カズさんの旅たび

 ~歴史、文化、芸術、美食紀行。。

イタリア・ヴェネツィア(その2)

2013-04-30 | イタリア(ヴェネツィア)
昨日同様サンタ・ルチーア駅を降り、向かい側の乗船口「フェッローヴィア・スカルツィ停留所」から、 サン・マルコ広場方面行きのヴァポレット(水上バス)赤82番(急行便)に乗船し、後部座席から後ろを振り返りながら、通り過ぎる「カナル・グランデ(大運河)」の風景を眺めている。こちらは「リアルト橋」を過ぎ、西に向けまっすぐの流れとなったところ。
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西側に延びるカナル・グランデは、カ・フォスカリ(ヴェネツィア大学)付近で大きく左(南方向)に曲がり、更に「アカデミア橋」(カナル・グランデに架かる4つの橋のうち、唯一の木製橋)をくぐった先で東に向きを変える。左側ドルソドゥーロ区側には、コンタリーニ・ポリニャック宮が、右側サン・マルコ区側には、旗がたなびくパラッツォ・カヴァッリ・フランケッティ館、白い六層のパラッツォ・バルバロ館などが建ち並んでいる。
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そのすぐ先の「サルーテ聖堂」と「プンタ・デッラ・ドガーナ現代美術館」(上部には、アトラス像が支える黄金の球体上で旗を振る女神の姿がある。)でカナル・グランデは終わり、南のジュデッカ島からの流れの「ジュデッカ運河」になる。
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ヴァポレットは、大きく左側に舵を切り、ジュデッカ運河(サン・マルコ運河)北岸の「サン・マルコ・ジャルディネッティ停留所」に到着する。
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お土産屋が連なるジュデッカ運河沿いの通りには「王の庭園」がある。もともと穀物倉庫が建っていたが、ナポレオン支配時代に取り壊わされ公園にしたことから名付けられた。旧行政館の建物後方には「ヴェネツィアの鐘楼」が聳えている。


そのすぐ右側に、ヴェネツィア共和国の元首邸兼政庁「ドゥカーレ宮殿」が建っている。初期のヴェネツィア共和国時代の810年に元首(ドージェ)の居城として建てられ、その後、住宅、行政府、立法府、司法府、刑務所など国の中枢機関となった。その後何度か再建され、15世紀後半には、現在の姿となったと言われている。その後も改修が繰り返され、1923年からは博物館となっている。建物の内側には大きな中庭があり、その中庭北側は、サン・マルコ大聖堂の南袖廊にあたる。
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ドゥカーレ宮殿の西側は小広場になっており、その入口左右にはそれぞれの頂部に、「守護聖人テオドロス」と「聖マルコを象徴する有翼の獅子像」が飾られた二本の石柱が建っている。中世にはこの柱の間に死刑執行台を設置したため、ヴェネツィアっ子は柱の間を通り抜けないという。その小広場の奥にはサン・マルコ大聖堂の姿が見える。

ドゥカーレ宮殿の西側アーケードに沿ってサン・マルコ大聖堂方向に向かう。ドゥカーレ宮殿の一階部分は、ゴシック風の尖塔アーチがアーケードを形成しており、二階部分は欄干があるロッジアで、三葉アーチと四つ葉模様に円形装飾で飾られるなどイスラム建築の影響も受けた細やかな装飾が施されている。中央付近のやや強調された柱の上、二階ロッジアの柱上部には、正義、公正を象徴するトンド(円形の浮き彫り)が飾られている。そのロッジア左側にある赤い2本の柱は儀式の際に利用された。
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これら14世紀と15世紀の精緻なヴェネツィア彫刻群は、1876年に大規模な修復計画が開始された際に美術館などに保存され、現在はコピーに置き換えられている。とは言え、アーチを構成する円柱の柱頭彫刻は、どれもデザインが異なった上、細かく装飾されている。こちらのアカンサスの葉もかなり手が込んでいる。
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ドゥカーレ宮殿のアーケードに沿って小広場を北側に進むと、左側にヴェネツィアの鐘楼が、正面にサン・マルコ大聖堂の南側面が見えてくる。
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ドゥカーレ宮殿の北西角にある柱頭彫刻の上には、ソロモンの裁きが飾られている。そして、右側に回り込むと、後期ゴシック建築の装飾で飾られた「ポルタ・デラ・カルタ(布告門)」がある。宮殿への儀式用の入口で1438年から1443年にかけて建てられた。中央には聖マルコを象徴する獅子像(1797年に破壊され1885年に置き換えられた)の前にひざまずく元首フランチェスコ・フォスカリ(在任:1423~1457)の彫刻があり、両側にはキリスト教の四つの古典的な美徳(節制、慎重、勇気、正義)を表した彫刻群で飾られている。15世紀ヴェネツィア彫刻の傑作とされている。
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すぐ左側のサン・マルコ大聖堂の外壁角には、赤斑岩で作られた四体の像が飾られている。こちらは、帝政ローマ後期の皇帝ディオクレティアヌス(在位:284~305)が西暦293年に始めたテトラルキア(ローマ末期の東西正副皇帝の共同統治)制度を象徴する像である。もともとコンスタンティノープル総主教庁の装飾の一部であったが、第四次十字軍(1202~1204)により戦利品(略奪品)としてヴェネツィアに移された。二人ずつ抱き合う像は別々に制作されたもので、一部白い個所(像の白い足と台座)のオリジナルは今もイスタンブールに保存されている。
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サン・マルコ大聖堂の南壁沿い(テトラルキア像のすぐ左側)にある黒い大理石の角柱(両脇にある)はコンスタンティノープルのアギオス・ポリエウクトス聖堂(現存しない)からの戦利品「ピラストリ・アクリタニ」(柱材)である。次に、街のシンボル「ヴェネツィアの鐘楼」の右側を通って「サン・マルコ広場」に向かう。
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ヴェネツィアの鐘楼は、ヴェネツィア本島では、最も高い建造物で98.6メートルの高さがある。上部のアーチ型の鐘室には5つの鐘があり、その上のレンガ造りの壁には獅子と女性の浮彫と頂上には大天使ガブリエルの像が飾られている。

「サン・マルコ広場」から、サン・マルコ大聖堂全体を眺めてみる。長さ76.5メートル、幅62.60メートルで、中央のドームの高さは43メートルある。西側ファサードは、多色の大理石の柱で囲まれ、二層五連のアーチ構造で中央アーチ下のブロンズ製のドアが入口になる。
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ところで、最初の大聖堂は、ヴェネツィア商人によりアレクサンドリアから運ばれた聖マルコの遺体を収容するために828年にドゥカーレ宮殿の場所に建てられたが、現在の大聖堂の基礎となったのは、元首ドメニコ・コンタリーニ(在任:1043~1071)在任時に建設が始まったもので、1090年頃完成したもの。そして、元首エンリコ・ダンドロ(在任:1192~1205)在任の1204年には、コンスタンティノープルを陥落した第四次十字軍が運んできた大量の戦利品で豪華に飾り付けられ、その後も改築、拡張が行われている。

向かって右側の二つのアーチは奥行きのある筒型ヴォールトで、左右両側を二層の列柱群が取り囲み支えている。扉口上部のティンパヌムには、右端が「アレクサンドリアから運ばれる聖マルコの遺体」で、手前のティンパヌムが「聖マルコ遺体のヴェネツイア到着」と聖マルコの物語がモザイク画で表現されている。
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中央のアーチは、扉口の左右3本の側柱が支えるアーキヴォールトと、外側に3本の側柱が支えるアーキヴォールトが二層に組み合わさった豪華なアーチ門で、ティンパヌムには鮮やかなモザイク「栄光のキリストと最後の審判」(19世紀)が施されている。アーチの上のテラスには、コンスタンチノープルの競技場からの戦利品で、ヘレニズム時代の四頭の青銅像が飾られている(オリジナルは聖堂内部に展示)。
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そして、次の4番目のティンパヌム「元首、市民による聖マルコ遺体の歓迎」までの3か所の聖マルコの物語は17~18世紀制作のモザイク画だが、最後の5番目のやや湾曲したティンパヌムに施された「大聖堂へ運ばれる聖マルコのお棺」のモザイク画は、13世紀に作られたオリジナルである。画面には、金を背景にしたサン・マルコ大聖堂の前に、豪華に着飾った多くの人々が集まり、聖マルコの納棺の儀式を執り行おうとする様子が表現されている。
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その13世紀のモザイク画のあるティンパヌムは、左右の円柱や精緻な浮彫が施された尖塔アーチが支えている。その尖塔アーチ内の小ティンパヌムにも、マタイ、ヨハネ、ルカ及びマルコの福音記者の彫像や5つの異なる浮彫窓が施されている。

それでは、聖堂内の見学に向かうことにする。聖堂内は扉口を入ると、最初に南北に沿って前玄関(ナルテックス)があり、天井に美しいモザイク画が施されている。こちらのモザイク画が、サン・マルコ大聖堂最大の見所の一つとされているが、後で見学することとして、まずは身廊内から階段を上ってナルテックスの2階の中央フロアに向かう。

階段から見える一番手前のドームには「聖霊降臨(ペンテコステ)」が表現されている。キリストがドーム中央で鳩の姿(精霊)となり、その精霊の光を放射してキリスト教の教えが十七使徒へと受け継がれていく象徴的なモザイク画である。サン・マルコ大聖堂のモザイク画はムラーノ島で製造された上質なテッセラ(小さな角片)を使用し、11世紀末から19世紀にかけて制作されたもので、こちらの聖霊降臨は初期の12世紀頃の制作とされる貴重な作品である。
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円形ドーム下部のペンデンティブ(穹隅)には、美しい天使のモザイク画が施されている。天使はこちらに視線を向け、手を胸におき、やや前かがみの姿勢で歓迎している様にみえる。
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ナルテックスの2階中央フロアには、ファサード側に大きな半円形の明り取りの窓がある。そして、天井はモザイク画で覆われた分厚いトンネルヴォールトで「最後の審判」や「ヨハネの黙示録」(19世紀制作)(こちらは大天使ミカエルと竜の戦い)などのモザイク画が施されている。

聖堂は、ビザンティン建築のクロス・ドーム形式を基本とし、十字の各5か所に独立したドームを乗せている。中央フロアからは金のモザイク画で覆われた身廊全体が見渡せるが、この辺りは19世紀に制作されたものが多い。一番奥の後陣アプスには、宇宙の支配者「偉大な全能者ハリストス」が見える。あちらは16世紀に制作されたもの。
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その「偉大な全能者ハリストス」の手前ドームのペンデンティブには、聖マルコを象徴する「有翼の獅子像」のモザイク画がある。遠くてわかりにくいが、獅子像は、目を見開き、左右に翼を広げ左手に草花を持ち、右腕を前に差し出す上半身が表現されている。
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ファサード側の大きな半円形の明り取りの窓から、四頭の青銅像が飾られたテラスに出られ、サン・マルコ広場を眺めることができる。右側(北側)には、「サン・マルコ広場の時計塔」が見える。中央には、十二宮の浮彫で飾られた天文時計があり、屋上には、ムーア人のブロンズ像が正午に鐘を鳴らしていることから「ムーア人の時計塔」とも呼ばれている。時計塔は、1499年元首アゴスティーノ・バルバリーゴ(在任:1486~1501)の時代に建てられた。その後19世紀には、ヴェネツィアの標準時となり、現在も、修理が繰り返され、時を刻み続けている。


そして正面がサン・マルコ広場で、多くの観光客が集まっている。広場は、南北82メートル×東西157メートルの広さがあり、周りを取り囲む長いアーケードが続く建物は、16世紀初頭に建てられた旧行政館で、国の高官である財務官の住居や事務所として使用された。現在は、1階にショップやレストランが並び、2階にはオフィスがある(こちらは広場から見た様子)。正面西側から南側は、現在はコッレール博物館となっている。
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左側(南)がジュデッカ運河の方向になる。広場には左が有翼の獅子像、右が守護聖人テオドロス像と二体の石柱が飾られている。ジュデッカ運河の対岸には、右側に「ジュデッカ島」が、左隣に「サンジョルジョ・マッジョーレ島」やサン・ジョルジョ・マッジョーレ聖堂のファサードが望める。
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テラスの南西側からサン・マルコ大聖堂のファサード中央部を見上げると、尖塔の先に聖マルコの彫像が飾られているのが見える。

再び大聖堂内に戻り、左(北側)に向かうとサン・マルコ博物館になり、最初にオリジナルの四頭の青銅像が展示されている。その先には、19世紀の改築の際に発掘された古いモザイク画が間近で鑑賞できる。
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モザイク画のテッセラ(小さな角片)は、小指の先ほどに小さい。漆喰の上にテッセラを水平にせず、やや斜めに埋め込まれている。このことにより光が四方に反射する効果を生むそうである。
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博物館の通路からは、聖堂北側の上部のモザイク壁画を鑑賞することができる。北袖廊の上部には、聖母マリアの生涯がモザイク画で描かれている。12世紀制作のもので、手前には受胎告知の場面があり、左上壁に妊娠中の叔母エリザベトを訪問するマリアと、ナザレに戻ったマリアの懐妊を知るヨセフが表現され、隣の壁には、夢の中で天使に説得されるヨセフ、住民登録のためにベツレヘムへ向かうマリアとヨセフと続いている。ちなみに後半は南袖廊になり、そちらのモザイクは16世紀に制作されたもの。
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北翼廊には、キリストが行った様々な奇跡の場面が表現されている。こちらは16世紀と17世紀に制作されたもの。


すぐそばの天井ヴォールトに施されたキリストの奇跡の場面は、タッチが古い。こちらも12世紀から13世紀頃のものか、美しいモザイク画である。
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次に主祭壇に向かった。こちらの主祭壇の裏側にあるのが、黄金の装飾衝立「バラ・ドーロ」で、サン・マルコ大聖堂の見所の一つである。


バラ・ドーロは、縦2.1メートル×幅3.5メートルの大きさで、中央に「偉大な全能者ハリストス」、左右にヴェネツィア共和国元首の肖像、下部に聖マルコの物語が、エマーユ(エナメル七宝)で描かれ、黄金をベースに、真珠、エメラルド、サファイア、ルビーなどをちりばめ制作されている。古典金細工においては最大の大きさで、上部パネルを折りたためたが、現在は回転のみが可能で祭壇の正面側に向けることができる。

元首ピエトロ・オルセオロ1世(在位:976~978)が、コンスタンチノープルの名工に発注し、4人の元首によって長年、手が加えられ、現在の姿になったのは1345年と言われている。ちなみに、大天使ミカエルが描かれた最上部は第四次十字軍の戦利品と言われている。
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最後に、ナルテックス(前玄関)のモザイク画を鑑賞する。ところで、当初のモザイクのほとんどが1106年の火災で失われたことから、その後に制作された中で、現在最も貴重なモザイクの一つとされるのが、13世紀初頭に追加されたナルテックスの天井画である。6世紀の図像を参考とし、適度に抽象化されつつも巧みな説話表現をしているなど大変評価が高い。そのナルテックスの南側天井には、天地創造を主題としたモザイク画が施されている(ファサード側の二層五連アーチの南から二番目のアーチの内側に位置している)。
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物語は、小円蓋を同心円状に内側から外側にかけて、左回りに三区分の計26の場面が、ラテン語とともにモザイク画で表現されている。聖書にある「神は6日間働いて天地万物を創造し、7日目に安息をされた」とある日数は天使の人数と出来事で表現されており、5日目の魚と鳥や、6日目の動物などが、ペアで表現されているのも微笑ましい。外側には、眠っているアダムの肋骨を取ってイブを作り、禁断の木の実を食べるアダムとイブの「原罪」の場面などが表現されている。

その横にはノアの洪水の場面が描かれている。こちらは、ノアが造った方舟に、様々な動物を一組ずつ乗せる場面。


そして、洪水により溺れる人々、方舟から飛ばした鳩がオリーブの枝を持って帰ってきた場面などが表現されている。
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こちらには、「バベルの塔」の建築の様子が表現されている。左側には、塔を建設する人々の様子で、右側は、神が降臨して、言葉を乱したため、人々が全地に散らばる様子が表現されている。
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旧約聖書の創世記、大洪水、ノアの箱舟、バベルの塔の話と続いた後の隣の小円蓋には、「アブラハムの物語」が4つの場面から表現されている(ファサード側の二層五連アーチの南から四番目のアーチの内側に位置している。)。ラテン語の記述の合間に見える四つの星空は、神を示し、現れる手によって表現されている。
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北西角の小円蓋から東側に向けて計4つの小円蓋が続き、最初の3つには「夢占い師ヤコブの物語」が、最後に「モーゼの物語」へと続くが、混雑した上に暗くて諦めた。。当然ながら、サン・マルコ大聖堂は、ヴェネツィアの中でも特に人気の高い観光地スポットであるため、やたら混雑している。モザイク画をじっくり鑑賞するなら数日間は要する。。そんな印象だった。。ちなみに左側の出口はティンパヌムに「大聖堂へ運ばれる聖マルコの棺」のモザイクがある5番目のアーチにあたる。


サン・マルコ大聖堂を出て、次に「サン・ザッカリア停留所」からヴァポレット赤82番に乗り(1つ目)ジュデッカ運河(サン・マルコ運河)南側にある「サンジョルジョ・マッジョーレ島」のサン・ジョルジョ・マッジョーレ聖堂に向かう。

この島は、ジュデッカ島の東側に隣接しており、直径1キロメートルにも満たない小さな島だが、サン・マルコ広場から近いことから、島からはサン・マルコ運河を隔ててドゥカーレ宮殿や鐘楼を眺めることができる。サン・ジョルジョ・マッジョーレ聖堂は、ベネディクト会の教会で現在の建物はパドヴァ生まれの建築家アンドレーア・パッラーディオにより設計され1566年から1610年にかけて建設された。
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ちなみにアンドレーア・パッラーディオは、ジュデッカ島にある「レデントーレ教会」も設計している。レデントーレ教会は、1576年にペストが終息したことへの記念及び神への感謝を込めて建てられた。

サン・ジョルジョ・マッジョーレ聖堂内は無料で拝観することができる。古典的様式で16世紀に建てられた聖堂内部は、白で統一され明るい雰囲気である。こちらにはティントレット晩年期の傑作で、聖堂内陣のために描かれた「最後の晩餐」(画像出典:ウィキメディア・コモンズ(Wikimedia Commons)があることで有名。他にも、セバスティアーノ・リッチの「玉座の聖母子と聖人たち(1708年)」や、ヤコポ・ダ・パッサーノ(1510~1592)の「キリスト降誕」などがある。神々しく光り輝くキリストは、見つめる聖母や周りを明るく照らしている。
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奥には鐘楼塔に上るエレベーターがある(3ユーロ)。その鐘楼塔の鐘室が展望台となっており、四方に胸までの高さの壁と、それぞれ二本の円柱で囲まれている。柱の間には転落防止用としてワイヤーロープが這わされている

最初に、先ほどまでいたドゥカーレ宮殿とサン・マルコ大聖堂付近をズームアップして眺める。ドゥカーレ宮殿は、これだけ離れた場所からも、細やかなイスラム装飾や連続するゴシック・アーチの外観が大変美しく見える。奥にはサン・マルコ大聖堂のドーム屋根も見える。
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カメラを引いてみると、サン・マルコ広場のあるヴェネツィア本島の街並みと重なる様に、海の向こうの本土の街並みや、遠くの「モンテ・グラッパ」などの山並みも見える。左側に視線を移していくとカナル・グランデの出入口や、プンタ・デッラ・ドガーナ美術館とサルーテ聖堂が見える。
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プンタ・デッラ・ドガーナ美術館の南側からは、ジュデッカ運河が流れ込み、対岸にはヴェネツィア本島に添うように浮かぶジュデッカ島が見える。ジュデッカ島には、ユダヤ人居住区があったことから、13世紀頃ユダヤ人居住区に因んで名付けられた。ヴェネツィアのユダヤ人は比較的裕福で栄えたことから、ヴェネツィアの財政に大きく貢献したという。
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今度は、東側を眺めてみる。再びサン・マルコ広場のドゥカーレ宮殿から「パリャ橋」を渡ったプラッツォ・デレ・プリジオーニ(宮殿の監獄)の先隣りの赤い建物は5つ星の高級ホテル「ホテル・ダニエリ」である。かつてヴェネツィア共和国が繁栄した14世紀に貴族ダンドロ家の屋敷として建設された建物で、19世紀に改装され現在のホテルとなった。
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右側に視線を移していくと、海岸沿いにはイタリア王国の初代国王を称えるブロンズの記念碑があり、その先の「ピエタ橋」を渡り、サンタマリアデッラピエタ教会のファサードの後方のドームが「サン・ザッカリア教会」で、次の「セポルクロ橋」の手前が、昨夜の夕食場所「ホテル・メトロポール」である。右側のひと際高い鐘楼(約70メートル)は、ヤコポ・サンソヴィーノによって1554 年にヴェネツィア・ルネサンス様式で建てられた「サン・フランチェスコ・デッラ・ヴィーニャ教会」である。
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更に右に視線を移すと、奥に内海のある「アルセナーレ」(造船所施設)がある。もともと、1104年にヴェネツィア共和国により設置された国立造船所で、オスマン帝国との戦争状態に入った15世紀頃は、2万人もの労働者が勤務して1日1隻のガレー船を建造していたとされる。現在は、海洋史博物館や海洋軍事研究所などがある。
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右側は、本島の東端にある緑の森「ジャルディーニ」(カステッロ公園)で、ピンクのビエンナーレ看板が見える。こちらでは、1895年から二年に一度、奇数年の6月から11月頃まで「ヴェネツィア・ビエンナーレ」(現代美術の国際美術展覧会)が開催されている。反対側には、ラ・チェルトーザ島や潟が隣接している。
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ジュデッカ運河は、本島の最東端から左側に回り込む様に流れている。そして、遠方に広がるのはヴェネツィアの潟に浮かぶ「リド島」。長さは約12キロメートルの細長い島で、正面に見えるドームの右側に本島とのフェリーの乗船口がある。1971年公開のルキノ・ヴィスコンティ監督による映画「ベニスに死す」の舞台でもあり、毎年9月にヴェネツィア国際映画祭が開催されている。右側の小さな島の建物は、「サン・セルヴォロ島」の旧精神病院(マニコミオ)で、現在、博物館になっており、隣接してヴェネチア国際大学が設置されている。
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次に「アカデミア美術館」に向かう。ヴァポレット赤82番に乗り、ドルソドゥーロ区のジュデッカ運河沿いにあるサンタ・マリア・デル・ ロザリオ教会(ジェズアーティ教会)そばの「ザッテレ停留所」で下船する。すぐそばの お店でジェラートを買って食べながら支流の「サン・トロヴァソ運河」沿いを北に歩くと、17世紀から続く「ボートヤード」がある。こちらはゴンドラの製造と修理のための造船所で、現在も手作業で製造されている。


そのすぐ北隣には「サン・トロヴァーソ教会」が建っている。ヴェネツィアの設立初期に建てられた歴史ある教区教会で、現在の建物は1591年に(1657年に奉献)再建されたもの。二重ファサードで、運河側と反対の西側にもある。


そして、北東方面に100メートルほど行くと「アカデミア美術館」に到着する。美術館のすぐ北側が「カナル・グランデ(大運河)」で木製の「アカデミア橋」が架かっている。こちらは、橋から西側を眺めた様子で、カナル・グランデが北側から大きく東側にカーブする所になる。橋の下のスチール屋根はヴァポレットのアカデミア停留所である。
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振り返った東側は「カナル・グランデ」の出入口になり、ドルソドゥーロ区のプンタ・デッラ・ドガーナ美術館手前に建つサルーテ聖堂が望める。この時間、午後4時を過ぎ、西日がドームを照らし始めた。
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それでは「アカデミア美術館」に向かう。美術館は、18世紀に創設された「ヴェネツィア美術アカデミー」を経て、1817年から現在の美術館に至っている。その館内には、ヴェネツィア派のジョヴァンニ・ベリーニを始め、盛期ルネサンスのティツィアーノ、ジョルジョーネ、ティントレット、パオロ・ヴェロネーゼなど巨匠の代表作を含め14世紀から18世紀までのヴェネツィア派絵画が中心に展示されている。

こちらは、ジョヴァンニ・ベリーニ(1430~1516)の「聖会話」(1490頃)で、聖母子を中心に左右にマグダラのマリア、聖カタリナが描かれている。暗い背景に浮かぶ登場人物の姿には神秘性が漂っており、ダ・ヴィンチから受け継いだスフマート(ぼかし技法)が大きな効果を上げている。
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他にも、ジョヴァンニ・ベリーニの作品では、「聖母子像」(1485~1490)や「聖母子(双樹の聖母)」(1487頃)などが展示されている。双樹の聖母では、聖母が座る王座の背もたれの左右に描かれた、上部に向かって生い茂る細い木が、どことなく不安感を漂わせており、将来を暗示している様である。
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そして、同じく、ジョヴァンニ・ベリーニの作品では、悲しむ聖母マリアがキリストを抱きかかえる「マルティネンゴ・ピエタ」(1505)が展示されている。傑作「サン・ザッカリア祭壇画」(玉座の聖母と諸聖人)とほぼ同時期に描かれたもので、聖母マリアの紫青の二色マントやキリストの腰巻と繋がってみえる白のスカーフなど色使いが印象的な作品。閉ざされた園を示唆する様に二人を緑が鮮やかな芝生が取り囲み、背景には、ヴェネツィアの建築物を配置している。作品名は、マルティネンゴ家の所有だったことに因んで名付けられた。

ジョヴァンニ・ベリーニの義兄弟にあたるパドヴァ派の画家アンドレア・マンテーニャ(1431~1506)の「聖ジョルジョ」(ゲオルギオス)(1460)が展示されている。ジョルジョは馬に乗って戦う姿と異なり、既に竜を倒し、折れた矢を片手に立っている。竜は足元に倒れ、口の中に折れた矢が刺さっている。ジョルジョと竜は大理石の枠から一部はみ出るなど、マンテーニャお得意のイリュージョニズム(だまし絵)技法で描かれている。

初期ヴェネツィア派を代表する画家ヴィットーレ・カルパッチョ(1465頃~1525)の9枚の絵画よる連作「聖ウルスラ物語」(1490頃)が展示室一杯に飾られていた。こちらは大使の到着(部分)聖人の夢巡礼者と教皇との会談や、ケルンへの巡礼者の到着である。聖ウルスラ(?~383頃)とは、ブリタニアの地方のキリスト教徒王の娘で、1万1000人の乙女を引き連れてローマに巡礼した帰路、ケルンでフン族の襲撃により殉教したとされている。

こちらは、ティツィアーノ(1490頃~1576)の最後の作品「ピエタ」(1576)で、サンタ・マリア・グロリオーザ・デイ・フラーリ聖堂をティツィアーノ自身の墓所と決め、埋葬の返礼として制作を始めたものだが、途中で亡くなったことから弟子のパルマ・ジョヴァーネが完成させたもの。右側でひざまずく聖ヒエロニムスはティツィアーノの自画像と言われている。
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そして、ルネサンス期の巨匠ジョルジョーネの傑作「テンペスタ(嵐)」(1506~1508頃)が展示されている。乳児に母乳を与える女性が描かれているが、女性は、乳児を膝に乗せす地面に座らせて半裸身があらわにしている。小川の対岸には、長い槍を持つジプシー風の男性がどこか遠くを眺める様に立ち、遠くには暗雲が立ち込めている。この絵画は、エデンの園、エジプトへの逃避、パストラルなど様々な解釈があるが、解明されていない。
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同じくジョルジョーネの作品とされる「老女(ラ・ヴェッキア)」(1506頃)。壁の向こうから、年配の女性が「時の経過とともに」と書かれた巻紙を持ち、激しい苦しみ表情と仕草で鑑賞者に訴えかけようとしている。老いによる人生の儚さを象徴する寓意的な作品。
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そして、ティントレット(1518~1594)の「聖マルコの奇跡」(1548)。敬虔なキリスト教徒である奴隷が、主人の許可を得ないまま、聖マルコの遺蹟の巡礼をしたことから、死刑を宣告されて殺されようとするところに、天から聖マルコが現れ、奴隷を救ったという場面である。
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同じく、ティントレットの「ヴェネツィアに運ばれた聖マルコの遺体」(1562~1566)。近くの被写体は濃く描かれ、背景に行くほどの白く描かれてる印象的な遠近法が有名な作品。 赤と黒の不吉な雲が重い雰囲気を醸し出している。ラクダの横にあるひげを生やした男はティントレット自身と言われている。
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ティントレットの作品は、他にも多数展示されており、こちらの「アダムとイヴ」(1550頃)では、対角線的に二人を配置した高度な遠近法が用いられている。

パオロ・ヴェロネーゼ(1528~1588)の代表作「レヴィ家の饗宴」(1573)が展示室一面に飾られている。16世紀の絵画作品で最も大きな絵画の一つで、555センチメートル×1310センチメートルある。「最後の晩餐」として、ドミニコ会の修道院であるサンティ・ジョヴァンニ・エ・パオロ聖堂の後壁を飾るために描かれたが、画面には、馬鹿親父、酔ったドイツ人、小人、下品で下劣な表現などが見られることから、ローマカトリックの異端審問による調査が行われ、結果的にキリストが宴会に招待されたエピソードを題材として「レヴィ家の饗宴」とタイトルが変更になったという曰く付きの作品。
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ちなみに、こちらが、中央付近の拡大画面である。キリストの左右にペテロとヨハネが座り、ユダは赤い衣姿でこちら側に振り向いている。
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同じく、パオロ・ヴェロネーゼの「アレッサンドリアの聖カテリーナの神秘の結婚」(1575頃)。聖女カテリーナが幼児キリストから結婚指輪を受け取るという幻想の場面。
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こちらは、イタリアルネサンス期の画家ピエロ・デラ・フランチェスカ(1412~1492)の「ヒエロニムスと寄付者」(1451)。作品には聖ヒエロニムスと、隣に傅ずき礼拝する寄進者の姿が描かれている。読書を邪魔されて不機嫌な様子にも見える聖ヒエロニムスの表情が印象的な作品で、背景は、ピエロ・デラ・フランチェスカの故郷トスカーナ州のアレッツォ近郊の山間の町サン・セポルクロの街並みと言われている。
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2時間ほど鑑賞した後の午後8時過ぎ、サンタ・ルチーア駅方面に向け、ヴァポレット1番に乗船し、リアルト橋を過ぎたカンナレージョ区側の「カ・ドーロ停留所」で下船する。海岸沿いからは狭い路地を抜け東西に延びる広い商店街を東に130メートルほど行った左側の小さな3階建ての建物一階に今夜のレストラン「トラットリア・ダ・ジャンニ(Trattoria Da Gianni)」がある。店内は、煉瓦壁に天井梁やテーブルなどブラウン系の木材で統一された内装にクリスマスの飾り付けがなされ温かい雰囲気である。


最初に魚介の前菜(14ユーロ)を注文し、魚介のパスタ(12ユーロ)と、


焼き海老(ポレンタ付き)(17ユーロ)など甲殻系と貝系の料理を重点に注文したが、少し肉が食べたくなり、エスカロップとワインソース(ポレンタ付き)(12ユーロ)を併せて注文した。最後にドルチェとカフェで終えた。飲み物としてワイン(一杯5ユーロほど)、水等を頼み、総額102ユーロであった。


時刻は午後10時を過ぎたところ。お店を出ると商店街の人通りは少なくなり、昨夜同様に薄暗く寂しい雰囲気になっていた。


翌朝は、ヴェネツィア・テッセラ空港から、パリ・シャルルドゴール空港を経由して帰国することとしている。心配だった高潮(アックア・アルタ)の影響もなく、連日、天候にも恵まれる最高のヴェネツィア観光となった。
(2011.12.27)
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イタリア・ヴェネツィア(その1)

2013-04-30 | イタリア(ヴェネツィア)
ヴェネツィア本島にあるサンタ・ルチーア駅前の「フェッローヴィア・スカルツィ停留所」からヴァポレット(水上バス)1番(各停)に乗船し「カナル・グランデ(大運河)」をサン・マルコ方面へ向け出港したところ。

後部座席から振り返りながらカナル・グランデの通り過ぎる美しい風景を眺めていると、北側に繋がる支流「カンナレージョ運河」との合流点に、聖女サンタ・ルチアが祀られた白く美しいドーム「サン・ジェレミア教会」が建っている。そして運河沿いには、14世紀のボヘミア司祭で、ゴンドラの守護聖人ネポムクの聖ヨハネ像が運河の安全航行を見守る様に立っているのが見える。
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ヴェネツィア本島は「西側に頭を向けた魚のような形」をしており、市街の真ん中を二部する様に「カナル・グランデ(大運河)」が北西から南東方面へ「Z字」に湾曲しながら流れている(その距離約3キロメートル)。ヴェネツィア本島では、1171年に制定されたセスティエーレ(六区制)を今も継承しており、大運河の北側を北西からカンナレージョ区、リアルト橋からサン・マルコ大聖堂や元首官邸裏の運河までをサン・マルコ区、東の造船所や港が集まるカステッロ区とし、大運河の南側を、経済活動の中心であるリアルト橋一帯のサン・ポーロ区、その北西側をサンタ・クローチェ区、南側のジュデッカ島を含んだドルソドゥーロ区とに分けている。

ヴァポレットに乗船してからのカナル・グランデはやや北側に向かい緩やかに右にカーブしていたが、その後は東方面にまっすぐ続いている。左側の街並みは北側のカンナレージョ区側にあたる。


ところで、ヴェネツィアまでは、今朝、パリ・シャルルドゴール空港を午前10時25分に出発し、ヴェネツィア・テッセラ空港に午後12時5分に着いた後、ヴェネツィア・メストレ駅前にある、今夜の宿泊ホテル(ベスト ウエスタン ホテル トリトーネ)にチェックインして、列車に乗りヴェネツィア本島の入口となる「サンタ・ルチーア駅」(乗車時間15分弱)までやってきた。ちなみに、本島内での移動のための公共交通機関はヴァポレットやゴンドラなどの水上交通になることから、ヴァポレットの72時間券(33ユーロ)を購入した(ヴァポレット乗船券は、他に、1回券6.5ユーロ、24時間券18ユーロ、48時間券28ユーロがある)。時間は切符に刻印された日時からスタートする。

しばらくまっすぐだったカナル・グランデは今度は、突然大きく右側に屈折し、すぐ目の前に現れた「リアルト橋」の下をくぐって行く。カナル・グランデに架かる4つの橋の一つで「白い巨象」とも呼ばれている 。時刻は午後4時を過ぎ辺りは薄暗くなってきていたが、橋をくぐった側は、西日がスポットライトの様に当たり、巨象がほのかに赤味を帯びた瞬間であった。
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リアルト橋の先からカナル・グランデは、再びまっすぐになり今度は西に向かっている。リアルト橋を背景に緩やかに進むゴンドラなど旅情感あふれる風景が続く。到着したばかりで、これほど美しい光景に出会えるとは感激もひとしおである。
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しばらくまっすぐ続くカナル・グランデは再び大きく左(南側)にカーブしていく。カーブした外側(ドルソドゥーロ区)には、ヴェネツィア大学を擁する「カ・フォスカリ」と、その先隣りに「パラッツォ・ジュスティニアン」が並んで建っている。パラッツォ・ジュスティニアンは、ドイツの作曲家リヒャルト・ワーグナーや、復古ブルボン朝フランスの王女ルイーズ・ダルトワの邸宅でもあった。


そして更にその先隣りの豪華なバロック様式の建物は「カ・レッツォーニコ宮殿」で、現在は18世紀頃の作品をメインとした美術館として公開されている。


カナル・グランデは緩やかに左にカーブして東側に流れを変える。南側の狭い指状の土地の上に建つのが「サルーテ聖堂(サンタ・マリア・デッラ・サルーテ)」で、1629年夏からイタリア全土を覆ったペストの終息を願い、聖母マリアに捧げる教会として建てられた。


聖堂は、巨大な八角形の建物の上部に市を象徴する大きなドームを配置した王冠型の聖体容器を思わせる形状をしている。ファサードには、大きな扉口のアーチを中心に、左右に二本ずつ円柱が立ち、福音書記者(マルコ 、ルカ、マタイ、ヨハネ)の彫像が納められている。

その先隣りの岬の突端にあるのが「プンタ・デッラ・ドガーナ」(旧:税関岬)で、塩の倉庫があり税を徴するための税関施設であったが、現在はフランスのピノー財団フランソワ・ピノー氏が安藤忠雄氏の協力を得て改装した「プンタ・デッラ・ドガーナ現代美術館」になっている。


プンタ・デッラ・ドガーナを過ぎると南側が一気に開け「ジュデッカ運河」となる。南側には、ジュデッカ島や隣接するサンジョルジョ・マッジョーレ島が姿を現す。海に浮かぶように建つ教会は「サン・ジョルジョ・マッジョーレ聖堂」で、歴史は古く8世紀後半に建設が始まったが、13世紀の地震で倒壊し、その後再建された。現在の建物は1610年のもので、鐘楼は1791年に完成している。


ヴァポレットは、プンタ・デッラ・ドガーナの対岸(北側)のサン・マルコ広場前の「サン・マルコ・ジャルディネッティ停留所」に向かっている。正面からヴェネツィアのシンボルとされる巨大な「ヴェネツィアの鐘楼」が迫ってくる。
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しかし、これから「サン・ザッカリア教会」に向かうので、下船はせず、次の「サン・ザッカリア停留所」まで向かう。サン・マルコ広場からは、東に300メートルほど先になる。サン・マルコ広場の東側には、ヴェネツィア共和国の元首邸兼政庁「ドゥカーレ宮殿」の南外観全体が一望できる。一層目はゴシックアーチ、二層目は細い柱と四葉模様の円形装飾を持つアーチで、三層目はピンクと白の大理石による菱形文様が施された大きな壁面に大窓とバルコニーが取り付けられるなど、豪華で大変美しい建物である。中央の大窓は、1404年にダレ・マゼーニュ兄弟により制作されたもの。
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右隣の運河には「パリャ橋」が架かり、隣に「プラッツォ・デレ・プリジオーニ」(宮殿の監獄)の建物がある。ヴェネツィアの犯罪者を収容するため、16世紀の終わりに建てられた。運河の奥の上部には「ため息橋」が架かり、ドゥカーレ宮殿2階にあった取調室と監獄とは渡り廊下で直接繋がっている。名前の由来は、監獄に向かう囚人がため息をついたことから付けられたが、日没時にこの橋の下でゴンドラに乗って恋人同士がキスをすると永遠の愛が約束されるのだという。1979年のアメリカ映画「リトル・ロマンス」もそんなラストシーンだった。

さて次の「サン・ザッカリア停留所」で下車する。
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時刻は、午後4時半を過ぎたところだが、この時期は日の入りが早い。。水平線の薄明により、サンタ・マリア・デッラ・サルーテ聖堂や、南側のジュデッカ島の姿が鮮やかに見える。
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目的の「サン・ザッカリア教会」は、海岸沿いから北に通りを5分ほど進んだ西側にある。ベネディクト派の教会で、洗礼者ヨハネの父ザカリアに捧げられ16世紀初頭に建設された。後期ゴシックとルネサンス様式が調和した白亜の堂々とした造りの西側ファサードから教会内に入ると、北側廊の中ほどにある第2祭壇の中央に、ジョヴァンニ・ベッリーニ(1430頃~ 1516)の傑作「サン・ザッカリア祭壇画」(玉座の聖母と諸聖人)(1505)が飾られている。
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作品は、王座に座る聖母子を中心に、足元にヴァイオリンを弾く天使、左右対称に4人の聖人が優美で繊細なタッチで描かれている。聖母子に向かって左右にアレクサンドリアのカタリナ、シラクサのルチアが寄り添い、両端には、遠近感と奥行きが感じられる様に、左右それぞれ柱の前に、使徒ペトロ、聖ヒエロニムスを配している(拡大画像)。また左右に風景のある開口部を描くことにより明るさを効果的に演出している。教会内はかなり暗いが、賽銭箱にコインを入れると、祭壇画を照らす明かりがつくのが良かった。

サン・ザッカリア祭壇画と向かい合う様に南側廊の祭壇にはザカリアと伝わるお棺が収められ、その左隣(主祭壇側)には、ヴェローナとヴェネツィアで活躍したアントニオ・バレストラ(Antonio Balestra、1666~1740)の「羊飼いの礼拝」が飾られている。こちらも美しい作品だがライトは設置されていなかった。。
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主祭壇の右奥には、サンタラシオ礼拝堂があり、アプスにはフィレンツェのアンドレア・デル・カスターニョ(Andrea del Castagno、1421~1457)が、フランチェスコ・ダ・ファエンツァ(Francesco da Faenza)と共同で描いた「キリストと諸聖人」(1442~1444)のフレスコ画がある。父なる神、4人の伝道者、聖人が描かれている。中央の黄金祭壇は、アントニオ・ヴィヴァリーニ(Antonio Vivarini、1440~1480)と義理の兄弟であるジョヴァンニ・ダレマーニャ(Giovanni d'Alemagna、1411~1450)による共作で15世紀に制作されたもの。
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そしてサン・ザッカリア教会でのもう一つの見所は、ルネサンス期のヴェネツィア派を代表する画家ティントレット(1518~1594)の「洗礼者ヨハネの誕生」(1563)である。
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今夜の夕食は、歩いて4分ほどの距離なのだが、少し時間が早いので、一旦、逆方向のサン・マルコ広場まで散策してみる。


午後6時を過ぎたので、夕食場所の「ホテル・メトロポール」にやってきた。辺りは外灯が少なく薄暗い雰囲気で人通りも少ない。今日はクリスマスで、多くの人は既に帰宅していることもあるのだろう。ホテルの前には、満潮後の高潮(アックア・アルタ)で街が浸水した際でも、濡れないようにギャングウェイ・システム(鉄の支柱と木製の厚板で作られた陸橋歩道のネットワーク)が設置されている。


ところで、ヴェネツィアでは、高潮が80センチメートルを超えると、サン・マルコ広場付近は浸水し始めるとされていることから、近隣のこの辺りも同じであろう。実は、過去2年連続でクリスマス前後は、80センチメートル超えの最高水位の冠水を記録しており、更に昨年12月に80センチメートルを超えなかったのは11日間しかなかったことからも、今回は、ずぶ濡れも覚悟でいたが、結果は浸水はなく大変ラッキーであった。。 

目的のレストランは、ホテル・メトロポール内にある「メインダイニングMET」(一つ星)である。しかし、ディナータイムには1時間も早かったことから、待ってくれと言われ、しばらく、レストランとホテルのロビーの間にあるソファーで待つことにした。この時間、他に人もいなく、ソファーの座り心地も良く、暖かいこともあり少し眠ってしまった。
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午後7時を過ぎてしばらく経ったころ、スタッフから声をかけられ入店した。今夜はクリスマス・メニュー(デグスタズィオーネ・メニュー)(ワイン付き150ユーロ)があり、そちらをお願いした。最初に、アミューズとパンが提供される。一品目は、フォアグラのテリーヌに甘えびを乗せ、青りんごとバジルソースを添えたもの。


最初のワインは、アルザス・ワイン(白ワイン)の「マルセル ダイス」 。品種のゲヴュルツトラミネールは、エキゾチックなフルーツのアロマで、花やスパイスの香りがある。
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二品目は、シチリア海老と鴨の詰め物を入れたトルテリーニと、パッサテッリ、マッシュルームにミントフレーバーを添えたもの。


次のワインは、スロベニア国境沿いのイタリア・オスラヴィア産の高級白ワイン「グラヴネル(Gravner)」。
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メイン料理は、リコリス・ハーブとマグロの上にリコッタチーズを挟んだカノーロと梨のスライスを乗せ、更に、モンターズィオ(セミハードタイプのチーズ)とピスタチオ・アイスクリームを添えたもの。。


赤ワインは、こちらもかなり高級なフランス・ブルゴーニュ産で「ヴォルネイ・サントノ」(1978年)ルモワスネ・ペール・エ・フィス 。飲み頃になった古酒を蔵出し状態で提供することで知られるルモワスネのワインで、甘草や燻香の野性的な香りが特徴のワインである。
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次のメイン料理は、大豆を乗せたホロホロチョウの胸肉とカモミールパウダー・マリネに、レモン風味のアルモニア・ソースをかけ、チコリとタジャスカ種オリーブを添えたもの。


栗のグラタン風クリームに、ヘーゼルナッツアイスクリームと白いアルバ・トリュフを添えたもの。


デザートを頂いた。


最後にミニャルディーズで終了した。ワインは、結構グレードも高く、ワインと料理とのマリアージュを楽しむ点では大変良かった。ちなみに料理だけの注文も可能だった(110ユーロ)が、ワインを頼まないならお勧めしない。料理もスムーズに出てきたが、終わってみると、時刻は既に午後10時になっていた。


店内は暗く、写真がうまく撮れなかったのは残念である(ワインはもう一種あったかも知れない。。)。。その後、ヴァポレットに乗りホテルに戻った。

**********************************

翌朝、ホテルで朝食を食べて、再び、列車でヴェネツィア本島にやってきた。今日は、これからヴァポレット61番に乗り「ムラーノ島」に向かう。「カナル・グランデ」からは、白く美しいドーム「サン・ジェレミア教会」先の「カンナレージョ運河」を左折し、すぐ先に架かるグーリエ橋を通過する。


カンナレージョ運河は北西方面に進むため、この時間、ヴァポレットの後部座席から後ろ向きに運河を撮影すると逆光になる。。


カンナレージョ区を抜けヴェネチア本島から北東部に向かう。遠ざかるヴェネチア本島の街並みの中に見える塔は「マドンナ・デッロルト教会」である。教会にはティントレットの作品が数多く展示されており、本人もこの教会に埋葬されている。
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乗船から30分弱で「ムラーノ島」にやってきた。ムラーノ島は、ヴェネチア本島の北東に位置し、 ヴェネタ潟ではヴェネチア、サンテラズモに並び3番目に大きな島である。大小の運河で七つの島に分かれ、橋により繋がっている。ムラーノ島は、ヴェネツィアン・グラスの生産で世界中に知られているが、もともと1291年より国の政策でヴェネツィアのガラス工房がこの島に集められたことがきっかけで18世紀に至るまで西洋を代表する一大ガラス生産地となった。

ムラーノ島の最南端の「ムラーノ・コロンナ停留所」で下船して南北に延びる「リオ・デイ・ヴェトライ運河」を北に向け歩いて行く。


500メートルほどで「サン・ステファノ広場」にある時計塔が見える場所までやってきた。時計塔の足元にある青い彗星のオブジェはムラーノ・グラスで造られている。こちらの広場周辺がムラーノ島の中心地になる。
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この運河沿いの通路の際に「サン・ピエトロ・マルティーレ教会」があり、左への路地の右側に入口がある。教会は1348年にドミニコ会修道院とともに建てられ、1511年に再建され現在に至っている。扉口を入った右側廊にある礼拝堂のすぐ先の壁面には、ジョヴァンニ・ベッリーニ(1430頃~1516)の手による「バルバリーゴ祭壇画」(玉座の聖母子と聖人)(1488)が飾られている。


バルバリーゴ祭壇画(画像出典:ウィキメディア・コモンズ(Wikimedia Commons) )は、幼子を抱え王座に座る聖母マリアの下にヴェネチア共和国元首アゴスティーノ・バルバリーゴ(在任:1486~1501)が跪いて、ヴァイオリンを弾く天使と左右に聖マルコと聖アウグスティヌスが見守っている。背景には白いアルプスの山並みが続いている。

アゴスティーノ・バルバリーゴが元首の時代は、15年以上続いたメフメト2世(1432~1481)率いるオスマン帝国との戦争も1479年に集結(ジョヴァンニ・ベッリーニの兄で画家のジェンティーレ・ベッリーニ(1429~1507)は、メフメト2世の肖像画を描くために派遣されている。 )し、バヤズィト2世(在位:1481~1512)治世では友好関係が続いていたが、1499年に再び戦争状態になりヴェネツィア領のレパントを失った。翌年、イスラム勢力の進出を重く見たヨーロッパではヴェネツィア、ハンガリー、スペイン、フランス、教皇庁による軍事同盟が結成されるなど、再び危機感が高まった頃である。

「リオ・デイ・ヴェトライ運河」は、すぐ先で東西に延びる大きな「ムラーノ運河」に合流する。対岸とは、緑色の鉄橋「ロンゴ橋」で繋がっている。そのロンゴ橋を渡り、ムラーノ運河沿いを東側に進んで振り返ると「サン・ピエトロ・マルティーレ教会」の鐘楼(1498~1502年築)と手前のサン・ステファノ広場の時計塔が望める。
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そのままムラーノ運河沿いを東に歩き、すぐ先のムラーノ運河から北に分かれる運河に沿って進むと、左側に「ムラーノ・ガラス美術館」があり、更に少し先の左側の広場には、手前に大きな鐘楼を持つロマネスク様式の「サンティ・マリア・エ・ドナート教会」が現れる。鐘楼は、長方体にアーチの意匠が三層に渡り続き、三層目に時計が設置されている(壊れている)。最上部には、三連アーチ窓の鐘室がある。


教会は7世紀半ばに設立されたと伝わるが、現在の建物は1140年頃に再建されたもの。後陣は運河沿いの東側を向いており、ファサードは鐘楼とバジリカの間を進んだ西側にある。後陣は、一層目が列柱が続くポルチコと、二層目が円形アーチと欄干のあるロッジアから構成されている。
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円柱や欄干を始め白い個所は大理石から造られている。特に、煉瓦を三角形に切り込み連続して飾られた文様や、煉瓦の赤と大理石の白とのコントラストが美しい。
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アプスには、金色を背景に、聖母マリアが全身を濃い青のマフォリオンで覆い、両手を胸の前で開けて立っている。これは祈りのしるしを表している。12世紀前半のムラーノモザイクで制作されている。
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次に、一旦「サン・ステファノ広場」に戻り、ムラーノ島東海岸沿いにある「ムラーノ・ファーロ停留所」からヴァポレット12番に乗船(約30分毎に運行。乗船時間は約30分)して「ブラーノ島」にやってきた。四つの小島で構成され、それぞれの島は橋で行き来できるようになっている。住宅街は各棟ごとに鮮やかな色で塗り分けられている。もともと、漁師が霧深い冬でも自宅に戻れるように自分の家を目立つ色で塗ったことが始まりとされる。現在では、外壁の色の変更は規制があり、隣と同じ色になってはいけないとのこと。


ブラーノ島の中心部には、たくさんのショップが集まっている。多くのお店では、この時期ならではのクリスマス商品や、カーテン、日傘、洋服、ハンカチなどレース木地でつくった商品などが売られていた。ブラーノ島では、15~16世紀からレース編みの産業が盛んで現在もレース商品が特産品となっている。レストランやカフェも多く、時刻は午後1時前になったこともありお腹が減ったが、この後の行程もあり諦めることにした。


次に「ブラーノ島」から「トルチェッロ島」へはヴァポレット9番(乗船時間5分、約30分毎に運行。)で向かった。トルチェッロ島は、南西にブラーノ運河、北と東はローザ湿原とチェントレーガ湿原に接している。停留所は、ブラーノ運河の西岸にあり、そこから島の東西に流れる細い運河沿いの歩道を東に向けて歩いて行く。左右には緑が広がる長閑な風景が続いており、小川沿いの田舎を歩いている雰囲気になる。


何とも寂れた印象の島だが、もともと、トルチェッロ島は、ヴェネツィア発祥の地と言われ、5世紀から6世紀にかけて数万の人々が住んでおり、11世紀に最盛期を迎えたという。その後、マラリアなどが発生したことから、ほとんどの建物を取り壊し建設資材として、本島に移って行った。現在はわずか10ほどの世帯が居住しているだけと言う。

途中に2~3軒のレストランがあり、その先に「悪魔の橋」と呼ばれる橋が運河に架かっている。手すりもなく、煉瓦と石を組み合わせた独特の形状をした階段状の橋である。


更に進むと、運河は直角に左に曲がるが、橋を渡ってそのまままっすぐ道が続いている。通路沿いには、ベンチなども置かれ公園を思わせる様な砂利道を更に進むと、広場になり、正面に2階建ての建物が建っている。前にはマリア像?が建つ円柱のオブジェがあり、左側の煉瓦造りの壁面には、紋章石板や聖人のレリーフなどが飾られ、周りに円柱、柱頭彫刻などが無造作に置かれている。この一帯は「トルチェッロ州立博物館」の屋外展示エリアになるとのこと。


左側にはこちらもトルチェロ州立博物館の施設で、14世紀の古い評議会の建物である。建物は、長方形の2階建てで南側に2階への外部階段と小さな塔がある。上部の鐘は当時のもの。広場を見下ろす西側には、ゴシック様式の2連の三葉アーチの窓がある。


対する様に右側にはビザンティン様式で建てられた「サンタフォスカ教会」が建っている。9世紀頃建てられ、現在の建物は11世紀頃に改築されたもので、正面は、エレガントな柱頭彫刻が施された5本の円柱がポルティコを形成している。ギリシア十字型の教会堂で、中央に大きなスクィンチ式の円形ドームが占めている。ドームは木で覆われ、壁面は煉瓦がむき出しのままで装飾はない。主祭壇には細長いアーチ窓の下に磔刑像が祀られている。もともと、殉教者記念堂で、ラヴェンナの聖女フォスカの聖遺物が祀られている。
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サンタフォスカ教会に向かって右側(広場の手前)には、木とトタンで造られたスナック菓子を売る小さなお店があったので、昼抜きでお腹が減ったこともあり買って食べた。。

そして、広場の右奥には「サンタ・マリア・アッスンタ大聖堂」が建っている。7世紀の創建で、9世紀から12世紀頃にかけて増改築が繰り返された。主祭壇の金色のアプスの中央には12から13世紀制作の幼子を抱き濃い青のマフォリオン姿で立つ聖母のモザイクがある。ムラーノ島の「サンティ・マリア・エ・ドナート教会」の聖母マリア像と良く似ているが、こちらは、両足の足の輪郭が分かる衣襞で表現されている。他にも「最後の審判」のモザイクがある。

※入場料は5ユーロ。教会内は撮影不可。聖母マリアと最後の審判のモザイクのリンク先画像は、共に、画像出典:ウィキメディア・コモンズ(Wikimedia Commons)。

トルチェッロ島からヴァポレット9番に乗船し、ムラーノ島からヴァポレット12番に乗り換えヴェネツィア本島のカンナレージョ区の北東沿い「フォンダメンタ・ヌォーヴェ停留所」に到着した(ムラーノ島からは乗船時間30分)。下船したすぐ路地裏にはバール・ジェラテリア・ピッツェリアと、向かい側(東側)に「イエズス会教会」のファサードがある(こちらは上部を見上げたところ)。これから、カンナレージョ区を歩いて「カナル・グランデ」に架かる「リアルト橋」方面に向かう。

イエズス会教会前の通りを南に少し行った先の橋の上から西側、ゴッツィ運河を眺めてみる。小型ボートが何艇も停泊しているが、住宅に住む個人の持ち物なのだろうか。辺りはひっそりとした雰囲気である。


次に反対側(東側)を眺めると、14世紀から15世紀の後期ゴシックからルネッサンスへの移行期に建てられた「パラッツォ・セリマン・コンタリーニ」が運河沿いに建っている。頂部に三つ葉を飾った尖塔アーチや角のねじれ柱の外観が特徴で、もともとは、コンタリーニ家の所有だったが、その後ゴッツィ家を経て、18世紀にはセリマン家所有の邸宅となった。


ちなみにセリマン家は、1725年にオスマン帝国からの迫害を逃れてきた裕福なペルシャ人で、オスマン帝国と戦争状態にあったヴェネツィア共和国に対して72000ドゥカート(1ドゥカートは現在の価値で10~20万円ほど)もの大金を支援しヴェネツィア貴族になったと記録されている。

通りを更に南に歩いて行くと、レストランやホテルなどが建ち並び人通りが徐々に多くなってきた。「リアルト橋」が近づくとショップも立ち並び、多くの買い物客や観光客で混雑し始め、こちらの「サン・ジョバンニ・クリソストモ教会」前の通りは隙間がないほど大混雑していた。


「リアルト橋」に到着した。橋は歩行者専用で、中央は左右にアーケードがある商店街になっている。橋の両側からは、運河を眺めながら歩くことができる。花瓶型の手摺が付いた欄干が特徴。橋の頂部からは商店街の通りや橋の両側通路へ横断できる。


リアルト橋の右側の階段を上って行くと、西側のサン・ポーロ区側にカメルレンギ宮殿が望める。カナル・グランデの海岸線に沿った五角形の間取りの3階建てで、15世紀後半に建造、16世紀初頭に現在の姿に拡張された。金融治安判事邸で当時の判事の名前に因んで付けられた。一時期、1階は未返済者の刑務所として使用された。現在は、イタリアの会計監査院と監査院長の地域本部がある。


ところで、「ゴンドラ」は何世紀にもわたり、ヴェネツィアでの重要な交通手段であったが、現在も、運河間の渡し船として活躍している。ゴンドラは、長さ11.5メートル、幅1.4メートルでゴンドリエーレが立つ左舷はバランスが取れるように右舷より25センチほど長くなっている。縦に湾曲して水面との接触を最小にとどめた構造をしていることから、一つのオールだけで多くの推進力を得ることができる。船体が黒色なのは、ヴェネツィア共和国時代に費用削減法が実施され義務付けられたのが理由で、今も慣習として続いている。


リアルト橋の頂部から反対側に横断して西側を眺めると、美しい夕焼けが望める。
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紅く染まるウロコ雲を背景にゴンドリエーレが歌うカンツォーネとともにゴンドラが進むカナル・グランデの景色は、何とも旅情をかき立てられる。
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夕食は、「リアルト橋」を渡りそのまま250メートルほど直進し、左折したすぐ先の「カンティーナ ド・スパーデ(Cantina Do Spade )」で頂いた。ヴェネツィア居酒屋(バーカロ)の雰囲気がありつつ、親切な温かみがあるサービスで知られるレストラン(オステリア)とのこと。最初に、口当たりの良い白ワイン「ピノグリージョ」とタコのマリネサラダを注文する。


次に、お店のお勧め、ヴェネツィア名物のつまみを注文する。オイル、トマト、生クリームと3種類に味付けされたバッカラ・マンテカート( 干しダラを水で戻してから煮てペースト状にしたもの)がポレンタ(トウモロコシの粉を湯や出し汁で練り上げたもの)を囲んでいる。こちらをつまみながらピノグリージョを飲むのがヴェネツィア風とのこと。


「アンコウのタリアテッレ」は手打ちの麺で、しっかりとしたアルデンテ。ソースとの相性も良く上品な味わいだが、結構ボリュームがある。美味しかったが、海老、蟹、貝なども注文すれば印象が更に良かったかも(58.5ユーロ )。。


その後、午後8時45分発のヴァポレット1番に乗り込みフェッローヴィア・スカルツィ停留所まで戻り、サンタ・ルチーア駅から列車に乗り無事ホテルへ戻った。

(2011.12.25~26)
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フランス・パリ(その2)

2013-04-28 | フランス(パリ)
ホテルでひと眠りした後の午後6時半頃「ルーヴル美術館」(Musée du Louvre)にやってきた。通常午後6時までだが、水、金曜日は午後9時45分まで営業している。ルーヴル美術館は、3つのブロック(翼)北の「リシュリュー翼」、東の「シュリー翼」、南の「ドゥノン翼」と、横に長い「コ」の字型から構成されている。エントランスは、各ブロックの中心のガラス・ピラミッドの地下のナポレオンホールからになる。展示室は、各ブロックとも、半地下から3階まで(ドゥノン翼は2階まで)となっている。
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前回、ルーヴル美術館を訪れた際は、絵画を中心に鑑賞したが、今回は彫刻を中心に見て行くこととする。

最初に、リシュリュー翼の202展示室にやってきた。展示室の窓枠左右に「王(ソロモン王?)」(1150/1160)と「女王(シバの女王?)」(1175/1200)が飾られている。こちらは、エソンヌ県ノートルダム・ド・コルベイユ旧参事会教会(Notre-Dame de Corbeil)の西側のポータルの開口部を飾っていたもの。現在では、美しい姿を見せてくれるが、損傷が激しく、修復にかなり時間を要したとのこと。
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左壁にはサン・ドニのベネディクト会修道院教会の後陣で発見された「半円形のモチーフで飾られたグロテスクなマスク」(ティンパナムの断片)(1100/1150)と、その下にオワーズ県サン・リウール教会(Saint-Rieul)からの「竜に襲われた女性」(ヨハネの黙示録 12:5)(1150/1200)断片が展示されている。竜に襲われた女性では、出産した我が子が竜に食べられようとしている場面を捉えている。これらの作品はフランス革命の影響を受け、その後廃止された教会からの遺物である。

こちらはブルゴーニュ地方のコート・ドール県ムーティエ・サン・ジャン修道院(Moutiers-Saint-Jean)(ベネディクト会)からの柱頭彫刻「収穫シーン」(1120/1125)になる。収穫した葡萄を背負い片足で葡萄踏みをしている人物と、ワイン熟成のために樽に注ぎ込んでいる人物とが表現されている。こちらの修道院もフランス革命中に国有財産となり19世紀に廃止になっている。
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こちらは、203展示室に展示されている柱頭彫刻である。手前が「葉で飾られた柱頭」(1230頃)で、奥が「葉、幻想的な動物、鏡を持った人魚のいる柱頭」(1230頃)になる。人魚は、動物の左側でうつむいて丸い鏡を持っている。これらは七角形の柱頭彫刻で、ノートルダム・ド・シャルトル大聖堂の内陣を仕切っていた柱のもの。考古学者、美術史家アレクサンドル・ルノワール(1761~1839)により収集されたが、彼は、他にもフランス革命において破壊され歴史的に貴重な美術品の保存・収集に努めた。
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「ライオンの巣の中のダニエル」が刻まれた柱頭彫刻で、メロヴィング朝フランク王国の初代国王クローヴィス1世(在位:481~511)時代の6世紀に制作されたもの。その後、パリのサント・ジュヌヴィエーヴ修道院教会(11世紀末に建設、1807年廃止)の部材として再利用された。ダニエルはダレイオス王に逆らったことでライオンの檻に投げ込まれたとの聖書の逸話を題材としている。
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こちらはリシュリュー翼の102展示室で、1676年にフランス王ルイ14世が現在のマルリー=ル=ロワ市に建設した「マルリー宮殿」を飾っていた彫刻群である。手前の男女の像と、左右の台座の上の像は、ギヨーム・クストゥー(1677~1746)によるもの。手前が「セーヌ川とマルヌ川」(1699/1712)で、右上の「新郎に拘束された馬」(1745)は、左の馬と対で、マルリー宮殿の北の池に飾られていた。
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左奥の「ペガサスに乗って名声を得る」(1698/1702)は、アントワーヌ・コワズヴォ(1640~1720)によるもの。

225展示室から、ピエール・ニコラ・ボーヴァレ(Pierre-Nicolas Beauvallet)(1750~1818)の「お風呂で驚くスザンヌ」(Suzanne surprise au bain)(1813)で、スザンナのエピソードは、旧約聖書ダニエル書からのもので、西洋絵画作品でも良く題材として使われる。
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右後ろには、ピエール・フランソワ・グレゴワール(1783~1836)の「犬」(1827)が、忠実、勇気、警戒心、敏捷性などが刻まれた台座の上に、気品溢れる美しい姿で座っており、また後ろには、ジョセフ・チャールズ作の髪を束ねる美しい女性裸像「入浴者」(1808)が飾られている。

こちらは、スイス生まれのフランスの彫刻家ジェームス・プラディエ(1790~1852)による「サテュロスとバッカンテ」(Satyre et Bacchante)(1834)である。バッカンテは、ディオニューソス (バッカス)に仕える、女性の信者で、サテュロスは、前頭部に山羊の角を持ち、上半身が人間で下半身が山羊の精霊である。バッカンテの右手は、若いサテュロスのまだ生えたばかりの角の突起を触っている。
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226展示室からは、フランスの彫刻家フランソワ・リュード(François Rude、1784~1855)の「亀と遊ぶナポリの少年」で、茶目っ気たっぷりの少年が、亀の首に紐をかける瞬間を捉えている。リュードは、1833年に制作したパリ凱旋門の「義勇兵の出発」(La Marseillaise)レリーフで一躍有名になり、レジオンドヌール勲章を受勲している。
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こちらは、「シュリー翼」の345展示室に展示されているルーヴル美術館の至宝「ミロのヴィーナス」(Vénus de Milo)である。アンティオキアのアレクサンドロスにより紀元前130年から前100年頃に制作されたもので、1820年、オスマン帝国統治下のエーゲ海にあるミロス島で発見された。最初にルイ18世に献上されたが、ルイ18世は翌年にルーヴル美術館に寄付している。ヘレニズム期時代のオリジナル彫刻は、数が少ない上に、残っていても損傷が激しいことから、制作当時の姿をここまで(両腕は失われているが)留めているのは大変貴重である。
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高さ203センチメートルの八頭身で、足元からへそまでと頭頂部までの長さ、へそから首までと頭頂部、それぞれの比率が1対1.618のほぼ黄金比となっており、芸術における美の基準ともいわれている。美しさに加え、知らない人はいないほどの超有名作品でもあり常に鑑賞者が絶えないが、午後8時半の現在は、周囲に誰もおらず、じっくり鑑賞することができた。
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「シュリー翼」の344展示室には、ヘルメットをかぶったアテナ像「ヴェッレトリのアテナ」(前430頃)がある。作品はローマンコピーで、オリジナルは、クレタ島の都市国家キドニア出身の彫刻家クレシラスとされている。クレシラスの作品としては、コリントスの兜をかぶったペリクレス像が知られている。こちらの像は、1797年にイタリア中部のラツィオ州ヴェッレトリ近くのブドウ園にあるローマの別荘の廃墟で見つかったもので、その後、フランス総督府に売却されている。
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「ドゥノン翼」の403展示室の中央には、ミケランジェロの「瀕死の奴隷」(Esclave mourant)(1513~1515)が飾られている。1505年、教皇ユリウス2世(在位:1503~1513)が死後に納められるローマのサンピエトロ大聖堂の霊廟制作を命じられて制作した作品の一つである。当時、ミケランジェロは、システィーナ礼拝堂の天井画制作や、他の作品制作も数多く抱えて、多忙を極めていた時期でもある。最終的に霊廟の完成までに40年の歳月を要しているが、こちらの作品は未完成のまま1545年に放棄されている。
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1546年にフィレンツェ貴族ロベルト・ストロッツィが取得し、その後、フランス王(フランソワ1世?)に贈られている。ルーヴル美術館は1794年に購入している。瀕死の奴隷を題材にし制作した意図については分かっていないが、敗者の受難の象徴なのか、教皇の権威に従わざるを得ない自由を奪われた芸術家の苦しみを象徴しているのかもしれない。奴隷の後ろには、自由を謳歌する象徴なのか、未完成の猿が座っており、左側に顔を向けている。

同展示室には、アントニオ・カノーヴァ(1757~1822)の「エロスの接吻で目覚めるプシュケ」(1793)がある。1787年、イギリスの大佐で美術品収集家のジョン・キャンベルから依頼され1793年までの間に制作された大理石の彫像群の一つで、カノーヴァを代表する作品である。
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生き返った瞬間のプシュケとエロスを表現している。目覚めたばかりのプシュケはエロスに手を差し伸べ、エロスは彼女の頭と胸を支えて優しく抱きしめ、キスで彼女をこの魔法の眠りから目覚めさせている。プシュケの肌は大変リアルで滑らかさをも感じる。特に、プシュケの下半身にゆるく巻かれたシートの質感と肌の質感との違いは際立っている。

ドゥノン翼側の1階から2階への「ダリュの階段踊り場」に飾られているのが紀元前2世紀初頭にさかのぼるヘレニズム彫刻の傑作「サモトラケのニケ」(Victoire de Samothrace)である。像は、パロス島の大理石から作られ、全高5.12メートル、像自体は2.75メートルある。「ミロのビーナス」と並び、ルーヴル美術館の至宝の双璧とされる。
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サモトラケのニケとは、発見場所のエーゲ海サモトラケ島と、勝利を表わすニケから名付けられている。1863年に発見された際は、トルソと、118もの翼の断片だったが、その後の復元作業を経て、1884年から現在のダリュの階段踊り場に飾られている。頭部と両腕は失われているが、1950年には右手が発見されている。ちなみに、ダリュの階段は、ナポレオンの大臣ダリュ伯爵ピエールに因んでおり、また、踊り場の後方が東のシュリー翼になる。

「リシュリュー翼」234展示室の中央に展示されるのは、古代シュメール(シュメル)およびアムル人の都市国家マリの代官エビフ・イルが祈りを捧げる姿を模った「エビフ・イルの像」(Statue of Ebih-Il)(紀元前2500年頃)である。半透明の滑らかなアラバスター(雪花石膏)で、眼は片岩、貝殻、ラピスラズリを組み合わせて制作されている。その見開かれた眼は印象的で、脳裏に焼き付きそうな怖さがある。
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しかし、横から見ると、可愛らしく見え、正面とのギャップがすばらしい。代官が着ている唯一の衣服はシュメール様式のカウナケスと呼ばれるスカートで、枝編み細工の丸椅子に座り、胸の前で手を結び、祈りを捧げている。

228展示室には、古代メソポタミアの都市国家ラガシュの王「グデア」(Gudea)の像が飾られている。ラガシュは、現代のイラク南部テル・アル・ヒバに位置しており、ラガシュ第1王朝(紀元前26世紀頃~紀元前24世紀頃?)において最盛期を迎えたが、その後、戦争等で衰退したものの、ラガシュ第2王朝で再興している。
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グデアはラガシュ第2王朝の王で、シュメール時代の王達の中で最も名前の知られている人物の一人である。グデアは王族ではなかったが、ラガシュ王ウル・バウの娘ニナッラと結婚したことで王室の一員となり、ウル・バウが死去後にラガシュ王となった。グデアの治世は、シュメール文化が花開き、多くの彫刻も制作されている。こちらは「噴水の壷を持つグデア像」(Gudea au vase jaillissant)(紀元前2150年頃)である。水がグデアの衣服に伝わり落ちて行く表現は印象深い。
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227展示室には、メソポタミアに勢力を拡大しバビロニア帝国の初代王となるハンムラビ(ハムラビ)王(在位:紀元前1792頃~前1750頃)(旧バビロン第6代王)が、晩年に発布した法典「ハンムラビ法典」がある。メソポタミア文明最盛期の遺物で、高さ2.25メートルの玄武岩の石柱にアッカド語の楔形文字で記されている。
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1901年にフランス人考古学者によりイランのスサで発見されたもので、発見当時は大きく3つに破損していた。法典碑頂部には、シャマシュ(向かって右側)がハンムラビ(向かって左側)に王権の象徴である「輪と棒」を与える王権叙任の浮彫が施されている

古代エジプト美術部門については、後日再訪して鑑賞した。こちらは、「シュリー翼」の635展示室にある、エジプトのサッカラから出土した「書記座像」(Le scribe accroupi)で、石灰岩と化粧漆喰によりつくられている。エジプト第4王朝または第5王朝に遡る紀元前2600年頃の制作と考えられている。
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あぐらをかいて座る書記座像は、シンプルな白いふんどしをまとっている。左手には、部分的に広げられた細いパピルスを持ち、右手には、カラメと呼ばれる筆記具を持っていたと考えられる穴が残っている。全体的にやや堅苦しい印象はあるものの、顔、手、体つき、生き生きとした視線、美しい多色性、完全に無傷で人物のリアリズムが探求されておりエジプト芸術における主要な作品の一つと言われている。

643展示室にある「黄金の三神像」(オソルコン・トライアド)(紀元前945~前715)で、純金とラピスラズリからつくられたエジプト神話におけるオシリス神像で、古代の金細工の傑作と評されている。台座の裏に、エジプト第22王朝のファラオであるオソルコン2世を称える象形文字の碑文があることから名付けられている。高さが9センチメートル、幅が6.6センチメートルと大変小さいにも関わらず、人体表現、細部に至る繊細な装飾、美しい光沢感など大変素晴らしく貴重な作品である。
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中央が「オシリス神」(復活の神)で、ウラエウスと呼ばれる敵から守る機能を持つ女性のコブラの頭飾りを左右に付け、顎の髭は編みこみにしている。向かって左側が、プシェントと呼ばれる二重の王冠を被る「ホルス神」(高貴な天の神)で、右側が、2つの牛の角の間に挿入された太陽の円盤を被る「イシス神」(母性と誕生の女神)である。

ホテルから少し東に行った静かな細い道沿いにあるロートル・カフェ(L’Autre Cafe)で夕食を頂いた。繁華街のあるレピュブリックから離れており、他にお店はなく、ほとんど地元ご用達のお店といった感じ。店内は10名ほどが座れるカウンター席と、7~8組ほどが座れる小さなテーブル席がある。他に2階フロアーもある。訪れた時間帯も遅かったことから空いており、周りは既に食事は終え、飲んでいる客が数人いた程度だった。


エスカルゴ(ココット入り6粒ブルギニヨンバター入り)を頼み、チキンとジャガイモのロースト、南ローヌの赤ワインを注文した。味は普通だが、量が多かった。1時間ほど食事して午後11時過ぎにホテルに帰った。


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翌日は「マルモッタン・モネ美術館」( Musée Marmottan Monet)にやってきた。パリ市内西部ブローニュの森にほど近く、フランス印象派の画家クロード・モネの世界最大級のコレクションを収蔵している。美術館の建物は1840年、ヴァルミー公爵が狩猟用に建てたものを、美術史家・収集家のポール・マルモッタン(1856-1932)の父が1882年に購入して邸宅に改造したものである。マルモッタン美術館を代表する作品は「印象・日の出」で、多くのモネの作品を所蔵しているが、他にも多くの個人コレクションからの寄贈を受けており、現在では印象派絵画の殿堂となっている。


この日は「クロスと新印象派、スーラからマティスまで」の特別企画展が開催されていた。アンリ・エドモンド・クロス(1856~1910)の作品を中心に、新印象派ジョルジュ・スーラ(1859~ 1891)から、ポール・シニャック(1863~1935)を含む同世代の若手画家の作品が展示され、クロスが現代美術に与えた影響をたどる内容となっている。

今夜は、シャンゼリゼ大通りから徒歩圏内にある「ハイアット リージェンシー パリ エトワール」(Hyatt Regency Paris Étoile)に宿泊することにしており、午後2時頃にチェックインを済ませた。


ホテルから100メートルほど離れた場所にある「レオン・ド・ブリュッセル」(Léon De Bruxelles)で遅めのランチを頂く。レオンはもともとベルギーのお店だが、現在は、パリ市内に複数店舗を持つチェーン店でムール貝をメインに展開している。どことなく日本のファミリーレストランに似た雰囲気があるので気軽に訪れることができる。


お昼時間には、前菜+ムール貝ココット - 400g(or 他の料理)+デザートのランチメニューがあるが、午後3時を過ぎていたため、通常メニューで注文した。前菜として、エビのポテト包み揚げ海老が入ったサラダと、海老入りムール貝を注文した。


夕方は、靴や洋服などの身の回りの買い物と昼寝などして過ごし、夜は、午後10時頃から、マレ地区の人気カフェ「レ フィロゾフ」(Les Philosophes)で、ブルゴーニュ風牛肉ワイン煮込み「ブフ・ブルギニョン」などを食べて一日を終えた。


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今日は「プティ・パレ美術館」にやってきた。もともとは1900年のパリ万博万国博覧会のために建てられたもので、グラン・パレと向かいあって建っている。ともに、フランスの建築家シャルル・ジロー(Charles Girault)による設計である。ちなみにプティ・パレ美術館に向かって右側に100メートルほど行ったところがアレクサンドル3世橋になる。


入口を入った右側では、特別展「プティ・パレで展示されるコメディ・フランセーズ」(La Comédie-Française s'expose au Petit Palais)が開催されていたが、左側の常設展のみを見学する。

こちらは、フランスの写実主義の画家ギュスターヴ・クールベ Gustave Courbet(1819~1877)による「セーヌ川のほとりの乙女たち」(Fanciulle sulla riva della Senna)(1857年)である。作品は、当時のパリのブルジョアジーが頻繁に訪れる青い水辺と緑の木々のある風景と、典型的な場所に設定されている。2人の女性は、常識的とされる良きマナーとは異なり、無造作に芝生に横たわり怠惰で退屈した表情を浮かべている。
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クールベは作品を通じて、ブルジョアの浅薄さと陳腐さを非難し、それが結びついていた習慣や社会を非難しているとされる。彼は自分が実際に現実で見たものだけを描き、宗教的な伝統的な主題や前世代のロマン主義的幻想絵画を否定したことで知られている。

同じくクールベの「眠り」(Le Sommeil)(1866年)で、こちらも女性2人が描かれているが、あきらかにレズビアンを描写している。エドゥアール・マネがサロンに「オランピア」を出展してスキャンダルになった翌年に描かれたこともあり、その騒動に影響を受けている可能性がある。作品は、コレクターのオスマン帝国の外交官ハリル・ベイ(Khalil Bey)の依頼により制作されたもので、クールベの問題作「世界の起源」(1866年)(パリのオルセー美術館所蔵)も同時期に依頼を受けて描いている。
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作品には、2人の裸の女性が、ベッドで抱き合って眠る様子が描かれている。ベッドの上には、シーツに残されたヘアピンや真珠のネックレスなどの装飾品が散乱しており、事が終わった後の休息を示唆している。背景には青いカーテンがあり、右側にはコンソールに花の花瓶が置かれ、左側にはグラス、ピッチャー、クリスタルの花瓶が一種のオリエンタルスタイルのテーブルに配置されている。右下にはクールベの署名が入っている。

その後「レストラン マコト アオキ」(Restaurant Makoto AOKI)で昼食を頂く。プティ・パレ美術館からは、シャンゼリゼ通りに入り、フランクリン・デ・ルーズヴェルト駅がある交差点からマティニョン通りを北へ歩き、左折したラブレ通りの突き当りにある。プティ・パレ美術館から600メートルほどの距離である。


店名のとおり、オーナーシェフが日本人のお店で、スタッフの女性はシェフのお姉さんとのこと。ランチは前菜+メイン or メイン+デザートで22ユーロと大変リーズナブル。この日は、前菜に野菜がたっぷり入ったクリームスープ、メインに魚(スズキ)を頼んだ。見た目も洗練され美しく、味も新鮮で美味しかった。


こちらは、ナスのリゾットで、厚みのあるナスの焼き加減が香ばしく、リゾットはコクが効いていながらも、くどさなく美味しく頂けた。食後の負担感もなく良かった。


食後、シャンゼリゼ通りを北西方面に1キロメートルほど歩くと凱旋門が見えてきた。今日の夕食は買い込んでホテルで食べようと、モノプリ(フランスの大手小売チェーン)などで食材を買い込んだ。この時期のパリは、カフェ、レストラン、スーパーの軒先に生牡蠣を売るための牡蠣屋台が出店していたことから、牡蛎も買い込んでホテルに帰った。


ホテルは、凱旋門から北西に概ね1キロメートルほどの距離にある。ホテルの部屋は南向きでパリの中心部が一望できる。今日も、日没までどんよりとした天気だったが、午後6時を過ぎ、凱旋門やエッフェル塔がライトアップされると、改めてパリにいる現実を実感させてくれた。
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ちなみに午後10時頃のシャンゼリゼ通りの様子だが、また雨が降ってきた。
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翌朝は、再びルーブル美術館を訪れ、古代エジプト美術部門を中心に鑑賞した。お昼は「トゥール ダルジャン」(La Tour d'argent)で食事を予定しており、ルーブル美術館からは、メトロ7号線で、マリー橋(ポン・マリー)駅を下車して向かった。

駅からは、南に架かるマリー橋を渡り、サン・ルイ島に入り、トゥルネル橋でサン・ルイ島を後にすると、西側にシテ島に建つノートルダム大聖堂が望める。この数日、雨も多く、どんよりとした天気が続いていたが、ようやく雲の隙間から光が差し込んだ。
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トゥルネル橋を渡るとパリ5区になり、最初の交差点の東南角に建つビルが目的のトゥール ダルジャンである。誰もが知るフランス料理の最高級レストランで、日本でも紀尾井町のホテルニューオータニに支店があるが、こちらがパリ本店になる。


トゥール ダルジャンのパリ本店は、1582年、宗教戦争が続き混迷する時代のフランス王アンリ3世(1551~1589)治世に開店している。当時から、洗練された料理は評判を呼び、フランス歴代王を始め、各国の王侯貴族、世界中の著名人などに利用され、現在も最高級のフレンチ・レストランとして君臨している。特に鴨料理の評価が高く、19世紀後半からは、鴨に番号制を付け、現在もロワール地方ヴァンデ県シャランでは、特別に飼育された最高級の鴨肉を使用している。


この日案内されたテーブル席は、トゥルネル橋側のセーヌ川とサン・ルイ島が望める窓際席で、テーブルには、クリスマスシーズンらしく、水差しに赤い薔薇と、赤い蝶ネクタイをしたクマの絵柄のビスケットが添えられていた。


こちらのパリ本店では、料理の素晴らしさはもちろんのこと、その料理に合わせて数多くのワインを取り揃えられている。ワインリストは約400ページあり、地下には、50万本とも言われる膨大な数のワインを収めた巨大なカーヴ(セラー)があり、お客からのどんな注文にも即座に答えることができる様に準備されているとのこと。


料理の注文は、前菜三品、メイン三品、デザート三品から一品づつチョイスするランチセットメニュー(65ユーロ)からお願いすることにした。
コースは、最初に、カナッペ、小さなキッシュなどアミューズグールから始まる。


飲み物は、スパークリング水(7ユーロ)を頼み、白ワインはランチ用のサジェスチョン6種から、プイィ フュメ シャトー ド トラシー2008 (1/2)(54ユーロ)を選んだ。
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アミューズは、小さな鴨肉が入ったもの。
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前菜(その1)は、赤ワインソースで味付けられたエスカルゴで、グリーンレンティルと泡ソースを添えた逸品。
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前菜(その2)は、リヨン名物のグラタン料理で、クネル・ド・ブロシェと言い、川魚のすり身を楕円形に固め、ソースをかけてオーブンで焼いたもの。身はふわふわした食感。
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次の赤ワインは、やはりランチ用のサジェスチョン4種の中から、サントネー クロ・ド・ マルト ルージュ2007 (1/2)(49ユーロ)を選んだ。
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メイン(その1)は、ホタテのローストで、クランベリーと緑のキャベツを付け合わせとし、ソース ペリグーと言う牛のだし汁のフォンドヴォーにマディラ酒を加え、トリュフのみじん切りを加えて煮たソースをかけたもの。ホタテの表面のカリカリした焼き具合と肉厚で弾力感のある食感と絡み合って抜群である。
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メイン(その2)は、鴨肉で、鴨のローストと青リンゴとベトラーヴ(赤カブのような野菜)。フルーティで甘いソースと鴨との相性が良く、想像より軽やかな味わいで大変上品。
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デザート(その1)は、季節のアイスクリームとシャーベット
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デザート(その2)は、オレンジマーマレードとダークチョコレートのパレット
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最後に、カフェ(10ユーロ)を頼み、ミニャルディーズ(こちらはチョコレート)を頂き終了した。料理は、どれも、見た目も光沢があり美しく輝き、味も大変洗練されており美味しかった。また、ワインもサジェスチョンがあるのは良かった。ところで、もう一種類の(前菜)コンソメスタイルのボルシチ、(メイン)子牛のほほ肉・ペリグーソースとポテトピューレの煮込み、(デザート)クランベリー風味の栗とバニラであったが、どんな感じだったのだろう。興味は尽きない。。
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振り返ると、ランチ客は皆いなくなり、既に他のテーブル席は掃除が終わっていた。少し慌てて退出するそぶりを見せたところ、スタッフからゆっくりしていて大丈夫と言われる。壁には、古きパリの町並みを描いた絵地図が飾られている。
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支払いの際の明細書を挟むビルフォルダーと一緒にスタッフが持参した皿には、「トゥール ダルジャンからの眺め 1582年」と書かれたパリ本店がオープンした当時のセーヌ川とノートルダム大聖堂の風景が描かれている。。
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店内はスタッフのサービスも良く窓から望むセーヌ川とパリの素敵な景色を見ながら美味しい食事を楽しむことができた。また、400年にわたってパリの歴史の変遷を見つめてきたレストランで食事したかと思うと大変感慨深くもあった。

(2011.12.21~24)
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フランス・パリ(その1)

2013-04-27 | フランス(パリ)
今年も残すところ10日あまりになった12月下旬、日本を発ちパリにやってきた。パリのシャルル・ド・ゴール空港からは、ロワシーバスに乗り、パリ・ガルニエ宮(オペラ座)に到着(停留所はオペラ座に向かって左側(西側)にある)したのは早朝7時過ぎである。この時期は、まだ夜明け前で、今朝は雨も降って、かなり寒い。まずは、今夜のホテルに荷物を預けるべく、メトロで移動することとする。
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メトロ乗り場は、オペラ座正面前の広場にオペラ駅(3号線、7号線、8号線)があるが、オペラ座の東側の通りにあるショセ・ダンタン=ラ・ファイエット駅からの9号線に乗る方が便利である。オベルカンフ駅で下車し、ヴォルテール通りを北西に200メートルほど歩いた左側に「ホテル ヴォルテール レピュブリック」(Hôtel Ferney République)がある。オペラ座からは、東に約3キロメートルほどの距離になる。


さすがにチェックインには早いらしく、フロントに荷物を預けて出かけることにした。近くにあったパリのファーストフード・チェーン店「ポムドパン」(Pomme de Pain)で、食料を買い込み、雨が上がったことから、しばらく歩くことにした。南方向に20分ほどで「サン・ジャックの塔」が現れた。こちらは、フランス革命で破壊された16世紀の教会で唯一残された塔である。

サン・ジャックの塔の南側には、ナポレオン ボナパルトの戦勝を記念して 1808 年に建造されたシャトレ広場があり、中央には、勝利の女神が立つ円柱を備えた噴水がある。そして、通りを挟んだ西側には、シャトレ座(Théâtre du Châtelet)がある。1862年に帝室シャトレ劇場として開場、開場式にはナポレオン3世の皇后ウジェニーが出席している。ちなみに、ガルニエ宮(オペラ座)は、1875年の開場である。
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シャトレ広場とシャトレ座との間の通りの南側には、シテ島に向かう「シャンジュ橋」が架かっている。シャンジュ橋を渡りながら、東方向を眺めると、シテ島に架かるノートルダム橋と、ノートルダム大聖堂の2塔ファサードと尖塔が望める。東西に流れるセーヌ川は、雨の影響からか増水しており、色も汚い。空は明るくなってきたものの雲に覆われどんよりしており、美しいパリの街並みとは言い難い日である。
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反対側の西側を眺める。シテ島のセーヌ川に面して建つのは「コンシェルジュリー」(Conciergerie)で、もともとフィリップ4世などカペー朝の王宮として建てられた。その後牢獄となったが、14世紀後半、シャルル5世は王室司令部を置き、門衛をコンシェルジュと呼んだことから、現在の名となっている。フランス革命中の1793年には革命裁判所が隣設され、多くの王族、貴族などの旧体制派の人々に死刑判決が下され収監場所となった。マリー・アントワネットもその一人で、処刑される前の2か月半を過ごしており、現在は、その際の独房が再現されている。
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先に見える橋がヌフ橋で、シテ島の最西端に架かる橋になる。

シャンジュ橋を渡り、パレ・ド・ジュスティス(司法宮)(コンシェルジュリー、サント・シャペルなど同敷地にある)のファサードを過ぎ、シテ島を横断してサン ミシェル橋を渡ったセーヌ川の左岸に、メトロの入口(サン ミシェル・ノートルダム駅)がある。少し疲れたことからメトロに乗ることにした。こちらの駅には、イル=ド=フランス地域圏急行鉄道網(RER)の急行地下鉄がメトロ線と並行して走行しており、そのRERのC線に乗って、セーヌ川の左岸沿いを、約2.5キロメートル西のアンヴァリッド駅まで移動した。

駅から南方向にしばらく歩くと、左側に宮殿の様な建物が続いている。こちらは、1751年にブルボン朝第4代フランス国王ルイ15世(在位:1715~1774)によって創設されたフランスの軍学校「エコール・ミリテール」(École militaire)である。しかし1787年には閉鎖され、その後、陸軍士官学校兵舎として使用されたが、19世紀末から教育機関、20世紀に入り、高等軍事研究センターが設立している。


更に直進した先のジョフル元帥(フランス陸軍総司令官)(1852~1931)の騎馬像が飾られた広場に建つ、王冠を頂いた様なドームがある建物が、エコール・ミリテールのファサードになる。設計者はアンジュ=ジャック・ガブリエルで、三角形のペディメント、ポルティコ、アンティークの柱の使用など、パッラーディオ建築が取り入れられた新古典様式で建てられている。
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ペディメント上部の左右には、アレゴリー(寓意像)が飾られている。彫刻家ルイ・フィリップ・ムーシー(1734~1801)が制作したもので、向かって左側には、ルイ15世の「勝利」と、女性に象徴される「フランス」の彫像が、右側には、ヘラクレスが体現した「強さ」と「平和」の彫像がある。そして、時計を囲む様に「時間」と「天文学」のアレゴリーがある。こちらはジャン・ピエール・ピガール(1734~1813)によるもの。

エコール・ミリテールのファサードの向かい側には「シャン・ド・マルス公園」が広がっている。マルスは火星のことで、ローマの戦争の神に由来しており、実際、公園は、軍事演習やパレードを目的として利用されてきた。24.3ヘクタールの面積を持つ長方形の緑地で、東南側から、パリのシンボル「エッフェル塔」が建つ北西側まで長径1キロメートルほどの距離がある。
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今日は、もともとエッフェル塔に上る予定にしていたが、天気があまりよくなく、塔の先端付近は靄がかかっている。入場口は空いているので悩んだが、エッフェル塔に上るのは後ほどとし、イエナ橋を渡って、今日のもう一つの目的地「ギメ東洋美術館」(Musée Guimet)に向かうことにした。
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イエナ橋を渡りながらセーヌ川を見下ろすと、水上バス「バトビュス」(Batobus)のエッフェル塔停留所がある。バトビュスは、パリ植物園、市庁舎前、ルーヴル、シャンゼリゼ、エッフェル塔、オルセー美術館、サンジェルマン・デ・プレ、ノートルダム大聖堂と巡航している。
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こちらは、イエナ橋を渡り、セーヌ川右岸から眺めた様子。停留所から階段を上るとシャン・ド・マルス公園に建つエッフェル塔は目の前になる。
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そして、こちらが「ギメ東洋美術館」になる。パリ16区、イエナ広場に建つ国立の美術館で、もともとは実業家エミール・ギメ(1836~1918)がアジア各地を訪れ収集した遺物や美術品などを地元のリヨンに展示するため美術館を創設したのが始まりである。


その後、美術館はパリへと移設されるが、1945年にはルーヴル美術館所蔵のアジア部門のコレクションを移管して国立の東洋美術館として開館した。その後もカンボジア美術作品などの寄贈もあり、ギメ東洋美術館はアジア以外の国で最大の東洋美術コレクションを誇っている。


館内に入ると最初にカンボジア・アンコール王朝(クメール王朝)の王宮入口の橋(堀に架かる)を飾っていた欄干「蛇神像」(ヴァースキ or ナーガラージャ)が迎えてくれる。ヒンドゥ教における「乳海攪拌」(天地創造神話)が題材になっている。神々が、アスラから侵攻を受けた際、乳海にある霊薬「アムリタ」を飲むことで勝利できると確信し、乳海に聳える大マンダラ山に蛇神を絡ませ、引っ張りあい、回転と攪拌によりアムリタを取り出そうとするが、人数が足りなかったことから敵のアスラに、アムリタを分けることを条件に共同で作業が行われたとされる。


アンコール王朝は、ジャヤーヴァルマン2世(在位:802~835)を始祖とし、カンボジア王国(真臘)分裂後の802年に築かれた王朝で、12世紀、スールヤヴァルマン2世(在位:1113~1152)治世には、領土を拡大し、都は現在のカンボジア北西部の州都シェムリアップに、約3キロメートル四方の都城(アンコール・トム)と、南側に隣接する仏教寺院(アンコール・ワット)を築いている。

メイン展示室(クメールの中庭)は広い吹き抜けで「カンボジアの展示コレクション」になっている。中央には、砂岩で造られた「ハリハラ神」が展示されている。左半身がヴィシュヌ神(ハリ)、右半身がシヴァ神(ハラ)を表す合体神で、高さ178センチメートル、控えめの胴体、リラックスした腹部、楕円形の顔など、カンボジア南部に存在した「扶南国」(1世紀から7世紀)の遺跡群(アンコール・ボレイとプノン・ダ)の特徴がある。
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左半身のヴィシュヌ神は、円錐形の帽子を被り、アーチに円盤を持つ指先のみが残っている(他の手には棍棒・法螺貝・蓮華を持っていた)。右半身のシヴァ神は、絡まる髪の毛から流れるガンジス川と三日月の装飾具、武器であるトリシューラ(三叉の槍の槍先のみが残っている)を持ち、虎の皮の腰布(太ももの装飾)を付けている。「ハリハラ神」は、乳海攪拌で取り出した霊薬アムリタを神々に渡そうと、アスラを惑わすために使わされた美女モーヒニー(ヴィシュヌ神から変身した)に一目惚れしたシヴァ神と一夜を共にしたことで生まれたとされる。

ハリハラ神の後方には「シヴァ神の頭部」などが展示されている。これらは、アンコール・トムの南側プノン・バケンの丘に、10世紀初頭、アンコール王朝ヤショーヴァルマン1世(在位:889~910)により建設されたプノン・バケン寺院に奉られていたもの。
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シヴァ神の特徴である額の第三の目、三日月の装飾具に加え、クメール美術の特徴として、つばが狭い円筒の僧帽に、広い額、連続するこめかみ線、揉み上げから顎へと繋がる浅堀の髭、ピンと伸びた細い口髭と肉厚で笑みを浮かべた口元などが繊細に刻まれ、慈悲深い表情を醸し出している。

向かって左側は「ブラフマー(ブラフマン)神の頭部」で、シヴァ神の特徴に良く似ている。ブラフマーは四方に4つの顔と4本の腕を持った姿で表現される。


こちらは「踊る女性神」(10世紀中頃)で、アンコール王朝ジャヤヴァルマン4世(在位:921~941)が、一時的に都としたコー・ケーの中心部にある複合寺院プラサット・クラハムから出土したもの。コー・ケー様式は、重厚かつ力強い躍動感があるのが特徴とされるが、インパクトの強いポーズをしている。
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坐像姿の「ブラフマー(ブラフマン)神」(10世紀)も、コー・ケー様式とされるが、都から15キロメートルほど離れたワット・バセットから出土している。像は正方形の台座に半跏趺坐の姿勢で座っており、顔は、前述の頭部像と似ているが、やや帽子のつばが広く大きな房状の耳飾りを付けている。腰ひもや腕輪には菱形の花のモチーフが装飾されている。


メイン展示室の一番奥を飾るのが、「バンテアイ・スレイのペディメント」で、アンコール王朝により967年に建立された寺院の東側の楼門を飾っていた。バンテアイ・スレイは、アンコール・ワットの北東部に位置しており、「東洋のモナリザ」とも称されるデヴァターの彫像が有名である。ペディメントは、砂岩から造られた縦2メートル×横3メートルほどの翼形で、インドの叙事詩「マハーバーラタ」の一場面を題材としている。
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物語は、デーヴァ神族によって支配されていた三界(天上界、地上界、地下界)を征服してアスラ族の元へと奪還したスンダとウパスンダの兄弟の下へ、三界奪回のためにブラフマン神により絶世の美女ティローッタマー(アプサラスの一人)が差し向けられる。すると兄弟は、ティローッタマーを奪い合い死闘を繰り広げて自滅しまうといった場面で、クメール美術を代表する保存状態の良いペディメントである。

隣接する展示室にも多くのカンボジア像が展示されている。
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こちらは、「女性像」(ジャヤーヴァルマン7世の妃)は、バイヨン期を代表する彫像の一つ。アンコール王朝の中興の祖と言われるジャヤーヴァルマン7世(在位:1181~1218/1220)は、巨大な人面像(バイヨンの四面像)を刻んだバイヨン寺院を建設したことで知られている。バイヨン様式の顔は、杏仁形の目に微笑みをたくわえ、たっぷりとした唇などが特徴である。


近くには、螺髪姿の「仏陀頭部像」が二体展示されている。バイヨン様式の風貌を持ち、彫刻とは思えないほどの滑らかな質感には驚かされる。


7~8世紀、カンボジア南部の州都コンポンスプーからの出土された「如来像」。クメール風の顔立ちだが、体躯はインドの初期グプタ朝を思わせ、やや質朴さをも漂う愛着が感じられる立像である。


こちらは「タイの展示コレクション」で、右側には13~14世紀にスコータイ様式で制作された「歩行する仏陀像」が展示されている。タイは、13世紀ごろまでアンコール王朝の支配下にあったが、タイ族最初の王朝スコータイ王朝(1240頃~1438)が興ると、新たにスコータイ様式が生まれる。その特徴は、頭頂部の小さな光背、小さなヘアカール、楕円形の顔、弓形の眉、細長い鼻、優しく微笑んだ表情、肩が広くなめらかで女性的なやせ形曲線で、衣の端のひだがへそに垂れ下がっているなどが挙げられる。
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同じく、スコータイ様式で造られた「仏陀坐像」が三体展示されている。半跏趺坐で右手指を下に向け地面に触れており、これは降魔印(触地印)と呼ばれ、修行中に邪魔をしようとした悪魔を追い払った姿を表している。


そして、こちらは、ベトナム中南部にあったチャンパ王国時代に制作された「シヴァ神の坐像」である。像は、腕と鼻が破損しているが、滑らかな質感を持つ体躯の写実性に圧倒される。額には第三の目、頭部には三日月とシヴァ神を示す特徴が盛り込まれ、額の滑らかなラインや胸下部の巻き紐に装飾されたクロス状のモチーフには、クメール美術の影響が見られる。一方、目の瞼の下が水平であること、胸に這う様な蛇の姿、褌状の民族衣装などはチャンパ美術の特徴でもある。現在、ベトナム本国に残るチャンパ像の多くはベトナム戦争時に破損しており、大変貴重な作品の一つである。
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このシヴァ神像は、11世紀、チャンパ王国によりヴィジャヤの丘の上に建てられた高さ約20メートルの銀塔(主祠堂)に奉られていた(ビンディン遺跡)。ベトナム中南部に勢力を持っていたチャンパ王国は、中国文明の影響を受けた北部ベトナムとは異なり、カンボジアやインドから渡ってきたヒンドゥ文明(特にシヴァ派を信仰)を受容していた。

こちらは、インドネシア、中央ジャワ島で8~9世紀頃に制作された「観世音菩薩」像。高さ30センチメートルほどのロストワックス製法で作られた小さいブロンズ像で、女性らしさを感じる体躯で、しなやかな指先まで見事に表現されており、技術の高さに驚かされる。像には、台座と傘があったが失われている。10本の腕を持つ菩薩像は珍しい。
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8世紀半ば~10世紀のジャワ島中部では、世界最大の大乗仏教建造物ボロブドゥールを建造した「シャイレーンドラ朝」や、ヒンドゥ寺院チャンディ・ロロ・ジョグランなどを建造した「古マタラム王国」などが繁栄し、文化面でも仏教、ヒンドゥ美術が大いに栄えた。

次に、「インドの展示コレクション」を鑑賞する。フロアの中央に飾られた仏頭は、インドはマトゥーラからの出土品で、6世紀グプタ朝後期に制作されたもの。土着的なインド独自の造形・白斑点の赤い砂岩仕様が特徴である。


マトゥーラは、インド・デリーから145キロメートルほど南にあるウッタル・プラデーシュ州の都市で、タージ・マハルのそばを流れるヤムナー川の上流に面している。ガンダーラ地方と同時期の紀元前後から2世紀頃にかけて、仏像彫刻が始まった地として知られ、クシャーナ朝下のカニシカ王の治世では副都でもあった。

同じくマトゥーラから「ナーガ像」(蛇王)。頭部は複数の蛇の冠とともに失われている。インドで、蛇は雨を降らせると言われており、そのため右腕は、雨を願うべく天に伸ばし、左腕は、雨水を集めるために胸に杯を握っていた。首には花輪を思わせる首飾りを付け、腰には薄手のドウティ(ヒンドゥ教徒男性が着用する腰布の一種)を着用している。体は、首、肩、脚を曲げた三屈法(トリバンガ)で造られた、クシャーナ朝(1~3世紀)時代のマトゥーラの特性を持った美しい像である。


踊るシヴァ神で、ナタラージャ(踊りの王)とも呼ばれる。インド最南端にあるタミル・ナードゥ州からの出土で、南インドを支配したタミル系のヒンドゥ王朝チョーラ朝時代(9世紀から13世紀)の11世紀に造られた。ナタラージャは、無知と邪悪を表わす悪魔を踏みつけ、4本の手を持ち、破壊を表わす炎のリングの輪の中で踊っている。


向かって左端の手には創造を象徴する小太鼓を持ち、その腕にナ−ガ(蛇)を巻き付けている。手前の手の平をこちらに見せているのは苦しむ衆生を救おうとする姿という。髪はガンジス河の流れを表し女神と月の装飾が施されている。


次に「ネパールの展示コレクション」から、17世紀制作の「バイラヴァ」と名付けられた作品。バイラヴァとは恐ろしいの意味で、シヴァ神の恐ろしい側面を象徴的に表現したもの。


額には第三の目が刻まれ、渦巻き状の眉毛、口髭、顎鬚が生え、凶暴な様相を表している。髪飾りの装飾は繊細かつ豪華で、青い宝石で装飾されたメダリオンや唐草紋様の金細工などで構成されている。耳に、穴が開いていることから、イヤリングがあったようだが失われている。ネワール族のマッラ朝(12世紀~18世紀)によりカトマンズ盆地に成立したネワール様式で造られている。

こちらの像もネパールからの作品で「マハカラ神」と名付けられている。マハカラ神はシヴァ神が仏教に改宗した姿と言われている。ベージュの石灰岩に彩色を施して造られており、像には寄付者の名前と1293年の制作年が刻まれている。


こちらはチベットのパンチェン・ラマ像で、チベット仏教(ゲルク派)で最上位クラスに位置する化身ラマ(師僧)「ダライ・ラマ」に次ぐラマの称号である。無量光仏(阿弥陀如来)の化身とされ、転生(生まれ変わり)により後継者が定められる。こちらは1569から1662年まで継いだ第4世を記念して造られた黄金像である。


次に「アフガニスタンとパキスタンの展示コレクション」を鑑賞する。この地域で作られた彫像は、古代ガンダーラ国に因んで「ガンダーラ像」と呼ばれ、その特徴は仏陀生誕の地インドの文化を基盤にしつつも、ヘレニズム文化の影響を大いに受けていることにある。こちらの「菩薩像」は「ギメ東洋美術館」を代表するガンダーラ像で、1~3世紀頃(クシャーナ朝)に片岩で制作された高さ120センチメートルの立像である。後部に円形の光背を配し、法衣はインドで王者への敬意を示す偏袒右肩の着衣方だが、上半身がほとんど露わになっており、むしろ肉体美が強調されている。


近くで見ると、右手の指と指の間には膜(縵網相)があり、眉間には白毫があるなど仏像の特徴を兼ね備えている。一方で口元には、立派な髭をたくわえており、繊細な装飾が施されたターバン風の王冠を被り布先が光背にたなびいている。胸には連珠や様々な貴石を繋いだ様式の首飾りを付けるなど、随所にインド、スキタイ、グレコローマン、イランなどの様式が組み合わさっている。


「菩薩立像」は、パキスタンのカイバル・パクトゥンクワ州のマルダンから北東に約15キロメートルにある「メハサンダ寺院址」から発掘されたもの。寺院址は、中央尾根の台地にあり、会堂、厨房などの施設を持つ塔院を中心に、周りに大塔や小塔祠堂が並ぶ大規模な仏教寺院で、石彫、スタッコ像、菩薩像などの多くの像が発掘されている。

こちらは1~3世紀頃に片岩で制作された高さ85センチメートルの「弥勒菩薩像」である。円形の光背や肉体美を強調する偏袒右肩の姿は前述の「菩薩像」と同じだが、祭司階級出身をモデルとしているのか髷のある長髪で、左手には儀礼で用いる水瓶を持っている。マウリヤ朝の「アショーカ王の摩崖碑文」で有名な「シャーバズガリ」(メハサンダ寺院址から南西5キロメートルに位置)からの出土品である。


シルクロードの十字路ともいわれたアフガニスタンに位置する「フォンドキスタン仏教寺院址(Fondukistan)」から出土した7世紀後半に造られたテラコッタ製の半身像。頭部は仏像の特徴である螺髪姿だが、表情には官能さを兼ね備えた女性的な雰囲気がありマニエリスム的でもある。法衣の上から司祭のようなマント風の肩衣を身に付け、多くの宝石やネックレスで飾られている。


フォンドキスタン仏教寺院は、カーブルから60キロメートル北にあるバグラーム(コーカサスのアレクサンドリアで、クシャーナ朝の首都でもあった)とバーミヤンの中間にあるゴルバンド渓谷にある遺跡である。

同じく「フォンドキスタン仏教寺院址」からの出土で7世紀に制作された「菩薩像(或いは守護神像」。鼻が高くはっきりした顔立ちで、巻き毛の長髪に豪華な髪飾りを被り、胸元には大きな正方形の装飾品が付いた二連の首飾りを付けて、身体をやや傾け遊戯座の姿勢を取っている。左手には法具を持ち、右手は、衆生を救わんと手前に差し出している。


7世紀に制作された高さ72センチメートルのテラコッタ製だがほとんど損傷がないのには驚かされる。前述の像もそうだが、フォンドキスタン像の人体表現は細身で官能的であり、インド・グプタ朝の様式を反映している。

ガンダーラの「ハッダ遺跡」から出土されたストゥーパ(仏塔)。三層から四層で構成された仏塔で、各層には仏陀坐像の浮彫を配し、漆喰で覆われた中に彩色の痕跡が残っている。仏教複合施設を持つ僧院の中庭にあった奉納塔の一つと考えられている。ハッダ遺跡は、アフガニスタン東部のジャララバードから南方10キロメートルにあり、1世紀~2世紀に造られた後期ヘレニズム様式の仏教彫刻が多数発掘されている。


次に「中央アジアの展示コレクション」を鑑賞する。中央アジアとは、現在の西トルキスタンと東トルキスタンから新疆ウイグル自治区にかけての地域を指している。20世紀初頭、最後の未開地と言われた中央アジアに、多くのヨーロッパからの探検隊が調査に向かった。こちらに展示されているコレクションの大部分は、フランスの東洋学者ポールペリオ(1878~1945)が1906年から1909年にかけて行った探検隊による出土品である。
こちらは、クチャ(庫車/亀茲国)の石窟壁画で、8世紀後半の唐王朝時代に描かれたもの。


亀茲国とは、タリム盆地の北側(天山南路)に位置するオアシス都市で、漢王朝時代には西域経営の拠点となった。5世紀から8世紀にかけて数多くの石窟寺院が造られ、亀茲国が滅び9世紀に支配したウイグル人にも仏教信仰は維持されたが、11世紀には、イスラム王朝のカラハン朝が侵攻し、石窟寺院の仏教美術は目や口を中心に破壊されてしまう。

同じく、クチャのキジル石窟の壁画の一部。鮮やかな瓔珞を身に付けた菩薩らしき顔の一部である。


剥落している箇所が多いが、ラピスラズリを使った寒色系の彩色が鮮やかに残っている。顔立ちはどことなくペルシア風である。


クチャ郊外にある「スバシ故城」から出土した6~7世紀頃の「木製の携帯仏壇」。縦26センチメートル×横11センチメートルの大きさで、当時は、左右に脇持を持つ三尊式の仏壇だったようである。円形の光背には装飾がありインド・グプタ朝の影響が見られ、顔はガンダーラ風で、偏袒右肩の姿で衣のジグザグの縁取りには山西省は雲崗石窟の石仏の影響を受けている。クチャは、東西を結ぶ西域北道の中間に位置していることもあり、インド、ガンダーラの様式と中国仏像の様式が融合している。
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クチャにあるクムトラ石窟(クムトラ千仏洞)からの出土品。クムトラ千仏洞は、5世紀から8世紀にかけて開窟され現在112窟の存在が確認されている。像は7世紀から8世紀に制作されたもので、上の胸像が菩薩像で、左側から如来頭部、比丘頭像、跪禮拝者と続いている。塑像に彩色されたものだが綺麗に色が残っている。


敦煌、莫高窟で、隋時代(6世紀末から7世紀初)に制作された「過去七仏像」(塗金銅)。仏陀が仏教を開いたのは単に一代のみの事業ではなく、過去においてすでに成道し成仏した前世の功徳が累積した結果であるされる。この像は、これまで仏陀を含めて登場した七人の仏陀を信仰する「過去仏信仰」に基づいて造られた。


北魏時代(518年)制作の河北省からの金銅仏で「釈迦如来像と多宝如来像」。多宝如来とは、過去仏の一人で、無限のかなた東方にある「宝浄国」に住する教主である。法華経の第11章(見宝塔品)には、仏陀が説法していた際、空中に巨大な宝塔が出現し、中から、仏陀を讃える多宝如来の声が響き渡り、その後、多宝如来の座を半分空けて招き入れられた仏陀は、多宝如来と並んで説法を続けたと説かれている。このように多宝如来像は、法華経信仰に基づいて仏陀(釈迦如来)と2体1組で表現されることが多い。


「中国の展示コレクション」からは東魏(534~550)時代の542年に大理石で作られた「持蓮観音菩薩像」。頬骨が張り、目は細く、僅かに笑みをたたえている。胸を引き腹を出す姿勢で、肩から上腕部に衣を纏い、一部を玉環に通して交差させている。
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前述のやや後年(東魏から北斉(550~577)時代)に砂岩で造られた「菩薩立像」。表情や衣の表現は良く似ているが腹が出る姿勢は抑えられている。衣は肩から身体に沿って下がり膝下で交差した後、前腕にかけて足元まで垂れ下がっているが、腹部にある玉環は瓔珞が付いた装飾品になっている。笑みを浮かべた表情や体つきなど、法隆寺金堂釈迦三尊像の菩薩像や法隆寺夢殿の観音菩薩立像などとも似ている。
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今回「日本の展示コレクション」は時間をかけて鑑賞しなかったが、縄文時代の土偶、弥生時代の埴輪、天平時代から江戸時代までの仏像彫刻、陶器、刀など工芸品も数多く所蔵されている。館内を全体で2時間ほど鑑賞したが、インドから長い年月をかけてアジア各国に広がっていった仏教の深い流れ(伝播)を、それぞれの地域に根ざして作られた一級の美術作品群を通して改めて感じさせられた。

時刻はお昼の12時を過ぎたので、美術館を後にし、近くにあったベンチでお昼にした。メニューは、ポムドパンで購入したハム、チーズ入りバゲットと、JALでもらった赤ワインである。食後は、再び、イエナ橋を渡り「エッフェル塔」に戻った。

入場のための列が続いていたが、10分ほどで入場することができた。セキュリティチェックを済ませエレベーターに乗車する。


第2展望台に到着した。展望台は簡単な柵あるいは金網が設置されているだけの吹きさらしである。しかし、中央にはエッフェル塔グッズを中心としたお土産ショップがある。


展望台は3つあり、高さは第1展望台が57.6メートル、こちらの第2展望台が115.7メートル、最も高い第3展望台が276.1メートルあるが、見上げてみると霞んでいるし、行くのは諦めた。


東南側は「シャン・ド・マルス公園」が広がる眺めで、上から見ると庭園の形状が良くわかる。公園では1790年7月14日にフランス革命1周年記念祭が行われている。また同年7月17日には、共和政の実現を掲げて集まった民衆に対して、解散を命じた革命政権の国民衛兵隊が発砲した「シャン・ド・マルスの虐殺」が起こっている。そして1867年には第2回パリ万国博覧会や、その後も1937年までに5回の国際博覧会が開催され、大きなパビリオンも数多く建設された。公園の終点に建つ建物がエコール・ミリテールのファサードになる。
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反対側の北西側には、セーヌ川に架かるイエナ橋が見下ろせ、先にはシャイヨ宮のある「トロカデロ広場」(Place du Trocadero)が広がっている。トロカデロ広場には、1878年の万国博覧会においてトロカデロ宮殿が建てられ、国際機関の会議等が開催されたが、1937年の国際博覧会で一部取り壊され、シャイヨ宮として現在に至っている。シャイヨ宮は広い弧を描く2つの翼が特徴となっている。イエナ橋との間には、前庭としてトロカデロ庭園(1937年)が広がっている。
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トロカデロ広場から右側を眺めると、ギメ東洋美術館のドーム部分が僅かに確認できる。そのすぐ右後方に凱旋門が望める。ちなみに凱旋門の北西方向に見える高層ビルは、ハイアット リージェンシー パリ エトワールで、明日から宿泊することとしている。
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セーヌ川に沿って更に上流の右方向を眺めるものの、少し先になると霞んでしまう。右端の個性的な鉄とガラスで覆われた「グラン・パレ」と、その南側に架かる「アレクサンドル3世橋」の特徴ある装飾柱が何とか確認できる。
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20分ほど滞在した後、午後2時過ぎにホテルに戻り、チェックインして夕方まで部屋で寝た。
(2011.12.21)
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イタリア・ピエモンテ(その7)

2013-04-25 | イタリア(ピエモンテ)
アルバからすぐ北側のタナロ川(ポー川の支流)を渡り、左岸側を通る幹線道(SS231号)で、17キロメートル西にある「ブラ(Bra)」にやってきた。アルバと同じ、ピエモンテ州のクーネオ県の基礎自治体で、アルバの次に人口が多い3万人弱である。ターナロ川左岸に位置することからロエロ地区となる。幹線道はブラの南側を東西に走っており、目的のリストランテ、ボッコンディヴィーノ(Osteria Boccondivino)は、400メートルほど北に行った町の中心部にある。繁忙期ではないためか町は閑散としている。


店舗前には、店名看板とイタリア国旗がはためき、入口の柱には、スローフードと書かれた看板が掲げられている。スローフードは、拡大を続けるファストフード文化に対して、その土地の伝統的な食文化や食材を見直すことなどを目的にし、1986年にイタリアのカルロ ペトリーニにより提唱された国際的な社会運動で、現在ではイタリア国内で4万人、世界各国に8万人以上の会員を有する国際組織(協会)となっている。なお、シンボルマークのカタツムリは、思慮深い、ゆっくりの意味である。


正面のアーチをくぐると中庭になっている。1階には、スローフード協会本部の事務所があり、ボッコンディヴィーノは正面の階段を上った2階にある。


ワインは、グラス ワインメニューから注文することにした。メニューには、地元産の14種類があり、カナーレ産、カステッリナルド産、ディアーノ ダルバ産などのワインを注文した。ちなみに一番価格が高いワインが、バローロ ロッチェ(Rocche、05)で6ユーロ。次にバルバレスコ マルカリーニ(Marcarini 06)で5.5ユーロ。他は2.5ユーロから4ユーロ程度とかなり良心的な価格設定である。


ランチ メニューには、アンティパスト、プリモピアットなどの標記はなかったが、アンティパスト8種、プリモ4種、セコンド6種、チーズ1種、コントローリ3種が、順番に書かれていた。料理には、お店のお勧めマークがあり、そのお勧めの一つ、ピエモンテの伝統料理の3点盛り「ラルド、サルシッチャ ディ ブラ、カルネ クルーダ」(Lardo,salsiccia di Bra e carne cruda、8.50ユーロ)を注文する。一目で鮮度が高いと感じる色合いで、実際に食べてみると上質のマグロのようである。さすがにスローフード協会のおひざ元のリストランテといったところ。
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付け合わせ(コントローリ)は、シンプルな「ミックスサラダ」(Insalata Mista、4ユーロ)にした。バルサミコ酢をたっぷりかけて頂く。こちらも収穫したてといった感じで、大変みずみずしい。
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「ズッキーニとトマトのニョッキ」(Gnocchi di patate con zucchini e pomodoro fresco、8.5ユーロ)。ジャガイモ ニョッキは思ったより柔らかく、新鮮で酸味のあるトマトとの相性が素晴らしい。
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こちらは、お馴染みのピエモンテの伝統料理「アニョロッティ デル プリン」(Agnolotti del plin al burro e rosmarino、9ユーロ)。詰め物はやや小ぶりで思ったより柔らかいので食べやすい。ローズマリーの香りの強いが、かえって食欲が増す。
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最後に「パンナコッタ」(5ユーロ)と「カフェ」(1ユーロ)をいただいて食事を終えた。
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セコンド ピアットでは、お勧めとして、仔牛肉のツナソース(8.5ユーロ)、カルマニョーラ産ウサギのトンノ、バルサミコ添え(8.5ユーロ)、仔牛肉の煮込みシチュー(12.5ユーロ)などがあったが注文しなかった。実は、今夜こそ、昨夜行けなかったリストランテに行くことにしているため、昼は軽めにしておいた。結果、お腹には余裕もあり正解だったが、どの料理も美味しかったので少し心残りとなった。

次にクーネオ県バローロに向かった。バローロの名称は、最高級のイタリアワインの一つとして世界的に知られている。タナロ川を渡り右岸沿いを走るSP7号線で、アルバ方面に戻り途中からSP3号線(アルバ通り)に乗り換え南下する。ブラから30分ほどでバローロ村の北側にあるコルベルト広場に到着する。

コルベルト広場の正面にある狭い石階段を上ると、ムニチピオ広場に到着する。広場の北側に面した建物の裏には、三角形の敷地の展望台があり、左前方(北東方向でアルバ方面)にランゲの丘陵地の稜線が望める。手前の中程には「サン ドナート教会」の鐘楼、右側に、バローロ城の胸壁のある塔が聳えている。ワインで有名なバローロだが、人口は700人足らずと少なく、集落はバローロ城を中心に丘の上に広がっている。
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再びムニチピオ広場に戻り、東方向へ延びる起伏のあるローマ通りを進むと、正面に「バローロ城」(正式にはファレッティ城という)が見えてくる。お城はもともと小さな丘にあった要塞を利用して建設したもので、下部には、石を幾層にも積み重ねて築かれた要塞の名残りがある。城には三層のアーチ窓があり、その屋上南側には胸壁が備え付けられているが、西側にはなく、小さな窓が並んでいる。屋上には胸壁のある小円塔と、大きな塔が建っている。
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バローロ城へ向かうルートには、他に、麓となる北側から直接、城の周囲に沿って延びる細い通路を利用することもできる。そちらは、近道にはなるものの、かなり急勾配の坂道となっている。

バローロ城を建設したのは、1250年に当地を引き継いだファレッティ家である。ただし、現在のバローロ城は、16世紀に戦争で大きな被害を受けた後に再建したものとされている。ファレッティ家とは、12世紀初頭にアスティ、アルバなど、ピエモンテの都市を起点に、金融及び商業の分野で富を築いた貴族の系統で、ジェノヴァ、チュニス、アヴィニョンなどに金融事業を拡大し財を成し遂げている。そして1730年には侯爵となっている。

胸壁のある南側の2階と3階の二連のアーチ窓の上部には、歴代の侯爵の浮彫があり、コーニス下の面取りには、ファレッティ家の紋章が飾られている。
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城への入口は、南側の外壁を回り込んだ北側にある。城内は「エノテカ レジョナーレ」(バローロ州立ワイン展示館)になっており、ワインの製造工程の紹介やバローロ ワインに関する展示がされている。こちらの部屋の壁面には、ブドウ畑とバローロ ワインボトルを背景に、科学者風の男性が顕微鏡を覗いたり、書類に目を通したり、ワイン醸造に関する研究場面を思わせる一場面を劇画タッチで描いたパネルが展示されている。
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パネルは大きく、視線を移すと、トーガを脱ぎ、裸でワインを飲むローマ人風の男女や、その姿を眺める骸骨などが描かれた場面もある。他にも、キリストをワイン圧搾機に乗せ、流れ出る血をワイン樽に注ぎ込むシュールな場面などもあるが、あまり相応しいと思えない展示だった。

こちらには正方形のフローリングの部屋がある。周囲の壁には伝統衣装を身に着けた人物パネルが数多く飾られ、事務机と椅子だけがポツンと、すみに置かれただけで、何のための部屋なのか分からないが、窓からの眺めは素晴らしく、時折吹き込む風が心地よい。


こちらには、多くのバローロ ワインが展示されている。そして有料で試飲もできるコーナーもある。現在、“ バローロ ” と表示することができるワインは、DOCGに指定され、ランゲ丘陵周辺の11の地域となっている。中でも有名な生産地域は、お膝元のバローロ (Barolo)地域を始め、北側のラ モッラ(La Morra)、北東側のカスティリオーネ ファッレット(Castiglione Falletto)、東側のセッラルンガ ダルバ(Serralunga d’Alba)、南東側のモンフォルテ ダルバ(Monforte d’Alba)の5か所とされている(バローロ ワインの主な生産地域図)。
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バローロ ワインが、長期熟成の辛口赤ワインとなったのは、1807年、バローロ侯カルロ タンクレーディ ファレッティに嫁いだ、ジュリエット コルベール(太陽王ルイ14世の宰相コルベールのひ孫にあたる)が、バローロの土地と気候が、高品質のワインを生み出すことができると確信し探求を続けたことが始まりである。彼女は1864年に亡くなりファレッティ家は断絶してしまうものの、彼女の意思を受け継いだ後継者たちにより、バローロは「王のワイン」としての地位を築いていく。壁には1871年の古いバローロ ワインのラベルなどが展示されている。
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高い名声を築いたバローロ ワインは、1970年代には、消費者の嗜好の変化などにより、長期熟成の伝統的なスタイルが流行遅れとなっていく。しかし、1980年代には、バローロ ボーイズと呼ばれた若手生産者により、従来の大樽から小樽による熟成方法の変更、熟成期間の3年から1年への短縮など、果実実あふれるニュースタイルのバローロが次々と開発される。こちらにはそんな過渡期の1983年のラ モッラ産バローロ ワインが飾られている。
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4階には展望テラスに出られるアーチ門がある。テラスから南側を振り返ると、丸瓦が敷き詰められた切妻屋根の中程に2つの塔が伸びている。煙突の様にも見えるが、胸壁があることから、防衛上の櫓(側防塔)だったと思われる。
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そして、展望テラスからは、東、北、西側3方向の眺望を見渡せる。周囲には、大人の腰あたりの高さの手すりと、その先に煉瓦が積み重ねられた胸壁が設けられている。

テラス北側真下には、城への正面入口前の小さな広場があり、その向かい側(北東側)に「サン ドナート教会」が建っている。そして、その教会の鐘楼の後方には、300メートルから400メートルの高低差の丘一面に、バローロ生産地域のぶどう畑が大波のうねりのように続いているのが確認できる。見渡すばかりに、ぶどう畑は続き、北東方向となる右後方はカスティリオーネ ファッレット生産地域となり、その先がアルバになる。
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やや左側に視線を移すと、同じくバローロ生産地域のぶどう畑の斜面が広がっている。そして、その先となる北側の4キロメートルほど先の丘の上の街並みが、人口約2,700人の基礎自治体(コムーネ)「ラ モッラ」で、標高500メートルほどに位置している。ラ モッラは、バローロ生産地域では最大面積を誇っており、標高差のある畑から様々なタイプのワインが生み出されるが、ミネラルをたっぷり含んだ石灰土壌であることから、一般的には、エレガントなスタイルのバローロが産まれるとのこと。
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次に、アルバ方面に6キロメートルほど戻り、カスティリオーネ ファッレットを過ぎたグリンツァーネ カブールに向かった。ここには、ガリバルディ、マッツィーニと並ぶ「イタリア統一の三傑」と称される、カミッロ カヴール伯爵の城(Castello di Grinzane Cavour)がある。

駐車場は、なだらかな坂を上った右側にある。その駐車場には眺めの良い見晴らし台があり、起伏のあるぶどう畑の丘を見渡せる。車道から東方向に分岐し上っていく歩行者専用の直進の石畳道を進むと、左前方の丘の上に「カミッロ カヴール伯爵城」が現れる。
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カヴールとは、1852年、サルデーニャ王国の最後の国王ヴィットーリオ エマヌエーレ2世に首相に選ばれ、国王と共にイタリア統一戦争に終止符を打ち、リソルジメント(イタリア統一運動)を成し遂げた人物。その後は、オーストリアやフランスなど大国からの干渉という難題を抱えながらも、卓越した外交術を駆使してイタリア統一を完成させる。こちらはカヴールの石膏肖像で、城内の展示室に飾られている。


カヴールは政治的評価だけでなく、ワイン醸造にも貢献し今のバローロ ワインの礎を築いた人物である。19世紀初頭、ピエモンテの農地は、ナポレオンのイタリア侵略で荒廃していたが、この時期、フランス人のワイン醸造専門家ルイ ウダール(Lois Oudart)にワイン醸造について調査・研究を依頼している。

この結果、ネッビオーロ種の潜在力が引き出され、1850年代にはネッビオーロ種100%の辛口ワイン「バローロ」の生産に成功する。そして、瞬く間に「ワインの王様」の称号を獲得している。こちらのスクリーンではそのカヴールの功績が紹介がされている。
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このカブール城は、初期のバローロ研究の中心地でもあったことから、城内には、カヴールの遺品や、ワイン研究に関する資料、写真などが多数展示されている。
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部屋の中央には、大型のワイン圧搾機が飾られている。中央には樽が置かれ、左端の大きなねじを回すことで、太い横柱に圧力を加え、樽内のブドウを搾る仕組みになっている。他にも、様々な形の絞り樽や、収穫に使用された道具類などが展示されている。
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城内には、エノテカ レジョナーレ(州立ワイン展示館)があり、ワインの試飲や販売がされている。隣にはピエモンテ料理とワインを堪能できるリストランテも併設されている。
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そのリストランテの入口を入ってすぐのテーブル席には、見晴らしの良い大きなアーチ門があるので、コーヒーを飲みながら休憩する。真下は、城が建つ土台となる広い敷地で見晴らしの良い展望台となっているが、こちらは、やや高い場所になり、より眺めが良い。左端が北東になるので、丘の向こうがアルバ方面になり、右側の丘の上の街並みが、ディアーノ ダルバになる。
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次に、やや右側に移動すると東になり、ディアーノ ダルバのサン ジョヴァンニ バッティスタ教会の鐘楼が確認できる。この場所から直線距離で概ね3キロメートルほどの距離となる。
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更に右側は、南東側でホテルのあるモンテルーポ アルベーゼ方面となるが、教会の鐘楼らしき塔は確認できない。手前の丘には、見渡すばかり、ぶどう畑が広がる風景となっている。
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時刻は午後6時半を過ぎたところ。今夜は、昨夜訪問できなかったリストランテに向かうことにしている。グリンツァーネ カブールからは、一旦、ホテルに戻り着替えて向かうことにしている。駐車場からは、三叉路からSP157号線を東に向かい、ディアーノ ダルバを経由して南に進むと20分ほどでホテルに到着する。

今夜は、トレイゾ(Treiso)にあるミシュランの一つ星「ラ チャウ デル トルナヴェント」(R La Ciau del Tornavento)を予約している。トレイゾは、ホテルからは、17キロメートルほど北東にあり、アルバからは、7キロメートルほど南東に位置している。丘の間を曲がりくねって延びる道が多く、気を抜くと、方向感覚が分からなくなるので、大変に難しい。。事前に一応ルートは調べているが、標識を見落とさないことを心掛け出発した。

交差点の標識や道路の様子を確認しながら、北に向かって進むと、丁字路のロータリーに、テレイゾ、アルバ方面の標識があり、左折した先に鐘楼のある教会が見えてくる。その教会前にある交差路から教会の右側を通り過ぎた隣の邸宅が目的のリストランテである。2階建てで中央に煉瓦を積み重ねたポーチと両側を大きな植え込みの植物が一体となり豪華なファサードを形成している。時刻は午後8時15分。ぎりぎり日の入り前に到着することができた。
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店内は長方形の大広間といった雰囲気で、4~5人掛けの丸テーブルが10数台並び、かつテーブル間の距離も十分離れて配置されている。入口の反対側となる南側には、一面窓ガラスで覆われ、ランゲ丘陵地が一望できるゴージャスな空間となっている。

コースはデギュスタツィオーネ(Degustazione)でお願いする。最初のワインは、バローロ南東側のモンフォルテ ダルバのシャルドネを十分に熟成させて造ったスプマンテで、カンティーナ(生産者)ロッケ デイ マンゾーニによる「ヴァレンティーノ ブリュット リゼルヴァ エレナ」である。ランゲ地方で初めて造られたシャンパン製法のスプマンテ(メトド クラッシコ方式(瓶内二次発酵))とのこと。
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最初にサーモンをいただく。スプマンテと良く合っている。この日は、何故かメニューを撮影しておらず、提供された料理の詳細が分からないままとなってしまった。
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テーブル席は、南東側の窓際席を案内してくれたので大変眺めが良かったのだが、前菜が運ばれる前に日が暮れてしまった。ホテルからの眺めもそうだったが、街の灯りがないため、日が沈むと真っ暗になってしまうのが、少し残念である。
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次のワインは「ジェンマ ヴィティス」。ピエモンテ州の西部に位置するカンピリオーネ産の赤ワイン。
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野菜のフラン(タルトパイ)。
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バルベーラ ダルバ ヴィニェーティ チェッレート(barbera d'alba vigneti cerreto)。カンティーナは、ロベルト ヴォエルツィオ(Roberto Voerzio)で、ラ モッラ中心部にある。バルベーラ種100%で造られ、輝きのあるルビー色をしている。フランボワーズやジャムを思わせる香り、凝縮した果実味としっかりとしたアルコール感があり、まろやかな酸味とシルキーな喉越しを持つ。
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フォンドゥータソースを使った料理だが料理名は不明。タルトゥフォ ビアンコ(白トリュフ)をたっぷりとかけてくれた。
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バルバレスコ セッラボエッラ(Barbaresco Serraboella)。伝統的な大樽と近年流行している小樽を使用したチリューティの自信作と言われる。
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こちらは、ピエモンテの家庭料理で、細麺の卵入り手打ちパスタ「タヤリン」。ハーブ風味のバターソースでいただく。
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最後のワインは、バローロ ワインになる。ロ ゾコライオ バローロ ラヴェラ(Lo Zoccolaio Barolo Ravera)で、ロ ゾコライオはバローロ生産地域のカンティーナで、村の中心地からやや南の標高350メートルに位置する。ゾコライオは大きな白い木(ギンドロ)で命の木とも呼ばれており、ラベルにもデザインされている。ミネラル香とスパイスをほのかに感じ、コクがあり溢れるような豊かさと広がりのある香りが特徴。
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メイン料理の前にウエイターが希望する肉のサイズを聞きに来たので少なめでお願いした。他のテーブル席に運ばれる大きさを見て驚いていたのを察知されたのかもしれない。こちらは豚肉で、旨味が凝縮された肉と皮のカリッとした焼き上げとのバランスが抜群である。
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こちらは、何の肉だったか覚えていない。サイズもちょうど良く、美味しかったことは間違いない。。
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本日のコースには、チーズが付いており、女性スタッフが大きなガラスケースのチーズワゴンを運んできた。
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チーズの種類が多く、選べないで悩んでいると、笑顔で、全種類を盛りつけてくれた。
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今夜もピエモンテ伝統料理だったのだが、洗練された料理や多くの種類のチーズ、お店の雰囲気やサービスも良く、フランス料理を味わった様な気持ちになった。ワインも大変美味しく、グラスの量が少なくなると、愛想良く、どんどん注いでくれた(計175ユーロ(レート114.092))。日本人シェフも働いており、少し会話することができたのも良かった。デザートが提供された頃は、午後11時を過ぎ、多くの客は帰宅して、ほとんど最後の客となっていた。
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翌朝は、ホテルからミラノ マルペンサ空港に向かい、午前12時20分発のアエロフロート ロシア航空に乗り、モスクワを経由して、成田国際空港に翌朝、午前10時20分に到着・帰国した。今回の旅は、かなりの距離の移動となり、計画通り進まなかったことも多かったが、大きなトラブルなく無事終えたのは良かった。
(2011.8.6~7)
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