カズさんの旅たび

 ~歴史、文化、芸術、美食紀行。。

スイス北部

2016-07-30 | ドイツ(バイエルン)
ドイツ・リンダウからオーストリア・ブレゲンツを経由して、アルプスの山々が見渡せるスイス北東部のアッペンツェル(Appenzell)にやってきた。このあたりで、標高が約800メートルになる。これから更に南に向かいアルプスの絶景ポイントの一つ「エーベンアルプ(Ebenalp)」のトレッキングを予定しているが、やや曇りがちなのが気になるところ。
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アッペンツェル鉄道と並行する街道を進むと、左側に駐車車両が並ぶ終着駅のヴァッサーラウエン駅(Wasserrauen)が見えてきた。街道での一般車両の走行はこの辺りで終点となり、この先数キロメートルは地元関係者のみ侵入が可能で、その後山岳地帯となり行き止まりとなる。
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目的地のエーベンアルプ(Ebenalp)は、ヨーロッパ・アルプス山脈の一部で、スイス北東部を東西に連なるアルプシュタイン山系(Alpstein)の東端にある岩壁上(標高1644メートル)に位置している。そのエーベンアルプへはロープウェイが運行しており、ヴァッサーラウエン駅から少し街道を戻ってシュヴェンディ川を渡った先の山小屋風の建物から出発することになる。
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その山小屋風の建物のロープウェイ乗車駅を入るとチケット売り場があり、乗車運賃が片道で20スイスフラン、往復で31スイスフランと表示されている。さすがに世界一物価高と称されるスイスであり、日本の2倍位の金額の印象である。この日は歩いて下山するつもりだったので、この場では片道分のチケットを購入した。
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早朝だと行列ができるかもしれないが、午後3時半を過ぎたこの時間の乗車人数は7~8人だった。ロープウェイは緑で覆われ所々岩肌を覗かせる急勾配の山を下に見ながら力強く上って行く。見る見るうちに、先ほどまで通った街道や家並みが豆粒の様に小さくなり、5~6分で山頂駅が見えてきた。
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エーベンアルプのハイキング&トレッキングコースは、ガイドマップによると全部で11コースある。中でも、エーベンアルプ駅から尾根道を進み、南西方面のクルス(Chlus)やシャフラー(Schäfler)(標高1924メートル)まで歩くコースと、東側から階段を下りて、岩壁沿いのヴィルドキルヒリ(Wildkirchli)、エッシャー(Äscher)を経由して、クルスやシャフラーに向かうコースが一般的だ。しかし、下山する場合は、再びロープウェイに乗車するか、歩いて下山することになる。

今回は、岩壁沿いのヴィルドキルヒリ、エッシャーを通り、そのまま下山し、ゼーアルプ湖(Seealpsee)を経由して、ヴァッサーラウエン駅に戻る「ガイドマップの⑧」を選択することにした。既に時刻が午後4時前なので、あまりのんびりもできないわけだ。では、駅到着後、駅舎の横からエッシャー方面に続く東側の階段を降りて行く。
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目の前には、放牧中の牛がいて、その向こうに素晴らしい眺めが広がっている。眺望は北東側になり、先ほど通過してきた町並みが望める。左上のかすかに見えるアッペンツェルから、なだらかな丘を越え、左側のヴァイスバート(Weissbad)を通り、右側のシュヴェンデ(Schwende)を通りすぎて、ヴァッサーラウエン駅まで来たわけだ。
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ロープウェイのケーブル下を通る細い山道コースを下って行くと、タイミングよくロープウェイが上ってきた。コースの斜面側には、転落防止用のワイヤーが設けられている。
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大きな岩壁沿いに、岩壁をくりぬいて作られた洞窟があり、中を通過するコースとなっている。もともと中期旧石器時代のネアンデルタール人の居住跡と言われているが、手すりやライトも設置され、安心して通行できる。洞窟を抜けると小さな山小屋(博物館)があり、その先は礼拝堂があるヴィルドキルヒリ(Wildkirchli)となる。現在は真新しい祭壇と礼拝席が並んでいるが、アッペンツェルの司祭パウルスウルマン(1613~1680)が設立した歴史ある礼拝堂である。再び細い通路となり、引き続き巨大な岩壁の下の山道を下って行くと素晴らしい眺望が広がり始めた。
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コースは、岩壁に沿って東側から回り込む様に南側に進んでいる。前方には、マルヴェエス(Marwees)(標高2026メートル)の山々が続いている。こちら側のエーベンアルプの山々と並行するマルヴェエス山系とが作り出す渓谷が、右側から左側にかけて徐々に扇状地となって広がる最大の絶景のポイントの一つである。そして、コース沿い右側の岩壁側には、張り付く様に木造3階建ての「ガストハウス・エッシャー(Berggasthaus Äscher)」があり、テラスではその絶景を眺めながら美味しそうにビールを飲む登山客の姿が見られた。
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今日は雲の流れが速く、見るたびに山の景色は変わっていく。遠景の残雪のあるアルトマン(Altmann)(標高2435メートル)の山頂は、雲で覆われたり現れたりを繰り返している。ガストハウス・エッシャーを過ぎると羊小屋があり、狭いコース上に羊が放牧されている。
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振り返って眺めると、羊は、コース沿いの狭い斜面に数多く集まっているのが分かる。
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岩壁の下からは、一面草木に覆われ始める。足元にも大小の岩が転がり、根があちらこちらに交差する荒れた下り道が続く。急斜面の連続に、徐々に膝が辛くなり始める。。
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うっそうと茂る木々の合間から所々で視界が広がり美しい景色を見ることが出来る。真上を見ると、花が咲き誇る斜面の先から垂直に延びる岩壁が、頭上に覆いかぶさってくる様に感じられる。大昔、断層活動により、山頂部分の地層が大きく隆起した結果なのだろう。
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向かい側のマルヴェエス山頂付近の特徴のある岩壁に雲がかかり始めた。だいぶ岩壁が上に見えるのでかなり下山してきたのだろう。スタートから約1時間が経過し午後5時になった。
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渓谷付近まで下りてきた様だ。しかしこの辺りはなだらかな斜面が広範囲に広がる平坦地となっている。コースが交差する前方には山小屋やホテル「ベルグガストハウス・ ゼーアルプゼー」が建っている。右側には尖った山頂が特徴の「ゼンティス山(Säntis)」(標高2502メートル)が望める。
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ホテル前からは、ゼーアルプ湖(標高1143メートル)を望むことができる。湖は東西に横長で13.6ヘクタール(東京ドームの約3個分)の広さがある。ここは、湖の中ほど北岸にある小さな入り江から西側を眺めた様子で、湖面はさざ波もなく鏡の様に周囲の風景が写り込んでいる。正面のゼンティス山の山頂は、あっという間に雲がかかって見えなくなった。
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ホテル前から再び元来た道を戻り、シュヴェンディ川を渡って、交差路を右側(東)に向けてコースを下って行く。正面の山頂付近の岩壁の下部あたりが先ほどまでいたエッシャー付近になるのだろう。交差路の標識にはヴァッサーラウエン駅まで50分とあり、少し急ぎ足で向かった。
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湖を過ぎたころから雨が降り出したので、レインコートを着用した。途中右側の渓谷が深くなる個所が続いた後、平坦地が広がりシュヴェンディ川がコースのすぐ横を流れ始めた。振り返ると、マルヴェエスの岩壁も僅かに見えるだけとなり、後方の「ゼンティス山」の山頂もまもなく見えなくなった。
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山小屋の前で草を啄む山羊の姿はまことに長閑で、癒される風景である。ヴァッサーラウエン駅前に到着したのは、午後6時半前であった。出発前は天候を心配していたが、絶景も見られ大変良かった。なにより無事に踏破できたことが一番の収穫である。
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帰りに、アッペンツェルの町の中心広場に寄ってみた。広場には水場があり、腰にサーベルをさし右手を挙げる彫像が飾られている。これは、スイスで昔から行われる青空議会(ランツゲマインデ)で、演壇に立つ議長からの議題に対して、挙手する有権者の姿を現している。このアッペンツェルでは、今も、毎年4月の最終日曜日に開催されており、実際に銅像と同様のスタイルで出席する有権者もいるそうだ。
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広場の周りには切妻屋根の色とりどりの美しい建物が並んでいる。アッペンツェルでは、スパイシーでコクのある味わいが特徴のアッペンツェラー・チーズの産地としても知られている。
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さて、「ボーデン湖」の東南端にあるオーストリアの港町「ブレゲンツ」まで戻ってきた。ボーデン湖はドイツ、オーストリア及びスイスの国境に位置し、536平方キロメートル、東西最大幅約63キロメートル、南北最大幅14キロメートルと、琵琶湖をややスリムにした規模の大きな湖である。

このブレゲンツ湖畔に造られた湖上ステージで午後9時より「ブレゲンツ音楽祭」が開催される。今夜の演目は、オペラ「プッチーニのトゥーランドット」である。
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ブレゲンツ音楽祭会場は、ブレゲンツ駅から駅舎(南口)と逆に跨線橋を渡り階段を下りて、北に200メートルほど歩いた所にあるが、今回は車で会場のそばまでやってきた。しかし、途中で道に迷ったことやホテルでのチェックインもあり到着が遅れたため、満車覚悟で会場に隣接する南側の駐車場まで乗り付けたが、無事駐車できたのは幸運だった。結局、会場に到着したのは開演開始の15分前だった。。

湖畔沿いから湖面を眺めると、ボーデン湖の湖底に杭を打ち込み、観客席、照明塔、大胆なステージなどが造られているのが分かる。
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この「ブレゲンツ音楽祭」は、もともと第二次世界大戦が終結した翌年1946年8月に、ナチス・ドイツによって町を大きく破壊されたブレゲンツの人々が、湖上に砂利運搬船を二台並べ、その上にステージを作って、モーツァルトのオペラ「バスティアンとバスティエンヌ」を開催したのが始まりである。現在では、毎年7月から8月にかけて湖上舞台を中心に、いくつかの会場で様々なイベントが開催されている。

観客席に入ると前方に迫力のある舞台が現れる。近年は、二年毎に同時演目が開催されており、「プッチーニのトゥーランドット」は、昨年に続く開催となる。観客席の先は湖面を挟んで、円形と湖面に向かう斜めステージと二重舞台になっている。更に手前には、もう一つ舞台があり、その横の湖面には秦始皇帝陵の兵馬俑坑にある兵士像をモチーフにした像が並んでいる。背景となる煉瓦積みの建造物は「万里の長城」をイメージして作られ、向かって右側の砦を思わせる構造物は、躍動する龍の頭部をイメージしている。
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そして、そのまま左に視線を移動すると、再び砦が現れその先が尻尾の様に窄んで湖面に着水している。またオーケストラピット見当たらないので、別途室内に設置されているようだ。場内には、まばらに観客がいたが、開演予定の午後9時になると、全員場外へ戻された。この日天候が大荒れになる予報らしく開催是非について検討しているらしい。
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この季節、日の入りは午後9時過ぎで、本来なら開演後に薄暗くなるところだったがすっかり暗くなった。時折、ゴロゴロと、カミナリが鳴ったり、遠くの空に稲妻が光るなど、不安は尽きない。心配しながら扉口手前や通路で様子を窺っていると、50分ほどして開演判断がなされ入場が許された。
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わらわらと皆扉口から入場し、観客席はあっという間に満席になった。ちなみに、観客席の周りにある手摺状のものは反響音を生み出すスピーカーで、全部で800台設置されているそうだ。
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舞台はむかしの中国北京。トゥーランドット姫と結婚するには、姫から出題される3つの謎を解く必要がある。もし解けなければ首をはねられることになる。流浪中だった王子カラフは、それに挑戦して見事3つの謎を解き、最後に2人は結ばれるといったストーリー。開演は、オーケストラの演奏と共に、中央部の煉瓦が崩れながら観音開きし、現れた後方ステージから始まった。その後、中央の円形ステージは手鏡のように手前から開いて大型スクリーンとなり、出演者の動きに併せて移動したり様々な映像が展開されていた。
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舞台では、華やかな衣装を身に着けた登場人物が、セリなどの仕掛けも使い、所狭しと踊り巡る。特に、炎や剣を使うアクロバットな戦闘シーン、電飾鮮やかな「龍舞」の華やかなシーン、万里の長城の砦から湖面に投げ込まれる迫力あるシーンや、豪華な提灯船が湖面を通過する幻想的なシーンなど、独創的で斬新な演出には目を見張るものがあり、大変見所の多いオペラであった。
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結局、心配していた雷雨や強風もなく無事終演となった。カーテンコールの際には、別の場所で演奏していたオーケストラの面々が円形スクリーンに映され拍手喝采を浴びた。途中、演目半ばで円形スクリーンの映像が一部乱れる場面もあったがご愛嬌ということで。。

サイトによると2016公演のスタッフと配役は次の通りである。
指揮:パオロ・カリニャーニ(Paolo Carignani)、演出:マルコ・アルトゥ-ロ・マレッリ(Marco Arturo Marelli)、合唱:ブレゲンツ音楽祭合唱団/プラハ・フィルハーモニー合唱団、管弦楽:ウィーン交響楽団、

配役:トゥーランドット:Erika Sunnegårdh/Katrin Kapplusch/Mlada Khudoley、皇帝アルトゥーム:Christophe Mortagne/Manuel von Senden、ティムール:Mika Kares/Gianluca Buratto、ダッタン国の王子カラフ:Riccardo Massi/Arnold Rawls/Rafael Rojas、リュー:Marjukka Tepponen/Yitian Luan/Guanqun Yu、ピン(宮廷の3大臣):Matija Meic/Mattia Olivieri、パン(宮廷の3大臣):Taylan Reinhard/Peter Marsh、ポン(宮廷の3大臣):Cosmin Ifrim/Kyungho Kim。
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会場を出た左側のレストランには、終演が午前0時を過ぎたにも関わらず営業していることから、多くの観客が訪れ始めた。もともと終演後の食事が心配だったので予め駅近くのレストランを調べていたが、開演自体が遅れたため、食事抜きと思っていた。。
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飲み物は会場内に配置されたスタッフに注文し、食べ物はブッフェで直接注文するスタイルである。とにかく空腹だったこともあり結構注文したが、お腹も満たされ大変満足した。
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時間も遅いことから来店客の多くは食事が終わると早々と帰って行った。それに合わせるかのように、周りのライトも少しずつ消えて寂しくなってきた。ゆっくりしたい気持ちもあったが、午前1時を過ぎ疲れも増してきたので、ホテルへ戻ることにした。

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昨夜は、ブレゲンツ中心部から10キロメートルほど南西に向かった幹線(203号線)沿いにある「ホテル・リンデ・ジノハウス(Hotel Linde-Sinohaus)」に宿泊した。部屋は2階で、窓を開けると東側の203号線が望める。火曜日の朝9時前にも関わらず、車の通行量は少なく、バス停にも待ち人はいない。今日はこれからスイスのザンクト・ガレン(Sankt Gallen)に向かうことにしている。
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午前9時過ぎにホテルをチェックアウトして、最初に、国境の通関検査場へ向かう。場所は、ホテル横の通りから右折して203号線に入り、500メートルほど南の交差点を右折した所になる。オーストリアとスイスはシェンゲン協定に加盟しており、国境でのパスポート検査は行っていないが、通関検査は現在も残っている。
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この時間、検査場では大型のトラックなどで渋滞しており、多少待たされたが、目視で問題ないと判断されチェックなしで通過できた。先の高架陸橋でライン川を越え、ロータリーから右折して高速道路(スイスの東西横断道路のアウトバーン1)に乗る。ところで、スイスの高速道路には料金所がなく、予めフロントガラスに料金前払いシール「ヴィニエッテ(Vignette)」(1年間有効で40スイスフラン)を貼って走行する必要があることから、昨日、近くのガソリンスタンドで購入しておいた。また、スイスでは、高速道路はもちろんのこと一般道でも至る所に監視カメラが設置され交通違反の取り締まりが厳しいので走行には注意が必要だ。

午前10時過ぎに、スイスのザンクト・ガレン(Sankt Gallen)に到着した。ザンクト・ガレンは、標高700メートルほどの高地にある人口16万人を抱えるスイス東部の中心都市である。これから世界遺産「ザンクト・ガレン修道院と付属図書館」の見学に向かうべく、サークル形の旧市街の西側「Oberer Graben通り」を南に向け歩いている。通りはゴミ一つ落ちておらず建物も綺麗で、人や車の往来も少なく静寂な雰囲気に包まれている。まるで外出制限でもあるのかと勘ぐってしまう。最初に、南側にある四つ星ホテル(ホテル・アインシュタイン・セント・ガレン)でトイレを拝借した後、ホテル手前左側から延びる歩行者専用の「ガルス通り」から旧市街に入った。
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石畳の「ガルス通り」左右には、綺麗な3~5階建ての建物が並んでおり100メートルほど先に広場が現れる。正面に水場があり、修道士姿の彫像が修道院の「教会堂」後陣方向に向いて立っている。後陣頂部には小さな鐘楼があり、側壁には縦長の半円形アーチが並んでいる。その右側から4階建ての教会棟が続いており、この区画に「修道院の付属図書館」がある。ところで、左端の建物の外壁から屋根にかけて二層の窓付き尖塔が延びているが、こちらは教会ではなくホテル・シュワネン(Hotel Schwanen)で、尖塔はホテルの「ベイ・バルコニー(出窓)」である。
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水場は「ガルス噴水(Gallusbrunnen)」で、アイルランド出身の「聖ガルス」の彫像が飾られている。彼は聖コルンバヌス(ヨーロッパの父)の12人の弟子の一人として知られ、612年頃にシュタインナッハ川の川岸であるこの場所に僧房を建てた。その僧房を719年以降に聖オトマールが修道院へと改め、町と修道院とを聖ガルスに因んで「ザンクト・ガレン」と名付けた。その後9世紀には、宗教的、精神的、経済的な全盛期を迎え、そこに、付属した学校と図書館が造られ、文化的な中核地として発展していった。

聖ガルス像の後方には、個性的な建物が並んでいる。左端の「ガルス通り」角に建つ「DomZentrum」の外壁には、縦仕切りの格子窓に三層に渡る「ベイ・バルコニー」(出窓)がある。建物には、様々なケア施設を始め、聖ガレン教区の教会管理に関するオフィスや社会奉仕センターなどが入居している。右隣中央の「Haus zur Wahrheit」の2階には、一層のベイ・バルコニーがあり、その隣の木枠の柱、梁、筋交いなどが交差する建物2階にも一層のリンデルのベイ・バルコニーがある。
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この様に、ザンクト・ガレンの建物には「ベイ・バルコニー」があり、この旧市街だけでも100以上ある。もともとは、居住空間を拡大や上層階に外光を取り入れる役目で建設されたが、多くは富裕層の住宅で、その富を誇示するかの様に様々な形状や装飾に力を入れていた。

そして「教会堂」の後陣と向かい合うように、こちらにも美しい建物が並んでいる。「Zum grünen Hof」で、1606年に所有者カスパー・スマーフが、厩舎を改築した際に建設した石積みの円形のベイ・バルコニー塔で、下部にはカラフルな色合いの人物装飾も見られ大変印象深い。1階ではレストラン「Am Gallusplatz」が営業している。
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右側へ二件隔てた建物には「グライフ(Greif)」(グリフォンのドイツ語)と名付けられた旧市街では最も見所の一つとされるベイ・バルコニーがある。制作年は不明だが、キャスパー・メンハルト(1621〜1684)建物所有との記録が残っていることから17世紀の後半の制作と考えられている。
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ちなみに、向かい側のインフォメーションセンターにも、玉ねぎ型の屋根が載った二層形式のベイ・バルコニーが聳えている。

さて、その「グライフ」は、オークとリンデンの木で作られた一層のベイ・バルコニーで、驚くほど精緻な浮彫細工が施されている。唐獅子風の彫像で囲まれた欄干のレリーフの向かって左側は「エリヤとカラスのパン」で、ケリテ河畔に身を隠す「エリヤ」のためにカラスがパンと肉を運ぶ場面で、右側は「神とのヤコブの論争」で、ヤボク川の渡しで神と格闘し、勝利し「イスラエル」(神に勝つ者の意)の名を与えられる場面が表現されている。 そして、窓枠には葡萄唐草文様、女性像、上部にはラッパを吹く天使などの彫刻で飾られている。
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インフォメーションセンター前の広場からは綺麗に刈り込まれた芝が広がっており、その南側に教会堂である「大聖堂」(旧ザンクト・ガレン修道院)が建っている。現在の建物は13世紀に建てられ老朽化した修道院に代わり1755年から1767年にかけて(南側の図書館の設計も併せて)オーストリア建築家ペーター・テゥンプ(Peter Thumb)により建てられたもので、昔の修道院の面影は残っていないが、後期バロック建築の傑作として評価され、付属図書館と共に1983年にユネスコの世界遺産に登録されている。
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大聖堂の中央部は、南北に膨らみを持たせたロタンダ(円形建築物)で、その北面に扉口がある。扉口の左右上下の壁面には壁龕があり彫像が収められている。向かって左上は聖ガルスで、右上が聖オトマール、左下が聖ペトロで右下が聖パウロである。そして東側には、高さ68メートルの2本の塔が聳えている。

扉口から入ったロタンダのすぐ左側(東側)は、金の柵で仕切られ、塔の建つ背廊側に主祭壇がある。ガルス噴水から見た外観の形状から西側を後陣と思った(教会基準と逆に)が、そうではなかった。現在西側にはパイプオルガンが設置されている。ちなみに13世紀建築の修道院図の西側外観の様子は現在の大聖堂と似ている。しかも、図書館に残されている9世紀初頭の建築プラン図では、修道院はバジリカ型で、東西2つの内陣(二重内陣)で計画されていた。
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主祭壇のアプスには、暗雲が立ち込めた様な暗い印象のフレスコ画がヴォールトに沿って手前に続いている。

そして、アプスから続くフレスコ画は、ロタンダの巨大な天井画に到達する。これらのフレスコ画は、ヨーゼフ・ヴァンネンマッハー(Joseph Wannenmacher)によって描かれたもので、雲の層で分けながら祝福された存在下での神の到着が華麗に描かれている。
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更に天井画は、ロタンダから先にも続いており、他にも聖ガルスや旧約聖書などを題材として描かれ、聖堂の天井全体を覆っている。暗い色合いの天井画と純白の柱とのコントラストに加え、漆喰で模られたロココとクラシック調のフリル薔薇柄装飾(青竹色)と黄金の人物装飾は華麗なアクセントを演出している。これらの装飾はヨハン・クリスチャン・ヴェンツィンガー(Johann Christian Wentzinger)が手掛けている。
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修道院が廃止されたのは1805年で、その際、修道院長の玉座は教区の祭壇に変更されるなどの改修が行われた。その後も、1867年には内部の大規模な改修が行われ、20世紀初頭から半ばには外部の大規模な改修が行われた。近年は2000年から2003年の間に行われ現在に至っている。

外光が差し込む西端の中段には大きなパイプオルガンが設置されている。こちらは1968年に大聖堂改修の一環として、スイスの名門、メンネドルフのオルゲルバウ・クーン社(Orgelbau Kuhn)によって設計されたもので、一部1815年の古いオルガンが再利用されている。
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修道院の見学を終え、南側の「修道院の付属図書館」に向かった。現在の図書館は1767年に後期バロック様式で建てられたもので、ロココ調の美しい広間を持ち、数多くの写本、稀観書など、世界最大級の中世期文献の約17万巻の蔵書が所蔵されている。特に、2100点以上の手書古文書は価値が高く、西暦1000年以前の古写本も400点をくだらず、世界で最も重要な古文書図書館の一つと言われている。また、図書館ホールのヨーゼフ・ヴァンネンマッハーによる第1回ニケーア会議から、第4回までの公会議の様子が描かれた天井画も見所である。残念ながら撮影は禁止されていた。
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画像出典:ウィキメディア・コモンズ (Wikimedia Commons)

さて、再び高速道路(スイスの東西横断道路のアウトバーン1)に乗り、次に160キロメートル西に位置する「バーゼル(Basel)」に向かう。スイスでは、チューリッヒ、ジュネーヴに次ぐ規模の都市になる。高速道路では、途中でチューリッヒを通過し、サービスエリアでトイレ休憩などを挟んで(渋滞やトラブルもなく)、約2時間の行程であった。

バーゼル(Basel)は、ドイツ(北東方向)、フランス(北西方向)との国境が接する地点にあり、市街地はライン川をまたぐ形で広がっている。そのライン川沿いのすぐ西側に位置する「バーゼル市立美術館(Basler Kunstmuseum)」(16スイスフラン)にやってきた。
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トラム駅のあるアエッシェン・プラッツ(Aeschenplatz)付近の駐車場から北に歩き、美術館の東側を一旦通り過ぎて、左折した北側が正面口となる(バーゼルSBB駅からは、北に1キロメートル)。その正面側のアーケードの柱頭には、現代アート風の彫刻が施されている。そしてそのアーケードを抜けると南側に中庭が広がっている。
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バーゼル市立美術館は、1671年に開設された世界最古の公共美術館の一つといわれ、15世紀から16世紀にかけて南ドイツで活躍した画家、及び19世紀から20世紀にかけて活躍した画家などの作品を中心としたコレクションが充実している。もともとバーゼルで印刷業などで財を成したアマーバッハ家(Amerbach Cabinet)がコレクションした美術品をバーゼル市が購入して公開したのが始まりである。なお、残念ながら、館内は撮影禁止である。。

中庭には、ロダン作「カレーの市民」(1943年鋳造、1948年設置)が展示されている。作品のテーマは、百年戦争が行われた1347年、イギリス海峡におけるフランス側の重要な港カレーが、一年以上にわたってイギリス軍に包囲されていた際の出来事(カレー包囲戦)に基づいて作られている。
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2時間半ほど館内作品を鑑賞した後、正面口前の通りを東に歩くと、すぐにライン川に架かるヴェットシュタイン橋(Wettsteinbrücke)に到着する。バーゼル市内を流れるライン川は、ドイツとアルプス山脈以南とを結ぶ水上交通の拠点として古くから商業が栄えてきた。特に15世紀後半には、印刷・出版業が栄え、近世の多くの重要な著作の初版も出版されている。

前方(下流方向)に見える橋はバーゼル市内に架かる3つの橋の内、最も歴史のある「ミットラーレ橋(Mittlere Brücke)」で、かつて「ライン橋」と呼ばれていた。現在の橋は1905年にサンゴッタルド産花崗岩から造られたもので、長さ192メートル幅18.8メートルある(2002年に改修)。
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左手前のライン川沿いには、バーゼル観光スポットの一つで、ランドマークの「バーゼル大聖堂」が建っている。1019年から1500年の間にロマネスク様式とゴシック様式で建てられた。大聖堂は、美しい屋根で知られているが、この時間は逆光で良く見えない。手前の教会棟に隣接して後陣と南袖廊が建ち、二本の尖塔は西側のファサードから延びている。
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最初のバーゼル大聖堂は、バーゼルのハイト司教によって9世紀前半(805~823)に建てられたが、917年のハンガリー人の攻撃で破壊され、 11世紀、神聖ローマ皇帝ハインリヒ2世が大聖堂をバーゼルに寄贈した。その後、12世紀後半にロマネスク様式の建物に取り替えられ、 1356年の大地震後はゴシック様式で再建され1500年に完成している。1529年からは、チューリッヒのツヴィングリ(1484~1531)を中心とする宗教改革を経て、改革主義福音派教会に転じている。

さて、バーゼル市立美術館から北に延びる通りを歩くとファサード前広場に到着する。西日を浴びた赤砂岩のファサードは鮮やかに輝いている。左右に延びる塔の内、北側のゲオルク塔(1428年築)は67.3メートル、南側のマルティン塔(1500年築)は65.5メートルと、高さに加え形状も大きく異なっている。塔の名称は「聖ゲオルギオス」と「聖マルティヌス」に因んでいる。
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ファサード中央のステンドグラス窓に向かって右側には、現在時刻の午後6時5分を示すアナログ時計があり、その上には、バーゼル日時計が側面(南側)との2か所に設置されている。美しい大聖堂の屋根は、後方の南袖廊部分を僅かに望むことができる。緑、赤、白、黄色の小さな矩形と円形のプレーンタイルを組み合わせたカラフルな装飾屋根になっている。南袖廊の先は、回廊がある。

そして中央には、メインポータルがあり、4層の弧帯(アーキヴォルト)には、預言者、王、踊る天使、アブラハムなどの浮彫が施されている。もともとは「最後の審判」が表現されたタンパンがあったが宗教改革期間に破壊された。
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メインポータルに向かって左側の小塔彫刻には、帝笏と教会の模型を持つ「皇帝ハインリヒ2世」(在位:1014~1024)と十字架を抱きかかえる「皇后クニグンデ」(ルクセンブルク伯ジークフリート1世の娘)が寄贈者像として刻まれている。皇帝は、髭もなく驚くほど若い姿で表現されている。そして寄進者像と対になる様に、右側の小塔には誘惑者と愚かな処女の彫像が刻まれている。処女は微笑んでドレスを開いている。。

皇后クニグンデの左側には、上部の塔に対応する様に「聖ゲオルギオス」が馬に乗り槍を持ち、ドラゴンを退治する姿が表現されている。
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そして、向かって右側には、極寒の中で寒さに凍える物乞いに、自らのマントを裂いて渡す「聖マルティヌス」像が表現されている。
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再び、アエッシェン・プラッツ付近まで戻ってきた。バーゼルの町並みは美しく、交通網も整備されており住みやすそうだが、物価が高いことから、宿泊や食事もすることなく通過するだけとなった。ザンクト・ガレンもそうだったが、スイスの町の人通りの少なさには驚いた。現代アート風の巨大なオブジェを眺めて、これから、ライン川の西岸沿いのフランス側(東岸はドイツ)の高速道路を北上してアルザス地方へ向かう。
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(2016.7.26~27)

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ドイツ・バイエルン(その4)

2016-07-25 | ドイツ(バイエルン)
ネルトリンゲンを出発し、ロマンティック街道をアウクスブルク(Augsburg)経由、南のフュッセン(Füssen)方面に向かい、途中、シュタイン・ガーデン(Steingaden)からドイツ・アルペン街道に沿って東に向かう。
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23号線を南下しオーバー・アマガウ(Oberammergau)が近づくと、前方にアルプスの峰々が見えてきた。しばらくすると、右方向(西)に、目的地、リンダーホーフ城(Linderhof)の案内標識が現れたので右折する。ここからはほとんどの車がリンダーホーフ城に向かうことになる。
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山間の道を10キロメートルほど進むとリンダーホーフ城に到着した。時刻は午後2時を過ぎたところなのでネルトリンゲンからは約3時間の道のりであった。先日の大渋滞もなくスムーズに来られて良かった。
さて、駐車場から歩いて左側のシュロスホテルを過ぎた前方の建物がチケットショップのようだ。
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右側を見ると、ルートヴィヒ2世(在位:1864年~1886年)の胸像が出迎えてくれる。ルートヴィヒ2世は、父マクシミリアン2世の逝去に伴い18歳でバイエルン王に即位した。彼はその強烈な個性と高い美意識がゆえに若い頃から神話や騎士伝説に魅了されてきたが、王に即位後した後は、幼少の頃からの憧れを具現化するために作曲家リヒャルト・ワーグナーを庇護するなど音楽や豪奢な建築に対して破滅的浪費を繰り返したため「狂王」との異名で知られることとなった。
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午後2時50分の城館見学のチケット(8.5ユーロ(一人当たり))が取れたので、急ぎ城館に向かう。地図に沿って庭園内を歩いて行くと右側(南)に白鳥の池(Schwanenweiher)が現れた。池のそばに本当に白鳥がいたので驚いた。
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リンダーホーフ城は、ルートヴィヒ2世が建設した3つの城のうち、唯一完成した城である。彼はルイ王朝を崇拝していたこともあり、ヴェルサイユ宮殿の庭園にある離宮の一つ、大トリアノン宮殿を手本として1874年にルネサンス様式で建築が開始され1878年に完成した。

見学はガイドツアーになっており、正面に向かって左側の時間毎の列に並び、正面のアーチ扉から入館する。希望者には日本語による説明資料を貸与してくれる。正面の扉を入った所が「玄関ホール」で中央にはルートヴィヒ2世の尊敬するルイ14世の騎馬像が置かれている。「玄関ホール」から奥の「控えの間」を通り左右の廻り階段から2階に上ると、王が生活していたフロアになる。見学コースは、2階西南角部屋の「西のタペストリーの間」から時計回りに一周し、玄関ホール上の「鏡の間」で終了となる。
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城館内は写真撮影禁止のため、建物の外観を見ながら簡単に室内の様子を紹介する。西南角部屋の「西のタペストリーの間」には、フランソワ・ブーシェやアントワーヌ・ヴァトーが描くフランス田園風景の愛の場面をイメージした絵画で覆われていた。磁器製の孔雀の置物や金細工で覆われた豪華なピアノなども置かれている。
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隣の「黄色のキャビネット(小部屋)」を通り「謁見の間」と名付けられた部屋に向かう。ちょうど西側中央のやや膨らんだ場所になる。この部屋は、王が既に隠遁生活を過ごしていたため訪問者はなく書斎として使用されたという。王が座る金メッキのブロンズ机と椅子の背後には、巨大な天蓋で覆われている。また、ロシア皇后(マリア・アレクサンドロヴナ)から贈られた高価な孔雀石で作られた対の緑の色丸テーブルなどもある。
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次に北西角の「紫色のキャビネット(小部屋)」を過ぎると、北側中央には100平米ほどの広さの「王の寝室」がある。王のベットには、巨大な青色の天蓋が付き、天井には108本のロウソクを持つシャンデリアが吊るされ、周りには大理石の彫刻や化粧漆喰、古代ギリシャ・ローマ神話に関する壁画で覆われている
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次に「王の寝室」から北東角の「ピンク色のキャビネット(小部屋)」を過ぎると、東の「食堂の間」が現れる。ちょうど正面のやや膨らんだ場所がそうだ。部屋の中央天井には、豪華なマイセンの特注シャンデリアが吊るされ、その下に置かれたテーブルは当時最先端の技術を駆使し階下のキッチンとの間を上げ下げできる仕掛け(奈落)となっている。なお、ツアー終了後に外から1階部分の小窓を覗くとその仕掛けを見ることができた。
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隣の「青色のキャビネット(小部屋)」を過ぎると、東南角部屋の「東のタペストリーの間」になる。こちらは古代神話をモチーフとした絵画が描かれている。なお、メインの部屋を繋ぐ4つのキャビネット(小部屋)には、王が敬愛する人物や尊敬する人物の肖像画が飾られていた。最後に「玄関ホール」上の金細工と巨大な鏡で覆われ絢爛豪華なロカイユ装飾が施された「鏡の間」を見学して約30分の見学は終了する。正直、この城館内の膨大な装飾群を見学するには短すぎる時間であった。

見学後、城館の北側に行ってみると、階段状に連なった小さな滝(カスケード)があり、最下段には、ネプチューンの噴水がある。水は馬の口や鼻から勢いよく噴き出している。
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次は「ヴィーナスの洞窟」を見に行く。北側から城館に沿って東側に回り込み、城館を背に庭園を進み階段を上った先を左側に行くと、丘を上るように続く「緑のトンネル」が現れる。
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その「緑のトンネル」を上って行き、途中から右側に続く砂利道を上ると洞窟が現れた。観光客が少ないので、見学が始まったばかりのようだ。洞窟のそばには16時と表示された電光掲示板があるので15分ほど待たねばならない。辺りには見物すべきものもないし、混雑して遅れを取るのもいやなので待つことにした。そのうち続々と観光客が集まってきたため、入口のそばで並んで待った。
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50人ほどはいるだろうか。定刻となりスタッフは、入口のロープを外し洞窟内に誘導し始めた。入場すると、しばらくして広い空間となり池が現れた。池の後方にはフレスコ画が描かれた壁面も見える。そして右上には赤い光に照らされ小さな滝が流れている。

この洞窟内の照明は200メートルほど離れた発電所から電気を供給しており、更に暖房設備も完備されている。洞窟は、リヒャルト・ワーグナーが作曲したオペラ「タンホイザー」の世界を再現するため、当時の最新技術を駆使して造られた人工洞窟である。ルートヴィヒ2世は洞窟内で夜な夜な夢の世界に浸っていたという。
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エメラルドグリーンに輝く人工池の中央には、キューピットとバラをあしらった貝の形の小舟が浮かんでいる。ルキノ・ヴィスコンティ監督の映画「ルートヴィヒ(Ludwig)(1972年)」では、ルートヴィヒ2世(主演:ヘルムート・バーガー)が、ハンガリーの俳優ヨーゼフ・カインツを招待して出会うシーンでこの洞窟が使われた。従僕がカインツを洞窟内に案内すると、王は、この貝の小舟に乗って登場し右側の岸辺に降り立つ。そして、王は自ら招いたにも関わらず、頭を垂れるカインツには何も語りかけず、池にいる白鳥に緩慢な動作で餌をやり始めるといった異様なシーンであった。
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本映画では、この後「食堂の間」のシーンに変わり、カインツが王を前にウイリアム・テルの一節を披露する。この際、中央のテーブルが階下のキッチンに下がって行く様子(奈落)が映し出される。

さて、見学中の洞窟内では、大音量で流されるタンホイザーの序曲をバックに、スタッフがドイツ語と英語で解説をしてくれる。そして鍾乳洞内の照明を赤い照明から青い照明へと変化させる演出もあった。鍾乳石には様々な色の照明が当てられ光り輝き不思議な空間を演出しており、こちらの空洞には緑色と赤色の照明を当てており、奥には光が反射する様に鏡が置かれている。
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鍾乳石も石膏にガラス片を埋め込むなど人工的に造られたものらしい。ガイドからの説明は20分程で終わりツアーは終了した。
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次に「音楽の東屋」に行ってみる。
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この東屋は城館の北側から眺めたカスケードの最上段にあたる。ここからだと、城館から南側に続くひな壇の上に立つヴィーナス神殿まで美しく配置された姿を見ることができる。また、背後にはアルプスの峰々まで見渡せて何とも爽快な気分になる。
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次に、東屋から続く緑のトンネルを一気に降りて、城館の東側から、
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階段を降り、黄金の女神の噴水像の横を通って、階段を上って噴水の上のひな壇の下まで向かう。

ひな壇の下から城館と音楽の東屋を眺めてみる。
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更に、3連アーチの中央にある、フランス王妃マリー・アントワネットの胸像に挨拶をし、両脇にある階段の左側から上り、最上階のギリシャ風の円堂内に飾られた2体の天使像を据えたヴィーナス像まで上る。
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最上階から城館を眺めてみる。園内には、他にもムーア人のキオスク、モロッコ風ハウス、フンディングヒュッテなどの建造物が点在するが、午後5時になったので、この眺めを最後に出発することにした。
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噴水池まで下りてくるとタイミング良く黄金の女神像のある噴水が高く噴き上げ始めた。この噴水は最高30メートルまで噴き上げるそうだ。
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ドイツ映画「ルートヴィヒ(2012年)」で、黄金の馬車で青い照明に浮かび上がる夜のリンダーホーフ城に到着したルートヴィヒ2世(出演:ゼバスチャン・シッパー)は、吹き上げる噴水を見上げるやいなや「天まで噴き上げるように、でないと天上の神まで届かない」と叫んでいた。。

再び来た道を戻り、23号線沿いのオーバーアマガウ(Oberammergau)に寄る。前方に見える教会は、1735年から1749年にかけてバロック様式で建てられた聖ペテロ・パウロ教会(St. Peter und Paul)である。
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オーバーアマガウは、バイエルン州ガルミッシュ=パルテンキルヒェン郡にある人口5000人ほどの村だが、10年に一度、開催される「キリスト受難劇(Die Passion in Oberammergau)」で世界的に知られている。ペストの流行から逃れられたことを感謝して1634年に初上映され、伝統を守り続けて開催されているが、何と言っても驚くのが、オーケストラや聖歌隊も含めて、全て村人によって演じられている点だ。劇にかかる人数は2000人以上の規模に上ることから村人の半数ほどが参加して、5月から9月の間に野外劇場で100回以上上演されている。次の上演は2020年の予定とのこと。

中心部のドルフ広場(Dorfplatz)にある小さな噴水にも受難劇がモチーフとなったオブジェが飾られている。広場の周りには、木彫り職人の街らしく木彫り人形店などが並んでいる。
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向かい側の建物には、美しいフレスコ画が描かれている。ドイツの小説家で劇作家、ルートヴィヒ・トーマ (Ludwig Thoma)の名前が見える。街には、このようにあちらこちらにフレスコ画の書かれた建物があり、ゆっくり街歩きするのが楽しいが、残念ながら時間がないので次に向かう。
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オーバーアマガウから30分ほどで、ヴィース巡礼教会(Wieskirche)が見えてきた。
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ヴィース巡礼教会は、シュタインガーデン(バイエルン州オーバーバイエルン行政管区ヴァイルハイム=ショーンガウ郡に属する3千人に満たない町村)から5.5キロメートル東南に位置する長閑な村の牧草地に建っている。外観は全く普通(むしろ質素)な巡礼教会だが、バイエルン・ロココ建築教会の最高傑作として世界で最も有名な一つで、1983年ユネスコ世界遺産に登録されている。
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現在時刻は午後6時を過ぎたところ。入口近くのショップも閉店時間が近いせいか閑散としており観光客も少なく感じられる。扉口から教会に入ると、夕方とは思えないほど光溢れる世界が目の前に広がった。天井を支える白い8組の吹き寄せ角柱や楕円状の身廊の形も光を取り入れやすくしているのだろう。教会は1746年から当時ロココ建築の第一人者と言われたドミニクス・ツィンマーマンにより建設が開始され1757年に完成した。
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ロココ調に溢れ壮大な天界を描いた天井画は、彼の兄ヨハン・バプティスス・ツィンマーマンの手によるもので、「天から降ってきた宝石」と讃えられている。幅18メートル長さ28メートルの平面天井に丸天井風に描かれており、確かに天から宝石(光)が注がれているように見える。
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虹の上に座るのがキリストで左下で十字架の笏杖を持つのが大天使ミカエル。

教会が建てられるきっかけとなったのは、1738年ある農家の夫人が修道士が彫ったキリストの木像をもらい受けたところ涙を流したことによる。この話は、その後「ヴィースの涙の奇跡」として広まり、多くの巡礼者が農家に集まるようになったという。これを踏まえ修道士の所属するシュタインガーデン修道院は、浄財を募り建設資金を捻出し建設にこぎつけた。

そして主祭壇には、その涙を流したとされる「鞭打たれるキリスト」像が奉られている。主祭壇の左右の赤い柱はキリストの血を表しており、一見大理石に見えるが化粧しっくい(スタッコ)に赤い色を混ぜて作られたものらしい。
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支柱に架けられたアーチから上は、白と金を中心としたロカイユ装飾で埋め尽くされ天井との境目を越えて浸食しあっているようだ。柱間には逆アーチを取り入れて、その上に不思議な空間を生み出してる。主祭壇からは、その空間を通して左右の周歩廊にあるフレスコ画を覗き見ることができる。
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説教壇も赤い大理石風の漆喰に金細工が施されている。そして、扉口上部のバルコニーには、スタッコ装飾が雪のように被ったパイプオルガンが美しい姿を見せている。
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時刻はまもなく午後7時になるので教会の見学時間もそろそろ終わりだろう。教会の南側に行ってみると、鮮やかな緑色の牧草地が広がっている。これで今日の予定はほぼ終了だ。何とか無事こなせてほっとした。
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シュタイン・ガーデンまで戻り、17号線を走行し途中の三叉路を左手に伸びるコロマン通り(Colomanstraße)を南下すると、右手にカトリック教会聖コロマン教会(St. Coloman)が見えてくる。そして、左前方にはホーエン・シュヴァンガウの山々の麓に聳え立つ白亜の城が現れ始めた。
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ノイシュヴァンシュタイン城である!写真などで見慣れているが、実際に目の前に現れると、ため息が出るほど美しい姿だ。しばらく見入ってしまう。
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今夜予約のホテル・シュロス・ブリック(Hotel Garni Schlossblick)で無事チェックインを済まし、後は食事をどうするかである。ホテルの周りは駐車場と、ノイシュヴァンシュタイン城やホーエンシュヴァンガウ城見学のためのチケットセンターや土産屋などが点在するだけで、ホテル併設のレストラン位しかないようだ。チケットセンター近くまで見に行くが、この時間は人通りも少なく、ホテルのレストランも何処にあるのかわからない。

検討した結果4キロメートルほど離れたフュッセン(Füssen)の街に向かう。お洒落なお店も多く綺麗な歩行者通り(ライヒェン通り)を南に歩いて行くと右側にテラス席が見える。奥に時計塔も見えるのであの辺りが中心になるのだろう。すっかり空腹状態だが、あまりドイツ料理を食べたくなかったこともあり、奥まで行かずに中華で手を打つことにした。
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食後、チケットセンター近くで、ライトアップされたホーエンシュヴァンガウ城を眺める。ルートヴィヒ2世の父マクシミリアン2世により、1832年、古城を改築して建てられた。この地は、シュヴァンガウ(白鳥の里の意)と呼ばれたことから、リヒャルト・ワーグナーのオペラ「ローエングリン」の白鳥伝説のゆかりの地とされた。ルートヴィヒ2世は3歳下の弟オットーと共に幼少期この城で過ごしたが、城内には「ローエングリン」や騎士伝説を題材にした壁画が多かったことから、この城での生活がその後の王の人生に大きな影響を与えたと言われている。
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翌朝、ホテル・シュロス・ブリックのレストランで朝食を食べ、隣にあったベランダからノイシュヴァンシュタイン城を眺める。
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ノイシュヴァンシュタイン城の当日券の購入は大混雑するらしいので、予め9時20分のチケットをネットで予約していたが、それでも本券との交換は1時間前に到着しておくのが安心と聞き、急ぎホテルを8時過ぎに出てチケットセンターに向かう。
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ホテル正面の道路向かいは、駐車場(第二)だが、まだこの時間は余裕で停められるようだ。なお、近辺には、第一から第四まで駐車場がある。

ホテルを出て右手(南側)に向かい、すぐ先の交差点を越えて、坂道を上った右手にチケットセンターはある。こちらで当日購入客を尻目に、予約対応の窓口で無事に本チケットへの交換を済まし、道路向かいのバス停留所からバスに乗り(片道1.8ユーロ(一人当たり))曲がりくねった急勾配の坂道を上って行く。5分ほどで到着するが、ここから15分は歩きである。ベスト・ビューポイントの一つとして知られるマリエン橋方面への道が現れるが、現在工事中で通行止め。。

バスを降りて少し歩くと、左側に景観が広がり、皆写真撮影を始める。左側にはホーエンシュヴァンガウ城(今回は時間の関係から訪問は断念。)とアルプが見える。お城の真下の道路沿いのグレーの屋根がチケットセンターで、一番右端の建物がホテル・シュロス・ブリックだ。
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前方にノイシュヴァンシュタイン城の姿が見える。この位置からすると、西から東に向けて歩いて行くようだ。
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鳥瞰図(城の南側からの写真)だとわかりやすい。城の西側からノイシュヴァンシュタイン城で一番高い「北の塔(68メートル)」のある本館の北側沿いを歩き、「東の塔(45メートル)」の真下を過ぎ、上り坂を東側に回り込むと、上部にバイエルン王(ヴィッテルスバッハ家)の紋章が掲げられた煉瓦色の巨大な城門が現れる
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画像出典:ウィキメディア・コモンズ (Wikimedia Commons)

城門の先は中庭になっている。正面の壁面の上にも中庭があり、左側にある階段から上ることができる。城館内の見学は、その階段手前で予約時間毎に順番を待つ(階段上からの様子)こととなる。この日はNo.416・9時20分発のツアーで電光掲示板を良く見ておく必要がある。遅れたら入れない!
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ガイドツアーは、右側の「東の塔」の下から螺旋階段を上り隣の建物に続く回廊へ向かう。
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2階の回廊を奥に見える本館まで進んだ所にある「控えの間」からツアーはスタートする。ここで日本語オーディオガイドを借り、「控えの間」から「召使いの部屋」を過ぎて本館の西方向へと進んで行く。そして、「北の塔」の螺旋階段で4階に上ると「玉座の間」がある。部屋には台座と黄金色の後陣(アプス)があり、キリストを中心に、聖母マリア、洗礼者ヨハネが描かれ、その下には、椰子の木の間にドイツ王ハインリヒ2世、フランス王ルイ9世など6人の王が描かれている。広間の床には巨大なモザイク画が描かれ、壁面には「聖ゲオルギオスとドラゴン」や「十二使徒」などが描かれている。

他にも「食堂」や、「更衣室」、「王の寝室」など王の居室がある。各部屋とも、過剰なほどに装飾されており、壁面には、ニーベルンゲンの指輪やトリスタンとイゾルデなどリヒャルト・ヴァーグナーのオペラの題材とした絵画が描かれている。
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本館正面の上部壁面に描かれた「聖ゲオルギオスとドラゴン」と「聖母子とミカエルとガブリエル」との間にあるバルコニー付3連アーチの窓がある5階には豪華絢爛な「歌人の広間(大ホール)」がある。手前の窓際がオーケストラ演奏用のステージで、広間の奥(西側)に舞台がある。舞台の背景や、広間の壁面には、リヒャルト・ワーグナーが、ルートヴィヒ2世のために書いたオペラ「パルジファル」を題材とした絵画が描かれている。
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本館に向かう階段は、映画「ルートヴィヒ(Ludwig)(1972年)」の撮影で使われた。身なりも構わず僅かな従僕を相手にノイシュヴァンシュタイン城に暮らしていたルートヴィヒ2世の所に、唯一心を開いていた従姉のオーストリア皇后エリザベート(出演:ロミー・シュナイダー)がフェレンシー夫人を伴い立ち寄るが、王は「私は彼女には会わぬ。決して会わぬ。病気だと言え!」と従僕に鳴き声で伝え会おうとはしなかった。エリザベートは、従僕によってこの階段の途中で静止される。馬車で立ち去るエリザベートの横顔に王の「エリザベート!」と叫ぶ声がかぶさる。。といったシーン。
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ガイドツアーは本館の4階と5階を中心に約45分ほど行われた。未完成な箇所もあるため、なんとなくハリボテ感もあったが、とは言え王の中世騎士伝説への願望を現実化した桃源郷ともいえる建造物であった。見学を終え土産ショップを過ぎ洞窟の様な通路を通ると直接北側の場外に出てしまった。再び、城内の「上の中庭」を少し見学してから、帰りは歩いて降りることにした。「東の塔」から右(北側)に下る道があり、その先で振り返るとノイシュヴァンシュタイン城の威風堂々とした姿を仰ぎ見ることができた。
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山道を降りていくと、馬車乗り場があったが、歩いて下ることにした。途中振り返ると「北の塔」の威容を見ることができた。

ルートヴィヒ2世は、1870年、普仏戦争で弟オットー1世が精神に異常をきたした後は現実逃避も顕著となり、昼夜も逆転した生活を送るようになったという。危惧を感じた家臣たちは、1886年6月12日、ノイシュヴァンシュタイン城で王を逮捕して廃位した。王はベルク城に送られ、翌日シュタルンベルク湖で、医師のフォン・グッデンと共に水死体となって発見された。41歳の生涯であった。

王の訃報を受けた皇后エリザベートは「彼は決して精神病ではありません。ただ夢を見ていただけでした。」と述べたという。。

ルートヴィヒ2世は、生前、自分の世界だけに留めたい想いからか「私が死んだらノイシュヴァンシュタイン城を破壊せよ!」と遺言したが、摂政ルイトポルト・フォン・バイエルン(後のルートヴィヒ3世)はこの遺言に従わず、一般大衆に城を開放した。現在では、ノイシュヴァンシュタイン城を始め、ルートヴィヒ2世の残した城はドイツの一大観光地となり世界中から多くの観光客が訪れる歴史的遺産となった。
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山道からは、シュヴァンガウ(Schwangau)の町並みとフォルゲン湖が見える。フォルゲン湖は毎年10月中旬に排水され、春の雪解け水を集水して洪水の防止を目的とする人工湖だそうだ。
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シュヴァンガウを出発すると、反対車線は、駐車場に向かう車で4キロメートル先のフュッセンの街を過ぎたところまで、大渋滞が続いていた。。
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ドイツ・バイエルン(その3)

2016-07-24 | ドイツ(バイエルン)
ロマンティック街道を通り、ディンケルスビュール(Dinkelsbühl)に到着した。ディンケルスビュールは、ローテンブルクから直線距離で約40キロメートル南にあり、バイエルン州ミッテルフランケン行政管区アンスバッハ郡に属する都市である。歴史的にも、三十年戦争、第一次世界大戦、第二次世界大戦などの度重なる戦争でも殆ど戦火を浴びなかったため14世紀から15世紀に形成された中世の街並みが建築当時の姿のまま残った街として知られている。

奥に見えるイスラム風の塔は街を取り囲む市壁の西門にあたるゼークリンガー門(Segringer Tor)で、先ほどこの門からディンケルスビュールの旧市街に入った来たところ。右側に見えるサーモンピンクの建物が今夜のホテル「クンスト・シュトゥーベン(Dinkelsbühler Kunst-Stuben)」である。
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ホテルでチェックインを済まし、ゼークリンガー門から伸びるゼークリンガー通りを東方向に歩いて行く。この通りは、旧市街の東西を貫くメイン通りで普段は車両も走行するが、今日はディンケルスビュール最大の子供祭り「キンダーツェヒェ(子供たちのもてなしの意)」の開催日でもあり制限されているのだ。

キンダーツェヒェは、三十年戦争の際、町を占領し破壊しようとしたスウェーデンの軍隊長に対して、町を救うように懇願し破壊と略奪から救った勇気ある子供たちに感謝して毎年7月中旬10日間にわたり開催されている。期間中はパレード、郷土舞踊、歴史劇などが行われ、大人から子供たちへの感謝のしるしとしてお菓子等が配られる。

そのキンダーツェヒェは本日が最終日で、午後2時から人気のパレード(Historical Festival Parade)が行われるため、多くの見物客はメイン会場の広場に集まっているはずだ。現在、時刻は既に午後1時半。実は道を間違って北門に行ってしまったためホテルへの到着が遅くなってしまった。急ぎ、会場のある旧市街の中心部に向かう。しばらくすると、聖ゲオルク教会(Münster Sankt Georg)が見えてきたのでそろそろ到着であろう。
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途中、交差点左側に立つ市役所を過ぎ180メートル程で聖ゲオルク教会のあるマルクト広場前に到着した。周りには、ロープが張られ予想通り多くの見物者で溢れかえっている。広場前を左折(北)すると、左先のやや引っ込んだところにある黄色いシュランネ((Schranne)昔の穀物倉庫で現在は市民ホール。)前の旧市庁舎広場がメイン会場のようだ。向かい側には有料観覧席が設置されている。ちなみに左手前の木組みの建物は、
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15世紀建築のディンケルスビュールを代表する観光名所で、歴史的建造物のホテル・ドイチェス・ハウス(Deutsches Haus)である。
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旧市庁舎広場の少し先でパレードを見学することにし、向かい側の特設売店でビールとソーセージを購入して日陰のベンチで食べて準備を整える。今日は日差しも強く日向での見学は結構辛そうだ。

パレードのコースは、聖ゲオルク教会の東側にあるヴェルニッツ門(Wörnitztor)から旧市街に入場し、南側を600メートルほど周回し、聖ゲオルク教会の立つマルクト広場前から旧市庁舎広場を通って北側を周回して、市役所からゼークリンガー通り(先ほど歩いて来たホテルから伸びる通り)を通って再び旧市庁舎広場まで戻ってくる約2キロメートルほどの距離だ。

しばらくすると、軽快な音楽とともにパレードが現れた。最初は民族衣装を身に着けた大人たちの行進から始まった。
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両腕を抱えられた血まみれ役の大人や、大砲に乗せられ歩けない役の大人などが登場するが、その後、太鼓の演奏と共に子供たちが登場すると見物客からは大きな歓声が上がる。
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続けて、民族衣裳に扮した子供たちが続々と行進する。
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色とりどりのドレスに身を包んだ少女たちの行進が続く。
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午後3時を過ぎたころ、辺りのロープが解かれたので、聖ゲオルク教会のあるマルクト広場まで戻って、ゼークリンガー通り沿いで子供たちを迎えることとし移動を開始した。旧市庁舎広場では、地元のTV局も取材に訪れている。ゼークリンガー通りに到着すると、こちらでも別のTV局が民族衣装姿の大人に取材をしている。
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振り向くと子供たちがゼークリンガー通りを続々と戻ってくる。パレードも終着地点が近づくと緊張感が和らぐのか笑顔の子供が多くなる。カメラマンはしゃがみ込んで子供たちを撮影し始めた。
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パレードを終えた子供たちは、旧市庁舎広場に集合して解散となる。
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パレードが終わると、歩行制限も解除になり、旧市庁舎広場に設置されていた有料観覧席からも人がいなくなった。次のイベント開始までに聖ゲオルク教会に行ってみる。所々に馬の落し物があるので気をつけて歩く。
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聖ゲオルク教会は教会建築の名人ニコラウス・エーゼラー(Nicolaus Eseler)とその子の設計により1448年~1499年に建てられた。身廊と側廊が同じ高さのハレンキルヘ(Hallenkirche)(広間式教会堂)と呼ばれる様式で建てられており、側廊の窓が大きくなることから外から多くの光を取り入れることができる。キリスト磔刑のある主祭壇はネオゴシックで1490年頃のバンベルクの工房の製作と言われている。手前には、ゴシック様式で細かく装飾された洗礼盤がある。
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次の旧市庁舎広場でのイベントは「剣の舞(Sword Dancing)」で午後4時半から始まった。まだ高校生位の若者だと思うが、髭を蓄え、がたいが良いので、大人のようだ。行進ダンスなどが20分ほど続く。日差しが強いので汗だくになり演じている若者が少し気の毒になり、もう少し短めにすれば良いと感じた。単調に繰り返される音楽(オスティナート)も合わさり見学もやや辛くなった。
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いよいよフィナーレのようだ。ドラムロールに合わせて交差した剣の上に2名の若者が持ち上げられ、チャンバラを行うといった趣向であった。
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通りを北側に行った右側のシュピタール救護院施設(Spitalhof)と聖霊教会(Heilig-Geist-Kirche)との間を東側に行くと広場になっている。ベンチで休憩していると、剣の舞の出演者が続々と現れ、聖霊教会の階段でお疲れ様会が始まった。若者の盛り上がる姿は爽やかで清々しい。お年寄りやベビーカー持参の観光客も様子を見に集まってきたので、ベンチを譲って立ち去った。
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通りから100メートル程でローテンブルガー門(Rothenburger Tor)(北門)になる。先ほど間違って北門に到着したので、この先には行かず、西側に向かって歩いてみる。
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住宅の立ち並ぶ路地を西に歩いていくと、200メートル程で市壁が現れた。やや高台になっており、石段を上ると聖ゲオルク教会のある市内中心部を眺めることができる。
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壁に沿って南方面に歩くと市壁沿いには、中世時代の多くの塔が残されている。前方に見えるのは「グリューナー塔(Grüner Turm)」と呼ばれている。
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次に現れたのは、「ドライケーニヒス塔(Dreikönigsturm)」呼ばれ、その先に、ホテルそばのゼークリンガー門(西門)が見えてきた。
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さて、現在時刻は午後6時半である。パレードの合間にビールを飲みながらつまみ食いをしていたので、あまりお腹は減っていない。しかし、午後8時半からの閉会式を見るつもりなので、終わってからだと、かなり遅くなるし、レストランが開いているかわからない。ホテル隣のレストラン・アマルフィ(Ristorante Amalfi)は、イタリアンなので今からでも食べられそうだ。店内は賑わっていたが、席があるか聞いてみると、店内なら今すぐ用意できると言われたので食事をすることにした。
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メニューを見ると魚介系がある。最初に野菜サラダ温野菜をいただき、メインに、魚介の盛り合わせ(24.1ユーロ)を頼み、
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リゾット(11.2ユーロ)を頼んだ。思った以上に新鮮で美味しかったので驚いた。フランケン地方でまさか魚介料理を頂けるとは思わなかった。こういう食事だと、さらさらと胃袋に入って行くし胃もたれもしない。
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午後8時を過ぎたので急ぎ閉会式(Closing Ceremony)に向かう。メイン会場の旧市庁舎広場前のシュランネの裏から会場に向かうが、スタッフからチケットを持っているか聞かれた。そもそも旧市街に入る際に、一人あたり5ユーロを支払う必要があるのだが、宿泊ホテルが旧市街内であったため、何となく入ってしまったのだ。

この場で支払い、人をかき分け覗き込もうとするがあまりの人だかりで全く見えない。そうこうしているうちに、数人の子供たちがロープ前に行っているのを見て、飲んだ勢いもあり、大胆にも子供たちについて最前列にしゃがみ込んで見学した。少女たちの踊りで閉会式は始まった。
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多くの見物者に囲まれて、次から次へ、少女たちが踊る、踊る。
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その後、子供吹奏楽団の演奏が披露され、旗振り役が登場し、観客の喝采を浴びる。
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再び、剣の舞が、夕方の演目と同様で披露され、主催者の長い挨拶をもって終了した。午後10時を過ぎていた。
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ホテルに着いたのは午後10時半だった。レストラン・アマルフィはそろそろ閉店のようだが、テラス席の客は、かなり出来上がっているようで騒動しかった。昼寝もせず今日は良く頑張った。。

***********************************

翌朝。窓を開けると、綺麗に片付いたレストラン・アマルフィのテラス席が見える。ホテルの朝食は8時からだが、まだ40分ほど時間があるので散歩することにした。賑やかだった昨夜の聖ゲオルク教会付近は閑散としている。
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聖ゲオルク教会に沿って東に歩くと、ヴェルニッツ門(Wörnitztor)(東門)が見えてきた。
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くぐって外からヴェルニッツ門を眺めて見ると、塔は朝日を浴びて鮮やかに輝いている。塔には市の紋章と鷲の紋章が掲げられている。鷲の紋章は、帝国自由都市を現している。帝国自由都市とは、神聖ローマ帝国内の都市の形態で地方領主や司教の統制下でなく、皇帝直属の地位におかれ、一定範囲における自治を行使した都市のことで、フランクフルト・アム・マインやローテンブルクなどもそうである。
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門のそばには南北にかけてヴェルニッツ川が穏やかに流れている。市壁に建つ塔は、「ドライガンクス塔(Dreigangsturm)(三路塔)」と呼ばれている。
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すぐ先にヴェルニッツ川に架かる木橋があったので、渡って市璧内に戻る。橋の上から左側を見ると、先にも塔が見える。奥のやや角ばったキノコ状の塔は、「ヘンカース塔(Henkerstürmlein)(絞首塔)」と呼ばれ南門の直ぐそばに立つ。それにしても油絵を見ているかのような風景で穏やかな気持ちにさせてくれる。
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市璧をくぐって旧市街に戻ると、中心に泉のある小さな広場があり、直ぐに、南北に伸びるネルトリンガー通りに出た。通りを聖ゲオルク教会に向けて歩く。左側に見えるのは19世紀半に建てられたプロテスタントの聖パウロ教会(St .Paul Kirche)。
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歩き慣れたゼークリンガー通りを戻りホテルに到着。朝食を食べて、9時にホテルを出発した。先ほど歩いたネルトリンガー通りを下って行くと、ネルトリンガー門(Nördlinger Tor)(南門)が見えてきた。これでディンケルスビュールとはお別れである。
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さて、再びロマンティック街道を進み、次は南に約30キロメートル離れた「ネルトリンゲン(Nördlingen)(バイエルン州シュヴァーベン行政管区ドナウ=リース郡の都市)」に向かう。
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途中、ヴァラーシュタイン(Wallerstein)を通過する。これから向かうネルトリンゲンもそうだが、この辺りは1500万年前、隕石の衝突によって直径25キロメートルに渡り形成されたネルトリンガー・リース(Nördlinger Ries)と呼ばれる円状の盆地内にあたる。

市内南側の通り中央には、ヴァラーシュタインの代表的な建造物でオーベルンドルフの彫刻家ヨハン・ゲオルク・ブショーラー(Johann Georg Bschorer)の手による「ペスト柱(三位一体柱)(1722~25年)」がある。なお後ろに見える教会は、1613年建造の二身廊ホールの聖アルバン教区教会。
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ヴァラーシュタインから10分程で、ネルトリンゲンの外周道路インネラー・リング(Innerer Ring)に入り、旧市街への入口の一つ、レプジンガー門(北門、やや北東方向)に到着した。そこから歩いてネルトリンゲンの旧市街に入る。このレプジンガー門は市壁博物館としても使われている。入口には、旧市街の地図があり、足元には、豚のオブジェがある。
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15世紀の深夜、奇襲を仕掛けようと門の錠を開けた敵方に対して、豚が門から脱走したおかげで異変に気付き、市民が団結して敵を退けたというエピソードから守り神として愛されている。

さて北門から300メートルほど進み左折して、土産屋などお店が並ぶ賑やかな通りを更に進むと、目の前に聖ゲオルク教会の後陣が現れた。教会の手前には独仏戦争(1870年から1871年)を記念して1902年にゲオルク・ヴルバ(Georg Wrba)によってユーゲント・シュティール様式(世紀末美術)で建立された「戦争の泉」がある。教会の西側には、1427年から1505年に建造された高さ89.9メートルのダニエルと呼ばれるネルトリンゲンを代表する塔が聳えている。
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ダニエルの塔に上ろうと思い、聖ゲオルク教会に入った。聖ゲオルク教会は1451年にハレンキルヘ(広間式教会堂)様式で建てられており内部は非常に明るい。主祭壇はバロック様式で、1683年ヨハン・ミヒャエル・エーヒンガー(Johann Michael Ehinger)により制作され、内部の磔刑像は、1462年、オランダ人の彫刻家ニクラス・ゲルハルト・ヴァン・ライデン(Niclas Gerhaert van Leyden)の手による後期ゴシック様式の木像が納められている。ここにはネルトリンゲンの画家で、ローテンブルクの聖ヤコブ教会の祭壇画も手掛けたフリードリッヒ・ヘルリン作の扉絵があったが現在は市博物館に展示されている。
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振り返ると、2階に後期ルネッサンス様式の貴重なパイプオルガンがあるが、辺りには、塔に上るための入口は見当たらない。
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一旦教会から外に出て、西側に回り込んだ所に専用の入口があったがチケット売場はない。たぶん上にあるのだろう。
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入口から階段を上るとすぐに螺旋階段になり、売場は現れない。根気よく上り続けると、広めの踊り場が現れ、そこにはトイレと運搬用の滑車が設置されていた。売場はそのすぐ上にあり、そこで猫と一緒のおじさんに3ユーロ(一人)払い、短い階段を上るとようやく展望台に到着した。階段は全部で350段あるらしい。

展望台は、高さ150センチメートルほどの壁が塔の周りを覆っており1人だけが通れる狭い通路になっている。この展望台は中世の頃から陸の灯台とも言われ敵の襲来や火事などにいち早く合図を送る役割を担っており、現在も変わらず人が常駐して街の見張りを行っているとのこと。観光が前提の塔ではなく、おじさんは塔の番人なのだ。

眼下を見渡すと、赤い屋根で統一された建物が寄り添うように続いているのが印象的だ。それでは、まず南方向から眺めてみよう。街を取り囲む市壁には屋根が付いている。第二次世界大戦では駅や多くの住宅が空爆で破壊されたが、ネルトリンゲン旧市街の遺構はほとんど無傷で遺された。市壁、5つの楼門と11の塔、2つの堡塁は1327年に建築されたもので、ほぼ当時のまま残っているという。街を取り囲む市壁は全長3キロメートルで上部を歩いて一周できるが、今日は時間がないので、この場所からの観光だ。市壁の手前に見える大きな教会はカトリックの聖ザルヴァトール教会である。
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徐々に右に視線を移し南西側を眺める。中央に見える黄色い壁面に祭壇状のエディクラを付けた大きな建物は、1541年から1543年にかけて建てられたホール(Hallgebäude)で、かつて塩やワインの倉庫として使われていた。その前の通り外れにある門が一番大きなベルガー門である。
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ネルトリンゲンの街は、隕石の衝突によってできたネルトリンガー・リース(Nördlinger Ries)クレーターの中心から南西に約6キロメートルの場所にあたるが、ここから眺めると、山脈の手前から平原が続いておりクレーター内であることが良くわかる。

北西方向を眺める。真下がマルクト広場で、塔のある建物は14世紀の建築で16世紀に増築された市庁舎。その向かい側の建物が、1522年に建てられた市の計量所で、19世紀には質屋になり現在は観光案内所になっている。右上には、先ほど旧市街に入ったレプジンガー門が見える。
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視線を更に右(東方向)に移して行く。レプジンガー門に良く似たダイニンガー門も見える。鉄道駅はこの門を通った右側にある。
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手前に視線を移して真下を覗き込むと、聖ゲオルク教会の後陣と「戦争の泉」が見える。
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眺望を堪能し、塔内のトイレも利用して地上に戻ってきた。教会側からマルクト広場を眺める。正面の建物は、1442年から1444年に建設のブロート・タンツハウス(Brot und Tanzhaus)で、中世の頃は見本市の開催場所として利用されていた。建物の名前の由来は、1階がパン屋で、2階がダンスホールになっていることから名付けられている。

そして、右側の黄色い建物は、ホテル・ゾンネ(Kaiserhof Hotel Sonne)(太陽亭)と言い、1350年建設、1405年から領主館として用いられていた。1500年頃には皇帝フリードリヒ3世、マクシミリアン1世、1548年にカール4世、1788年にはヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテがゲストとして宿泊するなど歴史的な建造物である。
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マルクト広場を少し進んで、振り返って眺めてみよう。ダニエルの塔に向かって左側がホテル・ゾンネで、右側がブロート・タンツハウスである。11時を過ぎた。急ぎ次に向かう。
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ネルトリンゲンを出発し、25号線(ロマンティック街道)を進むと、ヴェルニッツ川沿いの高台にハールブルク(Harburg)城が見えてくる。11世紀から12世紀に建造された城郭の遺構で、難攻不落の城として知られる名城である。またヴァラーシュタイン家の城でもあった。現在、城内は博物館になっており中世騎士文化の一端に触れることができるそうだが時間がないので駐車場まで行ってパス。
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折しもドイツでは、この1週間にテロが多発していた。ビュルツブルクを走行中の近距離列車内での刺殺事件、ミュンヘンにあるショッピングセンターでの銃乱射事件。アンスバッハでの野外コンサートを狙った爆破事件など、全て、ここバイエルン州で起こった。。やや不安を感じつつもロマンティック街道を南に向かう。
(2016.7.24~25)
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ドイツ・バイエルン(その2)

2016-07-23 | ドイツ(バイエルン)
ローテンブルク・オプ・デア・タウバー(Rothenburg ob der Tauber)にある「ホテル・ラッペン (Hotel Rappen)」に到着した。ローテンブルクは、ロマンティック街道と古城街道とが交差する場所で、バイエルン州ミッテルフランケン行政管区アンスバッハ郡の都市である。木組み住宅など中世時代の良く保存された旧市街で知られており、日本人の観光客も多数訪れる。
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今夜宿泊するホテル・ラッペンは、3棟の建物に分かれている。フロントからは西隣りのレストラン(Gasthof)3階の部屋を利用するように言われた。外に出ると左側にクリーム色の建物があり、側面には馬の絵にHOTELと書かれた看板がある。入口はどう見てもレストランだが、入った奥のエレベーターから部屋に行けるとのこと。なお、ホテルの駐車場は、南側の広いスペースを利用する。
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部屋から外を眺めるとレストランのテラス席が見える。さて、荷物を置き身軽になって夕食に向かう。ちなみに、外から部屋を眺めるとこんな感じ。

ホテルを出て西に100メートルほど行くと旧市街入口への門がある。こちらは、ガルゲン門(やぐら門)(Gaigentor)と呼ばれている。
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今夜のレストランは、旧市街中心部から南に少し下った所にあるが、この旧市街を取り囲む市壁の上部を歩いて行く事も可能だ。やや遠回りになるが珍しい機会なのでこのルートで向かうことにする。ガルゲン門をくぐった内側右手にある階段を上って南方面に向かう。
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市壁の通路はかなり狭い。一方通行ではないので、時々お見合いになる。壁には、市壁の修復に寄付した人の名前が刻まれているが、これは、第二次世界大戦時に破壊された壁を再建するために寄付を募ったことによるもの。
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しばらくすると、次の塔が見えてきた。こちらはレーダー門と言い、駅からローテンブルクに到着した観光客が旧市街に向かう際にくぐる門である。そのレーダー門を過ぎると、市壁は、徐々に右にカーブして行き、再び塔が見え始めた。ガルゲン門から南門まで約750メートルの距離なので、感覚的にそろそろだろう。前方に階段が現れたので降りることにした。
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こちらの南門は、1385年頃に建てられた塔でジーバー塔と呼ばれている。塔の時計を見るとレストランの予約時間の20時半が近づいていたので、急ぎ通りを北に向かう。通りはなだらかな上り坂である。左からの通りが交差する辺りで振り返ると、ローテンブルクで最も美しい一画、プレーンライン(Plönlein)と呼ばれる場所になる。
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旧市街を歩くと、あちらこちらに泉がある。中世の頃、街の外から水を引き込んで、住民たちの貴重な水場としていたためである。その奥には、1390年~1410年に建造されたカトリック教会、聖ヨハニス(ヨハネ)教会(Katholische Pfarrkirche St. Johannis)が見える。
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聖ヨハニス教会の先を左折して中世犯罪博物館を過ぎ100メートルほどで、目的のレストラン、ツァ・ヘル(Zur Holl - Mittelalterliche Trinkstube)に到着した。人気店とのことで店内はかなり賑わっていたが、予約していたので問題なくテーブル席に案内された。
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レストランは中世から残る木組みの歴史のある建物で、店内にも太い木の柱や梁がむき出しになっている。注文は日本語メニューがあったので、困ることなくできた。食事は、日替わりスープ(5.5ユーロ)ベイクドポテト 小エビのサワークリーム添え(8.5ユーロ)豚肉のスペアリブ(13ユーロ)を頼み、飲み物は地ビール、ラントヴェア・ブロイ(Landwehrbrau)(3ユーロ)、フランケンゼクト(スパークリング)(6.5ユーロ)、ヴェルツブルグのユリウスシュピタール(Weingut Juliusspital)(赤ワイン)(5.9ユーロ)を頼んだ。

ところで、食事の感想は、スペアリブは焼き具合が良く美味しかったが、全体的に量も少なく味も普通と言ったところ。少し残念であった。
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再び、聖ヨハニス教会まで戻り、通りを北に向けて歩くとマルクト広場が現れた。左側の建物が歴史的な市庁舎で2つの異なる様式から構成されている。南側は1250年~1400年頃ゴシック様式で建てられた白い鐘楼が印象的な建物で60メートルの高さがある。前方のルネサンス様式の建物は1572年~1578年に建造された。そして右側の切妻屋根が特徴の建物は「市参事会員酒場(Ehem. Ratstrinkstube)」である。
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振り返って、市庁舎の南側には街最大の井戸、ゲオルクの泉(Georgsbrunnen)があり、その後には幾何学模様のように組み合わさった木組みの建物が見える。
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さて、マルクト広場の北側に建つ「市参事会員酒場」は、かつて市参事会員専用の酒場だったが、現在は観光案内所になっている。壁に取り付けられた時計は、マイスタートゥルンクの伝説にちなんだ仕掛け時計になっており、10時から22時まで毎時間実演される。そろそろ22時が近づき見学者が集まってきた。
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三十年戦争(1618年~1648年)最中の1631年10月、カトリック連盟(バイエルン軍)の総司令官で「甲冑をまとった修道士」と呼ばれた、ティリー将軍(ティリー伯ヨハン・セルクラエス)は、プロテスタント・ルター派のローテンブルクに軍隊の宿営を求めたが、街はこれを拒否し、籠城して守り抜こうとした。これを受け、ティリー将軍は、街に火を放ち掠奪すると脅した。

伝説によると、ティリー将軍は、ワインをふるまわれて気持ちが和らいだのか、市参事会員たちに「この大ジョッキのワインを一気に飲み干す者があれば、街を許そう」と発言し、それを受けて立ったローテンブルク市長ヌッシュが、3リットルものワインを一気に飲み干し街を救ったとされている。

時間となり、窓が開き、左側のティリー将軍と右側のヌッシュ市長が現れジョッキを手にした市長がワインを飲み干す。しかし距離があるうえ、窓も小さく、動きもスローなので、分かりにくいし、ちょっとしょぼい。。
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**********************************

翌朝、ホテルの1階で、朝食を食べて旧市街に向かう。まもなく9時である。ガルゲン門を抜け、旧市街に入り、通りを真っ直ぐ進むと、ヴァイサー塔が現れる。12世紀時代の最古の市壁に立つ塔で、現存する数少ない市壁防御設備だった。左右の建物が塔に食い込むように建っている。
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ヴァイサー塔をくぐると、目的の聖ヤコブ教会(Stadtkirche St. Jakob)の塔が見えてきた。この辺りは、市参事会員酒場の北側裏手に位置している。左側のクロックハウス(Uhrenhaus)の壁面には、鎧を身に着けた騎士像が見える。右側のホテル・ライヒスキュッヘンマイスターの看板には、マンガのような愛らしい人物がデザインされている。
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ローテンブルクには、お店やホテルなど精巧な細工が施された看板が取り付けられており、看板めぐりも楽しみの一つである。例えば、Doitsu-kan(ドイツ館)ホテル ティルマン リーメンシュナイダーDrogerie reingruber(化粧品店)などなかなか個性豊かである。これらの看板は中世の頃、文字が読めない人のために造られたのが始まりと言われている。

さて、ゴシック様式の大きなステンドグラスを持つ平面的な後陣が現れた。この聖ヤコブ教会は、1311年~1471年の間に建造された。塔の高さは、南塔(左側)が55.2メートル、北塔(右側)が57.7メートルとやや異なっている。後陣と南側の塔の間には祠があり、柵の中にはゲツセマネの祈り(オリーブ山の祈り)の石彫刻が飾られている。そして南側の塔を過ぎた南側廊に教会への入口がある。この教会内にティルマン・リーメンシュナイダー(Tilman Riemenschneider、1460年頃~1531年)の傑作「聖血の祭壇」がある。
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教会に入って右奥が内陣方向になる。最初に中央祭壇を見てみよう。この祭壇は「十二使徒祭壇」と呼ばれ、1466年ハイソリッヒ・トップラー市長により寄贈されたもので、巨匠シュヴァービンの手によるもの。
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中でも磔刑像は芸術的価値が高く、周りの4人の天使は、信仰と礼拝(右側)、不信と疑い(左側)のシンボルとして表現されているそうだ。そして、磔刑像の下には、左から、エリザベス、ヤコブ、マリア、福音記者ヨハネ、レオンハルト、隠者アントニウスの6人の聖人が表現されている。両翼の祭壇画はネルトリンゲンの画家フリードリッヒ・ヘルリン(Friedrich Herlin)作でマリアの生涯が描かれている。
左端のサクラメント壇は、14世紀頃の石彫刻で三位一体を表しており、かつて罪びとの恩赦場所として使われた。右端には救世の王としてのキリスト石像が飾られている。なお、祭壇名の由来になった十二使徒は、最下部にあたるプレデッラに描かれている。

三連窓のステンドグラスは17メートルの高さがあり、左側は1400年頃の作品で「マリアの生涯」が、中央は1350年頃の作品で「キリストの生涯と受難」が預言者の像に囲まれ、左側は1400年頃の作品で「キリストの秘蹟」における救済を表しているとのこと。
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中央祭壇に向かって左側廊の祭壇に木造の衝立がある。中央部には「マリアの戴冠」が、両翼にはアンナとマリア母子像が表現されているが、どうもリーメンシュナイダーとは違うようだ。プレデッラには、マリアの死が表現されている。左側の表示を見ると、リーメンシュナイダー学校と書かれている。やはり差は歴然としているのがわかる。
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入口扉には見学は9時からで2.5ユーロと書かれている。辺りを見回すと、日本人観光客のガイドが教会関係者に何やら尋ねていた。ガイドにリーメンシュナイダーの「聖血の祭壇」について聞いてみると、これからミサがあるため見学は10時からと言うことらしい。予定では、9時のオープンと同時に、「聖血の祭壇」を見学して、次にローテンブルクのもっとも古い地区と言われるデトヴァング(Detwang)にある、リーメンシュナイダー作の「聖十字架祭壇」を見学する予定であった。

と言うことで、見学順序を逆にすることとし、先にデトヴァングにある「聖ペテロ・パウロ教会(1170年頃に建てられたローテンブルクの母教会)」(St. Peter und Paul Detwang)に急ぎやってきた。ローテンブルクからは、1.5キロメートルほど北の高地に位置している。到着すると、こちらもミサの時間であったので、終わるのを待った。
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ミサが終わり教会内に入ると、「聖十字架祭壇((1505年~1508年)」が飾られた小さな祭壇がある。中央がキリストの磔刑像で、左翼が浮彫でゲッセマネの園、右翼がキリストの復活を表している。
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こちらの祭壇は、クレーグリンゲン(Creglingen)の「マリア昇天の祭壇)」とほぼ同時期、リーメンシュナイダーの最も充実していた時期に制作されたもので、彼と彼の工房による作品。キリストに向かって右側最前列の人物はリーメンシュナイダー本人をモデルにしたと言われている。

作品そのものは、巧みな木彫りで見事な出来栄えだが、中央部の磔刑像と左右の人物との配置が狭く、逆に左右の浮彫は上部に空白部分があるなど祭壇飾りとなるパネルと作品群とのサイズが合っていない。おそらくパネルは後年のもので、教会の祭壇スペースの事情によるものなのだろう。

祭壇は、間近から見ることができた上、外からの穏やかな光の影響もあり、滑らかな光沢のある質感を一層際立たせているようで、大変満足であった。
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天井には、福音書記者が描かれたフレスコ画がある。祭壇上部から時計回りで、ヨハネ(鷲)、マルコ(獅子)、ルカ(雄牛)、マタイ(天使)を表している。

さて、10時には、少し遅れたが、再び聖ヤコブ教会に戻ってきた。丁度ミサが終わり参拝者が出てきたところだった。
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結局、10時半になり、ようやくチケットを購入することができた。祭壇の場所は西側(西内陣)に向かって右側にある階段を上ったところらしい。階段を上ると目の前に祭壇画「聖血の祭壇(Heiligblut-Altar)」が現れた。しばらく他の見学者が来ないので気遣いすることなく見学できたのは幸運だった。この祭壇は、1499年~1505年にかけて市からの注文を受けてリーメンシュナイダーが制作し、エルハルド・ハルシュナー(Erhart Harschner)が祭壇に仕上げた。
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中央を飾るのは「最後の晩餐」である。最後の晩餐とは、キリストが処刑される前夜、12使徒と共に摂った夕食の席での出来事をいう。絵画ではレオナルド・ダ・ヴィンチによるものが有名であるが、こちらは、菩提樹を削って造られた作品で、テーブルを囲む12使徒を写実的に表現している。見た瞬間に大変な迫力を感じる。
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リーメンシュナイダーは、この最後の晩餐を制作するにあたって、本来中央にいるべきキリストを、やや左に座らせ、中央には、キリストの方向に身体を向け立ち上がった瞬間のユダを据えている。裏切り者のユダを中心に据えたのは、彼こそが一番に救われるべき対象であるとして表現したと言われている。
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もっと近くから見てみよう。キリストは、ユダの裏切りを予言しつつ、慈愛に満ちた表情でユダに一切れパンを与えようとしている。その胸元に顔を埋めるのは使徒ヨハネ。ユダは、裏切る代償として得た銀貨が入った袋を手にしている。12使徒の表情は崇高美と造形美に加え、この場の緊張感とざわめきもが伝わってくるようだ。テーブルの上には、カップやパンの置かれた皿まで丁寧に彫り込まれている。
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使徒の後方に窓を配置しているため、光の変化によって、それぞれの表情が微妙に異なるところも凄い。キリストに顔を背けている使徒はリーメンシュナイダー本人をモデルにしたと言われている。
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最後の晩餐の上部には巻き蔓の装飾があるが、滑らかな蔓のカーブや節の一つ一つまで再現されていることに驚かされる。そしてその上部にある十字架には水晶があり、ここに聖血(キリストの血)が納められていると言う。この祭壇が「聖血の祭壇」と呼ばれる所以である。
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両翼の浮彫を見てみよう。左翼の浮彫は、キリストのエルサレム入場で、右翼の浮彫は、ゲツセマネの祈り(オリーブ山の祈り)である。それにしても、両翼の浮彫は、人物も岩も建物もそのものの質感にしか見えず、とても同じ菩提樹を彫り刻んで作られている様には見えない。恐るべし、超絶技巧である。

祭壇飾りの最下部にあたるプレデッラには、両脇に天使を配した磔刑像があり、キリストが死に打ち勝ったことを表すために、根本にはアダムの墓を表す髑髏が置かれている。
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祭壇を後ろ側から見てみよう。祭壇飾りは、しっかりと、ワイヤー等で固定されている。

最後に、ローテンブルク・オプ・デア・タウバーの由来となった場所を見学して、次の目的地に向かうことにした。再びデトヴァング方面に向かい、タウバー川に沿って、ローテンブルクの西側に向かう。このあたりには、サイクリングで景観を楽しむ人たちも多く見受けられた。しばらくすると前方に街が見えてきた。
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14世紀に架けられた上下二層の二重橋(Doppelbrücke)を渡り右側に回り込むと二重橋を通してローテンブルクの街を眺めることができる。「ob der Tauber」とは、「タウバー川を望む」の意味であり、この景観こそが街の名前の由来である。

左側の二つの塔が、先ほどまでいた聖ヤコブ教会である。そして中央に見える白い鐘楼が市庁舎で、その右側に見える塔は、昨夜のレストラン、ツァ・ヘルのそばに建つ聖ヨハニス教会と中世犯罪博物館。街を取り囲むように市壁が続いているのも見える。

「聖血の祭壇」に納められた聖血は、十字軍遠征でもたらされたと言われている。この聖血は、中世の頃から多くのキリスト教徒を引き寄せ、ここローテンブルクは第一級の巡礼地であった。丘の上に現れた街並みを仰ぎ見た巡礼者たちは、道中無事の到着と巡礼を間近に控えた期待で感激もひとしおだったことだろう。
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次に南に19キロメートル離れたヴェトリンゲン(Wettringen)に向かう。ヴェトリンゲンは、ドイツ連邦共和国バイエルン州ミッテルフランケン行政管区アンスバッハ郡に属す町村で人口千人に満たない小さな町である。昨日の渋滞を思い出し、A7号線(アウトバーン)は利用せず、一般道を進むことにする。
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一般道は、順調に進み20分ほどでヴェトリンゲンの中心部、聖ペテロ・パウロ教会(St. Peter und Paul)が見えてきた。
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時刻はまもなく12時である。昼休みになり見学ができなくなるのではと多少不安になり、急ぎ教会に向かった。通りから階段を上り拝廊側にある扉を引くと無事に開き中に入ることができた。
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奥に見える祭壇に小ぶりの木製祭壇が見える。リーメンシュナイダーの弟子による作品と言われている。主題は、「十字架祭壇(Kruzifixus)(1515年)」である。
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祭壇中央部の彫刻部分は、リーメンシュナイダーの技を良く受け継ぎ細部まで丁寧に表現されている。両翼の浮彫の人物描写は、ややずんぐりした表現になっておりほほえましいが丁寧に表現されている。それにしても、教会内には誰もいないが、管理上問題はないのだろうか。
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さて、次はディンケルスビュール(Dinkelsbühl)に向かう。
(2016.7.23~24)
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ドイツ・バイエルン(その1)

2016-07-22 | ドイツ(バイエルン)
ここは、ヘスバッハ(Hösbach)最南部の丘陵地にある「ランドホテル・クリンガーホフ (Landhotel Klingerhof)」。今夜はこちらに宿泊することにしている。ヘスバッハは、バイエルン州ウンターフランケン行政管区アシャッフェンブルク(Aschaffenburg)郡に属す市場町で、アシャッフェンブルク中心部からは、東南方向に約7キロメートル、フランクフルト・マイン国際空港(FRA)からは、A3号線(アウトバーン)経由で東南方向に約50キロメートルの距離にある。
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ホテル前面にある駐車場から東側を眺めると、隣接するアシャッフェンブルク郡ベッセンバッハ(Bessenbach)の町・村や、遠くシュペッサルト山脈を望むことができる。
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夕食は評判も良さそうなので、ホテル併設のレストランで食べることにしたが、店内はかなり混雑していた。満席の店内を通りテラス席に座って周りを見渡すと20名ほどが座っているが、ほとんどのテーブルには料理が出ていない。会話も少なくやたら静かである。。客が多くてお店のキャパを越えているのだろう。とは言え、ホテル周りは牧草地が広がっているだけで、他のお店への選択肢もないため、待つしかないといった状況のようだ。

見知らぬ土地(田舎)で夜8時を過ぎて別のレストランに向かうのは無謀だが、先ほど行った、森に囲まれた池のそばに立つ美しいメスペルブルン城(Schloss Mespelbrunn)の近くの街道にレストランが何件かあったことを思い出し、見切りをつけて出かけることにした。距離にして12キロメートル、20分後にはレストラン(Woischaian)に到着した。
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扉を開け中に入ると、店内は山小屋風のデザインである。周りには灯りがついているが誰もいない。食事ができるのか多少不安になった。
メスペルブルン城のそばにあったお洒落なシュロスホテル(Schloßhotel Mespelbrunn)のことを事前に知っていれば、そちらに泊まり食事もできたが、いまさら言ってもしょうがない。
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階段を上るとテーブル席があり、しばらくすると、マダムらしき女性が現れたので、食事はできるか聞いたところ、大丈夫だという。とりあえずホッとしてシュールな雰囲気の暖炉がある窓際のテーブル席に座った。メニューを見ると郷土料理が中心のようだ。まずはサラダの盛り合わせから。
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続いて、Gebratener Schafs(7.9ユーロ)。チーズをメインにした野菜、茸などの煮込み料理。
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そして、Pfefferspießbrate(12.8ユーロ)。フランケン風ザウアーブラーテンとジャガイモ団子を添えたもの。ジャガイモのムチムチ食感が美味しい。
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最初、マダムが、テーブル横でビールをひっくり返すといったハプニングもあったが、料理は美味しく大変満足であった。その後、ホテルに戻った際、レストランから出てきた2人組と鉢合わせたが、機嫌が悪そうだった。あのまま待っていたらどうなっていたのだろうか。。

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翌朝、ホテルで朝食をいただき、早々に出発した。最初に、アッシャフェンブルクから南西に8キロメートル離れたグロースオストハイム(Großostheim)を目指し、9時半にマルクト広場に到着した。広場の南側には、16世紀から18世紀に建てられ現在、保護文化財家屋に指定されている木組み建物が並んでいる。そして広場の東側(左側)にある教会が、
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目的地の「聖ペーター&ポール教会(St. Peter und Paul)」である。教会は13世紀に建てられ、15世紀後半にゴシック様式で拡張された。
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教会内は、三廊式で、身廊のアーケードはゴシック様式の尖塔アーチが採用されている。祭壇と天井はバロック様式で、見上げると外からの陽光で照らされたフレスコ画が広がっている。こちらはアシャッフェンブルク生まれのバロック画家ヨハン・コンラート・ベシュトルド(Johann Conrad Bechtold)の手によるもので1771年に制作された。
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そして、こちらの教会で見るべきものは、左側の北側廊の奥にある。
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菩提樹で造られた「キリスト降架(Beweinung Christi)(1509年~1515年)」である。作者はティルマン・リーメンシュナイダー(Tilman Riemenschneider、1460年頃~1531年)で、彼は、バイエルン州の北部に隣接するテューリンゲン州に生まれ、ヴュルツブルク(wuerzburg)に工房を構えて祭壇や墓碑など多くの作品を手がけた彫刻のマイスターである。ヴュルツブルクの市長も務めたが、1524年、宗教改革を発端としたドイツ農民戦争において元市長として戦争に加担したとして逮捕され腕を折られ、彫刻家生命を絶たれてしまう。その後は失意のうちに亡くなった。

作品は、キリストを抱きかかえる聖母マリアを中心に、キリストの頭を支えるアリマタヤのヨセフ、足を支えるニコデモを両脇に配置し、マグダラのマリア、福音記者ヨハネ、小ヤコブとヨセの母が取り囲んでいる。特にキリストの身体のリアルな表現は、本物とみまがうばかりだ。
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中央から見ると、視点はキリストに集まるが、やや左側に寄って見るとキリストの身体をしっかり支える聖母マリアに視点が集中する。見る角度により、様々な印象を与えてくれる。
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次に、グロースオストハイム通りを戻りアシャッフェンブルクに到着した。アシャッフェンブルクは、マイン川沿いにあり、ドイツ最大のバイエルン州(州都はミュンヘン)のウンターフランケン行政管区に属す郡独立市である。8世紀から19世紀までは、神聖ローマ帝国にあったドイツ最高位の聖職者「マインツ大司教」(マインツはラインラント=プファルツ州の州都)の広大な領地の一部でもあった。この日のマルクト広場は、市場が開かれ多くの人で賑わっていた。
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果物屋さんや、
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魚屋さんなどもある。
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広場の後方に聳えるのは、ヨハネスブルク城(Schloß Johannisburg)である。もともと、この地に古い城館があったが、1555年、神聖ローマ帝国内で行われた「第二次辺境伯戦争」で破壊されたことから、当時のマインツ大司教、ヨハン・シュヴァイクハルト・フォン・クロンベルク(Johann Schweikhard von Kronberg)(在位:1604年~1626年)により、新たにルネッサンス様式で建設が進められ、1619年に完成した。その後は、1803年までマインツ大司教(マインツ選帝侯)の城館として使用された。現在は、城内に州立絵画館と城博物館がある。
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ちなみに昨日、ホテルに向かう途中でマイン川沿いから見たヨハネスブルク城の塔は改修中だったが、マルクト広場側から見ると威風堂々とした姿が印象的だ

さて、広場にある地図を見ると(インフォメーションセンターが現在地)、目的の教会へは南東方面のプファッフェン(Pfaffeng)通りを行くようだ。広場から見える階段を上り、ヨハネスブルク城を右手に見ながら、
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左側の石畳が続く路地を進む。通りには木組みの建物が立っている。先に見える塔は「クリストゥス教会(Christuskirche)」。通りは広場の賑わいとは打って変わって、静寂な雰囲気だ。
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通りはやや広くなり、レストランやホテルが現れた。
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5分ほど歩くと、目的の「聖ペテロおよびアレクサンダー修道院教会(St.Peter und Alexander)」が見えてきた。951年に神聖ローマ皇帝の初代皇帝オットー1世(在位:962年~973年)の子で、シュヴァーベン公国(ドイツ王国における部族大公国の一つ)リウドルフ大公により聖ペテロ修道院教会として建設された。バジリカ部分はロマネスク様式で建設されたが、その後の改築で、他のセクションは初期のゴシック様式で造られている。
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階段を上り、右側の廊下側のティンパヌムのある扉から入る。教会内は、白と茶褐色のコントラストが重厚感を感じさせてくれる。
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こちらで見るべき作品は、祭壇方向に歩いて行った最前列の右側廊にある。マティアス・グリューネヴァルト(Matthias Grünewald)作の「キリストの埋葬(1523~1525年)」。36センチメートル×136センチメートルの幅広な作品である。
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グリューネヴァルトは、本名をマティス・ゴートハルト・ナイトハルト(Mathis Gothart Neithart)といい、1470~1475年頃にヴュルツブルクで生まれたとされる。1509年頃、マインツ大司教ウリール・フォン・ゲマインゲン(Uriel von Gemmingen)(在位:1508年~1514年)の宮廷画家となり、その後アシャッフェンブルクの宮殿改築の監督を任される。彼の代表作「イーゼンハイム祭壇画(1511年~1515年)」が制作されたのはこのころである。

こちらの作品は、1516年、マインツ大司教アルブレヒト・フォン・ブランデンブルク(Albrecht von Brandenburg)(在位:1514年~1545年)からの依頼で、聖ペテロおよびアレクサンダー修道院教会の祭壇画のために制作されたもの。しかし、残されているサイズから、祭壇の最下部の小型パネル(プレデッラ)と言われている。

キリストの肉体は、苦しみの極限を味わった後の生気を失った土気色で描かれているが、一方で苦しみから解放された穏やかな表情も見受けられる。キリストの足元には、マインツ大司教を象徴する車輪紋章が描かれている。それにしても、この絵の不思議なところはキリストの頭上にある聖母の手であろう。不思議な構図である。
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グリューネヴァルトは、同時期のドイツ・ルネサンスの巨匠デューラーやルーカス・クラナッハと並ぶ名手とも言われたが、この作品制作の頃に発生したドイツ農民戦争において、ルター派に身を投じたため、職を失い二度と筆を執らなかったという。その結果この作品は彼の晩年のものとなった。その後、彼の存在は長い間忘れ去られ、19世紀末頃から再評価されるものの、本名が明らかになったのは20世紀になってからである。

今日と明日は、主にドイツ国内に点在するティルマン・リーメンシュナイダーとマティアス・グリューネヴァルトの作品を見ていく予定だ。続いて、ヴュルツブルク(Würzburg)の北西にあるマイトブロン(Maidbronn)と北東に位置するフォルカッハ(Volkach)の教会でティルマン・リーメンシュナイダーの作品を見る予定としていたが、A3号(アウトバーン)が混んでおり、スケジュール的に厳しくなった。
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しかたがないので、優先順位をつけ、見学場所を再考した結果、諦めて、A3号線とA7号線(バイエルン州とバーデン=ヴュルテンベルク州との境を南北に伸びるアウトバーン)のジャンクション近くのビーベルリート(Biebelried)にある聖ヨハネス・エントハウプトゥング教会(St.Johannis Enthauptung)にリーメンシュナイダーの作品があると聞き向かうが、扉が閉じられて見学できない。。

急ぎ、A7号線を南下して、アウプ(Aub)の教会に向かう。ところが、こちらも工事の影響もあり、大渋滞。。アウトバーンに辟易しながら降りると、一般道はスムーズに進み無事アウプに到着した。

アウプは、バイエルン州ウンターフランケン地方のヴュルツブルク郡に属す人口1,500人ほどの小さな市である。東西に伸びるヘンマースハイム通り(Hemmersheim)から交差点右側(北)の下り坂にある市壁を抜けたところが中心地のようだが、門が狭いので諦めて直進すると、道路沿いには壁(内側広場でイベントが開催されていた)が続き道路は右側に大きく下りながらカーブして行く。曲がりきると右側に空地があるので駐車して下り道を少し歩くとすぐに教会の鐘楼が見えてきた。
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教会へは真っ直ぐいけば良さそうだが、右側に石畳のマルクト広場が現れたので、そちらに向かう。左前方の窓枠に花が飾られた可愛い建物の1階はレストランのようだ。年配客が数人座っており、珍しそうにこちらを見ていた。
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レストラン前から左側に回り込むと、正面に「マリア被昇天教会(Pfarrkirche Mariä Himmelfahrt)」が現れた。教会を右手に見ながら歩くと、壁には聖書場面を模した小さな祠がある。教会内へは、拝廊側の扉から入るようだ。
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教会内は、白とやや落ち着いたピンクベージュ色とのコントラストに光が差し込み明るい雰囲気であった。
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こちらのティルマン・リーメンシュナイダーの作品はこちらの「磔刑群像(1510年)」である。
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キリストの肉体のリアルな表現には驚かされた。痩せ細った身体の筋肉の弾力感までも(特に足がリアル!)見事に表現されている。こちらはキリストの顔のアップ
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次は、15キロメートルほど離れたクレーグリンゲン(Creglingen)に向かう。アウプのすぐ南からバーデン=ヴュルテンベルク州に入る。周りには集落もなくなり原野に続く一本の道になった。前方には風力発電の風車が並んでいる。
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クレーグリンゲンは、バーデン=ヴュルテンベルク州マイン=タウバー郡に属す市で、ロマンティック街道のルートの一つとして知られている。街の中心部は、ローテンブルク通り(L2251)(Rothenburger)からタウバー川(Tauber)に架かる橋を渡ったところになる。しかし、目的地のヘルゴット教会(Herrgottskirche)は、市内に入らずこの次に架かる橋を渡って行く。
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次の橋を渡り、南に向かうと、右側にクレーグリンゲンの街並みとクレーグリンゲン市教会(プロテスタント)の塔が見える。ヘルゴット教会までは、あと1.4キロメートルの道のりである。
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しばらくすると、左手道路沿いに車が数台駐車しており、教会らしい塔のある建物が現れた。ヘルゴット教会に到着したようだ。
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駐車場から坂を上るとすぐ左側に墓地が続き、その先アーチ門があり、奥にガラス戸の扉がある。
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ガラス扉を入ると、すぐ左側にティルマン・リーメンシュナイダーの巨大な木製祭壇衝立「マリア昇天の祭壇」が置かれている。聖母マリアの死後に魂が身体に戻され、天使たちに取り囲まれながら天に召されてゆく場面である。衝立は間近に置かれているので、覆いかぶさるかのような迫力を感じる。祭壇は、高さ9.2メートル、幅は3.68メートルで、1505年~1508年に制作された。何とか無事に来られてホッとしながら、じっくりと鑑賞する。
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リーメンシュナイダーの作品の中で最高傑作の一つと言われるとおり、マリアや聖人たちの個性豊かな写実表現の素晴らしさは木造(菩提樹)彫刻とは思えないし、全体構成も素晴らしく完成度の高さを感じさせる。

一体一体の衣の表現も凄い。木造彫刻で衣と言えば仏像を思い起こす。古来より、仏像彫刻の特徴として、翻波式衣文、渦文など賑やかな装飾文を表現する特徴があるが、リーメンシュナイダーの作品とは時代に隔たりがある上、仏像は、これほどの躍動感の表現はしないため比較はできないが、衣の質感をここまで表現している技巧には感服である。

全体の色合いや天使の羽の一部など新しい木材が使用されているところもあり、近年修復されているようだが、丁寧に仕事がなされており違和感はない。
両翼部分の浮彫彫刻は、左翼下段が受胎告知で、上段がマリアの訪問。右翼上段が降誕で、下段が聖燭祭を示している。
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次はシュトゥパッハ(Stuppach)に到着した。シュトゥパッハは、ロマンティック街道のルートの一つ、バート・メルゲントハイム(Bad Mergentheim)(バーデン=ヴュルテンベルク州北部のマイン=タウバー郡に属す都市で、ドイツ騎士団により16世紀に築かれた城を中心とした町として有名。)に属する人口600人ほどの小さな市区。バート・メルゲントハイムからドイツ連邦道路19号線を6キロメートル下ったところ。ヘルゴット教会からは約30キロメートル、1時間ほどの距離であった。
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階段を上って側廊側の通路を歩くと、右手には受付カウンターのある小さな建物があり、中には誰もいない。窓に見学時間らしき案内があり終了しているようだ。正面奥の入口扉は、鍵がかかっている。事前の情報では開いているはずだったのに。ここまで来て悔しがっていると、老夫婦が見学に訪れた。扉が閉まっていると伝えるが、ご主人は、にっこり笑って手前の扉を指さした。小さな取っ手には、紐がぶら下がっており、その紐を引くと扉は開いたのだ。
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お二人に感謝して後から入って行く。扉を入り右側の内陣方向に向かう。18時を過ぎたところだが、この時期はまだ明るい光が差し込む。
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主祭壇手前の右奥の礼拝堂にお目当ての作品がある。礼拝堂は、残念ながらガラス戸で仕切られているが、ライトが当てられよく見える。マティアス・グリューネヴァルト作で、ドイツで最も重要な後期ゴシック絵画の一つとされている「シュトゥパッハの聖母(Madone de Stuppach)(1517年~1519年)」180×150センチメートル。
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聖母と幼子キリストは、互いに微かに笑みを浮かべて見つめ合っている。聖母子の透き通るような白い肌と光輪にも見える背景の虹と光とが合わさり見る者へ信仰の光を放っているようである。
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それにしても、老夫婦が現れるまで、何故、手前の扉を開けようとしなかったのか不思議でならない。突き当たりの扉だけが入口と思い込んだのだろう。思い込みとは恐ろしい。いずれにせよ、タイミングよく現れたお二人に感謝である。
さて時刻は18時半。これから宿泊地のローテンブルク・オプ・デア・タウバー(Rothenburg ob der Tauber)に向かう。
(2016.7.22~23)
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