カズさんの旅たび

 ~歴史、文化、芸術、美食紀行。。

インドへの旅(その9)ラージギル~七葉窟

2013-03-17 | インド(仏跡)(その1)
ラージギルでの朝、昨夜泊まったホテルはラージギルのバススタンドの向かいにあった。このためか、車のクラクションなどで騒音が酷く耳栓をして寝たが、それでも良く寝られなかった。
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8時にチェックアウトをして、屋台でチャイ(甘く煮出したミルクティー)を飲んだ後、南の王舎城方面に向かう。竹林精舎の手前の三叉路に遺跡があった。アジャータシャトルのストゥーパである。車を停めて見学をする。
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1メートルほどの高さの石垣が組まれていた。ストゥーパの基盤なのだろうか。その上に更に小さな石垣があり、数本の柱らしいものが見える。
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その後、竹林精舎の南に車を停めて、南西方面に歩いて温泉地に向かう。
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道路沿いには土産を売る人や布施を求める人などがいる。こちらではトマト等で飾られた豆モヤシを売っている。
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橋を渡るとヒンドゥー教の寺院が見えてきた。
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祠内の神はハヌマーンである。インドの一大叙事詩ラーマーヤナで、ヴァナラ(猿族)のハヌマーンは怪力と無私の忠誠心で、ビシュヌ神(宇宙の維持の神)の化身であるラーマ王子を助けて、魔王によってスリランカに幽閉されたラーマ王子の妻シーターの救出作戦に大活躍する。温泉地であるため、お参りする信者も裸である。祠の壁にもハヌマーンがいる。
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寺院横の壁の上から覗き込むと、下に裸の男たちや洗濯をしている人たちが見える。階段を下りてみると、周りにはお湯があふれていた。
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ワニ形の口から勢いよくお湯が出てくる。触ってみると、お湯は熱くもなく温くもない。適温である。
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一画に階段があり更に下に降りると温泉地になっている。裸の男たちが見える。
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温泉地の後方(西方面)は五山の1つヴァイバーラ山があり、斜面には七葉窟がある。七葉窟は、仏陀がクシーナガルで入滅した後、500人の弟子(阿羅漢)たちが集まり。第1回の経典編集会議が開かれた場所であるという。五百羅漢の云われは、この七葉窟に集まった阿羅漢のことである。

そのヴァイバーラ山への階段を上って七葉窟に向かう。階段の遺跡は「ピッパラストーンハウス」と言い、仏陀の弟子の1人マハー・カーシャパ(大迦葉)が好んで滞在したところと言われる。
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上ってみるが、ピッパラストーンハウス上には、何もない。
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七葉窟に行くには更に山を上るようだ。右手には洞窟らしき窪みが見える。
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近づいてみるが、人が入り込むほどのサイズではないようだ。
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ピッパラストーンハウスの上から北側を望む。
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視線を右に移して行くと、眼下には先ほどまでいた温泉地のある寺院が見える。右(東方面)に見える山は、五山の1つヴィプラ山である。
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西方面の山頂に向け他の巡礼者と一緒に階段を上っていく。
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振り返ると、後にも多くの巡礼者や観光客が上がってくる。前方(東)のヴィプラ山と現在上って来ているヴァイバーラ山との谷間が旧王舎城の北門にあたる。
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結構遠い。15分ほど歩いただろうか。途中に寺院が現れ、道が平らになった。そろそろ頂上は近いのだろうか。
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それにしても道のあちこちに牛の糞が落ちている。インドでは、回りだけでなく、足元にも注意が必要だ。さらに進むと正面に再び寺院が見えてきた。道は行き止まりに見える。
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道端に座り込んでいる地元民に七葉窟の場所を聞くと、寺院入口の手前の右の階段を降りろと言う。
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人々が集まっている。七葉窟が見えてきた。七葉窟の上が山頂方面であり、七葉窟は斜面に位置している。
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七葉窟から少し目をそらすと、ここがヴァイバーラ山の北斜面であることがよくわかる。
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巡礼者や僧侶が、洞窟に向かって経を唱えている。
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人が入れそうな洞窟が見える。
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覗き込むが、奥が見えない。少し深いようだ。ライトを照らしながら数メートル進むと洞窟内の奥が見える。
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やはり多くのロウソクに火が灯されている。
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洞窟内は、狭い上、人の出入りが多く足元の砂が舞い上がって少し息苦しい。合掌してすぐに引き返した。時間は9時半を過ぎていた。ドライバーのヴィージェイは、そろそろ次の目的地であるパトナに行こうと言う。しかし、私はあと1か所どうしても行きたい場所があった。昨日から何度も通っている王舎城内にあるマガダ国当時の戦車の轍である。

南門へ向かう街道を下り霊鷲山へ向かう三叉路あたりのはずだ。しかし昨日も見つからなかった。再度、南に車を走らせ、地元民に聞く。霊鷲山への三叉路を通り過ぎた左手に城壁のようなものが見え子供たちが数人見えた。
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車を降りて城壁内に入り込むと轍があった。しかし、他に観光客は誰もいなかった。
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マガダ国のビンビサーラ王は、この五山に囲まれた、王舎城を首都とし、富国強兵策に成功したといわれる。次王アジャータシャトルの時代には、強国だったコーサラ国を併合し、インド統一への道筋を作ることとなる。マガダ国が最強となって行く背景の1つに、領内にある鉄鉱石や森林資源を擁していたことがあると言われている。この戦車の轍は、当時のマガダ国の繁栄ぶりを覗わせる。見学後、街道を再度、北方面に戻り、パトナへ向け車を走らせる。王舎城の北門を抜け、温泉精舎を越え、竹林精舎を越える。すると、また城壁らしきものが見えてきた。
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こちらはアジャータシャトルが作った新王舎城の城壁の跡であろう。ダイバダッタにそそのかされ、ビンビサーラ王を餓死させて王になったアジャータシャトルは、その後事の重大さに気づき、医師ジーヴァカのすすめで、彼のマンゴー園で、仏陀の教えを聞き、罪を悔い改めたという。
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時間は10時20分である。これでラージギルで予定していた場所は終了である。次の地、ビハール州の州都パトナーに向け急ぎ車を走らせた。
(2012.11.22)
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インドへの旅(その8)ラージギル~霊鷲山

2013-03-16 | インド(仏跡)(その1)
ナーランダーで昼食を済ませ、再びラージギルに戻ってきた。これから竹林精舎の見学に行く。竹林精舎は、ガヤー・シーサーからカーシャパ3兄弟の1,000人の比丘たちと共にこの王舎城に訪れた仏陀に対して、マガダ国王ビンビサーラ王が寄進した精舎である。竹林精舎は、サンスクリット語でVenuvana-viharasと言い、最初の仏教寺院である。また迦蘭陀(カランダカ)長者が所有していた土地であることから、迦蘭陀竹林ともいわれている。
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入口でチケットを購入しゲートを抜け園内に入ると赤い衣を着たミャンマー僧らしき僧侶がいた。
ところで、マガダ国王のビンビサーラ王が、仏陀に竹林精舎を寄進したのは、出家したばかりの若き日のシッダールタ(仏陀)と面識があったからである。コーサラ国と対峙していたマガダ国の若きビンビサーラ王は、コーサラ国の隣国にあるシッダールタ(仏陀)の釈迦族を味方につけるべく、軍隊と必要な財力の提供を申し出て、シッダールタの出家を思い留まらそうとした。
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シッダールタは「自分が釈迦族の王子の位を捨て出家したのは、自分の欲望をかなえるためではなく、欲望を捨て世俗を離れるためである」と申し出を断った。これに対して、ビンビサーラ王は、「あなたはきっと悟りを開かれるであろう。悟りを開かれた暁には、再度、わが国に来て、その尊い教えを説いてほしい」と述べたという。
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入口から右手に歩くと大きな池(カランダカ池)が現れた。池の向こうには祠があり、仏陀の像が祀られていた。
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竹林精舎は、王舎城の北門から500メートルに位置しているが、現在のラージギルの中心にあたるため、交通量も多く騒々しい。しかし一歩園内に入ると静寂に満ちている。
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園内の竹林はまばらにしか残っていない。日本の竹林と違って、数十本が束になり大きな傘を作っている。このため、遠くから見ると1本の大きな木に見える。
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竹林精舎が完成してまもなくの頃、サーリプッタ(舎利弗)とモッガーラナ(目連)がサンジャヤ(非バラモン教の懐疑論者)の弟子250人とともに仏陀に帰依し教団に参加した。これにより教団はカーシャパ3兄弟とその弟子を含め総勢1,250人となるが、この2人は、後に仏陀の1、2番弟子となる人材でもあり、2人の仏陀への帰依こそが教団を一層飛躍させる結果となった。

30分ほど見学した後、竹林精舎から王舎城の北門から南に延びる街道を通り霊鷲山に向かう。しばらく進むと右手に遺跡が見えてきた。遺跡の手前を右折すると、遺跡への入口があり「MANIYAR MATH」と書かれた看板があった。さらにその奥にも道が続いていた。
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その道をしばらく走ると正面に石窟らしきものが見えて行き止まりとなった。
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正面には「SONEBHANDAR」の表示があった。ここは、ビンビサーラ王時代の国の保管庫と言われている。正面に大きくくり抜かれた洞窟があるが中には何もなかった。当時は財宝などが保管されていたのだろうか。
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元の街道に戻り更に南に走行を続けると、左手に観光客が集まっていた。ここにはビンビサーラ王の牢獄の跡と書かれた案内があった。これらの石壁は牢獄の外壁の跡なのだろう。石壁の周囲は60平方メートルあり、実際に鉄製の足かせが発掘されたという。
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仏陀の晩年のころのことである。仏陀の従弟であり弟子であったダイバダッタは、より厳格な戒律と禁欲主義を主張し、仏陀と対立していた。ダイバダッタは、仏陀から離れて活動していた。彼はビンビサーラ王の王子アジャータシャトルに対して「人生ははかりしれない。もし短命なら王につくことなしに、王子はそのまま寿命は尽きるであろう。父王を亡き者にし王となれ。私は仏陀を殺して仏陀となろう。」とそそのかした。善悪の判断基準を失った王子は、ビンビサーラ王を王宮の牢獄に幽閉し餓死させたという。

時計を見ると15時半を過ぎていた。日の入りが近い。今日は、霊鷲山からサンセットを見る予定にしている。
霊鷲山(耆闍崛山(ぎじゃくっせん)とも言う)とは、仏陀が特に好んで法を説いた場所で、観無量寿経、法華経、般若経などの経典をこの場で説いたとされている。ビンビサーラ王の牢獄の跡から、数メートルを南に行くとすぐに左手に延びる道が現れた。これが霊鷲山への道である。この道をしばらく進むと左手に遺跡が現れたが、日の入りまでの時間が残り少ないので見学は後回しだ。すぐに霊鷲山への駐車場に到着したが多くの車や馬車が停まっていた。
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霊鷲山の頂上には、香室跡があり、仏教徒の聖地となっている。この霊鷲山に向かうには、二通りの方法がある。一つは、ロープウェイに乗って霊鷲山の隣のラトナギリ山(多宝山)の頂上に向かいそこから歩いて下って行く方法と、直接、麓から霊鷲山に向けて歩いて上る方法である。
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ビンビサーラ王は、頻繁に仏陀のいる霊鷲山の頂上に向かったため、多数の人員を動員して、麓から山頂まで石畳を敷きつめた通路を作った。現在この通路は王の名にちなんでビンビサーラロードと言われている。ロープウェイ乗り場は混雑していたためビンビサーラロードを歩いて山頂に向かうことにした。
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ビンビサーラロードは、スロープになっている。前方から、牛が直進して来たため、横に避ける。
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左には人馴れしたサルが座っている。
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ここ王舎城や霊鷲山は、法顕(335~421)、玄奘三蔵(602~664)の紀行文で紹介されているが、その後は歴史に埋没してしまいその位置すら特定されなくなった。
1902年12月、インド仏蹟調査を進めた大谷探検隊(注)は、前正覚山の調査後、ここ王舎城に入った。当時のこのあたりは虎の出没が頻繁だったため一行は2頭の象に乗り、荊棘と竹林を書き分け、翌年1903年(明治36年)1月14日の早朝、朝日に照らされたこの山を経典上の霊鷲山と比定した。その後、インド考古局第3代目の長官ジョーン・マーシャルの調査によって国際的に承認された。
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(注)19世紀末~20世紀初頭、中央アジアでは、スウェーデン、イギリス、ドイツ、フランス、ロシアの各国探検隊が続々と参入し、埋蔵文化財の獲得競争が繰り広げられた。日本からは、浄土真宗本願寺派第22代法主・大谷光瑞(鏡如上人)が、中央アジアに学術探検隊(大谷探検隊)を派遣し、数々の美術品や仏典を持ち帰るなど大きな成果を挙げた。

現在でも眼下を見渡すと、南北を通る街道と遺跡に続く数本の道があるだけで、一面に灌木の藪が覆い茂った森が広がっている。ここが、王舎城があった場所である。
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10分ほど上っただろうか。土産物を売る青年が2人おり、その左側に階段が見える。この階段を上るとロープウェイの降車地点、ラトナギリ山に向かうという。現在時刻は15時50分。霊鷲山でサンセットを見てからだと日が暮れるし、ラトナギリ山に行くのは時間的に難しいのではないか。青年にラトナギリ山までの所要時間を聞くとすぐだと言う。少し悩んだが急ぎラトナギリ山に向かうことにした。道の途中途中に岩だらけの抜け道もあったためショートカットしながら汗だくになり更に10分ほど上り続けた。
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やがて道がなだらかになり、土産屋も現れて正面に巨大なストゥーパ「世界平和塔」が見えてきた。多くの観光客がいる。家族連れも多いようで観光地になっているのであろう。
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ここは、日本山妙法寺によって1969年に建立された仏舎利塔である。急ぎストゥーパの繞道を周り礼拝する。
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ストゥーパ後方から眼下の景色を眺めた後、再び階段を下り霊鷲山に向かう。
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階段を下りていると、上っている時に気が付かなかった霊鷲山頂上の香室跡が見える。しかし、人は少ないようだ。やはりロープウェイが混んでいたのは、ラトナギリ山(多宝山)に行くことが目的で、霊鷲山には行かないのか。そういえば階段を下りる人も少ない。ほとんどの人はロープウェイで往復するのか。
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さすがに下りである。あっと言う間にビンビサーラロードに戻り、霊鷲山方面に向かって上った。途中に霊山橋と書かれた橋があった。日本の協力で建設されたそうである。
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右の斜面に階段があり上には洞窟が見える。そばにいる人たちは、韓国からの巡礼者のようだ。
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洞窟内にはロウソクに火が灯され、金箔が貼られ、線香があげられていた。
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さらに上っていくと、再び、洞窟が現れ、多くの巡礼者が経を唱えていた。彼らも韓国からの巡礼者のようだ。これらの洞窟には、当時、仏陀や弟子たちが集まり、座禅、瞑想していた場所であるという。香室跡は、左に見える階段を上ったところにあるらしい。そばには駕籠屋のお兄さんが待機していた。
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正面に見える岩を回り込む。
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岩上を見上げると、霊鷲山の名前の由来となった鷲の峰と言われる岩があった。
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さらに回り込むと前方が開け、香室跡が現れた。やはり巡礼者が少ない。なんともラッキーである。時間は16時半になっていた。サンセットまでまだ時間がある。汗を拭きながら、少し香室跡から離れ呼吸を整える。
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日の入りが近づくと、管理しているらしい僧侶以外の巡礼者はいなくなった。せっかくなので、香室内に座ると、僧侶が写真を撮ってあげようと言うので、お願いした。
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香室内で合掌した後、写真を撮ってもらい、謝礼をして、後ろに下がって日の入りを眺める。最高の眺めである。
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16時50分、日の入りである。
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さて、急ぎビンビサーラロードを下って行く。途中で香室を見上げると、先ほどの僧侶の姿が見える。
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下山後、通り過ぎた遺跡に寄る。医師ジーヴァカの果樹園の跡である。ジーヴァカは仏陀とその教団に対して援助を行った。
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その後、ホテルヒルズクイーンズにチェックインをする。場所は、ラージギルの中心地である。
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いつものとおり、酒屋でビールを買いホテルでつまみと一緒に飲みほし、食事に向かう。
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20時40分になった。今夜もカレーである。2人分で180ルビー、しかし今日は昼もカレーだったので2食カレーとなった。2食カレーは胃にきつい。。
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(2012.11.21)
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インドへの旅(その7)ナーランダー

2013-03-14 | インド(仏跡)(その1)
ブッダ・ガヤーのホテルを8時にチェックアウトし、ナーランダーに車で向かう。距離は北東約90キロである。ナーランダーへは、途中、八大聖地の一つラージギルを通過することになる。8時半頃、パルク河を渡る手前の屋台で朝食にする。が、今回もやはり菓子とバナナで済ませる。
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その後、パルク河を渡り東に向かう。途中までは昨日に行った前正覚山へのルートと同じである。するとはねられていた犬が昨日のまま放置されているではないか。近くには数件の店が並んでいるにもかかわらず、どういうことなのか。
しばらくすると、左手(北側)に山が連なっているのが見える。前正覚山からラージギルにかけて伸びる山脈である。
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2時間ほど走ると前方に山の切れ目が見えてきた。
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すると、前方にカラフルな門が現れた。この門がラージギルへの南入口にあたる。古代インドには十六の大国があったが、その中でも特にマガダ国、コーサラ国、ヴッツァ国、アヴァンティ国の4か国が勢力を誇っていた。このラージギルは、仏陀が活躍していた時代、マガダ国の首都であり「王の住居」と言う意味でラージャグリハと呼ばれていた。漢訳では「王舎城」という表記で知られている。
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ラージギルは、自然に形成された5つの山(ヴァイバーラ、ソーナ、ウダヤ、ヴィプラ、ラトナ)の連なりに囲まれた中にあり、外的から身を護るにはまたとない堅牢な自然の要塞である。この辺りが当時の王舎城の南門にあたる。
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東西に城壁が続いているのが見える。マガダ国は、紀元前6~5世紀、シャイシュナーガ王朝第5代、ビンビサーラ王の治世時に強大となり、ガンジス川流域の平原を支配した。更にその後、諸王国を平定し、マウリヤ朝のもとでインド初の統一帝国を築いて行くことになる。
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南門から北に向かって車を進めると、すぐ右手に遺跡が見えてきた。最近発掘されたものであるという。
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さて、ラージギルの見学は後程とし、ラージギルの市内を北東方面に抜けて、ナーランダー遺跡の見学に向かう。
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ナーランダー駅の手前を左方面に行くとナーランダーの遺跡地区である。前方にゲートが見える。ラージギル市内からは30分程の距離であった。
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ナーランダーは、5世紀のグプタ朝時代に僧院が建設され、その後伽藍が築造され、12世紀にイスラム教徒に破壊されるまで、仏教学の一大センターであった。玄奘三蔵も5年間にわたり研鑽を積んだ地である。
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仏陀が活躍していた時代には、まだ僧院はなく寒村であった。齢80を迎えた仏陀は、最後の旅をラージャグリハから故郷を目指して旅立ち、最初に訪問した土地がこのナーランダーである。この地では富豪パーヴァリカが所有するマンゴー園に滞在し、多くの修行僧たちに法を説いたという。その後、仏陀はパトナ、ヴァイシャリーに向かい、クシナーガラで病に倒れて涅槃に至ることとなる。
また、ナーランダーは、仏陀の十大弟子のサーリプッタ(舎利弗)とモッガーラナ(目連)の生誕の地と言われている。
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最初にナーランダー博物館に向かった。小さな博物館であった。
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館内の写真撮影は禁止であった。外にも仏像が置かれていた。
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博物館を20分程見学した後、西方面にある遺跡地区に向かった。
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正面に煉瓦が積まれた巨大な僧院跡が見えてきた。便宜上、左側が僧院1で、右側が僧院2と名付けられており、その間から遺跡地区に入ることになる。なおこの遺跡地区には、全部で11の僧院跡と14の寺院跡がある。
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遺跡地区に入り、僧院1の上から、入口方面を眺める。
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僧院は、僧侶一人ひとりの部屋に区切られている。玄奘三蔵は「大唐西域記」の中で僧は数千人おり、外国にまで名声馳せている僧は数百人以上いると記録している。
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部屋には風通と明り取りのための窓が設けられている。
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地面には、柱が建っていたと思われる窪みが残されている。
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あちらこちらにグプタ朝時代の仏像が祀られた仏塔がある。
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こちらには細かく浮彫された円柱が建っている。
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僧院の間には煉瓦を積み重ねた小さなストゥーパが数多く並んでいる。
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これは椅子だろうか。小さな仏像が一面に彫りこまれている。隙間なく仏陀像の浮き彫りが見える。
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後ろ側から見てみるが、やはり仏陀像がびっしり並んでいる。よく見ると段ごとに異なった印相で、一体毎に微妙に表情が異なっているのがわかる。
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西にある僧院2から、東の僧院群を眺める。
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遺跡から西側を眺めると、建造物は見当たらず、古代から変わらないであろう風景を眺めることができる。
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僧院2の上から、南西方面には一際目をひく三層からなるストゥーパが見える。第3ストゥーパと呼ばれてるが、仏陀の弟子であるシャーリープトラ(舎利弗)を記念して建てられたものだと言われている。
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近づいて第3ストゥーパを見る。午前中はこの位置からだと逆光になり良く見えない。
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西側に移動してみる。
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西側からストゥーパ見ると正面にある階段は前方になだらかに伸びているのがわかる。
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第3ストゥーパの裏側(南側)に回ってみる。こちらにも遺構が多い。右側にはひときわ大きく白みがかった仏塔が見える。
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仏塔には、龕が設けられており中に仏像が飾られている。下部の倚像や立像の顔は破損しているが、上部や中ほどの坐像は顔もしっかり残っている。
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時刻は13時半になっていた。1時間半ほど見学しただろうか、道路沿いのレストランに行き、傾いた土間に置かれたテーブルで傾きながら昼食をする。
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やはりメニューはカレー(ターリー)しかない。ライスはなくチャパティのみであった。味はまあまあであった。ビールはない。
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その後、ラージギルに戻った。
(2012.11.21)
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インドへの旅(その6)スジャータ~前正覚山

2013-03-13 | インド(仏跡)(その1)
このブッダ・ガヤーのマハーボディー寺院南側にある蓮池をムチャリンダ池と言うが、ここから南に2、3キロメートル下ったナイランジャラー河(尼連禅河)沿いに、ムチャリンダと名付けられた村がある。
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現地では、そこにある池こそがオリジナルの蓮池(ムチャリンダ池)であると言われている。ぜひとも見学したいと思い、マハーボディー寺院の見学後に車で向かった。狭い道路の両側には住宅が立ち並んでいる。
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数人の地元民に道を尋ねながら進んでいくと、畑の畔道が現れ左手に樹木で覆いかぶさった池が現れた。周りには、牛が数頭座り込んでいた。
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周りはゴミだらけである。しかし、この乾季にも関わらず、池の水はなみなみとしている。マハーボディー寺院の蓮池とこちらの池のどちらが、本物であるかはもちろん誰もわからない。ただし、ここの池には建造物がまったくないため、ゴミを取り除くと仏陀が生きていた時代の風景に近いのは間違いない。
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その後、スジャータ村に向かった。スジャータ村は、ブッダ・ガヤーから東に直線距離にして2キロメートル弱のところに位置している。車で行く場合は、マハーボディー寺院から一旦500メートルほど北に行き、右折してナイランジャラー河に架かる橋を渡る。
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橋を渡ったところが、スジャータ村になる。スジャータ村とブッダ・ガヤーとの間に流れるナイランジャラー河は、現在乾季に当たるため雑草で覆われている。ところが雨季になると、一面大河になり、長雨の際は洪水に見舞われ、この橋も利用できなくなる。
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スジャータ村のさらに東側には、マハーナディー河が流れており、北に5キロメートルほどいったところで、2本の河は合流して1つの河(パルク河)になり、ガヤー方面に流れていく。

スジャータとは、シッダールタ(仏陀)が悟りを得る直前に乳がゆを供養しシッダールタの命を救ったという娘である。ここにスジャータ寺がある。
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真新しい祠があり、中に仏陀像と乳がゆを差し出すスジャータ像が祀られている。申し訳ないがあまり有難さを感じにくい像である。
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右側に菩提樹の木があり回り込むとそばに扉が付いた小さな祠がある。
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こちらの祠の中は、苦行により痩せ細った姿のシッダールタ像が祀られている。
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菩提樹の根元に祀られたストゥーパの浮彫は素晴らしい。多くの仏陀坐像が彫られている。
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祠のあるスジャータ寺の近くには白亜の寺院がある。
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周りには、子供たちが数人遊んでいる。寺を出ると、10ルビー欲しいとすごい勢いで近付いてくる。無視して車で立ち去るが、いつまでも車を追いかけてくる。なんとも心が痛くなる思いであった。
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スジャータ寺から車で5分ほど南東方面に下ったマハーナディー河沿いに、ウルヴェーラー村がある。ここには、苦行林があったと言われる。仏陀が6年間におよぶ苦行を実践した場所はここなのだろうか。現在は、ヒンドゥー教の小さな寺院があり、入口には仏陀の座像がある。
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何をするわけでもなく、住民が数人座っている。
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我々が近付くと、当然のように近付いてきて、しゃべりかけてくるが、全く無視をとおし、一通り見学して、数分で退散した。退散途中にも、女性数人が手を出しながら、布施を要求してきた。退散しながら、ヒンドゥー教をあらためて眺めると、周りは林で覆われており、苦行林の場所はここなのだという気になり来れてよかったと思った。
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ナイランジャラー河の方面を眺めると、数人がマハーボディー寺院の方角に歩いているのが見えた。乾季ならではの風景だ。
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その後、スジャータの徳をたたえて作られたというストゥーパに向かった。思ったより巨大なストゥーパである。ストゥーパの後方(北東方面)には、小さく山が見える。
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この山は、前正覚山(プラークボディー山)と言う。プラークとは(前)の意でボディーとは(さとり・正覚)を意味する。シッダールタは、苦行林で6年間に渡る修行を行ったが、悟りを開けずにいた。シッダールタは、この山で悟りを開こうと向かい、山中の石室で足を組んで座ったという。
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子供たちがストゥーパの上で遊んでいた。
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次に、北東方面に見える前正覚山に向かうことにした。ブッダ・ガヤーからは北東に直線距離で6キロメートルほどの距離に位置する。スジャータ村からは、東に流れるマハーナディー河を越えることになるが、直接の橋は架けられていないので、一旦、渡ったナイランジャラー河を再び渡り、ガヤー方面(北)に向けて進み、先の大橋を渡って行くことになる。ガヤー方面に車を走らせていると、ナイランジャラー河の向こうに再び前正覚山が見えてきた。
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前正覚山とは逆に左前方に山が見えてきた。こちらはガヤー・シーサー(象頭山)である。仏陀は、この山頂で火の献供を行っていた行者カーシャパ3兄弟とその弟子1,000人を前に、「燃えているのは、儀式の火ではなく、実は自らの欲望である。火の献供を実行したところで、自らを清めたり欲望を離れることができない」と説法を行った。
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マハーナディー河はパルク河に合流する。北上するとガヤー市が近づいてきた。時刻は13時半になった。交差点で右折したところでドライバーのヴィージェイが食事にしようと、車を停めたが屋台はハエだらけでまったく食欲がわかなかった。私はバナナで済ませ、その後パルク河を渡り前正覚山に向かった。
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途中、道路上に犬の死骸があった。まだはねられてそんなに時間がたっていないようだ。ハイウェイ上でも2度遭遇したので3匹目である。しばらく走ると「プラークボディーは右」との看板が見えてきた。
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路地を右折して進む。道路は舗装されていない悪路だ。しばらく進むとようやく舗装道路になり左手に前正覚山が見えてきた。
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2、3キロメートル進んだろうか。登山道が見えてきた。
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登山道は舗装されているので快適である。周りには、土産物を売る人や物乞いも多く座っている。以外に標高差は高くないのかあっというまに、山の中腹まで来た。目の前にチベットの寺院が現れた。
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右手に目をやると、巨大な岩が覆いかぶさっており、入口らしきものが見える。
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近づいてみる。この石室は留影窟(ドンゲシュワリー)と呼ばれている。前正覚山で悟りを開こうとシッダールタはこの石室で足を組んで座ったが、その時、浄居天が「ここは悟りを開くところではないので、苦行した所から遠くないピッパラ樹の下の金剛座で悟りを開くように」と勧めた。一方、石室内にいた竜は、立ち去ろうとしていたシッダールタを引き留めたが、シッダールタは竜の願いをかなえるために、自らの影を残して去ったという。
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中に入ってみると、洞窟内には、苦行像が祀られていた。右手にはヒンドゥー神と思しき像もあった。合掌、礼拝して退出した。
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山頂には、アショーカ王が建てたといわれる7つのストゥーパがあると聞いたので、上ろうと思い周りを見渡すが道がない。留影窟そばの地元民に聞くと7つではない、6つだと言い、木々が茂るけもの道を指差し、そこを上れという。指をさす方向には猿が数匹こちらを見つめていた。彼は案内が必要かと聞いてきたが、煩わしいので私は不要だと答えて、そのけもの道を上って行った。
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けもの道を上ると多い茂っていた木々はすぐになくなり、その後石ころだらけの崖となり道がよくわからなくなった。結局ロッククライミングのように、岩に手を添えて道なき道を上って行く。
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やがて、頂上が近いのか、広い尾根道が現れ、チベット旗がなびいていた。ストゥーパはどこにあるのか分からず探していると、目の前に3メートルほどの高さの小山があり一面草が多い茂っているのが見えた。
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小山に上って気が付いた。あちこちに小石が転がっていると思いきや、よく見ると、小石ではなくレンガのかけらであった。この小山はレンガが積まれたストゥーパだったのだ。
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ストゥーパ群はどこも崩壊著しく保存のための活動はなされていないようだ。巡礼者や観光客がここまで来ないことも理由の一つにあるのだろう。結局、ストゥーパは、5つ確認できたが、正確な数までは確認できなかった。
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前正覚山は、ブッダ・ガヤーから見る風景と、山頂からの風景とではまったく違う。山頂に立つとわかるのだが、この山は、北東方面から南西(ブッダ・ガヤー方面)方面へと延びる尾根になっている。この尾根は途切れながらも、これから向かう八大聖地の一つ、ラージギルの五山方面に続いている。
しばらく山頂からの景色に浸った後下山した。途中この崖のようなけもの道に牛が2頭歩いていた。約1時間の見学であった。
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ホテル近くに戻ったが、まだ16時だったので、昨日に引き続き、各国の寺院を見学することにした。17時から日本寺で座禅を組めると聞いたので向かう。
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読経をする僧侶は、若い女性であった。30分読経があり30分座禅する。参加者は5名だった。日本寺はメイン道路から離れているせいか、静かで心が落ち着いた。日本に戻った気分になった。
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18時に座禅は終わりホテルに戻った。その後は昨夜と同様にビールを飲んでターリーを食べて寝た。
(2012.11.20)
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インドへの旅(その5)ブッダ・ガヤー

2013-03-13 | インド(仏跡)(その1)
インドは、仏教発祥の地であり、開祖である仏陀の活躍した舞台は、ガンジス川の中流域を中心に、およそ東西400キロメートル、南北300キロメートル、インドのビハール州とウッタル・プラデーシュ州、インド国境と接するネパールにまたがっている。
後世の人々は、仏陀の誕生から入滅までの仏教における重要な地を四大聖地、八大聖地と名付け、仏教を信仰する多くの巡礼者が訪れてきた。
今回、八大聖地を列車とバスで巡るつもりで計画してきたが、現地の交通事情が予想以上に悪く、全て自力で巡るのは日程的にかなり難しいことがわかった。検討した結果、10日間、車をチャーターして巡ることにした。運転手はカウシャーンビーに行った際のヴィージェイにお願いした。目的地は次の地を予定している。
ブッダ・ガヤー(※)、ラージギール(※)、ナーランダー、パトナ、ヴァイシャーリー(※)、ケッサリア、クシーナガル(※)、ルンビニー(※)、ティラウラコット、ピプラーワー、シュラーヴァスティー(祇園精舎)(※)
(※)は8大聖地。
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最初に最も近いブッダ・ガヤーから訪れることとした。ブッダ・ガヤーは、ビハール州のガヤー市の南方にあり、仏陀が悟りを開いた地として八大聖地の内、最高の聖地とされている。
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バナーラスから近いとはいえ、ブッダ・ガヤーまでは約250キロメートルの距離だ。カウシャーンビーと逆に東にハイウェイ(AH1)を230キロメートル行き、北に20キロメートル一般道を走行する。インドの道路事情を考えると、決して近いとは言えない。お世話になる車は、タタ自動車「インディゴeCS」、ボディは白、1.4リッターのディーゼルエンジンを搭載している。
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今回チャーターした旅行会社のボスは、何としても10日後には、バナーラスに戻って来いと言う。バナーラス最大のプジャーの祭りがあるのが理由らしい。正直、祭りにはあまり興味はなかったが、ともかく、この日程で、朝9時にバナーラスを出発した。ハイウェイに乗ると料金所が現れた。しばらく走行すると再び料金所があり、そこで料金を払う。その後は料金所は現れなかった。
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途中ハイウェイ沿いのレストランで昼食とし、ターリー(ノンべジ)を食べる。100ルビー。ビールがないのが残念である。ちなみに、インドの場合、レストランでオーダーする際、まず最初にノンベジタブルかベジタブルかを聞かれる。
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カウシャーンビー方面(西側)とは異なり、東に向かうハイウェイでは、多少の歩行者はいたが、逆走車や横断者などには遭遇しなかった。ハイウェイを降りて一般道を走行すると、前方のような無茶乗りする人々の光景などが見られた。
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14時過ぎにブッダ・ガヤーのホテルに着いた。多少時間がかかった印象だが、運転手のヴィージェイは、予定どおりだという。カウシャーンビーと違い、定番のコースらしく、頻繁に観光客を連れてくるようだ。ホテルは、ブッダ・ガヤーの中心であるマハーボディー寺院から西方向に直線距離で1キロメートルほど行ったところである。
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地図を見ると、考古学博物館がホテルから300メートルほどの距離にあるので行ってみることにした。すると、ヴィージェイは、車で送っていくという。このあたりは、治安が悪いらしく、特に日本人は多額の寄付を強要されたり、犯罪にまきこまれたりするという。それではと車で送ってもらうが、もちろんあっという間である。帰りも迎えに来ると言うが、見学時間も読めないし煩わしいので、声をかけられても、無視するようにとのヴィージェイ忠告を守ることで、歩くことにする。
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入館料金は、10ルビーと安いが展示物は少ない。撮影は禁止であった。この博物館のウリはマハーボディー寺院にあった紀元前1世紀頃の欄楯(らんじゅん)である。現在のマハーボディー寺院の欄楯は、一部を除きレプリカである。30分ほど見学したが、後になって思い起こすと、マハーボディー寺院の見学後に再度訪れておくとより印象深いものになったかもしれない。

その後、ブータン寺、チベット寺院、印度山日本寺などを見学して、
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マハーボディー寺院に向かう。近くに車を止めて、歩行者専用道路を歩いていく。
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さすがに世界中から仏教徒が訪れる大聖地である。この時間でもかなり混雑している。2002年には世界遺産にも登録されている。靴を預けて入場すると、正面にマハーボディー寺院が見える。高さ52メートルの方錐形で高々とそびえているが、階段の上から眺めているせいか、あまり威圧感は感じない。
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ライトアップされたマハーボディー寺院は幻想的である。しかし、周りの欄楯や大塔の浮彫などはよく見えない。再度翌朝来ることにし、30分程見学して19時ごろホテルに戻った。
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ブッダ・ガヤーは聖地であるため、レストランやホテルではアルコールの提供がされていない。結局、最寄の酒屋でビールを3本(230ルビー)買う。酒屋には、鉄格子があり、手を差し入れて購入する。。ビールは、外から見えないように黒のビニール袋に入れてくれるが、素早くバッグに忍ばせて、ホテル客室内で2人で祝杯をあげる。。
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インドではポピュラーな銘柄のキングフィッシャー・ストロングである。アルコール度数が8%と高いため飲み甲斐がある。すっかり出来上がって夕食に向かう。インド人向けレストランで食べることにした。ブッダ・ガヤーは、観光地のため物価が高いため、多くのガイドはそこで食事を済ますそうだ。近くのホテルのレセプションでチケットを買い、そのホテルの裏のレストラン(というよりほとんど小屋)に向かう。
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怪しい雰囲気であり、不安を覚えたが、皆が食べているターリーを食べる。しかし、これが美味しかった。うまいうまいと言うと、周りで食事をしていたインド人が皆そうだろうと言う顔で笑っていた。値段は30ルビーという安さである。
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翌朝、10時に再度マハーボディー寺院に訪れると、既に巡礼者や観光客でいっぱいである。昨日同様に、靴を預け、階段を下りて大菩提寺の境内に向かう。
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階段下の両脇にストゥーパが並んでいる。ストゥーパには、仏像が細かい浮彫がなされている。
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目の前にトラーナ門をくぐり大塔に向かう。今日は快晴で気持ちが良い。じっくり見学できそうだ。
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右手にも多くのストゥーパが並んでいる。ストゥーパの奥には、巡礼者や僧侶が経を唱えていた。
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参道の左側には仏足跡と小さなブッダパダ寺院がある。
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最初に大塔内の仏陀坐像像にお参りする。正面入口には、多くの警備兵が目を光らせており物々しい雰囲気である。
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この坐像は降魔成道像で11世紀の石仏と言われている。大塔は二層構造になっており、一階の黄金の降魔成道像と二階には立像があるはずだが、二階には登れないようだ。塔内は狭い上、多くの人で込み合っておりとても長居できない。
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次に大塔の周りを巡る。
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仏像はもちろん周りの浮彫の細かさが見事である。
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昨夜は良く見えなかったが大塔外壁は驚くほど細かい彫刻がなされている。玄奘三蔵(602~664)がこのブッダ・ガヤーに訪れた際、「菩提樹があり東に精舎がある。高さ160~170尺、下の基壇の広さが20余歩ある。何層にもなっている龕には、金像が入って四方の壁には珍しい彫刻がされている」と記録している。高さも、珍しい彫刻表現も、現在の大塔の姿と酷似していたことがわかる。
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大塔頂上の傘竿部分の浮彫も細かい。
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ヴィージェイがインド人僧侶と話しをしていたので近づくと、僧侶は日本に何度も訪れていると日本語で話し始めた。多くの巡礼者や観光客がブッダ・ガヤーに訪れるが、ヴィージェイのように勉強していないガイドが多いと嘆いていた。僧侶は、私に対してガイドし始めた。煩わしかったが、ヴィージェイも止めないので、彼の話を聞きながら大塔を回ることにした。僧侶によると、大塔を取り巻く欄楯は全てレプリカではなくオリジナルの欄楯が3か所あると言いその方向を指差した。たしかに、レプリカとは色が異なる。あとの説明は把握している内容ばかりであった。
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大塔の西側に回ると、石垣で囲まれた菩提樹がそびえていた。現在の菩提樹は当時のままではなく5代目になる。アショーカ王の時代にスリランカに仏教が伝わったが、その際にブッダ・ガヤーの菩提樹の枝も伝わったという。その後、ブッダ・ガヤーの菩提樹は枯れてしまったので、スリランカのアヌラーダプラのひこばえを植えたといわれる。つまりは菩提樹の里帰りである。
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石垣の中には金剛宝座がある。ここが仏陀が悟りを開いた箇所で最も聖なる場所である。もちろん、仏陀が生きていた時代は、菩提樹のみで他に建造物はなかったわけである。菩提樹のみを見つめ仏陀の時代をイメージし仏陀への思いをはせた。
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金剛宝座は、紀元前3世紀アショーカ王時代に砂岩で作られたものであり、以前は、金剛宝座のそばまで行けたのだが、麻原彰晃が勝手に座ったため、その後柵ができた。柵中にいる僧侶にカメラを渡すと代わりに撮影してくれる。
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金剛宝座の周りや欄楯の外側にも、多くの巡礼者がひれ伏し経を唱えていた。
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この場所で悟りを開いた仏陀は、7日毎に場所を変えて49日間、悟りへの喜びを味わいながら散策すると足元から蓮華の花が一輪ずつ花開いたという。大塔の北側には、このことをイメージした蓮華の花が並んでいる。
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仏陀の歩んだ場所を順々に周り、南側の蓮池に向かう。途中に柵で囲まれたアショーカ王柱が建っている。
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蓮池に向かう途中でも様々な国の巡礼者や僧侶らが瞑想したり、五体投地を繰り返していた。インド人僧侶はたびたびヴィージェイの仏教への無理解を繰り返すので、いやになっていたところ、姿が見えなくなったので、蓮池に向けて急いで歩いた。

四角形に整った蓮池の中央には、竜王に護られた仏陀像が祀られている。仏陀が悟りを得て菩提樹のもとで過ごしていた時、大雨に見舞われたが、ムチャリンダ竜王が仏陀をとぐろ巻にして雨風から護ったとされる場面を再現している。
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蓮池の見学後、歩行者道路に出たあたりでまたインド人僧侶が現れ、自分の店を見てほしいと誘いをかけてきた。お店には入ったものの全く買う気がないことに気付かれたのか、買わないなら出て行ってくれと急に語気をあらげた。
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ヴィージェイに態度がまずかったのか、尋ねると、嬉しそうにノープロブレムと言っていた。
(2012.11.19~20)
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