カズさんの旅たび

 ~歴史、文化、芸術、美食紀行。。

ギリシャ・アテネ

2020-12-27 | ギリシャ
今日は、アテネ中心部の「アテナイのアクロポリス」や、その麓に広がる「アテナイのアゴラ」(アテナイはアテネの古名)などの古代遺跡を見学することにしている。こちらは、それら遺跡巡りの拠点となる「モナスティラキ広場」で多くの人で賑わっている。その広場地下のモナスティラキ駅には、紀元前5世紀頃からの河川沿いの構造物や、2世紀ローマ時代の下水管など、地下鉄の建設工事の際に見つかった古代の遺跡が展示されており、広場中央に設けられた長方形のガラス板からも見下ろすことができる。
クリックで別ウインドウ開く
ちなみに、広場右側(東側)のアーチ窓に瓦屋根の古びたビザンティン様式の建物と鐘楼は、聖母マリアに捧げられた「パンタナサ聖堂」(10世紀築)で、「小さな修道院」(モナスティラキ)とも呼ばれ、そのまま広場の名称となった。

昨夜は、クレタ島から午後8時45分発の飛行機に乗り(アテネ空港に午後9時35分着)、午後11時過ぎにアテネ市内のホテル(Delice Hotel Family Apartments)に到着して、ホテル前のレストラン(Spala Athens)で夜食を頂いた。そして今朝は、午前10時半にホテルを出発し、エヴァンゲリスモス駅(3号線)から地下鉄に乗り2駅目、こちらのモナスティラキ駅で下車したところ。

モナスティラキ広場の周辺は蚤の市でも有名で、周辺には、衣類、日用品から土産物まで、多くの商店や飲食店が建ち並んでいる。南側に見える丘が「アクロポリス」で、その麓から手前にかけて遺跡が広がっている。


広場からアクロポリスの丘の方角に進み、左側に最初に現れる列柱を配した大きな建造物が「ハドリアヌスの図書館」である。ハドリアヌスとは、ローマ帝国第14代皇帝(在位:117~138)のことで、先代トラヤヌス帝時より最大の領土となったローマ帝国の安定化と防衛の整備に力を注いだ人物。ギリシャ文化や芸術に傾倒し、初めてギリシャ風のあごひげをたくわえた皇帝としても知られている。その皇帝が、134年に建設した図書館で、すぐ先に見える前方に張り出したコリント式円柱の場所が入口門(プロピロン)になり、こちら西側の通りから入場できる。入口の(解説)「ハドリアヌスの図書館」を参照すると当時の姿が良く分かる。
クリックで別ウインドウ開く

入口門(プロピロン)に向かって右側の外壁は失われ、大理石の短い柱や梁、柱頭などが積み重なっている。ローマ帝国の優れた建築技術により建てられ、2世紀のギリシャの旅行家で地理学者のパウサニアスから豪華さについて記録されるほどの建造物だったが、267年に「ヘルール族の侵攻」(デーン人に故郷を奪われた放浪の民)により破壊されてしまう。ヘルール族は、当時、ゴート族を伴い黒海沿岸やエーゲ海沿岸を荒らしまわり、アテネも大きな被害を被った。この場所からアクロポリスの丘の方向を眺めると、中世時代のギリシャ正教会も建ち、古代から現在までの歴史の変遷を一望できる。
クリックで別ウインドウ開く

ところで、アテネの遺跡見学には単独チケットと共通チケットがある。誰もが訪れる「アテナイのアクロポリス」チケットは20ユーロだが、7遺跡(アテナイのアクロポリス、ディオニソス劇場、ゼウス神殿、アテナイのアゴラ、ローマ時代のアゴラ、ハドリアノスの図書館、ケラミコスの遺跡)共通チケットだと、30ユーロと大変お得なことから共通チケットを購入した。

ハドリアヌスの図書館は、モナスティラキ広場から目と鼻の先だが、実は間違って広場から続くアーケード商店街を東に進んでしまい、敷地の反対側に回り込んだ。しかし、この南東角の歩道からは図書館の敷地(南北82メートル×東西122メートル)全体を俯瞰的に眺めることができ、結果はラッキーだった。
クリックで別ウインドウ開く

敷地の東側には「エオルー通り」が南北に延びており、その境に建つ外壁から内側の瓦礫の個所までが、パピルス巻物など書籍所蔵の「図書館の中央棟」で、南北に「読書室や講義室」の建物が隣接していた。更に内側の整地と円柱基壇が回廊の遺構になる。

更に視線を左側の敷地中央に移すと、回廊に囲まれた中庭になり、半円形の屋根が4つあった「テトラコンク」と呼ばれる5世紀に建てられた教会があり、人口の池などもあった。その後、6世紀後半頃に破壊されたが、7世紀にバシリカ教会が建造され、更に12世紀に単身廊バシリカ「メガリ・パナギア」教会が建設されたが、火災で被害を受け1885年に取り壊されたとされる。
クリックで別ウインドウ開く

次に、図書館への入口門(プロピロン)前の通りから、南方向の現代の建物が並ぶ一角を抜けた、左側の遺構「ローマ時代のアゴラ」にやってきた。西側の敷地への入口には大理石の4本のドーリア式円柱で支えられた「アテナ・アルケゲテス門」が建っている。紀元前11年に、共和政ローマ期の政治家、軍人ガイウス・ユリウス・カエサル(前100~前44)とローマ帝国の初代皇帝アウグストゥス(在位:前27~14)の寄進により建てられたもので、ハドリアヌスの図書館より100年以上も前に建てられたにも関わらず保存状態が良い。


もともと、西側にあった「アテナイのアゴラ」が手狭になったために、その東隣のこの場所に造られたもので、東西82メートル、南北69メートルの矩形型の広場でイオニア式の柱廊で囲まれ商店などが入居していた。
クリックで別ウインドウ開く

敷地の東端には、大理石で作られた八角形の「風の塔」が建っている。直径約8メートル、高さ12メートルあり、アテナ・アルケゲテス門より更に前の紀元前50年頃(紀元前2世紀の説もある)にキュロスのアンドロニコスにより建てられた。「アンドロニコスの時計塔」とも呼ばれている。かつて、塔の一番上にはトリトン像があり、風が吹くとすぐ下にある帯状装飾に描かれた8人の風神たちのどれかを指し、風の向きを示す仕組みになっていた。塔内に入ると、床の遺構は水時計の役割があったことを示している。天井を見上げると大理石板が扇状に綺麗に並んでおり大変保存状態が良い。中世の頃は、正教会の鐘楼としても使用されたという。
クリックで別ウインドウ開く

次に向かう「アテナイのアゴラ」は、「ローマ時代のアゴラ」の西隣に位置しているものの、周りには現代の建物が建っており、直接行くことはできない。このため、一旦アテナイのアゴラの「アッタロスのストア」の後ろに延びる現在の路地を北側に進み、東西に走る地下鉄1号線と並行する「アドリアヌ通り」に左折する。この辺りはプラカ地区と呼ばれ、通りの北側には、タヴェルナ、ライブハウス、露店などが軒を連ねている。
クリックで別ウインドウ開く

その「アドリアヌ通り」を西方面に歩き、先の地下鉄に架かる陸橋を横断した先に「アテナイのアゴラ」への入場改札口がある。こちらで入場チェックを受けた後、アゴラの敷地内を南東方面に向かう広い通りを進んで行く。


今日はスタートが遅かったこともあり、既に時刻は午後12時を過ぎたところ。今日も眩しいくらいの青空が広がり気温はぐんぐん上昇している。

ここで、入口付近に設置されているアテナイのアゴラの配置図及び復元図を参照してから見学すると、当時の建物の様子がイメージできる。
14(ハドリアヌスの図書館)、7(ローマ時代のアゴラ)を見学して13(アッタロスのストア)の裏側を手前に進み回り込む様にして、目抜き通りの21(パナテナイック通り)までやってきたことが分かる(以降も名称の前に配置図記載の番号を付記している)。

通りの右側には12「アグリッパのオデイオン(音楽堂)」の遺構がある。紀元前15年ごろ、ローマ帝国初代皇帝アウグストゥスの盟友で娘婿だったローマ将軍アグリッパ(前63~前12)が建てたもので、一辺25メートルの正方形、座席数は1000席ほどあったという。こちらは、建物の北側ファサードで東から西(奥から手前)に向けて巨人像とトリトン像2体の計3体が並んでおり、手前のトリトン像の保存状態が良い。
クリックで別ウインドウ開く
もともとは、4体の像がファサードを支えていたが、そのファサードは、当初の建築物ではなく、150年頃に倒壊した後に再建された半分ほどのホールを飾っていたもの。しかしその再建されたホールも、267年のヘルール族の侵攻により破壊され、その後は再建されなかった。

トリトン像の前の通りを西に向かうと、緩やかな丘の上に20「ヘファイストス神殿」(ヘーパイストス)が望める。そして、麓には公文書館としての機能もあった評議場18「母神神殿(メトロオン)」(旧・評議場(ブレウテリオン)(紀元前500年頃築)(解説)があり、その上に、五百人評議会の評議場19「新・評議場(ブレウテリオン)」(紀元前5世紀後半築。半円形の劇場形式)(解説)が建っていた。
クリックで別ウインドウ開く

アグリッパのオデイオンまでは、全てローマ時代に建設されたものだが、西側の丘の麓はローマの支配に服する前の、古代ギリシャ都市国家アテナイの時代に造られた遺構が広がっている。この後見学した13「アッタロスのストア」には、「アテナイのアゴラ」の古代ギリシャ時代の模型(紀元前500年の模型)と(紀元前400年の模型)が展示されており変遷が理解しやすい。

ヘファイストス神殿には、評議場18「母神神殿(メトロオン)」の北隣にある広い通りから坂道を上って行く。こちらは、その坂道途中から振り返って見た様子。母神神殿(メトロオン)から南側には遺構が広がっている。
クリックで別ウインドウ開く

紹介し忘れたが、円錐状のオブジェが入口に2つ置かれており、デルポイにあった「世界のへそ(中心)」をシンボルとした形状とよく似ている。また、南北通路の東側沿いには、ハドリアヌスのトルソーが飾られている。

広い通りの北隣には、23「アポロン神殿」(紀元前340~前320年築。幅10メートル、長さ16.5メートルのイオニア式神殿)(麓からの様子)があり、更に北隣には、25「ゼウス柱廊」(紀元前425年~前410年築。2本の通路があるストア)と、古代ギリシャ都市国家アテナイの時代の建物があったが、こちらも僅かに遺構が残るだけである。坂道を上り詰めると、ヘファイストス神殿の北東角に到着する。

ヘファイストス神殿は、紀元前449年から建てられ始め、紀元前415年頃に完成した神殿だが、現在も、当初の姿をほぼとどめており、古代ギリシャ神殿の中では最も保存状態が良い一つと言われている。敷地面積、南北約14メートル、東西約32メートルで、ドーリア式円柱の6本×13本が屋根を支えている。大半は大理石だが、最下部のみ石灰岩から造られている(解説)
クリックで別ウインドウ開く

炎と鍛冶の神であるヘファイストス神に捧げられた神殿で、ヘファイストス神とアテネ神の彫像が祀られていたが現在は失われている。キリスト教の公認と国教化以降は閉鎖されていたが、700年頃から1834年までギリシャ正教会として使われた。更に近年は、選挙の投票所や埋葬地などでも使用された。

正面の東側のペディメントには彫刻はなく、その下のメトープには「ヘラクレスの12の功業」(10枚)が彫られている。また北側と南側には伝説的なアテナイの王「テセウスの冒険譚」(8枚)がある。メトーブは全部で68枚あるが、50枚は当初から彫られていない。そして玄関前室には「テセウスの戦い」の場面が刻まれている。

西側のペディメントとメトープには彫刻は施されていないが、後室には「ケンタウロスとラピテース族の戦い」が刻まれており、摩耗しているが良く残っている。
クリックで別ウインドウ開く

評議場18「母神神殿(メトロオン)」の南隣には、16「円堂(トロス)」(前470~前465築)の遺構がある(解説)。当番評議員会議場(プリュタネイオン)、当番評議員(プリュタネイス)達の会議場・詰所にして利用され、迎賓館、食堂としての機能もあった。円形の基礎と中央部の基壇が残っている。

次に、中央を東西に横断するプロムナードを東側に歩いて行くと、「市事務所」(2世紀築)の遺構に隣接して南側に紀元前180年頃に建設された11「中央ストア」で、長さ147メートル、幅17.5メートルのドーリア様式の円柱と基壇が残っている。そして、その遠景にみえる「アクロポリスの丘」手前のビザンティン様式の教会は1000年頃に創建された「アギイ・アポストリ教会」である。
クリックで別ウインドウ開く

プロムナードの北側には、12「アグリッパのオデイオン(音楽堂)」のファサード側の巨人像とトリトン像が見える。ところで、オデイオンは、傾斜面の地盤を活用し、北側に半円舞台があり、南側に半円形の観客席がせり上がるローマ劇場形式だった。この南側が、観客が入場する正面玄関で、後方向かい側の11「中央ストア」のテラスから直接アクセスできた。
クリックで別ウインドウ開く

すぐ先に置かれた大きな柱頭は、12「アグリッパのオデイオン」を飾っていたもので、横に並ぶと、その大きさに驚かされる。そして、前方に見える横広の建物は13「アッタロスのストア」で、小アジア・ペルガモンの国王アッタロス2世が、アテナイで学問を授かった謝礼として贈ったもの。紀元前2世紀に完成、1階部分に21の店舗を収容していた。
クリックで別ウインドウ開く

アッタロスのストアは、やはり267年にヘルール族により破壊され、その後は城壁の一部として利用されていたが、1950年代に復元され博物館として蘇っている。長さ115メートル、奥行き20メートルの大きさがあり、1階はドーリア式の列柱が並ぶアーケードで、2階部分は欄干があるロッジアとなっている。


1階内側は、イオニア式の建築様式が用いられたポルチコで、その内側が博物館の展示室となっており、入口手前の壁面も含めて多くの作品が飾られている。


展示室には、16「円堂(トロス)」南側で発掘された紀元前750年頃の各種陶器や、紀元前7世紀のスフィンクスが描かれた黒絵式のアンフォラ、ワイン容器が展示されており、他にも陶器類、副葬品、硬貨、彫像など数多くの展示がされている。
クリックで別ウインドウ開く

2階へは柱廊の両端からの階段で向かう。こちらではロッジア全体が展示室になっており、アポロン、ヘラクレスなどの裸体像の彫像が展示されている。アレクサンドロス大王(紀元前4世紀の2世紀のコピー)の頭部像や、ローマ帝国第2代皇帝トラヤヌス(在位:98~117)、第16代ローマ皇帝マルクス・アウレリウス・アントニヌス(在位:161~180)と共に統治した共同皇帝ルキウス・ウェルス(在位:161~169)の頭部像などが展示されていた。


時刻は午後2時半を過ぎ、お腹が減ったので、軽めにランチを食べようと「アドリアヌ通り」沿いに並ぶタヴェルナの東端にあった「ディオスクリ」に入った。ミトスビール、オレンジジュース、ブルスケッタ、ペンネアラビアータを注文したが、料理の味付けはゆるい感じだった。すぐ後に来た隣のカップルは、頼んだ料理(ライス系?)をほとんど残したまま、直ぐに去って行った。。


食後は「アテナイのアクロポリス」に向かった。昼前に見学した「ローマ時代のアゴラ」入口前まで戻って、更に南に200メートルほど進んだ後、右折して綺麗に舗装された坂道を上って行く。その坂道はしばらく西に向かっていたが、大きく左に回り込み急勾配の坂を上って行く。
クリックで別ウインドウ開く

緑の合間に見える丘の上に建つ4本のイオニア式円柱は、紀元前424年、建築家カリクラテスにより建てられたアクロポリス見所の一つ「アテナ・ニケ神殿」である。幅5.4メートル、奥行き8.3メートルの敷地を持つ小神殿で、内部には勝利の女神ニケ像(木製)が奉られていた。

通路右側の(南西)斜面から麓にかけて「ヘロディス・アッティコス音楽堂」の観客席が続いている。161年にギリシャ人貴族でローマ元老院議員のヘロディス・アッティコスが、妻を偲んで建設した劇場で、約5000人の収容が可能だった。当時は高価なレバノン杉の屋根で覆われていたが、267年にヘルール族により破壊された。


音楽堂は、近年改修され、毎年5月から10月にかけて「アテネ・フェスティバル」(1955年より)(エピダウロス・フェスティバル同時開催)として、ミュージカル、オペラ、バレエ、演劇、演奏会などのイベントが開催されている。舞台背後に聳える壮大なスカエナエ・フロンスが印象的で、古代にタイムスリップした気分を味わえる。

すぐ先でアクロポリスの改札口がある踊り場となり左折して入場する。ちなみに直進すると南側斜面を通って東方面に下山する道となる。改札口から入場すると崖を迂回する様に左から右に回り込み「ブレの門」に到着する。267年のヘルール族の侵攻で被害を受けた後に造られたもので、1852年にこの門を発見したフランスの考古学者エルネスト・ブレの名に因んでいる。その門の先には勾配のある階段が続いている(アクロポリス概略図 参照)


階段の最上部に見えるのがアクロポリスの入口門(プロピュライア)になる。そして、手前左側の立方体のモニュメントにはローマ将軍アグリッパを称える「アグリッパの青銅像」が飾られていた。当時の碑文がモニュメントそばに置かれている。しかし、モニュメントは、もともとペルガモン王エウメネス2世(前2世紀)が、馬車に乗った自分の像を置くために建造したものとされている。
クリックで別ウインドウ開く

そして、対する右側(南西角)の崖の先端には「アテナ・ニケ神殿」が建っている。アテナ・ニケ神殿のファサードは、反対側になることから、階段を上りプロピュライアを抜けて、回り込んで向かったがかなり手前から進入禁止で、僅かに外観が見ることができるだけであった。

さて、入口門(プロピュライア)を過ぎると広い見学通路が前方に続いており、通路やや北側に見える、丘の傾斜面に建つ3棟が連結する様な建物が「エレクテイオン神殿」で、特に西角のテラスの6体の少女柱像が屋根を支える「カリアティード」が有名である。その手前に高く積み重なる石材(石灰岩)は「アテナ古神殿」(南側からの様子)遺構である。
クリックで別ウインドウ開く

そして、エレクテイオン神殿の手前に並ぶ球状の彫刻が施された大理石材は、9メートル程の「アテナ・プロマコス像」青銅像(紀元前456年頃築)が立っていた基壇である。像は、左手に盾、右手に槍を持って立つ姿で、頂部はアテネから45キロメートル南東のスニオン岬からも見えたという。その後、青銅像は465年に東ローマ帝国の首都コンスタンティノープルの皇帝宮殿に移設され、1205年に破壊されてしまう。

エレクテイオン神殿から、右に少し視線を移すと、丘の中央からやや南側に、アクロポリス最大の見所「パルテノン神殿」が建っている。西側に向いた神殿は、30.9メートルある基壇の上に、約10メートルの高さの8本のドーリア式の円柱が建ち並ぶ姿で、プロピュライア(正門)方向を向いていることから、正面側と思ってしまうが、実は反対側の東面が神殿の入口になる。
クリックで別ウインドウ開く

見学通路は、神殿の北側に沿って続いている。その神殿の北側(南も同様)の基壇は69.5メートルの長さがあり、その巨大さに驚かされる。このパルテノン神殿は、アテナイの最盛期を築き上げた政治家ペリクレス(前495?~前429)の建設計画の下、紀元前447年に工事が始まり紀元前431年に完成したものだが、もともとは、紀元前490年の「マラトンの戦い」での勝利を祝って紀元前488年から建設された「初期のパルテノン神殿」が始まりで、その後、紀元前480年「ペルシア戦争」において建設途中に破壊された後を受け継いで建設されている(パルテノン神殿の解説)
クリックで別ウインドウ開く

長い歴史を持つパルテノン神殿は、267年のヘルール族の侵攻や、396年の西ゴート族との戦いなどで大きな被害を受けた。その後は、役割を大きく変え、6世紀には「生神女マリヤ聖堂」となり、1453年のコンスタンティノープル陥落以降、ギリシャがオスマン帝国の支配下に置かれたこともあり、モスクへと変えられた。ヴェネツィア共和国とオスマン帝国との戦いとなった1687年の大トルコ戦争当時は、神殿をオスマン帝国の弾薬庫としていたことから、ヴェネツィア共和国が放った砲弾が爆発し、壊滅的な被害を被ってしまう。

1975年から始まったパルテノン神殿修復計画は、1687年の大トルコ戦争で被った破壊以前の姿に戻す計画だが、具体的な工事が始まったのは1983年からで、その後も停止や再開が繰り返された。そして、2010年に発生したギリシャ危機や、その後の財政健全化などからギリシャ国内の景気回復の見通しもないまま遅々として工事は進まず、現在に至っている。とは言え、こちらの北面に並ぶ17本の柱やアーキトレーブは修復が終わり壮麗な姿を見せてくれる。
クリックで別ウインドウ開く

パルテノン神殿の北面と向かい合う様に立つのが「エレクテイオン神殿」(前421~前407築)で、入口門(プロピュライア)からの複雑な構造と異なり、西角の「カリアティード」(6体の少女柱像)が前面に張り出しているものの、綺麗な長方形になっている。
クリックで別ウインドウ開く

そのエレクテイオン神殿の手前に広がる遺構が「アテナ古神殿」の址で、エレクテイオン神殿より100年前の紀元前525から前500年頃に建てられ、エレクテイオン神殿の東西の横幅の約2倍ほどの長さ(東西)43.15メートル、南北21.3メートルの敷地面積を持ち、石灰岩の基礎の上に12本×6本の円柱で囲まれていた。その後、紀元前480年のペルシア戦争時に破壊され、円柱やエンタブラチュアなどの部材は、アテナイの政治家、執政官テミストクレス(前520頃~前455頃)の指示により、破壊された城壁の北壁の再建に活用された。

エレクテイオン神殿の東側に向かうと、北壁の手前には大理石の部材が積み重ねられており、その先(北側)に「リカヴィトスの丘」(標高277メートル)が望める。アテネ市街地では最も標高が高い丘で、麓とはケーブルカーで結ばれている。頂上には、聖堂や劇場、レストランなどがある。ちなみに、こちら「アクロポリスの丘」は標高150メートルである。
クリックで別ウインドウ開く

エレクテイオン神殿の東側はイオニア式の柱廊式ポーチ(玄関)で、柱頭上部の3層のエンタブラチュア上のペディメントや天井は失われている。2層目のメトープは青灰色石灰石で、もともとは、表面に大理石の浮き彫が釘留めされていたが、穴のみが残っている。その神殿中央部を覗き込むと、長方形に並べられた仕切り石のみが残っていた。北側には、南外壁同様に大理石が積み上げられた外壁で構成されている。
クリックで別ウインドウ開く

東ポーチから北西側には、大きく張り出した北ポーチ(玄関)が望める。北ポーチへ向かうには、東ポーチから右側にある階段を利用する(中央見学通路からも行ける)。
クリックで別ウインドウ開く

階下から東ポーチ方向を振り返ると、3メートルほどの高低差があることが分かる。


北ポーチ(玄関)は神殿本体から西にやや雁行して配置され、6本(前面に4本、左右内側に1本づつ)のイオニア式の柱廊が、ほぼ完全に残る天井を支えている。天井の位置は、東ポーチ側と変わらない高さだが、低い位置から建っていることから非常に遠くに見える。その天井には、大きな大理石の梁と形状のくぼんだパネル格間(ごうま)が交互に配置されている。


再び、階段を上り、東ポーチ前を通りすぎ、東方向に向かうと、丘の東端にギリシャ国旗が掲げられた展望台がある。展望台から北方向を眺めると「アテナイのアゴラ」の方角になり、左側に「ヘファイストス神殿」「アギイ・アポストリ教会」「アッタロスのストア」などが見える。少し手前には午前中に見学した「ハドリアヌスの図書館」、「ローマ時代のアゴラ」の「風の塔」などが見渡せ、街並みの中に古代遺跡が共存しているのがよく分かる。
クリックで別ウインドウ開く

展望台から、パルテノン神殿に向かうと神殿の20メートルほど手前に「ローマ神殿とアウグストゥス」の遺構がある。ユリウス・クラウディウス朝時代の紀元前27年に建てられた円形の小さな神殿(直径8.6メートルの円形にイオニア式の9本の円柱が建ち、円錐形の屋根まで7.3メートルの高さがあった)で、丘上に建てられた古代建築物としては最後となった。現在は崩壊して、碑文が残った石材のみが折り重なっている。
クリックで別ウインドウ開く

パルテノン神殿を東側の正面側から眺めてみる。僅かに残る東ペディメントには、ゼウス神の頭部から女神アテナが誕生する場面が残されている。メトープには、オリンポスの神々が巨人と戦ったギガントマキアー大戦の浮彫が施されているとのことだが、僅かに高浮かし彫りであることが分かるほどで酷く痛んでいる。ちなみに、1687年の大トルコ戦争で大きな被害を被った南側中央付近の柱はまだ修復されていない。
クリックで別ウインドウ開く

神殿には他にも、若干の彫刻が残っているが、多くは外され、2009年に開館したアクロポリス博物館に収蔵されている。海外では、パリのルーヴル美術館、コペンハーゲンなどに保存されているが、彫刻群の大半は大英博物館にある。それら彫刻群は、エルギン・マーブルと呼ばれ、1800年、イギリスの外交官エルギン伯爵トマス・ブルース(1766~1841)が、オスマン帝国第28代皇帝セリム3世(在位:1789~1807)の許可(当時のギリシャはオスマン帝国領)を得て、多くを切り取りイギリスへ持ち帰ったためである。近年、ギリシャ政府は、イギリスに返還要求しているものの実現していない。。

パルテノン神殿の南側からは展望が開けており、南西方面を眺めると、右側に緑豊かな小高い山(標高147メートル)「フィロパポスの丘」が望める。頂上に見える建築物はアテネの発展に大きく貢献した古代ローマ時代の執政官「フィロパポスの記念碑」で、周りには野外劇場がある。そしてその先の「ピレウス港」や、更にその先の沖合には「サラミス島」の稜線まではっきりと見える。
クリックで別ウインドウ開く
ピレウスと言えば、アテネ到着の夜、最初に向かった星付レストラン「Varoulko」や、ペロポネソス半島から、ギリシャ本土に戻ってきた際に、ピレウスを経由し、左側に続く海岸線「アポロ・コースト」を通り、「スニオン岬」まで行ったことを思い出し感慨深い。

ところで、この海域は、紀元前480年にアテナイのテミストクレスが率いるギリシャ軍と、ペルシアの王クセルクセス1世(在位:前486~前465)率いるペルシア艦隊との間で行われた「ペルシア戦争・サラミスの海戦」で知られている。テミストクレスは、海戦に先立ち、アテナイを放棄し市民を疎開させ、戦える市民は船に乗せて軍を強化したことで勝利を得ることができた。しかし、その代償としてペルシアに町を占領され破壊されることになった。

視線を下げてアクロポリスの崖の下を覗き込むと、中腹に続く山道が延び、その下の斜面から麓にかけて、すり鉢状の野外劇場「ディオニュソス劇場」が一望できる。その先の木々を挟んで南側に見える近代的な建物が「アクロポリス博物館」である。そして東側のビルを挟んだ先には、広い敷地に僅かな円柱だけが建つ「ゼウス神殿」が見える。
クリックで別ウインドウ開く

ゼウス神殿の建設は、紀元前550年頃のアテナイ僭主ペイシストラトスにより始まったが、度重なる計画変更、政治体制の移行や変化など様々な要因により、600余年が過ぎた132年、ローマ皇帝ハドリアヌスにより完成した。ローマ帝国期を通じて建てられた神殿の中で最大と言われ、幅41メートル×108メートルの基壇に104本のコリント式の柱が建てられた。神殿にはハドリアヌスの像が置かれ、その本殿にはゼウス像が祀られていたと言われている。

2時間ほど見学した後、再び入口門「プロピュライア」から階段を下り、改札横のゲートから丘の斜面を下りていく。左側の「ヘロディス・アッティコス音楽堂」では、アテネ・フェスティバルの準備をしていた


丘の南斜面を東方向に続く山道を下りていくと、麓の途中に、紀元前420年頃に建てられた病の治癒を祈願する人が訪れる治癒所「アスクレペイオン」の遺構があり、その先で、「ディオニュソス劇場」に到着する。最初の劇場は、紀元前6世紀頃に造られ、ディオニュシア祭(ディオニュソス・エレウテリオス)の会場となった。祭りは、アッティカのエレイテライを起源とし、ワインと豊穣の神ディオニュソスに捧げる祭で、ギリシャ悲劇や後に喜劇も演じられた。

その後、紀元前4世紀に、アテナイの政治家リュクルゴス(前390頃~324)により最大17,000の収容能力を持つ石造りの劇場に改築された。劇場の観覧席の中央には豪華な座席が残されている。椅子の幕板部分に残る碑文に「ディオニュシア祭で座る神官の専用席」と書かれているとのこと。紀元61年、第5代ローマ皇帝ネロの時代には、大規模な修理が行われ、舞台(プルピタム)の色石への敷き替えや、剣闘士の戦闘中に聴衆を保護するため大理石の障壁などが設置された。
クリックで別ウインドウ開く

舞台には3世紀制作のディオニュソスの生涯のシーンを示す4つの石のレリーフが飾られている。中央にディオニュソスの従者で、酔っぱらいの巨人シーレーノスがしゃがみ込み、向かって左から、ディオニュソスの誕生、ディオニュソスのアッティカへの入口、そしてディオニュソスとバジリンナの結婚、ディオニュソスの即位と続いている。その後、ディオニュソス劇場は、5世紀後半に放棄され、教会の中庭や採石場となった。
クリックで別ウインドウ開く

観客席からアクロポリスの丘を振り返ると、自然の岩山の上は、石材が積み重ねられ城壁になっていることが分かる。こちらが、紀元前480年のペルシア軍によって被害を受けた後に再建されたもの。戦争中、市民のほとんどは、テミストクレスの指示に基づき、避難していたが、実際に帰郷できたのは、翌年の紀元前479年「プラタイアの戦い」でギリシャ軍が再び勝利を収めた後であった。焼け野原となった町の復興に取り掛かる市民が、最初に行ったのが、市壁やこちらの城壁の再建と強化だった。

城壁下部の岩には「トラシュロスの合唱隊記念碑」が残っている。こちらは紀元前320〜前319年に小さな寺院の形で建てられた記念館で、断崖に開口部が残されている。そして、1802年には、洞窟内に聖母マリアに捧げられたパナギア スピリオティッサ教会が設置されたが、ギリシャ独立戦争時の1827年にオスマン帝国の砲撃によって破壊された。
クリックで別ウインドウ開く

次に「ディオニュソス劇場」から南に進み、東から西に延びる歩行者専用道路(ディオニュシウス・アレオパギタ通り)を東に向い、幹線道路沿いを歩いて「ゼウス神殿」に到着した。幹線道路沿いのアクロポリスの丘の方向に向いて建つ「ハドリアヌスの凱旋門」をくぐった先が入口になる。時刻は午後7時半。午後8時で閉園となるためあまり見学時間はない。

アクロポリスの丘からもその大ささを確認できたが、近くで見ると迫力ある姿に圧倒される。現存するコリント式の円柱は15本が残されており、高さは17メートル、ファサードを含めると高さは27メートルにも及んだ。現在の姿は、ローマ神やギリシャ神が否定された後の5世紀以降に破壊され、石材を周辺のキリスト教の聖堂建築に再利用されたことによる。
クリックで別ウインドウ開く

夕食は「アテナイのアクロポリス」のライトアップが望め、料理の評価が高いレストランを前提にトリップアドバイザーで探していたが、「アドリアヌ通り」沿いにあるタヴェルナ(Diodos Archaias Agoras)がお勧めだったことから、今日午前中「アテナイのアゴラ」に行く前に予約しておいた。予約時間も迫っており、アクロポリスの東側から北側に向かって麓沿いを回り込む様に続く狭い通りを急ぎ歩いて向かった。

そのタヴェルナ(Diodos Archaias Agoras)には、午後8時半頃到着した。ちょうど、日の入り間際の時間で、夕日が「アテナイのアクロポリス」や、手前のアテナイのアゴラの「アッタロスのストア」を赤く照らしていた。
クリックで別ウインドウ開く

日没後、中央に見える「エレクテイオン神殿」の北ポーチや「パルテノン神殿」が、ライトアップされオレンジ色に輝きだした。その手前の北壁に紀元前480年ペルシア戦争で破壊された「アテナ古神殿」の円柱やメトーブなどの部材がむき出しのまま埋め込まれているのが確認できる。これらは後世へ戦争の記憶を受け継ぐ目的だったと言われている。
クリックで別ウインドウ開く

ソーセージ(8.5ユーロ)とシーフードミックス(19.5ユーロ)を注文したが、写真を取り忘れた。。料理は味に力強さもあり美味しかった。飲み物は、Mamosビール(5ユーロ)と、ロゼ・ワイン「Evosmon」(18.5ユーロ)を注文した。ビールは、ギリシャ伝統的なピルスナーで、ホップの香りがあり、フレッシュな味わい。ワインの品種はブラック・マスカットで、甘味の中にバラの香りがあり爽やかな酸味も感じられた。


タヴェルナ前は、眺めが良いことから多くの通行人が記念写真を撮っていた。しかし午後9時半頃になると周りも暗くなり、人通りも少なくなった。「アテナイのアクロポリス」は、丘の中腹から白く美しく輝き始めた。実は、今夜がギリシャ滞在のフィナーレ・ディナーでもあり、最後を飾るにふさわしい眺めとなった。
クリックで別ウインドウ開く

お腹もいっぱいになったところで、最後にアイスのデザートとグリューワインのサービスがあった。テラスのお客もほとんど帰った中、担当のスタッフの小太りおじさんの、ひょうきんな行動に笑えた。2時間ほど滞在しすっかり満足し、午後10時半頃にタヴェルナを後にした。


地下鉄モナスティラキ駅のあるモナスティラキ広場まで戻ってきた。最後に、ハドリアヌスの図書館前のライトアップの様子を眺めた後、地下鉄でホテルに帰った。

(2019.5.29)

page top

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ギリシャ・クレタ

2020-04-06 | ギリシャ
クレタ島の首府イラクリオンから西に約20キロメートル離れたアムーディ(Ammoudi)のアパートメント・ホテル(Erivolos Apartments)で朝を迎えた。昨日は、イラクリオン港に午後8時前に到着したものの、ホテルには午後10時頃と遅い到着となった。実は、主要幹線90号線から近い場所にも関わらず、リガリア湾(アギア・ペラギア地区)を望む海岸段丘の坂道沿いにあることや、灯りも少なく暗いことから迷ってしまったのである。
クリックで別ウインドウ開く

夕食は、リガリア湾に面した「レストラン・シロッコ」(ホテルの場所が分からず教えてもらった)に閉店30分前の午後10時半に入店した。料理は魚介類の盛り合わせを注文し美味しく頂いた。食べ終わるころには閉店時間も過ぎ、店内はほとんど客がいなくなったものの、サービスのデザートも快く提供してくれ有難かった。

食後、誰もいないレストラン前の砂浜から湾沿いの大型ホテルを眺めると、右側中腹にうっすら緑の灯りのホテルが確認できた。ホテルには午前0時前に戻り、プールサイドからリガリア湾を眺めて無事一日を終えた

以上の様に昨夜はドタバタ劇があったが、今朝は午前9時過ぎにホテルを出発し、無事「ハニア」にやってきた。ハニアは、イラクリオンから西に約145キロメートル行った北岸に位置し、周辺を含め人口70,000人と、クレタ島ではイラクリオンに次ぐ規模の港町である。主要幹線90号線からは、インターを下りて、南北に延びる「ヴェネツィア時代の防壁」西壁に沿って北上し、湾岸道から防壁の北壁を回り込むと到着する。


ここから歩いて防壁東側の上り坂を進むと、すぐに石畳の道になり旧市街の繁華街が現れる。繁華街の左右にはレストランやホテルがひしめく様に並んでいる。通りを100メートルほど進んだ先にある狭い路地を左折して少し進むと、視界が大きく開ける。こちらが、ハニアを代表する「ヴェネツィアン・ポート」で、今もヴェネツィア時代の美しい風景が残っている。港沿いには景色を眺めながら飲食できる多くのレストランやカフェが並んでいる。


湾に沿って東側に視線を移していくと、複数のドームが印象的な「ジャニサリー・モスク」が見える。こちらのモスクは、1645年の「クレタ戦争」の後、オスマン帝国により建てられたが、1878年のハレパ協定の締結、1923年のギリシャとトルコの住民交換などイスラム教徒がトルコに移住した後はミナレットが撤去された。その後は倉庫、観光案内所、博物館を経て、美術作品の企画展やイベント開催会場として活用されている。
クリックで別ウインドウ開く

ヴェネツィアン・ポートは、南側への入り江になるが、モスクの先から東方面にかけては港湾が広がっている。その港湾から続く堤防には、海賊の襲来から町を守るために築かれた聖ニコラオス(サンタクロース起源説)の砦があり西側にまで延びている。そしてその堤防の先端には「ヴェネツィア式灯台」が建っている。

灯台は、もともとはヴェネツィア人によって15世紀に建設され、19 世紀半ばにエジプト人によって修復されたが、現在は灯台としての機能はなく、土台には登れるが内部には入れない。その灯台と湾の北端とは100メートルほどの間隔の湾口となっている。ちなみに、北端の赤い建物は「クレタ海洋博物館」で、その先の城壁を西側に回り込むと「ヴェネツィア時代の防壁」の北壁に戻る。
クリックで別ウインドウ開く

次に港から南に延びる「ハリドン通り」を100メートルほど歩くと、右側にバジリカ様式の「ハニア考古学博物館」が現れる。博物館は1962年に設立されたが、もともとは「聖フランシスコ修道院(ヴェネツィア教会)」であった。その後、オスマン帝国時代にはモスクとして使用され、20世紀初頭には映画館となり、更には軍事設備の倉庫として使用されるなど変遷を繰り返した。


博物館を入ると中央に身廊があり左右に連続するアーチで仕切られた側廊がある。教会の姿を残しながら、館内にはハニアの町と周辺及びクレタ島内で発掘されたミノア文明前後の土器やローマ時代の工芸品などが展示されている。


内陣側の床には複数のモザイク画が展示されている。こちらは「ポセイドンとアミュモネ」で、ハニアがキドニア(シドア)と呼ばれていた3世紀中頃の個人邸宅のトリクリニウム(ダイニング)を飾っていたもの。左側の破損画は、サテュロスがアミュモネに欲情して襲いかかる場面で、右側は、ポセイドンが三叉戟を投げてサテュロスを追い払いアミュモネを救助した場面である。更に上のフレームには、官能的な喧嘩の暗示として闘鶏が表現されている。


こちらの可愛い絵柄の容器は、アプテラ(ハニア近郊の古代都市)の役人宅の墓から出土した「クライ・ピュクシス(陶器の化粧道具入れ)」で「後期ミノアIIIB期(LMIIIB)後宮殿時代」(前1300~前1250)のもの。表面には、長い衣服を着た男が多くの鳥が舞う野原でギターを弾く様子が描かれている。プレーヤーはアポロン、オルフェウス、歌手、司祭など様々な解釈があるが、音楽場面には葬儀など宗教的な意味が含まれている。


こちらの展示コーナーは、ミノア文明の前のキクラデス文明(前3000頃~前2000頃)より更に前の「初期ミノアI期(EMI)前宮殿時代」(前3650~前3500)のクレタ土器を集めたものである。口縁から伸びる突起のある椀や、灰黒色のピュルゴス土器など個性的な形の土器が並んでいる。
クリックで別ウインドウ開く

こちらは「初期ミノアI期~II期(EMI、EMII)前宮殿時代」(前3650~前2300)の展示コーナーで、左側には、鳥型のティーポット(前3000~前2300)や注ぎ口が上を向いたヴァシリキ様式の土器など個性的な形の容器が展示されている。容器には線状に描かれた文様がうっすらと残っている。いずれも多くは修復されていると思われるが、5000年も以前の古代の土器がこのように今も存在していることが信じられない。。
クリックで別ウインドウ開く

時代は下り「初期ミノアIII期(EMIII)前宮殿時代」(前2300~前2160)~「中期ミノアII期(MMII)古宮殿時代」(前1800~前1700)にかけての様々な容器で、中段左から3つ目の放射状に文様が描かれたミノア文明における代表的な「カマレス土器」や、燻製器や舟形トレイなど個性的な形状をしているもの多い。
クリックで別ウインドウ開く

「中期ミノアIA期(MMIA)前宮殿時代」~「後期ミノアII期(LMII)後宮殿時代」(前2000~前1425頃)の動物を中心とした置物で、一番上の車輪の牛は玩具と考えられている。左下のキクラデス型の置物(前2800~前2200)は、クレタ島の中央南部のコウマサ墓地から発掘したもので、肩幅が広く腕を組み脚が短く非常に小さいが、厚みがかなり薄く繊細な造りのため、アクリル板に入れて展示されている。右側手前の足の置物は、クレタ島の聖域とワークショップ(作業場)から出土したもので、供物と考えられている。
クリックで別ウインドウ開く

他にも、ミノア文明が崩壊した後の、ギリシャ各地にポリスが出現していた頃の作品で、神事に使われた鳥に扮した女性の粘土の置物(前600〜前575)や東地中海のガラス花瓶(前5世紀)などが展示されていた。

30分ほど見学した後「ハリドン通り」を更に南に行くと東側のアティナゴラ広場の先に「ギリシャ正教会のハニア聖堂」が建っている。もともとこの場所には、11世紀初頭に小さな教会があったが、その後取り壊され、倉庫や石鹸工場などになった。現在の教会は、オスマン帝国領クレタ時代の1850年から1860年にかけて建てられたもの。


教会内には、クレタ島の19世紀の著名なイコン画家たちの手による多くのイコンが飾られている。イコノスタシスの一部には、地元の金細工師によって作られた銀のカバーで煌びやかに荘厳されている。そのイコノスタスの背後には、キリストと左右に聖ピーターと聖ポールが描かれた画家ココティスによるフレスコ画があり、その上のアプスには聖母マリアが描かれている。


ハニア聖堂から南東に200メートルほど進んだ旧市街の中心地には、1913 年に開設された十字型の屋内市場「ハニア・マーケット」があり、煉瓦造りの趣のある外観や豊富な品揃え等が、地元を含め多くの人々から親しまれている。屋内には76もの店舗が建ち並び、新鮮な魚や肉類、チーズ、ハーブ、スパイスに加え、アパレル製品やサンダル、靴なども取り扱っている(月から土曜日営業で月水土は午前のみ営業)。今日のお昼はこちらの屋内市場で総菜をテイクアウトし、その後は、渓谷トレッキングを体験することとしている。


クレタ島は、2000メートル級の山々が連なり盆地や渓谷が形成される地形で、中でもサマリア渓谷やインブロス渓谷などトレッキングコースが人気スポットとして知られている。これからそのインブロス渓谷に向かうこととし、ハニアから主要幹線90号線をイラクリオン方面に30キロメートル戻り、ヴラィセス(Vryses)インターを下り、20キロメートル南のアスキーフー村から更に5キロメートルほど進んだ通り沿いに現れる数件のタベルナが、目的のインブロス村(Imbros)である。

インブロス村のタベルナ手前の三差路に「インブロス峡谷入口」の立看板があり、すぐ横の空地に駐車し歩いて行ったが、入口(砂利道の左側に建つコンテナハウス風の石造りの建物)は1キロメートル先にあったため、街道をもう少し進んでから歩くべきだった。。入口の女性スタッフに入場料2.5ユーロを支払い、裏側の公衆トイレを利用した後、出発した。


インブロス峡谷のトレッキングコースは、終着地点にあるコミターデス村までの全長8キロメートル(サマリア渓谷は15キロメートル)で、高度780メートルから650メートルを下るコースである。出発直後の歩きやすい道は、すぐに岩や石が転がる悪路になった。足元に気を付けないと足を挫いてしまう。


前方からけたたましい音が聞こえ、山羊が現れ通り過ぎていった。クレタ島には「クリ・クリ」と呼ばれる珍しい野生の山羊が生息すると言われているらしい。。


コース途中には道標など人工物はまったくないことから、GPSなどで確認しないと位置がわからない。ちなみにコースには、他に3~4人が歩くのみで、未開の地を歩いているようだった。中間から後半にかけて巨石が積み重なり、アップダウンや奇岩など中々見所も多かった。


辺りが開けエーゲ海が見え始めると、誰もいない古びたカフェに続き、無人の木造チケットハウスが現れ到着した。全体を通してコースは概ねなだらかに下っており距離もちょうどで、足を挫くことなく完歩できて良かった。踏破時間は3時間だった。近くのワンコが歓迎に現れやたらまとわりつかれた。

コミターデス村は海岸段丘にあり街道が斜面を蛇行しながら続いている。街道沿いのタベルナに頼みインブロス村まで車で送ってもらったが(13キロメートル、25ユーロ)、つづら折りが続く急な坂を一気に上りきり、その後は高地走行が続く街道だった。


さて、夕食は、ヴラィセスから主要幹線90号線をイラクリオン方面に30キロメートルほど戻ったレシムノ(レティムノ)を予定してる。レシムノは、イラクリオン、 ハニアに次ぐクレタ島の第三の規模の港湾都市で、2都市のほぼ中間に位置している。東西に続く海岸から"おわん"型に突き出た小半島の北側高台に「ヴェネツィア時代の城塞(フォルテッツァ)」址があり、城塞の南側に広がる旧市街が目的地である。

レストラン(Castelo Restaurant)へは、城塞南西側の駐車場からIoannou Melissinou通りを東に500メートル歩いた場所にある。途中、年配夫婦が経営する路地裏のパン屋で朝食を買い、ほどなく到着した。混雑しているテラスは若干空きがあったが、冷え込みだしたことから店内で頂くことにした。


料理は、最初に前菜を頼み、メインはスペアリブを頼んだ。甘めのソースを絡め、ポテトサラダ上に乗っている。


最後に、海老とムール貝のリングイネを頼んだが、いずれもおいしく頂けた。


最後にサービスデザートを頂いた。レストランはお洒落で開放的な吹き抜け空間になっており、階段を上り始めると2階と屋上のテーブル席も見える。2階のトイレを利用したが清潔で可愛いインテリアに好感が持てた。1時間半ほどゆっくり食事した後、レストランを出た。


レストランから東に300メートルほど歩くとレシムノの港「ヴェネツィアン・ポート」に到着する。ヴェネツィア共和国時代に造られた小さな港で、タベルナが軒を連ねている。前方には小さな灯台が建っている。


この時間のヴェネツィア時代の城塞はライトアップされていた。城塞は、オスマン帝国の侵略を防御する目的として1573年から1580年にかけて、ヴェネツィア人により丘の上(パライオカストロ)に建設された。城塞内には1646年にオスマン帝国により教会から改修されたモスクの丸い屋根が残っている。城塞からの眺めは美しく、夏には屋外劇場でコンサートが開催されているそうだ。


******************************

2泊したアムーディのアパートメント・ホテル(Erivolos Apartments)からは今朝も抜けるような青空が広がり、レストラン(フロント兼用)とプールを通して美しいリガリア湾の風景が一望できる。少し敷地内を散策してみた。
クリックで別ウインドウ開く

レストランの上にある展望テラスから部屋を眺める。駐車場から階段を上りプールサイドで折り返して上った最初の青い棟1階である。部屋は広くキッチンもあり快適だったが、洗面台のポップアップ排水栓の調子が悪く、結局水回りはキッチンを利用した。一番驚いたのは駐車場で、パントマイムの様な歩き方をしないと転がり落ちてしまうほどの傾斜地に設けられており、特に斜面下側のドアを開ける際はかなり注意が必要だった。
クリックで別ウインドウ開く

さて、今日は「クノッソス宮殿」の見学に行くことにしている。ホテルをチェックアウトし、主要幹線90号線をイラクリオン・インターまで戻り、案内表示に従い、市内と逆の南方面に向かった。インターからクノッソスまでは約5キロメートルの距離である。

「クノッソス宮殿」は、伝説のミノス王の王宮とされ、1900年以降、アーサー・ジョン・エヴァンズ(1851~1941)とイギリスの調査隊により発掘された。クレタ島には、紀元前7000年頃から人々が住み始めていたが、この地に紀元前2000年頃から宮殿が建設され始め、政治、経済、祭祀の中心として繁栄したが、紀元前1700年頃に起こった大地震で倒壊してしまう。その後、古宮殿を越える壮麗な新宮殿が建設された。現存する遺跡の大部分は、この新宮殿のもので、その遺跡群への入口は街道東側に設けられた駐車場の奥になる。


入場料16ユーロ(イラクリオン考古学博物館とのセット券)を支払い、入口を入ると最初にアーサー・エヴァンズの胸像が現れる。彼はイギリスの考古学者で、青銅器時代のエーゲ文明の研究における先駆者であった。1899年にはクレタ発掘財団を設立し、クノッソス遺跡の発掘を推進し、翌1900年より宮殿址ならびに未解読の線状文字資料を多数を発掘したことからクレタ文明の解明に大きな貢献を果たした。そのエヴァンズ像の後方には円形の「供物の井戸」が3つ並んでいる。


「供物の井戸」の東側に石畳が続き、その先に大きな宮殿の遺構が現れる。その宮殿壁の南北に沿って「王の道」と呼ばれる舗装された通りが郊外から続いていた。手前の石畳は、宮殿西側の「西広場(The West Court)」で、宮殿から約30メートルにわたり敷き詰められている。


宮殿壁に続く「王の道」は、メイン入口の一つである「西玄関(ウェスト・ポーチ)」に繋がっていた。西玄関は、4.6メートル×4.25メートルの主室がある柱廊玄関で後方に2つの小部屋があった。


西玄関の南側から遺跡の上に造られた現在の見学通路を東方面に進んで行く(宮殿の案内図はこちら)。右側には、回廊の区画址が続き左側には朱色の鮮やかな円柱が支える2階建ての復元された建物が現れる。円柱は円形型の柱頭が太く下方に向けて細くなっており、ギリシャ式の柱とは逆の形をしている。その建物を回り込むと、古典期を思わせる「南正門(サウス・プロピュライア)」(左側のみを復元したもの)が現れる。


手前足元の段差を越えると南正門の中に入り、天井を支える円柱(やはり下方に向けて細くなる)と角柱が並び、再び円柱(復元されていない)を過ぎると、宮殿中枢部に向かう階段(アッパー・プロピュライア)が続いていた。南正門の左右壁面には供物などを運ぶ人々「行列の壁画の廊下」が描かれており、現在一部がレプリカで展示されている(こちらはイラクリオン考古学博物館展示のオリジナル№1オリジナル№2)。復元された南正門を横からから見ると、右壁側の円柱基礎が残っており門の大きさをイメージすることができる
(注)以降リンクを貼った壁画等出土品は、全てイラクリオン考古学博物館の展示作品である。

「南正門」右側の円柱基礎の先にはやはり左側の復元された柱と対になる角柱下部が並び、その先に階段(アッパー・プロピュライア)が続いている。そして右側には、崩れた遺跡が広がっている。
クリックで別ウインドウ開く

階段右側に並ぶ貯蔵瓶(ピトゥス)を眺めながら、階段を上り詰めると、広いテラスになっており、テラス中央の角柱址までがアッパー・プロピュライア・エリアになる。その先から「ロビー」、「三柱式ホール」(数十センチ残る壁面基礎の先で12メートル四方)の「宮殿中枢部(高貴な館、piano nobile)」となる。そして、更にその先に「中央広場(セントラル・コート)」へ下りる中央階段があり、その奥に見える、高窓がある石積みの「壁画の部屋」へと続いている。
クリックで別ウインドウ開く

右側に視線を移すと、宮殿の1階部分の様子や、手前の「開口空間(ロッジア)」先に中央広場が広がっている。更に後を振り返ると、ロッジアから続く遺跡群の南端の通路沿いに、牡牛の角を模した 「奉納の角」(博物館展示のオリジナル)が飾られている。その東側に復元された石造りの廊下があり壁面には「百合の王子」のレプリカオリジナルはこちら)が展示されている。廊下はすぐに中央広場に通じている。


ところで、現在歩いているこのテラスは、宮殿の2階フロアにあたり、当時は3階まであった。テラス屋根で保護されている西側(ウエスト・マガジン)にはオリーブオイル、ワイン、その他の農産物などの大きな貯蔵瓶(ピトゥス)を保管する22ほどの部屋があり、約50ガロン(227リットル)のピトゥスとして400瓶もの収容が可能だった。ちなみに上部には「西広場」を見下ろすことができる大きな部屋(宴会場)があり収穫祭等の儀式が行われていたと考えられている。この場所から女神官(巫女)にゴブレット等を捧げるフレスコ画が発見されている。また、濃いめのメイクに、髪を丁寧に結い、輪結びスカーフを身に着けた「パリジェンヌ」(前1450~前1300)と名付けられた壁片は有名である。

次に「三柱式ホール」から中央階段北側に隣接する「壁画の部屋」(高窓がある石積みの建物)に行ってみる。入口は左側から中央階段の北側に回り込んだ所にある。


建物内は、高窓からも外光が差し込み、明るい雰囲気である。壁には当時描かれていた壁画のレプリカが数点展示されている。部屋の南側は、円柱で区切られ、1階から高窓まで吹き抜けとなっている。


以下は「壁画の部屋」に掲げられていた主なフレスコ画のオリジナルで、牡牛跳び(前1600~前1400)青の婦人達(前1600~前1450)聖なる森と踊り三者の神殿黒人の隊長(前1350~前1300)青い鳥猿と山の植物の風景

次に「壁画の部屋」の南側から、中央階段を下りて中央広場に出る。中央広場側から「宮殿中枢部」(西翼)方向を眺めると「壁画の部屋」真下のアーケード前に観光客が集まっている。こちらがクノッソス宮殿における最大の見所の一つ「玉座の間」になる(クノッソス宮殿の立体模型参照)。
クリックで別ウインドウ開く

こちらの玉座の間が、アーサー・エヴァンズにより発見された際、伝説のミノス王の実在を示すものではないかと言われた。ギリシャ神話では、ミノス王はクノッソスの都を創設し、宮殿を築いてエーゲ海を支配したとされる。最も知られる伝説として、妃がポセイドンからミノス王に送られた美しい牡牛とまじわって怪物ミノタウロス(頭は牛で体は人間)を生んだため、困った王はアテナイの名匠ダイダロスに命じて、一旦入ったら出ることが困難な迷宮(ラビリントス)をつくらせ、ミノタウロスをその奥に住まわせたとされる。

その「玉座の間」のアーケード奥の部屋には、北側壁面にアラバスター(雪花石膏)の玉座と、取り囲む様に朱色の壁面に描かれたグリフィンとベンチが設置されている。玉座自体はオリジナルで、ヨーロッパで最も古い玉座と言われている。現在における最も有力な説として、グリフィンがミノア文明では女神(或いは巫女)と関連付けられていたことや、玉座背もたれの湾曲エッジと座席の女性的なくぼみなどから、宗教儀式を目的とした「女性祭司」の部屋だったと考えられている。


なお、グリフィンの一部や、玉座とベンチとの間を彩っていた壁画が僅かに残っている。

そして床には儀式のためにアラバストロン(香油やマッサージ油の容器)が用意された。グリフィンは神聖の象徴として儀式に使用され、南側の円柱を介した小さな部屋は、儀式用の沐浴や洗濯のための部屋だったと考えられている。
一方で「玉座の間」は女王のための部屋で、壁画は王家の紋章を表し、南側の部屋は控えの間だったとの説も有力である。いずれにせよ両室を併せて約30人が収容できる規模があった。


中央階段に向かって左側のテラス屋根で覆われている場所は祭儀室(カルト・ルーム)で「三者の神殿」(リンク先は壁画)があった。階段側に隣接した場所に神殿リポジトリがあり、蛇女神像が出土している。


後のミケーネ文明を遥かに凌ぐ規模を持つこの宮殿の最大の特徴は中央広場で、それを囲むように重要な施設が配置されている宮殿の構造は、高度な官僚機構と強い王権の存在を示している。また、巨大な倉庫を備えていたのも重要な点で、ここから宮殿が支配領域内の物資を集積して再分配する機能を持っていたと考えられている。


次に中央広場の「東翼エリア」の見学に向かう(再び、宮殿の案内図はこちら)。東翼エリアは中央広場の東側の斜面下に向けて階層が広がっている。中央広場の中央東側に隣接してテラス屋根で覆われたエリアにある手すりから南側を見ると、手前の「大階段」のある「王家の邸宅(ロイヤル・アパートメント)」に続き、前方には、「女王の間」と、更に南側のテラス屋根に覆われた「神殿」が、中央広場に隣接した一段下に望める。


場所を変えて中央広場の手すりから「大階段」(通行不可)側を見てみよう。階段は踊り場で折り返して地下1階の朱色の円柱が並ぶ回廊に到着している。


再び「大階段」側に戻り横の手すりから身を乗り出して、地下1階を覗き込むと、更にその下にも朱色の円柱がある地下2階があるのが分かる。これまで見学した「宮殿中枢部」(西翼)は3階建(一部高窓あり)だったとされるが、こちら東翼の「王家の邸宅」は中央広場から2階建てで、地下に2階の計4階建であった。


東翼エリアの下に向かうには、中央広場に沿って少し北にある石階段を下りていく。階段を下りたすぐ右側に倉庫らしき址があり、床に空いた穴と大きな壷が並んでいるのが見える。壁面の黒ずみはかつて宮殿を襲った火災の跡とも言われている。


倉庫に沿った見学用通路の扉先には、大階段から覗き込んだ地下1階の回廊を見ることができる。中には入ることはできないが、朱色の円柱や復元された壁画などが見える。中でもミノア人の宗教的シンボルを表す特徴的な盾のデザインは歴史的な価値があり見所の一つである。


東翼エリアには、様々な大きさの部屋があり、配置は一定の統一がなかったようである。そもそも多種多様な用途に応じた施設が、所々に外光を取り入れつつ、公私の部屋と廊下や階段で結ばれる集塊の様な建物だった。一旦入ったら出ることが困難な迷宮(ラビリントス)と言われた所以である。

外に戻り、中央広場の方向を振り返ると、階段の右側に中央広場を支える外壁の石積みが見える。僅かに見える窓枠のある階層のある建物は、西翼の「壁画の部屋」で、右側にはクノッソス宮殿を代表する「牡牛の壁画」のある建物が見える。


更に通路を進んで下に向かう。階段を更に下った左手の建物は「大瓶の倉庫」でピトゥスが置かれている。このエリアは、貯蔵施設やワークショップなど工業施設がある区画だったと考えられている。


「大瓶の倉庫」から更に階段を下りて、最下位まで降り、南側に向かう。南東まで進み、右側の階段を上ると「王家の邸宅」区画に到達する。この場所からは右側の朱色の円柱が並ぶ「王の間」と、左側の壁面の「女王の間」がL字状に繋がり、更に後方の「大階段」の区画も一望できる。現在、王の間と女王の間とは1階部分のみが残るが、もともとの4階建ての姿は、同方角から見た(クノッソス宮殿の立体模型)を参照するとイメージがわきやすい。


その「王の間」は、東南にお馴染みの円柱を三本ずつ配して東南に回廊を形成している。この時間は逆光で見辛いが、内部は、正面の正方形の部屋と西隣に角柱で区分けされたもう一つの部屋が並んでいる。その西隣の部屋の北側壁面から王座や天蓋の残骸が発見されている。そして更に西側には明り取り(サンルーム)があった。「王の間」は開放的な造りであることから私室ではなく、儀式などの目的で使用されていたと考えられている。


「王の間」の南西側にある「女王の間」には、南側にある「神殿址」との間の路地を入った先の朱色の角柱の間(手前の扉はサンルーム)越しに見学できる。正面北側の上部壁面には、気持ちよさそうに泳ぐイルカの壁画があり、その下に幾何学模様の縁取りがある2つの扉口がある。向かって左側は、すぐ先が突き当りで、右、左と進む通路があり北隣の王の間へ通じている。右側は右側上部への階段が続いている。正面扉口の右隣には、隣のサンルームへの出入口があり、上には明り取りの窓が開けられている。


左側の壁面には、大きな窓が開いており、手前の扉口から回り込むと小部屋がある。その部屋には、排水口があり宮殿内の主要な下水システムに接続されていたことからトイレや浴槽などがあったと考えられている。

そして右側手前にはベンチがあり、隣のサンルームとは二本の朱色の角柱で仕切られ外光が差し込んでいる。仕切りの壁面には長い波状の髪束を持ち天から舞い降りた女神「踊り子」が描かれている。


真下に見える観光客が集まる「女王の間」から、南側にある「神殿址」との間の階段を上ると「王家の邸宅」を見下ろせる。先端がサンルームの吹き抜け空間で、左側の階段が「女王の間」に続いている。階段の左先が「王の間」である。このテラスは2階の床にあたることから、当時は更に2階上の部屋まであったわけだ。


再び、階段を下りて途中の踊り場から南に広がる「神殿址」を見学する。回廊の中央に1メートル半ほどの小さな正方形の部屋があり、部屋の背面に漆喰の粘土ベンチの上には、 奉納の角と周りに女神像や奉納物など多くのテラコッタ像が置かれていた。

階段を一番下まで下りて「大瓶の倉庫」まで戻り北側への通路を通って「北翼エリア」に向かう。中央広場の北側に、ひと際高く積まれた石壁の上に朱色の柱廊が並ぶ壮大な「牡牛の壁画」の建物の場所になる。当時は手前にも向かい合う様に同様の建物が聳え、建物間の下には数メートル幅の狭い通路(坂道の北側通路)が、25メートル先の「中央広場」まで続いていた。


坂道の北側通路は「牡牛の壁画」のある建物の先で西側に直角に曲がりなだらかに上った後、出口に続いている。目前の2列の角柱には「北柱ホール(ノース・ピラーホール)」があった。柱は西側に6列、東側に5列あり、東西10メートル×南北22メートルもの区画を持つ大規模なホール(2階建て)だった。ホールは宴会場だった説がある(クノッソス宮殿の立体模型)。


西に延びる通路を上るとすぐ左側に「北の清めのたらい」と名付けられた深さ2メートルほどの地階を持つ正六面体の小ぶりな復元建物がある。訪問者が宗教的な清めの儀式に使ったと考えられ、同様の施設はクレタ島内の他の遺跡からも発掘されている。通路は右側の劇場沿いを通り、遺跡北西から「王の道」と合流して東の街道方面に延びていく。「クノッソス宮殿」は、後宮殿時代の紀元前1370年頃に再び大規模な災害が起こり被害を受けたが、修復されることのないまま、歴史の表舞台から姿を消してしまったという。


次に、イラクリオン市内に戻りイラクリオン考古学博物館に到着した。場所は新市街との境になる旧市街側のエレフテリアス広場北側にある。博物館は1883年に古代コレクションとして始まり、その後20世紀初頭の地震で崩壊したが、1952年に再開され1964年に拡張して現在に至っている。


ギリシャで最も重要な博物館の一つで、クレタ島の新石器時代からローマ時代までの5500年以上の代表的な遺物が収められている。中でもクレタ島のミノア文明のコレクションは充実している。こちらの展示室には、ミノア時代の「両手を挙げた女神像」などが展示されている。
クリックで別ウインドウ開く

クレタ島中央南部ファイストス宮殿から出土した、多色彩の浮彫で豪華に装飾された宴会用の豪華な「カマレス土器」のセット(前1800~前1700)で、百合が付いたクラテール、大きなフルーツスタンド、食器スタンド、水差しから構成されている。これらの器は同様の装飾モチーフを持っていることから、同じ職人により制作されたものと考えられる。


「後期ミノアIB期(LMIB)新宮殿時代」(前1600~前1450)のクノッソス宮殿を代表するリュトンの一つ。献酒の際に使用された牡牛のリュトンで首に注ぎ口があり、鼻が空気抜きになっている。精巧な作りで高度な技術を持っていたことがわかる。


同じく雌ライオンの頭部を忠実に再現したリュトン(前1600~前1500)で、方解石の石灰岩から造られている。目と鼻には、もともと異なる素材がはめられていた。クノッソス宮殿の中枢部から出土した。


高度な芸術性を持った作品が多く造られた「後期ミノアII期(LMII)後宮殿時代」(前1450~前1370)の土器群。自然主義的なものから草花文様や抽象文様など多様な土器が制作される。
クリックで別ウインドウ開く

クレタ島東岸のパライカストロから出土したリュトン(前1500~前1450)で、向かって右端のあぶみ壷から、底部を尖ったアンフォラ型にかけて、タコ、オウムガイ、海藻などが描かれた土器は「海洋文様式」と呼ばれている。隣には摩耗して少し怖い印象の山猫のリュトンが展示されている。
クリックで別ウインドウ開く

海洋文様式では、こちらの多くの土器が並ぶ中央台に展示される、クレタ島北東部のプセイラ島から出土した、海を示す網状模様に泳ぐイルカのリュトンも素晴らしい。

やや大ぶりのリュトンが並んでいるが、ザクロス宮殿(クレタ島の東海岸)から出土(前1500~前1450)した緑泥石(黄金で覆われていた)のリュトンは秀逸である。表面下部には煉瓦積みの中に「奉納の角」が刻まれ、中央には聖杯が支える渦巻き文様の上の神話世界(山上の祠堂)が表現されている。
クリックで別ウインドウ開く

こちらの展示室には、クノッソス宮殿などから出土したフレスコ画が一堂に会している。


博物館には予想を超える多くの作品が展示されており、3時間近く見学したものの最後は駆け足になってしまった。午後6時半に博物館を出て、午後9時発の飛行機でアテネに戻った。
(2019.5.26~28)

page top

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ギリシャ・ティラ

2020-02-26 | ギリシャ
ここは、エーゲ海に浮かぶティラ島(サントリーニ島)東海岸の「カマリ・ビーチ」で、ティラ空港からは車で南に10分ほど走ったところになる。朝7時に空港に到着し、先ほど海岸手前のベーカリーで朝食を食べたところ。これから南側のメサボウノ山(Mesa Vouno)(標高360メートル)にある「古代ティラ遺跡」の見学に向かうことにしている。
クリックで別ウインドウ開く

ビーチから1キロメートルほど街道を下った後、砕石舗装のヘアピンカーブが連続する山道を上って行く。急こう配の細い道だが対向車は現れないまま上り詰めた。終着点には整備された駐車場はなく、小さなロータリーがあるのみで、多くの車は周りに乗り上げ駐車している。メサボウノ山は北西側にある標高500メートル級のイリアス山と尾根(セラーダ地区)で繋がっている。ロータリーはその尾根上に位置し、100メートルほど離れた坂の上に建つ石造りの建物がティラ遺跡への入場ゲートになる。

ゲートからは岩山上まで階段を上り、山の斜面に造られた砂利道を歩いて行く。砂利道の左側には、イリアス山への稜線が続き、手前には、ヘアピンカーブの山道、麓にはカマリ・ビーチや、遠く(北側)サントリーニ(ティラ)空港の滑走路も見える。
クリックで別ウインドウ開く

砂利道は、山肌に沿って緩やかに右側に曲がり南方向に進んで行く。このあたりで標高は300メートル、素晴らしい眺望が続くが、急勾配にも関わらず防護柵がないため身が竦む。。


砂利道を200メートルほど進むと右側に浮彫が施された遺構が現れる。紀元前3世紀半ばにパンフィリア島(現:トルコ南部)出身のアルテミドロスによって捧げられた聖域で、祭壇が残っている(配置図はこちら)。その祭壇を見守る様に、向かって左側に「ゼウス大神の鷲」とその左側に「アポロン神の獅子」のレリーフが刻まれている。
クリックで別ウインドウ開く

そして、やや離れた左側には、「ポセイドン神のイルカ」と、その上に「アルテミドロスの肖像画」が数々の碑文とともに刻まれている。

「アルテミドロス聖域」の先の階段を上り詰めると、平坦地が現れ、ティラの都市(遺跡群)が丘の上にかけて広がっている。ここまでの険しい上りに加え、日差しの強さと睡眠不足で疲れが出たため、日陰のベンチに横たわった。。。
クリックで別ウインドウ開く

この場所はティラの都市のアゴラの北端で、標高約340メートルに位置している。アゴラ手前から斜面側を覗き込むと石垣があり、人工的に形成されていることが分かる。

ティラの都市は、もともとは、紀元前9世紀頃にスパルタから来たドリス人が築いた植民都市を起源とし、ローマ時代を経て、ビザンティン帝国時代まで栄えたが、726年の火山噴火で火山灰に覆われ、廃墟になったと伝えられている。時折吹く心地よい風で少し体力が回復したため、アゴラを南に向け歩いてみる。アゴラは、南北の長さ約110メートル、東西に17〜30メートルの広さがある。遺跡群はそのアゴラの西側の丘の上を南北に尾根状に続いている。アゴラ沿いに20メートルほど続く「公共の建物」の先隣りには「ディオニソスの館」の址がある。

アゴラの中央付近から丘側を望むと「ディオニソスの館」は、ひと際綺麗に石積みされている。そして左隣には丘の上に続く階段があり、その左側には「バジリカ・ストア」がある


バジリカ・ストアは南北46メートル×東西10メートルの長方形の敷地があり、中央に並ぶ10本のドーリア式列柱により支えられていた。北側部分は3本の柱で区切られ、ローマ皇帝に関連する彫像などが奉られていた。現在残る遺跡は1世紀に再建されたもので、ここが集会場など公共の中心部だった。


バジリカ・ストアの南隣りには2世紀に地元の富豪により建てられたローマン・バスの址や、

アゴラの南側から下の斜面には、女神テュケーの像が発見されたことから名付けられた「テュケーの家」の遺跡がある。

そして、その南隣の斜面には、2世紀に建設された「劇場址」が広がっている。最下部の長方形の石積みはプルピタム(舞台)で、その手前に半円形のオーケストラ・ピットがある。緑で覆われているが、斜面の中央部が両端より下がっていることから形状は分かる。向かって左側に階段があり約1,500人が収容できた。公演には近隣の島からの観客も訪れたという。


アゴラから西側の階段を上ると、すぐに下りになり、南端の小さなテラスに到着する。テラスからは急斜面の断崖が続き、南西側に「ペリッサ・ビーチ」やティラ島最南端の集落「エンボリオ」の町並みが見下ろせる。そのエンボリオの西側が小さな「ブリハダ・ビーチ」で今夜はそのブリハダ地区に泊まることにしている。
クリックで別ウインドウ開く

テラスから振り返ると一段高い場所に「アポロ・ピティオスの聖域」が広がり、その聖域を通路が鋭角に回り込む様に続いている。回り込んだ斜面にはひな壇状に「エジプト神の岩の聖域」がある。
クリックで別ウインドウ開く

先の階段を上り大きく右に回り込むと「アポロ・ピティオスの聖域」を丘の上から見渡せる。この聖域は古くはヘルメスとヘラクレスに捧げられた小さな洞窟だったが、その後、紀元前3世紀から紀元前2世紀にかけて、アポロ・ピティオスとエジプト神の祠が次々造られ大規模な聖域となった。収穫を司る神アポロン・カルネウス(ペロポネソス半島スパルタに伝わる古い神格)のカルネイア祭なども行われた。ちなみに、エジプト神が信仰されたのは、東地中海地域の覇権を目指していたプトレマイオス朝(前305~前30)がエジプト人兵士を駐屯させたことによる。


丘の上に延びる通路を北側に歩いていく。通路は緩やかな上りで、大小様々な区画が密集するティラの都市中心部を通っている。


聖域から通路は100メートルほどで行き止まりになり、「ディオニソスの館」と「バジリカ・ストア」の間から延びる通路と丁字路になる。左折した先はすぐ行き止まりになり、右側には地下宮殿を思わせる遺跡がある。北西側にはイリアス山の山頂に建つ「イリアス修道院」が見える。丁字路から東側を回り込み数メートルの遺跡を越えた広い丘の上から振り返って南側に広がるティラ遺跡の中心部を見渡してみる。南北150メートル、東西100メートル規模に広がっている。
クリックで別ウインドウ開く

標高360メートルの頂きにこれほど広範囲に都市が広がっていたことに大変驚かされた。この場所から更に北側にはプトレマイオス朝時代の駐在基地があり、最盛期には直径800メートルにも及ぶ都市だったと伝えられている。

さて、メサボウノ山を下山してカマリを過ぎピルゴス(Pyrgos)方面の標識に従い左折して島の西側に向かう。島中央部のメサ・ゴニア(Mesa Goni)には近年改築されたのか巨大で真新しい教会が建っている。聖ハラランボス教会で、聖ハラランボスは2世紀頃にテッサリア地方のマグネシアの初期キリスト教の司祭で113歳まで生きたとされ、生涯で数々の奇跡を起こしたことで知られている。
クリックで別ウインドウ開く

ピルゴスを過ぎ、西海岸沿いの街道に左折して「アクロティリ遺跡」に向かう。遺跡は、島の西南部にあるアクロティリ海岸手前に広がっており、カマリからは車で30分ほどの距離になる。

チケットショップには20人ほど並んでいたが、対応は早かった。チケットを購入(12ユーロ)し、綺麗に整備された敷地内を東方面に進む。遺跡群は、左の丘に位置し、正面の階段を上った先の左側に入館口がある。


アクロティリ遺跡は、紀元前5千年紀から紀元前3千年紀にかけ拡大し、その後ミノア文明の影響も受け繁栄した大規模な港湾都市だったが、紀元前16世紀頃に発生した大噴火により3~5メートルもの火山灰で埋没してしまう。1967年の発掘調査により紀元前17世紀頃の保存状態のよいフレスコ壁画をはじめ、土器・青銅器などが発見され、高度な文明を築いていたことが明らかになった。なお、近年の衛星画像の調査によると発掘された遺跡群は全体の3パーセントにすぎないと報告されている。
クリックで別ウインドウ開く

遺跡は、南北に約200メートル、東西の底辺にあたる南側が100メートルほどの三角形の敷地で、全体が近代的な大屋根で覆われている(遺跡の案内図はこちら)。館内には、遺跡を取り囲む様に設置された「渡り廊下」を周回しながら見学する。ティラ遺跡では、強い日差しの下、上り下りの見学だったので、空調も効いた快適な環境は大変有難かった。
ところで、この大屋根は2005年の完成時に一部崩壊して1名亡くなったことから、2012年4月まで閉鎖されていたとのこと。

昼12時を過ぎているが、入口付近は団体客等で混雑していたため、渡り廊下を進んだ東側から見学することにした。遺跡は一面灰色の世界で、人類滅亡後の世界を思わせる風景である。恐怖を感じたが、しばらくすると少し目が慣れてきた。

こちらは、東南角付近からの様子で、右側の大きな遺跡が、手前から遺跡入館口方向へと続いている。「クリア4」と名付けられ、17部屋に加え階段の址や一部2階の壁面も残る遺跡最大の建築物で、もともとは3階以上の高層建築だったとのこと。そして、建物の南側には「コレット通り」が延び、向い側には、水平な床(2階)が残る「ベータ棟」が建ち、その手前の囲みには階段の址がある。
クリックで別ウインドウ開く

「渡り廊下」を北方面に進んだ遺跡の中央付近にある「コンプレックス・デルタ」は、扉口や窓枠がある外壁や内壁など間取りがはっきり残っている。こちらから、クレタ島で有名な牡牛の角を模した 「奉納の角」が発見されている。紀元前17世紀は、クレタ島で独自の進化を遂げていたミノア文明の最盛期であり、ティラ島がミノア文化の影響を受けていたことがわかる。
右側の窓がある部屋の奥の部屋からは、春の花とツバメの壁画が発見され、アテネ国立考古学博物館に展示されている。手前の堆積層との間にある通りは、すぐ左先の建物「クリア2」前で屈折して海岸側に続いていたようだ。
クリックで別ウインドウ開く

更に、渡り廊下を進み一番離れた最北端の「セクター・アルファ」まで来ると、大容量の貯蔵用の甕(ピトス)が大量に発見された「ピトスの倉庫」がある。ピトスには大量の穀物、種、ワイン、油などを貯蔵することが多かったため、交易の中心地などから多く発見されている。
クリックで別ウインドウ開く

アクロティリ遺跡の壁画は、1967年から1974年にかけて発掘されたが、最初の壁画(アフリカ人青い鳥、猿の頭部など)はこの「セクター・アルファ」から見つかった。こちらの壁画はティラ島中心部の「フィラ新先史期博物館」(Prehistoric Museum)に展示されている。

北側から渡り廊下は、西南方面へと大きく方向を変える。ピトスの倉庫の南西側に隣接する建物が「女性たちの館」で、手前(北側)にある小さな窓の部屋から女性と、カミガヤツリ草(パピルス)、そして手を差し出す女性の壁画が発見された。こちらも「フィラ新先史期博物館」に展示されている。


「女性たちの館」に続いて南西側には「西の館」がある。壁の上部や内部の壁面は大きく溶解しているが高層建築物の姿のまま残っている。館は、海軍長クラスの邸宅だったと考えられており、食料貯蔵庫、書斎、キッチン、作業場などの部屋があった。一番奥が、入口から続く階段があった場所で屋根裏に続く3階まであった。


少し角度を変えて西南側の室内を覗き見ると、大屋根の支柱の基礎部分に内壁が残り2室だったことが分かる。そして外壁は、上の階と比べ下の階が内側に張り出して厚く造られている。下の階を重厚にして建物の安定性を図ることに加え、天井板などを支える垂直材の役目も果たしていたのだろう。上の薄く色彩が残っている角には洗面所があったとのこと。


この「西の館」からは両手に多くの魚をぶら下げた裸の青年漁夫の壁画(Wikimedia Commons)が発見された。壁画は「フィラ新先史期博物館」が所蔵しているが、残念ながら公開されていなかった。
廊下の一角に設置されているモニターで紹介されていた「西の館」の復元CGを見ると、3500年もの年月を感じさせない遺跡の保存状態に改めて関心させられた。


「西の館」の横から遺跡内に繋がる階段を下りてみる。向かって左側がその「西の館」の外観で、右側には先ほど東側の渡り廊下から見えた「コンプレックス・デルタ」の西側壁になる。中央の広場は「トライアングル広場」で北側のケノタフュ広場と南のテリチーノ通り(※画像は北方向)へと繋がっている。

そして、テリチーノ通りを更に下がった遺跡への入館口手前にある「セクター・アルファ」地区からは、「猿の壁画」(フィラ新先史期博物館)「ボクシングをする少年たち」(アテネ国立考古学博物館)の壁画が発掘されている。

入館口から最も近い西南側の「クリア3」は、14室の部屋を持つ2階建ての建物で、手前の仕切りがある区画に階段址がある。部屋からは、バラの花(フィラ新先史期博物館)、花束を持つ女性、ワニやポトニア鹿など多くの壁画が見つかっているが、破損が激しく博物館でも非公開である。建物内に、半地下になっている部屋があり、礼拝者を描いた壁画があったことなどから宗教的な儀式が行われた唯一の建物と考えられている。


アクロティリ遺跡から人骨や宝飾品などがほとんど発見されていないことから、事前の断続的な火山活動などで、3000人ほどの住民は退去したと考えられている。それにしても、イタリア・ナポリ近郊にある古代ローマ都市ポンペイ遺跡と比べると、やや知名度は劣るが、ポンペイより1500年以上も古い都市遺跡がリアルに残されていることへの驚きと、保存と観光との共存を目指した近代的な設備にも関心させられた。

1時間ほど見学した後、海岸からの景色を眺めて、今夜宿泊予定のヴィラに向かった。場所は、最南端のエンボリオから500メートルほど西海岸沿いのブリハダ地区にある「ヴィラ ミチャリス」(Villa Michalis)(トリプルルーム プールビュー)で、午後3時に到着した。

チェックインして1時間半ほど眠った後、ティラ島最北端の「イア」にサンセットを見に出かける。「ヴィラ ミチャリス」には、深夜まで営業しているレストラン(Taverna Meroula)が併設されており、帰宅して夕食を食べることにした。


出発して15分ほどで崖の上に並ぶ「フィラ(ティラ)」の町並みが見えてきた。ところで、ティラ島は、ギリシャ本土から約200キロメートル東南にあり、かつて大爆発を起こした火山が形成したカルデラ地形の一部で、その中央部と外輪山との大小5つの島々(サントリーニ諸島)から構成されている。そして、そのフィラは、カルデラ東側に三日月形に広がる「ティラ島」中央部のカルデラ側に面している。(地図はこちら
クリックで別ウインドウ開く

そのフィラを過ぎ「イア」に向かう。イアは、ティラ島の最北端でカルデラ側(南側)の崖沿いにある集落で「ヴィラ ミチャリス」からイアまでは20キロメートル強、45分ほどの行程になる。

駐車場は、イアの集落から200メートル北側を通る街道沿いにあるが、日暮れが近づいており大変混みあっている。しばらく待ち、駐車した後、南側の丘を越えて、時計塔の建つ市庁舎の横から東西に延びる目抜き通り(歩行者専用)を歩いていく。狭い通りには、ショップや土産物店、レストランなどが並んでいる。


目抜き通りから、人の流れについて路地を進むと断崖沿いに到着する。左側を見渡すとカルデラ側の青い海に向かって、崖上には数キロ先までイアの町並みが見下ろす様に建ち並び、その先からは、荒々しい岩山だけとなり大きく曲がりフィラ方面に続いている。中々、お目にかかれない絶景スポットである。
クリックで別ウインドウ開く

崖沿いにある通路から、海側に隆起した岩山があり、階段が続いている。階段の先はイア要塞(展望台)で、イアでは、この場所からの眺めが一番良いとされるが、既に人で溢れている。


狭い坂道の崖側に設けられた防護壁にも見物客がびっしり張り付いて、空いたらすぐに他の人が入るといった状態で、来訪者が増える一方であった。眺めは美しいが、人が多すぎて情緒がない。。しばらく、防護壁にしがみついて日没を待っていたが、徐々に通行すら困難な状態になってきたことから、帰りの一斉帰宅の混雑ぶりを想像すると怖くなり退散することにした。


駐車場に戻ってくると、崖の手前に見晴らしの良い空き地があり、何人か見物客がいたので、そこで眺めることにした。


遥か彼方の水平線に沈んでいくオレンジ色に染まった夕日は素晴らしく、イアの穴場スポットを発見したようで良かった。その後、急ぎイアを後にした。フィラを過ぎると、街の灯りもなくなり、道がわからないほどの暗闇が続いたが、ブリハダ地区の薄灯りが見えるとホッとした。

「ヴィラ ミチャリス」には、午後9時40分に到着した。遅い時間だったので少し不安になったが、レストランに顔を出すと大変歓迎された。他に客はいないので、何処でも良いよと言われ、プールサイドの一つ内側のテーブル席にした。ちなみに部屋はプールサイド右側であり、帰りの心配もないのは有難い。


最初にサラダを頂き、お勧めの魚介の盛り合わせを注文した。ポテトの下に魚やイカ、タコ、エビなどのグリルがボリュームいっぱいに隠れており、白ワインとの相性もぴったりで大変満足できた。最後はサービスデザート
クリックで別ウインドウ開く

**************************

翌朝、プールサイドで朝食を頂いた後、昨日通過したフィラにある「新先史期博物館」(Prehistoric Museum)に見学に向かう。ダイダロス・ホテル南側の「駐車場1」(地図はこちら)から南北に延びる「ディシガラ通り」を北側に歩いていく。通り沿いには徐々にレストランやショップが現れ始めた。


300メートルほど歩いた、バスステーションの向かい側(西側)に「新先史期博物館」があり、入口は、建物に向かって右側にある長い階段を上り左側に回り込んだところになる。博物館は、1956年のアモルゴス地震で倒壊した古い教会の跡地に建てられたもので、新石器時代後期からキクラデス期(後期)までの島の歴史を網羅し、主に、アクロティリ遺跡から発掘された陶器、彫刻、宝飾品、壁画、儀式用具などのコレクションが展示されている。


キクラデスとは、紀元前3000年頃から紀元前2000年頃にかけ、エーゲ海のキクラデス諸島(ティラ島は、キクラデス諸島南部に位置する)に栄えたギリシャ最古の文明の一つで、トロイア、ミケーネ、ミノア(クレタ)の三文明より古いが、その後、ミノア(クレタ)文明の影響を受け同化していった。展示品の中にはアクロティリ遺跡から発掘されたクノッソスや東クレタからの陶器なども展示されている。


こちらは、そのキクラデス文明を代表する抽象人形「スペドス型女性像」(Spedos variety)で、アクロティリ遺跡から発掘された「前期キクラデスII期」(前2700~前2300)時代の作品。スペドス型は、U字型の頭に長い首、肩幅が広く折り畳んだ細長い腕、脚の間を裂け目状に切り込んだ姿などが特徴である。


こちらの抽象人形は「前期キクラデスI期~II期」(前2800~前2700)時代の「プラスティラス型」(Plastiras type)で、耳や表情が刻まれた卵形の頭部に、脚が別々に彫られている。男性像で、ダーク大理石から造られている。


そして「前期キクラデスIII期」(前2200~前2000)時代の素焼き陶器(テラコッタ)。取っ手がついたポットとカップには、うっすらと抽象的な線が刻まれている。安定感のある形をしており、並ぶ姿はカルガモ親子の様である。後ろの子牛像も手足が短く安定感のある愛らしい作品である。


「後期キクラデスI期」(紀元前17世紀)時代の「炉のまき載せ台(Fire dogs)」。手前の動物形象に目が行きがちだが、串を載せる上部の凹みや、中央の網などを載せるための複数の穴に加え、運搬用の取っ手など実用面を考慮した作りには驚かされる。

以降は、全て紀元前17世紀の作品になる。

「木製テーブル」を復元した作品で、火山灰や溶岩片などの物質により覆われ、空洞になったテーブルの型に石膏を流し込み模られた。細かい装飾まではっきり復元できているのも凄いが、ロココ様式を思わせるカブリオール・レッグに似ており、とても3700年前と思えないデザインセンスである。


儀式で使用された器、水差しや杯が並んでいる。いずれも幾何学文様の縁取りや草花が大胆に描かれている。


中央の台上には、鳥のくちばしの形をしたピッチャーが展示されている。他にも同作品があるが、空に向かって鳴く鶴を思わせる様な頂部の注ぎ口や胴部の丸みを帯びた美しい形など印象深い作品である。向かって左下には「巻貝の形をしたリュトン(角杯の器)」があり、その隣には、可愛い姿の牡牛のリュトンが2頭並んでいる
クリックで別ウインドウ開く

そして、手前にある船皿には群れをなして飛んでいくツバメが描かれ、他にも躍動感溢れる山羊(アイベックス)が描かれた同作品(船皿)が展示されている。

こちらも、ツバメの姿が描かれたセラミック・ピッチャー。水墨画を思わせる様な流れるタッチで、花をゆらしながら颯爽と飛ぶ姿が表現されるなど芸術的完成度の高い作品である。


巨大な円筒形ピトス(貯蔵用の甕)で、ダイビングする大きなイルカと、底から口縁まで伸びる百合の花など大胆で迫力ある構図で描かれている。 


展示室のラストを飾るのは、アクロティリ遺跡から発掘された唯一の宝飾品「黄金のアイベックス像」。避難の際の忘れ物とも言われている。


2時間ほど見学した後、フィラの中心部から1キロメートルほど北側にある「サントリーニパレス」(フィロステファニ地区)駐車場からの眺めが、お勧めと聞いてやってきた。到着後、崖下を見下ろすと目の前に鮮やかな色のブルー・ドームと、教会の鐘の向こうに紺碧の海が広がり、その先にカルデラ中央部に位置する「ネア・カメニ島(Nea Kameni)」が見える。そして、右側の突出した小半島手前の崖上にも白いイメロヴィグリの町並みが続いている。こちらからの眺めはガイドブックやサイトなどでよく紹介されている。
クリックで別ウインドウ開く

これから、フィラ中心地にある「フィラ考古学博物館」に歩いて向かう。サントリーニパレスは、駐車場のある西側が正面入口(2階建て)で、東側のなだらかな下り斜面に広がる様に建物が続いている。最初に、ホテルの南壁面に沿って続く階段を下りてホテルのプール横から駐車場を抜け、


次に路地裏の狭い「エリトルウ・スタヴルウ通り」を進むと、前方に青いドームや教会の尖塔などが見えてきた。
クリックで別ウインドウ開く

すぐに、ショップなども現れ繁華街の雰囲気になったが、目的の「フィラ考古学博物館」の場所が分からず何人かに聞きながら進み、正門入口に到着すると、ケーブルカー乗り場のそばであった。ケーブルカーは、200メートル崖下のオールドポートまで運行しているが、辺りは乗車を待つ人々で大混雑していた。一方、博物館は規模も小さくこの時間は2人の見学者しかいなかった。


ティラ遺跡の墓地から発掘された副葬品で紀元前6世紀の黒絵式アンフォラ。口縁の外側には、戦いの様子が描かれ、内側には、4隻のガレー船が描かれている


こちらは、紀元前7世紀の中期幾何学様式のアンフォラ。中央に鳥が描かれている。ティラ遺跡の入口付近(セラーダ地区)にあった墓からの発掘品(1961年~1982年)である。


展示品も少なかったことからすぐに博物館を出て、エリトルウ・スタヴルウ通り沿いに建つ「洗礼者ヨハネ大聖堂」の鐘楼や、隣の「メガロン・ギジ博物館」(休館)を過ぎて、再びサントリーニパレスに戻った。
クリックで別ウインドウ開く

次に、サントリーニパレスのある「フィロステファニ」から、更に1キロメートルほど北にある「イメロヴィグリ」に移動する。「ディシガラ通り」から続く「25 マルティウ通り」が大きく右に曲がる手前を崖側に50メートルほど進むと、一気に視界が開け絶景が広がる。イメロヴィグリは標高が高いことから、南側のフィラの町並みや遠くのイリアス山も見下ろす様に一望できる。
クリックで別ウインドウ開く

北側の斜面に立ち並ぶ白い建物にドームの青のアクセントが一層美しさを引き立てている。眺めも良く観光客もフィラと比べると少ないことから崖下にかけてゆっくり滞在できるホテルやヴィラがある。
クリックで別ウインドウ開く

この崖下に通じる途中にあるレストランでのランチを目的に来たが、見つけることが出来ず、崖上の通り沿いの「エーゲ(Aegean Restaurant)」で食べることにした。店内は先ほどまで混雑していたが、午後3時近くになり一気に空いため入店することにした。


レストラン前の通りからの眺望が良いことから、先ほどまで観光客が頻繁に訪れていたが、急に人通りがなくなった。テーブル席から眺める北側の斜面に続くイメロヴィグリの町並みや、南側のイリアス山から西南部に伸びるアクロティリ遺跡があるバロス(Balos)半島など、眩しいくらい真っ白な建物とエーゲ海のコバルトブルーとのコントラストが美しく、どのショットもフォトフレームに納めたいほどの景色である。

そして正面の海には、カルデラ中央部の「ネア・カメニ島」と隣接する小さな「パレア・カメニ島」を中心に、外輪山部分の小さい円形の「アスプロニシ島」(西南側)、右側の「ティラシア島」(西側)、左側の「ティラ島」のバロス半島(南側)が大きく取り囲むカルデラ全域の様子が見渡せる(再び、サントリーニ諸島の中央部と外輪山との大小5つの島々の配置図はこちら)。
クリックで別ウインドウ開く

料理は、プリプリのエビと大ぶりのムール貝が乗るトマトとチーズがたっぷりのリゾット(18ユーロ)と、


新鮮な葉物野菜が乗るリングイネ(12ユーロ)を注文した。美しい眺めと貸し切りにしているようなテラスでのひと時は最高だった。


食事後、急ぎ空港に戻り、荷物をまとめてタクシー(都内タクシーの深夜料金ほどの高い運賃だった。。)で島の西側(フィラの南)にある「アティニオス港」に向かった。標高260メートルほどの崖上からヘアピンカーブを急降下していくと、観光バスなど大型車が、何度か切り返さないとカーブを通過できず、渋滞が発生していた。港到着後は、カフェでトイレ休憩と食後のコーヒーを頂き、これでティラ島(サントリーニ島)とはお別れになった。

(2019.5.25~26)

page top

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ギリシャ(その3)

2019-05-23 | ギリシャ
ペロポネソス半島の中央部を横断するE65号線でトリポリを通過した後、アルゴス・インターを出て「ミケーネ遺跡」に向かっている。オリンピアからは、約2時間、約180キロメートルの行程で、時刻は午後5時20分になった。小さなミケーネ村を過ぎると一本道となり、イリアス山の麓に目的地の遺跡群が見え始めた。
クリックで別ウインドウ開く

遺跡群は左側のイリアス山と右側に見えるサラ山との麓に広がっており、駐車場東側にある遺跡入口(入園料12ユーロ)からは舗装された歩行者用通路が延びている。ミケーネ遺跡は、伝説の都市トロイアを発掘したことで知られるドイツの考古学者「ハインリヒ・シュリーマン」(1822~1890)によって1872年に発見され、この地の名をとって名付けられた。また、古代ギリシャ以前の紀元前1450年(中期青銅器時代)から紀元前1050年(後期青銅器時代)に栄えていた文明であったことが初めて確認され「ミケーネ文明」と名付けられた。1999年には「ミケーネとティリンスの古代遺跡群」として世界遺産に登録されている。
クリックで別ウインドウ開く

歩行者用通路を100メートルほど進んだ左側の木々の後ろにある博物館から先に見学することにした。こちらの展示室には、ミケーネ遺跡から出土した紀元前13世紀頃の土器が展示されている。
クリックで別ウインドウ開く

こちらには、ミケーネ遺跡の神殿址から出土した擬人化人形や儀式に使用したと考えられる渦巻き状の蛇などが並んで展示されている。紀元前1250年から前1180年のもので、愛らしいが不思議な姿をしている。
クリックで別ウインドウ開く

こちらも同じ紀元前1250年から前1180年のもので、神殿の壁面を飾っていた女神の破片(複製)が展示されている。この壁画には、他に二女神が描かれていたが大半が失われている。
クリックで別ウインドウ開く

博物館は、土器や土偶が中心で、貴重なお宝の大半は「アテネ国立考古学博物館」にあることから、さらさらっと見学して遺跡に向かった(遺跡模型はこちら。※正面が北東方面)。歩行者専用通路は傾斜道になっており、博物館の先から大きく右曲りしている。そしてその先に見えるのが、有名な「ライオン・ゲート(獅子門)」でこの門が遺跡群への入口になる。
クリックで別ウインドウ開く

ライオン・ゲートは紀元前1250年頃に造られたアクロポリスの城壁門で当時の正面玄関にあたる。上部にある2頭の獅子レリーフに因んで名付けられ、彫刻としては、この時代で唯一残っている最大かつ記念碑的作品として知られている。向かい合った獅子の頭部は失われているが、中央の祭壇に前足を載せる姿は良く残っている。

ゲートの大きさは幅3.10メートル×高さ2.95メートルで、ゲート自体は、左右の大きな石柱と上の”まぐさ石”から構成され、周りにも巨大な石灰岩が積まれる「サイクロプス積み工法」で造られている。人間には建築困難で、巨人(サイクロプス)が壁を構築したと考えられたことが名前の由来らしい。
クリックで別ウインドウ開く

ライオン・ゲートの先にも傾斜道は続いており、すぐ先で右下に紀元前16世紀の王室墓地(円形墳墓A)が見下ろせる。この墳墓は当初、城壁の外側に建設されたが、紀元前13世紀に拡張されてアクロポリスに囲まれた。墳墓は、二重の外壁に囲まれたサークル状で直径が27.5メートルあり、中央に6つの墓がある。それぞれの墓には男性、女性、子供と2〜5体づつ合計19体が埋葬されていた。
クリックで別ウインドウ開く

墳墓のそばに行くには、ライオン・ゲートをくぐった先の右側階段を下りて二重の外壁に開けられた入口から中央部に入る。墳墓際から南側に回り込んで覗くと、小ぶりな石の積み重ねで区画された墓が確認できる。手前左側の一番大きな4号墓とその先(北側)の5号墓からは、5つの黄金の仮面(マスク)が発見されたが、その一つが有名な「アガメムノンのマスク」である。しかしその仮面は紀元前1550年から前1500年のもので、アガメムノンの活動期より3世紀早いことが近年確認されたが、呼称はそのまま残っている。4号墓からは「銀の牛のリュトン」や「金の獅子のリュトン」が発掘され、他にも金のカップ金の指輪、ボタン、ブレスレットなどの装飾品剣などの武器類などが発掘された。これらの貴重な発掘品は全て「アテネ国立考古学博物館」に展示されている。


王室墓地(円形墳墓A)に隣接して東側にも遺跡が続いている。紀元前13世紀に造られた祭祀のための関連施設址で、5つの建物から構成されていた。神殿や寺院があり祭祀官の邸宅などもあったと考えられている。博物館で見た擬人化人形や女神の壁画破片はこの場所から出土した。ちなみに、ミケーネ遺跡から出土した壁画は少なく、最も有名な壁画は「アテネ国立考古学博物館」に展示されている王宮の婦人像である。


歩行者専用通路をジグザグ状に上って行くと遠くの山々が見渡せる高さになった。ライオン・ゲートの内側、王室墓地(円形墳墓A)、祭祀のための関連施設なども良く見える。駐車場のある遺跡入口から西側には、緑のアルゴス平野の耕地が広がっている。やや左下に見える道路沿いの遺跡は、ワイン商人、油商人、武器職人、象牙職人などが住む邸宅だった。この邸宅から、最初のギリシャ文字である線文字Bも発見されている。
クリックで別ウインドウ開く

この場所から数メートル坂道を上った場所にミケーネ・アクロポリスの王宮があった。前期青銅器時代(前3200年~前2000年)には既に建物が存在したと考えられているが、現在残る王宮址は、紀元前13世紀のものである。広い空間は12メートル×15メートルほどの王宮の大広間 (メガロン様式)だったとされる。その大広間の西端には小部屋があり、小部屋の南の谷側に隣接して建物(現在は大部分が崩落)が一段下に建っており、訪問者はその建物から階段を上って大広間と小部屋に入ったようだ。小部屋の北側には階段があったが、王宮に2階があったのか、北側への階段だったのかはわからない。
クリックで別ウインドウ開く

丘を少し上り、北側から、全体を見ると、大広間の先に小さな前室があり、その先が王の間と長方形の敷地であることが分かる。王の間で、王は4本の円柱に囲まれた中央の円座に座って部下や客人と対峙した。
クリックで別ウインドウ開く

ちなみに、サラ山の麓から南側には、アルゴス平野が続き10数キロメートル先でアルゴリコス湾に到達しているのが見える。アルゴリコス湾のかなたには山並みが連なっている。

王宮に隣接して、イリアス山側には壁画で飾られた宗教施設や王宮の付属施設があった。ミケーネのアクロポリスは、統治者を中心に地域の行政、財政、宗教の中心地として繁栄したが、現在は無数の岩が転がるだけである。


王宮の南東側には、商人、職人などの邸宅があった。その邸宅の一軒からは線文字Bも発見された。王宮から100メートルほど東側には、南北に20ほどの小部屋と通路で構成された区画がある。こちらは北側の邸宅址である。


通路を更に東に向かった谷間にサイクロプス積みで造られた城壁がある。この場所がアクロポリスの東端になる。城壁は紀元前1200年頃に北東に拡張された際に造られたもので、アーチ状のくぐり門がある。緊急時の出入口だったようだ。そして、すぐ近くに地下に下りる洞窟があり、下に泉の址(貯水槽か井戸)があることから、アクロポリスへの給水設備があったと考えられている。
クリックで別ウインドウ開く

高度な文明を持っていたミケーネのアクロポリスは、紀元前1150年頃、突如勃興した海の民によって破壊されミケーネ文明は終焉したが、詳しいことは分かっていない。出口は、北門を出て博物館方面へ向かうルートだが、もう一度王宮側を見ようと引き返し丘の上まで戻ってきた。時刻は閉園時間の午後8時になった。他に見学者もいなくなり下山して行くと、入口に立つ男性スタッフが見える。小走りで入口に向かうと、時計を見ながら閉園だと怒っており、謝りながら退散した。

ミケーネ村を過ぎ、アルゴス平野を通る街道を暫く南下していくと、世界遺産「ミケーネとティリンスの古代遺跡群」の「ティリンス(ティーリンス)遺跡」が現れる。もう一つのミケーネ文明の遺跡だが、残念ながら時間外で入場できない。ティリンス遺跡は、靴底型の低い丘に厚く5メートルから10メートルの間の高い堅牢な城壁をめぐらしていた(遺跡模型はこちら。※北は左)。こちらは、北側にある入口からの様子で、遺跡のつま先にあたる場所になる。東側の中央部にある斜路を上り曲折を繰り返し楼門と第二の楼門をくぐって城塞中央部に到着する厳重な構えを備えていたようだ。


ティリンスから街道を更に2キロメートルほど南下すると、最初に2階建ての住宅が、続いて1階に店舗のある3階建の住宅が並び始め市街地の様相を呈してきた。遠くから見えた岩山が間近になると街道は終着点のロータリーになり、ナフプリオ(ナフプリオン)の中心部になる。そのロータリーを右折して西側の樹木の立ち並ぶ大通りから岩山の麓に続く坂道を上って今夜の宿泊場所に向かう。


坂道は右側に現れる城壁に沿ってすぐに大きく右に曲がり更に上って行く。そして左側の眼下に海が広がり始めると大きく右に回り込み広場に到着した。広場の東側には、3階建てのホテルらしき建物があるが、屋上の看板も取り外されており廃業しているようだ。背景に聳える岩山の頂部から北側斜面にかけて建つのは、パラミディ要塞(標高216メートル)で、ちょうどライトアップされたところ。要塞北側の城壁に向かうジグザグ状に続く階段も良く見える。
クリックで別ウインドウ開く

パラミディ要塞は、1685年ヴェネツィア共和国が約150年ぶりにオスマン帝国からこの地を奪回し、防衛強化を目的に1714年に建造した。しかし完成翌年には再びオスマン帝国により奪い返されてしまう。長年オスマン帝国の支配下にあったギリシャは、1821年の独立戦争で、1年以上にわたる包囲戦を経て遂に要塞を奪還する。

駐車場の西側には城壁があり、側防塔の様な建造物が建っている。この丘陵地の城塞の歴史は古く、前古典期(前7世紀~前5世紀)に最初に造られたアクロナウプリアを起源とし、中世には、東ローマ帝国、フランク・ラテン十字軍国家、ヴェネツィア共和国、そしてオスマン帝国によって要塞化された。


足元は城塞の北側の外壁になり、その眼下には、ナフプリオ(ナフプリオン)の旧市街が広がり、先には、アルゴリコス湾が一望できる。ナフプリオは、南の地中海側に向いたアルゴリコス湾(長さ約50キロメートル、幅約30キロメートル)の北東端にあり、800メートルほどの長さの鳥のくちばし状の半島を持つ港湾都市である。ギリシャ独立戦争中の1829年からギリシャ王国建国直後の1834年までギリシャの首都が置かれたことから「近代ギリシャ最初の首都」として言及される。
クリックで別ウインドウ開く

視線を東側に移すと、岩山の麓から続く緑(先ほど通った通り)が、新市街と旧市街の境目になっている。中世のころ境目は湿地帯(堀)で、橋で渡り城門から要塞化されていた旧市街に入場していた。今夜は足元の城塞の外壁直下に見える半屋上のテラスのあるホテル(Αmfitriti Palazzo Design)に泊まることにしている。ホテルには、左側(西側)の坂道を歩いて城門をくぐり、鋭角に右に回り込み、外壁に沿って2棟ほどの建物の横を通り過ぎた先になる。ホテルのサイトには、ホテルへの行き方を紹介するユーチューブの動画がupされている。
クリックで別ウインドウ開く

ホテルの玄関は外壁沿いにあり2階建てだが、坂下に建物は続いている。チェックインの手続きが終わると、最も階下にある居室を案内された。居室前の廊下の扉口からは、旧市街側に直接下りることができる。古びて曲がりくねった細い階段を下りて隣下のホテルの横を歩き、更に階段を下りると、東西に延びる細い路地に出ることができる。何ともややこしい。。

夕食は、最初に予定していた旧市街の中心部にあるレストランに行ったが改装中で、次に海岸沿いの店先に食材が並ぶシーフードの店に行ったが、気乗りせずやめる。あちらこちらにテラスが並んでおり料理を眺めてみるが触手が伸びない。。結局、ホテル最寄りの路地の北隣の路地沿いにあるトリップアドバイザーで評価が高かったレストラン(Karima Kastro)にした。人通りが少ない薄暗い路地にあるにも関わらず、お客が多かったのが決め手になった。


ビール、赤ワイン、ロケット・パルメザン、ポークフィレ・ア・ラ・クリーム、シュリンプス・サガナキを注文したが、量、味ともに概ね満足できた。新鮮なエビが沢山食べられたのは良かった。1時間半ほど食事して午後11時半に薄暗い路地から階段を上ってホテルに帰った。


****************************

翌朝、午前8時過ぎに朝食を食べに1階ロビーを通ってホテルの半屋上テラスにやってきた。テラスにはテーブル席があり、室内側に並べられた食材を自由に運べるビュッフェ・スタイルなっている。抜けるような青空のもと、ナフプリオの旧市街の街並みを眺めながら、優雅に美味しい朝食をいただいた。
クリックで別ウインドウ開く
アルゴリコス湾の左側(西側)には街並みと重なる様に、沖の小島に建つ「ブルジイ砦」が僅かに見える。ブルジイ砦は、15世紀後半にヴェネツィア人により建てられた海上防衛のための要塞である。

ゆっくり滞在したいが、この後の行程も考え、急ぎチェックアウトする。ホテル玄関を出て外壁沿いに歩き、城塞に向かう坂道に回り込み城門をくぐって駐車場まで戻る。ナフプリオは、中世の趣が感じられる美しい街だが、この辺りはバリアフリーとはいかない。。これから新市街のロータリーから東方面に延びる街道に入り「エピダウロス遺跡」に向かう。


40分ほどで目的地の「エピダウロス遺跡」に到着した(入園料12ユーロ)。駐車場は数千台の車が駐車できるほどの広い敷地があり、周りは緑に覆われている。そして遺跡群は駐車場の東側から北側に隣接しており、高さ600メートル前後の山々に囲まれた盆地内に展開している。(案内図※北は下、駐車場は競技場の南に隣接)


「エピダウロス遺跡」は、ギリシャ神話の名医アスクレピオスを祀る聖域(アスクレペイオン)として紀元前5世紀頃から建設された。中でも最大の見所は、紀元前4世紀後半に建築家ポリュクレイトスによって建設された野外劇場で、アスクレピオスへの礼拝や、音楽、歌、各種ゲームなどが行われた。ギリシャで最も保存状態の良い劇場跡と言われ、遺跡群一帯は、1988年に「エピダウロスの考古遺跡」として世界遺産に登録されている。
クリックで別ウインドウ開く

現在、毎年8月には、舞台芸術イベント「エピダウロス・フェスティバル」が開催されている。ちなみに最初の現代パフォーマンスは 1938年に公演されたソポクレス(古代ギリシャ三大悲劇詩人の一人)作の「悲劇エレクトラ」で、その後、第二次世界大戦中は中止されたが、1955年からは毎年開催されている。特にマリア・カラスが登場した、1960年のベッリーニのオペラ「ノルマ」と翌年のルイジ・ケルビーニ「メデア」は注目を集めた。
クリックで別ウインドウ開く

劇場の中心を構成する円形のオーケストラは直径20メートルあり、中央の石板の上からコインを落とすと、最上階の席まで聞こえるほど、音響効果に優れている。観客席は、下部ゾーン34列、上部ゾーン22列と2つのゾーンに水平分割され、12つの階段と22の階段を配置している。収容可能人数は、13,000〜14,000人となっている。


こちらは、アスクレペイオン(アスクレピオスの聖域)の中心部で「アスクレピオス神殿(前375~前370)」があった場所で、西側には、左側の円形の遺構「トロス(ティメレ)(前360~前330)※修復中」と右側の列柱の並ぶ「アバトン(紀元前4世紀)」の遺跡が並んでいる。ともにアスクレピオスへの信仰から、病気平癒を願う患者たちのために造られた至聖所で、アバトンには、160室のゲストハウスがあったことが分かっている。この聖域は、古典期(前479~前338頃)のギリシャ世界において最も注目された医療の中心地で、多くの病人たちが治癒を求めて集まったという。
クリックで別ウインドウ開く

患者たちは宿泊翌日に祈願を行った後に、神官医師団の治療を受けたり、温泉やギュムナシオン(肉体を鍛える訓練所)を訪れて治癒法を処方された。また、至聖所で眠っている際に夢に神が現れ治療を施し、目覚めた時にはすっかり治癒していたという伝承もある。


アスクレペイオンはエピダウロスに繁栄をもたらし、その後、野外劇場を始め、儀式を行う際の宴会場、浴場競技場など紀元前3世紀にかけて記念建築物の建設や拡張が続けられた。

アスクレピオス神殿の南側には大宴会場の址に囲まれたローマ時代の「オデオン(音楽堂)」があり数本の柱が復元されている。宴会場の南東角からオデオン方向を眺めると、後方にトロスやアバトンなどアスクレペイオン中心を望むことが出来る。眩しい日差しの中にいると、何やら当時の繁栄ぶりが目に浮かぶようでもある。
クリックで別ウインドウ開く

アスクレペイオンは、その後、海賊やゴート人の襲撃などを受けるものの、その都度繁栄を取り戻した。キリスト教が導入されギリシャの神々への信仰が禁止された後も「癒しの聖域」としてのエピダウロスは5世紀中頃まであがめられた。

2時間ほど滞在して、エピダウロス遺跡を後にした。これからギリシャ本土へ向けて、東のサロニコス湾沿いを通る国道10号線を進む。


エピダウロス遺跡から60キロメートルほどで、高速道8号線に乗り換え、すぐに、ペロポネソス半島とギリシャの本土との間の「コリントス運河」(コリンティアコス湾とサロニコス湾(エーゲ海)を結ぶ約6キロメートルの運河 )を越える。当初、コリントス遺跡(古代都市国家アクロコリントス)に寄る計画を立てていたが、これから向かう「ダフニ修道院」の見学が難しくなることから諦めた。

高速道8号線(E94号線)を50キロメートルほど東に進み、アテネ、ピレウス・インターに従い8号線(幹線)に進むと10分ほどでダフニに到着した。ダフニからアテネまでは僅か10キロメートルほどの距離となる。目的の「ダフニ修道院」は一辺100メートルほどの大きな正方形の敷地の中にあるものの、人通りが少ない8号線(幹線)の南側にあり、周りを緑に覆われていることから分かりにくい。修道院の入口は、東側にある公園内にある鉄格子のベルを押して修道院のスタッフに開けてもらって敷地内に入る。細い通路を歩くと東西の付属棟の間に中庭が現れ北側に目的の中央聖堂が現れる。
クリックで別ウインドウ開く

ダフニ修道院は、中期ビザンティン建築で11世紀末の建設と考えられているが、現在は中央聖堂のみが残っている。外壁はオシオス・ルカスと同じくクロワゾネ積みとなっている。古代にはアポロ・ダフネイオスの神域があり、最初の修道院自体の設立は5世紀から6世紀の間と推定されている。1990年、他の2つの修道院とともにユネスコの世界遺産に登録された(登録名は「ダフニ修道院、オシオス・ルカス修道院、ヒオス島のネア・モニ修道院」)。


中央聖堂と西棟との間を抜けた北西側は、岩が転がる遺構になっており、北側の8号線(幹線)側には、アーチ型の浮彫が並ぶ古びた壁が続いている。

中央聖堂内に入るには、中庭側の南口とポルチコのある西口のいずれかからが可能である。ちなみに、見学可能時間は、火曜日、木曜日、金曜日の午前8時から15時までである。


ポルチコのある西口から入場すると、ナルテクス(拝廊)になり、前方の中央ドームの下には、団体客で混雑しており身動きできないほどであった。20分間ほど混雑した中見学していたが、その後一斉に帰って行った。


聖堂内には薄く白い漆喰が塗られており、外光も合わさり、鮮やかに輝く黄金モザイクがあちらこちらで浮かびあがって見える。
クリックで別ウインドウ開く

11世紀に制作された歴史あるモザイクだが、地震によって損壊し多くが失われており、現在も長い修復の最中である。。中央ドームには「全能者ハリストス」(パントクラトール)が、西側(拝廊側)を頭に厳しい顔をして見下ろしている。長い鼻は目と交差して十字架に見える。左手には福音経を持ち、右手は祝福の動作を表している。ドームの側面の窓の間には、16人の預言者が表現されている。
クリックで別ウインドウ開く

ドーム周りの4か所のスクィンチには、南東角(左下)の「受胎告知」から時計回りに、「主イエスの変容」「キリストの洗礼」、そして北東側(右下)の「キリストの降誕」とモザイク画が残っている。どのモザイクも美しく残っている。
クリックで別ウインドウ開く

ペンデンティブ(穹隅)北西側の壁面には、「エルサレム入城の日」が、向き合うように北東側の壁面には「キリストの磔刑」のモザイク画がある。
クリックで別ウインドウ開く

そして、南側は、出入り口になり、南西側の壁面には、「トマスの不信」があり、向かい合うように、南東面には「キリストの復活」が、美術館の作品の様に美しく飾られている。
クリックで別ウインドウ開く

ナルテクス(拝廊)の上部に残るモザイクも素晴らしい。南西側にあるのが、「ヨアキムの受胎告知の祈り」で、向かい側の南東側が 「主の迎接祭(聖燭祭)」、北西側にあるのが「ユダの裏切り」である。
クリックで別ウインドウ開く

「ダフニ修道院」のモザイク画は、「オシオス・ルカス修道院」のモザイク画と比較して、人物表現が写実的で表情もどことなく憂いを帯びた顔をしている印象を持った。どのモザイク画も美しい色使い、構図や洗練された表現力など当時の最高峰の優れた技術を持つモザイク職人によって制作されたことが伺える。保存状態も素晴らしくビザンティン美術の大傑作である。午後3時の閉館時間まで見学したが、大変満足できた。

ところで、ダフニ修道院の見学時間の関係から通り過ぎていたが、次の目的地への時間がありそうなので、10分ほどの距離を引き返して「エレウシス遺跡(現:エレフシナ)」にやってきた。古代ギリシャのアテナイ近郊の小都市で、ギリシャ神話に登場する豊作の女神デメテルとその娘ペルセフォネ(別名コレー)の秘儀(密儀)が行われた地として知られている。秘儀は、農業崇拝を基盤とした宗教的な実践から生まれたものとされるが、儀式の詳細は不明である。
クリックで別ウインドウ開く

エレフシナの目抜き通りから150メートルほど南に行った場所に遺跡入口がある。午後3時半に到着したため閉園時間まで30分しか時間がないが、せっかく来たので急ぎ見学することにした。入口を入るとすぐ南に広場があり、その奥に見える小高い丘の北東沿いに遺跡の中心地「聖域(テレステリオン)」が広がっている。古典期(前479~前338頃)にはその丘を含めて城壁が取り囲んでいたという。聖域には、10の異なる建築物があったとされ、ローマ時代には、この入口すぐの広場に聖域への入場門(プロピュライア)が建てられていた。

丘の上から東側の聖域の中心部を見下ろしてみる。中央に秘儀が行われた神殿が建ち、アナクトロンと呼ばれる聖具の保管所があった。その場所には祭司長のみが入ることができたという。
クリックで別ウインドウ開く

エレウシスは、紀元2世紀にイラン系遊牧民集団から略奪を受け荒廃するが、ローマ皇帝マルクス・アウレリウス(在位:161~180)が聖域の修復に尽力したことから、唯一皇帝としてアナクトロンへの入場を認められた。その後、ローマ皇帝テオドシウス1世(在位:379~395)によるキリスト教の国教化政策によりエレウシスの秘儀への権威は薄れ閉鎖される。聖域内の柱の基礎の一つに、アナクトロンと表示された小さな遺物が置かれていたのが、何とも寂しい。。


閉園時間が近づいたのか、カバンを持ち既に帰り支度を整えた男性スタッフが近づいて来た。ギリシャの施設営業時間は、スタッフの勤務時間と同じため、客に対して早く帰る様に促してくるのだろう。結果、閉園時間の午後4時にスタッフと一緒に退園した。。

ピレウスから椰子の木が続く海岸線「アポロ・コースト」を南に向かう。途中のグリファダで今夜の宿泊ホテルにチェックインして、レストランの下見に向かった。グリファダは、アテネ南郊のエーゲ海に面した海岸保養地で、高級ホテルや高級ブティックなどが集まっている。1990年初頭までアメリカ空軍基地があった影響もあり、町並みや店構えなど、アメリカナイズされた雰囲気が漂っている。


最初に向かったレストランは、中心部から少し離れたロードサイド店舗で、黒服のスタッフが大勢いるワンランク上の店といった感じ。今夜は雨が降る予報だが屋根のないテラスしかないと言われ、別のレストランに向かう。こちらもロードサイド店舗だが、庶民風でスタッフの対応も良かったので午後10時に来店する旨を伝え次の目的地に向かった。

引き続き、海岸線「アポロ・コースト」を一路南下し、アッティカ半島の最南端にある「スニオン岬」に向かう。グリファダからは約50キロメートル、首都アテネからは約69キロメートルの距離となる。


50分ほど走行すると、右側に、張り出した半島が現れ、その先の丘「スニオン岬」の上に神殿が見えてきた。


案内に従い、右折して進むと駐車場に到着した。時刻は午後8時であった。駐車場から坂道をしばらく上って行くと辺りは西日を受け赤色に染まりつつあり、すでに多くの観光客が集まっている。列柱の並ぶ神殿は、ギリシャ神話の海の神「ポセイドン」に因んで建てられた「ポセイドン神殿」で海抜60メートルほどの高さの丘に聳えている。


「ポセイドン神殿」が建設されたのは、アテナイがペルシャ戦争に勝利した後の紀元前444年から紀元前440年で、政治家ペリクレス(前495?~前429年)が統治するアテナイ全盛時代を迎えていた時期になる。長方形の敷地にドーリア式の円柱が36本が建ち並んでいたが、現在は15本が残っている。一説では、6メートルほどの巨大なポセイドン銅像が奉られていたとされる。ちなみに、アテネのアクロポリスの上に建つパルテノン神殿も同時期に建てられている。


日没の午後8時半が近づいてきたころ、多くの観光客は一斉に動きをやめ、見入っていた。


北側から厚い雲が流れ込み、太陽が隠れる場面もあったが、何とか無事に美しいサンセットを眺めることができた。


サンセットと同時にスタッフがわらわら現れ、ハンドマイクを使い営業時間は終了したので早く帰ってくれと案内し始めた。余韻に浸る間もなく、全員あっという間に追い返された。。予約したレストランに戻ったのは午後9時50分であった。もう一件のレストランのスタッフが言っていた雨は降らなかったようだ。店内で1時間ほど食事して午後11時過ぎにホテルに戻った。

(2019.5.23~24)

page top

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ギリシャ(その2)

2019-05-23 | ギリシャ
メテオラは、ギリシア北西部テッサリア地方北端にある奇岩群により形成されたキリスト教修道院である。この険しい地形は、俗世から離れて瞑想するためには理想の環境とされ、9世紀には修道士が住み始め、現在の修道院共同体は14世紀頃に成立された。現在は6つの修道院が活動中で、1988年には世界遺産に登録されている。この絶景は「ルサヌ修道院」が建つ岩山下の駐車場展望台から、北西方面の岩山上の「ヴァルラーム修道院」を眺めた様子である。
クリックで別ウインドウ開く

ちなみに、左端遠方には、カストラキ村を通過して最初に現れる「聖ニコラオス・アナパフサス修道院」を望むことができる。

これから、ヴァルラーム修道院を見学することにしている。昨夜宿泊したカランバカ西地区にある「テアトロ・ホテル」から、北西部にあるカストラキ村を経由して山道を上り、聖ニコラオス・アナパフサス修道院、ルサヌ修道院を過ぎた後、700メートルほど先にある三差路を左折し、更に現れる三差路も左折すると、前方にややずんぐりとした岩山上に建つヴァルラーム修道院が見え始める。なお、左右岩山の間に見えるのがカストラキ村である。
クリックで別ウインドウ開く

ヴァルラーム修道院は、14世紀に隠修士ヴァルラームが建てたのが始まりで、現在の修道院は、1541年にヨアニナ(イオアニア)出身のセオファニスとネクタリオス兄弟修道士が建立している。修道院へは、手前の岩山に造られた扉口から入場する。扉を入り岩山左側面の歩道を進むと、前方に修道院の建つ岩山が現れる。歩道は吊り橋を渡り、岩山の左回りに続く階段に延びている。階段は近年造られたもので、修道士たちは右上の1536年建造の塔に備え付けられた滑車とロープを使い上り下りしていた。現在も物資の運び上げに使われている。


吊り橋を渡りながら左側を見ると、先ほどまでいた「ルサヌ修道院」のある岩山を望むことができる。ルサヌ修道院は1545年の創立で、1950年以降は女子修道院となっている。
クリックで別ウインドウ開く

階段は急だが、岩山の中腹から頂上までは距離が短いので、それほど苦にはならない。周りの景色を眺めていると空を飛んでいる様な不思議な気持ちになるが、修道院の敷地内に到着してしまうと平地にある修道院と変わらない風景である。教会堂に描かれた美しいフレスコ画が見所だが、撮影は禁止されていた。


次に、ヴァルラーム修道院の西に位置する「メガロ・メテオロン修道院(The Great Meteoron Monastery)」に向かう。三差路まで戻り、左側の上り坂を進んで行くが、この時間(午前11時半)になると、上り坂は縦列駐車の車で隙間がないほど混雑している。500メートルほど上り詰めた終着地がメガロ・メテオロン修道院の入口だが、実際には一旦、階段を下りて陸橋を渡り、前方に隣接する岩山の階段を上って行くため結構な距離がある。


階段から望む見晴らしは絶景の一言に尽きる。階段から見える「ヴァルラーム修道院」は西側からの眺めで、入口のあった東側のずんぐり形の岩山とは対照的に切り立った崖になっている。下に広がる緑が雲海の様に広がり、まるで天空に築かれた城の様に見える。


メガロ・メテオロン修道院は、14世紀に聖地アトス山から移り住んだ聖アナスタシオが開いたとされ、メテオラでは最大規模の修道院で、標高616メートルと最も高い位置にある。修道院へは、岩壁に沿って造られた階段を左右左右と上って行き、最後の洞窟通路を抜けるとドームがある教会堂に到着する。なお、手前に見える塔の頂部にある建物は、物資の輸送に使われる小屋である。
クリックで別ウインドウ開く

修道院の教会堂には、1483年から1552年間に作成された美しいフレスコ画が余すところなく描かれており、天蓋飾りや振り香炉、瓔珞、羅網、幢幡などで荘厳されている。


ドーム頂部には「全能者ハリストス」と、側面には12使徒が描かれている。
クリックで別ウインドウ開く

見晴らし台からは、カストラキ村全体を見下ろせる上、遠景のビニオス川や、後方に聳える標高2000メートル級のピンドゥス山脈まで見渡すことができる。今日は天候にも恵まれ最高の眺めを堪能することができた。
クリックで別ウインドウ開く

こちらは16世紀の修道院の厨房の様子で、当時の調度品や煤で汚れた壁などもそのまま保存されている。


手前の展示室には20世紀初頭の修道院の暮らしや、こちらの滑車で上り下りする様子などがモノクロ映像で繰り返し紹介されており非常に興味深かった。


修道院は2か所しか見学していないが、だいたい満足してしまった。時刻も午後1時を過ぎ次の予定もあるので、残りの2つの修道院は外観だけ見ようと向かった。元来た道を今度は下り、昨夜のサンセットポイントを通過してカランバカ市内方面に1.5キロメートルほど進む。右前方に2つの修道院の内の一つ「アギア・トリアダ修道院」が見えてくると、すぐに大きく左折する三差路が現れ、右方向(南側)に向かう。

ところで、左右の奇岩群の間から見える町並みはカランバカである。カランバカの町は、この東西左右の奇岩群に挟まれたすぐ南側に三角州の様に広がっている。これから向かう2つの修道院は、その東側の奇岩群に位置している。ちなみに、4つの修道院は、西側(右側)の奇岩群の後方北西部に位置していたことから、カランバカの街並みは見えなかったというわけだ。


アギア・トリアダ修道院は、1475年、ドメティオスにより創建された。この北側から向かう車道沿いからの眺めが一番美しいと言われている。修道院へ行くには、車道から歩行者用のスロープを岩下まで下り切った後、岩山沿いにある階段を上って行くことになる。ちなみに、カランバカ市内外れからは、トレッキングコースが延びており40分ほどで行くことができる。
クリックで別ウインドウ開く

その、トレッキングコースなどを含めアギア・トリアダ修道院は、1981年公開の映画「007/ユア・アイズ・オンリー」のロケで使われた。映画では、修道院の場所をアジトとする悪役クリスタトスのもとへ007(主演ロジャー・ムーア)がロック・クライミングで対決に向かう緊張感のあるクライマックス・シーンが繰り広げられた。

修道院への物資の配送は、車道沿いにあるロープウェイが使われる。この場所から修道院を眺めると、断崖絶壁の岩山の上にある様にはみえない。


最後に、道なりに600メートル南東終点には、1367年に共住の修道院として創建され、現在は女子修道院の「聖ステファノス修道院(Monastery of St Stephen)」が建っている。観光客が少ないと思ったら休館日だった。午後2時になったので出発することにした。それにしても、メテオラの観光化ぶりには驚かされた。俗世から離れて瞑想するための理想の環境とは、だいぶ様相が異なってしまったのではないか。。。


次は、ペロポネソス半島北西部の町パトラス(パトラ)に向かう。テルモピュレからカランバカまでは平坦な道程だったが、ここからは、ギリシャの背骨とも言われる「ピンドゥス山脈(標高2000メートル級)」を越え、更にイオニア海沿いを南下してペロポネソス半島に向かう合計約300キロメートルの行程となる。

まずは、カランバカからE92号線(片側一車線)をビニオス川に沿って北側のリグコス山と南側のラクモス山の間を北西方向に40キロメートルほど進み、標高1000メートル級にある国道2号線(E90号線)(片側二車線の高速道)に乗り換えて、ピンドゥス山脈西側に位置するヨアニナ(イオアニア)方面に向かう。


高地を走行する国道2号線は幾度となくトンネルが続く。道路幅も広く綺麗で走行しやすいが、サービスエリアも料金所もない。後半は下り坂が続き、山脈を越えたことが感じられる。50キロメートルほど走行した後、ヨアニナ・インターからアルタ方面に向け国道5号線を南下する。ちなみにヨアニナはイピロス地方の首府で人口約12万人、パンボティス湖の畔にある。


国道5号線沿いの、古代にアンプラキアと呼ばれたアルタの町を過ぎると、右前方に「アンヴラキコス湾」が見えてきた。東西約40キロメートル、南北約15キロメートル、西側をイオニア海に面した幅700メートルほどの湾口を持つ閉鎖性水域湾で、湾口南北には、アクティオ(古代のアクティウム)とプレヴェザの町があり海底トンネルで結ばれている。紀元前31年には、オクタウィウス(ローマ帝国初代皇帝アウグストゥス)がマルクス・アントニウスを破った「アクティウムの海戦」の舞台となった。


ヨアニナ・インターから国道5号線を2時間ほど南下した午後6時頃、ようやくギリシャ本土側の港町アンディリオに近づいた。前方にコリンティアコス湾が望め、対岸のペロポネソス半島に向けてリオ・アンディリオ橋が架かっているのが見える。背景には、パナチャイコ山脈(最高地点は1,926メートル)が聳えている。


連絡橋は、2004年に開通した斜張橋で、総距離では世界最長(2,882メートル)とされている。橋の建設には、深海部への橋脚の固定、地震、津波対策、プレート運動の変化などをクリアする最先端の技術が集積している。


連絡橋を渡るとアテネから延びる高速8A号線と合流し、その先のパトラ・セントレから一般道に入りパトラス(パトラ)市内に向かう。パトラは、ペロポネソス半島の北西部に位置するイオニア海に面した港湾都市で都市圏人口は約26万人、アテネとテッサロニキに次ぐ第3の都市と言われている。アテネからは215キロメートル西に位置している。

今夜宿泊予定のパトラのホテルは予約しているが、夕食場所は決まっていなかったためパトラ湾沿いの幾つかのレストランを探しに来た。夏場の海水客向けのお店が何件かあるが、気に入る店はなかったため、景色だけ眺めて後にした。ちなみに対岸に見える小高い二つの山はギリシャ本土側で、山裾に先ほど通過した国道5号線が通っている。


3キロメートルほど海岸線を南に下り、パトラ駅前を過ぎ市内中心部から東側の旧市街方面に向かった。旧市街にはダシリオと呼ばれる標高100メートルほどの緑に覆われた小高い丘があり、その南側中腹にパトラ要塞がある。古くはアクロポリスだったが、551年に発生した地震で倒壊したため、資材などを再利用し、この要塞が、東ローマ皇帝ユスティニアヌス1世(在位:527~565)の指示により建設された。

要塞の敷地は、西側(パトラ湾側)を頂角とする概ね二等辺三角形をしており、塔と門で強化された外壁で囲まれている(敷地面積は22,725平方メートル)。東側の底辺側の外壁に要塞入口があるが、この時間(午後7時)は既に閉館されていた。


要塞内の北東角(右底角)にパトラ城が建っており、入口右側の木々の後ろから僅かにその威容を望むことができた。要塞は、807年にアラブ人とスラヴ人により包囲されるが、他都市の力を借りずに撃退している。この勝利はパトラの守護聖人、聖アンデレのお陰と考えらている。


その後、要塞は第4回十字軍の後、1205年にはフランス騎士ギヨーム・ド・シャンリットのアカイア公国(1205~1432年)が所有し堀が造られ、地元のラテン大司教が1430年まで所有するが、1458年にはオスマン帝国に奪われてしまう。その後、ヴェネツィアが、奪取するが、再びトルコ人の管理下におかれ、ギリシャ独立後は、第二次世界大戦後までギリシャ軍によって使用された。現在は夏の文化イベントに使用され劇場としても利用されているとのこと。

このダシリオの丘の中腹には他にも歴史的建造物が多い。パトラ要塞から更に150メートルほど南側に下ると、スクィンチ式のビザンティン建築「パントクラトール教会」が建っている。西側にナルテクス、東側にアプスがある単純型の構造をしており、南側に教会入口からは、参道の様に直線の坂道が、Dim. Gounari通り(東西に延びる幹線道路)方向に延びている。


パントクラトール教会から直線距離で200メートル西側には、ローマ時代の奏楽堂(ローマオデオン)が建っている。第15代ローマ皇帝アントニヌス・ピウス或いは第16代ローマ皇帝マルクス・アウレリウスの治世である160年頃に建てられたとされ、現在は、部分的に再建、修復され、夏の公演やコンサートの野外劇場として使用されている。修復中の壁は、舞台背後の壁(スカエナエ・フロンス)で、その奥に半円形の座席が並んでいる。


以上、さらさらっと、旧市街を観光して、ローマオデオンから南西に400メートルほど下ったDim. Gounari通り手前に建つ今夜の宿泊場所、メゾン・グレックエ・ホテル(Maison Grecque)に向かった。


ホテルでチェック・インした後、Dim. Gounari通りを西に向かい、パトナ市裁判所の先を左折して300メートルほど行った「聖アンデレ教会」に向かった。教会の南北は緑に覆われた公園で、ファサードは広場のある西側に面している。その広場の更に西側には、パトラ駅前から続く大通りが走っており、その向こうはパトラ湾になる。

この地は、ローマ帝国の第5代皇帝ネロ(在位:54~68)治世に、聖アンデレがパトラに布教で訪れた際に捕らえられて、エックス字型の十字架で処刑され殉教したと言われている。その後、聖アンデレは、パトラの守護聖人となりバシリカ様式の教会が建てられ、世界中のキリスト教徒の巡礼の場所となった。


現在の建物は、建築家アナスタシオス・メタクサスのもと、1908年に始まり66年後の1974年に完成したもので、敷地面積1,900平方メートル、建物の長さ約60メートル×幅約52メートルあり、7,000人規模の収容人員を誇るビザンティン様式の教会である。中央ドームの頂部にキリストを象徴する高さ5メートルの黄金十字架が、そして、その四隅に小ドームが、更に東西南北に延びる身廊先端左右の小ドームを併せて合計12個所の小ドームがあり、12使徒を象徴する十字架が聳えている。


ギリシャ最大の教会でバルカン半島では、ブカレストのルーマニア人民救世大聖堂、ベオグラードの聖サヴァ大聖堂、ソフィアのアレクサンドルネフスキー大聖堂に次ぐ4番目に大きいビザンティン様式の教会とされる。この時間は午後8時を過ぎたころで、ちょうど、日の入り時間となり、教会が美しく赤色に染まりだした。

教会の内部は日の入り時間が近づいてやや暗い印象だが、ビザンチン様式の壁画とモザイクで装飾された空間は荘厳で美しい。「全能者ハリストス」や聖アンデレが描かれた中央ドームの真下には、繊細に彫刻された三層の傘に無数の電球が並ぶ巨大で豪華なシャンデリアがぶら下がっている。下部には双頭の鷲が取り囲んでいる。


内陣とアプスを区切るテンプロンは白大理石で、王門を中心に大小のイコンが二段のアーチ型の窓に飾られている。奥には、パトラの町を守るように生神女マリヤ(パナギア)が描かれている。


テンプロンに向かって左奥の祭壇には聖アンデレを象徴するエックス型の十字架が飾られている。周りには、最近修復されたのか一面美しいフレスコ画で覆われている。祭壇左側には、エックス十字架を持つ聖アンデレや、アプスには、この地で処刑され殉教する聖アンデレの姿が描かれている。


20分ほど見学して、再びDim. Gounari通りまで戻り、レストランを探しつつ歩いたが、エクスペディアの評価と客層やお店の雰囲気の良さ等からリストランテ・サルメリア(salumeria Ristorante)で食事をすることにした。パトラ中央広場のゲオルギオス1世広場(Georgiou I Square)からMaizonos通りを100メートルほど南側の路地に入った静かな場所にある。


飲み物はビールやワインを頼み、料理はサラダイカポーク肉を頼んだ。非常に美味しかったが、イカの量が少ないのが残念だった。デザートが無料サービスなのが嬉しかった。1時間ほど滞在した。

ホテルは、東に向け路地を500メートルほど歩いて、突き当りを右折した所である。方格状に道路が通っているが、細い路地ばかりで、薄暗くやや怖い雰囲気である。ホテルすぐ近くには、旧市街の坂道に美しくライトアップされた「Ekklisia Pantanassa教会」が建っていた。ちなみに教会に向かって左先隣りには、階段が続き、上った先にローマ時代の奏楽堂(ローマオデオン)がある。


******************************

翌朝、8時前に朝食を食べ、9時前にホテルを出発した。これからオリンピア(オリュンピア)に向かう。Dim. Gounari通りを西に向かい、パトラ-Bインターから高速道路5号線(E55線)に乗りピルゴス方面に向け南下する。快適な片側2車線の高速道だったが、10キロメートルほどで片側1車線の9号線(E55線)となった。


ピルゴスの手前から74号線に乗り換え山間部に向け約20キロメートル進むとオリンピアに到着した。パトラのホテルからは120キロメートル(2時間ほど)の行程だった。目的地のオリンピア遺跡群は、隣接する小さな町、アルヘア・オリンビアの目抜き通りを南下した車止めから、ツアーバス専用駐車場を抜け歩道を450メートルほど東方面に歩いたところにある。なお、一般駐車場は、車止めの手前を左折して300メートルほど離れているため、近場に駐車するなら縦列駐車になる。

オリンピアは、ペロポネソス半島西部に位置し、古代オリンピックが行われた場所で、数多くの遺跡が発掘されている。1829年にフランス人考古学者により始められ、19世紀にはドイツの発掘隊も加わり貴重な彫像などが発見された。20世紀半ばには競技場跡が発掘され、1989年には「オリンピアの考古遺跡」として世界遺産に登録された。

最初に、車止めからすぐの場所にある「古代オリンピック歴史博物館」を見学して、遺跡群に向かった。入口はクロノス山(標高113.9メートルだが、遺跡との高低差は50メートルほどの小さい丘)の西側にあり、入場後は南に延びる道幅8メートルほどの広い砂利道を左右に広がる遺跡を見学しながら進んでいく。こちらの地図(下が北)では、①と⑲の間の通路を南に向かっている。


入口から100メートルほど進んだ左側にある遺跡は「プリタニオン」と呼ばれ、紀元前4世紀、マケドニア王フィリッポス2世によりギリシャ統一を記念して建造された古代オリンピックの評議会の事務所で、大祭のときには迎賓館として使用された。背景に見える柱はヘラ神殿で、右側に見える柱は「フィリペイオン」と呼ばれる円形神殿の址である。


砂利道を進み、左折すると、すぐ左側に「フィリペイオン(円形神殿)」が現れる。こちらもマケドニア王フィリッポス2世による奉納で、息子のアレキサンダー大王治世で完成したとされる。遺跡の重要な領域は、180メートルほどの不規則な四角形で北側のクロノス山側を除き、東西南は壁に取り囲まれていた。このフィリペイオン(円形神殿)は、その領域の北西角にあたる。


そのフィリペイオン(円形神殿)の東隣に、紀元前590年頃に建てられた「ヘラ神殿」の址が残る。神殿は、ギリシャの神々の女王ヘラに捧げられたギリシャで最も初期のドーリア式寺院の一つで、縦50メートル×横18.75メートル×高さ7.8メートルの大きさだった。当初、柱は木材だったが、腐敗や劣化により、徐々に石の柱に置き換わったと考えられている。4世紀初頭の地震により破壊された。


ヘラ神殿の更に東隣の足元にはロープで囲まれた聖火採火壇址がある。近代オリンピック(1896年アテネ開催)における聖火はこの場所で凹面鏡を用いて太陽から採火されている。


ところで、古代オリンピックの始まりは紀元前8世紀に遡る。伝染病の蔓延に困ったエリス王イフィトスが、争いをやめて「オリュンピア祭」をせよと「デルポイの神託」を受けた事に由来すると伝えられている。これがゼウス神への奉納競技の始まりで1000年以上、293回に渡り行われたが、ローマ帝国皇帝テオドシウス1世の異教神殿破壊令により393年開催が古代オリンピック最後の年となった。

聖火採火壇址の北側のクロノス山麓の緩斜面には、ニンファエウム(泉の神ニンフを祀る神殿)の址がある。2世紀にギリシャ人の貴族でローマの元老院議員であったヘロディス・アッティコスと、妻のアスパシア・アニア・リジラが奉納したもの。ヘロディス・アッティコスは、多くの建築プロジェクトに資金を提供したパトロンで知られている。現在は、半円形の基壇のみが残っているが、当時はその上に11の壁龕が2段に並び、その中にローマ五賢帝の像などと共にヘロディス・アッティコスや家族の像も飾られていた。


この辺りで、復元模型図(南側上空から北方面を俯瞰するイメージ)を見ると、遺跡群の位置関係が分かりやすい。

聖火採火壇址の東隣には、メトロンと呼ばれる母神に捧げられた小ぶりな神殿址がある。そして、クロノス山麓の緩斜面の中央に見えるニンファエウムの右側に建つ柱と壁面から東側へ約100メートルの間にギリシャの各ポリスの宝物庫が12棟並んでいた。


メトロン址を過ぎ、更に東側に進むと、左右を石垣で囲まれた通路があり、右側にも大規模な建造物の址が南側に続いている。通路を覆うアーチが、北東部の壁になる。その壁を過ぎ通路を進んで行くと、その先には古代オリンピックのスタジアムが広がっている。


スタジアムは、長さ212.54メートル×幅30~34メートルで、現在の陸上競技のように、トラックの一端に白いブロックが配置され、競技者が並んで、レース開始するための起点として作られた。更にコースは、走りやすい様に固い粘土で作られた。2004年のアテネ・オリンピックではこのスタジアムで男女砲丸投の競技が行われた。


再び遺跡中央の領域内に戻り、大規模な建造物の址に沿って進み南端から振り返って全体を見てみる。この遺跡は「エコ・ストア」と呼ばれる屋根付きの柱廊を持つ南北に100メートルほど続く大きな建物で、古代ギリシャでは、商品の販売や展示、宗教的集会や公開集会など、様々な用途で使用された。現在は中央に復元された柱が一本建っているだけである。なお、北側にはクロノス山が見え、エコ・ストアの東側には、東領域の壁が続いており、その背後にスタジアムの緑が広がっているのが見える。


この辺りで、復元模型図(南側上空から北東方面を俯瞰するイメージ)を見ると、遺跡群の位置関係が分かりやすい。

「エコ・ストア」の南側から遺跡の中央付近に進むと「ゼウス神殿」の正面階段があり、その手前やや南側に柱が復元されており「勝利の女神ニケ」の像が飾られていた

ゼウス神殿は立入禁止になっており、全体像を理解するには、南側に回り込み、東南角から斜めに見ると分かりやすい。紀元前470年頃(紀元前457年に完了)にエーリス出身の建築家リボンによりドリス様式で建てられた(東西64.12メートル×南北27.68×高さ20.25メートル)もので、主要な構造は質の悪い地元の石灰岩であったらしく、大理石に見える様にスタッコの薄い層でコーティングされた。屋根は、ペンテリック大理石のタイルで覆われ、半透明になるほど薄くカットされたため、外光が内部に届き明るく照らしていたとされる。


神殿北西側の柱が1本だけ復元されてている。基壇の上には、外側に6本×13本の柱が配置され、内部には、7本の柱が2列に並び、3つの通路を形成していたという。フィロンによる世界の七不思議の一つであるゼウス像(座像で全長は約12メートル)が存在したことでも知られる。1950年代に制作者のペイディアスの工房がゼウス神殿から100メートル西で発見されたことから信憑性が高まった。


遺跡群を出て200メートルほど北に行ったクロノス山の北西側の麓に「オリンピア考古学博物館」がある。博物館には先史時代からローマ時代までの大理石の彫像や銅製の像、鎧兜、ガラス製品などが12室の展示室におさめられている。


こちらの展示室には、紀元前7~前8世紀ごろに制作されたブロンズ彫刻を中心に展示されている。中央には、翼のある女性像で、目には骨がはめ込まれている。ブロンズ製の大鍋や鼎の上部に取っ手として取り付けられていたライオンの頭部やグリフィンの頭部が多く展示されているが、これらは奉納品として制作された。

ブロンズ彫刻では、他にも紀元前490年のマラトンの戦い(紀元前490年)にアテナイ・プラタイア連合軍が勝利したことを記念して奉納された兜群が展示されている。

紀元前5世紀初めの「アテナ女神の頭部像」。アテナ女神は、蓮の花で飾られたヘルメット風の王冠を被っている。巨人族と戦う場面を表現した一部と考えられている。


紀元前480~前470頃の「ゼウスとガニュメーデース(ガニメデ)」で、破風の形をした土台の上に立っている。ゼウスは右腕でガニメデを右腕下からしっかりと抱きしめ、左手には木製の杖を持っている。服装は、上半身は裸で、左腕と腰には長い赤色のチュニックをゆるく掛けており突き出した左足は裸足である。
クリックで別ウインドウ開く

ゼウスが被る帽子からは髪が覗いている。表情はかすかに笑みをたたえ、鋭い顎に残る濃い茶色髭が印象的である。一方、ガニメデの体は多数の断片から再構成され表情は緊張しつつも物思いにふけっている。やや広めの鍔のある帽子を被り、長い髪は肩に垂れ下がり、左手に雌鶏を持っている。1878年にスタジアム南西側と西側の2か所から発見された。


ガニュメーデース(ガニメデ)は、トロイアの王子だったが、大神ゼウスは、その美しさにほれ込み、王子をさらって、永遠の若さと不死を与えてオリュンポスの神々の宴席給仕係としたとされる。

紀元前425~420年にギリシャの彫刻家パイオニオスによって作られた「勝利の女神ニケ」像。パロス島産大理石(パリアン)で作られたこの像は、大きく破損した破片から復元されたが、顔、首、腕、左脚の一部、翼などは欠けている。


像は1875年から76年にかけてゼウス神殿正面口(東側)の近くで発掘された。もともと像は三角形の柱の上に立っており、柱を含め、12メートルもの高さに及んだという。「メッセニア人とナウパクティア人は戦争の戦利品からこの像をゼウス・オリンピオスに捧げた。メンデのパイオニオはそれを作り、彼はまた寺院のアクロテリアを作るための競争に勝った」と記されている。
クリックで別ウインドウ開く

「勝利の女神ニケ」の正面には、ひと際大きな展示室があり、ゼウス神殿の東西のペディメント(破風)を飾っていた彫刻とメトーブ(壁面装飾)が展示されている。


「勝利の女神ニケ」に向かって右側には「ラピテス族とケンタウロスの戦い」の場面を表現した彫像群で、ゼウス神殿の西側に飾られていたものである。神殿の巨大さを体感できる迫力ある展示方法である。
クリックで別ウインドウ開く

アポロン神を中心に、左右にはラピテース族の王ペイリトオスと友人のアテナイの王テーセウスの頭部と剣を振りかざした腕のみが残っている。それぞれの王がケンタウロスと争う迫力ある姿が表現されていたのだろう。
クリックで別ウインドウ開く
剣を振りかざすペイリトオスの左隣には、彼の花嫁デイダメイアがケンタウロスの一人エウリュティオーンに襲われそうになっている瞬間がリアルに表現されている。

対して、神殿正面東側の破風を飾っていたのは、「オイノマオスとペロプスとの戦車競走」で、ゼウス神を中心に左右にオイノマオスとペロプスが並び、その左右にステローペ女神とヒッポダメイア女神が、更にその左右に双方の乗る馬車が並んでいる。戦車競走前の整列した姿を表現しているようである。
クリックで別ウインドウ開く

神殿を飾っていたメトーブ(壁面装飾)は、展示室前後に6枚ずつ、ヘラクレスの十二の功業(前470~前456)が展示されている。多くは損傷が激しいが、こちらの「ヘスペリデス(ニンフたち)の黄金の林檎」は比較的良く残っている。アテナ女神とアトラスが天空を担いだところでヘラクレスが林檎を取って行く場面だが、壁面装飾とは思えないほどに写実的に深掘りされているのが分かる。


「幼いディオニューソスを抱くヘルメス」。上に掲げた右手は失われているが、抱きかかえる幼児に一房のブドウを与えようとしている姿といわれている。美術史家の間では、プラクシテレス作の真贋論争が続いているが結論が出されていない。プラクシテレスは、紀元前4世紀の最も有名なアッティカの彫刻家で、初めて等身大の女性ヌード像を作った彫刻家である。プラクシテレスの作彫刻は現存せず多くの複製が残っているものとされる。
クリックで別ウインドウ開く

ヘルメスの顔や胴体は、美しく光沢を放っており、非常に洗練された作品である。西暦3世紀後半に発生した地震により失われたが、1877年、ヘラ神殿址で木の幹に寄りかかっている姿で発見された。
クリックで別ウインドウ開く

こちらの展示室の中央には、ローマの元老院議員ヘロディス・アッティコス夫妻が建造したニンファエウム(泉の神ニンフを祀る神殿)を飾っていた、第14代ローマ皇帝ハドリアヌス(在位:117~138)ポッパエア・サビナ(第5代ローマ皇帝ネロの2番目の妻)ヘロディス・アッティコスの娘などの彫像群に加え、泉の中央部に飾られた牡牛の彫像などが展示されていた

(2019.5.22~23)

page top

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする