カズさんの旅たび

 ~歴史、文化、芸術、美食紀行。。

フランス・アルザス(その2)

2016-08-02 | フランス(アルザス)
リクヴィールを出発し、途中のニーダーモルシュヴィアのワイナリー(Domaine Albert Boxler)で買い物して、午後2時前に「リボヴィレ(Ribeauvillé)」に到着した。リボヴィレはオーラン県コミューンで、コルマールの30キロメートル北、ストラスブールからは75キロメートル南に位置しており約5000人が住んでいる。
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アルザスワイン街道の村の中では一番規模が大きく、アルザス地方を訪れた観光客も必ずと言って良いほど訪れる。町並みは洗練され、夏のリゾート地を感じさせるお洒落な軽装スタイルで歩く人も多く、散策していて気持ちがいい。「アルザスワイン街道( Rooute des Vines d'Alsace)」(地図はこちら)

リボヴィレの云われは、8世紀にバーゼル司教の領地から、ラポルトシュタイン伯爵(Rappoltstein)の領地となり、フランス語では、Ribeaupierreと呼ばれたことから、現在の名称となった。西側のヴォージュ山脈には、町の目抜き通り(グラン・クリュ通り)からも見えるサンウルリッヒ城(Château de Saint-Ulrich)(標高528メートル)や、ギンズバーグ城、オー・リポーピエール城の3つの城を戴く山々が迫り、周辺には最高級のグラン・クリュ畑が広がっている。
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どちらかと言うと、観光するより、町の雰囲気を楽しむ方がお勧めかもしれない。お腹も空いたため、グラン・クリュ通りの中ほどにあるカフェ(Brasserie de la Poste)のテラスでランチを頂くことにした。美しい町並みや人通りを眺めながら頂いていると、すっかり町を堪能した気分になった。

アルザスの町や村では、屋根の上などに、コウノトリの巣が見られ、このリボヴィレも、コウノトリの里として知られているが、路地裏を優雅に歩くコウノトリにお目にかかることができた!


グラン・クリュ通りを西に進むと町の中心部の広場に到着する。中央には16世紀制作のライオン像の水場があり、左側には1773~1778年に建てられた市庁舎が建っている。広場の先(西側)に建つ塔は「メッツガートゥルム(Metzgerturm)」(肉屋の塔の意)で、城門を兼ねた監視塔であった(13世紀築)。現在も鐘を鳴らして時を知らせている。
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リボヴィレをさらさらっと散策した後、次に14キロメートル北にある「オー・ケニグスブール城」(Chateau du Haut-Koenigsbourg)に向かった。城は、標高700メートル以上の東西に伸びる細長い楕円形の頂きに建てられており、それを取り囲む様に西側から左回りの一方通行の道路が走っている。駐車場は道路沿いの縦列駐車で、空き場所がない場合は周回することになる。到着した入口のある東側からは、セレスタの町並みやアルザス平野を見下ろすことができる。
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入口は東側にある坂道を徒歩で上った城の南側の中ほどにある。城がいつ建てられたかは不明だが、12世紀にホーエンシュタウフェン家のものとなり、15世紀にはハプスブルグ家の居城となった。1633年、三十年戦争(1618~1648)においてスウェーデン軍に破壊された後は数百年もの間、森に覆われていた。

現在の城は、1870年から1871年の普仏戦争の後、この地域がドイツ帝国領土に組み込まれたことを記念して、ヴィルヘルム2世(ドイツ皇帝)の要請の下、建築家ボドエバルトが1900年から1908年にかけて修復したもので、現在では、年間50万人もの観光客が訪れる。

ところで、この城は、1937年に製作・公開されたフランス映画、ジャン・ルノワール監督、ジャン・ギャバン主演の「大いなる幻影」のロケ地となった。第一次世界大戦下のドイツ捕虜収容所を舞台に、自由を求め、脱走を繰り返す様々な国の階級の人々の姿を描いた作品で、城は「ウィンタースボルン将校捕虜収容所」として使われ、外壁をロープで脱出するシーンなども撮影された。


入口には戦艦を思わせる城の模型が飾られていた。今回は時間的に厳しくなったことから、ここまで来たにも関わらず、外観のみの見学で引き返し、次の目的地「モンサントオディール修道院」(Mont sainte odile)に向かった。


一旦セレスタまで下山した後、街道を17キロメートルほど北上し、バールから13キロメートルほど山道を上って行く。モンサントオディール修道院(ホーエンブール修道院)はヴォージュ山脈の標高753メートル地点のバラン県オットロットにある聖女オディールによって設立された修道院である。山頂は、南西から北東になだらかに広がる細長い楕円形で、南西側にある駐車場の先に正面入口がある(修道院案内図はこちら)


大きなアーチ門をくぐると、更に通路が前方に延び、周りには木々が多い茂っている。左側には、巡礼者用のホテルがあり、右側には、聖母マリアに捧げられた教会(ノートルダム大聖堂)が建っている。火災等により何度も崩壊を繰り返しているが、バロック様式の基礎は1692年のもので、現在の建物はフランス革命後再建されたもの。


教会を右手に見ながら正面のアーチ門をくぐると、中央に聖女オディールの彫像が飾られた中庭が現れる。ところで、オディールは、660年頃フランク三分国の一つアウストラシア領域にあったアルザス公国アダルリック公爵の娘として盲目で誕生した。盲目を恥辱と考えた公爵は娘の殺害を図ろうとするが、いち早く妃がブルゴーニュの修道院に預けて救われる。修道院で育てられ12歳になったオディールが洗礼を受けると、奇跡が起こり、視力を取り戻したと伝えられている。


視力を取り戻し成長したオディールはこの地にあったホーエンブール城に戻されるが、公爵に強引に政略結婚を進められたことから城を脱出する。公爵は岩山へ追い詰めるものの、突如岩がオディールを覆い隠す奇跡を目の当たりにする。公爵は神の業を見て、ホーエンブール城を提供し、修道院に改築することとした。こうしてオディールは、680年ホーエンブールの女子修道院の初代院長になった。

庭園を左側に見ながら、正面の扉から回廊沿いの建物に入ると、廊下の先にフレスコ画が描かれた礼拝堂への入口がある。廊下のすぐ左側には、別の礼拝堂への入口があり、そこには十数名ほどが座れる小さい祭壇があり、脇に聖オディールの墓が収められている。


修道院は、1150年、修道院長リンディス(relindis)の就任後に大きく発展する。しかし、その後、度重なる火災と再建が続き、1650年修道院長プレモントレ(Prémontrés)により再建される。フランス革命後は国有財産として売却されるが、1853年にはストラスブール司教が購入し修道院に戻している。現在では、聖女オディールは、アルザスの守護聖人でもあり、修道院は、目に病気を持つ人々にとっての貴重な巡礼場所になり、年間130万人もの観光客や巡礼者が訪れている。

修道院の北東部には、庭園とテラスが広がり、中央には、アルザスのヌーブール(Neubourg)修道院の修道士によって作られた18世紀の日時計が建っている。その先に修道院の外観全体を見渡せることができる。奥に見える鐘楼の頂部には、聖女オディールが飾られアルザスの平野を見下ろしている。1924年に完成したもので、それまでの小さな尖塔に代わって建てられた。鐘楼には31の鐘があり、最大のものは5トンある。ちょうどこの時間、午後6時の鐘が鳴り始め山々に美しい音色が響き渡った。。
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鐘の音を聞きながら、テラスから北東側を一望すると美しいアルザス平野の景色が広がっており何とも癒される。北東側(中央)15キロメートル先に見える町並みはオベルネで、7世紀にはアルザスの公爵の領地で、オディールの生誕地だった。更に先にかすかに見える町並みがストラスブールになる。
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テラスの北東側の敷地の最先端には、小さなチャペル「涙の礼拝堂」(Chapelle des larmes)と「天使の礼拝堂」(Chapelle des Anges)がある。


手前の「涙の礼拝堂」から入ってみると、天井は黄金に輝く美しいモザイク画で覆われている。中央上部には、杯を持つキリストを中心に信仰する修道女がサークル状に描かれている。その下には、向かって右側には修道院の第2代院長(在:721~735)で聖オディールの姪の「アルザスの聖ユージニア」(Eugénie)が、左側にはローマ教皇、聖レオ9世(元エギスハイム伯爵)が描かれている。何度か火事で荒廃した修道院は1050年に教皇レオ9世によって再建されている。
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左端から、白いスカプラリオを纏う修道女は修道院長の聖リンディスで、この涙の礼拝堂や天使の礼拝堂などは、彼女の就任中に建てられた。次は聖アッタラ(Attala)で聖オディールの姪にあたる(拡大画像)。窓を挟んで右側が、シュヴァーベンの聖リヒャルディス(Richardis)で、近郊のアンドー(Andlau)修道院長も務めた。夫はカール3世(フランク王)である。最後に右端が、1176~1195年に修道院長を務めたランツベルクの聖ヘラート(Herrade)である(拡大画像)
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入口の上の壁面には、アルザス公国アダルリック公爵と聖オディールが描かれている。祈りを捧げる聖オディールの背中には、ラテン語で「彼女のとりなしにより、父親アダルリックの魂を救った(解放した)」と書かれている。
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もう一つのチャペル「天使の礼拝堂」(Chapelle des Anges)は、窓が少ないことから堂内はかなり暗い。実は、コインを入れるとライトがつく仕組み(涙の礼拝堂も同様)だが、しばらく気が付かなかった。こちらの礼拝堂のモザイク画は碧系の色合いを背景に、聖書の場面が表現されている。正面は「キリストの昇天」を表しており、ライトを点灯させると、特にキリスト、聖母マリア、天使などの金色のモザイク片に反射して、一層美しく輝いて見える。
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中央に吊り下げられたシャンデリアもモザイクで造られている。そして、こちらは「キリストの降誕」で、それぞれの登場人物や動物の細かいしぐさや色合いも丁寧に表現されている。
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こちらには、ドラゴンを退治する聖ジョルジュ(ゲオルギオス)が描かれている。背景には、波を切って進む帆船に、カモメが舞い、島には教会らしき建物が建っている。そして海岸付近に生える草花や貝殻まで細かく表現されている。ドラゴンの周りから顔を覗かせるフクロウはユーモラスがある。訪問した時間が遅かったのか、狭い空間にも関わらず、空いておりじっくり見学できたことは有難かった。
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下山してオベルネを経由し、約40キロメートル約1時間ほどで今夜の宿泊ホテルに到着した。ホテルは、ストラスブールの南西部イル川沿いの「コンフォート・ホテル・ストラスブール・ウエスト(Comfort Hotel Strasbourg Ouest)」で、チェックインを終えた後、トラムに乗り中心部にあるレストランに出かけた。

ホテルからは400メートル歩き、モンターニュ・ヴェルト駅(Line B、Line F)からトラムに乗り、5つ目のオム・ド・フェール駅で下車する。このあたりがストラスブールの旧市街中心部になる。(トラム路線図)


目的地は、南西方向に延びる「フォセ・デ・タヌール通り(Fossé-des-Tanneurs)」を200メートルほど歩いた裏路地にあるアルザス料理店「ヴィンステュブ・エスカエシェル(Winstub S'Kaechele)」である。


木が覆い茂る気持ちの良いテラスに座り、最初に、「シェフが作る鴨のフォアグラ」を注文する。


次に、グリーンサラダ、「肉入りザワークラウト」(カスラー、フランクフルト、スモークアルザスソーセージ、塩豚、スモークベーコン、ジャガイモ)。とにかくビールがやたら飲める。。


最後に、「アルザスチキンコルドンブルーとマンステールチーズ、ポテトのソテー」を注文した。マンステールチーズは、アルザス地方を代表するウォッシュチーズでやや香りは強いがまろやかな舌ざわりが特徴である。


食後、オム・ド・フェール駅と逆方向(南西方面)にフォセ・デ・タヌール通りを少し進むと、突き当りのイル川の畔に到着する。この辺りがストラスブールの人気観光スポット「プティット・フランス」(Petite France)になる。川沿いの手すりから身を乗り出し、コロンバージュの白と黒の鮮やかなコントラストに見入っていると、観光船(水上バス)が通過していった。明日再訪予定なので、少しだけ散策してから再びトラムに乗り、ホテルへ戻った。
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今日も、モンターニュ・ヴェルト駅(Line B、Line F)からトラムに乗り、3つ目のフォブール・ナシオナル駅で下車して、これから市内の散策をすることにしている(前方が旧市街方面)。ストラスブールでは、中心部の一部地域が車両進入禁止ゾーンとなっているため、郊外の駐車場に駐車してトラムに乗り換えて都心部に向かう「パークアンドライド方式」が取り入れられている。ちなみにこの沿線では、乗車駅の一駅郊外側のエルゾー駅に大型駐車場が設置されている(トラム路線図)


フォブール・ナシオナル駅のすぐ先は、南北にフォー・ランパール運河(イル川の支流)が流れ、その内側から旧市街が始まる。トラム線が走る橋(歩行禁止)北隣のメール・キュス通りが通る「キュス橋」では、歩行者以外の車両は侵入できないようにバリケードが築かれているが、先週から今週にかけてドイツで多発したテロ事件の影響からか、周りには数人の警官も配置され物々しい雰囲気である。そのキュス橋を渡った先に見える(北側に面した)大きなファサードは、1130年に創立し1382年からのゴシック建築が残るサン・ピエール・ル・ヴュー教会(カトリック)である。
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キュス橋を渡り右折した先の隣路地からは、教会(南側)の内陣が僅かに見えるが、手前に時計塔が聳え、教会の袖廊と直結する小鐘楼と大きな礼拝堂が並ぶ複雑な構造になっている。実は、こちらは同教会のプロテスタント教会で両派が隣接しているのである。
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ところで、ストラスブールには、他にもサン・ピエール教会が2か所ありややこしい。運河の下流800メートルほどの右岸には、サン・ピエール・ル・ジュヌ教会(1524年よりプロテスタント教会)(旧教会)があり、更に数百メートル先の左岸にはサン・ピエール・ル・ジュヌ教会(カトリック教会)がある。
これは、ストラスブールが、ルネサンス期の宗教改革後、いち早くプロテスタントを受け入れていた歴史的背景があると言われている。

フォー・ランパール運河に並行する「ドセ通り」を南に進むと、前方に縦長直方体に切妻屋根ある「要塞塔(4棟)」が見えてくる。そして、右側の川面には郊外から流れ込んだイル川の水量を調節するための連続アーチが並ぶ「ヴォーバン・ダム(17世紀末)」(ストラスブール南西部に設置)が設置され、東側へのイル川と北側へのフォー・ランパール運河とに分岐している。その分岐したイル川と運河は再び下流で合流するが、その間に囲まれた島状の区域が「グラン・ディル」(大きな島の意)と呼ばれ、ストラスブール中心部(旧市街)を形成している。

東側に向かうイル川は、前方の「ポン・クヴェール橋」手前で、4つの水路に分かれ、200メートルほど下流で再び一つの流れとなる独特な景観を作っている。その最初の水路左側(下流側)には絵画の様な風景が続いている。橋を渡っている際、下を観光船(水上バス)が通り過ぎてダムに向かっていった。
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2番目の水路を渡り、3番目と4番目との水路の間にある中洲には通路が延びている。その中洲内の通路を東方向にしばらく歩いて途中で振り返ると、ポン・クヴェール橋沿いに建つ「要塞塔」や、その奥に「ヴォーバン・ダム」などを望むことができる。


中洲内の通路は突き当りの丁字路になり、左折すると石畳の「ムーラン通り」になる。再び3番目と2番目の水路を橋で渡り、最後に1番目の水路に架かる「フェザン橋(Pont du Faisan)」を渡る。橋上から左側の上流方向を眺めると、穏やかな水面に建物の姿が鏡の様に写っている。


右側を眺めると水路は大きく右に曲がって流れていくのが見える。対岸の護岸には古びた煉瓦が積み重なり、その上には緑に覆われたレストラン(La corde a linge)のテラスが並ぶ「バンジャマン・ジクス広場(Place Benjamin-Zix)」がある。


フェザン橋を渡った先を右折すると、通りの両側に二階から上が張り出した白い壁と黒い柱と梁のコロンバージュの建物が覆いかぶさるように並んでいる(左手前のテラスのあるレストラン(Le Lohas)の建物は1676年築)。この白と黒のコントラストが織りなす景観エリアは、中世より人の往来が激しく交易地として栄えた場所で、製粉業者、革職人、漁師など多くの商人が住んでいた。。このエリアが「プティット・フランス」と呼ばれるストラスブールを代表する観光スポットである。
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右側の「レストラン・メゾン・ド・ タヌール(Maison des Tanneurs)」と左先の土産物店の先が、フェザン橋から見えたバンジャマン・ジクス広場になる。「プティット・フランス」とは、16世紀初頭、ナポリを包囲から戻りこの街に立ち寄ったフランス王シャルル8世(在:1483~1498)所属のランツクネヒト(傭兵)が、性病に罹っていたため隔離するためのホスピスが建てられたが、そのホスピスをドイツ人たちが「フランスのようにふしだらな場所」と蔑称したことが由来となっている。
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水路沿いに設けられた手すりから右側を眺めると、2階と3階に無数の”筋交い”と、窓辺の赤いゼラニウムが鮮やかなレストラン・メゾン・ド・ タヌールが、水路にせり出す様に建っている。もともと1572年に建てられた革職人のための会合所で、今も屋根裏には皮を乾燥させたオープン・ロフトが残っている。1949年から現在のレストランとなっている。
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昨夜はあまり位置関係を理解していなかったが、観光船(水上バス)が通過して行った水路はこの場所であった。前方の「フェザン橋」は、油圧で右回りに90度回転し右岸に寄せられ(可動橋)、空いた左側を通過する仕組みとなっている。フェザン橋は14世紀に木造の橋が造られ1854年に最初の可動橋となった。現在の油圧式の可動橋は1999年に設置されたものである。

振り返って左側の下流側を眺めると、すぐ先に閘門があり水上バスが停泊している。水上バスは100メートル下流の桟橋を出発し、この閘門で水路の高低差を調整した後、フェザン橋を通過しフォー・ランパール運河からグラン・ディル(旧市街)を周回してイル川下流の「欧州議会」付近まで運行している。ちなみに4つに分かれていた水路は、閘門の先で再び一つのイル川の流れになる。
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なお、右側には、ホテル リージェント ペティート フランス & スパがあり、ストラスブールでは最高級の五つ星ホテルの一つで、プティット・フランスの景観を堪能できる。

「プティット・フランス」は「グラン・ディル」(旧市街)の西南部に位置しており、次は、旧市街の中ほどにある「ストラスブール大聖堂」に向かうことにする。最初にレストラン(La corde a linge)横から延びる「ダンテル通り」を歩いて東方向に進むと、12世紀に建設されたルター派教会の「サン・トマ教会」が見えてくる。宗教改革者としてストラスブールに教会の改革に尽力した神学者マルチン・ブツァー(1491~1551)が説教を行ったことでも知られている。
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サン・トマ教会の広場には数人でいっぱいになる様な小さなメリーゴーランドがあり、子供が一人乗っていた。更に東に進み「ディヴィジオン通り(Division Leclerc)」を横断し、その先にショップなどが数多く並ぶ「セリュリエ通り(Rue des Serruriers)」に入る。今日は土曜日で、どこも観光客や買い物客で通りは賑わっている


しばらくすると広い通りになり「グーテンベルク広場」に到着する。中央にルネサンス三大発明の一つ、活版印刷技術を発明したことで知られる「ヨハネス・グーテンベルク」の像が立っていることから名付けられた。グーテンベルグはドイツ・マインツで生まれたが、その後ストラスブールに移住し、1445年頃に活版印刷技術を発明した。
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背景の3階建てのゴシック建築の豪華な建物は、旧市役所で、現在は商工会議所として利用されている。像のすぐ横には巨大な2層のメリーゴーランドがあるが、この日は2人ほどの子供が乗っているだけだった。しかし、クリスマス・マーケットのシーズンには、多くの子供たちで賑わうのだろう。

グーテンベルク像を右側に見ながら通り過ぎた先を左折して石畳の「メルシエール通り」に入ると、両脇に土産物屋が数多く並び、こちらも観光客で賑わっている。そして北東方面に通りに覆いかぶさる様に聳える巨大な「ストラスブール大聖堂(ノートルダム・ド・ストラスブール大聖堂)」(カトリックの大聖堂)が現れる。旧市街の中ほどにあり、街のランドマークとなっている。
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聖堂は、アルザス・ヴォージュ産の赤砂岩を建材とし、1015年から1439年までの長い年数をかけて建設された。エルヴィン・フォン・スタインベック(1277年から1318年まで携わる)など多くの建築者が工事に関わっている。

西側正面ファサードの鐘楼頂部まで高さは142メートルあり、「カテドラル広場」前からカメラに収めるのは困難なほどの巨大さである。教会としては世界第6位の高さだが、1647年から1874年までは世界一の高さを誇っていた。片側(北側)だけにある鐘楼はややアンバランス感はあるがそのことが特徴にもなっている。屋上テラス(高さ66メートル)は展望台となっている。
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ファサードには、身廊幅いっぱいに広がるバラ窓を中心に、採光を最大限に得るため3層構造のアーケードが配され、小尖塔や狭い間隔で装飾的な仕切りの骨組み(トレーサリー)を取り入れた後期ゴシックのコート・スタイル様式となっている。石のレース編みと讃えられる透かし細工の華麗な技法も見られる。中央最下部には、彫像が並ぶ5層の弧帯(アーキヴォルト)に「キリスト受難」が表現されたタンパンを持つ中央扉があり、左右に4層の弧帯を持つ扉口が並んでいる。
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ファサードの南側から大聖堂の内陣方向を眺めてみる。ゴシック建築の特徴である身廊と側廊とを繋ぐフライング・バットレスや小尖塔などが並んでいる。南袖廊の頂部が修復工事の最中で、そのすぐ北側に中央ドームが僅かに見える。
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では、ファサード側に向かって左側の扉口から入場する。聖堂に入ると、左右の身廊や側廊から取り入れられる外光の下、圧倒されそうなくらい広い空間が現れる。身廊の北側には、吊り下げパイプオルガン(1385年制作で内部の機構は1981年)が設置され、前方には精巧な彫刻が施された説教壇(1484年)などがある。


北側廊の窓には、主に12世紀から13世紀に遡る19人の神聖ローマ帝国皇帝がステンドグラスに(5枚にかけて)が描かれている。「皇帝の窓」と呼ばれ、こちらは西端にある窓で左からハインリヒ1世(在:919~936)、フリードリヒ2世(バルバロッサ)(在:1152~1190)、ハインリヒ2世(在:1002~1024)である。
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身廊上部に並ぶ12~15世紀のステンドグラスには数多くの彩色が組み合わさり荘厳な世界を演出している。
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説教壇を過ぎ振り返ると、吊り下げパイプオルガンの奥にバラ窓が美しく輝いているのが望める。


クロッシングの上部には高さ58メートルのドームがあり、その先にロマネスク様式の主祭壇がある。祭壇にはキリストが描かれたステンドグラスを中心に周りをフレスコ画が取り囲んでいる。祭壇は15世紀から19世紀のものだが、建設自体は古く最初に建造されたことから、ロマネスク様式となっている。
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クロッシングの南袖廊には高さ18メートルの天文時計があり、世界最大の天文時計の一つとされている。最初のものは14世紀に作られたが、現存するものは18世紀に作られた「からくり時計」である。12時半には12使徒などを象った人形が動き出す。隣には「天使の柱 (Pilier des anges)」があり「最後の審判」を柱で表現している。
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次に、外に出て南側廊にある展望台入口に向かう。その入口近くのベンチの横には、大聖堂の模型が置かれており、この模型を俯瞰的に見ると、聖堂全体の形状が良く把握できる。特に鐘楼の高さに驚かされた。
さて、展望台へは、332段の螺旋階段を上って行く。かなりきついが一方通行になっているのは有難い。上り詰めた屋上テラスには雨除けの平屋の建物が設置されており、その扉口から外に出ると展望台になる。向かい側には、高い鐘楼が聳えている
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展望台の中央には、市内の空中写真と名所案内が記載された円形の方位盤が置かれている。まず東側を眺めると、大聖堂の屋根は鮮やかなターコイズ(藍緑色)で、中央交差部の重厚な雰囲気の八角形のドームと南北に伸びる袖廊が目の前に見える。
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前方やや左側に見える2本の塔(高さは76メートル)は、1897年に建てられたネオゴシック様式の聖ポール教会(聖パウロ)で、その少し手前に運河が流れ、すぐ右側でイル川に合流している。そして聖ポール教会の左後方に僅かに見えるガラス張りの円柱を取り囲む近代建築は、イル川下流の畔に建つ「欧州議会」である。

次に聖堂南側のシャトー広場に隣接する中庭を持つパリ風の宮殿は、1732年に建てられたストラスブール司教の住居「ロアン宮」で、ルイ14世付の建築家ロベール・ド・コットにより設計された。現在は装飾博物館、ストラスブール美術館、考古学博物館の3つのミュージアムとなっている。そして通りを挟んだ右側の切妻屋根は「ルーブル・ノートルダム美術館」で、以前は大聖堂の倉庫として使われていた。通路の先にはイル川が流れ、水上バスの乗り場がある。
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南西側を見ると、先ほどまで歩いてきた「ディヴィジオン通り」の先に「サン・トマ教会」が見える。そのすぐ先が「プティット・フランス」辺りで、遠く背景にはヴォージュ山脈が見わたせる。
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下りの螺旋階段は鐘楼の身廊側に設置されており、途中まで周りの景色を眺めながら下りることができる。このタイミングで、真上から大聖堂の午後12時の鐘が鳴り始めたので驚いたが、徐々に慣れてきた。鐘は15分近く鳴り響いていた。


階段を下りていくと、身廊と北側廊を繋ぐフライング・バットレスの構造も観察でき、ガーゴイル(雨樋の機能をもつ、怪物風の彫刻)の形やステンドガラスの窓の様子も良く見える。
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カテドラル広場のファサード前では、おじさんがアコーディオンでシャンソンを弾いており、流れるメロディが古き良きフランスを感じさせてくれる。そのファサードの北側には、1427年に建てられた黒色の「メゾン・カメルツェル(Maison Kammerzell)」が広場に面して建っている。こちらは繊細な浮彫が施された木組みの中に80ほどの多くの凸面ガラスの窓が並ぶ歴史的にも貴重なコロンバージュである。
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そのメゾン・カメルツェルの左側を通り「オルフェーヴル通り(Rue des Orfèvres)」を北に向けて進むと、洋服、貴金属、化粧品などのショップやパン屋、ワインショップ、薬局などが軒を連ねる繁華街となっている。この通りも多くの観光客で賑わっている。


オルフェーヴル通りの突き当りに建つ「テンプル・ヌフ教会」前を左折して進むと、すぐに旧市街の中心広場「クレベール広場」に到着する。北側の広場全体に面した幅100メートルほどの豪華な建造物は「オーベット(Aubette)」と言い、1765~1772年にフランスの建築家ブロンデルによって建てられたもの。軍の駐屯地、カフェ、教育施設などに使用された後、1926年、3人の前衛芸術家により改装され、現在は複合娯楽施設になっている。


広場の中央には、東側に向いてナポレオン時代の総司令官「ジャン・バティスト・クレベール」(1753~1800)の像が飾られている。クレベール広場とは、1840年に、彼の栄光を称えて名付けられた。将軍自身は生誕の地となるこの像の下に眠っている。背後西側に建つ建物は、フランス国内に多くの店舗を持つ小売チェーンのフナック(fnac)である。フナックとオーベット間のすぐ先が、昨夜トラムを下車したオム・ド・フェール駅になる。


クレベール像の横に立ち、歩いてきた南東側を振り返ると、左側に「テンプル・ヌフ教会」の塔が、右側には「ノートルダム大聖堂」の鐘楼が望める。


以上で「グラン・ディル」(旧市街)の観光は終了である。オム・ド・フェール駅の西側に延びる 歩行者通り(Rue du Vieux-Marché-aux-Vins)でケバブを買い、途中から混雑を避け、運河沿いを歩いて、フォブール・ナシオナル駅からトラムに乗ってホテルに戻った。午後1時過ぎには、ストラスブールを後にし、一路フランクフルト空港に向かった。その日の便で無事帰国の途についた。
(2016.7.29~30)

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フランス・アルザス(その1)

2016-08-01 | フランス(アルザス)
ここは、フランス・アルザス地方の南半分を占めるオー・ラン県の県都「コルマール(Colmar)」の旧市街で「プティット・ベニス」(小さなベニス)と呼ばれる運河沿いの人気観光スポットである。周りは中世ルネサンス期に建てられた木組みの建物や可愛い花で飾られている。
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アルザス地方は、フランス北東部にあるヴォージュ山脈と東側に流れるライン川に挟まれた肥沃な土壌に広がる一帯で、ボルドー、ブルゴーニュに並ぶフランス三大ワインの一つアルザスワインの生産地として知られている。特に、北のストラスブール西方に位置するマルレンハイムから、南はミュルーズ近郊のタンまでの、ブドウ畑や中世から続く街並みを縫って走る全長170キロメートルの間を、「アルザスワイン街道( Rooute des Vines d'Alsace)」(地図はこちら)と呼んでおり多くの観光客が訪れる。

昨日は、ドイツとフランスとの国境に接するスイスの「バーゼル」からA35号線を60キロメートル北上し、コルマール近郊の「オテル・ロワ・ソレイユ・プレスティージ(Roi Soleil Prestige)」に宿泊した。夕食は、前方に見える切妻屋根の赤い煉瓦造りの建物、レストラン(R JY'S)で頂いたが、久しぶりのフランス料理は大変美味しかった。

レストランにはテラス席もあったが、昨夜は店内で頂いた。頂いた料理は(4プレートセット、アミューズアントレメイン(魚)メイン(肉)デザート1デザート2デザート3ミニャルディーズ)(69ユーロ)で大変満足できた。ワインなどは、クローズ・エルミタージュ(Crozes hermitage meysonn)、ヴェル・クレマン(Verre cremant rose)、ピノ・グリ(Pinot gris)、トリンバック(Verre riesling trimbach)、Gewurtz bott gell、Verre chat caronne、Biere pressionを頂いた。

プティット・ベニスから視線を右側に移していくと、エコール通りに沿い(北側)に古びた港の倉庫の様な建物がある。 「コルマール屋内市場(Le Marché couvert de Colmar)」で、運河沿いに40メートル×50メートルほどの矩形の敷地を持ち、入口は、南、西、北側の三つの通りに面している。


建物は1865年に造られたが、近年は駐車場等で使用され、2010年から現在の市場となった。市場内には新鮮な野菜や果物、乳製品、加工肉などの特産品を購入することができ、お土産にも最適な食材が並んでいる(日、月曜日は休み)。


こちらはチーズ専門店だが、日本ではあり得ないほど多くの種類が並んでいる。
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こちらは、パイ、キッシュ、チーズケーキなどのお店。
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そして魚屋さん。鮭、マグロ、タラなど新鮮な魚の切り身、海老イカ、貝、牡蛎の箱詰めなどが売られている。
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市場の北口から出てタナール通りを左へ100メートルほど進むと、左側に様々な可愛らしいデコレーションで外観を飾るレストラン「ブラッスリー・ド・タヌール(Brasserie Des Tanneurs)」が見えてくる。観光客の撮影ポイントとなっている。
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右側には水路が流れ、その水路に沿って帽子店がある。アーチ窓に向けて並べられた帽子は、お洒落なショーウインドーで見入ってしまう。

すぐ先のテラス席が並ぶ場所から二股に分かれた道を右側に進むと「アンシエンヌ・デュアンヌ広場」(Ancienne Douaue)となり、中央に「シュウェンディの噴水」がある。銅像のモデルは、オーストリア軍司令官兼神聖ローマ帝国軍の将軍ラザール・ド・シュウェンディ(1522~1583)で、ピノ・グリ種をアルザスにもたらした貢献者としても知られている。ちなみに銅像は「自由の女神」で有名なコルマール生まれのバルトルディ(1898年制作)の手によるもの。
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銅像の後ろに回り込んでみる。将軍の前方に突き上げた右手には、ピノ・グリ種の苗木が握られ、その先にゴシック様式とルネサンス様式の緑色の屋根の建物が建っている。1480年に建てられたコイフハウス(旧税関庁舎、Koïfhus)で、現在は、フィリップ・オベーリン(アンペログラフィー研究者)により1895年に設立されたワイナリー「ドメーヌ・ヴィティコール・ド・ラ・ヴィル・ド・コルマール(Domaine Viticole de la Ville de Colmar)」が営業している。

そのワイナリーのアーケードをくぐり反対側に出ると、石畳のマルシャン通り(商人通り)になり、古い建物がひしめく様に建っている。アルザス地方は、第二次世界大戦で多くの建物が損壊したが、このコルマールは、戦禍を免れたことから、ルネサンス期に建てられた貴重なコロンバージュ(木造軸組構法)様式の建物が多く残っている。
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通りの右角に、1階がアーケードで、2階から3階に絵が描かれた褐色木材の出窓と繊細な装飾尖塔など特徴的な「プフィスタの家(Maison Pfister)」が建っている。1537年にブザンソン出身の帽子製造業者ルイ・シェレにより建てられたもので、2004年公開のジブリ作品「ハウルの動く城」に登場したことで有名になった。その「プフィスタの家」の手前を右折した先にコウノトリの巣のある「サン・マルタン教会」の屋根が見える。
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コルマール旧市街中心部にある「サン・マルタン教会」は、西暦1000年前後にカロリング様式で建てられたが、その後ロマネスク様式で建て替えられた。現在の建物は1234年から1365年にかけて建てられたもので、鐘楼は火災の後の1572年にルネサンス様式で付け加えられた。中でも南袖廊にあるファサード扉口のロマネスク彫刻は見所である
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教会前に建つ切妻屋根のコロンバージュの2棟は、14世紀に建てられた「アドルフの家(Maison Adolph)」で、プフィスタの家と背中合わせに建っている。そして、右隣の装飾浮彫が美しい出窓のある建物は、1575年に建てられた「コープス・デ・ガード(Corps de garde de Colmar)」で市庁舎や警備隊詰所として使用された。それまではこの場所にサンジャック礼拝堂があり今も遺構が残っている。1階のアーチをくぐるとマルシャン通り(商人通り)に出ることができる。いずれの建物も歴史的建造物となっている。


100メートルほど北西に歩くと「ドミニコ教会」に到着する。1289年に建てられ18世紀にゴシック様式で再建されたもので、1795年に憲兵舎や教師のための予備校になり、1951年には、市立図書館が開設するなど変遷を繰り返した。教会は、1948年以降、歴史的建造物となっている。


この時間(9時半)は、サン・マルタン教会からドミニコ教会の広場で朝市が開かれ多くの特設テントが建てられていた。南側廊の扉口から2.5ユーロ支払いドミニコ教会内に入ると、祭壇側にマルティン・ショーンガウアーの絵画作品が展示されている。ショーンガウアー(1450頃~1491)は、金細工職人だった父のもと、コルマールで生まれ、特に北ヨーロッパの先進的な彫刻家、版画家として知られ116点の作品を残している。


そのショーンガウアーが手掛けた絵画で最も有名な作品とされているのが、こちらの「薔薇の生け垣の聖母子」である。もともとは「サン・マルタン教会」のために描かれたが、盗難に遭った後の1973年よりこの「ドミニコ教会」で展示されている。作品は、彼の版画による名声がヨーロッパ中に広まった1473年頃のもので、縦2メートル×横115センチメートルのサイズがあり、美しく装飾された黄金の祭壇に納められている。
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作品は、大きな真紅のローブをまとったやや不安げな表情の聖母が幼子を抱き、その聖母の頭上に左右の天使が王冠をかぶせようとしている。背景には、赤い薔薇が描かれているが、聖母の視線の先には一凛の白い薔薇が、将来訪れる受難を示している(拡大画像はこちら)

次に、ドミニコ教会からクレベール通りを300メートルほど北西に歩いて「ウンターリンデン美術館」に向かう。13世紀から続くドミニコ会の女子修道院と1906年に建てられた公衆浴場とを改修して1849年に設立(1853年から一般公開)された歴史ある美術館である。館内には、先史時代から現代に至るまで、国内外の芸術作品や工芸品など大規模なコレクションが展示されており、年間およそ20万人が来館する。


この美術館を訪れる最大のお目当ては、西洋宗教芸術の傑作とされる「イーゼンハイムの祭壇画」があるからである。作品は、16世紀ドイツの画家マティアス・グリューネヴァルトが1512年から1516年にかけて制作したもので、彼の作品では最大規模で最高傑作とされている。もともとコルマールの南方20キロメートルに位置するイーゼンハイムの聖アントニウス会修道院付属施療院のために描かれたもので、施療院はペストや麦角菌中毒患者(ライ麦パンに寄生する麦角菌による中毒)の治療を行うことで知られていた。


祭壇は中央パネルの扉を開け閉めすることにより三つの場面が現れるが、美術館では全画面を別々に展示している。第一面の中央パネルには、首をうなだれ、やせ衰え苦痛に滲む表情の「キリスト磔刑図」が描かれ、周りに使徒ヨハネの腕の中で気を失う白衣をまとった聖母マリア、手を上げて祈るマグダラのマリア、洗礼者ヨハネが配されている。向かって左翼のパネルには聖セバスティアヌス、右翼のパネルには、聖アントニウスが描かれている。
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そして下部のプレデッラにはピエタが描かれている。衰弱し、苦悩するキリストの表現は美術史上において群を抜いていると言われ、多くの患者達は自らの苦痛をキリストの苦痛に重ね合わせ癒されたとされる。第一面の扉を開けた第二面以降のパネルは、後方に展示されている。


第二のパネルには、大きな古楽器のヴィオローネやヴァイオリンを演奏する天使が描かれた「天使の奏楽」と「キリストの降誕」が、統一されたコンセプトで収められている。聖母子には金色の光が注ぎ、背景には無原罪を表す棘のない赤い薔薇や、母乳を象徴するイチジクの木などが描かれている。ベッド、バケツ、ポットは、キリストの人間性を強調しているとされる。
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次のパネルの「キリストの復活」と「受胎告知」は本来、第二のパネルの「天使の奏楽」の向かって左翼に「受胎告知」が、「キリストの降誕」の右翼に「キリストの復活」が配されるが、ここでは並べて展示されている。ちなみに、この「キリストの復活」には、天に上る「キリスト昇天」も同時に表現されている。
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最後に第二のパネルを開けると、第三面には絵画ではなく彫像が現れる。これらの木像はニコラス・フォン・ハーゲナウ(1445頃~1538)の作で中央に聖アントニウス、向かって左に聖アウグスティヌス、右に聖ヒエロニムスの立像が表現されている(拡大画像)。プレデッラのキリストと十二使徒の作者は不明とされる。
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こちらのパネルは、第三面の向かって左翼に「聖アントニウスの聖パウロ訪問」が配され、右翼に「聖アントニウスの誘惑」が配された(現在の展示とは逆)。聖アントニオスに襲い掛かろうとする怪物は、諸々の誘惑を象徴しており聖アントニオスの苦闘する姿を現している。これら両翼に聖アントニウスを配した第三面は「聖アントニウスの祭日」のみに公開されており、施療院を訪れた巡礼者や患者は麦角菌中毒患者の守護聖人である聖アントニウスを拝んで癒されたという。
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イーゼンハイムの聖アントニウス会修道院付属施療院では、平日に第一面が公開され、日曜日には第二面、聖アントニウスの祭日に第三面が公開されていた。一方、ウンターリンデン美術館では、元修道院の身廊に、全パネルを分けて一定間隔毎に展示している方法など、鑑賞しやすく様々な来館者のニーズを良く捉えている。この日は多くの学生たちがパネルの前に座って写生する姿も見られたが、それでもじっくりと鑑賞できた。


さて、ウンターリンデン美術館には、他にも多くの名画があり、こちらにはマルティン・ショーンガウアーの祭壇画の一部も展示されている。中央部分は失われているが、両翼の内側を飾っていた「聖アントニウス」と「キリストの降誕」で、
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こちらは、外側を飾っていた「受胎告知」である。いずれも大きさは、縦188センチメートル×横55センチメートルあり、1470~1475頃の作品にも関わらず大変保存状態が良い。
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ショーンガウアーの作品では、他に、彼と彼の側近たちとの共作によるドミニコ教会の祭壇画(1480)(その1)(その2)(その3)(その4)が展示されていた。また、関連作品として、ドイツの画家で版画家のハンス・ブルクマイアー(1473~1531)によるショーンガウアーの肖像画も展示されていた。

こちらは、ハンス・ホルバイン(父)の「女性の肖像画」で1510年から1512年にかけて描かれた末期ゴシック時代の作品。モデルはやや年配の女性で、ダークグリーンの背景に黒いドレスを身にまというつむき加減で斜め前を向いている。視線が正面を見据えていることや、肩ひもの肌への影のリアルな描写など印象に残る作品。モデルは、特定されていない。
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腰の細くくびれた特徴的なヴィーナス像で知られる、ルーカス・クラナッハ(父)の「憂鬱(1532年)」が展示されていた。彼の同テーマの作品は数点存在する。作品は、果物が置かれたテーブルの横で、赤いドレスを身に着けた天使がナイフで枝を削っている。床には球体が置かれ、犬が寝そべっている。窓の外では、巨石の上に作られた天空の城と、暗雲の中に駆け抜ける馬に乗る騎士と不明の集団。それらを背景にブランコに乗る満足そうなキューピッド風の裸の子供とそれを見つめる三人の裸の子供が描かれている。何とも腑に落ちず、はればれしない不思議な作品である。。
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中世ヨーロッパにおいては、憂鬱質(メランコリア)は芸術・創造の能力の根源をなす気質と位置づけされ、芸術家や学者の肖像画や寓意画において盛んに描かれた。
2時間半ほどゆっくり鑑賞した後の午後2時半過ぎ、次にコルマールから7キロメートル南西に位置する「エギスハイム」に向かった。

エギスハイムは、直径300メートルほどの小さなサークル状の町だが、品質の高いアルザスワインを生産していることで知られている。2013年にはフランスの最も美しい村に認定されている。この日は西口にある広場に面した、有名なワイナリーの一つ、オーナー兼醸造家ミッシェル・ジャングランジェ氏の「ポール・ジャングランジェ(Paul Ginglinger)」を起点にして、市内に歩いて向かった。


ワイナリーの先からサークル内に入り、目抜き通りを東に150メートルほど歩き右折すると、町の中心部に到着する。エギスハイムは、古くからワインの生産地として開拓され、11世紀中世初頭、アルザス公爵領の城が建てられ現在の村に発展した。ローマ教皇レオ9世(在:1049~1054)の生誕の地とされており、中央広場には銅像が建っている(市内地図はこちら)

レオ9世は、神聖ローマ皇帝コンラート2世の縁者をきっかけに、トゥールの司教に任じられ、その後ローマ教皇として即位し教会改革に尽力した。

中央広場の南西側には、聖ピエール・パウロ教会が建っている。教会は12世紀には3つの身廊と鐘楼を持つロマネスク様式の大聖堂だったが、18世紀後半に身廊が崩壊したことからその後縮小して再建された。


鐘楼の基部に残る旧教会への入口(ナルテックス)を入ると6メートルほどの高さのポータルがあり、ゴシック様式のアーチにロマネスク様式(1230~1240)の彫刻が残されている。ティンパヌムには使徒ペテロとパウロに囲まれた「祝福のキリスト」が表され、下のまぐさ部分には、「十人の処女たちのたとえ」(楽園のドアをノックし、キリストによって迎えられる賢明な処女と、ドアが閉じられたままの愚かな処女のたとえ)が表されている。
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ポータルには「オープニング・バージン」と呼ばれる1300年頃の多色材の高さ119センチメートルの彫像が収められている。解説文によると、実は同様のタイプの像は当時多く制作されたが、トリエント公会議(1549~1563)によって、宗教芸術上ふさわしくないとされ、アルザスでは、エギスハイムとケゼルスベールにのみ残されているとのこと。

聖母の頭部はベールで覆われ王冠を被り、右手にはユリまたは杖を持ち、幼子は右手で祝福の仕草をし、左手には地球儀を持っていた。像の中央は、祭壇画の扉の様に開閉でき、内側には17世紀に描かれた大きなキャンドルを運ぶ天使と、中央部分には十字架と栄光を示す放射光が描かれている。
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教会の塔側(南側)のエグリーズ広場を挟んだ向かい側には、アルザスワインのワイナリー「ブルーノ・ハーツ(Scea Bruno Hertz)」のお店がある。


事前に予定していなかったが、ワイナリーの素朴な佇まいに興味が引かれ店内に入ると、カチューシャで金髪をオールバックにし、ピンクのノースリーブを身に着けた気さくなマダムが、試飲はもちろん地下のセラーも見せてくれた。ワイナリーは1750年以来、馬糞のみ土壌肥料を使用し、化学的介入をできるだけ避け、収穫は手摘みのみとし環境にも十分配慮し生産しているとのこと。


ブルーノ・ハーツに沿って南側の路地を進むと、石畳のランパール通りに合流する。通りは、サークル状に続いており、中世から続く切妻屋根に花が飾られたコロンバージュ様式の民家が並んでいる。すぐ先のピンク色の建物には「Chez Thierry(肉屋)」があり赤いエプロンを付けて店頭販売をするおじさんと目が合いソーセージとサラミを買った。


静寂な石畳のランパール通りを東側に歩いていくと、内側の通りと合流する個所にエギスハイム観光のイメージフォトでよく登場する15世紀の小さな民家「小鳩の家」が建っている。


しばらく市内を散策した後、サークルを出た東側にあるウォルフベルジェ(Wolfberger)ワイナリーに寄って出発した。ワイナリーは近代的な大型の工場の様で、ワイン以外にも、関連商品が販売されていた。次に、D83号線を北上し「インガースハイム」を通って西にある「ニーダーモルシュヴィア」に向かった。


ニーダーモルシュヴィアは小さな村で、人通りもほとんどなくひっそりとした雰囲気である。そんな村に日本でも超有名な「オー・ルレ・デ・トロワ・ゼピ(Au Relais des Trois Epis)」がある。ここはパリでパティシエールとして活躍したクリスティーヌ・フェルベール女史が営業するコンフィチュール(砂糖で煮詰めた果汁と果肉が漬けこまれたジャムのこと)の店である。


テーブルの上には女史の名前が商品名として貼られた瓶詰コンフィチュールが積まれ、棚には赤地に水玉の布のラッピングされた瓶が並んでいる。お土産に数個購入して今夜の宿泊ホテルに向かった。
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午後7時過ぎに、イラウーゼルヌ(Illhaeusern)のホテル(Hotel Les Hirondelles)に到着した。イラウーゼルヌは、コルマールから30キロメートル北東にあり、アルザスワイン街道沿いのリボヴィレからは東に8キロメートルに位置している。ホテルは、村を通る幹線沿いにあり、中庭を取り囲む様に2階建ての建物がL字に建っている。チェックインの後、歩いて塔の見える教会の方向にあるレストランに食事に向かった。


イラウーゼルヌは、600人ほどが住む小さな村で特段見るべき所がないが、この村を有名にしているのは、教会の塔を過ぎた駐車場の先隣りに建つ切妻屋根の大きな一軒家の三ツ星レストラン「オーベルジュ・ド・リル」(L'Auberge de l'Ill)である。フランスでも屈指と言われるレストランの味を求めて、世界中から美食家がこの片田舎までやってくるというわけだ。


「リル」は「イル川の畔」という意味ですぐ横に流れるイル川に因んでいる。橋からは、しだれ柳や緑に覆われた中に、レストランのテラスや店内の様子を窺うことができる。120席余りの客席があるが、昼、夜含めて常に満席だそうだ。。


オーベルジュ・ド・リルは、1880年頃にエーベルラン家により開店したレストランが前身で、現在の店舗は第二次世界大戦後の1949年より開店している。ミシュラン星は1952年から一ツ星、その後二ツ星となり、1967年より三ツ星を取得している。現在の総料理長は1954年生まれのマルク・エーベルラン氏である。。さて時刻は午後8時半、では可愛いお花で飾られた玄関前を通り入店する。


既に店内は混みあっていたが、案内されたテーブル席のある空間は木目調の壁で、テーブル間は適度なスペースがあり圧迫感もなく落ち着ける。ドレスコードもそれほど厳格ではなく、スタッフのサービスも自然な感じでリラックスできた。料理は、セットコースではなくアラカルトで注文した。
まずアヴァンアミューズから。
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次に、アミューズブーシュ。
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手長海老の爽やかなトースト(La tartine rafraîchissante aux langoustines)(69ユーロ)
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ガチョウのフォアグラのテリーヌ(Terrine de foie gras d'oie)(55ユーロ)
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子牛フィレ・ミニョン、アンズタケ(Le filet mignon de veau,girolles)(68ユーロ)
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アヴェロン県からの子羊のブロック(Carre d'agneau Allaiton d'Aveyron)1pers(89ユーロ)
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ミニャルディーズとして。
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飲み物は、グラスシャンパーニュデュバルリロイ(Coupe de Champagne Duval Leroy)(21ユーロ)と、シャトー スタール 2000(Château Soutard)1/2(69ユーロ)、ゲヴュルツトラミネール ドップ・エ・イリオン2010(Gewurziraminer Dopff & Irion Les Sorcieres )1/2(28ユーロ)、Bière Météor 33cl(6ユーロ)を頼んだ。


店内の通路には、レストランを訪れた各国の著名人の写真やサインが飾られていた。例えば、オーソン・ウェルズ、ジャン・マレー、マレーネ・ディートリヒ、マドレーヌ・ロバンソン、ミシェル・ピコリ、アンリ6世(パリ伯、王家オルレアン家)、アンリ大公(ルクセンブルク)、徳仁皇太子(日本)、ヘンリック王配(デンマーク)、女王マルグレーテ2世(デンマーク)、ナマリア・デ・ラス・メルセデス伯爵夫人(スペイン・バルセロナ)、ディーヌ・ロスチャイルド、ポール・ボキューズなどの錚々たる顔ぶれである。
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価格は流石に高いが、料理はアラカルトで頼んだこともあり、ポーションが大きく食べ応えがある。フォアグラ好きには堪らない、スターターと思えない量には驚いた。メインの肉料理は、さすがに評判どおり。絶妙な火加減で肉の旨味が凝縮され、口全体に染み渡り、食べ始めから最後まで旨さが変わらず頂ける。食後に感じる胃袋の重さもなく、毎日でも食べたいと思わせるほどであった。
2時間半ほどゆっくり食事して午後11時過ぎにホテルに帰った。
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翌朝、リクヴィール(Riquewihr)に向かっている。リクヴィールは、コルマールから北に約10キロほど、背景のヴォージュ山脈の東側山裾に位置する人口1200人ほどが住む小さな町で、フランスの最も美しい村に登録されている。
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「アルザスワイン街道( Rooute des Vines d'Alsace)」(地図はこちら)

町は東西450メートル南北200メートルほどの長方形で、二重の城壁に囲まれた中にある。最初の城壁は、ハプスブルク家の始祖とされるルードルフ1世(後の神聖ローマ皇帝)により1269年に建設された。その後ホルブルク家と、14世紀からはヴュルテンベルク家が継承し、16世紀に要塞化して現在の姿となった。18世紀にはフランスへ併合され、現在では、特産品アルザスワインや、当時から続く歴史的な建築物など人気の観光地となっている。

町への入場は東側が正面口だが、この日は城壁に沿って回り込み北側扉口から入場した。すぐに南に続く狭い路地があり、左側に19世紀半ばに建てられたプロテスタント教会「聖マルグリット教会」のファサードが現れる。通り過ぎて振り返ると、ファサードの時計のある鐘楼がよく見える。そして、すぐ先の黄色い木組みの建物は1480年から続く歴史的な民家である。
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黄色い木組みの建物の先から交差路を左折すると水場があり、その先に山裾に沿って造られた石畳が続く目抜き通り(ジェネラル・ド・ゴール通り)が続いている。左右には美しい花々が咲き誇るバルコニーや窓のあるコロンバージュ(木造軸組構法)様式の16世紀~17世紀頃の民家が並んでいる。


ジェネラル・ド・ゴール通りを下って行くと、左側に2階から3階に木造の出窓がある建物がある。1606年建造のディーフェン・バッハの家で、現在はクリスタル・ガラスのショップが営業している。そして、突き当りに見える建物が、東側の正面門となる1809年に建てられた市役所である。
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コロンバージュ様式は中世ヨーロッパ当時、森林の多いドイツ、フランス、オランダ、イングランド地域において盛んに作られた。壁面に柱や梁がむき出し建物全体を支える構造になっている。東側の正面門手前まで歩いて行き、Uターンして再びジェネラル・ド・ゴール通りを西に向けて歩いてみると、山裾に町が広がっていることが良く分かるしっかりとした上り坂である。。左前方に張り出す様に見えてきたアーチのある黄色い建物は1686年に建てられたメゾン・ジンマー(Maison Zimmer)で、オーナーはリクヴィールの独立ワイン生産者で、レストランやアルザス・ワインの(カーヴ)貯蔵庫がある。
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メゾン・ジンマーの手前隣の鮮やかな青色のコロンバージュは、アルザス料理を楽しるヴィンステュブ(Winstub)(レストラン)の「オ・ティール・ブション」(Au Tire Bouchon)である。更に手前隣りの建物は、アルザスの最高のワインセラーの一つ「Boutique VINI」で、ワインメーカーヒューゲル家のワイン愛好家が運営している。
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更に進んだ左側のモスグリーン色の建物には、ナイフショップがあり、鉄細工の可愛らしい看板が掲げられている。先隣のマカロンショップの2階の柱にはトーテムポールの様な彫像が刻まれている等、あちらこちに見所がある。そうこうするうち、町の西城壁に建つ「ドルデー塔」が見えてきた。
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「ドルデー塔」は13世紀に建てられた高さ25メートルの見張りの塔で、現在博物館を併設している。塔正面には、可愛い花で彩られた小窓が並び、積み木の玩具の様に見える。そのドルデー塔に向かって左側には、1階のモスグリーンと2階の赤色がコラボした大きなアート絵画を掲げる特徴的なレストランがある。さらにその裏隣(手前の路地沿い)には16世紀に建てられ、扉の上の死の舞踏の浮彫レリーフが飾られた「レストラン・コンラッド・オルトリブ」がある。


ドルデー塔の右側には歴史的建造物の「シンネの噴水」があり、頂部の彫像は鹿の角をあしらったリクヴィールの紋章を持ち、舌を出す怪物が表現されている。

ドルデー塔の門をくぐったすぐ先に二重城壁の外側の城壁門が現れる。門の上は住宅になっており16〜17世紀のワインメーカーの家である。


ワインメーカーの城壁門の左側には細い路地(二重城壁間の通路)が延び、すぐ先にもショップ「Melodie de la Vie」がある。金細工で造られた様々な鳥やちりばめられた花とのオブジェが人気の雑貨屋である。こちらも撮影スポットとして人気がある。それにしても、まるでおとぎの国を思わせる様な町並である。。


再び元ワインメーカーの家に戻り、城壁門をくぐって城外から城壁を眺めると、崩落して旧市街の建物より低くなっている個所や、民家と一体化している個所(Melodie de la Vieの裏側になる)などがあり興味深い。また元ワインメーカーの家の城壁門内には鉄製の落とし格子が備え付けられており、現在も封鎖が可能となっている様だ。

(2016.7.27~29)

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