カズさんの旅たび

 ~歴史、文化、芸術、美食紀行。。

フランス・オーヴェルニュ(その4)

2013-07-27 | フランス(オーヴェルニュ)
ヴィシーを朝7時に出発した後、快適なA89号線やN89号線を経由して田舎道のD555線に入ると、次第に上り坂となっていく。周囲を森に覆われ左下にシウロ川の流れが並走すると、住宅が現れ始め、突然、道を塞ぐように目の前に建物が現れた。こちらはオルシヴァル市役所で、後方に教会の鐘楼が聳えている。
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ヴィシーからオルシヴァル(Orcival)までは、南西に約90キロメートル、クレルモンフェランから南西に30キロメートルの位置にあり、2時間弱の行程だった(以下、オーベルニュ周辺図を参照)

市役所に向かって左側のゆるやかな坂道を進むと広場になり、この時間、周囲には、特設のテントが並ぶ市場が開かれていた。その広場の中ほどに「オルシヴァルのノートルダム教会」(Basilique Notre-Dame)が建っている。教会のすぐ西側には、山が迫っており、袖廊付近まで勾配の急な坂になっている。
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オルシヴァルのノートルダム教会は、イソワールのサン・オストルモワヌ教会、サン・サテュルナンのノートルダム教会、クレルモン フェランのノートルダム・デュ・ポール教会、サン・ネクテールの教会に並ぶ、オーヴェルニュの5大ロマネスク芸術の至宝の1つで知られている(こちらが、5大教会のリーフレット表、裏(英語版)と、オルシヴァルのノートルダム教会の紹介ページ(英語版))。

こちらのノートルダム教会は、1146年から1178年の間に、オーヴェルニュ伯ギヨーム7世が資金提供をし、ラ・シェーズ=デュ(ブリウド近郊のコミューン)の修道士たちによって建てられた歴史ある教会で、中央に聳える八角形の鐘楼も当時のままの姿を残している。
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その鐘楼を頂点に、交差部のマシフ・バーロン、シュヴェを頂く後陣(内陣)と放射状礼拝堂とを階段状に配していく「オーヴェルニュ・ロマネスク様式」が採用されている。中でも、後陣壁のモザイク装飾、コーニス(モディロン)装飾、アーチ窓を飾る縁取り装飾など、繊細な彫刻技法が駆使されている。

南袖廊壁を見上げると鉄の玉や鎖が吊り下げられている。これらは「鉄の聖母」と呼ばれ、聖母子を信仰した元囚人たちから奉納されたもの。聖母子が篤く信仰されていたことが伺える遺構となっている。
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教会への入口は、その南袖廊を回り込んだ側廊壁にある。扉には「サン・ジュリアン・ド・ブリウド大聖堂」や「オーゾンのサンローラン教会」の扉口でも見た錬鉄の唐草模様の装飾が施されている。斜めから錬鉄を見ると、頭部像がかたどられているが、突っ伏して顔を必至に持ち上げている様な姿はユーモアがある。黒光りしているのは、多くの人に触られているからだろう。
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日差しを浴びて教会内に入ったため、室内はかなり暗く感じたが、内陣方向は、上部3か所と周歩廊先のステンドグラスの窓から明るい外光が差し込んで照らされている。
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内陣は、八本の円柱で囲まれており、柱頭にはそれぞれ異なるアカンサスの葉の文様が刻まれ、葉柄から渦を巻く葉の先端まで繊細に彫りこめられている。左側から4番目の柱頭にはアカンサスの葉の間に鷲が表現されている。
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その内陣の中央にはガラスケースに収められた聖母子像が祀られている。聖母子像は凛とした姿で、身廊方向を見つめている。この聖母子像は、もともと東側に別の教会に安置されていたが、11世紀に現在の教会が建設されてこの場に移されたという。伝説によれば、彫像は使徒ルカによって彫られたといわれている。
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周歩廊には、放射状の礼拝堂が4室あり、それぞれを繋ぐアーチの円柱にもアカンサスの葉を中心とした柱頭彫刻が見られるが、こちらは、やや小ぶりなものが多い。北側の礼拝堂の右側の柱頭には、羊を担ぐ人物が刻まれている。
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こちらは、周歩廊から、ナルテックス(前室)側を眺めた様子で、ナルテックスは、山側を向いているため、上部の小さなステンドグラスの二連のアーチ窓があるだけで、かなり暗い。階上廊には黄金祭壇が飾られ、1階アーチ内には、聖水盤とキリストの洗礼像が掲げられている。
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内陣手前の階段両側(左右の袖廊沿い)には、クリプトに下りる階段が設置されている。階段を降りると、クリプトは、円形の空間で、周囲に椅子が並べられている。そして、円柱に囲まれた中央には祭壇が置かれ、奥に鉄格子で閉じられた3室に分かれた祭壇があり、中央に聖霊鳩、左右には、聖母子像、ピエタ像が奉られている。
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1時間半ほど滞在した後、次に、モザック(Mozac)に向かった。

モザックは、クレルモン・フェランから15キロメートル北のリオン(Riom)西隣に位置している。目的地の「聖ピエール教会」(Eglise St-Pierre)には、午前11時半頃到着した。6世紀から7世紀頃に創立されたベネディクト会の教会で、その後、王室の修道院となり、1095年には、クリュニー修道院の管理下に置かれている。ロマネスク様式の教会が建設された12世紀初頭が、修道院のピークだったが、1452年、1477年、1490年と立て続けに起こった地震により、大部分が倒壊してしまう。16世紀初頭に、現在のゴシック様式の姿に改築されている。
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右側の小さな広場にモザックの案内地図が掲げられている。こちらを見ると、教会の場所は村の中心から南に向けて参道が伸びているためわかりやすい。しかし、到着の際には、村の北西側のラウンドアバウトから、東ではなく南に下ってしまったため、教会の場所がわからず、人に尋ねるなど、やや苦労してしまった。
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教会内には、道路沿いにある北側ポーチ(扉口)から入る。ポーチの上部は、ヴォルヴィック石による切妻屋根とゴシック様式だが、ポータルは初期のロマネスク様式のまま残っている。

教会内に入ると、ナルテックスそばの身廊左右に、柱頭彫刻が、一体づつ飾られている。柱頭は、基壇と短い円柱の上にあり、対峙する高さにある。その内陣に向かって左側の柱頭には、4体のアトラスが彫られている。
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アトラスは、手に松ぼっくりとブドウの房を持ち、足は手と同じように背後に曲げてお互いの足が繋げている様なポーズをとっている。アトラスはじっと前方を見据えており、その顔立ち、表情、髪型、体格などは、それぞれ異なり、写実的に表現されている。
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そして、アトラスと対になる様に、内陣に向かって右側には「キリストの復活」を主題とした柱頭が置かれている。南面を向き中ほどで、香入りの小瓶を手にしているのがマグダラのマリアで、左側に小瓶を手にした聖女を伴い、キリストの墓を尋ねに向かっている場面が表現されている。
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マグダラのマリアに向かって右側となる南東面側には、同じく小瓶を手に持つもう一人の聖女が従っているが、マグダラのマリアに背を向けている。その聖女の右側には、椅子に腰かけた天使が、左手と翼でキリストの復活を指し示す様子が表されている。東面から見ると、聖女が、キリスト復活のお告げを聞こうと天使の方向に首を傾けている様にも見える。
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そして、その天使の後ろ側となる北面には、キリストの墓があり、その傍らとなる西面には、三人の兵士たちが居眠りをしている。三兵士は、首を傾げて柱頭の高さに収まるように配置されており、眠気に襲われ寝てしまった様子がうまく表現されている。この柱頭彫刻には、キリスト自身は登場しないが、まさに復活の直前を示す場面構成となっている。
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「アトラスの柱頭」と「復活の柱頭」は、後陣にあった周歩廊と放射状礼拝室の、主祭壇と周歩廊を隔てる8本の円柱を飾っていた柱頭彫刻で、15世紀の地震後、失われ、1849年、地下から発見されたもの。崇高で優雅さをも感じる素晴らしい作品で、オーヴェルニュのロマネスク彫刻の中でも最も優れたものといわれている。

現在の教会はラテン十字形の三身廊で、天井は、ゴシック建築の特徴でもある尖頭交差ヴォールトで覆われている。身廊を支える柱は角柱をベースに、身廊横断アーチと側廊横断アーチを支える三本の円柱が嵌め込まれた複合柱となっている。
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その横断アーチを支える円柱の柱頭に彫刻が施されている。これらの彫刻群は、南側廊の一部を除き、地震での倒壊を免れており、現在も当時の姿を見せてくれる。それでは、ナルテックス側の北側の柱頭から内陣方向に見学していく。
北側廊の第一柱(北面)には「グリフィンと杯」が、左側(東面)には「山羊に乗る男」が表現されている。それぞれの柱頭彫刻が施される面が半分(180度)の上、やや小ぶりなサイズだが、装飾を少なくして主題を際立たせている。
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北側廊の第三柱(西面)には「首を繋がれた猿」が、左側(北面)には「盾を持つ守護神」が表現されている。高浮き彫りに施された猿や守護神などは、柱頭から飛び出して来る様な躍動感がある。
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北側廊の第三柱から側廊を支える横断アーチの北壁側の柱には、外典「トビト書」と、士師記「サムソンの物語」が刻まれている。向かって左側は、トビアが、目が見えなくなった父トビトのため、巨大な魚から胆嚢を取り出しており、右側には、サムソンがライオンの口を大きく拡げ戦う場面が表現されている。柱頭の半面に二つの主題を、窮屈なく表現する技法が素晴らしい。
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北側廊の第三柱(東面)には、「向かい合うケンタウロス」が表現されており、北側廊の第四柱(西面)は、「山羊に乗る男」で、第一柱(東面)と同じ主題だが、躍動感がある。北面には色彩の残る「アカンサスの葉」が施され、北側廊の第五柱(西面)には、第一柱(北面)と同じ主題の「グリフィンと杯」が表現されている。

北側廊の第六柱(西面)には「二羽の鳥の間から顔を覗かせる狐」があり、横断アーチの北壁側の柱(北側)には、「盾を持つ守護神」が第三柱(北面)と同じ主題で、表現されているが、こちらの方が写実的で、表情や身体の表現は少し大人びて見える。

第六柱からは、聖職者席で、その先が内陣となる。内陣手前の左右には、尖塔アーチのくぐり戸があり袖廊に続いている。その左右の尖塔アーチの内陣側に円柱があり、尖頭交差ヴォールトを支える高い位置に柱頭彫刻が施されている。

内陣北側の柱頭には、アカンサスの葉が刻まれており、対となる内陣南側の柱頭には「聖ペテロの解放」が表現されている。獄内に横たわる聖ペテロに、主の御使いが現れ、空中に浮遊しながら杖でペテロをつついて起きる様に促している。御使いは、周囲の様子を窺っているのか、ペテロとは別の方角に向いている。右側には、獄を見張る番兵たちがいるが、手前の一人は首を傾けて寝ている様にも見える
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主催壇の手前、足元に柱頭が飾られている。「アトラスの柱頭」と「復活の柱頭」と同様に、主祭壇と周歩廊を隔てる8本の円柱を飾っていた柱頭彫刻で、「黙示録」から「風を止める四天使」を主題にしている。それぞれ角面には四天使が彫られ、天使の左手は、風を擬人化した男の口を押えている。四天使を柱頭の角面に配置することにより前に踏み出すような迫力ある場面が演出されている。
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次に、南側廊の柱頭彫刻をナルテックス方向に戻るように見ていく。
最初の南側廊の第六柱(西面)には、北側廊の第六柱(西面)と対になる「二羽の鳥の間から顔を覗かせる猿」があり、南面は、アカンサスの葉となっている。

南側廊の第五柱(東面)は、旧約聖書「ヨナ書」を主題にしている。向かって右側に、大魚に上半身から飲み込まれていくヨナと、そのヨナを助けようとする男性たちが表されている。左側には、魚のお腹の中で、自らの罪を悔い改めたヨナが、吐き出される瞬間が捉えられている。
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南側廊の第四柱(西面)に「壺を持つ男と、玉を持つ猿」がアカンサスの葉に座っている。右側の第四柱(南面)には「葡萄を収穫する人物」が表現されている。右側には這いつくばって収穫する人物も見える。第四柱(東面)には、アカンサスの蕾が刻まれ、赤、青、黄の彩色が残っている
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南側廊の第三柱(東面)には、ケンタウロスが、南面には、アカンサスと人面が、西面には、グリフィンがある。

南側廊の第二柱(東面)にはアカンサスの葉の中に人面像が施されている。威厳が感じられる顔立ちで写実的に表現されている。左側(南面)には小さな女性面が施されている。
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南側廊の第六柱から、南壁側に扉があり、中庭に出ることができる。扉を出てすぐ左手の袖廊側には、12世紀ロマネスク様式の「聖母子像と聖人たち」の浮彫がある。ティンパヌム(タンパン)に見えるが、リンテル(まぐさ石)彫刻である。中央の聖母子像の左右には、聖ペテロと福音書記者ヨハネが、左端には、跪く修道院長を聖オストルモワヌが聖母子にとりなしている。上部には、僅かに天使のフレスコ画が残っている。リンテルの下は、回廊とをつなぐ場所として扉があったが、地震後は壁となっている
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次に、モザックのラウンドアバウトから、南西方面に延びるジャンジュレス大通り(D986号線)を通り、ヴォルヴィック(Volvic)に向かう。すぐに、右側の丘の上にお城が見える。この城は、トゥルノエル城といい、ヴォルヴィックの町の北1.5キロメートルにあり、リマーニュ平原を見下ろす標高594メートルの岩山に建てられている。12世紀後半にはオーヴェルニュ伯爵ギー2世が、所有していたが、1213年に、フランス王フィリップ2世との包囲戦に敗れ、城は、王の管理下に置かれ、その後、様々な貴族の手に渡っている。
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モザックからは、10分ほどで、ヴォルヴィックに到着した。こちらは、ヴォルビック中心地から西に700メートル離れたスルス公園で、周囲は森で覆われている。これから、日本でもお馴染みのミネラルウォーター、ボルヴィック(インフォメーションセンター)の施設を見学する。センターのそばには、源泉を間近で見ることができる建物があり、覗いてみると、凄い量の水が流れている。隣には、無料の水汲み場があり多くの人が水を汲んでいた。


インフォメーションセンターでは、20分ほど見学した。センター内には、オーヴェルニュ地方の豊かな自然を紹介しながら水源地周辺の環境への取り組みや具体的な生産工程などがパネルや映画で展示・紹介されていた。
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ヴォルヴィックから5キロメートルほど東に行くと、マルサ村(Marsat)である。ここに10世紀から18世紀の間に建てられた「ノートルダム教会」(Notre-Dame-De-Marsat)がある。
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南側にあるロマネスク門の扉を入ると、後陣側の三連アーチの窓から光が差し込み明るい雰囲気である。天井は、尖頭交差ヴォールトで覆われたゴシック様式の身廊(南身廊)(12世紀)で、その北隣には、もう一つの身廊(北身廊)(10世紀)がある。こちらは、円筒ヴォールト天井と太い角柱で支えられたロマネスク様式で、やや薄暗い雰囲気。ステンドグラスの窓を背景に、祭壇には「マルサの黒い聖母像」が飾られている。12世紀後半制作の木造彫像だが、19世紀前半に修復され、美しい姿を見せてくれる。


次に向かったのは、エブルイユ(Ebreuil)のセント・レジェール教会(Eglise St-Leger)である。リオン(Riom)からは、30キロメートル北のアリエ県南端に位置している。東西に流れるシウール (Sioule) 川にかかる橋を渡ると、左前方に立ち並ぶ、赤屋根の美しい白壁住宅の中に、教会の鐘楼が見える。その橋を渡った先の交差点から左折し、回り込む様に路地に入ると、目的の教会前広場に到着する。
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セント・レジェール教会は、ノルマン侵略から逃れた僧侶が、オータン司教レオデガル(615頃~679)の聖遺物を持ってこの地に避難したのが始まりで、最初の教会は、961年、西フランク王国ロテール王治世に建てられた。その後、11世紀初頭には修道院と教会堂が建設されるが、18世紀には、修道院は破壊され、現在は、エブルイユの教区教会となっている。

教会はロマネスク建築の特徴である三廊式バシリカであるが、内陣部分はゴシック様式となっている。
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身廊と翼廊は、オーヴェルニュで唯一のカロリング朝時代の様式で、天井は切妻の木枠で覆われている。その身廊の2番目と3番目の南の柱には見どころのフレスコ画がある。向かって左上が、大アントニオス、右上が、オータン司教レオデガル、左下が、聖ブラシウス、右下が、サン・ローランになる。
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3番目の南側の柱には、上に、宗教詩「悲しみの御母は立ちませり」(マーテル・ドロローサ)をテーマにした磔刑像が、下には、ドラゴンを殺す聖ジョージが描かれている。
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ポータルのキリストの浮彫は、教会の敷石の下から1860年に発見されたもので、12世紀のものと推察されている。そして、扉口は赤く染められた皮で覆われ、曲線を駆使した繊細で複雑な鉄細工のアカンサス装飾が施されている。サン・ジュリアン・ド・ブリウド大聖堂の南袖廊の扉口と似ているが、こちらは、損傷も少なく綺麗に残っている。
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取っ手には、ロマネスクらしい獅子の顔が彫刻され、円形のプレートにはラテン語で「義なる人が祖国に帰るための門である」と書かれているとのこと。
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時刻は午後4時半を過ぎ、これでオーヴェルニュの旅は終わりである。これから、途中のサンセール(Sancerre)で宿泊し、翌朝にパリへ戻ることにしている。そのサンセールまでは約180キロメートルで、大半が高速道路になる。まずはD998号線でシウール(Sioule)川を渡り、5キロメートル先のインターチェンジから、高速道路(A71号線)を、パリ、ブルージュの標識に従い一路北に向かう。

1時間半ほど走行した後に、高速道路を降り、ブルージュ方面へ向かう。この先からがかなり難しい。。まずは、料金所を過ぎ、ラウンドアバウトからN142号線(Montlucon Moulins Nevers Auxerre)に向かう。N142号は、ブルージュの外環道で、南から円を描くように東方面に向かっている。途中のいくつかのラウンドアバウトを過ぎ、ようやく現れる標識(Auxerre Sancerre)のN151号線を通り、1キロメートル先の、標識(Sancerre Cosne)のD955線に入ると、ようやくサンセールへ向かう(北東方面)一本道となる。

ブルージュから約40キロメートルで「サンセール」に到着した。パリからは、南に200メートルほど離れたシェール県ロワール渓谷沿いにあり、「丘の上の町」として知られている。これからホテル(Hotel Le Clos Saint Martin)にチェックインし、急ぎ予約しているレストランに向かう。。もともと午後8時に予約していたが、20分ほど遅刻している。


レストランまでは、ホテル前の通りを右側(南方向)に100メートルほど歩いた距離だが、上り坂なのでやや辛い。一つ目の筋を過ぎると、細い路地坂の階段となり、上り詰めた右隣に、目的のレストラン「ラ・トゥール」(La Tour)がある。レストランに向かって左側(西側)は、サンセールの中心となる広場があるが、時間に遅れていることもあり、散策せずに入店した。


予約時間に遅れたが、スタッフはにこやかに迎えてくれホッとした。ラ・トゥールは、ミシュラン1つ星を取得している有名店でもあり、店内はかなり混雑していた。案内されたテーブル席でメニューを見ていると、入口で、客が断られ少しトラブルになっていた。予約していなかったのか詳細は不明だが、こちらの到着がもう少し遅れていたらどうなっていたのだろう。。

メニューは、「Promenade Maraîchère」(38ユーロ)(前菜2品、メイン魚肉から1品、デザート)と、「Plaisir des Sens」(58ユーロ)(前菜2品うち1品、メイン魚、メイン肉2品うち1品、フロマージュ、デザート3品うち1品)の2種類があり、後者の「Plaisir des Sens」と、デギュスタシオン(75ユーロ)を頼んだ。

まず、喉が渇いたのでビールを頼んだ。地元サンセール産のビール「La Sancerroise」である。サンセールでのワイン生産は有名だが、この人口2,000人にも満たない小さな町で、原材料の選択から瓶詰めまで行うクラフトビールの生産が行われていることには驚かされた。そのビールを飲んでいると、最初のアミューズ(ウニのトッピング)が運ばれてきた。


アミューズはもう1品あった。瓜系の野菜とトマトに、豆や皮付きの米を焼いたものがふりかけられている。


アントレ(前菜)は、「子牛肉のタルタルステーキ、カンカル産の牡蠣、レタスのクーリ(ソース)」(Tartare de veau coulis de laitue aux huitres de Cancale)。で、タルタルの下に牡蠣が隠れている。
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アントレは選択で、もう一品は、カリカリ海老、ココナッツ、マンゴー、蕎麦(Gambas croustillantes a la noix de coco nouilles de sarrasin et mangue)だった。

そして、メインの魚として「本日の季節の魚」(poisson du jour agremente selon la saison et le produit)。魚の種類はわからなかったが、白身のタラ系だった。。なめこの様なキノコや海藻のスープで、和食が融合された印象である。
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メインの肉料理(ヴィヤンド)は、「鳩(ハト)のもも肉のコンフィ」(Pigeon de Saint Quentin sur Nohain fenouil et cuisses confites)。鳩は、ジビエ料理の野鳥代表格の一つで、鳥肉より硬く濃厚な味わいが特徴。あまり食べなれないので、少し驚いたが、肉の硬さや濃厚なうま味が、マッシュポテトとの相性も良く、最後まで美味しく頂けた。
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肉料理は選択で、もう一品は、「ムッシュ・ダギーの豚」で、付け合わせとしてブロッコリーとピキージョ(赤ピーマン)が添えられている(cochon de Monsieur Dougy brocolis et piquillos)である。

メインの後は、フォロマージュ(チーズ)の盛り合わせ(Assiette de fromages)になる。


最後のデザートには、アイスクリームと苺(ストロベリー・メルバ)(Fraises Melba)を選んだが、結構なボリュームだった。


ちなみに、3品あるデザートのうち、もう一つは、柚子入りショコラソルベ(Croquant chocolat sorbet au Yuzu)である。

コースの中では、前菜のタルタルと牡蠣とレタスのクーリ、メインの鳩肉のコンフィが美味しかった。和食テイストを盛り込んだ料理もあったが、個人的にはあまり好みではないかも。。しかし、コース全体としては、一品ごとのポーションも大きく、食べ応えがあり十分満足できた。デギュスタシオンでは、サンセールを代表するドメーヌ、アンリ・ブルジョワや、フランソワ・クロシェのワインなどだった。レストランへの到着が遅かったことから、デザートの時間には、午後11時を過ぎ、最後の客となったが、終始にこやかに応対してくれたのは良かった。


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翌朝6時半。昨夜、雨が降ったのか、道路が濡れている。ホテルをチェックアウトして、200メートルほど東に進むと、見晴らしの良い展望台に出た。右側には、上り坂が続き、ラ・トゥールがある町の中心広場に向かっている。その通りに面して、右側にサンセールの観光案内所(Office De Tourisme)の建物があるが、この時間は扉は閉ざされていた。
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サンセールでは、ゆっくり町を散策する時間がなく、食事をしただけとなったが、展望台からの眺めは素晴らしく、丘の上の町にいることを少しだけ実感できた。これから一路パリに向かい、昼の便(中国南方航空、午後12時25分発)で日本(成田)に向け帰国することにしている。
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(2013.7.27~28)
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フランス・オーヴェルニュ(その3)

2013-07-26 | フランス(オーヴェルニュ)
イソワール(Issoire)は、オーヴェルニュ地域圏ピュイ=ド=ドーム県にある人口1万人ほどのコミューンで、首府クレルモン フェランから30数キロメートル南に位置している。こちらは、そのイソワール中心部の「レピュブリック広場」で、前方に15世紀、領事オストルモワヌ・ボヒエにより建てられた「大時計塔」が聳えている(以下、オーベルニュ周辺図を参照)。


イソワールには、午前中にオーゾンの見学を終え、オーゾン橋の手前からD16号線を北上し、D214号線、D996号線などを経由し、到着したところ。オーゾンからイソワールまでは、約30キロメートル弱の距離で、途中に、クレルモン フェラン滞在時に断念したレストラン(La Bergerie de Sarpoil)があるので、再チャレンジしようと向かったが、満席だった。。よほど縁がないらしい。。

さて、広場にある地図を見ると、イソワールの街は楕円形の環状道路内に広がっているのが分かる。今から、右下(東方向)に延びるガンベッタ通りを歩いて「サン・オストルモワヌ教会」(Abbatiale Saint Austremoine)に向かうことにしている。
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ガンベッタ通りは、石畳の狭い通りで、左右にショップが並ぶ商店街となっている。100メートルほどで、サン ポール広場に建つ、サン・オストルモワヌ教会の西側ファサード前に到着した。ファサードには、中央にシンプルなアーチ扉があり、左右、上部に小さなアーチ窓が配され、最上部には、三連のアーチ窓が二層にわたる角状の鐘楼が聳えている。ファサード全体の装飾は少なく簡素な造りとなっている。
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サン・オストルモワヌ教会は、3世紀後半或いは4世紀初頭のオーヴェルニュの伝道者で、クレルモンの最初の司教だった聖アウストレモニウス(ストレモニウス)に捧げられている。当初、修道院として建設されたが、12世紀半ばに、ベネディクト会修道士たちにより現在の姿に再建されている。

サン・オストルモワヌ教会は、サン・サテュルナンのノートルダム教会、クレルモン フェランのノートルダム・デュ・ポール教会、オルシヴァルのノートルダム教会、サン・ネクテールの教会に並ぶ、オーヴェルニュの5大教会堂の1つに数えられている(こちらが、5大教会のリーフレット表、裏(英語版)と、サン・オストルモワヌ教会の紹介ページ(英語版))。

先に教会内の見学から行うことにした。教会内は、円柱、柱頭、アーチともに赤色を中心とした眩いばかりの彩色が施されている。これらは、フランス画家アナトール・ドーヴェルニュ(1812~1870)により、1857年から1860年にかけて13世紀の彩色に則って復元されたもの。現代人にとっては、ロマネスク教会の印象がかわってしまいそうな多少派手に思える色合いである。
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アプスには、色彩復元と同時期(19世紀後半)に制作された「祝福するキリスト(世界の救い主)」が、下部の連続アーチには、4人のクレルモン司教が描かれている。交差部の先から階段があり、主祭壇と周歩廊は、身廊より1メートルほど高い壇上に設置されている。

アプスと周歩廊との間を支える8本の円柱の柱頭は、主催壇に向かって左側から時計回りで、植物文様、最後の晩餐、植物文様、キリストの復活、キリストの出現、植物文様、キリストの受難、植物文様と続いている。そして、円柱の装飾は、主催壇に向かって左右対称に、それぞれ幾何学文様で彩られている。
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こちらが、左側から2番目の柱頭で、教会を代表する見どころの一つ、「最後の晩餐」である。主催壇側を向く柱頭面の中央に見えるのがキリストで、そのキリストに肩を抱かれてうつむいているのがヨハネである。右隣がペテロで、右端が左手でパンを受け取っていることからユダだろう。この人物だけに光輪がない。人物表現は写実的で、今まで見てきたロマネスクの彫刻の中では洗練された印象を受ける。
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こちらは、周歩廊から見上げた「最後の晩餐」で、キリストの反対側の面になる。柱頭の4面を最大限に活用して、3人ずつ(キリストが立つ面のみ4人)配置し、裸足で円輪の上に立っている。使徒は、それぞれ別の方向を向いているが、周囲を取り巻く、繊細な襞によるテーブルクロスの巧みな表現が、同一食卓を囲んでいることを示しており、大変ユニークで斬新な構図である。
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左側から4番目の柱頭は「キリストの復活」である。周歩廊から見上げると、背後に盾を置き、交互に折り重なるように寝入る3人の番兵の場面で、微笑ましい印象すら受ける。左側に回り込むと、3人の番兵の隣には、天使とキリストの墓が表されている。
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主催壇側から見上げると、キリストの墓の左側には、天使が墓に詣でる聖女たちに、キリスト復活を告げている。そして、右隣の5番目の柱頭が「キリストの出現」で、左側の両手を挙げるマグダラのマリアが、中央の復活したキリストを見て驚いている場面だが、残念ながらキリストの顔は大きく破損している。
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「キリストの出現」の右面には、トマスの不信の場面で、キリストがトマスの右腕を掴んで、体に触れるように促している。
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そして7番目の柱頭が「キリストの受難」で、主催壇側には、キリストが、柱に縛られている場面があり、反対側には、十字架を担ぐキリストの姿が、側面には、使徒たちの悲しんでいる姿が表現されている。その「キリストの受難」の奥の8番目の柱頭は植物文様(アカンサス)である
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こちらは、南袖廊の東側を向いた祭室前になる。祭室の周囲は彩色が施されているが、かなり色落ちした箇所が多い。
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その祭室両側の支える円柱の柱頭も色落ちして、くすんだ色をしている。こちらは向かって左側を飾る「受胎告知」で、処女聖マリアが、天使ガブリエルにより、聖告を受けている場面である。そして右側は、「羊に跨る邪淫」で、共に、3頭身像の典型的なロマネスク彫像になっている。
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主催壇両脇にある階段を降りるとクリプトに至る。そのクリプトの中央東側には祭壇があり聖母子像が飾られているが、背後にアーチ窓があり、明かりが取り込まれていることから、半地下になっていることがわかる。
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その聖母子像と向かいあう様に西壁には鉄格子があり、その中に、聖オーストルモワヌの遺骨が納められた聖遺物箱(13世紀初制作)が飾られている。オーストルモワヌは、最初に、ヴォルヴィックに葬られ、モザック修道院(現:聖ピエール教会)に移されたが、900年頃にイソワールの地に戻っている。
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聖遺物箱は、金属を彫り込み、エナメルを施す技法(シャンルヴェ・エナメル)に、キリストの空になった墓を見守る聖女らと、マグダラのマリアの前に復活したキリストが姿を現す、ノリ・メ・タンゲレ(我に触れるな)の装飾で飾られている。この聖遺物箱は1983年に盗難に会うが、1990年にホノルルで発見されている。

教会内の見学を終え、北側から教会全体を眺めてみる。長方形の平面を持つバジリカには、八角形の鐘楼を頂点に、交差部には”マシフ・バーロン”(Massif barlong)と呼ばれる細長の直方体を置き、南北に袖廊がある。東側に、シュヴェ(屋根組み)のある後陣(内陣)・放射状礼拝堂とを階段状に配しており、先に見学した、サン・ジュリアン・ド・ブリウド大聖堂と同じロマネスク様式(オーヴェルニュ・ロマネスク様式)の教会堂である。
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東南側から、放射状礼拝堂を見上げると、コーニス(モディロン)装飾、アーチ窓を飾るモザイクや縁取り装飾など、繊細な彫刻技法が駆使されているのが分かる。中でも、サン・オストルモワヌ教会の最大の特徴は、放射状礼拝堂に施された「黄道十二宮」の浮彫彫刻である。
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黄道十二宮とは、地球から見た太陽が星座間を移動するルートを黄道といい、その中に含まれる 12の星座を指している。太陽は平均して毎月1宮ずつ星座を移って行く。向かって左側が白羊宮(おひつじ座)で、その右側が金牛宮(おうし座)を現している。なお、この浮彫彫刻はオリジナルだが、何点かは近代のもの。
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教会の南側には、ロマネスク芸術センターがあり、その黄道十二宮の浮彫彫刻のオリジナルを見ることができる。向かって左側が処女宮(おとめ座)で、右側が天秤宮(てんびん座)である。
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こちらは人馬宮(いて座)になる。なお、他には中世の生活の様子(食事、住宅など)を再現した展示などがある。
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次にイソワールからD996号線で25キロメートルほど西方に位置する「サン・ネクテール」(St-Nectaire)に向かった。

サン・ネクテールは、チーズ名で世界的に知られているが、その由来となった町は、ピュイ=ド=ドーム県の西側、火山帯モン ドール(ドール山脈)の岩塊が織りなす700~800メートルの標高にある。人口は、700人程度の寒村で、南側の温泉地区ル・バと、北側の教会のあるル・オー地区とに分かれている。

イソワールから、小さな村や眺めの良い草原を抜けていくと、次第になだらかな登りになっていき、出発30分ほどで通りの左右に、ホテル、バー、レストラン、ショップなどが立ち並ぶ「ル・バ地区」に到着する。その数百メートル続く、ル・バ地区を過ぎ、大きな岩山を避けるように右にカーブすると、先の岩山(コルナドール山)上に尖塔のある教会が望める。
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そして、コルナドール山の手前を大きく左に曲がり、先の交差点(三叉路)を、標識「D150 St-Nectaire-haut OLLOIX、Mairie-Eglise」に従い、右折し、大きく右に弧を描くように急な上り坂を上り詰めると、見晴らしの良い小さな広場に到着する。その広場中央に建つのが目的地の「サン・ネクテール教会」(Eglise St-Nectaire)である。


サン・ネクテール教会は、3世紀に亡くなったオーヴェルニュの伝道者、聖(サン)ネクテールに捧げられた教会として、12世紀半ば、オート・ロワール県ラ・シェーズ・デューの聖職者たちによって、火山岩のトラカイト(粗面岩)を材料にして建てられた。

イソワールのサン・オストルモワヌ教会、サン・サテュルナンのノートルダム教会、クレルモン フェランのノートルダム・デュ・ポール教会、オルシヴァルのノートルダム教会に並ぶ、オーヴェルニュの5大教会堂の1つに数えられている(こちらは、5大教会リーフレットのサン・ネクテール教会紹介ページ(英語版))。

高いファサード、交差部の八角形の鐘楼、マシフ・バーロン、南北の袖廊、シュヴェ(屋根組み)のある後陣(内陣)・放射状礼拝堂などを備えた「オーヴェルニュ・ロマネスク様式」の教会堂である。放射状礼拝堂の外壁にはアーチ窓を飾るモザイクや縁取り装飾、後陣(内陣)には多色のバラ窓モザイク装飾などが施されている。
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長方形の平面を持つバジリカの長さは、イソワールのサン・オストルモワヌ教会と比べると短く、4つのアーチベイで構成されている。時間は、午後4時半を過ぎており、あまり見学時間が取れなくなったが、取り急ぎ、南身廊に向かって左から三番目のアーチベイの下にある扉口から教会内に入る。
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教会内は、身廊を支える円柱の色彩が経年劣化により色落ちしているが、淡い光と相まったクリーム色が、温かみのある空間を演出している。
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教会の見どころは103にものぼるロマネスク様式の柱頭彫刻である。最初に、北側廊のナルテックス側から内陣方向に歩いて行くと、中央交差部左手(北側廊壁)に「ファラオの王女によりナイル川から拾われるモーセ」を主題とした柱頭がある。モーセはパピルスのかごの中の赤ん坊で、それぞれ個性的な表情が印象的な作品となっている(以降、サン・ネクテール教会のプランを参照)。
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すぐ先の中央交差部の手前の北身廊の柱頭には、「リュラー(楽器)を奏でるロバと山羊にまたがる人物」が表現されている。中でもロバの表情が愛らしく、絵本に登場するキャラクターを思わせる。
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中央交差部の先の南身廊の柱頭には「セイレーンとトリトン」が表現されている。2本の尾びれを左右の手で掴むのはお馴染みのポーズだが、尾びれが途中からアカンサスの葉に変わりその先にグリーンマンが登場する構図がユニークな作品。イソワールのサン・オストルモワヌ教会ほどではないが、彩色も良く残っている。
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内陣と周歩廊とを隔てる円弧状に連なる6本の円柱の柱頭彫刻が、特に見どころである。僅かに彩色も残っており、左側から時計回りで、キリストの受難、キリストの奇跡、聖ネクテールの伝説、黙示録、最後の審判、キリストの復活と続いている。内陣には、説教台があり、円柱の下部には、簡易な椅子が置かれているだけなので、どの柱頭面も回り込んで鑑賞しやすい。なお、内陣や周歩廊の雰囲気は、やや小ぶりだが、クレルモン フェランのノートルダム・デュ・ポール教会と良く似ている。
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一番左端の柱頭「キリストの受難」の内陣側の柱頭面には、中央にキリストが十字架を担いで歩き、左側には、キリストの肩を押す兵士、剣と盾を持つ兵士と、隣の柱頭面の鞭が入り込んでいる。右隣は、聖ヴェロニカか。。続けて「キリストの受難」の柱頭面(4面)を時計周りで見ていく。
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次の柱頭面が、ユダヤの民を惑わしたとして捕らえられたキリストが、ローマ総督ピラトの命によって鞭打ちの刑に処される場面で、大木を抱きかかえるように腕を縛られ顔をそむけるキリストと、左右に鞭を持つ執行人が表されている。
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周歩廊側に面した次の柱頭面は、ユダの接吻で、ユダが、キリストを売る為、ユダヤ祭司長から、誰がキリストか分かるように、接吻をしろと言われて行った行為を表す場面である。
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最後の柱頭面は、主が復活されたと聞いても、信用しなかったトマスが、キリストから私の脇腹に手を入れる様に諭され、恐る恐る行った結果、復活を心から信用したとされる場面である。
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左から2番目の柱頭「キリストの奇跡」の内陣側の柱頭面には、キリストがペトロ、ヤコブ、ヨハネを連れて高い山に登り、預言者モーセとエリヤと語り合いながら白く光り輝く姿を弟子たちに示した(キリストの変容)場面が表されている。
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キリストの変容の裏面となる周歩廊側の柱頭面には、5つのパンと2匹の魚を増やし5千人の人々に食べさせるといった、パンと魚の奇跡の教会が表されている。
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こちらは、3番目の柱頭から6番目の柱頭までを内陣側から見上げた様子で、聖ネクテールの伝説、黙示録、最後の審判、キリストの復活と続いている。
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3番目の柱頭「聖ネクテールの伝説」の内陣側を向く柱頭面には、聖ネクテールが福音を説いていた際の出来事で、葬儀参列の人々からブラドゥルスを生き返らしてほしいとの願いを聞き、聖ネクテールが、十字架の杖をブラドゥルスに当てて起き上がるように命ずる場面が表されている。
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こちらは、右奥の4番目の柱頭から左手前の6番目の柱頭までを、周歩廊側から見上げた様子。4番目は「黙示録」で、青白い人物が、折り重なる死者の中から、甦る姿が表現されている。ちなみにその反対面には、第四の封印が解かれた際に現れる青白い馬に乗った騎士が表現されている。そして、手前の5番目の柱頭には、左右の天使が碑文を掲げラッパを吹いている場面で、6番目の柱頭は、キリストの地獄への降下の場面となっている。
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内陣側から、5番目(左側)「最後の審判」と、6番目(右側)「キリストの復活」を見上げてみる。5番目の柱頭角には、審判を下すキリストが表現され、6番目の柱頭には、キリストの墓の横で眠る兵士の姿が表現されている。
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こちらは、周歩廊の放射状祭室側の柱頭で「キリストとザアカイ」を主題にしている。正面がキリスト、左端がザアカイで、いちじく桑の木の枝にまたがっている。
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そして、中央チャペル(中央放射状祭室)には、ロマネスク様式の多彩色がほどこされた12世紀制作の木像の聖母子像(コルナドール山の聖母)がショーケースに入れられている。目線やや下の位置にあり、周囲から鑑賞できる。聖母子は、手が大きく表現されているが幼子を抱いていないので、別々に制作されたのだろう。
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像全体の造りは、ムサージュの聖バーソロミュー教会の聖母子像と似ており、他にも同じタイプの像は、クレルモン フェラン(ロジェ・キリオ美術館所蔵)や、オルシヴァルのノートルダム教会にある。

最後に教会所蔵の聖遺物箱を見学した。金板に象嵌細工が施された12世紀制作の宝物や、3世紀末にオーヴェルニュを伝道した司教の聖バウディムの胸像(12世紀)などが飾られている。胸像の目は象牙で、衣服には、貴石等が埋め込まれていたが、大半が失われている。
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サン・ネクテール教会では、1時間ほど見学して午後6時前に出発した。D996号線をイソワール方面に戻り、途中から、D978号線(A75(Clermont)標識あり)を経由し、高速道路(A75号線)に向かった。今夜は、北に約100キロメートル離れた「ヴィシー」(Vichy)に宿泊する予定にしている。ヴィシーはアリエ県のコミューンで、第二次世界大戦期にはヴィシー政権が置かれた場所としても知られている。

走行距離約100キロメートルの内、三分の二が高速道路だが、途中、集中豪雨に遭遇し時間を要したため、今夜の宿泊ホテル「Les Nations」に到着したのは、午後8時半だった。県道では、またたく間に道路が冠水していき、間一髪通過できたものの、タイミングによっては、足止めを余儀なくされる可能性もあった。ちなみに、夜のニュースでは、場所は分からなかったが、車が浸かり、一面冠水した町の様子が放映されていた。。

ホテル「Les Nations」は、アリエ川の一筋東側のリュシ通り(Russie)沿いの、東側の戦争記念碑が建つ小さな公園に面して建っている。正面入口側は狭く、東西奥行が長い長方形のホテルで、案内された部屋は4階南向きの小さなベランダ付きだった。室内は、白を基調に、ブラウン系のカーペット、木製の小さな調度品など落ち着ける雰囲気。動線も広く、バスルームはバスタブ付きシャワーユニットなのが良かった。


荷物を部屋に置き、急ぎ、予約しているレストランに向かった。ホテルからは、北に350メートルほどの距離で、ルレ・シャトー(Relais & Chateaux)ホテルにある「メゾン デコレ(Maison Decoret)」が、今夜の予約レストランである。


なお、レストランの東側は、広大な面積を誇る、ホテル、歌劇場、カジノ、温泉施設などが設置されているスルス公園(Parc des Sources)で、食事前に散策する予定にしていたが、一瞥するだけになった(ヴィシーは、30か所を越える噴泉口がある温泉保養地として知られている)。

メゾン デコレは、1996年にM.O.F.(Meilleur Ouvrier de France)を受章したジャック・デコレ氏(Jacques Decoret)のレストランである。M.O.F.とは、フランス文化の最も優れた継承者たるにふさわしい高度の技術を持つ職人に授与される称号で、日本の人間国宝に相当するそうだ。ミシュランガイドでは1つ星でもあり、かなり期待が高まる。
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到着時間がやや遅かったこともあり、やや広めのダイニングルームのテーブル席は、既に8割ほど埋まっていた。しかし、テーブル間の距離はゆとりをもって配置されており、混雑した印象は受けなかった。メニューを見ると、前菜1品にメイン魚肉の選択(1entree,poisson ou viande,fromage,dessert,68eur)の「メニュデクヴェルト(Menu Decouverte)」と、前菜2品にメイン魚肉2品(2entree,poisson et viande,fromage,dessert,82eur)の「メニュハルモニ(Menu Harmonie)」の二種類のコースがある。
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喉が渇いたので、ビールを飲みながら、ワインは地元産(ヴィシー近郊ソルセ村)の赤ワイン、サン・プルサン・ピュイ・レアル(Saint-Pourcain puy Real)を注文する。最初のアミューズは、冷たいジャガイモのスープ。
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アントレ(前菜)は「ブラウントラウトのフィレ」。フランスでは、トルイット・ファリオ(Truite fario)と呼ばれ、鮭やニジマスと比べると、油分はやや少なく、さっぱりとした味わいが特徴。表面に赤い斑紋がある。多くのレストランで提供されるが、こちらは、ヴィシー近郊のフェリエール・シュル・シション(Ferrière sur Sichon)産とのことで、旬の時期とも重なり、身の柔らかさや甘みなど新鮮さが際立っている印象。大胆にも三切れある。。付け合せは、パイ生地の上にクレソンとアボカドペーストが乗せられている。
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もう一つの前菜は「ランド産鴨の冷製フォアグラ」。ランドは、ボルドーのジロンド県の南隣の県で、フランスでは、ドルドーニュ県と並び、一大主産地となっている。ガチョウとは異なり、あっさりした味わいで、舌の上で溶けていく印象なので、前菜にはぴったり。ブラン・マンジェのソースに白アーモンド、イチジク、ウイキョウが添えられている。
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冷製コンソメジュレで口直し。
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そしてメインの魚は「シタビラメ」である。フランスでは、バターをたっぷり使って料理される一番人気の魚料理。こちらは、オレロン島産のシタビラメの切り身を、ヘーゼルナッツ バターで焼き上げ、刻んだパイナップルの上に載せ、ジュ ド ヴォーがかけられている。香ばしい香りが食欲をそそられる。ムースリーヌとカリフラワーがトッピングされている。
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個人的には、カリッと焼き上がった表面と、中の柔らかな白身とのコントラストを楽しみたかったかも。

メインの肉は「ピレネー産の子羊(ラム)のロースト」。ほんのりと赤みが残る焼き具合で、肉のうま味を十分に味わうことができる。ソースには蜂蜜とヴィネガーのマヨネーズが使われ、カブやクレソンなどが添えられている。
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チーズ(フロマージュ)はオーヴェルニュ・フロマージュで、ワゴン内からチョイスする。向かって右奥が、カンタル、サレール、サン・ネクテールなどで、左側が、青カビタイブなので、ブルー・ドーベルニュやフルム・ダンベールだろうか。。
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少しずついただくことにした。
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そして、アヴァンデセール。
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デセール(デザート)は「スペキュロスとマンダリンアイスクリーム」で、上蓋のある円柱の焼き菓子の中に、ムースとスペキュロス(ビスケット)が入っている。
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別途追加で、エスプレッソを頼んだ。最後にプティ・フールが出て終了である。
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トラウト、フォアグラ、シタビラメ、ラムのローストなどフレンチの王道とされるオーソドックスな素材が中心だったが、さり気なく添えられた新鮮な野菜やソースとの相性は絶妙で、料理全体のうま味や洗練さを高めていた印象。ポーションはやや少なめだったが、コースを通しての満足度は十分で、最後まで美味しくいただけた。
(2013.07.26)
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フランス・オーヴェルニュ(その2)

2013-07-25 | フランス(オーヴェルニュ)
コンクのすぐ北側からオーヴェルニュ地域圏カンタル県となる。D920号線(Dは地方道)を進み、首府オーリャックを通過し、先のD922号線から、更に北に位置するモーリアック(Mauriac)を越える。20キロメートルほど先の小さな交差点を右折し、林と牧場が続く細い田舎道を北東方面に3キロメートルほど進み、道なりに大きく右に曲がると、イド・ブール(Ydes-Bourg)に到着する(以下、オーベルニュ周辺図を参照)。


イド・ブールは、標高430メートルに位置し、人口は約1800人ほどの村である。目的地の「聖ジョルジュ教会(Eglise St-Georges)」は、周囲にいくつかの住居が建ち並ぶ通りの南側に流れる水路(スミエン川)を渡った先にある。現在、時刻は午後2時半。教会の敷地内の通りを回り込み、西側のファサードに到着した。この時間、清掃業者がいたが、他に人通りはなかった。

ファサードには、一際大きな樽型のアーチで形成されたポーチがあり、半円系の二連アーチ上部には、小さな顔(叫ぶマスク)の彫刻が飾られている。教会に近づく悪魔を追い払う目的としたものとされ、オーヴェルニュ地方の数カ所の教会で見られる。弧帯(アーキヴォルト)を支えるそれぞれ4本の側柱は浮き彫りがなくシンプルなものである。
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一方、ポーチの左右には、二連アーチが施され、奥にレリーフがある。ポーチに向かって左側には、聖母マリアと大天使ガブリエルが表現されている。12世紀末の制作で経年劣化が見られるが、丸みを帯びた素朴な表情が味わい深い印象。アーチを支える中央の柱の柱頭には獅子像の彫刻が施されている。


向かって右側の側面には、ハバクク書の旧約外典「ダニエル書補遺」の一節を題材とした彫刻が施されている。バビロニア人が信仰していた龍を殺害し獅子の洞窟に閉じ込められたダニエルを救おうと、右側には、天使を伴い、食べ物の差し入れを行う預言者ハバスクが表現されている。


後陣側には、3つのアーチ窓があり、それぞれ小さな柱頭のある柱で囲まれている。上部は、ツイストコードで縁取られた半円の内弧で飾られ、左右の円柱は、軒下(モディヨン)を支えている。そのモディヨンには、ロマネスク様式らしい表現豊かな人間の顔が並んでいる。
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次に、再び、D922号線を南下し、モーリアックの手前からD678号線を通り、14キロメートル東に位置するムサージュ(Moussages)に向った。草原や森に覆われた片側一車線のなだらかな田舎道を進んで行くと、突然、大きく鋭角に左に曲がり、右へと蛇行する手前にムサージュへの入口がある。入口から西に300メートルほど進んだ突き当りの丁字路の先が目的の「聖バーソロミュー教会(Eglise Saint-Barthelemy)」になる。


ムサージュは、オーヴェルニュ地域圏カンタル県にある人口僅か250人ほどの小さな村で、なだらかな丘陵地の斜面に位置し、南側の斜面下にムサージュ川の清流が東側から北西方面に向けて流れている。教会は、12世紀に建てられ、その後13世紀と15世紀に改築された。


アプスは建造当時のままらしい。教会内に入って見る。外観の印象より教会内は広く感じる。


祭壇に近づき左側の側面上部を見るとガラスケースに入った聖母子像が見える。12世紀、ロマネスク様式で制作された多色の木像の聖母子像。かつてはムサージュ近郊(北西に約3キロメートル)のジャイアック城の礼拝堂に設置されていた。


荘厳の聖母像(ノートルダム)である。凛とした表情でしっかり前を見据えている。やや、虫食いの跡が多く見られるが、彩色も良く残っている。


次に、D678号線からD922号線に戻り、南側にある「モーリアック(Mauriac)」に向かった。D922号線に入ると、周囲に住宅が立ち並び始め、街の様相を呈してきた。セントレ(Centre)標識に従い、道なりに進んだ先の観光案内所(Office du Tourisme)で左折、南北に走るコレージュ通りを南に下ると、目的地の教会を一望できるジョルジュ ポンピドゥー広場に到着した。モーリアックは丘陵地帯にあり、こちらの中心部で、標高700メートルに位置している。人口は約3500人である。

こちらが、その広場から教会「ノートルダム・デ・ミラクル教会」(Basilique Notre-Dame-des-Miracles Mauriac)を見上げた様子。12世紀(1845年再建)に建てられた八角の鐘塔を持つロマネスク教会である。


コレージュ通りからは、深く重厚なポーチを望むことができる。両側にある浮彫アーチには、19世紀まで彫刻があった。題材は、イド・ブールの聖ジョルジュ教会のポーチ側面にもあったハバクク書の旧約外典「ダニエル書補遺」の一節(ライオンの穴の中のダニエル)で、左右の円柱の足元には、ライオンの彫像(復元)だけが寂しく残されている。


その重厚なポーチのタンパン(ティンパヌム)彫刻が最大の見どころの一つである。オリーブ山上のマンドーラに立ち、右手で祝福し、左手に福音書を持つ「栄光のキリスト」を中心に、左右に、体を反らしてキリストを称える、大使ミカエルとガブリエルが表現されている。その下には、十二使徒と聖母とが並んでいるが、無残にも、1574年、プロテスタント教徒により顔が全て破壊されている。


西側のファサードの塔は17世紀に追加された。


南側の入口から教会内に入り、トランセプト付近から主祭壇の方向を眺めると、半円形の後陣で、その下、中央に黒い聖母子像が飾られている。手前左両側には、聖歌隊席がある。その主祭壇の左右には、2つの礼拝堂が設置され、三身廊構造となっている。身廊から側廊のアーチや天井にかけて黒い石が使われているが、クレルモン・フェランの街で見たのと同じ火山から採掘した黒玄武岩で、主祭壇上のアプス部分は一つ一つ黒い石が積まれているのがはっきりわかる。


こちらは「バプテスマ・フォント」(洗礼フォント)(直径が1.18メートル、高さ0.58メートル)で、側面にヨルダン川で洗礼を受けるキリストの洗礼の様子が浮彫りされている。12世紀に制作されたもので、オーヴェルニュではまれで2か所(もう一か所はシャルヴィニャック教会)しかない。下にS.V.P(触らないでの意味)との手書きがあるが、既に表面はテカテカである。


次に、D22号線を通りカンタル火山帯に入り、20キロメートルほど南東に位置する、標高900メートルほどの高地にある小さな村「サレール」(Salers)に向かった。サレールは、質の良い遺産を多く持つ田舎の小さな村の観光を促進する事を目的に設立された「フランスの最も美しい村」に登録されている。

村の入口となる駐車場からは、南方向に延びる、なだらかな坂「シャトー通り」を200メートルほど上っていく。上り詰めると足元には石畳が広がり、周囲に古びた家が立ち並ぶ広場に到着する。正面には「サン・マチュー教会」(Eglise Saint-Mathieu)が聳えている。12世紀に建造され、15世紀末に再建され現在のゴシック様式の教会となったが、入口周囲にはかつてのロマネスク様式の建築部分が残されている。


教会のファサード前にある水場傍から延びる細い通りを進むと、小さなレストランやアクセサリーショップなどの店舗が数件あり、左側の城壁の先に、時計塔を持つアーチ門が現れる。14世紀頃に防衛のために建てられたものらしい。


そのアーチ門をくぐると、通りは大きく左に曲がり、広場に到着する。ここが、サレールの中心になる。村は、サレール・チーズやサレール牛の産地として世界的に知られているが、これは、村出身者の農学者ティサンディエ デスクー(1813~1889)が、牛のサレール種の品種改良に尽力したことが大きい。その彼を称え、広場は「ティサンディエ デスクー広場」と名付けられ、中央には彼の胸像が飾られている。


広場には、お城を思わせる尖がり屋根の邸宅がいくつかあるが、正面は、バリアージュ(判事の意味)と呼ばれ旧セヴェストル家の所有だったもの。広場にあるインフォメーションセンターでTシャツを購入し、サン・マチュー教会内を見学してサレールを後にした。時間はそろそろ午後6時、これから、東西に延びるD680号線を東に向かい、カンタル火山帯を横断した後、フランス南北を結ぶ高速道路(パリ~ベジエ間)まで向かう。

サレールから、D680号線を東に向かうと、街道右側(南側)は、雄大な縦谷が続く景観が広がり、その後、木々に覆われた山道となる。標高は徐々にあがっていき、サレールから30分ほどで、周囲が開け、すり鉢状の地形(北西側)が望める高台に到着した。
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D680号線は、正面(南側)の山「ピュイ・マリ(Puy Mary)」(1787メートル)を境に三叉路になり、左側に続いている。手前の石が積み重ねられた建物は観光案内所で、ピュイ・マリへの登山道(階段)入口となっている。観光案内所には「Col du Pas de Peyrol、Alt 1589」(パ・ド・ペイヨール)の案内板があり、頂上までの標高差が200メートルほどであることがわかる。
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ちなみに、フランスの中央高地で最も高い山が、ピュイ=ド=ドーム県のピュイ・ド・サンシー(Puy de Sancy)(1886メートル)で、次が、ピュイ・マリの南東側に位置する同じくカンタル県のプロム・デュ・カンタル(Plomb du Cantal)(1855メートル)、そして3番目がピュイ・マリ(1787メートル)となっている。なお、こちらのD680号線(パ・ド・ペイヨール)は、中央高地で最も標高の高い場所を通る車道で積雪の影響を受けることから、毎年11月から5月中旬までは閉鎖されているとのこと。
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カンタル火山帯は、ピュイ・マリを中心に、複数の稜線が放射状に広がる地形を形成している。こちらは北東側を眺めた様子で、起伏に富んだ地形が続いているのが確認できる。これから、東側の稜線を越えてオート=ロワール県に向かう。
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ブリウド(Brioude)は、オーヴェルニュ地域圏オート=ロワール県の最大都市、首府のクレルモン・フェランから南に70キロメートルほどに位置しており、周辺道路網や亜幹線クラスの鉄道網を含め、利便性に恵まれた街である(人口約6700人、標高は約500メートル前後)。そして、こちらが、そのブリウド中心にある12世紀に建設、14世紀に完成した高さ78メートルのオーヴェルニュ最大のロマネスク教会「サン・ジュリアン・ド・ブリウド大聖堂」である。
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東側(北東方向に向いている)の外観は、周歩廊に半円形の放射状シェベット(礼拝堂)が5室あり、それぞれ、明り取りのための、アーチ窓が並んでいる。屋根下には、ロマネスク様式特有の人間、動物、怪物の顔をモチーフにしたコーニス(モディロン)で飾られている。
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シェベット中央上部には、クワイヤがあり、連続するアーチ窓と浮彫アーチに加え、多色石のロゼット・モザイクで飾られている。そして、その後方、中央交差部には八角形の壮麗な鐘塔が聳えている。

外壁にそって南側廊に向かうと、袖廊は八角形の鐘塔の横にはなく、西側にあるファサード近くにある。南袖廊の一階は、三方向にアーチ門が形成され、南広場(サン・ジュリアン広場)への通路門となっている。その階上廊(トリビューン)には、聖堂への明り取りのアーチ窓がある。


サン・ジュリアン広場は、石畳の小さな広場で、南袖廊に密着する様に続く建物には、ショップ、土産店、レストランなどが営業している。午前9時を過ぎたところで、これから、聖堂内を見学する予定にしているが、まずは、広場に面した「カフェ・ラ・ミランデル」(La Mirandelle)のテラス席で、朝食のカプチーノを飲みながら、聖堂(バジリカ)外観を見学することにする。

南袖廊のアーチ門の先にある扉口の美しい錬鉄による金属細工の装飾は見どころの一つ。3メートルほどの高さの大きな木製の観音扉の全面に、金属装飾が施されている。扉の上部には、彩色のある革が残されていることから、鮮やかな装飾扉が全体を彩っていたことがわかる。扉の中央左側には、2メートルほどの高さの小扉になっている。
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扉の左右には、猿と獅子の顔のブロンズ加工の把手(とって)がある。こんなところがロマネスクらしい。
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こちらが、西側(南西に向いている)ファサードで、下部には19世紀に再建された赤白の迫石が交互に組まれたイスラム様式の3つのアーチ扉がある。ファサード最上部には、三連のアーチ窓が二層にわたる角状の鐘楼が聳えている。


聖堂に入ると、足元には多色で大小の石が敷き詰められたアラベスク模様をモチーフにした床が一面に広がっている。


聖堂内は三身廊で、5つのベイで区切られ、支える柱は灰色、赤、白、黒など交互に積まれた多色石で構成されている。柱頭彫刻は、見どころの一つだが、高い身廊のため、裸眼での鑑賞は難しい。


クワイヤの両脇にある階段を下りた長方形の廊下の中央東側には、鉄格子で閉ざされた扉があり、奥に半円のアプス形のクリプトがある。クリプトには、聖堂で最も神聖な場所とされる聖ジュリアン・ド・ブリウドの遺物箱が奉られている。彼は、ローヌ川のヴィエンヌ(イゼール)出身の古代ローマ時代の兵士だったが、キリスト教に改宗し、304年の迫害により殉教したと伝えられている。
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ちなみに、ローマ時代のキリスト教迫害は、1世紀中(64年)のネロ帝の迫害(前期)と、4世紀初(303年)のディオクレティアヌス帝の迫害(後期)が知られている。こちらのクリプトは、聖ジュリアンに捧げられた現在も残る300ほどの教会の中心的な聖地で、オーヴェルニュで最も古い聖域の一つとも言われている。なお、遺物箱自体は19世紀のもので、イコンも近年のものである。

再び、身廊に戻り、見学を続ける。柱には、鮮やかなフレスコ画が描かれている。ナルテックス側の最初と2番目の身廊ベイを支える北側柱には、左側から、モーセと兄のアロン、そして預言者イザヤが描かれている。


そして、2番目と3番目の身廊ベイを支える北側柱頭の身廊側には、凛とした「二尾を持つトリトン」像が、隣の身廊ベイを支える柱頭には盾と槍を持つ「武装した兵士たち」が刻まれている。これらロマネスク様式の柱頭彫刻は、かなり洗練された印象を感じる。


他にも、天使に抱えられ運ばれる人物(魂)や、
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「猿を飼い慣らす人」などの柱頭彫刻がある。こちらは、ロマネスク様式の図像学のテーマで良く見られるが、自己の獣のような気持ちを猿に例え、紐で繋いで戒める寓意表現と言われている。


南側廊には、キリストの十字架像が飾られている。こちらはブリウド近郊のバジャスのハンセン病療養所にあった15世紀初頭にさかのぼるとされる多色の木像で、「ハンセン病のキリスト」と呼ばれている。重症患者が、このキリスト像の上に横たわり癒しを懇願すると、病気は像に移ったと伝わっている。


こちらは、南側廊からナルテックス側を見上げた様子。身廊ベイを支える柱には、色鮮やかな花綱装飾や唐草装飾などが施されている。そして、階上廊(トリビューン)には、フレスコ画天井が望め、南窓からの外光で明るく照らされているのが確認できる。


階上廊へ上る扉には鍵がかけられていたので、諦めて他を見学していたが、しばらくすると、階上廊内に人影が見えたので、再び、扉まで戻ると鍵が開いていた。不思議に思いながらも、らせん状の狭い階段を上って行った。
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こちらの階上廊は「聖ミカエルの礼拝堂」で、残されたフレスコ画は、12~13世紀に制作(19世紀に修復)されたもの。しかし、残念ながら、ファサード側のスリット壁の下半分は失われている。
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上半分には、地獄の炎の中で焼かれる、巨大な悪魔(サタン)と小さな怪物たち、そして、恐怖に顔をゆがませる人間の姿などが描かれている。やや荒っぽい筆使いも思えるが、立ち上る赤い炎で、サタンが、苦しみのあまり両足を折り曲げ身体をよじる臨場感溢れる画面となっている。
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地獄の炎に向かって右端には、烏天狗のような悪魔が二体が、女性を捉え、赤い色をした魂が、悪魔の口に吸い取られていく様子が描かれている。
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天井には、鮮やかな色彩で描かれたフレスコ画で満ち溢れている。天井画は、スリット壁に描かれたサタンに対するキリストの勝利を示しており、巨大なキリスト像を中心に100名を超える多くの天使達が取り囲んでいる。向かって右側の天使は、聖杯を捧げている。天井は、間近にあり、目の前に覆いかぶさってくる感覚に襲われる。
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キリストの上下左右には福音書記者が描かれている。左上の天使は聖マタイ、右側の鷲は聖ヨハネ、左下の獅子が聖マルコ、右下の雄牛が聖ルカを現している。
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この時間、2組の見学者と一緒だったが、その内の一人が帰りたいらしく鍵をもう一組の見学者に渡そうとしている。どうやら普段は施錠されており、見学希望者は鍵を借りに行くシステムになっている。ともかく間近でフレスコ画を見ることができたのはラッキーであった。

次に、ブリウドから、北に15キロメートルほど行ったところにあるオーゾン(Auzon)に向かった。ブリウドからは、クレルモン フェランと、ル ピュイ アン ヴレを結ぶ、N102号線(A75号線)(Nは国道、Aは高速)が交差する大きなロータリーを過ぎて、D14号線を更に北に向かう。ロワール川の支流アリエ川(Allier)に架かる大きなアーチ鉄橋「オーゾン橋(Pont d'Auzon)」を渡るとまもなく到着する。所要時間は約20分ほどである。

街道は、東への上り坂となり、左側の小川(オーゾン川)と並走するように進んで行く。すぐに、Y字の二股道となるが、広域箇所の標識しかないため、まず、オーゾン川沿いの左側の道を200メートルほど進んで、南側を確認すると、高地に城壁らしき構造物が続いているのが見える。
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しかし、周囲には目的地の教会に向かう標識がないことから、二股道に戻り、次に、南側の通りを進む。途中からやや急な坂道となり、通り右下に小川(ゴダレル川)が流れている。200メートル先の右側に駐車スペースがあり、手前左側に、石畳の坂道が城壁方向に延びていたので、歩いて向かうことにした。
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途中、側塔を備えた城門をくぐり、左前方に連続アーチが続く外壁に沿って100メートルほど上っていくと、鐘楼のある古びた教会が現れた。


目的の「サンローラン教会」(Eglise Saint-Laurent d'Auzon)で、ちょうど教会の南側の真下に到着した。ここは、東西に細長い丘の上にある広場となっており、足元は、多色の石畳で覆われている。教会は12世紀のロマネスク様式の建物で、その広場の中ほどに3~4メートルの基壇を設けて建てられている。教会への扉口(ポーチ)は、左右階段を上った南袖廊にあるが、サン・ジュリアン・ド・ブリウド大聖堂の南ポーチと構造がよく似ている。オーヴェルニュ・ロマネスク様式にある構造で”ガニヴェル”と呼ばれるとのこと。
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周囲を見渡すと、2~3階建ての住宅が教会を取り囲む様に建てられている。教会の東側は、やや広いスペースがあり、その先に、下り坂の石畳道が続いている。車が数台駐車していることから、住民や地元関係者は、広場まで乗り入れすることができるようだ。西側は、すぐ先で堡塁らしき建造物が備え付けられた城壁で塞がれているが、車一台が通れる幅の塔門がある。

ガニヴェルを支えるアーチには柱頭彫刻が見られる。南面のアーチ西側には、天使がマリアに「受胎告知」している場面で、天使が柱の陰からそっとマリアに告げている。
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天使の後方には「キリストの降誕」が刻まれている。マリアのお腹にそっと手を当てているのがヨセフ。上部には、誕生したばかりのキリストが見える。雨ざらしに、触れる人も多いのか、かなり彫刻は摩耗しているが、素朴さを感じる柱頭彫刻である
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しかし、受胎告知とキリストの降誕を一緒に眺めると、少し印象が変わる(こちらが、柱頭を斜めから眺めた様子)。ガニヴェルには、他にも、「人物と獅子?」の柱頭や、「人面鳥(怪鳥)」の柱頭などがある。

ポーチは、2枚の木板に、錬鉄を唐草模様(動物の顔も見える。)に細工し、リベット継手で固定した装飾扉(11~12世紀制作)となっている。ところどころに、革が貼られていた痕跡が残っており、こちらも、サン・ジュリアン・ド・ブリウド大聖堂の扉口に良く似ている。
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扉口を入り、右側奥が主祭壇のある後陣方向になる。後陣は、外に張り出しのない3つの礼拝堂からなり、身廊は4つのベイから構成された、プレ・ロマネスク単廊式教会堂である。
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南北の袖廊にある階上廊(トリビューン)に上ることができ、身廊ベイを支えるアーチの柱頭彫刻(その1その2)も間近に見学することができたのは良かった。

礼拝堂の天井には、14世紀及び16世紀のフレスコ画が残っている。やや損傷が激しいが、こちらには、マンドーラに包まれたキリストを中心に、向かって左右にマリアと聖ヨハネが描かれている。その頂部には、赤い文様の縁取りを境にして、十字架を取り囲む聖人(十二使徒?)たちの光輪が輝いている。深青の背景色が、荘厳さを一層引き立てている。
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左側のアーチ窓の側面には、草華紋様や幾何学文様の縁取りをあしらった赤色を基調に、メダイヨン形式で様々な図像が描かれている。何となく、フランス中世時代のタペストリーを思い起こさせる。
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主祭壇に向かって左壁面には、12世紀のものとされる磔刑像が飾られている。。古びた木の風合いと光沢感が、キリストのリアルな質感表現を感じさせてくれる。
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(2013.7.25~26)
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フランス・コンク

2013-07-24 | フランス(オーヴェルニュ)
ラングドック=ルシヨン地域圏のナスビナル(Nasbinals)にやってきた。人口500人ほどの小さな街で、オーベルニュ地域圏のソーグからは60キロメートルほど南西に位置している。最寄りの県道(987号線)は、街の手前から大きく右に曲がり街の中心にある「サント・マリー教会堂」(ナスビナルの教会)を東側から包み込む様に蛇行し南西方面に延びていく。こちらは、県道沿いの北側歩道から眺めた様子で、後陣、北袖廊、礼拝堂、八角形の鐘楼などが一望できる。


ナスビナルの教会は、11世紀から12世紀にロマネスク様式で建てられた(14世紀に改築)が、もともとは、9世紀頃、聖ヤコブのものとされる墓がサンティアゴ・デ・コンポステーラにおいて発見され、巡礼路が整備されたことによる。現在は「フランスのサンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路」(世界遺産)の一つ「ル ピュイの道」の(ラングドック=ルシヨン地域圏のナスビナルからミディ=ピレネー地域圏のサン シェリ ドブラック間の巡礼路)として登録されており、教会堂の南側の階段左側の壁面に世界遺産を示す証明書が掲げられている。
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今日は、その「ル ピュイの道」周辺にある教会などを見学しながら、宿泊予定の、ミディ=ピレネー地域圏アヴェロン県のコンク(Conques)へ向かうこととしている(以下、オーベルニュ周辺図を参照)。

入口の二重の半円アーチを支える左右の2本の円柱の柱頭にはロマネスク彫刻が見られる。向って左側の2本と右側の内側にはアカンサスの葉が施され、右側の外側の柱頭には「弓と槍を持つ戦士の戦い」の彫刻が施されている。


教会内に入ると、内陣側の天井はロマネスク建築の樽型ヴォールトで、身廊はゴシック時代の15世紀に作り直されたバレルヴォールトになっている。その身廊には、2階から3階にかけて柱頭や梁に架けられた欄干のある木製の会衆席がある。18世紀に製作されたもので、3階からは天井に手が届き石のぬくもりを感じることができる。


ナスビナルの教会を離れると、徐々に標高が上がり、1300メートル級の標高となる。時々見えるのは牛の姿ぐらいである。


県道(987号線)を更に進むと8キロメートルほどで、ミディ=ピレネー地域圏となり、オーブラック(Aubrac)に到着した。街は、南方向に延びる県道533号線との丁字路周囲に、数件の石造りの古びた建物が立ち並ぶだけの寒村である。その丁字路に建つレストランの裏側が広場で「ノートルダム・デ・ポーヴル教会」(Eglise Notre Dame des Pauvres)に向かう砂利道が続いている。教会の向こう側(北側)には建物はなく高原が広がっている。
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左側に建つ直方体の方形屋根は、14世紀、教会の付属施設として建てられた「イギリス人の塔」で、古くから巡礼宿として使われ、今も引き継がれている。ちなみに左隣が県道987号線になる。

教会は、長さ24メートル、幅12メートルの四辺形の単身廊で、南身廊の左端に教会内への扉口がある。12世紀から13世紀にかけて建てられたが、東側に建つ鐘楼は1468年頃完成している。フランス革命時には、教会の建物は放棄され、その後急速に劣化し廃墟となるが、1840年に修復作業が行われ、スレートの屋根もこの時期に施された。最新の改修工事は1970年代に行われた。


教会内には、控えめな小さな窓が数えるほどしか設置されておらず、北壁には北側からの風雪の影響を受けるため窓がない。壁には色合いの異なる石材が美しく配置されている。天井は尖塔アーチ型のヴォールト天井で、アーチベイがかけられている。祭壇に向かって右側には、キリスト磔刑像が、左側には、聖母子像と左右に燭台を持った天使像が銅柱の上に飾られている。
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教会近くには、品揃えが豊富な大きな土産ショップがある。容器などデザインも洗練された作りで、まるで高級デパートの売り場を思わせる様な商品が並んでおり驚いた。オーブラックは、標高1320メートルにあり、オーブラックの名を冠した赤身牛や、チーズなどが有名である。
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時刻は午後5時を過ぎ、急ぎ出発した。コンクまでの途中で、エスパリオン(Espalion)のペルス教会(Eglise de Perse)は是非見学したいので、次のサン・シェリー・ドブラックは通過することにした。。しばらくすると、サン・コーム・ドルト(Saint-Come-d'Olt)の町並みが現れ、ナイフのように鋭い尖塔を持つ教会が見え始めた。


サン・コーム・ドルトは、オーブラックの麓、肥沃なロット渓谷に位置し、ほぼ円形の小さな旧市街が中世の特徴を残している。その旧市街の西側にあるポルト・テロン広場から狭い石畳の路地を入ると「聖コモ教会」の西側ファサード前に到着する。

ルネサンス風のポーチはオークの扉で、中柱(トリュモー)には聖コモの彫像が飾られている。現在の華やかなゴシック様式の教会は、1521年に再建されたもので、高さ45メートルあり、ねじれた鐘楼(炎の鐘楼)が特徴である。ファサードの右側には、小塔が接続されている。
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急ぎ、教会内に入ってみる。多色のステンドグラスからはやや赤みを帯びた外光が取り入れられている。


南西方向進んでいた県道(987号線)は、サン・コーム・ドルトから西に向かう。ロット川の右岸を西に3キロメートルほど進むと、徐々に交通量が増え、建物が立ち並び始める。交差点から左折しロット川に架かる橋を渡ると、エスパリオンの中心地に到着した。

目的地の「ペルス教会」は、ロット川を渡ったすぐ先の交差点から左折して、南東方面への細い坂道を上っていった先の、広い墓地内の北東端にある。入口は、墓地の外壁に沿って200メートルほど進んだ鉄柵扉からになり、扉からは、身廊にある南正面ポーチへ通じる直線道と、途中から右折して南袖廊にあるポーチに向かう通路が延びている。
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教会は、やや赤みを帯びた砂岩で建てられており、コンクの付属教会として11世紀から12世紀に造られたロマネスク教会である。交差部から後陣寄りに切妻屋根で覆われた幅の細い4つのアーチ鐘楼がある。

南正面ポーチの扉は鍵がかかり閉じられていた。時刻は午後6時を過ぎていたことから既に見学時間が終了したのかと思ったが、しばらくして、数人の訪問客が、ポーチ脇の箱から鍵を取り出し、扉を開けて笑顔で手招きしてくれた。教会は、見学者が自ら開閉することとなっているらしい。
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4層に分かれた弧帯(ヴシュール)部分の内、外側アーチには、大天使ガブリエル、ラファエル、及び寄進者とされる王冠の人物が刻まれ、内側のアーチは、11人の天使が、それぞれが書物を開き、天国の法廷を示している。

半円形のタンパン(ティンパヌム)には、メダリオンに刻まれた胸像が太陽(左)と月(右)を表し、下に、10人の使徒に囲まれた聖母マリアが鳩から聖霊を受けている(精霊降臨)。リンテルには、人間の頭が出た石棺の上に魂の重さを量るための秤が設置され、右側に4つの生き物(テトラモルフ)を配置した栄光のキリストが座る楽園を、左側に、男を飲み込もうとするリヴァイアサンの巨大な口と周辺に4人の悪魔が取り囲んでいる(黙示録)。
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左上部には、東方の三博士と、角に聖母子像の龕がある。少し稚拙な印象もある彫刻群だが、周囲のピンク色と彫像の素朴な造りが非常にマッチしており、ほのぼのとした雰囲気にさせてくれる。


南袖廊の壁の上部にもアーチ型の龕に聖母子像が祀られ、軒下(モディヨン)にも彫刻が施されている。


扉口を入るとすぐに、身廊床まで階段が続いており、大人の身長ほどの高低差がある。天井には、3本のアーチが這わされている。拝廊側に向かって右側(扉口の向かい側)には、二連アーチがあり奥に2つの小さな部屋がある。教会内壁は、外壁と同じくピンク色の材料が使用されている。


扉口の階段横の柱の基壇には、マスクの彫刻が施されている。柱から突出しており、唐突感があるが、愛嬌がある顔立ちをしている。最初から設置されていたのか、後日取り付けたのか分からない。。


内陣は筒型アーチで、多角形のアプスは8つのバットレスで支えられている。中央部には、半円形の連続アーチで飾られ、3箇所に明かり採りの窓が設置されている。
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内陣アーチを支える柱の柱頭には、向かって左側に「乗馬姿で戦う戦士」が、右側に「マンドルラで囲まれた王座に座るキリストと弟子たち」の彫刻が施されている。


内陣アーチ手前の左右には、袖廊との境になる二連アーチがあり、南袖廊側の内陣側の柱頭には「中央の水場に集う二羽の鳩」が、北袖廊側の内陣側の柱頭には「剣と盾を持ち戦う戦士」の彫刻が施されている。そして、それぞれ袖廊の天井には、幾何学文様の縁取りがなされた円状の文様が、赤青黄色で鮮やかに彩られ、十字架を連想するような交差アーチが這わされている。
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30分ほど見学して「ポン・ヴュー橋」にやってきた。こちらは、エスパリオンの中心側から対岸(北東側)を眺めた様子。左側(下流側)50メートルほどに、県道(920号線)が通る橋が架かっている。初代のポン・ヴュー橋は、13世紀に建設され塔や交易所があったが、その後、洪水で流され、赤砂岩で再建されている。川沿いに建つ木造の張り出しバルコニーのある住宅は、革の生産が行われていた工場の名残で、当時は、皮なめしが盛んに行われていた。
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ポン・ヴュー橋は歩行者専用の橋で世界遺産(フランスのサンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路、ミディ=ピレネー地域圏の建造物群)に登録されている。この時間は、日の入りが近づき西日が眩しい。尖りアーチが採用され、橋の中央部が高く、坂道歩行となるため滑り止めの小石が敷かれている。


エスパリオンから「セブラザックの教会」を通過し、山道を30キロメートルほど走行すると、コンク(Conques)のコミューンに到着したことを示す標識看板が現れた。更に急勾配の山道を上って行くものの、途中の三叉路から間違って左折したため(コンク周辺地図)、コンクの街並みを見下ろす場所になった。真下の円塔はダドン(Dadon)の住居(12世紀築・旧病院)で、その先隣の尖塔が村の中心に建つ「サント・フォワ修道院付属教会」になる。
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バイパス道を通っていたことから、途中でUターンし、コンクの西駐車場に到着した。コンクは、ミディ=ピレネー地域圏アヴェロン県のコミューンで、ドゥルドゥ川とウシュ川の合流地点となるウーシュ峡谷にある人口約500の寒村である。緩やかな上り坂を歩いて行くと、街の中心には夕焼けにそまる「サント・フォワ修道院付属教会」(世界資産)が建ち、周囲には密集する様に中世以来の街並みが広がっている。時刻は午後8時過ぎで、日の入り前までに、コンクに到着することができた。
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サント・フォワ修道院付属教会の北隣にある、ホテル「サント フォア」(ホテル カード)にチェックインした後、食事に向った。今夜は、コンク中心部から山間部を1キロメートルほど下った自然に囲まれた緑豊かな「ドゥルドゥー川」沿いにある4つ星ホテル「ホテル ムーラン ドゥ コンク」(Moulin de Conques)の併設レストラン(ミシュラン一つ星)「ムーラン・ド・カンベロン」(Le Moulin De Cambelong Hervé Busset)を予約している。店内は、エレガントでシンプルモダンなインテリアで表現されており、オーナーでシェフのエルヴェ ブッセ氏(Hervé Busset)による情熱注ぐ革新的な料理を提供することで名高い。
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画像出典:http://www.moulindecambelong.com/fr

時刻は午後9時を過ぎたところ。料理はコースで注文した。最初のアミューズ(Amuse)はスギやヒノキ製の木板を曲げ縁を作った伝統工芸品「曲げわっぱ」で提供された。和食会席の先付けに似ている。。やや違和感があるが、フランスでは評価が高いのだろう。次に、泡立てられたスープ(Les soupe)で、ハーブの気高い香りが良かった。

飲み物は、フランス南部ミディ・ピレネー地方のガヤック(gaillac)を冠した名前の赤ワインを注文した。ガヤックは、ベネディクト派の修道士たちが、宗教上の儀式に使用するワインを得るため、ブドウ園を経営して発展した街である。

メインのポワソン(Les poisson)は、淡白な淡水魚で、やや甘めの味噌風のソースがかけられており、柔らかい身と、カリッと揚げた皮との対比ある触感が素晴らしい。
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ヴィヤンド(Les viandes)は旨味のある鴨肉で大変美味しい。ポワソンもそうだが、高級素材と付け合せのハーブ、野菜、果実、花びらなどとの融合が、ブッセ氏の特徴である。
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デセール(Les dessert)を頂いた後は、テラスに案内される。ドゥルドゥー川のせせらぎだけが聞こえる静寂の中、コーヒー(Cafe ou the)を頂いていると、竹皮に包まれていたプティ・フール(Petit fours)が運ばれてきた。正直、食器や容器に日本風の演出はいらないと思うが、食事は美味しく、静かな雰囲気で、ゆっくり過ごせて良かった。午後11時にレストランを後にした(計166ユーロ)。


サント・フォワ修道院付属教会は、この時間も開いていたが、他に参拝者はいなく静寂に包まれていた。ファサード前の石畳の小さな広場には、カフェ、レストラン、土産店などは既に営業を終え消灯していた。

******************************

翌朝、午前8時、朝食前に散策に出かけた。ホテル サント フォア前から、西方面にゆるやかに蛇行する下り坂を少し歩いた先の三叉路から振り返ると、ホテルと右側の広場先に建つ「サント・フォワ修道院付属教会」が望める(写真は12時撮影)。一番の見所とされる教会ファサードのタンパン(ティンパヌム)を見学するには、人通りの少ない時間を選ぶのがベストである。
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コンク(ラテン語で貝殻)は、8世紀初頭、最初の修道院が隠者ダドンにより創設され、その後、礼拝堂が建設された。9世紀には、コンク出身の修道士アリニスドゥスが、アジャン修道院(コンクから西に約140キロメートル)から、聖フォア(ラテン語:聖フィデス)(?~303)の聖遺物を持ち帰ったことや、11世紀以降は、サンティアゴ・デ・コンポステーラに至る巡礼路の整備もあり、多くの巡礼者で賑わった。

現在の教会は、11世紀、ベネディクト会修道院として再建されたが、ファサード左右の塔は、1881年に追加されたもの。塔には、それぞれ3層のアーチ窓に加え、上部の二連の開口部と、頂部の屋根のある二連の開口部から形成されている。中央上部にはオクルスと二連アーチ窓があり、周囲に象嵌細工のロゼットが施されている。
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そしてポーチには、大きなトルモー(柱)で区切られた2つの扉口があり、すぐ上に巨大な半円形のタンパン(ティンパヌム)が、突出したペディメントで保護されている。タンパンの浮き彫りは、1130年頃に制作された「最後の審判」で、復活したキリストを中心に、左右の天国図と地獄図から構成されている。表現される人物像は、背は低く頭部や手は大きい個性的な描写で、背景、持物など細部にわたり丹念に彫り込まれ、ロマネスク彫刻の最高傑作の一つとも評されている。
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中央のキリストは、一際大きく表現され、右手を選ばれし人に、下げた左手は、断罪された人に向けている。背景のマンドルラ周囲からは、何層にも折り重なる光の襞が放たれ荘厳な雰囲気を醸し出している。上部の十字架を抱える天使は、槍と釘を持ち、キリストの受難を象徴している。
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キリストの左隣には、聖母マリアが寄り添い、その横に鍵を持った聖ペテロ、隠者ダドン、オルドリック修道院長(コンクの初代院長)か、或いはベゴン3世修道院長と続いている。修道院長により手を引かれるのが、初期のコンクの礼拝堂を再建した初代神聖ローマ皇帝カール大帝(シャルルマーニュ)(在位:800~814)で、王冠を被り手に王笏を持っている。
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中段の神の手に向かって祈る女性は、聖フォアで、彼女は10歳または12歳で迫害を受け殉教し、アジャン修道院に祀られ、その後様々な奇跡が起きたと伝わる3世紀の聖女である。なお、聖フォアの後方には、ロッジアの梁に足枷が多数吊るされている。そして下段には、聖地エルサレム(天国)が表現され、2人の子供を抱えるアブラハムを中心に預言者や聖人が座っている。

キリストの右隣には、4天使が配され、更にその右隣と下部が地獄図となる。逆さ刷りにされる人、頭をかじられる人、殴られている人など苦悩する人々が折り重なるように細かく表現され、色彩も良く残っている。
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下段では、大きく見開く堕天使ルシフェルを中心に、左隣に淫欲の罪を現す男女や落馬する放漫な戦士が表され、右隣には財布をぶら下げ首をつられる吝薔家や、釜茹でにされ舌を抜かれる罪人などが表現されている。

タンパンの周りの弧帯には、地獄の悪魔に見つからないように隠れながら覗いている人物(好奇心)の浮彫が見える。手を交互に差し出し帯びを押さえつつ、顔を隠しながら、どうしても覗きたいといった心理が、見事に表現されている。
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教会内はラテン十字型で建てられ、後陣には、放射状の礼拝堂が3つと、袖廊に配置された4つの礼拝堂がある。バレル・ヴォールトにより支えられる高さ約22メートルの身廊が後陣に向け続いており、身廊の左右にある側廊には、階上廊(トリビューン)が形成されている。この時間後陣のステンドグラスからは、朝日が差し込んでいる。
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散歩後は、ホテル サント フォアに戻り、朝食を食べた。部屋は中庭側で、テラスのあるバルコニーがあり壁にはツタが這わさり、テラス席がある中庭には、屋根の様にフジの葉が覆い茂っている。周囲は中世時代から続く建物に囲まれ、ダドンの住居の円塔を望むことができる。部屋にはテレビや冷蔵庫はなかったが、お風呂には大きいバスタブがありゆっくり浸かれたのは良かった。


朝食後は、教会南側にある宝物館に向かった。宝物館の入口は、中央に大きな円形噴水(直径3メートル弱)がある中庭の西回廊の突き当り南側にある。もともと、この場所は修道院の敷地だったが、1830年頃に破壊され、現在では西側の6つの二連アーチの回廊のみが再建されている。


そのアーチを支える柱の柱頭には植物、動物、想像上のモチーフなど、11世紀後半から12世紀にかけて、ベゴン3世修道院長の工房で制作された浮き彫り彫刻が残されている。城壁から身を乗り出す躍動感のある「監視する兵士」や、結び紐のある長いローブ(シャウベ)をまとい前方を直視する「槍と盾を持つ兵士」など鮮やかで表現豊かな作品が残されている。
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宝物館の展示会場(撮影禁止)で最も貴重な作品は聖フォアの頭蓋骨が収められた高さ85センチメートルの黄金の人形型聖遺物容器「栄光像」で、周囲を水晶、瑪瑙、エメラルド、サファイヤ、真珠など眩いばかりの宝玉で飾られている。宝玉は、奇跡をきっかけにして追加で荘厳されたとされる。「※ 宝物館リーフレット(その1その2その3)」。

その後、午前10時半から観光局主催のガイドツアーに参加する。最初に拝廊側から階段を上り、パイプオルガンの横にある小部屋で、説明を受けた後、北側廊の階上廊(トリビューン)から、南側廊の階上廊に向かう周回ルートでツアーは行われる。


こちらが、スタート場所となる拝廊側の北側廊の階上廊で、天井部には連続する4つの横断アーチが続き、左側のベイ間には高窓(クリアストーリー)が配置されている。この時間は、後陣側から、眩い外光が、中央交差部を通して差し込んで来る。現在、この階上廊は観光局主催のガイドツアーでのみ見学が可能だが、もともとは貴族や聖職者、上流階級の人々しか上がれることができなかった。


右側には、横断アーチの間に、二連アーチが配され、それを支える円柱の柱頭彫刻が見学コースの見所となっている。そして、その二連アーチの先が身廊で、更に先が、南側廊の階上廊となる。

最初の横断アーチ手前の二連アーチの左側の柱頭には、細かい葉を下部で縛った様なデザインが、そして中央柱の柱頭には、シンプルで大ぶりな葉と蔓のアカンサスが施されている。更に右側の柱頭には①「アカンサスから顔を出すグリーンマン」と、その右隣には、壁面上にある横断アーチを支える「アトラス像」が配されている以下、階上廊(Tribune)の配置図を参照)。
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先隣の2番目と3番目の横断アーチ間に這わされた二連アーチの左側の柱頭には、頂部のアバクスに市松模様を備えたアカンサスの葉が、中央円柱(複合柱)には②「噴水の水を飲む二羽の鳩」が、そして右側の柱頭にはアカンサスの葉を中心に、左右に「角笛を吹く二人」が表現されている。修道院回廊にあった柱頭と同じく、ベゴン3世修道院長の工房で制作された作品。
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3番目と4番目の横断アーチとの間の二連アーチの中央円柱(複合柱)の左側面には③「天使と預言者」が表現されている。踏ん張る様な姿の預言者を中心に左右に天使を配している。対する右側面には、「天使と預言者」(天を支える預言者)が表現されており、デフォルメされた天使は、円輪の上に立ち、落ちないように指先を曲げて縁を掴むなどの巧みな描写も素晴らしく、製作者の技術と秀逸なセンスが感じられる。頂部のアバクスには、神の手、グリーンマン、十字架を持つ羊が施されている。
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4番目の横断アーチを過ぎると、見学通路は、正面の二連アーチの手前から北袖廊(左側)へ向かっている。この場所からは、中央交差部が一望でき、中央ドームを支える四隅のスクィンチに浮き彫り彫刻が確認できる。南東角は「大天使ミカエル」で、その下の柱頭のアカンサスには色彩が色濃く残っている。ちなみに、北東角には、大天使ガブリエルが、北西角には、聖ペトロの頭部、南西角には聖パウロの頭部の彫刻が施されている。
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北袖廊の手前の二連アーチ右側の柱頭彫刻には④「吝嗇家を誘惑する二悪魔」が表現されている。そして、こちらは、北袖廊から中央交差部を通して南袖廊側を眺めた様子で、下のアーチ扉のある聖具室の壁面には、聖フォアの殉教を描いた15世紀のフレスコ画(連画)が僅かに残っている。その上には二連のアーチ窓の中央に「磔刑像」が飾られ、その上が階上廊(見学通路)となる。
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階上廊は北袖廊の東側から中央交差部に向かい、左折して天井廊を半円状に進む。


天井廊を抜けると、中央交差部(ドーム下)の南東側に到着する。正面が南側廊で、右側が身廊で、更に右側が北側廊の階上廊となる。中央交差部(ドーム下)の向かい側の南西角のスクィンチには「聖パウロの頭部」があり、
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その下のドームを支える南西側の複合柱には⑤「巻物を広げる天使」や、「書物を提示する天使」などが足の指で円輪を掴み前のめりで表現されている。それぞれ天使の上部には華やかな草花の文様の縁取りに加え、色彩も残っている。
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階上廊沿いの左隣(南袖廊側)の二連アーチの柱頭にもアカンサスの葉が彫刻されており、右端の柱頭には人物が見える。


⑥「蔓の間から顔を出すワイルドマン(グリーンマン)」で、水引のように編まれた蔓が特徴的な作品である。
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階上廊は南に向かい、南袖廊を回り込むように続いている。南袖廊の階上廊足元の庇飾りには「小さな怪物」が見える。小さい彫刻だが、覗き込むと表情なども確認できる。
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窓側にある柱の柱頭は、ピンク色の赤石から製作されている。⑦「尾びれを持つメルジーナ(セイレーン)」で、柱頭の角を背に、左右対称に2本の尾びれを持ち上げ柱頭面に押し当てている。頂部のアバクスには厚手の市松模様が施されている。
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階上廊は、南側廊に向かう。中央交差部側から数えて1番目と2番目の横断アーチの間から身廊側の二連アーチを見上げたところ。中央の複合柱には⑧「受胎告知」(正面が大天使ガブリエルで右側がマリア)で、左側の柱頭には、シュルレアリスムタッチの「幾何学的な体躯の人物」と、上部には2尾を掴む人魚や、魚が表現されている。
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こちらは、2番目と3番目の横断アーチとの間から、二連アーチを見上げたところ。中央柱には、アカンサスの葉から顔が見えるが、アカンサス柄のマントを羽織っている様に見える。右側には、ベゴン3世修道院長の工房で制作された⑨「剣と盾で戦う戦士」が、左側には「グリフィン」の彫刻が施されている。
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南側廊 階上廊の突き当りに到着した。正面の二層のアーチ窓がある壁面の先は、ファサード両側に聳える塔の内側となり、塔の正面にある窓からの外光が差し込んでいる。正面の壁は塔の周壁で、側廊の天井部を支える横断アーチとを兼ねている。その横断アーチを支える様に、身廊側に「アトラス像」の浮彫が施されている。


横断アーチを支える「アトラス像」は、北側廊階上廊のアトラス像と対になる。こちらのアトラス像は、アーチベイが重いのか、目を見開き、歯を食いしばった様な豊かな表情をしている。そして、隣の二連アーチの左端の柱頭彫刻には、剣と盾を持った兵士が向かい合う⑩「騎兵の戦い」が施されている。手前の兵士の後隣には、斧を持つ人物と、その腕を掴むもう一人の人物が表現されている。
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身廊側に視線を移すと、拝廊にあるパイプオルガンが見える。階上廊からの階段は、そのパイプラインの真下に続いており、内陣の方向を一望できる。この場所から見ると身廊の高さを実感できる。
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拝廊側から数えて1番目と2番目の身廊横断アーチ間の南側廊壁に、印象深い表情の①(Nef)「髭を蓄えたギリシャ人風のマスク」が飾られている(以下、身廊(Nef)、袖廊(Transept)の配置図を参照)。最後に、パイプライン横にある小部屋で展示用の柱頭彫刻の説明を受けた。こちらには、「演奏する音楽家と曲芸師」など数基の柱頭彫刻が展示されている。以上で概ね1時間のツアーは終了した。


次に、身廊から袖廊にかけて柱頭彫刻を見ていく。こちらは、中央交差部の手前となる身廊と側廊の間から拝廊側を振り返り見上げた様子で、左奥の拝廊にはバラ窓や先程までいたパイプオルガンや、ギリシャ人風のマスクなどが望める。
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そして、すぐ上の北側廊の境い目となる円柱の柱頭には②(Nef)「聖フォアの受難」が表現されている。右端が聖フォアで、左隣の男が、その手を掴み、隣の剣を携える死刑執行人の元に連行している。そして、その向かい側が、裁断すべく椅子に腰掛けるローマ総督である。総督の背後には悪魔が隠れている。裏側(拝廊側)には、③(Nef)「聖杯を掲げるキリスト」がある。
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こちらは、北袖廊から中央ドームを眺めた様子で南西角のスクィンチに「聖パウロの頭部」が望める。そして左側が礼拝堂の前廊でその左隣が礼拝堂になる。正面の柱頭は④(Transept)「アレクサンドロスの昇天」で、古代ギリシャ(マケドニア王国)のアレクサンドロス大王が、亡くなり左右の鷲に支えられ天に運ばれた伝説を現している。
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振り返った北袖廊の壁面には、南袖廊の磔刑像の場所と対になる位置に、照明に照らされた⑤(Transept)「受胎告知」の彫像が飾られている。表情や衣の表現など、タンパンの浮き彫り彫刻のタッチと似ている。向って右側のマリアの傍ら(柱の背後)には、衣の裾をたくし上げる侍従がいる。
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周歩廊の南隣にある「南袖廊の礼拝堂」手前の前廊を支える横断アーチの柱頭には「聖ペテロの生涯」を刻んだ浮き彫り彫刻が残されている。礼拝堂の手前右側には、損傷が激しいが、最も古い時代に制作された⑥(Transept)「聖ペテロの逆さ磔」で、キリスト教徒迫害が激化したローマ帝国第5代ネロ帝治世下において、キリストに再会し(クォ・ヴァディス)、ローマへ戻り、逆さ十字架にかけられて殉教した聖ペテロが表現されている。
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左側(東側)が南袖廊の礼拝堂となり、前廊の横断アーチの左側の柱頭彫刻が「聖ペテロの逆さ磔」で、右側が⑦(Transept)「聖ペテロの救出」の彫刻である。ペトロは、ユダヤ人の歓心を買おうとしたヘロデ王(古代ユダヤ統治者ヘロデ・アグリッパ1世)により逮捕されるが、天使に助け出されると言った場面。そして右側奥が南袖廊で磔刑像が飾られているのが確認できる。
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そして、「聖ペテロの救出」の上の横断アーチの向かい側の柱頭彫刻には⑧(Transept)「聖ペテロの逮捕」がある。左端がヘロデ王だが、右隣りのペトロは、天使を従えたキリスト側を向いているため、ローマへ戻るきっかけとなった2人の再会場面とも言われている。
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周歩廊側の柱頭には、父アブラハムが刃物を振り上げた瞬間に、上部に神の手が現れ、天使がイサクの腕を掴み生け贄を静止する場面⑨(Transept)「イサクの燔祭」が表現されている。

これでコンクとはお別れになる。ホテルをチェックアウトして、西駐車場に向った。

(2013.7.24~25)
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フランス・オーヴェルニュ(その1)

2013-07-23 | フランス(オーヴェルニュ)
フランスの中央高地に位置するクレルモン フェランにやってきた。クレルモン フェランは、オーヴェルニュ地域圏ピュイ=ド=ドーム県の首府で、人口は約14万人、近隣都市を併せ約40万人の都市圏を形成している(以下、オーベルニュ周辺図を参照)。

こちらは、市内の中心地「ジョード広場(Place de Jaude)」(約35,000平方メートル)を、北西側から南方向を眺めた様子である。広場には、南北にトラム(路面電車)の軌道(上下線)が敷かれ、1本の軌道を金属車輪がV字型に挟み、両側にゴムタイヤを装着するトランスロール・システムを採用している。
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ジョード広場の東北東側には、市の建築家ジャン・テイラード(Jean Teillard、1854~1915)設計による「クレルモン フェラン歌劇場」(オペラ劇場)(600人収容、1894年築)が建ち、南隣りの黒いビルには、クレルモン フェランを本社とする、フランスの地域日刊新聞社、ラ・モンターニュ(la montagne)が入っている。

ジョード広場は、古代ローマ時代から続く歴史的な地域で、1095年には、ローマ教皇ウルバヌス2世(在位:1088~1099)がこの地で教会会議を開き、第1回十字軍(1096~1099)の派遣を訴えた場所として知られている。その後、沼沢地となり衰退するが、1630年、西北西側に、黒いファサードの「サン・ピエール・デミニム教会」が建設され、併せて周囲に噴水と池が整備されて現在の広場の礎となった。
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クレルモン フェランはかつての火山性の丘に位置しており、周辺には休火山群の山脈が連なっている。街には、その火山性の黒玄武岩(ヴォルヴィックの石)を材料に、多くの建物が建てられ「黒い街」とも呼ばれている。現在の広場は、2006年にリニューアルされており、高さ22メートルの7本のモニュメント街灯が、日没後に広場一帯を華やかにライトアップしてくれる。その広場の中央には豪華な円柱のある台座の上に「ウェルキンゲトリクス騎馬像」(1903年築)が飾られている。
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騎馬像は、紀元前1世紀、古代ローマのガリア(現在のフランス)侵略に対して、ガリア諸部族をまとめ、ゲリラ戦などを展開し抵抗したフランス最初の英雄と言われるウェルキンゲトリクス(前72~前46)で、ローマ兵を乗り越え、雄々しく駆け抜ける馬上の勇姿が表現されている。ニューヨークの「自由の女神像」を制作したフレデリク・バルトルディ(1834~1904)の手によるもの。
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画像出典:ウィキメディア・コモンズ (Wikimedia Commons)

これから、そのジョード広場をバックにしてエタ・ユニ通りを北に歩いて「大聖堂ノートル・ダム・ド・ラサンプション」(クレルモンの被昇天聖母大聖堂)(クレルモン フェラン大聖堂)に向かうこととしている。


最初に現れた交差点を右(東側)に曲がると、レストランやカフェ、ショップなどが立ち並ぶ「グラ通り」となるが、まだ午前9時半では、人通りも少ない。150メートルほど歩くと「クレルモン フェラン大聖堂」の尖塔が徐々に大きくなってきた。左右通り沿いには、中世時代の歴史ある建物が並んでおり、左側には、12世紀頃のロマネスク様式や16世紀頃のルネサンス様式で建てられ、18世紀にゴシック様式で改築された建物が続いている。
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迫りくるような巨大な黒いファサードが印象的な「クレルモン フェラン大聖堂」の歴史は古く、最初の聖堂は、司教座が置かれた5世紀のことで、10世紀には、クレルモン司教のエティエンヌ2世(942~984)により前身となるロマネスク様式の大聖堂が建設された。
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現在のゴシック建築の大聖堂は、1248年にクレルモン司教ヒューズ デ ラ トゥール司教(1227~1249)が、建築家ジャン・デシャン(Jean Deschamps、1218~1295)に依頼し着工、1273年頃に主要箇所の身廊、南北袖廊などが完成している。しかし、その後は遅々として進まず、1851年になって前身のロマネスク様式のファサードが取り壊され、1884年、高さ96メートルの2つの尖塔のある西側のファサードと身廊の接続が完了し、最終的に1902年に完成している。

グラ通りは、大聖堂のファサード前が突き当りとなり、南北に通りが延びる丁字路となっている。その突き当りを右折し、大聖堂の外観に沿って回り込んだ南側にはヴィクトワール広場があり、中心にローマ教皇ウルバヌス2世の彫像が飾られている。

今朝は朝食を食べていないため、ファサード前から左折した、角の緑色の外観のオリーブオイル店舗「オリヴィエ&コー(Oliviers&Co)」の先隣の赤いシェードのあるカフェ(temps Thé)で遅めの朝食を頂くことにした。店内でブルーベリータルト、クロワッサン、カプチーノなどを注文した。
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大聖堂ファサード前の階段の上から西側のグラ通り(歩いて来た方向)を見ると、下り坂になっている。クレルモン フェランは、ガリア戦争後は、ローマ皇帝アウグストゥスに因み「アウグストネメートゥム」と呼ばれ、グラ通りは、東西に貫く基幹道路(デクマヌス・マクシムス)であり、現在の大聖堂の場所のなだらかな丘の上にはフォルム(フォロ・ロマーノ) (公共広場)があった。
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そのグラ通り入口の右側の古い建物の2階の窓上には12世紀頃に製作されたロマネスク様式の浮彫が残っている。ヨハネによる福音書にある「弟子の足を洗うキリスト」で、もともとは別の場所にあったリンテル(まぐさ石)を移設したと言われている。浮彫彫刻の人物像は、3頭身サイズで手が大きく強調されている。
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大聖堂のファサードを見上げると、その威容に圧倒される。直近で見ると黒色と言うより、日本のいぶし瓦色に似ている。ティンパヌムには、中央にキリストと福音書記者、向かって左下には聖母被昇天、右下には怪物の口の中をイメージした地獄図が刻まれている。
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大聖堂内に入り、振り返った拝廊側の扉口に向かって右側(北塔)の礼拝堂には、多くの歴代司教や聖人像が並んでいる。歴史のあるクレルモン フェランだが、もともとは聖公会の都市「クレルモン」と、1120年にオーヴェルニュ家が創建した「モンフェラン」の別の2つの都市だった。それぞれの都市は、何世紀にもわたり対立し、1630年に、両都市の合併を命じる勅令が発布されるものの、完全に統合できたのは、20世紀になってからだった。
クリックで別ウインドウ開く多数の司教を輩出した

そして、拝廊側の扉口に向かって左側(南塔)の礼拝堂には、聖母マリア像が祀られている。マリアは、鮮やかなコバルトブルーにラメ糸を織り込んだショールを身に着けている。鮮やかなステンドグラスから差し込む光と重厚な黒の祭室が見事に調和し、劇的な効果を生んでいる。
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上部のバラ窓部分を拡大して見ると、4人の福音書記者に囲まれたキリストを中心に、周囲にそれぞれ3人の聖人が表現された8枚の花弁が取り巻いている。人物の背景にも繊細な装飾文様が取り入れらているなど職人の高度な技術に関心させられる。
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では、拝廊側から、身廊先の後陣の方向を眺めてみる。この時間、東側の後陣のステンドグラスから入る明かりが、黒い身廊の柱に反射し、独特の荘厳さを醸し出している。その後陣にある高祭壇の後部には周歩廊があり、それぞれ美しいステンドグラスで彩られた5つの放射状の礼拝室が設置されている。
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高祭壇の真裏となる中央の放射状礼拝室には、ル ピュイ大聖堂の聖母子像とよく似た黒い聖母子像が祀られている。聖母は、金のベールを被り、やや大人びた顔の幼子を膝に乗せて玉座に座っている。聖母の上腕部は長く、不均衡なつくりとなっているが、幼子を抱きかかえる手は大きく安定感がある。。
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背景のステンドグラスには、フランス王家のユリの苗木(青い背景に金)とカスティーリャの塔(赤い背景に金)を表したデザインが数多く組み込まれている。これは、1262年、フランス王ルイ9世(1214~1270)が、息子で王太子の、後のフィリップ3世(大胆王)(1245~1285)と、イザベル・ダラゴン(アラゴン王ハイメ1世と2番目の妃ビオランテの娘)(1248~1271)との結婚式のために制作を依頼されたと考えられている。

周歩廊のステンドグラスの多くは、ルイ9世の命により建設されたパリのシテ島にあるサント・シャペル(サント·シャペル·デュ·パレ)を模して造られたもの。手の込んだ作品が多く、見始めると時間がいくらあっても足りないほど。こちらは放射状礼拝堂(東南側)のステンドグラスで、左側は「キリストの受難と昇天」、中央の複合ガラスは「キリストの子供時代」、「聖母の眠り」、「聖カプライスの伝説」などが、右側には、クレルモンの司教の聖ボニトゥス(在位:691~701)の生涯が表現されている。
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こちらは、高祭壇北側にある「セントジョージ礼拝堂」のステンドグラスで、連続して並べられたメダイヨン内に細かく聖書の場面が描写され、更に周りには、色とりどりの花弁など細かい装飾などがちりばめられる鮮やかな作品である。
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クレルモン フェランに隣接するローヌ=アルプ地域圏の首府リヨンには、ステンドグラス芸術の中心地と言われ、多くの工房があったが、円形、三葉、四葉などの様々な形のメダリオンのスタイルは、パリの工房に近いとされている。


北袖廊にあるポータルの周囲には、十字架降下やピエタを題材にした絵画が飾られている。右側の柱にある尖塔アーチには16世紀制作の金箔のジャックマート(ハンマーで鐘を打って時間を表示するからくり時計)が飾られている。高さ1.7メートルほどの3人の彫像があり、中央の長いあごひげを生やした老人の足元の時計が時を表し、左右に、交互に時間を打つマース(火星)とファウヌスのオートマトンが配置されている。ユグノー戦争後の1577年にイソワールの修道院から移設された。
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次に北袖廊の両側に建つ塔のうち、東塔(バイエットタワー)の250段の階段を上り詰め、展望台に上ってきた。鋭い切妻屋根の先のファサードの2本の尖塔の間には、お椀型の「ピュイ・ド・ドーム(標高1,464メートル)」を望むことができる。9キロメートルほどの距離で、日本でも広く販売されているミネラルウォーターのボルヴィックはこのピュイ・ド・ドーム山の地下水を利用して生産されている。
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反対側を眺めると、鋭い切妻屋根の先端に聖母マリアが街を見守るように設置されている。右側(南東側)に見える尖塔は「サン ジュネス デ カルメル教会(Eglise Saint-Genès des armes)」(13~14世紀築)で、遠方に見える山々は「リヴラドワ・フォレ地方自然公園」になる。
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北西方向には、広さ26ヘクタールの小高い丘「モンジュゼ公園」が望める。公園からは「クレルモン フェラン大聖堂」を中心に市内の街並みが一望できることから市民や観光客の人気が高いスポットである。なお、手前の黒い尖塔は「サン・ユートロープ教会」で、最初の教会は5世紀に創建、その後12世紀に改築され、現在の姿は14世紀にボルヴィック石を使用しネオゴシック様式で再建されたもの。
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視線を東方面にずらしてみる。黒い壁面の建物が所々に見えるが、上から街を眺めると、むしろ統一された赤い屋根の印象の方が深い。右側に望める2つの尖塔は「ノートルダム・デュ・ポール教会」の鐘楼と尖塔で、これから見学予定としている。ところで展望台の手すりの外側にガルグイユ(雨樋の装飾)が不気味に、にゅっと伸びている。。
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時間は午後12時になった。大聖堂を出て、フィリップ・マルコンブ通りを北に向けて歩く。振り返ると、こちらは北袖廊側のファサードで、先程までいた展望台は、一際高い東塔(バイエットタワー)側にある。東塔はもともと、西側と南袖廊のファサード左右の合計4本が聳えていたが現在は失われている。東塔は高さ50メートルで、市の鐘楼として機能しており、現在も17世紀の鐘が飾られている。そして、中央のファサード上部には、14世紀に遡る直径8.50メートルのブルーローズのバラ窓があり、南側のポータルの上には、対となる様に、オレンジローズのバラ窓がある。
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フィリップ・マルコンブ通りを北に向けて歩くと、右側に、ボルヴィックの黒玄武岩で建てられた「クレルモン フェラン市庁舎」(L'hôtel de ville)がある。正面に大きな5つのアーチ門が並び、中央の3つが出入り口となっている。2階にはポルティコとペディメントがある古典スタイルが採用され、左右両側は半地下を持つ3層構造となっている。入口を入ると、上り階段になりその先には広い中庭となっている。


すぐに、目の前が広がり、左手に公園が現れる。公園には、16世紀に、ボルヴィックの黒い石を使用し、ルネサンス様式で建築された「アンボワーズの泉」が建っている。クレルモン司教ジャック・アンボワーズ(1445頃~1516)の依頼により造られたもので、完成時には、ヴィクトワール広場の西隣にあったデリエール・クレルモン広場に水場として設置された。その後、いくつかの広場に移転し、1962年に現在の場所に落ち着いている。
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噴水には、アカンサスの葉、マスク、グロテスクな怪物などルネサンス様式の装飾が施されている。上部には、ひげを生やし、フリースで覆われ、武装した野生の戦士がアンボワーズ家の盾を持って立っている。そして下部には、八角形に豪華な装飾が施されたパネルがあり、周囲4箇所のマスクからは勢いよく水を噴き出している。

次の目的地「ノートルダム・デュ・ポール教会」へは、「アンボワーズの泉」の公園手前の三叉路を東に延びる「ポール通り」を進む。ポール通りは、石畳の下り坂で、レストランやショップが並んだおしゃれな通りである。三叉路から250メートルほど下った左側に建つビルとビルの間にブロンズの聖母像を頂部に飾った鉄製のアーチ扉があり、敷地内を入った正面が「ノートルダム・デュ・ポール教会」の南ポーチ前となる。
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もともと、6世紀初め、クレルモン司教(18代目)の聖アヴィトゥス(アヴィット)(525~595頃)によって創建された代表的なロマネスク教会で、9世紀にノルマン人が侵入した際に焼失し、1185年に再建された。13世紀から教区教会となり、1477年と1490年には地震により深刻な被害を受け、交差廊の尖塔が、現在の球根状の姿に置き換えられている。

フランス革命時には、尖塔と鐘楼が倒され、教会内部にある大半の家具類、聖骨箱などが失われるなどの被害を受けている。これらの被害は、既存の宗教の存在を敵視しフランス各地で略奪や破壊が行われた。その後、教会は、市場として建て替えが決定されるが、関係者の請願により救われた。そして、何度かの改修工事の後、2003年からは、石の洗浄や交換、接合部のセメントから石灰に戻し、タイルも復元されるなど往時の姿り戻しており、特に黄金比を駆使した均整のとれた美しいフォルムは高く評価されている。
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教会を含めたクレルモン フェランの街並みは、1968年作のフランス映画「モード家の一夜」(エリック・ロメール監督)のロケ地として使用された。映画は、タイヤ会社の技師を務める主人公(ジャン=ルイ・トランティニアン)が、ノートルダム・デュ・ポール教会のクリスマスのミサで見かけた敬虔なクリスチャンのフランソワーズ(マリー=クリスティーヌ・バロー)に心惹かれるところから始まる。その後、自由思想家で解放的な女性モードと出会い、正反対な女性二人との間で心が揺れ動いていく。。といったストーリー。雪景色のクレルモン フェランの風景をモノクロの映像で美しく描いていた。

ノートルダム・デュ・ポール教会は、オルシヴァルのノートルダム教会、イソワールのサン・オストルモワヌ教会、サン・サテュルナンのノートルダム教会、サン・ネクテールの教会と共に、オーヴェルニュの5大ロマネスク芸術の至宝の1つとして知られている(こちらが、5大教会のリーフレット表、裏(英語版)と、ノートルダム・デュ・ポール教会の紹介ページ(英語版))。

東側の後陣の先には、シュヴェ(屋根組み)を持つ4つの礼拝堂の建物が放射状に張り出している。それぞれ、コーニス(モディロン)装飾や、外壁の美しいモザイク・タイル(星型、菱形、矩形など)など、オーヴェルニュのロマネスク芸術の一例を示す技法が駆使されている。
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4つの放射状礼拝堂の内、中央の2つの建物外観には円柱が2本づつ伸び、柱頭に浮き彫り彫刻が施されている。南東側の礼拝堂の左側の柱頭には、植物を掴む2人の人物が表され、右側はアカンサスの葉で装飾されている。
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北東側の礼拝堂の左側の柱頭には、鷲の頭・翼と獅子の胴、蛇の尾をもつ古代ギリシャ時代からの想像上の動物「グリフォン」で、右側は、やはりアカンサスの葉で装飾されている。グリフォンは、中世では、キリストの死の運命と神性を象徴する聖獣として、ロマネスク彫刻で度々登場する。
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再び、ポール通り側に面した南身廊壁に戻り、見どころの一つである南ポータルの彫刻を見学する。ポータル左右には、11世紀制作のキリストの再臨を告げる預言者イザヤと洗礼者ヨハネの彫刻が飾られている。そして上部には、キリスト幼少時代のエピソード(東方三博士、神殿奉献、洗礼)を表したティンパヌムと、セラフィム(熾天使)に囲まれ、獅子マルコと雄牛ルカに足を乗せる「全能者ハリストス」のレリーフアーチ、更に最上部左右に「受胎告知」と「キリスト降誕」の小レリーフが施されている。
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現在、ポータルの上には、劣化防止のための張り出し屋根が設置されている。彫刻は、多色の痕跡を確認できるが、残念ながら顔が全て失われている。これはフランス革命時に行われた破壊の爪痕で、修復されないまま後世への戒めとして伝えている。絶対に許されることではないが、現在も、歴史的遺産の破壊行為(ヴァンダリズム)は後を絶たない。。

南ポータルの右側にある南袖廊には、二連アーチの中心柱の柱頭に彫刻が施されている。
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「イサクの燔祭」で、燔祭の子羊として神に捧げるために、祭壇の上に横たわる息子イサクに、刃物を振りかざそうとする父アブラハムの様子が表現されている。
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教会内に入るには、ポール通りから交差点を右折し、通り沿いに面した西側ファサードからとなる。西側ファサードには、地震崩壊後の16世紀にヴォルヴィックの黒玄武岩を用いて再建された尖塔アーチのポルチコ型ポーチがある。上部の鐘楼は、フランス革命時に破壊されたロマネスクの鐘楼に替わって、1827年にヴォルヴィックの黒玄武岩を用い、ネオ・ロマネスク様式で建てられたもの。白黒の連続アーチと格子柄のモザイク装飾がある2層で形成されている。
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ポーチの壁面には、 世界遺産登録、フランス歴史的記念物、欧州地域開発基金の投資対象などのパネルが掲げられている。「ノートルダム・デュ・ポール教会」の世界遺産は、1998年「フランスのサンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路」のオーヴェルニュ地域圏での建造物群として、ル ピュイ アン ヴレ大聖堂とともに登録されている。

教会内は周囲の窓からの採光により明るく照らされている。教会はラテン十字の平面図に基づき建てられており、シンプルな丸天井のある身廊と左右の狭い合計3身廊、6つのアーチ区分から形成されている。
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周歩廊先のステンドグラスの窓と放射状の礼拝堂は、フランス革命時に破壊されたため、中世時代のものは残っていない。現在のステンドグラスは、1844年に地元のガラス職人エティエンヌ・テヴェノ(1797~1862)により、新約聖書を主題として制作されている。


そして、一番の見所となっているのが、周歩廊手前と主祭壇との境とのアーチ群を支える8本の円柱の柱頭彫刻で、1150年代にサン・ネクテールの「ノートルダム教会」でも働いていたロベルトゥス(Robertus)による制作とされている。教会内は、2006年から2年をかけて、全ての石の清掃、20世紀の改修時のセメント接合部の除去、表面の漆喰修復、礼拝堂の修復が行われていることから、大変美しい姿を見せてくれる。
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主祭壇に向かって左端の柱頭は、アカンサスの葉で、隣の2番目の柱頭は①「悪徳と美徳との戦い」をテーマとしている(①から⑥は柱頭配置図を参照)。西北西面が、武装した貪欲と慈悲の2人が、盾を突き合わせて向かい合う「貪欲に対する慈善」で、
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時計回りに、自分の胸に剣を突きつける女性が表現される「怒りの自殺」、そして貪欲である悪徳を踏みつける「美徳の勝利」で、最後に、寄進者を表した「ドナーのステファヌス」へと続いている。

隣の3番目の柱頭は、アカンサスの葉で、次の4番めの柱頭は②「受胎告知」をテーマとしている。北北西面が、天使のガブリエルによりキリスト妊娠を告げられる「受胎告知」で、
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時計回りに、受胎告知を告げられたマリアが、エリサベトを訪ねる「マリアのエリザベト訪問」で、次が、大天使ガブリエルがマリアの従姉であるエリザベトの夫で祭司のザカリアに聖なる子(洗礼者ヨハネ)の誕生を告げる「ザカリアへのヨハネ誕生の告知」、最後に、主の天使がヨセフの夢の中に現れキリスト誕生を告げる「ヨセフの見た夢」で、天使は、ヨセフの舌を引っ張っている。

5番目の柱頭は③「失われた楽園の悲劇/原罪」をテーマとしている。南南西面が「蛇に誘惑されたイブ」で、
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時計回りに、エデンの園に現れた神がアダムの追放の決定を下す「神の裁き」で、次が、天使がアダムの顎髭を掴み、アダムがイヴの髪を引く「天使による追放」
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そして最後に、「禁断の庭」へと続いている。

6番目の柱頭は④「聖母の被昇天」をテーマとしている。南西面が、聖母マリアが、キリストにより墓から取り出される「聖母の復活」で、
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時計回りに、オリファント(象牙製角笛)の響きが聞こえてくるかのような「エルサレムの勝利」で、次が「天国の門を開く」、そして「生命の書のマリアの碑文」へと続いている。その隣の7番目と最後の8番目の柱頭にはアカンサスの葉が彫刻されている。

ナルテックスや身廊などにもアカンサスの葉、花、鳥などが施された柱頭彫刻が見られるが、こちらは、周歩廊の礼拝堂脇にある柱頭で、悪魔(サタン)の口の中にある地獄にとらわれる人々を表現する⑤「地獄の口」である。


そして、こちらには、霊により荒れ野に送り出されたキリストが、悪魔(サタン)の試みを受ける⑥「荒野の誘惑」が表現されている。


最後に、地下にあるクリプトの礼拝堂に向かった。聖遺物容器風の黄金祭壇があり、上部のアーチ内に30センチほどの小さい黒い聖母子像「ポートの聖母」が祀られている。黒檀色に塗られたクルミで作られており、聖母は胸の前に幼子を抱き、頬を寄せている。聖母像については、6世紀に記録があるものの、その後の詳細は不明で、現在の像は、1734年に制作されたもの。
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1時間ほど見学を終え教会を後にした。この日は見学者が少なくゆっくり見学できた。帰る道すがら、クレルモン・フェランの英雄3人のメダルを埋め込んだ石畳に気がついた。中央がウェルキンゲトリクスで、左上がパスカルの原理や「人間は考える葦である」など名言で知られるブレーズ・パスカル(1623~1662)で、右上がウルバヌス2世である。


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昨夜はル ピュイ アン ヴレ(以下:ル ピュイ)に宿泊し、今朝、スペインにある聖地サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼路への「ル ピュイの道」の出発地点、ル ピュイ大聖堂(ノートルダム・ド・アノンシアション大聖堂)にやってきた。これからオーヴェルニュ地域圏を中心に、周辺地域を含めて、ロマネスク様式などの歴史的建造物群を巡る旅に出発する(以下、オーベルニュ周辺図を参照)。


ル ピュイからは、午前11時半に県道589号線を南西方面に向けて出発し、1時間半ほどで、観光案内板が掲げられたソーグ(Saugues)の街並みを見下ろす展望台に到着した。ソーグは、標高960メートルにあり、オーヴェルニュ地域圏オート=ロワール県の人口2,000人ほどの小さなコミューンで、モンドゥラマルジェリドとアリエ渓谷の間にある。ル ピュイからは西に約45キロメートル、クレルモン フェランからは南に120キロメートルに位置している。
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展望台からはル ピュイでもお馴染みのオーヴェルニュ特有の赤い屋根が広がっている。ソーグ近郊と周辺の山々は、フランス革命前夜にジェヴォーダンの獣による被害が起きた地方で、市内にはジェヴォーダンの獣博物館がある。展望台からは、中心部に建つ「サン・メダール教会」(Collegiale Saint-Medard)や、13世紀にイングランド人パルチザンを取り除くために建てられた四角い塔トゥール・デ・ザングレ(イングランド人の塔)を望むことができる。

「サン・メダール教会」のポーチはロマネスク様式の分厚い半円アーチで、南側の広場に面している。広場にはブロンズ製の大きな十字架像が飾られている。教会は、ノワイヨンの聖メダルドゥス(メダール)(456頃~560)に捧げられ、12世紀に初期の小さな教会が建てられ、13世紀後半から14世紀始めにかけて拡張された。現在の姿は16世紀からで、19世紀には西側に身廊が拡張され、黒いヴォルヴィック石のファサードがネオゴシック様式で追加されている。
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教会内の南壁付近は、初期のロマネスク様式の痕跡を示しており、北壁と東側の後陣は、オジーブ(天井の対角線リブ)のアーチ型建築と古典建築の混合となっている。ル ピュイ出身の金細工職人による12世紀の威厳のある聖母や15世紀のピエタなどが飾られている。
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(2013.7.23~24)
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