カズさんの旅たび

 ~歴史、文化、芸術、美食紀行。。

オーストリア・ウィーン(その2)

2018-07-09 | オーストリア
先ほど、リング通りの「ケルントナー・リング/オペラ停留所」(ウィーン国立歌劇場前)から路面電車(市電D番)に乗車し、これから「ベルヴェデーレ宮殿」に向かう。乗車後直進していた市電は、少し先で左に大きく曲がったため、振り返ると広いリング通りが見渡せる。リング通りは後方への一方通行(時計回り)の三車線で、市電はその車線両端に敷かれた軌道の右側を走行している。更に左右の街路樹外側には側道が走っている。
クリックで別ウインドウ開く

この後、市電はすぐにリング通りを離れ、右側に大きく曲がりシュヴァルツェンベルク通りを南に向かう。なだらかに上るプリンツ・オイゲン通りに入ると、まもなく目的地に到着する。乗車から5~6分ほどで、「シュロス・ベルヴェデーレ(Schloss Belvedere)停留所」(乗車後4駅目)に到着、下車して進行方向を歩いて進む。


反対車線の歩道に渡り、市電の停留所(上り側)を過ぎると、すぐ左側にベルヴェデーレ宮殿への西側ゲートが現れ、入ると右側にチケットショップがある。ベルヴェデーレ宮殿には上宮(Oberes Belvedere)と下宮(Unteres Belvedere)がありチケットも二種類に分かれているが、目的の「オーストリア・ギャラリー」(オーストリア絵画館)がある上宮のチケット(15ユーロ)を購入する。


入場門の正面は、宮殿の西壁になり南側には大きな池のある庭園が広がっている。ベルヴェデーレ宮殿は、オーストリア軍の将軍・政治家オイゲン公(オイゲン・フォン・ザヴォイエン)(1663~1736)が、当時の代表的な建築家であるヨーハン・ヒルデブラントに、夏の離宮として造らせたものである。宮殿は1714年から1716年にかけて建てられた下宮と、1720年から1723年にかけて建てられた上宮とがあり、こちらの宮殿は上宮となる。


入場門から通路を200メートルほど南に歩いた庭園を仕切るバロック様式の装飾門が南側ゲート門になる。装飾門の両サイドにはサヴォイア家の紋章が付いた王冠を持つライオン飾りがある。これは、オイゲン公が、サヴォイア家の分家筋にあたるフランス貴族の公子(プリンツ)であることに因んでいる。その門の前から宮殿上宮を眺めて見る。快晴の下、刈り込まれた緑の芝に鮮やかな花壇があり、水面を前庭としたバロック様式の美しい姿で佇んでいる。引き続き、そのまま庭園を取り囲む通路を歩いて宮殿上宮の東側に向かう。
クリックで別ウインドウ開く

東壁から建物に沿って回り込み宮殿上宮の中央口前から北側を眺めると、砂地の参道を中心に左右対称の樹木の列植や幾何学的な花壇が並ぶ庭園が広がっている。遠くに見えるオレンジ色の屋根の建物が下宮で、オイゲン公の住居として建てられた。そしてその右側の大きな黒いドームはサレジオ修道会で、左後方にはシュテファン寺院(大聖堂)の塔が聳えている。
クリックで別ウインドウ開く

庭園は、宮殿完成後の1725年に完成している。下宮までの距離は約550メートル、高低差約23メートル低い位置にあることから、庭園は上階、中階、下階と段差がある。上階には2つの円形噴水が、中階には、上階から続く階段噴水に2つの小さな噴水があり、下階には、中階の段差を壁にした噴水がある。

庭園の両端には、下り坂の側道が延びており、白いスフィンクス像(顔と胸は人間、体は翼の付いたライオン姿)の間から庭園へ出入りできる。側道にはベンチが置かれているが、日陰がないことから夏は辛い。。庭園内には当時オイゲン公と彼と親しい関係にある人だけが入ることができたが、オイゲン公亡き後は相続人となる子がいなかったため、宮殿とともにハプスブルク家の所有となった。1900年には、皇帝フランツ・ヨーゼフ1世の甥で、皇嗣の「フランツ・フェルディナント大公」が、ゾフィーとの結婚後の新居として「サラエボ事件」で亡くなる1914年までベルヴェデーレ宮殿に居を構えていた。
クリックで別ウインドウ開く

それでは上宮にある「オーストリア・ギャラリー」(オーストリア絵画館)に向かう。絵画館は1903年に下宮で「モダンギャラリー」が設置されたことが始まりだが、もともとオイゲン公が芸術面で深い知識を持つ収集家であり、当時から多くの芸術作品の保管場所であった。

宮殿上宮の中央口を入ると、白い4体のアトラス像が天井を支えるホール「サーラ・テレーナ」がある。このアトラス像は、設計段階にはなく、宮殿建設後に構造上の問題が発生したため造られたとのこと。そのホール奥の折返し階段を上った2階には、豪華な装飾が施された「大理石の間」がある。
クリックで別ウインドウ開く

天井には、1721年、イタリアの画家(兼彫刻家)カルロ・カルロネ(1686~1775)により描かれたフレスコ画がある。1955年5月15日、この広間でオーストリア国家条約が取り交わされた。当時、第二次世界大戦が終わり、ドイツ支配から解放されたオーストリアが連合軍(フランス・イギリス・アメリカ合衆国・ソ連)と調印して、永世中立国を宣言し主権を取り戻すこととなった歴史上重要な場所である。

窓からは北側庭園を俯瞰的に眺めることができるため、庭園の幾何学文様や噴水の形状などが良く分かり、ウィーン市街や、遠くウィーンの森の山々も見渡すことができる。まさに、ベルヴェデーレ(美しい眺めの意味)である。
クリックで別ウインドウ開く

ところで、こちらはイタリアの風景画家ベルナルド・ベッロットが描いた「ベルヴェデーレ宮殿からのウィーンの眺め、1758年頃」(ウィーン美術史美術館所蔵)で、一見すると現在と変わらない風景である。しかし、下宮の先から旧市街との間に広がる空き地が描かれている。これは”グラシ”と称され、オスマン帝国再襲に備え旧市街からの一斉射撃を可能とした防御上の空間であった(1529~1858)。グラシは、現在では広いリング通りとなっている。
クリックで別ウインドウ開く

ベルヴェデーレ宮殿は、そのグラシから、更に2キロメートルほど外側に設けられた「新たな市壁(リーニエンヴァル)」(第2次ウィーン包囲後の1704年築)との間「フォアシュタット新市街(新ウィーン)」に建てられたもので、右側の「サレジオ修道会(1717年築)」や左側の「カールス教会(1713年築)」等、新たな市壁の建設をきっかけに数多くの建物や宮殿が新市街に建設された間もない頃のウィーンの姿を示す貴重な絵画である。

「大理石の間」左右の翼廊部と3階が「オーストリア・ギャラリー」(オーストリア絵画館)になっている。コレクションには世紀末芸術からのオーストリア画家の作品に加え、中世・バロックから21世紀までの作品も含まれている。中でも見どころはグスタフ・クリムトとエゴン・シーレのコレクションである。


「グスタフ・クリムト(1862~1918)」は、ウィーンのバウムガルテン(14区ペンツィング)出身で世紀末ウィーンを代表する画家である。彼は工芸学校で石膏像のデッサンや古典作品の模写を中心とした古典主義的な教育を学んでいたが、僅か17才で美術やデザインの請負を始めるなど才能を発揮し、卒業後は「芸術家商会」を設立し、作品制作を進め、多くの美術賞が授与されている。

1897年に結成された「ウィーン分離派」(古典的、伝統的な美術からの分離を標榜する若手芸術家のグループ)では、クリムトが初代会長を務めている。その後、壁画制作や上流階級の婦人たちの肖像画を手がけ、多くの作品を残しているが、1910年代には作品が少なくなり、1918年にウィーンで脳梗塞とスペインかぜの症状悪化により肺炎を発病し55歳で亡くなった。


クリムトの作品は、甘美で妖艶なエロスと同時に、常に死の香りが感じられる。黄金時代の作品には金箔が多用され絢爛な雰囲気を醸し出しており、こちらが、そのクリムトの代表作品の一つで、オーストリア・ギャラリー絵画館を代表する作品「接吻(1907~1908)」である。作品は、当時タブーとされた題材にも関わらず、眩いばかりの金に溶け込んだ中で抱き合う官能的な男女が表現されており大絶賛を博した。モデルは、クリムト自身とファッション・デザイナーで起業家のエミーリエ・フレーゲとされている。彼女は、クリムトの生涯の友人であり恋人だった。
クリックで別ウインドウ開く

クリムトの代表作の一つで、「ユディト(Judith)」(1901年)。ユディトは強い信仰を持つユダヤ人女性で、アッシリアからユダヤのベトリアに征服目的のため派遣された司令官ホロフェルネスを、酒宴の席で首を切り落とし殺害したことで知られ、これまでも多くの画家により描かれている。クリムトは、これまでの画家たちの表現方法から意図的にストーリーを無視して、ユディトのみを集中して描き、血まみれの剣の痕跡もなく、右隅にホロフェルネスの頭部の一部を表現している。
クリックで別ウインドウ開く

クリムトの「フリッツァ・リードラーの肖像」(Fritza Riedler)(1906年)。白いドレスを着たリードラーは、モザイクのような半円形の装飾の肘掛け椅子に座っているが、背景や肘掛け椅子は遠近法を無視した二次元で描かれている。頭部両側には、スペインの画家ベラスケスの「王妃マリア・テレサの肖像(1653頃)」とエジプト美術から影響を受けたと思われる半円形の装飾が幾何学模様で表現されている。
クリックで別ウインドウ開く

他にも1898年のウィーン分離派の第2回展覧会で公開されたクリムトの「ソニア・クニップスの肖像画」(1898年)や、Lady at the Fireplace(1898年)、後年の作品として、二人の子供と母(1910年)や、「1862年の花嫁としてのマリローンのマリー・カーナー」(1914年)などが展示されている。

次にもう一人の代表画家の「エゴン・シーレ(1890~1918)」は、ウィーン近郊トゥルン・アン・デア・ドナウで、駅長を務めた父の下に生まれた。16歳の時にクリムトと同じ工芸学校に学びウィーン美術アカデミーへ進学するものの、保守的な古典主義に馴染めず、クリムトに弟子入りをする。そして、アカデミーを離脱した仲間達と「新たなる芸術の集い」を設立するなど本格的に独自の活動を開始していく。このころに発表した肖像画に、「少年の肖像(1910)」「エドゥアルト・コスマク(Eduard Kosmack)(1910)」などがあり、また風景画として、City on the Blue River Ⅱ(1911)や、House Wall(Window Wall)(1914)が展示されている。

アカデミーの制約を離れたシーレは、倫理的に問題視される死や性に関わる描写を強調する作品を制作していく。1911年からは、クリムトの紹介で裸体モデルを務めた17歳のヴァリ・ノイツェル(1894~1917)と同棲を始めるものの、シーレの奔放な女性関係から破綻し、一方で1915年に中産階級職人ハルムス家の娘エーディトと結婚する。そんな複雑な女性関係のさなかに描かれた代表作「死と乙女(1915)」では死相のある男を抱きしめる女性の姿が描かれている。モデルの女性はヴァリとされ、彼女はシーレと別れ従軍看護婦として向かったクロアチアで病死している。
クリックで別ウインドウ開く

シーレの風景画「四本の木(1917)」で、作品は紅葉する三本の木と、枯れ木とを中心に、夕日を浴びて薄茜色に染まる山間部の美しい風景が描かれている。郷愁の中に死を連想させられるものがある。
クリックで別ウインドウ開く

シーレの「母と二人の子供」(1917年)。モデルは、シーレの妹ゲルティと親友で画家アントン・ペシュカとの間に生まれた子供たちである。シーレは初期作品に妹ゲルティの裸体画を多く描いており近親相姦の間柄であったと言われている。作品は1915年に完成していたが、新たに手を入れており、厚塗りされた箇所があちらこちらに見られる。母親は死相があり見つめる方向の子供は死んでいる様に見える。
クリックで別ウインドウ開く

シーレの「抱擁(恋人たち)」(1917年)。シーレと妻エーディトをモデルとしている。暗い雰囲気の中でも、眠っている恋人を包み込む構図は、束の間の幸福が感じとれ、まさに円熟の境地に達したと言える傑作である。
クリックで別ウインドウ開く

1918年には、ウィーン分離派展に出品したシーレの強烈な個性を持つ作品群が一躍世間の注目を集め、絵の買取依頼が舞い込むようなったが、同年10月28日、妻エーディトがシーレの子供を宿したまま、スペイン風邪で亡くなった。そして3日後の10月31日にはシーレも28歳の若さで亡くなった。。
こちらには最晩年に描いたシーレの作品で「妻エーディト(1918)」と、「Dr.Hugo Koller(1918)」が展示されているが、両作品ともに極端なデフォルメもなく、静かに椅子に座る全身像が丁寧に描かれている。

次に、クリムトとシーレ以外の作品を見ていく。こちらはビーダーマイヤー時代の画家フェルディナント・ゲオルク・ヴァルトミュラーの「聖体祭の朝(1857年)」。作品は、シュピッテルベルク(7区ノイバウ)の庶民の様子を描いている。カトリック教会の聖体崇敬を示す聖体祭の朝、行列に参加する衣装等を身に着けて喜ぶ子供たちと、衣装が行き渡らず涙を流す子供との貧富の一面を描いている。
クリックで別ウインドウ開く
他にもヴァルトミュラーの作品では「自画像(1828年)」が展示されている。

カール・カーガー(Karl Karger、1848~1913)の「ノースウエスト駅に着く列車(1875年)」。ノースウエスト駅は、ウィーンの中心部から北に4キロメートル離れた20区ブリギッテナウにあったが、1959年に営業を終了して現在は都市開発エリアとなっている。作品は、1872年、ドレスデンとベルリンへの急行列車による長距離輸送(1873年ウィーン万国博覧会のために準備された)が始まって間もない頃の賑やかな駅舎内の風景を描いている。カーガーは、16歳でウィーン美術アカデミーや歴史画家から教育を受けた後、ミュンヘンからイタリアへの研修の旅に出て、ヴェネツィア美術に影響を受けた。
クリックで別ウインドウ開く

フランスの印象派作品も多く展示されている。向かって左側の中央に展示されているのがクロード・モネの「シェフChef(1882年)」で、その右隣がマネの「Lady in a Fur(1880年)」、更にその右隣がルノワールの「After the Bath(1876年)」と並んでいる。


フランスの画家ジャック・ルイ・ダヴィッドが描いた「サン・ベルナール峠を越えるボナパルト」(1803年)で、彼が1801年から1805年の間に描いた同作品5枚のうちの一つ。作品は1800年、ナポレオンが、フランス軍4万を率いグラン・サン・ベルナール峠を越えた北イタリアでオーストリア軍と戦うためイタリア遠征に向かう勇姿を描いたもの。当時のイタリア北部はスロベニアと共に、オーストリア・ハプスブルク家の所領であった。


こちらは、ドイツ、オーストリアで活躍した彫刻家メッサーシュミット(1736~1783)による「皇后マリア・テレジア像」(1760年)。マリア・テレジア(1717~1780)は、オーストリア・ハプスブルク家の家領を継承し、多民族国家であるオーストリア帝国の中央集権化を図るなど事実上の女帝として君臨した。神聖ローマ皇帝は、夫のフランツ1世と息子のヨーゼフ2世であったが、彼女は共同統治者として帝国を切り盛りしており実質的な神聖ローマ皇帝であった。多産で生涯に16人の子供を産み、末娘にフランス国王ルイ16世(1754~1793)に嫁いだマリー・アントワネットがいる。
クリックで別ウインドウ開く

彫刻家メッサーシュミットは、後年、妄想、幻覚症状に苦しみ引退したが、1771年から亡くなるまで取り組んだ頭部像「キャラクターヘッド」の極端に歪んだインパクトがある表情で一躍世間に知られる存在になった。まるで現代アートを思わせる作品である。
クリックで別ウインドウ開く

それぞれ向かい合う様に展示されている二人の肖像画は、ゲオルグ・ラーブ(Georg Raab、1821~1885)による「皇帝フランツ・ヨーゼフ1世」と「皇后エリーザベト」(1874年)で、右隣には、フランツ・マッシュによる「皇帝フランツ・ヨーゼフ1世の崩御(1916年)」が展示されている。
クリックで別ウインドウ開く

フランツ・ヨーゼフ1世(1830~1916)は、ヨーロッパ各地で、君主制国家に対する自由主義・ナショナリズムの反乱が連鎖反応的に起こり、ウィーン体制が崩壊した1848年に、18歳でオーストリア皇帝となった。エリーザベト(愛称シシィ)はヴィッテルスバッハ家バイエルン王の孫娘で、1854年に16歳でヨーゼフ1世に見染められ結婚する。結婚後は、姑ゾフィー大公妃がとりしきる宮廷の厳格さに耐えられず、様々な口実を見つけてはウィーンから逃避し続けたが、夫ヨーゼフとは生涯にわたり相愛の仲であった。

ドイツ或いはザルツブルクの画家Rueland Frueauf the Elder(1430/50頃~1507)の「キリストの受難」が描かれた祭壇画(1491年頃)や、南チロル後期ゴシック様式の画家マルクス・ライヒリッヒ(Marx Reichlich、1460頃~1520)の「受胎告知(1502年)」などの中世作品も充実している。
クリックで別ウインドウ開く

2時間ほど鑑賞した午前12時半過ぎに、市電で「ケルントナー・リング/オペラ停留所」まで戻り、カールスプラッツ駅地下のシュトレック(Ströck)でパンを買った後、ウィーンの台所「ナッシュマルクト」にやってきた。こちらは1774年からあるウィーンの歴史的な市場(当初は乳製品が取引されていた)で、2315ヘクタールの敷地に約120に上る食料品店や飲食店が軒を連ねる市内最大の都心市場である。地元の味はもちろん、イタリア、イスラエル、トルコ、ギリシャやアジア各国の様々なジャンルの味覚が揃っている。
クリックで別ウインドウ開く

ナッシュマルクトと西側に並ぶ建物群との間には、リンケ・ヴィーンツァイレ(Linke Wienzeile)通りが延びており、地下にウィーン川が流れている(中心地の約2キロメートル間が地下川)。その建物群中央に建つレンガ色とターコイズ(藍緑色)色の屋根は「アン・デア・ウィーン劇場」で、1801年に帝政様式で建てられたもの。劇場名のアン・デア・ウィーンとは「ウィーン川に面した」という意味であることから、劇場傍にウィーン川が流れていたことが頷ける。

ナッシュマルクトの入口には、向かって左側に「リンダーワン(Rinderwahn)」のハンバーガー・ショップが、右側にはノルトゼー(Nordsee)がありイートインスペースがある。喉が渇いたので、ノルトゼーで、ビールとつまみの海鮮マリネを注文し大変美味しくいただいた。


ナッシュマルクトは、全長約500メートルで二筋の平行した通りに挟まれ店舗が連なっているが、こちらの右側には、チーズ専門店「Poehl」があり、チーズ、ハム、ソーセージ、腸詰などの肉類やパンなどが売られている。先隣りはワインヴィネガーやバルサミコ酢などの専門店「ゲーゲンバウアー」(gegenbauer)で、棚には、トマト、リンゴ、アプリコット等のフルーツ・ヴィネガーが並んでいる。
クリックで別ウインドウ開く

こちらは有機栽培の野菜や果物を中心に種類が多いことで知られる八百屋さん。ブドウ、キーウィ、リンゴ、サクランボ、トマト、ズッキーニなど日本でもお馴染みの果物や野菜はもちろん、うずまきビーツ(イタリア・キオッジャ産)、シトロン(レモンに似ている)、ケール(青汁の原材料)、ベビーアーティチョーク、パドロン(スペイン唐辛子)など、他にも知らない珍しい野菜や果物が並んでいる。
クリックで別ウインドウ開く

ところで、こちらはウィーン分離派の画家カール・モルが1894年に描いた「ナッシュマルクト」(オーストリア・ギャラリー所蔵)で、リング通りに面したカールス教会の円柱が左側に見えることから、アン・デア・ウィーン劇場側から東側の市場の様子を描いたと思われる。

一旦アパートメントに戻りシャワーを浴び、1時間ほど仮眠して、再び、Uバーンに乗り、旧市街の東側でドナウ川右岸(2区 レオポルトシュタット)に位置する「プラターシュテルン(Praterstern)駅」にやってきた。これから、遊園地がある「プラーター公園(Der Wiener Prater)」に向かう。駅前からも既にランドマークの「大観覧車(Wiener Riesenrad)」が見える。プラーター公園には18世紀後半から19世紀初頭には既に小さな遊園地があったが、1873年、ウィーン万国博覧会の開催をきっかけに大規模開発が始まり本格的な遊園地となった。
クリックで別ウインドウ開く

遊園地自体は入場無料のため自由に出入りできる。右手に公園を見ながら、通りを進むと、大観覧車の隣に緑を基調にピンクの庇がある玩具の様な建物(インフォメーションセンター)が現れる。その左隣の陸橋を機関車型の周遊バスと一緒にくぐると、バジーリオ・カラファーティ(Basilio Calafati、1800~1878)の銅像が建つ遊園地に到着する。
クリックで別ウインドウ開く

バジーリオ・カラファーティとは、トリエステ(ギリシャ)出身でメリーゴーラウンドの運営ライセンスを取得し、園内に機関車を導入、レストランやビリヤードサロンを開くなど、創設期のプラーター遊園地を発展させたショーマンである。

そして、その像の右側には、映画「第三の男」(1949年)にも登場したことで知られる大観覧車の乗り場があり、看板には、その出演者、オーソン・ウェルズ(役名:ハリー・ライム)の顔が描かれている。大観覧車は、1897年に建てられたとても歴史あるもので、第二次世界大戦で被害にあったが、現在も当時の姿を留めながら現役として運営している。1客車に12名まで乗車できる大型の客車が特徴である。
クリックで別ウインドウ開く

カラファーティ像の後ろには、ロンドンにある蝋人形館で有名な、マダム・タッソー館(Madame Tussauds)のウィーン分館があり、入口付近には、マリリン・モンローアーノルド・シュワルツェネッガーやレオナルド・ディカプリオの蝋人形が飾られている。その蝋人形館の左側面には、レストランが併設され、先には世界一の高さ(117メートル)の回転ブランコ「スターフライヤー」がある。こちらも映画「第三の男」撮影当時と形状があまり変わっていない。
クリックで別ウインドウ開く

遊園地には、メリーゴーラウンド、ローラーコースター、ゴーカート、迷路やプラネタリウムなど、250に及ぶアトラクションがあるとのこと。

**********************************

翌朝の5時半、朝ランでシェーンブルン宮殿に向かっている。日中の暑さと比べると驚くほど涼しく気持ちが良い。Uバーン4号線とウイーン川沿いとの歩道を走り「レンゲンフェルトガッセ駅」付近までやってきたが、まだ電車とは出会っていない。この路線は、かつてあった都市鉄道シュタットバーン(Wiener Stadtbahn)(1898年~1989年)をそのままUバーン(地下鉄)へ転換していることから、どことなく古びている。しかし、駅舎の大半は新しく建て替えられている。
クリックで別ウインドウ開く

シェーンブルン宮殿への最寄り駅「シェーンブルン駅」前を通り過ぎると、左側にクリーム色の綺麗な建物が続いている。こちらは、神聖ローマ皇帝ヨーゼフ1世(1678~1711)を亡くした皇后アマーリア・ヴィルヘルミーネ(1673~ 1742)により建てられたシェーンブルン宮殿「オランジェリー館」で、モーツァルトとサリエリが音楽的才能を競い合った演奏会場としても知られている。現在もコンサートが開催されている。


右側には一定間隔毎に、シェーンブルン宮殿にゆかりのある人物と宮殿を紹介する広報パネルが並んでいる。こちらには、美しい長い髪を下した皇后エリザベート(シシー)と、彼女の化粧部屋が紹介されている。

すぐ先の左側がシェーンブルン宮殿の入場門になる。門の左右には金色の鷲が飾られたオベリスクが建っている。午前6時半の庭園オープンと同時に到着したが、入場門の鉄扉は既に開けられており、敷地の奥(南側)に宮殿が見える。入場門を入ってすぐに宮殿模型が置かれ、その左側にはオランジェリー館や宮殿見学のチケットショップがある(午前9時半の様子)が、庭園見学はフリーであるため、宮殿方向にそのまま向かう。


敷き砂の前庭の奥に豪華な外観のハプスブルク宮殿が鎮座している。宮殿は、1683年オスマン帝国の第二次ウィーン包囲の脅威の後に、神聖ローマ皇帝レオポルト1世(在:1658~1705)の指示により、息子ヨーゼフ(神聖ローマ皇帝ヨーゼフ1世、1678~1711)のための「夏の離宮」を目的に建設が始まった。

しかし宮殿が完成したのは、オーストリア継承戦争を経た1749年、オーストリア・ハプスブルク家の女性君主で皇后のマリア・テレジアと夫の神聖ローマ皇帝フランツ1世(在:1745~1765)の時代で、外観色を彼女に因んで「テレジア・イエロー」と呼ばれた。宮殿建物は幅約175メートル、奥行き55メートルあり、フランス・ヴェルサイユ宮殿に匹敵するバロックとロココ様式の豪華絢爛な宮殿として様々な歴史の舞台となっている。
クリックで別ウインドウ開く

宮殿を夏の逗留場所としてよく利用したのは、皇后マリア・テレジア(1717~1780)と最後の神聖ローマ皇帝フランツ2世(在:1792~1806)であった。ナポレオン戦争時の1809年10月14日には、この宮殿でオーストリアにとって屈辱的なオーストリア帝国とフランス帝国間の講和条約「シェーンブルン条約」が結ばれた。後年、オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世(1830~1916)は頻繁に王宮と宮殿を往復し、晩年は常住する様になり崩御も宮殿であった。

そのハプスブルク宮殿内の見学は、昨日のベルヴェデーレ宮殿の見学前に済ましている。見学者で混みあうと聞いていたので、事前にネットで購入したシシーチケット(29.9ユーロ)を持参して、午前8時過ぎに直接入館ゲート(東翼側から入る)に来たが一番乗りだった。入館後も宮殿の廊下を掃除機で清掃するスタッフがいて拍子抜けだったが、ゆっくり1時間ほどかけて見学することができた。なお、宮殿内は撮影禁止である。
クリックで別ウインドウ開く

シシーチケットで見学可能な美術館は次の通り。
 1.シェーンブルン宮殿のグランドツアー(オーディオガイド付)
  ※宮殿単独見学券には、グランドツアー(40室が見学可能16,4ユーロ)とインペリアルツアー(22室が見学可能13,3ユーロ)とがある。
 2.旧王宮(宮廷銀器コレクション、シシィミュージアム、皇帝の部屋)
 3.王宮家具博物館

宮殿の部屋数(1441室)のうち、家族の部屋や広間からなる2階部分が一般公開されている。見学は、1階中央棟から入場し、西翼「青の階段」を上った2階を左回りに進み、中央棟を横断して、検札後に東翼を左回りに進む流れとなっている。

宮殿内の主な見どころ

〇西翼の北側
 *胡桃の間・・・胡桃材が壁に埋め込まれ部屋全体が金箔で覆われている。マリア・テレジア時代からのロココ様式の豪華な装飾テーブルや椅子などがあり、皇帝フランツ・ヨーゼフ1世が訪問者と会う謁見の間でもあった。
 *フランツ・ヨーゼフ1世の執務室・・・皇帝は晩年は、主にこの部屋で朝5時から深夜まで執務を行った。
 *フランツ・ヨーゼフ1世の寝室・・・皇帝の寝室としては質素で控え目な内装で小さな祈祷台もある。
〇西翼の西側
 *化粧部屋・・・エリザベート(シシー)の美しく長い髪はこちらの部屋で手入れされた。
 *フランツ・ヨーゼフ1世とエリザベートの寝室・・・1854年の婚礼時に用意された寝室。
 *皇后のサロン・・・ロココ風の装飾がされた皇后エリザベートの為の優雅なサロン。
 *マリーアントワネットの部屋・・・14歳でフランス王家に嫁ぐまで住んでいた。後に皇帝家が食事をとる部屋として使用された。
〇西翼の南側
 *鏡の間・・・白壁に金色のロココ装飾が施され、大きな7つの鏡が飾られている。北壁に大理石の暖炉があり、天井からは2つの大きなクリスタルのシャンデリアが吊り下げられている。6才のモーツァルトが、皇后マリアテレジアの前で演奏したと伝わる。また、ヨーゼフ1世とエリザベートの結婚祝賀舞踏会が行われた。
〇中央北側
 *大ギャラリー・・・宮殿の中央にあり、長さ40メートル、幅約10メートルの大広間「グローセ・ギャラリー」で、舞踏会、レセプション、ダイニングルームとして使用された。天井はイタリアの画家グレゴリオ・グリエルミにより描かれた。1814~1815年の「ウィーン会議」の舞踏会が繰り広げられた。
〇中央南側
 *楕円の中国風の小部屋・・・当時人気のあった東洋風の装飾が施された部屋で、皇后マリア・テレジアが、側近のカウニッツ宰相との重要な打ち合わせに使用した。
〇東翼の南側
 *漆の間・・・中国から取り寄せられた漆の壁面で飾られた部屋で、皇后マリア・テレジアの夫の執務室として使用された。ナポレオンも会議で使用している。
 *ナポレオンの部屋・・・ナポレオンが1805年及び1809年のウィーン占領時に、宮殿を本部として選び寝室として使用していた。
〇東翼の東側
 *百万の間・・・高価な紫檀の化粧版を用いていおり、インドとペルシャの細密画で飾られている。皇后マリア・テレジアがこの部屋を造るために要した費用額から名付けられた。最も美しいロココの内装とも言われている。




さて、宮殿庭園へは、宮殿正面に向かって右側(西側)の鉄扉から入り、左側にコの字を描く様に進むと到着する。宮殿南側の中央左右に設置された外階段の2階からは、美しい庭園が一望できる。中央には、綺麗に掃き清められた参道が噴水池と丘の上のグロリエッテ方面に延びている。参道の左右には緑の芝生に色とりどりの花壇でデザインされた区画が並び、側道を挟んで左右外側に緑が多い茂る広大な庭園が続いている。宮殿前から見える噴水池までの距離は350メートル(グロリエッテまでの直線距離700メートル)あり、左右の側道間は130メートルである。ちなみに、庭園全体は南北約1キロメートル、東西約1.2キロメートルの広大な敷地を有している。
クリックで別ウインドウ開く

参道を歩いた先にある噴水池は「ネプチューンの噴水池」で、公園内の井戸水の供給調整の一環として1778年から1780年の間に建てられた。長さ約100メートル、幅約50メートルある。


中央の人工岩の洞窟上に置かれた貝殻に、三叉槍を持つ高さ7メートルほどの「海神ネプチューン」が建ち、その傍には、息子アキレスの無事を祈る「海の妖精テティス」がひざまずく姿が表現されている。そして、周りには、神々の半人半獣像や河馬の群像が並んでいる。
クリックで別ウインドウ開く

洞窟は空洞で、後方から覗くと、宮殿を正面に臨むことができる。また彫刻の斜めから眺めると、水面から繋がる庭園と宮殿との調和が美しい。
クリックで別ウインドウ開く

丘の上のグロリエッテへは、西側の側道から続くジグザグ坂道を上って行く(東側の側道から続く坂道も同じ)。ちなみにランナーが数人駆け抜けていくチロラー通り(園内横断道)の右側にパンダの案内幕が掲げられたシェーンブルン動物園(1752年創設の世界最古のバロック式)への宮殿側入口がある。今朝は風向きの関係からか、動物の香りが漂って来る。。

ジグザグに続く坂道を450メートルほど上り詰めると池の前に到着する。池の向こうには水面に映り込む「グロリエッテ」の美しい姿を望むことができる。こちらの池は、噴水や主庭園のための貯水池としての機能も有している。グロリエッテは、1775年、対プロイセン戦の勝利と戦没者の慰霊のために宮廷付建築家ヨハン・ホーエンベルクによりギリシャ建築で建てられた記念碑である。


振り返ると、シェーンブルン宮殿の正面口から北側には街路樹のある上り坂が続き、左右は丘陵地でウィーン14区ペンツィングと15区ルドルフスハイム・フュンフハウスの町並みが広がっている。そもそもウィーン市内は、平地と思い込んでいたので宮殿北側が高台になっているのは意外だった。そして遠く西側には、ウィーンの森が見える。
クリックで別ウインドウ開く

右側に見える教会は、1898年にネオゴシック様式で建てられたカトリック教区教会の「ルドルフスハイム教区教会(Rudolfsheimer Pfarrkirche)」で塔の高さは76メートルある。ちなみに教会は丘陵地に建っていることから、高度比較で旧市街に建つ「シュテファン寺院(大聖堂)」南塔よりも6メートル高くなるとのこと。

宮殿の南側外観は、北側の大きく前面に張り出す両翼とは異なり、概ね平らな形状をしている。ところで、この庭園では、毎年6月20日の日暮れ前から、サマーナイト・コンサート(ウィーン・フィル)が開催される。宮殿前にステージを設置し、観客席はネプチューンの噴水池まで1500席が準備される。しかし入場無料(予約は不可)のため、立ち見を含め丘の上まで毎年10万人の観客が押し寄せ大混雑となるらしい。。
クリックで別ウインドウ開く

さて、池を回り込むと、池の淵に建っている様に見えたグロリエッテには前庭が広がっている。建物は、中央に窓ガラスのある三つのアーチがあり、室内にはテーブル席が並ぶカフェとなっている。正面上部にはラテン語で「1775年、皇帝ヨーゼフ2世と皇后マリア・テレジアの治世下で建立」と書かれている。両翼は、二重円柱で支えられた回廊建築で、建物の全長は84.3メートル、両脇の階段を入れると135.3メートル、幅14.6メートル、高さ25.95メートルある。
クリックで別ウインドウ開く

グロリエッテの周りからは放射状に通りが延びている。その一つが、前庭から北東方面へ続く左右に樹林が茂る峡谷のような傾斜の通りで、遠くにウィーン中心地(カールスプラッツそば)に建つ「カールス教会」のドーム屋根を望むことができる。
クリックで別ウインドウ開く

グロリエッテのアーケードまでは自由に入れるが、中央のカフェや屋上の展望台は営業時間外で入ることができない。しかし、周りは早朝ランナー以外に観光客もいないため、静かで素晴らしい眺望を独占でき、時折吹きぬける涼しい風が心地良い最高の時間帯である。


グロリエッテの裏側(南側)には、前庭先の池と対になる池が広がっており、すぐ脇には第二次世界大戦の爆撃で損傷を被った際の残骸が残されている。ところで、この広大な宮殿敷地内には、迷路庭園、温室、植物園や日本庭園などもあり、シェーンブルン宮殿全体への集客数は年間で670万人(宮殿への年間入場数は150万人)にも上りオーストリアで最も重要な観光資源とされている。
(2018.7.9~10)

page top


コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« オーストリア・ウィーン(そ... | トップ | オーストリア・ウィーン(そ... »

コメントを投稿