その後、再び攻撃を開始し、再び仏陀と会い攻撃を中断する。やり取りは3度繰り返される(仏の顔も3度)が、仏陀は、その宿縁を止めることは難しいと悟り、4度目の攻撃でシャーキヤ族は滅ぼされた。。
シャーキヤ族の滅亡後は、カピラ城は再建されず、5世紀初頭にこの地を訪れた中国東晋時代の僧、法顕(337~422)によると城址はすでに荒地になり、民家が数10戸があったのみと記録されている。
遺跡の様子や東方面に広がる大地は、法顕が眺めた景色と大きく変わっていないかもしれない。
北側に延びる城壁はしばらくすると左に曲がり、西に向かっていく。広い池のそばを過ぎたその先で、周りを藪で覆われ城壁は途切れている。
しばらく藪をかき分け歩くと、ヒンドゥ教の祠が現れた。祠の左右には大小さまざまの象の彫像が並んでいる。
祠を裏から見ると、木の根と一体化しており、そう遠くない将来には祠は崩壊するだろうと思った。すぐ先で、再び、城壁が現れ、しばらくすると、西側入口に戻った。
次に、城跡から200メートルほど北にあるツイン・ストゥ―パに車で向かった。ストゥ―パの近くには、粗末な藁ぶき屋根の家が並んでいる。シャーキヤ族の末裔なのかもしれない。。
左手にレンガ積みの大小ストゥーパが2つ並んでいる。シッダールタ王子の両親であるシュドーダナ王(浄飯王)とマーヤー夫人の火葬場跡に造られたストゥーパといわれている。
ストゥーパの上は、円状にレンガがきれいに並べられ中心部分がやや盛り上がっている。
最後に、カピラヴァストゥ遺跡の西側入口から500メートルほど西にある博物館へ向かう。午前10時の開館まで5分ほど待っていると、中から係員が現れ扉を開けてくれた。入場料はいらないらしい。
通路の先には、赤い煉瓦造りの展示室が現れた。喜んで館内に入ったが電気が付いておらず、辺りは暗い。
目が慣れてくると、展示ケースは傾き、ガラスは埃だらけ、床のカーペットはめくれあがりまるで廃墟のようである。展示物は、カピラヴァストゥ遺跡から発掘されたものだろうが、なんだか良くわからない。
外に出て周りを見渡すと、足元に無造作に仏龕彫刻が置かれている。
通路の両脇には小屋が並んでおり、突き当たりには大きめの小屋が見える。
通路の両脇にある小屋を覘くと、鉄格子の奥には、蔓の紋様が刻まれた石の部材が一つだけ見える。
通路の突き当たりまで行ってみた。東屋の様な建屋の下には円台があり、その上に、柱頭や梁、破風などの装飾部材だと思われる遺物が、無造作に並んでいる。円台に載らない遺物は、地面や柱に傾けて置かれている。もう少し、展示の仕方を工夫すれば良いと思った。10分ほど見学して帰り際に係員に挨拶すると、何やら照れくさそうな表情をしていた。
(2012.11.25)
耳を疑った。まず、ティラウラコットまでは、ルンビニーを経由して西へ50キロメートルあるため、往復で100キロメートルになる。
次に、ピプラーワーへは、ティラウラコットからルンビニーへ戻る途中の道路を南下すれば、10キロメートルほどの距離だが、国境を越えたインド側に位置するため、直接は行けない。つまり、バイラワに戻り、インドへの再入国手続きをとった後、スノウリから行くことになる。スノウリからピプラーワーまでの国境沿いを西に向かう道路はないので、大きく南に迂回した後北上して向かうことになり100キロメートル(悪路を通ると最短で60キロメートル)ほどの距離になる。
最後に、ピプラーワーからシュラーヴァスティーまでは約150キロメートルの道程であり、合計すると300キロメートル以上の距離を走行することとなる。日本の感覚なら余裕だが、インドでは道の間違いに加え、悪路や通行止めなど何が起こるかわからない。予想以上に時間がかかると思った方がよい。見学時間が短くなるのは困るが、ヴィージェイは、それは大丈夫だという。しかし、本人はピプラーワーに行ったことはないらしいし、地図を持たずに、どこからその自信は出てくるのであろう。。
いずれにしても、シュラーヴァスティー近くまで行かないと宿がなく、深夜に到着しても、翌朝一で見学に行くことができるなら、やむを得ない選択かもしれないと思い了承した。
ということで、翌朝、7時過ぎにホテルを出て屋台で温かいチャイを頂く。ネパールまで来ると朝はかなり冷え込み寒い。
ティラウラコットに向け出発した。ティラウラコットにある遺跡は、仏陀がシャーキヤ族(釈迦族)のシッダールタ王子として29歳まで過ごしたカピラヴァストゥ(カピラ城)の候補地とされる場所である。候補地とされる理由は、次に訪問予定のピプラーワー(インドに属す)もカピラヴァストゥの遺跡と言われていることから、長年論争が起きており、現時点では、どちらの地が、カピラヴァストゥなのか学術的な裏付けのある最終結論が出ていない。
昨夜のネパール走行用のナンバープレートがフロントガラスにあることを確認して、一路、ティラウラコットに向かう。数分しかたっていないが、早くも「ウエルカム、ルンビニー」のゲートが現れた。妙に早い。。
直線道路が続くので走行しやすいが、ちょっとスピードを出しすぎではないか。。
ティラウラコットへの中継地となるタウリハラのゲートが見えてきた。時間は8時15分で、出発から30分ほどしか立っていない。こんなに順調に移動できるならと欲が出て、もう1か所近くの遺跡を見に行くことにした。
ティラウラコットへは、タウリハラのロータリーから北に行くが、逆に南に行ったすぐのクダン遺跡に向かう。ロータリーの中心には、黄金色の仏陀の坐像がある。
すぐに右側に「クダン遺跡」が見えてきた。仏陀が活躍していた時代、ここは「ニグローダ樹園」と呼ばれており、悟りを開いた仏陀が故郷に戻って来た際に、カピラヴァストゥに戻る前に、仲間の僧侶と滞在した場所と言われている。
通り沿いから門を入ると、公園の様な空間が広がり、前方に煉瓦を積み上げた古びた大きな仏塔らしき遺構が見える。上部には、タルチョー(祈祷旗)らしき旗がはためいている。
その遺構に向かって歩いて行くと、左手にお椀上の小ぶりな丘があり、その頂部に塔が建っている。
おとぎ話に出てくる様な素朴な形をしているのが印象的である。近代の建物だと思われるが、塔の上には地上から伸びた木が絡み付いて枝を広げている。
側面に入口があり塔の中を覗き込むと、シヴァ神の象徴としてのリンガが祀られており、横には、シヴァ神が乗るナンディ(牡牛)像が、そしてガネーシャ像が祀られている。
最初に正面に見えた大きな仏塔らしき遺構には階段が設置され上ることができるようだ。
仏塔の下部側面には、細かい装飾が施されている箇所がある。
鉄柵の階段につかまり上って行くと公園の遊具で遊んでいる感覚に陥りそうだ。仏塔の頂部には、正方形に模られたくぼみの中心にリンガが祀られている。
すぐ北側には、もう1つの仏塔と思われる遺構がある。公園内には他にも遺構が眠っているのか、ゆるやかに起伏する場所があり、散策を続けたいが、時間にゆとりはないので、あきらめて車に戻った。
目的地のティラウラコットには15分ほどで到着した。前6~前5世紀頃、インドには大小さまざまな国がひしめいていたが、この地を治めていたのが、シャーキヤ族(釈迦族)であった。シャーキヤ族は自尊心が非常に強い民族だったが、一部族・小国であったことから、西隣のコーサラ国(インド十六大国の一つ)の支配下にあった。
そのシャーキヤ族のカピラヴァストゥ(カピラ城)があったとされる候補の一つがこの遺跡群と言われ、周りをフェンスで囲まれた東西400メートル、南北550メートルの広さがあり西側が遺跡への入口となっている。立て看板によると見所は「西門、中央遺跡、東門、2つの仏塔」の4か所となっている。それでは入場してみよう。
クリックで別ウインドウ開く
最初になだらかなあぜ道を上って行く。
坂に上って右手を見ると、城壁の跡と思われる煉瓦が南側に連なっており、前方にタルチョーが見える。
近づくと、構造物の基壇らしい遺構が見え始めた。
そばには立て看板があり、カピラ城の西門と表示されている。西門は城壁に隣接して長方形状に煉瓦が積まれていることから大きな建造物だったようだ。
横から眺めてみると約6メートル幅の複雑な形をしているのが分かる。おそらく城門は防御や物見のための役割を果たす要塞で、二重(或いは三重)の門で構成されていたと思われる。中央部分は通行しやすいように低めに煉瓦が積まれているが、城の一番手前には煉瓦はない。発掘された際には、基礎はもちろん、銅銭や多くの金属片なども見つかったという。
西門の跡の周りには草木が覆い茂り見るべきものはないようだ。再びあぜ道を歩いて行く。遺跡内は坂が続くことから、カピラ城は、台地の上に聳えていたことが分かる。
しばらくすると、目の前一面に遺跡が広がっている。案内板には「古代の連なった遺跡」と書かれているだけで詳しい表示はないが、あちらこちらに正方形や長方形に煉瓦が複雑に積まれていることから、柱や壁で仕切られた部屋がいくつも並ぶ巨大な建造物だったのだろう。おそらく城の中枢部(主殿)にあたる遺構と思われる。
当時、カピラヴァストゥを治めていたのは、シャーキヤ族の王、シュドーダナ王(浄飯王)であり、その妃マーヤー夫人との間に生れたのがシッダールタ王子(後の仏陀)だった。王子は、この城で、一族の期待を一身に集め、専用宮殿や贅沢な衣服・世話係・家庭教師などを与えられ、教養と体力を身につけ、多感でしかも聡明な青年として育って行く。
引き続きあぜ道を東方向に向かう。
しばらくすると遺構が現れた。こちらは東門があった付近で、カピラ城内のやや北西側から東門方向を眺めている。左側から続く二重の煉瓦の壁が右側で途切れる辺りが東門の場所にあたる。
近づいてカピラ城内の西南側から東門出入口を眺めてみる。東門の周りの煉瓦は、西門と異なり、時代の経過とともに地面が隆起したり陥没をしたのか、煉瓦自体があちらこちらで波打って崩れている。
仏伝によると、シッダールタは、ある日、カピラ城の東西南北にある四つのそれぞれの門の外で、老人、病人、死者、修行者に出会い、その苦しむ姿を目のあたりにして、人生に対する儚さを知り、生の真実を追求しようと志し出家を思い立つ(四門出遊)。そして、29歳となった、ある深夜、愛馬カンタカにまたがり、カンタカの世話をするチャンダカに綱をひかせ、この東門から旅立ったという。
逆に東門の外の通路側からカピラ城の方向を振り返って見る。シッダールタが生活していたころは、様々な建造物が所狭しと立ち並んでいたと思われるが、現在は草木が覆い茂るのみである。
東門から北側には、城壁が歩道の様に続いていることから歩いてみる。
シャーキヤ族は、仏陀の晩年に、コーサラ国のヴィドゥーダバ王(毘瑠璃王、或いはルリ王)により、攻め滅ぼされた。その原因の一つとして、王は、シャーキヤ族の大臣が召使に生ませた娘を母親として生まれたと、シャーキヤ族が嘲笑するのを聞いて、父、母、シャーキヤ族を恨み続けたことが挙げられる。
ヴィドゥーダバ王が、シャーキヤ族を滅ぼすべくカピラヴァストゥに進撃してきた際、仏陀は、これを止めようと、一本の枯れ木の下で坐して待っていた。王が仏陀に「他に青青と茂った木があるのに、なぜ枯木の下に座っているか」と問うと、仏陀は「王よ、親族の陰は涼しいものである。」と静かに答えたという(他人の中に独りで居るよりも、どんなによいことか、の意 )。
王は仏陀の答えを聞いて攻撃を中断するものの、その後、再び攻撃を開始し、再び仏陀と会い攻撃を中断する。やり取りは3度繰り返される(仏の顔も3度)が、仏陀は、その宿縁を止めることは難しいと悟り、4度目の攻撃でシャーキヤ族は滅ぼされた。。
シャーキヤ族の滅亡後は、カピラ城は再建されず、5世紀初頭にこの地を訪れた中国東晋時代の僧、法顕(337~422)によると城址はすでに荒地になり、民家が数10戸があったのみと記録されている。
遺跡の様子や東方面に広がる大地は、法顕が眺めた景色と大きく変わっていないかもしれない。
北側に延びる城壁はしばらくすると左に曲がり、西に向かっていく。広い池のそばを過ぎたその先で、周りを藪で覆われ城壁は途切れている。
しばらく藪をかき分け歩くと、ヒンドゥ教の祠が現れた。祠の左右には大小さまざまの象の彫像が並んでいる。
祠を裏から見ると、木の根と一体化しており、そう遠くない将来には祠は崩壊するだろうと思った。すぐ先で、再び、城壁が現れ、しばらくすると、西側入口に戻った。
次に、城跡から200メートルほど北にあるツイン・ストゥ―パに車で向かった。ストゥ―パの近くには、粗末な藁ぶき屋根の家が並んでいる。シャーキヤ族の末裔なのかもしれない。。
左手にレンガ積みの大小ストゥーパが2つ並んでいる。シッダールタ王子の両親であるシュドーダナ王(浄飯王)とマーヤー夫人の火葬場跡に造られたストゥーパといわれている。
ストゥーパの上は、円状にレンガがきれいに並べられ中心部分がやや盛り上がっている。
最後に、カピラヴァストゥ遺跡の西側入口から500メートルほど西にある博物館へ向かう。午前10時の開館まで5分ほど待っていると、中から係員が現れ扉を開けてくれた。入場料はいらないらしい。
通路の先には、赤い煉瓦造りの展示室が現れた。喜んで館内に入ったが電気が付いておらず、辺りは暗い。
目が慣れてくると、展示ケースは傾き、ガラスは埃だらけ、床のカーペットはめくれあがりまるで廃墟のようである。展示物は、カピラヴァストゥ遺跡から発掘されたものだろうが、なんだか良くわからない。
外に出て周りを見渡すと、足元に無造作に仏龕彫刻が置かれている。
通路の両脇には小屋が並んでおり、突き当たりには大きめの小屋が見える。
通路の両脇にある小屋を覘くと、鉄格子の奥には、蔓の紋様が刻まれた石の部材が一つだけ見える。
通路の突き当たりまで行ってみた。東屋の様な建屋の下には円台があり、その上に、柱頭や梁、破風などの装飾部材だと思われる遺物が、無造作に並んでいる。円台に載らない遺物は、地面や柱に傾けて置かれている。もう少し、展示の仕方を工夫すれば良いと思った。10分ほど見学して帰り際に係員に挨拶すると、何やら照れくさそうな表情をしていた。
(2012.11.25)