昨日同様サンタ・ルチーア駅を降り、向かい側の乗船口「フェッローヴィア・スカルツィ停留所」から、 サン・マルコ広場方面行きのヴァポレット(水上バス)赤82番(急行便)に乗船し、後部座席から後ろを振り返りながら、通り過ぎる「カナル・グランデ(大運河)」の風景を眺めている。こちらは「リアルト橋」を過ぎ、西に向けまっすぐの流れとなったところ。
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西側に延びるカナル・グランデは、カ・フォスカリ(ヴェネツィア大学)付近で大きく左(南方向)に曲がり、更に「アカデミア橋」(カナル・グランデに架かる4つの橋のうち、唯一の木製橋)をくぐった先で東に向きを変える。左側ドルソドゥーロ区側には、コンタリーニ・ポリニャック宮が、右側サン・マルコ区側には、旗がたなびくパラッツォ・カヴァッリ・フランケッティ館、白い六層のパラッツォ・バルバロ館などが建ち並んでいる。
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そのすぐ先の「サルーテ聖堂」と「プンタ・デッラ・ドガーナ現代美術館」(上部には、アトラス像が支える黄金の球体上で旗を振る女神の姿がある。)でカナル・グランデは終わり、南のジュデッカ島からの流れの「ジュデッカ運河」になる。
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ヴァポレットは、大きく左側に舵を切り、ジュデッカ運河(サン・マルコ運河)北岸の「サン・マルコ・ジャルディネッティ停留所」に到着する。
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お土産屋が連なるジュデッカ運河沿いの通りには「王の庭園」がある。もともと穀物倉庫が建っていたが、ナポレオン支配時代に取り壊わされ公園にしたことから名付けられた。旧行政館の建物後方には「ヴェネツィアの鐘楼」が聳えている。
そのすぐ右側に、ヴェネツィア共和国の元首邸兼政庁「ドゥカーレ宮殿」が建っている。初期のヴェネツィア共和国時代の810年に元首(ドージェ)の居城として建てられ、その後、住宅、行政府、立法府、司法府、刑務所など国の中枢機関となった。その後何度か再建され、15世紀後半には、現在の姿となったと言われている。その後も改修が繰り返され、1923年からは博物館となっている。建物の内側には大きな中庭があり、その中庭北側は、サン・マルコ大聖堂の南袖廊にあたる。
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ドゥカーレ宮殿の西側は小広場になっており、その入口左右にはそれぞれの頂部に、「守護聖人テオドロス」と「聖マルコを象徴する有翼の獅子像」が飾られた二本の石柱が建っている。中世にはこの柱の間に死刑執行台を設置したため、ヴェネツィアっ子は柱の間を通り抜けないという。その小広場の奥にはサン・マルコ大聖堂の姿が見える。
ドゥカーレ宮殿の西側アーケードに沿ってサン・マルコ大聖堂方向に向かう。ドゥカーレ宮殿の一階部分は、ゴシック風の尖塔アーチがアーケードを形成しており、二階部分は欄干があるロッジアで、三葉アーチと四つ葉模様に円形装飾で飾られるなどイスラム建築の影響も受けた細やかな装飾が施されている。中央付近のやや強調された柱の上、二階ロッジアの柱上部には、正義、公正を象徴するトンド(円形の浮き彫り)が飾られている。そのロッジア左側にある赤い2本の柱は儀式の際に利用された。
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これら14世紀と15世紀の精緻なヴェネツィア彫刻群は、1876年に大規模な修復計画が開始された際に美術館などに保存され、現在はコピーに置き換えられている。とは言え、アーチを構成する円柱の柱頭彫刻は、どれもデザインが異なった上、細かく装飾されている。こちらのアカンサスの葉もかなり手が込んでいる。
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ドゥカーレ宮殿のアーケードに沿って小広場を北側に進むと、左側にヴェネツィアの鐘楼が、正面にサン・マルコ大聖堂の南側面が見えてくる。
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ドゥカーレ宮殿の北西角にある柱頭彫刻の上には、ソロモンの裁きが飾られている。そして、右側に回り込むと、後期ゴシック建築の装飾で飾られた「ポルタ・デラ・カルタ(布告門)」がある。宮殿への儀式用の入口で1438年から1443年にかけて建てられた。中央には聖マルコを象徴する獅子像(1797年に破壊され1885年に置き換えられた)の前にひざまずく元首フランチェスコ・フォスカリ(在任:1423~1457)の彫刻があり、両側にはキリスト教の四つの古典的な美徳(節制、慎重、勇気、正義)を表した彫刻群で飾られている。15世紀ヴェネツィア彫刻の傑作とされている。
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すぐ左側のサン・マルコ大聖堂の外壁角には、赤斑岩で作られた四体の像が飾られている。こちらは、帝政ローマ後期の皇帝ディオクレティアヌス(在位:284~305)が西暦293年に始めたテトラルキア(ローマ末期の東西正副皇帝の共同統治)制度を象徴する像である。もともとコンスタンティノープル総主教庁の装飾の一部であったが、第四次十字軍(1202~1204)により戦利品(略奪品)としてヴェネツィアに移された。二人ずつ抱き合う像は別々に制作されたもので、一部白い個所(像の白い足と台座)のオリジナルは今もイスタンブールに保存されている。
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サン・マルコ大聖堂の南壁沿い(テトラルキア像のすぐ左側)にある黒い大理石の角柱(両脇にある)はコンスタンティノープルのアギオス・ポリエウクトス聖堂(現存しない)からの戦利品「ピラストリ・アクリタニ」(柱材)である。次に、街のシンボル「ヴェネツィアの鐘楼」の右側を通って「サン・マルコ広場」に向かう。
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ヴェネツィアの鐘楼は、ヴェネツィア本島では、最も高い建造物で98.6メートルの高さがある。上部のアーチ型の鐘室には5つの鐘があり、その上のレンガ造りの壁には獅子と女性の浮彫と頂上には大天使ガブリエルの像が飾られている。
「サン・マルコ広場」から、サン・マルコ大聖堂全体を眺めてみる。長さ76.5メートル、幅62.60メートルで、中央のドームの高さは43メートルある。西側ファサードは、多色の大理石の柱で囲まれ、二層五連のアーチ構造で中央アーチ下のブロンズ製のドアが入口になる。
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ところで、最初の大聖堂は、ヴェネツィア商人によりアレクサンドリアから運ばれた聖マルコの遺体を収容するために828年にドゥカーレ宮殿の場所に建てられたが、現在の大聖堂の基礎となったのは、元首ドメニコ・コンタリーニ(在任:1043~1071)在任時に建設が始まったもので、1090年頃完成したもの。そして、元首エンリコ・ダンドロ(在任:1192~1205)在任の1204年には、コンスタンティノープルを陥落した第四次十字軍が運んできた大量の戦利品で豪華に飾り付けられ、その後も改築、拡張が行われている。
向かって右側の二つのアーチは奥行きのある筒型ヴォールトで、左右両側を二層の列柱群が取り囲み支えている。扉口上部のティンパヌムには、右端が「アレクサンドリアから運ばれる聖マルコの遺体」で、手前のティンパヌムが「聖マルコ遺体のヴェネツイア到着」と聖マルコの物語がモザイク画で表現されている。
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中央のアーチは、扉口の左右3本の側柱が支えるアーキヴォールトと、外側に3本の側柱が支えるアーキヴォールトが二層に組み合わさった豪華なアーチ門で、ティンパヌムには鮮やかなモザイク「栄光のキリストと最後の審判」(19世紀)が施されている。アーチの上のテラスには、コンスタンチノープルの競技場からの戦利品で、ヘレニズム時代の四頭の青銅像が飾られている(オリジナルは聖堂内部に展示)。
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そして、次の4番目のティンパヌム「元首、市民による聖マルコ遺体の歓迎」までの3か所の聖マルコの物語は17~18世紀制作のモザイク画だが、最後の5番目のやや湾曲したティンパヌムに施された「大聖堂へ運ばれる聖マルコのお棺」のモザイク画は、13世紀に作られたオリジナルである。画面には、金を背景にしたサン・マルコ大聖堂の前に、豪華に着飾った多くの人々が集まり、聖マルコの納棺の儀式を執り行おうとする様子が表現されている。
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その13世紀のモザイク画のあるティンパヌムは、左右の円柱や精緻な浮彫が施された尖塔アーチが支えている。その尖塔アーチ内の小ティンパヌムにも、マタイ、ヨハネ、ルカ及びマルコの福音記者の彫像や5つの異なる浮彫窓が施されている。
それでは、聖堂内の見学に向かうことにする。聖堂内は扉口を入ると、最初に南北に沿って前玄関(ナルテックス)があり、天井に美しいモザイク画が施されている。こちらのモザイク画が、サン・マルコ大聖堂最大の見所の一つとされているが、後で見学することとして、まずは身廊内から階段を上ってナルテックスの2階の中央フロアに向かう。
階段から見える一番手前のドームには「聖霊降臨(ペンテコステ)」が表現されている。キリストがドーム中央で鳩の姿(精霊)となり、その精霊の光を放射してキリスト教の教えが十七使徒へと受け継がれていく象徴的なモザイク画である。サン・マルコ大聖堂のモザイク画はムラーノ島で製造された上質なテッセラ(小さな角片)を使用し、11世紀末から19世紀にかけて制作されたもので、こちらの聖霊降臨は初期の12世紀頃の制作とされる貴重な作品である。
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円形ドーム下部のペンデンティブ(穹隅)には、美しい天使のモザイク画が施されている。天使はこちらに視線を向け、手を胸におき、やや前かがみの姿勢で歓迎している様にみえる。
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ナルテックスの2階中央フロアには、ファサード側に大きな半円形の明り取りの窓がある。そして、天井はモザイク画で覆われた分厚いトンネルヴォールトで「最後の審判」や「ヨハネの黙示録」(19世紀制作)(こちらは大天使ミカエルと竜の戦い)などのモザイク画が施されている。
聖堂は、ビザンティン建築のクロス・ドーム形式を基本とし、十字の各5か所に独立したドームを乗せている。中央フロアからは金のモザイク画で覆われた身廊全体が見渡せるが、この辺りは19世紀に制作されたものが多い。一番奥の後陣アプスには、宇宙の支配者「偉大な全能者ハリストス」が見える。あちらは16世紀に制作されたもの。
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その「偉大な全能者ハリストス」の手前ドームのペンデンティブには、聖マルコを象徴する「有翼の獅子像」のモザイク画がある。遠くてわかりにくいが、獅子像は、目を見開き、左右に翼を広げ左手に草花を持ち、右腕を前に差し出す上半身が表現されている。
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ファサード側の大きな半円形の明り取りの窓から、四頭の青銅像が飾られたテラスに出られ、サン・マルコ広場を眺めることができる。右側(北側)には、「サン・マルコ広場の時計塔」が見える。中央には、十二宮の浮彫で飾られた天文時計があり、屋上には、ムーア人のブロンズ像が正午に鐘を鳴らしていることから「ムーア人の時計塔」とも呼ばれている。時計塔は、1499年元首アゴスティーノ・バルバリーゴ(在任:1486~1501)の時代に建てられた。その後19世紀には、ヴェネツィアの標準時となり、現在も、修理が繰り返され、時を刻み続けている。
そして正面がサン・マルコ広場で、多くの観光客が集まっている。広場は、南北82メートル×東西157メートルの広さがあり、周りを取り囲む長いアーケードが続く建物は、16世紀初頭に建てられた旧行政館で、国の高官である財務官の住居や事務所として使用された。現在は、1階にショップやレストランが並び、2階にはオフィスがある(こちらは広場から見た様子)。正面西側から南側は、現在はコッレール博物館となっている。
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左側(南)がジュデッカ運河の方向になる。広場には左が有翼の獅子像、右が守護聖人テオドロス像と二体の石柱が飾られている。ジュデッカ運河の対岸には、右側に「ジュデッカ島」が、左隣に「サンジョルジョ・マッジョーレ島」やサン・ジョルジョ・マッジョーレ聖堂のファサードが望める。
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テラスの南西側からサン・マルコ大聖堂のファサード中央部を見上げると、尖塔の先に聖マルコの彫像が飾られているのが見える。
再び大聖堂内に戻り、左(北側)に向かうとサン・マルコ博物館になり、最初にオリジナルの四頭の青銅像が展示されている。その先には、19世紀の改築の際に発掘された古いモザイク画が間近で鑑賞できる。
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モザイク画のテッセラ(小さな角片)は、小指の先ほどに小さい。漆喰の上にテッセラを水平にせず、やや斜めに埋め込まれている。このことにより光が四方に反射する効果を生むそうである。
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博物館の通路からは、聖堂北側の上部のモザイク壁画を鑑賞することができる。北袖廊の上部には、聖母マリアの生涯がモザイク画で描かれている。12世紀制作のもので、手前には受胎告知の場面があり、左上壁に妊娠中の叔母エリザベトを訪問するマリアと、ナザレに戻ったマリアの懐妊を知るヨセフが表現され、隣の壁には、夢の中で天使に説得されるヨセフ、住民登録のためにベツレヘムへ向かうマリアとヨセフと続いている。ちなみに後半は南袖廊になり、そちらのモザイクは16世紀に制作されたもの。
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北翼廊には、キリストが行った様々な奇跡の場面が表現されている。こちらは16世紀と17世紀に制作されたもの。
すぐそばの天井ヴォールトに施されたキリストの奇跡の場面は、タッチが古い。こちらも12世紀から13世紀頃のものか、美しいモザイク画である。
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次に主祭壇に向かった。こちらの主祭壇の裏側にあるのが、黄金の装飾衝立「バラ・ドーロ」で、サン・マルコ大聖堂の見所の一つである。
バラ・ドーロは、縦2.1メートル×幅3.5メートルの大きさで、中央に「偉大な全能者ハリストス」、左右にヴェネツィア共和国元首の肖像、下部に聖マルコの物語が、エマーユ(エナメル七宝)で描かれ、黄金をベースに、真珠、エメラルド、サファイア、ルビーなどをちりばめ制作されている。古典金細工においては最大の大きさで、上部パネルを折りたためたが、現在は回転のみが可能で祭壇の正面側に向けることができる。
元首ピエトロ・オルセオロ1世(在位:976~978)が、コンスタンチノープルの名工に発注し、4人の元首によって長年、手が加えられ、現在の姿になったのは1345年と言われている。ちなみに、大天使ミカエルが描かれた最上部は第四次十字軍の戦利品と言われている。
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最後に、ナルテックス(前玄関)のモザイク画を鑑賞する。ところで、当初のモザイクのほとんどが1106年の火災で失われたことから、その後に制作された中で、現在最も貴重なモザイクの一つとされるのが、13世紀初頭に追加されたナルテックスの天井画である。6世紀の図像を参考とし、適度に抽象化されつつも巧みな説話表現をしているなど大変評価が高い。そのナルテックスの南側天井には、天地創造を主題としたモザイク画が施されている(ファサード側の二層五連アーチの南から二番目のアーチの内側に位置している)。
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物語は、小円蓋を同心円状に内側から外側にかけて、左回りに三区分の計26の場面が、ラテン語とともにモザイク画で表現されている。聖書にある「神は6日間働いて天地万物を創造し、7日目に安息をされた」とある日数は天使の人数と出来事で表現されており、5日目の魚と鳥や、6日目の動物などが、ペアで表現されているのも微笑ましい。外側には、眠っているアダムの肋骨を取ってイブを作り、禁断の木の実を食べるアダムとイブの「原罪」の場面などが表現されている。
その横にはノアの洪水の場面が描かれている。こちらは、ノアが造った方舟に、様々な動物を一組ずつ乗せる場面。
そして、洪水により溺れる人々、方舟から飛ばした鳩がオリーブの枝を持って帰ってきた場面などが表現されている。
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こちらには、「バベルの塔」の建築の様子が表現されている。左側には、塔を建設する人々の様子で、右側は、神が降臨して、言葉を乱したため、人々が全地に散らばる様子が表現されている。
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旧約聖書の創世記、大洪水、ノアの箱舟、バベルの塔の話と続いた後の隣の小円蓋には、「アブラハムの物語」が4つの場面から表現されている(ファサード側の二層五連アーチの南から四番目のアーチの内側に位置している。)。ラテン語の記述の合間に見える四つの星空は、神を示し、現れる手によって表現されている。
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北西角の小円蓋から東側に向けて計4つの小円蓋が続き、最初の3つには「夢占い師ヤコブの物語」が、最後に「モーゼの物語」へと続くが、混雑した上に暗くて諦めた。。当然ながら、サン・マルコ大聖堂は、ヴェネツィアの中でも特に人気の高い観光地スポットであるため、やたら混雑している。モザイク画をじっくり鑑賞するなら数日間は要する。。そんな印象だった。。ちなみに左側の出口はティンパヌムに「大聖堂へ運ばれる聖マルコの棺」のモザイクがある5番目のアーチにあたる。
サン・マルコ大聖堂を出て、次に「サン・ザッカリア停留所」からヴァポレット赤82番に乗り(1つ目)ジュデッカ運河(サン・マルコ運河)南側にある「サンジョルジョ・マッジョーレ島」のサン・ジョルジョ・マッジョーレ聖堂に向かう。
この島は、ジュデッカ島の東側に隣接しており、直径1キロメートルにも満たない小さな島だが、サン・マルコ広場から近いことから、島からはサン・マルコ運河を隔ててドゥカーレ宮殿や鐘楼を眺めることができる。サン・ジョルジョ・マッジョーレ聖堂は、ベネディクト会の教会で現在の建物はパドヴァ生まれの建築家アンドレーア・パッラーディオにより設計され1566年から1610年にかけて建設された。
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ちなみにアンドレーア・パッラーディオは、ジュデッカ島にある「レデントーレ教会」も設計している。レデントーレ教会は、1576年にペストが終息したことへの記念及び神への感謝を込めて建てられた。
サン・ジョルジョ・マッジョーレ聖堂内は無料で拝観することができる。古典的様式で16世紀に建てられた聖堂内部は、白で統一され明るい雰囲気である。こちらにはティントレット晩年期の傑作で、聖堂内陣のために描かれた「最後の晩餐」(画像出典:ウィキメディア・コモンズ(Wikimedia Commons)があることで有名。他にも、セバスティアーノ・リッチの「玉座の聖母子と聖人たち(1708年)」や、ヤコポ・ダ・パッサーノ(1510~1592)の「キリスト降誕」などがある。神々しく光り輝くキリストは、見つめる聖母や周りを明るく照らしている。
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奥には鐘楼塔に上るエレベーターがある(3ユーロ)。その鐘楼塔の鐘室が展望台となっており、四方に胸までの高さの壁と、それぞれ二本の円柱で囲まれている。柱の間には転落防止用としてワイヤーロープが這わされている。
最初に、先ほどまでいたドゥカーレ宮殿とサン・マルコ大聖堂付近をズームアップして眺める。ドゥカーレ宮殿は、これだけ離れた場所からも、細やかなイスラム装飾や連続するゴシック・アーチの外観が大変美しく見える。奥にはサン・マルコ大聖堂のドーム屋根も見える。
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カメラを引いてみると、サン・マルコ広場のあるヴェネツィア本島の街並みと重なる様に、海の向こうの本土の街並みや、遠くの「モンテ・グラッパ」などの山並みも見える。左側に視線を移していくとカナル・グランデの出入口や、プンタ・デッラ・ドガーナ美術館とサルーテ聖堂が見える。
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プンタ・デッラ・ドガーナ美術館の南側からは、ジュデッカ運河が流れ込み、対岸にはヴェネツィア本島に添うように浮かぶジュデッカ島が見える。ジュデッカ島には、ユダヤ人居住区があったことから、13世紀頃ユダヤ人居住区に因んで名付けられた。ヴェネツィアのユダヤ人は比較的裕福で栄えたことから、ヴェネツィアの財政に大きく貢献したという。
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今度は、東側を眺めてみる。再びサン・マルコ広場のドゥカーレ宮殿から「パリャ橋」を渡ったプラッツォ・デレ・プリジオーニ(宮殿の監獄)の先隣りの赤い建物は5つ星の高級ホテル「ホテル・ダニエリ」である。かつてヴェネツィア共和国が繁栄した14世紀に貴族ダンドロ家の屋敷として建設された建物で、19世紀に改装され現在のホテルとなった。
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右側に視線を移していくと、海岸沿いにはイタリア王国の初代国王を称えるブロンズの記念碑があり、その先の「ピエタ橋」を渡り、サンタマリアデッラピエタ教会のファサードの後方のドームが「サン・ザッカリア教会」で、次の「セポルクロ橋」の手前が、昨夜の夕食場所「ホテル・メトロポール」である。右側のひと際高い鐘楼(約70メートル)は、ヤコポ・サンソヴィーノによって1554 年にヴェネツィア・ルネサンス様式で建てられた「サン・フランチェスコ・デッラ・ヴィーニャ教会」である。
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更に右に視線を移すと、奥に内海のある「アルセナーレ」(造船所施設)がある。もともと、1104年にヴェネツィア共和国により設置された国立造船所で、オスマン帝国との戦争状態に入った15世紀頃は、2万人もの労働者が勤務して1日1隻のガレー船を建造していたとされる。現在は、海洋史博物館や海洋軍事研究所などがある。
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右側は、本島の東端にある緑の森「ジャルディーニ」(カステッロ公園)で、ピンクのビエンナーレ看板が見える。こちらでは、1895年から二年に一度、奇数年の6月から11月頃まで「ヴェネツィア・ビエンナーレ」(現代美術の国際美術展覧会)が開催されている。反対側には、ラ・チェルトーザ島や潟が隣接している。
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ジュデッカ運河は、本島の最東端から左側に回り込む様に流れている。そして、遠方に広がるのはヴェネツィアの潟に浮かぶ「リド島」。長さは約12キロメートルの細長い島で、正面に見えるドームの右側に本島とのフェリーの乗船口がある。1971年公開のルキノ・ヴィスコンティ監督による映画「ベニスに死す」の舞台でもあり、毎年9月にヴェネツィア国際映画祭が開催されている。右側の小さな島の建物は、「サン・セルヴォロ島」の旧精神病院(マニコミオ)で、現在、博物館になっており、隣接してヴェネチア国際大学が設置されている。
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次に「アカデミア美術館」に向かう。ヴァポレット赤82番に乗り、ドルソドゥーロ区のジュデッカ運河沿いにあるサンタ・マリア・デル・ ロザリオ教会(ジェズアーティ教会)そばの「ザッテレ停留所」で下船する。すぐそばの お店でジェラートを買って食べながら支流の「サン・トロヴァソ運河」沿いを北に歩くと、17世紀から続く「ボートヤード」がある。こちらはゴンドラの製造と修理のための造船所で、現在も手作業で製造されている。
そのすぐ北隣には「サン・トロヴァーソ教会」が建っている。ヴェネツィアの設立初期に建てられた歴史ある教区教会で、現在の建物は1591年に(1657年に奉献)再建されたもの。二重ファサードで、運河側と反対の西側にもある。
そして、北東方面に100メートルほど行くと「アカデミア美術館」に到着する。美術館のすぐ北側が「カナル・グランデ(大運河)」で木製の「アカデミア橋」が架かっている。こちらは、橋から西側を眺めた様子で、カナル・グランデが北側から大きく東側にカーブする所になる。橋の下のスチール屋根はヴァポレットのアカデミア停留所である。
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振り返った東側は「カナル・グランデ」の出入口になり、ドルソドゥーロ区のプンタ・デッラ・ドガーナ美術館手前に建つサルーテ聖堂が望める。この時間、午後4時を過ぎ、西日がドームを照らし始めた。
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それでは「アカデミア美術館」に向かう。美術館は、18世紀に創設された「ヴェネツィア美術アカデミー」を経て、1817年から現在の美術館に至っている。その館内には、ヴェネツィア派のジョヴァンニ・ベリーニを始め、盛期ルネサンスのティツィアーノ、ジョルジョーネ、ティントレット、パオロ・ヴェロネーゼなど巨匠の代表作を含め14世紀から18世紀までのヴェネツィア派絵画が中心に展示されている。
こちらは、ジョヴァンニ・ベリーニ(1430~1516)の「聖会話」(1490頃)で、聖母子を中心に左右にマグダラのマリア、聖カタリナが描かれている。暗い背景に浮かぶ登場人物の姿には神秘性が漂っており、ダ・ヴィンチから受け継いだスフマート(ぼかし技法)が大きな効果を上げている。
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他にも、ジョヴァンニ・ベリーニの作品では、「聖母子像」(1485~1490)や「聖母子(双樹の聖母)」(1487頃)などが展示されている。双樹の聖母では、聖母が座る王座の背もたれの左右に描かれた、上部に向かって生い茂る細い木が、どことなく不安感を漂わせており、将来を暗示している様である。
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そして、同じく、ジョヴァンニ・ベリーニの作品では、悲しむ聖母マリアがキリストを抱きかかえる「マルティネンゴ・ピエタ」(1505)が展示されている。傑作「サン・ザッカリア祭壇画」(玉座の聖母と諸聖人)とほぼ同時期に描かれたもので、聖母マリアの紫青の二色マントやキリストの腰巻と繋がってみえる白のスカーフなど色使いが印象的な作品。閉ざされた園を示唆する様に二人を緑が鮮やかな芝生が取り囲み、背景には、ヴェネツィアの建築物を配置している。作品名は、マルティネンゴ家の所有だったことに因んで名付けられた。
ジョヴァンニ・ベリーニの義兄弟にあたるパドヴァ派の画家アンドレア・マンテーニャ(1431~1506)の「聖ジョルジョ」(ゲオルギオス)(1460)が展示されている。ジョルジョは馬に乗って戦う姿と異なり、既に竜を倒し、折れた矢を片手に立っている。竜は足元に倒れ、口の中に折れた矢が刺さっている。ジョルジョと竜は大理石の枠から一部はみ出るなど、マンテーニャお得意のイリュージョニズム(だまし絵)技法で描かれている。
初期ヴェネツィア派を代表する画家ヴィットーレ・カルパッチョ(1465頃~1525)の9枚の絵画よる連作「聖ウルスラ物語」(1490頃)が展示室一杯に飾られていた。こちらは大使の到着(部分)、聖人の夢、巡礼者と教皇との会談や、ケルンへの巡礼者の到着である。聖ウルスラ(?~383頃)とは、ブリタニアの地方のキリスト教徒王の娘で、1万1000人の乙女を引き連れてローマに巡礼した帰路、ケルンでフン族の襲撃により殉教したとされている。
こちらは、ティツィアーノ(1490頃~1576)の最後の作品「ピエタ」(1576)で、サンタ・マリア・グロリオーザ・デイ・フラーリ聖堂をティツィアーノ自身の墓所と決め、埋葬の返礼として制作を始めたものだが、途中で亡くなったことから弟子のパルマ・ジョヴァーネが完成させたもの。右側でひざまずく聖ヒエロニムスはティツィアーノの自画像と言われている。
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そして、ルネサンス期の巨匠ジョルジョーネの傑作「テンペスタ(嵐)」(1506~1508頃)が展示されている。乳児に母乳を与える女性が描かれているが、女性は、乳児を膝に乗せす地面に座らせて半裸身があらわにしている。小川の対岸には、長い槍を持つジプシー風の男性がどこか遠くを眺める様に立ち、遠くには暗雲が立ち込めている。この絵画は、エデンの園、エジプトへの逃避、パストラルなど様々な解釈があるが、解明されていない。
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同じくジョルジョーネの作品とされる「老女(ラ・ヴェッキア)」(1506頃)。壁の向こうから、年配の女性が「時の経過とともに」と書かれた巻紙を持ち、激しい苦しみ表情と仕草で鑑賞者に訴えかけようとしている。老いによる人生の儚さを象徴する寓意的な作品。
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そして、ティントレット(1518~1594)の「聖マルコの奇跡」(1548)。敬虔なキリスト教徒である奴隷が、主人の許可を得ないまま、聖マルコの遺蹟の巡礼をしたことから、死刑を宣告されて殺されようとするところに、天から聖マルコが現れ、奴隷を救ったという場面である。
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同じく、ティントレットの「ヴェネツィアに運ばれた聖マルコの遺体」(1562~1566)。近くの被写体は濃く描かれ、背景に行くほどの白く描かれてる印象的な遠近法が有名な作品。 赤と黒の不吉な雲が重い雰囲気を醸し出している。ラクダの横にあるひげを生やした男はティントレット自身と言われている。
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ティントレットの作品は、他にも多数展示されており、こちらの「アダムとイヴ」(1550頃)では、対角線的に二人を配置した高度な遠近法が用いられている。
パオロ・ヴェロネーゼ(1528~1588)の代表作「レヴィ家の饗宴」(1573)が展示室一面に飾られている。16世紀の絵画作品で最も大きな絵画の一つで、555センチメートル×1310センチメートルある。「最後の晩餐」として、ドミニコ会の修道院であるサンティ・ジョヴァンニ・エ・パオロ聖堂の後壁を飾るために描かれたが、画面には、馬鹿親父、酔ったドイツ人、小人、下品で下劣な表現などが見られることから、ローマカトリックの異端審問による調査が行われ、結果的にキリストが宴会に招待されたエピソードを題材として「レヴィ家の饗宴」とタイトルが変更になったという曰く付きの作品。
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ちなみに、こちらが、中央付近の拡大画面である。キリストの左右にペテロとヨハネが座り、ユダは赤い衣姿でこちら側に振り向いている。
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同じく、パオロ・ヴェロネーゼの「アレッサンドリアの聖カテリーナの神秘の結婚」(1575頃)。聖女カテリーナが幼児キリストから結婚指輪を受け取るという幻想の場面。
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こちらは、イタリアルネサンス期の画家ピエロ・デラ・フランチェスカ(1412~1492)の「ヒエロニムスと寄付者」(1451)。作品には聖ヒエロニムスと、隣に傅ずき礼拝する寄進者の姿が描かれている。読書を邪魔されて不機嫌な様子にも見える聖ヒエロニムスの表情が印象的な作品で、背景は、ピエロ・デラ・フランチェスカの故郷トスカーナ州のアレッツォ近郊の山間の町サン・セポルクロの街並みと言われている。
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2時間ほど鑑賞した後の午後8時過ぎ、サンタ・ルチーア駅方面に向け、ヴァポレット1番に乗船し、リアルト橋を過ぎたカンナレージョ区側の「カ・ドーロ停留所」で下船する。海岸沿いからは狭い路地を抜け東西に延びる広い商店街を東に130メートルほど行った左側の小さな3階建ての建物一階に今夜のレストラン「トラットリア・ダ・ジャンニ(Trattoria Da Gianni)」がある。店内は、煉瓦壁に天井梁やテーブルなどブラウン系の木材で統一された内装にクリスマスの飾り付けがなされ温かい雰囲気である。
最初に魚介の前菜(14ユーロ)を注文し、魚介のパスタ(12ユーロ)と、
焼き海老(ポレンタ付き)(17ユーロ)など甲殻系と貝系の料理を重点に注文したが、少し肉が食べたくなり、エスカロップとワインソース(ポレンタ付き)(12ユーロ)を併せて注文した。最後にドルチェとカフェで終えた。飲み物としてワイン(一杯5ユーロほど)、水等を頼み、総額102ユーロであった。
時刻は午後10時を過ぎたところ。お店を出ると商店街の人通りは少なくなり、昨夜同様に薄暗く寂しい雰囲気になっていた。
翌朝は、ヴェネツィア・テッセラ空港から、パリ・シャルルドゴール空港を経由して帰国することとしている。心配だった高潮(アックア・アルタ)の影響もなく、連日、天候にも恵まれる最高のヴェネツィア観光となった。
(2011.12.27)
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西側に延びるカナル・グランデは、カ・フォスカリ(ヴェネツィア大学)付近で大きく左(南方向)に曲がり、更に「アカデミア橋」(カナル・グランデに架かる4つの橋のうち、唯一の木製橋)をくぐった先で東に向きを変える。左側ドルソドゥーロ区側には、コンタリーニ・ポリニャック宮が、右側サン・マルコ区側には、旗がたなびくパラッツォ・カヴァッリ・フランケッティ館、白い六層のパラッツォ・バルバロ館などが建ち並んでいる。
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そのすぐ先の「サルーテ聖堂」と「プンタ・デッラ・ドガーナ現代美術館」(上部には、アトラス像が支える黄金の球体上で旗を振る女神の姿がある。)でカナル・グランデは終わり、南のジュデッカ島からの流れの「ジュデッカ運河」になる。
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ヴァポレットは、大きく左側に舵を切り、ジュデッカ運河(サン・マルコ運河)北岸の「サン・マルコ・ジャルディネッティ停留所」に到着する。
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お土産屋が連なるジュデッカ運河沿いの通りには「王の庭園」がある。もともと穀物倉庫が建っていたが、ナポレオン支配時代に取り壊わされ公園にしたことから名付けられた。旧行政館の建物後方には「ヴェネツィアの鐘楼」が聳えている。
そのすぐ右側に、ヴェネツィア共和国の元首邸兼政庁「ドゥカーレ宮殿」が建っている。初期のヴェネツィア共和国時代の810年に元首(ドージェ)の居城として建てられ、その後、住宅、行政府、立法府、司法府、刑務所など国の中枢機関となった。その後何度か再建され、15世紀後半には、現在の姿となったと言われている。その後も改修が繰り返され、1923年からは博物館となっている。建物の内側には大きな中庭があり、その中庭北側は、サン・マルコ大聖堂の南袖廊にあたる。
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ドゥカーレ宮殿の西側は小広場になっており、その入口左右にはそれぞれの頂部に、「守護聖人テオドロス」と「聖マルコを象徴する有翼の獅子像」が飾られた二本の石柱が建っている。中世にはこの柱の間に死刑執行台を設置したため、ヴェネツィアっ子は柱の間を通り抜けないという。その小広場の奥にはサン・マルコ大聖堂の姿が見える。
ドゥカーレ宮殿の西側アーケードに沿ってサン・マルコ大聖堂方向に向かう。ドゥカーレ宮殿の一階部分は、ゴシック風の尖塔アーチがアーケードを形成しており、二階部分は欄干があるロッジアで、三葉アーチと四つ葉模様に円形装飾で飾られるなどイスラム建築の影響も受けた細やかな装飾が施されている。中央付近のやや強調された柱の上、二階ロッジアの柱上部には、正義、公正を象徴するトンド(円形の浮き彫り)が飾られている。そのロッジア左側にある赤い2本の柱は儀式の際に利用された。
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これら14世紀と15世紀の精緻なヴェネツィア彫刻群は、1876年に大規模な修復計画が開始された際に美術館などに保存され、現在はコピーに置き換えられている。とは言え、アーチを構成する円柱の柱頭彫刻は、どれもデザインが異なった上、細かく装飾されている。こちらのアカンサスの葉もかなり手が込んでいる。
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ドゥカーレ宮殿のアーケードに沿って小広場を北側に進むと、左側にヴェネツィアの鐘楼が、正面にサン・マルコ大聖堂の南側面が見えてくる。
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ドゥカーレ宮殿の北西角にある柱頭彫刻の上には、ソロモンの裁きが飾られている。そして、右側に回り込むと、後期ゴシック建築の装飾で飾られた「ポルタ・デラ・カルタ(布告門)」がある。宮殿への儀式用の入口で1438年から1443年にかけて建てられた。中央には聖マルコを象徴する獅子像(1797年に破壊され1885年に置き換えられた)の前にひざまずく元首フランチェスコ・フォスカリ(在任:1423~1457)の彫刻があり、両側にはキリスト教の四つの古典的な美徳(節制、慎重、勇気、正義)を表した彫刻群で飾られている。15世紀ヴェネツィア彫刻の傑作とされている。
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すぐ左側のサン・マルコ大聖堂の外壁角には、赤斑岩で作られた四体の像が飾られている。こちらは、帝政ローマ後期の皇帝ディオクレティアヌス(在位:284~305)が西暦293年に始めたテトラルキア(ローマ末期の東西正副皇帝の共同統治)制度を象徴する像である。もともとコンスタンティノープル総主教庁の装飾の一部であったが、第四次十字軍(1202~1204)により戦利品(略奪品)としてヴェネツィアに移された。二人ずつ抱き合う像は別々に制作されたもので、一部白い個所(像の白い足と台座)のオリジナルは今もイスタンブールに保存されている。
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サン・マルコ大聖堂の南壁沿い(テトラルキア像のすぐ左側)にある黒い大理石の角柱(両脇にある)はコンスタンティノープルのアギオス・ポリエウクトス聖堂(現存しない)からの戦利品「ピラストリ・アクリタニ」(柱材)である。次に、街のシンボル「ヴェネツィアの鐘楼」の右側を通って「サン・マルコ広場」に向かう。
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ヴェネツィアの鐘楼は、ヴェネツィア本島では、最も高い建造物で98.6メートルの高さがある。上部のアーチ型の鐘室には5つの鐘があり、その上のレンガ造りの壁には獅子と女性の浮彫と頂上には大天使ガブリエルの像が飾られている。
「サン・マルコ広場」から、サン・マルコ大聖堂全体を眺めてみる。長さ76.5メートル、幅62.60メートルで、中央のドームの高さは43メートルある。西側ファサードは、多色の大理石の柱で囲まれ、二層五連のアーチ構造で中央アーチ下のブロンズ製のドアが入口になる。
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ところで、最初の大聖堂は、ヴェネツィア商人によりアレクサンドリアから運ばれた聖マルコの遺体を収容するために828年にドゥカーレ宮殿の場所に建てられたが、現在の大聖堂の基礎となったのは、元首ドメニコ・コンタリーニ(在任:1043~1071)在任時に建設が始まったもので、1090年頃完成したもの。そして、元首エンリコ・ダンドロ(在任:1192~1205)在任の1204年には、コンスタンティノープルを陥落した第四次十字軍が運んできた大量の戦利品で豪華に飾り付けられ、その後も改築、拡張が行われている。
向かって右側の二つのアーチは奥行きのある筒型ヴォールトで、左右両側を二層の列柱群が取り囲み支えている。扉口上部のティンパヌムには、右端が「アレクサンドリアから運ばれる聖マルコの遺体」で、手前のティンパヌムが「聖マルコ遺体のヴェネツイア到着」と聖マルコの物語がモザイク画で表現されている。
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中央のアーチは、扉口の左右3本の側柱が支えるアーキヴォールトと、外側に3本の側柱が支えるアーキヴォールトが二層に組み合わさった豪華なアーチ門で、ティンパヌムには鮮やかなモザイク「栄光のキリストと最後の審判」(19世紀)が施されている。アーチの上のテラスには、コンスタンチノープルの競技場からの戦利品で、ヘレニズム時代の四頭の青銅像が飾られている(オリジナルは聖堂内部に展示)。
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そして、次の4番目のティンパヌム「元首、市民による聖マルコ遺体の歓迎」までの3か所の聖マルコの物語は17~18世紀制作のモザイク画だが、最後の5番目のやや湾曲したティンパヌムに施された「大聖堂へ運ばれる聖マルコのお棺」のモザイク画は、13世紀に作られたオリジナルである。画面には、金を背景にしたサン・マルコ大聖堂の前に、豪華に着飾った多くの人々が集まり、聖マルコの納棺の儀式を執り行おうとする様子が表現されている。
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その13世紀のモザイク画のあるティンパヌムは、左右の円柱や精緻な浮彫が施された尖塔アーチが支えている。その尖塔アーチ内の小ティンパヌムにも、マタイ、ヨハネ、ルカ及びマルコの福音記者の彫像や5つの異なる浮彫窓が施されている。
それでは、聖堂内の見学に向かうことにする。聖堂内は扉口を入ると、最初に南北に沿って前玄関(ナルテックス)があり、天井に美しいモザイク画が施されている。こちらのモザイク画が、サン・マルコ大聖堂最大の見所の一つとされているが、後で見学することとして、まずは身廊内から階段を上ってナルテックスの2階の中央フロアに向かう。
階段から見える一番手前のドームには「聖霊降臨(ペンテコステ)」が表現されている。キリストがドーム中央で鳩の姿(精霊)となり、その精霊の光を放射してキリスト教の教えが十七使徒へと受け継がれていく象徴的なモザイク画である。サン・マルコ大聖堂のモザイク画はムラーノ島で製造された上質なテッセラ(小さな角片)を使用し、11世紀末から19世紀にかけて制作されたもので、こちらの聖霊降臨は初期の12世紀頃の制作とされる貴重な作品である。
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円形ドーム下部のペンデンティブ(穹隅)には、美しい天使のモザイク画が施されている。天使はこちらに視線を向け、手を胸におき、やや前かがみの姿勢で歓迎している様にみえる。
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ナルテックスの2階中央フロアには、ファサード側に大きな半円形の明り取りの窓がある。そして、天井はモザイク画で覆われた分厚いトンネルヴォールトで「最後の審判」や「ヨハネの黙示録」(19世紀制作)(こちらは大天使ミカエルと竜の戦い)などのモザイク画が施されている。
聖堂は、ビザンティン建築のクロス・ドーム形式を基本とし、十字の各5か所に独立したドームを乗せている。中央フロアからは金のモザイク画で覆われた身廊全体が見渡せるが、この辺りは19世紀に制作されたものが多い。一番奥の後陣アプスには、宇宙の支配者「偉大な全能者ハリストス」が見える。あちらは16世紀に制作されたもの。
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その「偉大な全能者ハリストス」の手前ドームのペンデンティブには、聖マルコを象徴する「有翼の獅子像」のモザイク画がある。遠くてわかりにくいが、獅子像は、目を見開き、左右に翼を広げ左手に草花を持ち、右腕を前に差し出す上半身が表現されている。
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ファサード側の大きな半円形の明り取りの窓から、四頭の青銅像が飾られたテラスに出られ、サン・マルコ広場を眺めることができる。右側(北側)には、「サン・マルコ広場の時計塔」が見える。中央には、十二宮の浮彫で飾られた天文時計があり、屋上には、ムーア人のブロンズ像が正午に鐘を鳴らしていることから「ムーア人の時計塔」とも呼ばれている。時計塔は、1499年元首アゴスティーノ・バルバリーゴ(在任:1486~1501)の時代に建てられた。その後19世紀には、ヴェネツィアの標準時となり、現在も、修理が繰り返され、時を刻み続けている。
そして正面がサン・マルコ広場で、多くの観光客が集まっている。広場は、南北82メートル×東西157メートルの広さがあり、周りを取り囲む長いアーケードが続く建物は、16世紀初頭に建てられた旧行政館で、国の高官である財務官の住居や事務所として使用された。現在は、1階にショップやレストランが並び、2階にはオフィスがある(こちらは広場から見た様子)。正面西側から南側は、現在はコッレール博物館となっている。
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左側(南)がジュデッカ運河の方向になる。広場には左が有翼の獅子像、右が守護聖人テオドロス像と二体の石柱が飾られている。ジュデッカ運河の対岸には、右側に「ジュデッカ島」が、左隣に「サンジョルジョ・マッジョーレ島」やサン・ジョルジョ・マッジョーレ聖堂のファサードが望める。
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テラスの南西側からサン・マルコ大聖堂のファサード中央部を見上げると、尖塔の先に聖マルコの彫像が飾られているのが見える。
再び大聖堂内に戻り、左(北側)に向かうとサン・マルコ博物館になり、最初にオリジナルの四頭の青銅像が展示されている。その先には、19世紀の改築の際に発掘された古いモザイク画が間近で鑑賞できる。
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モザイク画のテッセラ(小さな角片)は、小指の先ほどに小さい。漆喰の上にテッセラを水平にせず、やや斜めに埋め込まれている。このことにより光が四方に反射する効果を生むそうである。
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博物館の通路からは、聖堂北側の上部のモザイク壁画を鑑賞することができる。北袖廊の上部には、聖母マリアの生涯がモザイク画で描かれている。12世紀制作のもので、手前には受胎告知の場面があり、左上壁に妊娠中の叔母エリザベトを訪問するマリアと、ナザレに戻ったマリアの懐妊を知るヨセフが表現され、隣の壁には、夢の中で天使に説得されるヨセフ、住民登録のためにベツレヘムへ向かうマリアとヨセフと続いている。ちなみに後半は南袖廊になり、そちらのモザイクは16世紀に制作されたもの。
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北翼廊には、キリストが行った様々な奇跡の場面が表現されている。こちらは16世紀と17世紀に制作されたもの。
すぐそばの天井ヴォールトに施されたキリストの奇跡の場面は、タッチが古い。こちらも12世紀から13世紀頃のものか、美しいモザイク画である。
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次に主祭壇に向かった。こちらの主祭壇の裏側にあるのが、黄金の装飾衝立「バラ・ドーロ」で、サン・マルコ大聖堂の見所の一つである。
バラ・ドーロは、縦2.1メートル×幅3.5メートルの大きさで、中央に「偉大な全能者ハリストス」、左右にヴェネツィア共和国元首の肖像、下部に聖マルコの物語が、エマーユ(エナメル七宝)で描かれ、黄金をベースに、真珠、エメラルド、サファイア、ルビーなどをちりばめ制作されている。古典金細工においては最大の大きさで、上部パネルを折りたためたが、現在は回転のみが可能で祭壇の正面側に向けることができる。
元首ピエトロ・オルセオロ1世(在位:976~978)が、コンスタンチノープルの名工に発注し、4人の元首によって長年、手が加えられ、現在の姿になったのは1345年と言われている。ちなみに、大天使ミカエルが描かれた最上部は第四次十字軍の戦利品と言われている。
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最後に、ナルテックス(前玄関)のモザイク画を鑑賞する。ところで、当初のモザイクのほとんどが1106年の火災で失われたことから、その後に制作された中で、現在最も貴重なモザイクの一つとされるのが、13世紀初頭に追加されたナルテックスの天井画である。6世紀の図像を参考とし、適度に抽象化されつつも巧みな説話表現をしているなど大変評価が高い。そのナルテックスの南側天井には、天地創造を主題としたモザイク画が施されている(ファサード側の二層五連アーチの南から二番目のアーチの内側に位置している)。
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物語は、小円蓋を同心円状に内側から外側にかけて、左回りに三区分の計26の場面が、ラテン語とともにモザイク画で表現されている。聖書にある「神は6日間働いて天地万物を創造し、7日目に安息をされた」とある日数は天使の人数と出来事で表現されており、5日目の魚と鳥や、6日目の動物などが、ペアで表現されているのも微笑ましい。外側には、眠っているアダムの肋骨を取ってイブを作り、禁断の木の実を食べるアダムとイブの「原罪」の場面などが表現されている。
その横にはノアの洪水の場面が描かれている。こちらは、ノアが造った方舟に、様々な動物を一組ずつ乗せる場面。
そして、洪水により溺れる人々、方舟から飛ばした鳩がオリーブの枝を持って帰ってきた場面などが表現されている。
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こちらには、「バベルの塔」の建築の様子が表現されている。左側には、塔を建設する人々の様子で、右側は、神が降臨して、言葉を乱したため、人々が全地に散らばる様子が表現されている。
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旧約聖書の創世記、大洪水、ノアの箱舟、バベルの塔の話と続いた後の隣の小円蓋には、「アブラハムの物語」が4つの場面から表現されている(ファサード側の二層五連アーチの南から四番目のアーチの内側に位置している。)。ラテン語の記述の合間に見える四つの星空は、神を示し、現れる手によって表現されている。
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北西角の小円蓋から東側に向けて計4つの小円蓋が続き、最初の3つには「夢占い師ヤコブの物語」が、最後に「モーゼの物語」へと続くが、混雑した上に暗くて諦めた。。当然ながら、サン・マルコ大聖堂は、ヴェネツィアの中でも特に人気の高い観光地スポットであるため、やたら混雑している。モザイク画をじっくり鑑賞するなら数日間は要する。。そんな印象だった。。ちなみに左側の出口はティンパヌムに「大聖堂へ運ばれる聖マルコの棺」のモザイクがある5番目のアーチにあたる。
サン・マルコ大聖堂を出て、次に「サン・ザッカリア停留所」からヴァポレット赤82番に乗り(1つ目)ジュデッカ運河(サン・マルコ運河)南側にある「サンジョルジョ・マッジョーレ島」のサン・ジョルジョ・マッジョーレ聖堂に向かう。
この島は、ジュデッカ島の東側に隣接しており、直径1キロメートルにも満たない小さな島だが、サン・マルコ広場から近いことから、島からはサン・マルコ運河を隔ててドゥカーレ宮殿や鐘楼を眺めることができる。サン・ジョルジョ・マッジョーレ聖堂は、ベネディクト会の教会で現在の建物はパドヴァ生まれの建築家アンドレーア・パッラーディオにより設計され1566年から1610年にかけて建設された。
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ちなみにアンドレーア・パッラーディオは、ジュデッカ島にある「レデントーレ教会」も設計している。レデントーレ教会は、1576年にペストが終息したことへの記念及び神への感謝を込めて建てられた。
サン・ジョルジョ・マッジョーレ聖堂内は無料で拝観することができる。古典的様式で16世紀に建てられた聖堂内部は、白で統一され明るい雰囲気である。こちらにはティントレット晩年期の傑作で、聖堂内陣のために描かれた「最後の晩餐」(画像出典:ウィキメディア・コモンズ(Wikimedia Commons)があることで有名。他にも、セバスティアーノ・リッチの「玉座の聖母子と聖人たち(1708年)」や、ヤコポ・ダ・パッサーノ(1510~1592)の「キリスト降誕」などがある。神々しく光り輝くキリストは、見つめる聖母や周りを明るく照らしている。
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奥には鐘楼塔に上るエレベーターがある(3ユーロ)。その鐘楼塔の鐘室が展望台となっており、四方に胸までの高さの壁と、それぞれ二本の円柱で囲まれている。柱の間には転落防止用としてワイヤーロープが這わされている。
最初に、先ほどまでいたドゥカーレ宮殿とサン・マルコ大聖堂付近をズームアップして眺める。ドゥカーレ宮殿は、これだけ離れた場所からも、細やかなイスラム装飾や連続するゴシック・アーチの外観が大変美しく見える。奥にはサン・マルコ大聖堂のドーム屋根も見える。
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カメラを引いてみると、サン・マルコ広場のあるヴェネツィア本島の街並みと重なる様に、海の向こうの本土の街並みや、遠くの「モンテ・グラッパ」などの山並みも見える。左側に視線を移していくとカナル・グランデの出入口や、プンタ・デッラ・ドガーナ美術館とサルーテ聖堂が見える。
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プンタ・デッラ・ドガーナ美術館の南側からは、ジュデッカ運河が流れ込み、対岸にはヴェネツィア本島に添うように浮かぶジュデッカ島が見える。ジュデッカ島には、ユダヤ人居住区があったことから、13世紀頃ユダヤ人居住区に因んで名付けられた。ヴェネツィアのユダヤ人は比較的裕福で栄えたことから、ヴェネツィアの財政に大きく貢献したという。
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今度は、東側を眺めてみる。再びサン・マルコ広場のドゥカーレ宮殿から「パリャ橋」を渡ったプラッツォ・デレ・プリジオーニ(宮殿の監獄)の先隣りの赤い建物は5つ星の高級ホテル「ホテル・ダニエリ」である。かつてヴェネツィア共和国が繁栄した14世紀に貴族ダンドロ家の屋敷として建設された建物で、19世紀に改装され現在のホテルとなった。
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右側に視線を移していくと、海岸沿いにはイタリア王国の初代国王を称えるブロンズの記念碑があり、その先の「ピエタ橋」を渡り、サンタマリアデッラピエタ教会のファサードの後方のドームが「サン・ザッカリア教会」で、次の「セポルクロ橋」の手前が、昨夜の夕食場所「ホテル・メトロポール」である。右側のひと際高い鐘楼(約70メートル)は、ヤコポ・サンソヴィーノによって1554 年にヴェネツィア・ルネサンス様式で建てられた「サン・フランチェスコ・デッラ・ヴィーニャ教会」である。
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更に右に視線を移すと、奥に内海のある「アルセナーレ」(造船所施設)がある。もともと、1104年にヴェネツィア共和国により設置された国立造船所で、オスマン帝国との戦争状態に入った15世紀頃は、2万人もの労働者が勤務して1日1隻のガレー船を建造していたとされる。現在は、海洋史博物館や海洋軍事研究所などがある。
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右側は、本島の東端にある緑の森「ジャルディーニ」(カステッロ公園)で、ピンクのビエンナーレ看板が見える。こちらでは、1895年から二年に一度、奇数年の6月から11月頃まで「ヴェネツィア・ビエンナーレ」(現代美術の国際美術展覧会)が開催されている。反対側には、ラ・チェルトーザ島や潟が隣接している。
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ジュデッカ運河は、本島の最東端から左側に回り込む様に流れている。そして、遠方に広がるのはヴェネツィアの潟に浮かぶ「リド島」。長さは約12キロメートルの細長い島で、正面に見えるドームの右側に本島とのフェリーの乗船口がある。1971年公開のルキノ・ヴィスコンティ監督による映画「ベニスに死す」の舞台でもあり、毎年9月にヴェネツィア国際映画祭が開催されている。右側の小さな島の建物は、「サン・セルヴォロ島」の旧精神病院(マニコミオ)で、現在、博物館になっており、隣接してヴェネチア国際大学が設置されている。
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次に「アカデミア美術館」に向かう。ヴァポレット赤82番に乗り、ドルソドゥーロ区のジュデッカ運河沿いにあるサンタ・マリア・デル・ ロザリオ教会(ジェズアーティ教会)そばの「ザッテレ停留所」で下船する。すぐそばの お店でジェラートを買って食べながら支流の「サン・トロヴァソ運河」沿いを北に歩くと、17世紀から続く「ボートヤード」がある。こちらはゴンドラの製造と修理のための造船所で、現在も手作業で製造されている。
そのすぐ北隣には「サン・トロヴァーソ教会」が建っている。ヴェネツィアの設立初期に建てられた歴史ある教区教会で、現在の建物は1591年に(1657年に奉献)再建されたもの。二重ファサードで、運河側と反対の西側にもある。
そして、北東方面に100メートルほど行くと「アカデミア美術館」に到着する。美術館のすぐ北側が「カナル・グランデ(大運河)」で木製の「アカデミア橋」が架かっている。こちらは、橋から西側を眺めた様子で、カナル・グランデが北側から大きく東側にカーブする所になる。橋の下のスチール屋根はヴァポレットのアカデミア停留所である。
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振り返った東側は「カナル・グランデ」の出入口になり、ドルソドゥーロ区のプンタ・デッラ・ドガーナ美術館手前に建つサルーテ聖堂が望める。この時間、午後4時を過ぎ、西日がドームを照らし始めた。
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それでは「アカデミア美術館」に向かう。美術館は、18世紀に創設された「ヴェネツィア美術アカデミー」を経て、1817年から現在の美術館に至っている。その館内には、ヴェネツィア派のジョヴァンニ・ベリーニを始め、盛期ルネサンスのティツィアーノ、ジョルジョーネ、ティントレット、パオロ・ヴェロネーゼなど巨匠の代表作を含め14世紀から18世紀までのヴェネツィア派絵画が中心に展示されている。
こちらは、ジョヴァンニ・ベリーニ(1430~1516)の「聖会話」(1490頃)で、聖母子を中心に左右にマグダラのマリア、聖カタリナが描かれている。暗い背景に浮かぶ登場人物の姿には神秘性が漂っており、ダ・ヴィンチから受け継いだスフマート(ぼかし技法)が大きな効果を上げている。
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他にも、ジョヴァンニ・ベリーニの作品では、「聖母子像」(1485~1490)や「聖母子(双樹の聖母)」(1487頃)などが展示されている。双樹の聖母では、聖母が座る王座の背もたれの左右に描かれた、上部に向かって生い茂る細い木が、どことなく不安感を漂わせており、将来を暗示している様である。
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そして、同じく、ジョヴァンニ・ベリーニの作品では、悲しむ聖母マリアがキリストを抱きかかえる「マルティネンゴ・ピエタ」(1505)が展示されている。傑作「サン・ザッカリア祭壇画」(玉座の聖母と諸聖人)とほぼ同時期に描かれたもので、聖母マリアの紫青の二色マントやキリストの腰巻と繋がってみえる白のスカーフなど色使いが印象的な作品。閉ざされた園を示唆する様に二人を緑が鮮やかな芝生が取り囲み、背景には、ヴェネツィアの建築物を配置している。作品名は、マルティネンゴ家の所有だったことに因んで名付けられた。
ジョヴァンニ・ベリーニの義兄弟にあたるパドヴァ派の画家アンドレア・マンテーニャ(1431~1506)の「聖ジョルジョ」(ゲオルギオス)(1460)が展示されている。ジョルジョは馬に乗って戦う姿と異なり、既に竜を倒し、折れた矢を片手に立っている。竜は足元に倒れ、口の中に折れた矢が刺さっている。ジョルジョと竜は大理石の枠から一部はみ出るなど、マンテーニャお得意のイリュージョニズム(だまし絵)技法で描かれている。
初期ヴェネツィア派を代表する画家ヴィットーレ・カルパッチョ(1465頃~1525)の9枚の絵画よる連作「聖ウルスラ物語」(1490頃)が展示室一杯に飾られていた。こちらは大使の到着(部分)、聖人の夢、巡礼者と教皇との会談や、ケルンへの巡礼者の到着である。聖ウルスラ(?~383頃)とは、ブリタニアの地方のキリスト教徒王の娘で、1万1000人の乙女を引き連れてローマに巡礼した帰路、ケルンでフン族の襲撃により殉教したとされている。
こちらは、ティツィアーノ(1490頃~1576)の最後の作品「ピエタ」(1576)で、サンタ・マリア・グロリオーザ・デイ・フラーリ聖堂をティツィアーノ自身の墓所と決め、埋葬の返礼として制作を始めたものだが、途中で亡くなったことから弟子のパルマ・ジョヴァーネが完成させたもの。右側でひざまずく聖ヒエロニムスはティツィアーノの自画像と言われている。
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そして、ルネサンス期の巨匠ジョルジョーネの傑作「テンペスタ(嵐)」(1506~1508頃)が展示されている。乳児に母乳を与える女性が描かれているが、女性は、乳児を膝に乗せす地面に座らせて半裸身があらわにしている。小川の対岸には、長い槍を持つジプシー風の男性がどこか遠くを眺める様に立ち、遠くには暗雲が立ち込めている。この絵画は、エデンの園、エジプトへの逃避、パストラルなど様々な解釈があるが、解明されていない。
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同じくジョルジョーネの作品とされる「老女(ラ・ヴェッキア)」(1506頃)。壁の向こうから、年配の女性が「時の経過とともに」と書かれた巻紙を持ち、激しい苦しみ表情と仕草で鑑賞者に訴えかけようとしている。老いによる人生の儚さを象徴する寓意的な作品。
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そして、ティントレット(1518~1594)の「聖マルコの奇跡」(1548)。敬虔なキリスト教徒である奴隷が、主人の許可を得ないまま、聖マルコの遺蹟の巡礼をしたことから、死刑を宣告されて殺されようとするところに、天から聖マルコが現れ、奴隷を救ったという場面である。
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同じく、ティントレットの「ヴェネツィアに運ばれた聖マルコの遺体」(1562~1566)。近くの被写体は濃く描かれ、背景に行くほどの白く描かれてる印象的な遠近法が有名な作品。 赤と黒の不吉な雲が重い雰囲気を醸し出している。ラクダの横にあるひげを生やした男はティントレット自身と言われている。
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ティントレットの作品は、他にも多数展示されており、こちらの「アダムとイヴ」(1550頃)では、対角線的に二人を配置した高度な遠近法が用いられている。
パオロ・ヴェロネーゼ(1528~1588)の代表作「レヴィ家の饗宴」(1573)が展示室一面に飾られている。16世紀の絵画作品で最も大きな絵画の一つで、555センチメートル×1310センチメートルある。「最後の晩餐」として、ドミニコ会の修道院であるサンティ・ジョヴァンニ・エ・パオロ聖堂の後壁を飾るために描かれたが、画面には、馬鹿親父、酔ったドイツ人、小人、下品で下劣な表現などが見られることから、ローマカトリックの異端審問による調査が行われ、結果的にキリストが宴会に招待されたエピソードを題材として「レヴィ家の饗宴」とタイトルが変更になったという曰く付きの作品。
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ちなみに、こちらが、中央付近の拡大画面である。キリストの左右にペテロとヨハネが座り、ユダは赤い衣姿でこちら側に振り向いている。
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同じく、パオロ・ヴェロネーゼの「アレッサンドリアの聖カテリーナの神秘の結婚」(1575頃)。聖女カテリーナが幼児キリストから結婚指輪を受け取るという幻想の場面。
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こちらは、イタリアルネサンス期の画家ピエロ・デラ・フランチェスカ(1412~1492)の「ヒエロニムスと寄付者」(1451)。作品には聖ヒエロニムスと、隣に傅ずき礼拝する寄進者の姿が描かれている。読書を邪魔されて不機嫌な様子にも見える聖ヒエロニムスの表情が印象的な作品で、背景は、ピエロ・デラ・フランチェスカの故郷トスカーナ州のアレッツォ近郊の山間の町サン・セポルクロの街並みと言われている。
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2時間ほど鑑賞した後の午後8時過ぎ、サンタ・ルチーア駅方面に向け、ヴァポレット1番に乗船し、リアルト橋を過ぎたカンナレージョ区側の「カ・ドーロ停留所」で下船する。海岸沿いからは狭い路地を抜け東西に延びる広い商店街を東に130メートルほど行った左側の小さな3階建ての建物一階に今夜のレストラン「トラットリア・ダ・ジャンニ(Trattoria Da Gianni)」がある。店内は、煉瓦壁に天井梁やテーブルなどブラウン系の木材で統一された内装にクリスマスの飾り付けがなされ温かい雰囲気である。
最初に魚介の前菜(14ユーロ)を注文し、魚介のパスタ(12ユーロ)と、
焼き海老(ポレンタ付き)(17ユーロ)など甲殻系と貝系の料理を重点に注文したが、少し肉が食べたくなり、エスカロップとワインソース(ポレンタ付き)(12ユーロ)を併せて注文した。最後にドルチェとカフェで終えた。飲み物としてワイン(一杯5ユーロほど)、水等を頼み、総額102ユーロであった。
時刻は午後10時を過ぎたところ。お店を出ると商店街の人通りは少なくなり、昨夜同様に薄暗く寂しい雰囲気になっていた。
翌朝は、ヴェネツィア・テッセラ空港から、パリ・シャルルドゴール空港を経由して帰国することとしている。心配だった高潮(アックア・アルタ)の影響もなく、連日、天候にも恵まれる最高のヴェネツィア観光となった。
(2011.12.27)