カズさんの旅たび

 ~歴史、文化、芸術、美食紀行。。

ロシア・モスクワ(その2)

2017-07-11 | ロシア
今日はトレチャコフ美術館でロシア絵画を鑑賞する。美術館はクレムリンの南側に流れるモスクワ川を渡ったラヴールシンスキー通り沿いにあり、メトロ6号線・トレチャコフスカヤ駅が最寄駅だが、メトロ2号線・ノヴォクズネツカヤ駅から歩くことにした。カフェやレストランが並ぶピャトニツカヤ通りを南に100メートル行くと右側に聖クリメント教会(1774年築)が現れる。5つのドーム屋根を頂く紅白が美しいバロック様式の教会である。この教会の手前の歩行者専用道路(クリメントフスキー通り)を右折して西に向かう。
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最寄駅のトレチャコフスカヤ駅は、このクリメントフスキー通り沿いにある。駅から更に200メートルほど西に行き、公園の先を右折してラヴールシンスキー通りを進むと、すぐ左側が目的地のトレチャコフ美術館である。時刻は午前10時過ぎ、入場を待つ長い列ができていたが、原因はセキュリティ・チェックだった。

トレチャコフ美術館は、1851年にモスクワ商人で工場主だったトレチャコフ兄弟が自邸に美術ギャラリーを開いたことに始まる。その後、兄弟は様々なロシア芸術家作品を収集し、ロシア最大級の美術館の一つに成長した。現在の建物は1901年に建築家ヴィクトル・ヴァスネツォーフにより改築され、その後も近隣の建物を合わせて拡張してきた。
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館内は2フロアに分かれており、2階の18世紀の展示室(油彩画)からスタートする。
こちらの展示室にはカール・ブリューロフ(1799~1852)の馬に乗る女(1832年)が展示されている。気性の荒い黒馬に穏やかな微笑みを浮かべて乗りこなす女性の姿が印象的な作品。ブリューロフはペテルブルク生まれ、帝立芸術アカデミーで教育を受けローマで肖像画家として活躍する。後に歴史的題材で「偉大なカール」と呼ばれ国際的な名声を得た。

隣の展示室には、一際大きな絵が飾られている。ロシアの新古典主義の画家アレクサンドル・イワノフ(1806~1858)の民衆の前に現れたキリスト(1857年)で、死の直前まで20年をかけて完成させた大作である。
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次の展示室には、ロシア最大の画家イワン・クラムスコイ(1837~1887)の作品が並んでいる。こちらはロシアで最も有名な作品の一つ、見知らぬ女(1883年)である。雪景色のアニチコフ橋(サンクトペテルブルクのフォンタンカ川に架かる)に停めた馬車から、静かな佇まいとまっすぐな瞳で、こちらを見つめている。トルストイの「アンナ・カレーニナ」に触発されたものとも言われるが、モデルは定かではない。
そして、こちらもクラムスコイの代表作として名高い曠野のイイスス・ハリストス(1872年)で、新約聖書に書かれている「荒野の誘惑」を題材にした作品である。
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次はロシア帝政末期の画家で神話や宗教・歴史を題材を得意としたヴィクトル・ヴァスネツォフ(1848~1926)による英雄たち(ボガトィリ)(1898年)。ロシア民族・国土を守って敵と戦う英雄を主人公とした口承叙事詩(ブィリーナ)の一つでイリヤー・ムーロメツの物語を題材としたもの。キエフ大公国を舞台として太陽公(ウラジーミル1世(在位:978~1015))に仕える勇士たち(中央がイリヤー・ムーロメツ)の活躍が描かれている。
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ヴァスネツォフの作品では、他にもイワン雷帝(1897年)や、イーゴリ・スヴャトスラヴィチとポロヴェツの合戦(1889年)などが展示されている。合戦場面はイーゴリ遠征物語(1185年イーゴリ公が遊牧民ポロヴェツ人(キプチャク)に対して行った遠征)の一場面で、ポロヴェツの矢に倒れた若者を中心に戦い終わった血まみれの戦場を描いている。戦争の悲惨さを描きつつも、どこか叙事的な雰囲気が漂っている。

こちらは、ロシア絵画で最も知られた画家イリヤ・レーピン(1844~1930)のクルスク県の復活大祭の十字行(1881~1883)で、向かって左下には、ロシア作曲家モデスト・ムソルグスキー(1839~1881)の肖像画(1881)が展示されている。
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他にも、イヴァン5世と共同統治者ピョートル1世の摂政で事実上の女性君主として君臨したソフィア・アレクセーエヴナ(1657~1704)を描いたノヴォデヴィチ女子修道院のソフィア(1879年)も展示されている。ソフィアの表情は、憤怒の形相にも見える。

こちらの展示室には、ロシア帝政末期の画家で歴史画を得意としたワシーリー・スリコフ(1848~1916)の貴族夫人モローゾヴァ(1887年)がある。作品は、ロマノフ朝末期の1672年に起きたフョードシヤ・モロゾワ貴族夫人の逮捕劇の一幕(古儀式派分裂の抗争)が描かれている。2本指で十字を描く姿勢は古儀式派の特徴とのこと。右側には、同じくスリコフの銃兵処刑の朝(1881年)がある。こちらには1698年に反乱を起こしたストレリツィ(モスクワの銃兵隊)が赤の広場のワシリー寺院前にあるロブノエ・メストで処刑される場面が描かれている。
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他にも、海をモチーフにした風景画で知られるイバンアイバゾフスキー(1817~1900)の虹(1873)、風景画で名高いイヴァン・シーシキン(1832~1898)の松林の朝(1889)、宗教的象徴主義者ミハイル・ネステロフ(1862~1942)の若きヴァルフォロメイの聖なる光景(1890年)、装飾や舞台美術など様々なジャンルで活躍したミハイル・ヴルーベリ(1856~1910)のパン(ギリシャ神話の牧人と家畜の神)(1899)、親しみやすい室内肖像画を得意としたヴァレンティン・セローフ(1865~1911)の桃を持った少女(1887年)などの作品が展示されていた。

次に1階フロアのイコン展示室を見学する。12世紀の作品から展示されており素晴らしい作品ばかりだが、受胎告知(1130~1140)聖ゲオルギオス(1130~1140)キリストの顔(12世紀後半)などのノヴゴロド公国内で制作された作品群は特に印象に残る。
そして、パナギア(生神女マリヤ(聖母マリア)の称号の一つ)(13世紀初)や、トルガの生神女(13世紀後)(拡大画)などのヤロスラヴリ公国内で制作された作品も素晴らしい。

こちらの展示室左奥には、アンドレイ・ルブリョフ(1360頃~1430)の師として知られるフェオファン・グレクの主の顕栄(1408年)が展示されている。この作品は彼のイコンスタジオとの共作とされている。そして、右側奥には、11世紀初期に没したロシア最初期のキリスト教の聖人ボリスとグレブの生涯(14世紀後半、モスクワ)が展示されている。
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次の展示室に入ってすぐ両脇には、ディオニシウス(1444~1508頃)の作品、キエフ及び全ロシアの府主教であったアレクシイと彼の生涯(16世紀初)聖母子(1482年)の2点が展示されている。そして、奥にはロシア・イコン画家の巨匠アンドレイ・ルブリョフによる作品が展示されている。

展示室の突き当たりには、アンドレイ・ルブリョフ、ダニイル・チョールヌィイ及びスタジオ作品のイエス・キリストを中心にした5連作(1408年)があり、その左側には、アンドレイ・ルブリョフ作のズヴェニゴロド(モスクワ州の古い町)のディシス(15世紀初)がある。1918年、ズヴェニゴロド・ウスペンスキー大聖堂で発見された。もとは7イコンで構成されていたと言われる。
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そして、右側には、アンドレイ・ルブリョフ作で最も有名な「至聖三者」(1420年)がガラスケース内に展示されている。
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他にも、数多くのイコンが展示されている。こちらはユーリー・ノルシュテイン監督アニメーション映画「ケルジェネツの戦い」の元ネタかと思われるような巨大なイコン画、天の皇帝の軍隊に祝福あれ(1552年、モスクワ)が展示されている。イヴァン雷帝によるカザン征服とモスクワ凱旋を記念して描かれた大作である。左のシオン山には聖母子が、中央にはコンスタンティヌス帝、その後にはウラジミール聖公、息子の聖ボリスと聖グレブが描かれている。

さて、最後に、美術館を代表するイコン作品「ウラジーミルの生神女」の展示室に向かう。ウラジーミルの生神女は、伝承では聖ルカによって描かれたとされる。1131年にコンスタンディヌーポリ総主教からキエフ大公ユーリー・ドルゴルーキー(1099頃~1157)に贈られ、大公は、故郷のウラジーミルのウスペンスキー大聖堂に納めた。その後モスクワ大公国に納められるが、ティムールやタタールの侵攻からモスクワを何度も守った奇跡のイコンと呼ばれ、現在ではロシア正教会のみならず世界中の正教会で広く崇敬され続けている。

イコンは隣接するトルマチの聖ニコラ教会に展示されている。チケット売場に向かって左奥にあるテンプル・ミュージアム(12時から16時)と書かれた立札のある扉を抜けて、階段を上り下りし、再び階段を上ると直接教会内に到着する。ウラジーミルの生神女は、黄金のイコノクラスムの左手前にある高さ2メートルほどの展示台に展示されていた。見事な作品なので、じっくり見学したいが、周りには観光客らしき人もなく敬虔な信者らしき人が数人訪れる厳かな雰囲気だったこともあり、落ち着かず早々に引き揚げた。

時刻は午後2時半。美術館を後にし、ラヴールシンスキー通りのベンチで、今朝ホテル近くで買ったデニッシュを食べる。次に救世主ハリストス大聖堂へ歩いて行くこととした。通りを北に進みボロトン島(モスクワ川の中州)に向かう歩行者専用の橋の手前を左折してモスクワ川に沿って歩道を進む。
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250メートルほどでクレムリン(南西側)に向かうボリショイ・カメンニ・モスト通りの交差点になるが、横断し直進すると正面に陸橋が現れる。ボロトン島の先端には、モスクワ市創立850周年記念として彫刻家ズラブ・ツェレテリの手によるブロンズと鋼鉄から造られた高さ98メートルの「ピョートル大帝記念碑」が建っている。
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陸橋の手前を左折し、すぐ先の建物から階段を上ると、陸橋の上に出る。ここからモスクワ川対岸に巨大な「救世主ハリストス大聖堂」が見える。聖堂は、1883年、対ナポレオン戦争の戦勝記念と戦没者慰霊を目的として44年の歳月をかけて建築された。ロシア正教会の聖堂としては世界最高の103メートルの高さを誇る。1931年には、宗教弾圧政策をとるソビエト連邦により破壊されるが2000年に再建された。なお、左側には尖塔が聳えるスターリン様式の外務省ビルや高層ビル群のモスクワ・シティなどを望むことができる。
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陸橋は目的地を目前にしてモスクワ川手前で封鎖されていた。。。仕方がないのでボリショイ・カメンニ・モスト通りまで戻ってタクシーを捉まえることにした。交渉し300ルーブルとなり乗車したが大通りは混雑しておりモスクワ川を越えたところで100ルーブル支払って下車した。その後歩いて大聖堂近くまで向かったが、こちらもゲートで覆われ聖堂に近づくことができない(あまりの観光客の多さに入場制限したらしい)。結局諦めてプーシキン記念美術館に向かった。

プーシキン記念美術館は、モスクワに公共美術館(西欧美術)を設立することを目的に、モスクワ帝大イワン・ツヴェターエフ教授(1847~1913)が設立発起人となり、1898年に建設が始まった。皇帝アレクサンドル3世の支援もあり1912年にアレクサンドル3世芸術博物館として開設した。現在の名称は、ロシア革命後の1937年、国民的詩人アレクサンドル・プーシキンの没後100周年を記念してつけられ、収蔵品の数は約10万点でエルミタージュ美術館に次ぐ世界2位の規模を誇っている。
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ということで、これから、プーシキン記念美術館に向かって左隣に建つ「プーシキン記念美術館・ヨーロッパコレクション部」で絵画を鑑賞する。
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館内の展示は2フロアに分かれている。館内は通りの喧騒とは打って変わり静かで落ち着いた雰囲気だ。
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ドミニク・アングル(1780~1867)の「聖杯の前の聖母(1841年)」。19世紀の新古典主義の巨匠アングルによる聖母像の傑作の一つ。ロマノフ朝アレクサンドル2世(在:1855~1881)が皇太子時代に依頼した作品。柔和で気品に満ちた聖母の後ろには、父ニコライ1世(在位:1825~1855)とアレクサンドル2世をたたえるように同名の聖人が描かれている。
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ピエール・オーギュスト・ルノワール(1841~1919)の「ジャンヌ・サマリーの肖像(1877年)」。当時の肖像画には珍しい暖色系の色調が使われており、モデルのジャンヌ・サマリーの微睡むような愛らしい表情と相まって、華やかさと明るさに満ちている。ジャンヌは、当時コメディ・フランセーズの花形女優でルノワールお気に入りのモデルだった。
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パブロ・ピカソ(1881~1973)の「アルルカンと女友達(サルタンバンク)(1901年)」。青の時代の初期にあたる作品。
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他にも、ポール・ゴーギャン(1848~1903)のタヒチ人の姿を描いたエイオハ・オヒパ(働くなかれ)(1896年)、色彩の魔術師アンリ・マティス(1869~1954)の金魚(1912年)、フィンセント・ファン・ゴッホ(1853~1890)のゴッホの生前に売れた唯一の作品となった赤い葡萄畑(1888年)、アンリ・ルソー(1844~1910)の熱帯のジャングルを舞台にした馬を襲う豹(1910年)、ポール・セザンヌ(1839~1906)のサント・ヴィクトワール山の平野、ヴァルクロからの眺め(1880年)などの有名な作品が目白押しで紹介しきれないほどだ。

この日は、ジョルジョ・モランディ(1890~1964)の企画展が開催されていた。彼は、20世紀前半に活動したイタリアの画家で、静物画を中心にひたすら自己の芸術を探求した。館内には静物画(1941年)や、花(1951年)など多くの作品が展示されていた。

ところで、プーシキン記念美術館(本館)へは、4日前、モスクワ・ドモジェドボ空港到着後、直接訪れ、テッツィアーノ、ティントレット、ヴェロネーゼ特別展を中心に鑑賞した。3人はルネサンス後期のヴェネツィアを代表する画家である。ちなみに、本館は、地階にクロークがあり大きなスーツケースも預かってくれるため、空港から直接来館しても安心だ。その日は、来場者も少なくゆっくり鑑賞することができた。
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ティツィアーノ・ヴェチェッリオ(1490頃~1576)の「洗礼者聖ヨハネの首を持つサロメ(1515年)」※ローマ・ドーリア・パンフィーリ美術館。サロメは抜けるような色白で美しい肌で、頬にかかる巻き毛と肩にかかる長い髪が繊細に描かれている。
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ティツィアーノによる「アレッサンドロ・ファルネーゼ枢機卿の肖像」※ナポリ・カポディモンテ美術館。枢機卿は、ローマ教皇パウルス3世の孫にあたる。ティツィアーノの精緻で繊細な人物描写はいつ見ても見事である。
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ティントレット(1518~1594)の大作。「キリスト降架(1560年)」※ヴェネツィア・アカデミア美術館。
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こちらもティントレットの作品でキリストの洗礼(1580年)。※ヴェネツィア・サン・シルヴェストロ教会。

パオロ・ヴェロネーゼ(1528~1588)の「エウロペの略奪(1588年)」※ローマ・カピトリーノ美術館。好色な神ゼウスは白い牛に化け、フェニキアの美しい王女をさらってクレタ島まで連れ去る。
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こちらもヴェロネーゼの毛皮をまとった紳士像、ダニエーレ・バルバロ?(1551年)※フィレンツェ・ピッティ宮殿と、聖母子像と聖ペテロ、アレクサンドリアの聖カタリナ(1550年)※ヴィチェンツァ・パラッツォ・キエリカーティ。など2時間ほど鑑賞した。


さてこれから赤の広場方面まで行くことにしているが、距離にして1キロメートルほどなので歩く。プーシキン記念美術館前のヴォルホンカ通りから北に200メートル進むと、先ほどタクシーを降りたボリショイ・カメンニ・モスト通りに突き当たる。右側(東)にはクレムリン武器庫へのポロヴィツカヤ塔やイヴァン大帝の鐘楼などが見え、左側にはポロヴィツカヤ広場がありウラジミール聖公像が建っている。
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像は、キエフ大公ウラジーミル1世(在位:978~1015)で、ロシアで初めてキエフ大公国をキリスト教化し版図拡大に尽力した。

ボリショイ・カメンニ・モスト通りに沿って左側の信号を渡り北上(ここからマモーヴァヤ通り)する。高台の歴史的な建物は、ロシア国立図書館(旧館)で、建築家ワシリー・バジェノフによる新古典主義の傑作パシュコフの邸宅として建てられた。旧館はその先のロシア国立図書館本館へと続いていく。
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ロシア国立図書館本館は1862年にモスクワ初の公共図書館として設立された。収蔵資料数は4,200万点にも及びロシア国内最大のみならず世界最大級の収蔵数を誇っている。正面入口には19世紀ロシア文学を代表する巨匠ドストエフスキー(1821~1881)像が飾られている。彼は罪と罰、白痴、悪霊、カラマーゾフの兄弟などの作品で世界的に知られている。
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マモーヴァヤ通りはロシア国立図書館の先で三叉路(西に向かうヴォズドヴィジェンカ通り)となっているため、地下道(メトロ1号線・ビブリオチェーカ・イーメニ・レーニナ駅)で横断する。再び地上に出て振り返ると、ロシア国立図書館から救世主ハリストス大聖堂まで一望できる。
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マモーヴァヤ通りの東側には、クレムリンのトロイツカヤ塔が聳えている。昨日、地下道を通ってアレクサンドロフスキー公園のチケット売場に向かったところ。この時間のクタフィヤ塔付近は閉館時間も近いため閑散としている。

更にマモーヴァヤ通りを進むと正面に巨大な建物が見え始めた。1935年にアレクセイ・シチューセフ(1873~1949)により旧ホテル・モスクワとして建てられた現フォーシーズンズ・ホテルである。ファサードには8本の柱がテラスを支え13階までそびえる重厚な新古典主義様式の建物となっている。右側には双塔のロシア国立歴史博物館やウグロヴァーヤ・アルセナーリャ塔が見える。
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モスクワ大学旧館を過ぎ聖タチアナ教会前で、マモーヴァヤ通りを渡る横断歩道があるのでクレムリン側に渡ると花壇や噴水のある広場があり、広場の下にはショッピングモール・アホートヌィ・リャトがある。アレクサンドロフスキー公園との間には、水路があり、橋を渡った扉から店内に入ることができる
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店内は3フロアから成り立っており近代的なショッピングモールといった感じだ。上の階には、ファッションフロアがあり、下のフロアにはフードコートがあるが、ほとんどの席が埋まっていたので少し驚いた。

店内をフォーシーズンズ・ホテル方面に進むと吹き抜けの空間となっている。天井のドームには、世界地図がデザインされ、外の光が差し込む美しい空間となっておりエレベータも設置されている。それにしてもキリル文字の表示が無いとロシアに居ることさえ忘れてしまいそうだ。
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吹き抜け空間を過ぎると出口(アホートヌィ・リャトのメイン入口)があり階段を上るとマネージナヤ広場に出る。正面にはフォーシーズンズ・ホテルが建ち、左側(西)のマモーヴァヤ通り沿いには1903年創業でロシア皇帝も宿泊した老舗ホテル、ホテル・ナツィオナーリが建っている。
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フォーシーズンズ・ホテル前から、東側を眺めると、西日が当たりレンガ色が一層鮮やかなロシア国立歴史博物館が望める。収蔵品は450万点にも及ぶモスクワを代表する博物館である。その左側には、赤の広場への入口、ヴァスクレセンスキー門があり、更にその隣には考古学博物館(1892年に竣工、モスクワ市会、ブルジョワジーの牙城となり、1942年にレーニン博物館となった。)がある。
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日暮れまで時間があるので、次にトゥヴェルスカヤ通り(旧ゴーリキー通り)を散策してみる。トゥヴェルスカヤ通りは、モスクワのメインストリートとも言える代表的な繁華街で、マネージナヤ広場を起点とし1.5キロメートル先のサドーヴォエ環状線のある凱旋広場まで続く10車線(片側5車線)の大通りである。

マモーヴァヤ通り左側のホテル・ナツィオナーリと右側のロシア連邦国家ドゥーマの議事堂(1935年、建築家アルカジー・ラングマンにより建てられた旧ソビエト連邦国家計画委員会(ゴスプラン))との間に伸びるのがトゥヴェルスカヤ通りである。マモーヴァヤ通り(ドゥーマの議事堂前からはアホートヌィ・リャト通り)を渡るには、アホートヌィ・リャトを通って横断することになる。
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さて、トゥヴェルスカヤ通りの右側の歩道から地上に出ると歩道幅が広いのに驚いた。右側にはロシアチームのオリンピック・ウェアなどを提供するボスコ・スポーツ社のショーウインドーがある。そして通り向かい側にはホテル・ナツィオナーリに続きリッツカールトンホテルが建っている。
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やや右に蛇行しながら300メートルほど歩道を進むと、カメルゲルスキー横丁の入口があり、通りの向かい側には中央電信電話局が建っている。ここには、エルモーロワ記念劇場がありプロジェクションマッピングで劇場の宣伝が行われていた。
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隣には、スターリン時代の1949年に建築家アナトリー・ジューコフ(1896~1964)によって建てられた高級住宅が建っている。低層部に御影石を使い4層構造で角のファサードにはロッジアが配される何とも豪奢な住宅だ。上部コーナーにはソ連の紋章が残っている。

そして、その隣には、白い円柱を備えたサーモンピンクの美しい建物が建っているが、これは建築家マトヴェイ・カザコフの設計による旧モスクワ総督公邸で現モスクワ市庁舎である。
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そして、モスクワ市庁舎と向かい合うように通りを挟んで、こちら側にはトゥヴェルスカヤ広場があり、中央にはモスクワの創設者ユーリー・ドルゴルーキー公の銅像が建っている。1954年、モスクワ市創立800周年を祝して作られた。
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ユーリー・ドルゴルーキー(手長公)(1099頃~1157)は、キエフ大公ウラジーミル2世モノマフ(在位:1113~1125)の六男として生まれた。彼はルーシ(キエフ大公国領域)の北東に位置したウラジーミル、ロストフ、スーズダリなどを拠点としていたが、1146年に端を発するキエフ大公位並びに諸公国の公位をめぐる権力闘争に、南方の首都キエフに度々攻め入り、これを占領し1149年にキエフ大公となる。

当時手を組んでいた従兄弟スヴャトスラフ公と、モスクワで祝宴を開いた1147年がモスクワ市発祥の年とされている。その後、ユーリー・ドルゴルーキー公は、再びモスクワ入りし、1156年に河口の三角地帯に周囲400メートルあまりの木柵を築き、堀をめぐらせた。これがモスクワ・クレムリンの始まりである。
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右手を前に差し出しているのは馬上の敬礼の姿だそうだ。

トゥヴェルスカヤ広場の南側に建つ建物に沿って、東側のペトロフカ通りまでは石畳の歩行者天国(ストレーシュニコフ横丁)となっており、カフェやフェルメス、バーバリー、ディオールなどのブランドショップ等が並んでいる。スターリン政権下にオープンし政府高官や著名人も訪れた有名グルジア料理店アラグヴィもここにある。ロシアのルポルタージュ作家ウラジーミル・ギリャロフスキー(1855~1935)はこの辺りにあった住宅に住んでいたという。

さて通り沿いにあるモスクワ書店、工事中のビル(ソビエト連邦時代、コミンテルンの外国人宿舎があり、後に東側諸国の要人が滞在していたホテル・ルックス)やグレンフィールド、ブラッチャリーニなどのショーウインドーを過ぎると、エリセーエフスキーがある。
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エリセーエフスキーは、19世紀末から20世紀にかけて、ワイン輸入などで富を築いたエリセーエフ家が運営する高級食料品店で、モスクワとサンクト・ペテルブルクに店舗がある。この宮殿を思わせる様な新バロック様式の建物は、19世紀初頭にヴァルコンスカヤ公爵邸だったもの。なお、20世紀初頭に来日して西欧に盛んに日本紹介を行い「日本学の始祖」と言われたセルゲイ・エリセーエフ(1889~1975)は、このエリセーエフ家の次男である。

店内は高い天井で重厚な装飾が施される壁や柱などクラシカルな雰囲気を漂わせている。商品はやや割高な値段設定だがお土産には最適だ。中ほどには、清潔に保たれた冷蔵ケースがあり新鮮な魚介類が並んでいる。右端を覗き込むとキャビアやイクラなどの高級食材が置かれており、美味しそうだが要冷蔵のためお土産には馴染まない。眺めるだけだ。。
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トゥヴェルスコイ通りとの交差点に到着した。トゥヴェルスカヤ通りを地下道(メトロ2号線・トゥヴェルスカヤ駅)で向かい側に横断しプーシキン広場を見渡している。広場口に建つプーシキン像(1880年オペクーシン作)は、残念ながら修復中。。なお、奥に建つのはソビエト連邦及びロシア連邦の日刊紙「イズヴェスチヤ」ビルである。
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交差点からトヴェルスコイ通りを100メートル行くと左側に、高級ロシアレストラン、カフェ・プーシキンがある。正面入口の先に窓があるので店内を覗うと混雑していた。
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時刻は午後9時を過ぎ、辺りも暗くなってきたのでこの辺りでトゥヴェルスカヤ通りをユーターンする。帰りは反対側の歩道を歩くことにした。この場所から先ほど歩いたトゥヴェルスカヤ広場南側の建物からエリセーエフスキーまで一望できる。
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トゥヴェルスカヤ通りをエルモーロワ記念劇場まで戻り、地下道で通りを横断しボスコ・スポーツ社のショーウインドー前に出る。ドゥーマの議事堂に沿って左折しアホートヌィ・リャト通りを250メートルほど行くと左側にライトアップされた美しい姿のボリショイ劇場が現れる。

1825年、現在のテアトラーリナヤ広場の敷地にA.ミハイロフ、オシップ(イオアン)・イワノヴィッチ・ボヴェの設計で建設された。その後火災に見舞われ、独ソ戦でドイツ軍の攻撃により被害を受けたがその都度改修された。現在の建物は2005年から6年の歳月をかけて改修されたもの。
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向かって右奥の赤いネオン看板のある建物はツム百貨店である。そして、アホートヌィ・リャト通り(チアトラリニ通り)を挟んで向かい側には革命広場があり、カール・マルクス像が建っている。その広場左側にはメトロポール・モスクワ・ホテルが建ち、2階にはホテル創設者・ロシアの著名実業家でモスクワのメディチと呼ばれたサーバマモントフ(1841~1918)の名を冠した高級ロシア・レストラン・サーバ(SAVVA)がある。

さて、今夜はカザンの聖母聖堂とグム百貨店との間に伸びるニコリスカヤ通りの東端にあるレストラン、リーブィ・ニェット(Рыбы нет)で食事を頂く。モスクワにあるステーキハウスでは今最も人気があるレストラン。なお昨日のグルジア料理レストランの系列店でもある。事前に予約したテラス席に座る。
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注文は、ほうれん草とリコッタチーズのサラダ(380ルーブル)と、マッシュルーム入りフライドポテト(380ルーブル)を。メインは、ラムラックのグリル(300g)(1440ルーブル)と、ビーフストロガノフ(1150ルーブル)を頼んだ。バゲットとバターはサービス。バゲットは表面のパリパリ感と中のモチモチ感が非常に美味しかった。

午前0時を過ぎ、赤の広場に向かったが進入禁止となっており警備員により追い返された。グム百貨店のライトアップを眺めて、昨日と同様にメトロ3号線・プローシャチ・レヴォリューツィ駅のホームに向かう。深夜のため、すぐに電車が来るのか不安だったが、10分ほどで電車が到着したので、一安心。無事、ホテルに戻った。
(2017.7.11)

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2 コメント

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Unknown (土山茜)
2019-07-13 20:46:43
土山茜
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Unknown (ロシア)
2019-07-13 20:47:02
ロシア
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