カズさんの旅たび

 ~歴史、文化、芸術、美食紀行。。

ギリシャ(その1)

2019-05-21 | ギリシャ
今朝、アテネのオリンピア・ホテルを出発し、E75号線(アテネからテッサロニキ方面に向かう幹線道路)をティーヴァ(テーベ)まで進み、3号線を経由しリヴァディアから48号線を西に向かっている。正面にパルナッソス山(2,457メートル)が迫ってくると、道路標識(直進-デルフィ 22、右折-ディストモ 2、オシオス・ルカス 12)が現れた。これからオシオス・ルカスを見学した後、デルフィに向かう予定だ。


ところで、昨夜は、アテネから南西12キロメートルに位置する港町ピレウスの星付レストラン「Varoulko」で夕食を頂いた。料理は海岸沿いに位置しているため新鮮な魚がお勧めで、予想どおり新鮮な素材と独自のソースとの絡みが絶妙で大変美味しかった。ちなみに、アミューズ生牡蛎前菜メイン1メイン2デザートとギリシャ滞在初日から大贅沢してしまった。料理はスムーズに提供されたが、店内は混雑していたこともあり、ほとんどサービスしてもらえなかったが、星付としてはどうなのか、若干疑問が残った。。

さて、48号線の下をくぐって南下すると、小さな町ディストモに到着する。そのまま市内を過ぎると南東方面の山に向かう道になる。狭い山道を進んでいくと10分ほどで「オシオス・ルカス修道院」の駐車場に到着した。オシオス・ルカスは10世紀に設立されたギリシャ正教の修道院で、中期ビザンティン建築の傑作と言われる聖堂と、11世紀に制作されたモザイクが見所である。1990年には、他のギリシャの2つの修道院(ダフニ修道院、ヒオス島のネア・モニ修道院)とともに世界遺産に登録されている。


駐車場は修道院を見下ろす高所にあり階段を下りて向かうことになるが、階段からは広大な景色が広がっている。オシオス・ルカス修道院は、500メートル級の山の中腹に位置しており、南側は、僅かに支線が見える以外に建造物は見当たらず、山々に囲まれた盆地となっている。天候の良さもあり癒される眺めである。


階段を下りると、左側(右側に公衆トイレ)に大きく回り込んで続く参道となる。右側には、木々が覆い茂る公園が広がっている。参道を70メートルほど進むと、前方に建つ鐘楼の右下にアーチ門があり、くぐると修道院に到着する。


アーチ門の手前を右側の公園方向に歩いて行くと、修道院内の建物が接近して建っている。その前面の平屋建て建物は「修道院美術館(美術館棟)」で、その奥に瓦屋根で覆われた平たく幅広なドームを持つ教会堂「中央聖堂」が建っている。


修道院は「克肖者(聖)ルカス」(896~953)に因んで名付けられた。克肖者ルカスは、アラブ人に統治されていたクレタ島の東ローマ帝国による再征服(961年)を予言し的中させたことや、死後、身体から奇跡の香油が出ると言われたことから、奇跡を求めて多くの巡礼者がこの地を訪れた。この地には、961年から966年頃に「生神女聖堂(テオトコス)(旧ハギア・バルバラ聖堂)」が建てられたが、その後、1048年に克肖者ルカスの墓の上に現在の「中央聖堂」が建てられた。

アーチ門をくぐると、正面の前庭を取り囲んで、北西側にL字状の「修道士宿舎棟」が建ち、東側に公園から見えた教会堂「中央聖堂」が建っている。「中央聖堂」の南北側面には、フライング・バットレス(飛梁)が南側の美術館棟と北側の修道士宿舎棟と直結し耐震補強している。先に建てられた「生神女聖堂」は、北側の飛梁の奥に「中央聖堂」と「修道士宿舎棟」と連結して建っている。


「中央聖堂」は、サイズの異なる大きな白い石と小さな紅レンガを交互に積み重ねたビザンティン建築様式で造られている。近くで見ると石とレンガの配置がバラバラと手作り感満載だが、全体を通して見ると気持ちが落ち着いてくる不思議さがある。
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中央上部のティンパヌムには、ベッドに横たわる聖人と周りに大勢の教会関係者らしき人物が集まっている場面が描かれている。横たわるのは、克肖者ルカスだろうか。天井部(アーチ下部)には、蛇でかたどられた円を中心に唐草文様が描かれている。


中央にある扉から聖堂に入ると、南北にかけてナルテクス(前室)があり、天井は美しいモザイクで覆われている。中央身廊側の扉上部には「全能者ハリストス」が、そして左右には「磔刑」と「復活(アナスタシス)」が、ヴォールト天井には「聖人のメダイヨン」が表現されている。北面の光取りの上にはキリストが弟子の足を洗うという「洗足」の場面があり、


南面の光取りの上には、「トマスの不信」(キリストの復活を目撃していない聖トマスが主の傷痕に指を差し入れるまで復活を信じないと語る)がある。多くのモザイクが綺麗に残っており、見ごたえがある。
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前室から身廊部に入ると、聖堂は正方形を基礎とした内接十字型で、中央ドームの四隅にスクィンチ(四隅の上部を埋めてドームを構築する土台とする。)を架けた中期ビザンティン建築特有の様式で建てられている。


東側にある主祭壇上部のアプスには「聖母子像」のモザイクがある。繊細なモザイクピースの組み合わせによる聖母子の表現は、ビザンティン美術の傑作とも言える。そして、その上部ヴォールトには「聖神降臨」のモザイクがある。鮮やかな黄金モザイクは眩しい輝きを帯びている。
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中央ドームは直径9メートルあり「全能者ハリストス」と「天使」が描かれている。なお、ドームは1593年の地震で崩落し、その後再建されたものだがやや色落ちするなど劣化が見られる。
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ドーム周りの4か所のスクィンチの内、3か所には、南東側に「主の迎接祭(聖燭祭)」が、西南側に「キリストの降誕」が、北西側に「キリストの洗礼」と美しいモザイクが残っている。ヨハネから洗礼を受けるキリストの周りを流れるヨルダン川もモザイクで細かく表現されているのには驚かされる。
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ちなみに、北東側の漆喰がむき出しになっている1か所には、「生神女福音」の場面があったとされている。

北側の側廊天井にも美しく輝くモザイクで溢れている。また、リブやアーチ下部の幾何学文様や花文様の色彩コントラストはため息がでるほど美しい。そして東側を向いて黒修道帽に黒装束姿で両手を挙げる聖人のモザイクは「克肖者ルカス」である。
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そしてその先にある黒大理石の上には、自身のモザイクと向かい合うように「克肖者ルカス」のお棺が置かれている。お棺はガラス張りで、中には、黒装束で全身を覆われたルカスが西側を頭に横たわっている。黒装束から左手だけが出ていたのが、少し怖かった。。


克肖者ルカスの墓の足元側にある廊下は、北側に連結している「生神女聖堂」に繋がっている。「生神女聖堂」にもモザイクがあったとされるが現存していない。壁面には漆喰仕上げはされておらず(剥落?)、積み上げられた煉瓦がむき出しで、その壁面にイコン画が飾られている。


天井のドーム自体は小さいが、周りに縦長の窓が並んでいることから外光がよく入り明るくなっている。


中央聖堂を出て美術館側と繋がる飛梁をくぐると更に二本の飛梁が美術館に繋がっている。その飛梁の間にクリプトの入口がある。


ちなみに、三本目の飛梁をくぐり、中央聖堂の北東側を見ると「生神女聖堂」のドームが見える。ドームは、中央聖堂のドームより小ぶりだが、かさ高で、各側面には白を基調にとした二連アーチ窓が取り囲んでいる。


では、階段を下りてクリプトに行ってみる。


クリプト内には、多くのフレスコ画が描かれているが、特に天井画は、近年描かれたかの様に美しい色彩を留めている。フレスコ画の大半は、中央聖堂が建てられた1048年頃に描かれたとされ、中期ビザンティン時代から生き残った最も完全な壁画とも言われている。
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色彩を当時のまま留めたのは、数百年の間、ほこりで覆われて隠されていたためで、1960年代にギリシャ考古学局による清掃を受けたことにより、当時の美しい色彩を現代に蘇らせた。
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「克肖者ルカス」は、死後も奇跡の治療者、預言者と崇められ、特にクリプトは奇跡を望む人々にとって最も重要な巡礼場所となった。奇跡を望む巡礼者がクリプト近く或いは隣接する部屋に6日間滞在したという記録も残されている。


モザイクの素晴らしさに圧倒されて、2時間近く滞在してしまった。急ぎ、ディストモを経由して48号線まで戻り西方向に向かうと、道路はぐんぐんと上って高度900メートルほどまで上り詰める。前方のパルナッソス山麓には階段状にアラホヴァの町街並みが続いているのが見える。アラホヴァは、見晴らしがよく登山客やスキー客で観光客が多く訪れるとのこと。この町を通って10キロメートルほど下った渓谷沿いの斜面に次の目的地「古代ギリシャの聖地デルポイ(デルフィ)」がある。


すぐに、聖地デルポイに到着した。渓谷を通る48号線のすぐ北側がデルポイ遺跡の入口になる。デルポイは、古代ギリシャのポーキス(フォキス)地方にあった都市国家(ポリス)で、パルナッソス山南側の麓(標高500~600メートル)に位置している。チケットを購入してゲートから入場すると左方向に砂利道の上り坂が続いている。遺跡群は、東西に続く段丘崖の下の傾斜面に階段状に展開していることから、遺跡内の通路をジグザグに上りながら見学していく。1987年に「デルフィの考古遺跡」として世界遺産(文化遺産)に登録された。


アゴラ(公共空間としての広場)やアテナイ(現:アテネ)、アルゴス、コルキュラなど各ポリス(都市国家)から奉納された記念塔などの遺構が続き、途中にデルポイが「世界のへそ(中心)」と信じられていたことからシンボルとされた円錐状のオブジェや、「アテナイの宝庫」などの遺跡もある。宝庫は、マラトンの戦い(紀元前490年、アッティカ半島東部のマラトンで、アテナイ・プラタイア連合軍がアケメネス朝ペルシアの遠征軍を迎え撃ち、連合軍が勝利を収めた戦い)での勝利を記念して建てられた。
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入口から上り坂を300メートルほど進むと、古代ギリシャで最も重要な神託所「デルポイの神託」があったアポロン神殿の6本の柱のそばに到着する。
古代より、ギリシャでは、神殿の巫女の口をかりて伝えられる神託(アポロン神の予言)は、真実のものと尊ばれ、各ポリスでは政治・外交の指針を神託に求めていた。アポロンの巫女は「シビュラ」や「ピューティアー」と呼ばれた。例えば、ピューティアーは、洞窟の戸口に置いた三脚台の椅子に座り、岩の裂け目から立ち昇る霊気を吸って、恍惚の境地に至り、難解な言葉で神託を告げ、そばにいる男性司祭により解読され謎めいた予言として伝えられたという。


アテナイの執政官を務めたテミストクレスは「木の壁によれ」との神託を受け、三段櫂船「木の壁」を建造し、「サラミスの海戦(前480年)」でペルシアの王クセルクセス1世(在位:前486~前465)が率いるペルシア艦隊を打ち破ったが、神託の内容は様々な解釈を呼び、木の壁をアテナイの城壁と解釈し市内に残った一部の市民は、ペルシア軍により滅ぼされる結果ともなっている。ちなみに三段櫂船とは、櫂の漕ぎ手数十名を上下3段に配置して高い速力を得たガレー船のこと。

6本の柱の東側には、青色の渦巻き状の柱「プラタイアイの戦勝記念碑」が立っている。サラミスの海戦の翌年の紀元前479年、ペルシア残存勢力とペルシア側についたギリシャの諸ポリスに対して、スパルタ、コリントス、アテナイなどのギリシャ連合軍が出撃し撃退したことを記念して建立された。渦巻きは、3匹の蛇が巻きついた姿で、頂部には三匹の蛇が鎌首をもたげ、三脚の鼎の脚を支えていた


初代となるアポロン神殿は、紀元前6世紀に建設されたが、その後、火災や地震などの災害を受け、その都度再建された。現在の神殿は紀元前373年に地震と火災で破壊した5代目神殿の後を受けて建てられた6代目のもので、幅23メートル、長さ60メートルのドリス式の神殿である。こちらは、アポロン神殿東側の6本の柱とプラタイアイの戦勝記念碑を坂の上から眺めた様子である。


デルポイの神託は、キリスト教を国教化したことで知られるローマ皇帝テオドシウス1世(在位:379~395)治世の390年に、役目を終えたとされる。同時に、アポロン神殿の多くの彫刻や芸術作品は破壊され、その後は、多孔質の石や柔らかい素材の石灰石が使用されていたこともあり、崩壊が他の遺跡よりも早く進んでしまったという。


アポロン神殿のすぐ上には、「円形劇場」が、建てられている。もともとは紀元前4世紀に建てられたが、紀元前160年ごろと、67年に皇帝ネロが訪れた際などに改築され現在に至っている。座席は、下部ゾーン27列、上部ゾーン8列と2つのゾーンに水平分割され、6つの階段を配置している。収容可能人数は、約4,500人となっている。


東側の坂道を上り詰めた「円形劇場」の上部から見下ろすと、アポロン神殿全体から遠景の山々の絶景が見渡せる。円形劇場からの観覧はさぞかし、気持ちが高揚したことだろう。


少し上ると、広い段丘面があり、西方向に直線の砂利道が延びている。その砂利道に沿って右側(崖側)に巫女の名前に因んだ「ピューティアー競技場」がある。 紀元前4世紀後半に建てられたもので、東西177メートル、南北25.5メートルの大スタジアムである。この東側が、競技のスタート地点だったとことから、アーチ屋根など構造物を支えていた址らしき遺構が残っている。収容人数は約6,500人で、現在も北側観客席は山の斜面で支えられ綺麗に残っているのが見える。逆に、南側は壁が建てられ観客席が作られたため崩壊している。


この地で開催された競技会は「ピューティア大祭」と呼ばれ、全ギリシャから市民が訪れて開催された。大祭は8年に一度開催される音楽競技をアポロン神に奉納していたが、後に体育競技を加え4年に一度の大祭に変更された。ちなみに古代ギリシャでは、他にもオリュンピア大祭、ネメアー大祭、イストモス大祭と合計4つの競技大祭があった。

再び、遺跡内の通りを戻り下山し、


48号線を500メートル西に進んだ右側にある「デルフィ考古学博物館」に向かった。ギリシャの主要な博物館の一つでギリシャ文化省が運営している。 1903年に設立され、何度か改装され現在に至っている。後期ヘラディック(ミケーネ)時代(前 1600~前1065頃)からビザンチン時代初期(4世紀から6世紀頃)までの発掘品が14の展示室に収められている。


「第3展示室」には、アルゴスの彫刻家ポリメデスにより紀元前610~前580年に制作された「クレオビスとビトン像」が展示されている。クレオビスとビトンとは、歴史家ヘロドトスによる「歴史」第1巻に登場するアルゴス出身の兄弟である。兄弟の母キューディッペーがヘーラー祭を見に行く際、車を引く牛がいなかったことから、兄弟が牛の代わりに車を引いて8キロメートル先のヘーラー神殿に母親を連れて行った。母は孝行息子の栄誉をたたえるようヘーラー女神に祈願すると、その夜、兄弟はヘーラー神殿で永遠に眠りについた。この孝行話を聞いたアルゴスの人たちは兄弟を称え銅像を作ってデルポイの聖域内に納めたという。


「歴史」の中で、ソロン(ギリシャ七賢人の一人)は、クレオビスとビトンの兄弟を、幸福な者の代表格として挙げており、ソロンは、人間の幸福とは富や権力の有無や、日々の幸・不幸に関係なく、栄誉の絶頂で亡くなることこそが幸福なのだと教えている。

「クレオビスとビトン像」は、アルカイック期のクーロス像(青年の裸身立像)だが、アルカイック・スマイルより前の時代に制作された貴重な作品で、がっちりとした体躯で力強さを感じる。これほどの像が2500年以上も前に造られたことは驚嘆に値する。


「第5展示室」には、特徴的な上向きの羽を持つ女性姿のライオン「スフィンクス像(前575~前560)」(高さ2.32メートル)が展示されている。紀元前560年頃、ナクソス人によるアポロン神殿への供物として神殿の隣(中央基壇の南側斜面に隣接する台座)に建てられたもので、当時は高さ10メートルの柱の上に立っていた。1860年と1893年にアポロン神殿のそばから発見された。


「第6展示室」には、アポロン神殿を飾っていたペディメント彫刻などが収められている。


こちらは「第11展示室」で、古典期(前450頃~前330頃)と、ヘレニズム時代(前330頃~前30頃)の作品が展示されている。


展示室にひと際高くそびえる像は、1894年にアポロン神殿の東と北東のテラスから発見された「踊り子像」。アカンサスの茎と葉で装飾された土台の上に、高さ2メートルほどの3人の女性がリズムをとりながら手を挙げ踊っている。紀元前330年頃に作られ、高さ約13メートルの柱の上に飾られていた


「踊り子像」の隣には遺跡内にあった「世界のへそ(中心)」のオリジナルが展示されている。レプリカの円錐状の形とは異なる上に、網目風の浮彫文様が施されている。


「第12展示室」には、ヘレニズム後期およびローマ時代の作品が展示されている。こちらの美しい青年像は、第14代ローマ皇帝ハドリアヌス(在位:117~138)の愛人として寵愛を受けた「アンティノウス(111~130)像」である。彼は20歳以下でナイル川で溺死したと伝えられるが、詳細は謎に包まれている。ハドリアヌス帝により神格化されたことから多数の芸術作品で表現されている。像は、1894年に、アポロン神殿と並ぶレンガ造りの部屋の壁面に立った姿で発見された。


「第13展示室」には「デルフィ考古学博物館」を代表する有名な「デルポイ(デルフィ)の御者像」を展示するフロアになっている。1896年にアポロン神殿から、手綱、戦車、馬などの破片と同時に発見された。発見時の像は頭と上半身、下半身、右腕の3つに分かれていたという。


御者像は、数少ない青銅彫刻の一つで、シチリアのゲラの僭主ポリュザロスが、ピューティア大祭(紀元前470年開催時)に於いて4頭立て2輪戦車競走に優勝したことを記念して、アテナイで鋳造され奉納されたものである。
その後、土の堆積や地震などにより地中に埋れ、馬は失われたが、像自体は現在も美しい姿を見せてくれる。御者のモデルは、背が高くスリムな体形の青年で、ハンサムな顔立ちをしている。目に象眼細工のガラスがはめ込まれいるためか、見る角度で表情が微妙に変化する。またまつ毛まで表現されているのには驚かされた。
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後ろから見ると、幅の広いベルトをウエストの上部で締めつけており、上半身は、レース中に衣服が風に揺れるのを防ぐため背中で”たすきがけ”している。細部にわたるまで写実的に表現されており、ギリシャ彫刻の最高傑作の一つとも称されていることは大いに頷ける。展示室の壁面には、馬車に乗る御者姿の絵が展示されている

名残惜しいが時刻が午後3時45分と予定時間を過ぎたこともあり次に向かう。。

デルポイ(デルフィ)を出発し、すぐ現れるデルフィの町並みを通過すると、左側にコリントス湾が見えてきた。デルポイは、巨大なパルナッソス山の南側にあることから、古代の人々の多くは、コリントス湾をデルポイ訪問への拠点としただろう。その後、48号線は山間沿いのカーブが続き急降下していく。


南北に延びるE65号線(コリントス湾から中央ギリシャを南北に横断する幹線道路)を80キロメートルほど北上すると、マリアコス湾が見えてくる。これからE65号線を経由して150キロメートル北部に位置する「メテオラ」に向かうのだが、その前にマリアコス湾沿岸近くに位置するテルモピュライに寄る。


交差するE75号線(アテネからテッサロニキ方面に向かう幹線道路)と並行する1号線を東に1キロメートルほど行った通り沿い北側にある公園が目的地である。そこには、紀元前480年、スパルタを中心とするギリシャ軍とペルシアの遠征軍との間で行われたペルシア戦争の一つ「テルモピュライの戦い」が行われた地を記念してモニュメントが設置されている。


古よりこの地は、アテネのあるアッティカ地方と、北部のテッサリア地方とを結ぶ幹線道路が通っていたが、カリモドロス山の崖からマリアコス湾まで15メートル程度の幅しかなかったことから、防衛に適した要衝として度々戦場となった。しかし、現在では、あまり峻険とは言えない山と広々とした道路に平地が広がっている。これは、経年により浸食され平地が広がったことやローマ帝国時代に拡張工事を行ったためである。ちなみにテルモピュライとは「熱い通り」を意味しており、現在も山裾には熱泉が湧き出ている


「テルモピュライの戦い」でギリシャ軍からは300人のスパルタ兵士が参戦したが、200万以上と伝えられるペルシア軍と互角以上に渡り合い、最期は壮絶な死を遂げたとされる。中央の台座上に槍と盾を持って立つ戦士は、その300人のスパルタ兵士を率いた「スパルタ王レオニダス1世(在位:前489~480)」で、彼らの粉戦により、アテナイは時間を稼ぐことができ「サラミスの海戦」でペルシア海軍に勝利することが出来たといわれている。

ちなみにテルモピュライの戦いを題材とした、2007年公開のザック・スナイダー監督による「300(スリーハンドレッド)」は、脚色が多く賛否両論もあったが世界的な大ヒットとなった。

時刻は午後5時を過ぎた。今日の最終目的地、メテオラのサンセットを眺めるために先を急ぐ。その後、テッサリア地方の北西部のトリカラを経由してカランバカ方面に向かうと、ようやく前方にメテオラの奇岩群が見えてきた。時刻は午後7時10分、日没まであと1時間ほどである。


メテオラの奇岩群は、カランバカ市内北側に位置していることから、東側から市内を横断して西側まで行き、北西部にあるカストラキ村を経由して山道を登っていく。聖ニコラオス・アナパフサス修道院(St. Nikolaos Anapafsas Monastery)を左側に見て進むと、右側の岩の上にルサヌ修道院(Monastery of Rousanou)が現れる。


ルサヌ修道院を過ぎると更に勾配のきつい登り坂になり1.5キロメートル進んだところがサンセットポイントになる。時間には余裕で間に合ったが、奇岩群から眺めるサンセットは、地平線からの位置が高いからか、やや眩しかった。


日没後もまだ明るい。この場所からは、真下にルサヌ修道院を望み、その先がカストラキ村方向になる。


左に視線を移していく。岩山の間からわずかに見える町並みが、カランバカの町の中心部あたりになる。


更に視線を左に移すと、やはりカランバカの町並みが見える。これらの独特の景観を形づくる奇岩群は、約6千万年前に海底で堆積した砂岩が隆起し、浸食されて今の地形となったと言われている。


長かった一日の行程もほぼ終了し、残るは、夕食だけとなった。カランバカの町の西側にある今夜の宿泊ホテル(テアトロ ホテル)から歩いてタベルナ「Paramithi」で夕食をいただこととした。午後9時半を過ぎて到着したため、混雑しており、場所のあまりよくないテラス席となった。座ってしばらくは、賑わっていたが、午後10時を過ぎると多くのお客は帰っていった。


フェタチーズのサラダラム肉、ミートソースパスタを頼み、テラスで食べていると、地元の常連らしき猫が現れ見つめられた。


料理の味は、昨日の今日なので、どうしても比較してしまい評価が下がるが、お腹が減っていることもあり美味しかった。パスタはモチモチとした食感で好みではないと思ったが、後半にはなじんで、全部平らげた。時刻は午後11時前になり、ほとんど人通りがなくなった。ライトアップされた奇岩を眺めながらホテルに戻った。

(2019.5.21)

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